意識が浮上したとき、デイビッドが最初に感じたのは静けさだった。
耳の奥で暴れ続けていた耳鳴りが、跡形もなく消えている。頭蓋の内側を焼いていたはずの熱も、今はどこにも感じられない。まぶたを開けると、見知らぬ天井が視界に映った。錆びたトタンの継ぎ目から、朝の光が細く差し込んでいる。
――生きてる。
その実感が、じわりと胸に広がった。デイビッドはゆっくりと体を起こした。作業台らしき硬い台の上に、自分が寝かされていることに気づく。腕には、粗末だが丁寧に巻かれた包帯があった。
ガレージの中は、朝の静けさに包まれていた。壁一面に並ぶ工具、天井から吊るされた配線の束、床に積まれた廃品の山。バッドランズの匂いが、開け放たれた扉から流れ込んでくる。ここがどこなのか、デイビッドにはまだ正確に把握できていなかった。
視界がやけに澄んでいた。部屋の隅に積まれた工具の一本一本、棚に並ぶ部品の傷まで、はっきりと見分けられる。頭の中を常に覆っていたはずの薄い霞のようなものが、綺麗に晴れていた。
思えば、物心ついてからずっと、頭の奥にわずかな雑音のようなものが張り付いていた気がする。街の喧騒に紛れて気づかなかっただけで、それは常にそこにあった。今、その雑音が跡形もなく消えている。デイビッドは自分の手を持ち上げ、握ったり開いたりしてみた。指先の感覚まで、いつもより鮮明だった。
背中に違和感を覚え、デイビッドは手を伸ばした。指先に触れたのは、見覚えのない硬い感触だった。肩甲骨のあたりから背骨に沿って、薄い板状の部品が埋め込まれている。表面には細かい溝が刻まれ、かすかに熱を持っていた。
「起きたか」
低く落ち着いた声に、デイビッドは顔を上げた。
作業台の脇に、黒髪を雑に一つ結びにした女が立っていた。顔や手にうっすらとオイル汚れがついているが、こちらを見据える目には迷いがなかった。年齢はデイビッドとそう変わらないように見えたが、その佇まいには不思議な落ち着きがあった。まるで、この空間の全てを掌握しているかのような静けさだった。
「あんた……」
「ここ、バッドランズのガレージ。あんたが夜中に突っ込んできたの、覚えてる?」
記憶を辿ろうとして、デイビッドはこめかみを押さえた。廃工場での高揚感、頭の中で暴れた熱、朦朧としたままバイクを走らせた感覚。断片的な記憶が、ばらばらのまま浮かび上がってくる。
「……悪い。世話になったみたいだ」
「みたいだ、じゃないよ。あんた、あと十分遅かったら本当に死んでたからね」
ニッカはそう言いながら、作業台の脇に置いていた工具を片付け始めた。手つきに迷いはなく、まるで日常の作業の延長のようだった。
「その背中の部品、あんたのサンデヴィスタンの冷却回路。安物のバッファーじゃ神経負荷を捌ききれなくて、脳が茹だる寸前だった」
「これ……あんたが?」
「他に誰がいるのよ」
デイビッドは自分の背中に触れたまま、しばらく言葉を失っていた。目の前の女が何をしたのか、正確には理解できていなかった。ただ、あれほど激しかった苦しみが嘘のように消えている事実だけが、確かにそこにあった。
ニッカは工具を片付ける手を止め、腰に手を当ててデイビッドを見据えた。その目には、これまでとは違う鋭さが宿っていた。
「あんた、正気? サンデヴィスタンなんて軍用の危険物、素人が無バッファーで使ったら三日でサイバーサイコ化して死亡確定なんだからね」
「サイバーサイコ……」
「知らないの? 過剰なサイバーウェアと神経負荷が原因で、人格が崩壊して見境なく暴れ回るようになる末路。あんたが昨日やったこと、その入り口をわざわざ自分から開けにいったようなものなんだからね」
早口でまくし立てるニッカの口調に、デイビッドは気圧されていた。まるで長年その分野を研究してきたような、澱みのない説明だった。
「あのね、サンデヴィスタンは脊髄と脳の伝達速度を極限まで引き上げる代物。普通は専用のバッファーで神経の負荷を分散させながら使うものなの。それを素人がいきなり生の状態で起動させるとか、どういう了見よ」
「……分かってる。それでも、他に方法がなかったんだ」
「方法がないから死んでいいってわけじゃないでしょ」
ニッカの声に、わずかな苛立ちが滲んだ。それでも、その奥には別の感情も潜んでいるように、デイビッドには聞こえた。
「そもそもね、まともなエッジランナーだって、サンデヴィスタンを使う時は専用の冷却インプラントと、神経負荷を分散させるバッファー回路を併用するの。それをあんたときたら、ケースから出してそのまま繋いだだけでしょ」
「見りゃ分かるのかよ、そんなの」
「見りゃ分かるよ。あんたの回路、配線の取り回しが素人丸出しだったもの」
ニッカはそう言いながら、作業台に転がっていた焼け焦げた基盤の破片を指先でつまみ上げた。手のひらの上で、それを軽く弾ませてみせる。粗末な代物を見る目には、どこか哀れむような色さえ浮かんでいた。
「これ、あんたの体から外した廃棄予定の部品。緊急停止回路もなければ、温度センサーもまともに機能してなかった。よくこれで三十分も生きてたと思う」
「三十分……そんなに経ってたのか」
「あんたがガレージに突っ込んできてから朝までよ。何時間かかったと思ってるの」
淡々と、しかし早口で並べ立てられる説明に、デイビッドはただ圧倒されていた。まるで専門の技師から講義を受けているような気分だった。
「大体さ、脳神経の伝達速度を人為的に引き上げるってことは、それだけ発熱と老廃物の排出量も跳ね上がるってこと。普通の血流じゃ全然追いつかないの。だから専用の冷却システムと、代謝を助ける補助回路が絶対に必要になる。あんたの体、その両方とも欠けてた」
「じゃあ、あんたが付けたその部品は……」
「廃棄された家電のヒートシンクと、余ってた配線を組み合わせただけ。ついでに神経負荷を分散させるバッファー回路も、有り合わせの部品で組んどいた。これでたぶん、普通に稼働させても脳が茹だることはないと思う」
「たぶん、って」
「完璧を求めるなら、ちゃんとした施設で診てもらいなさい。私はただの野良メカニックだから」
そう言いながらも、ニッカの口調にはどこか自信めいたものが滲んでいた。デイビッド自身、頭に残っていたはずの重苦しさが綺麗さっぱり消えていることを、体で実感していた。
「あー、ごめん。つい早口になった」
我に返ったように、ニッカは軽く咳払いをした。誰かにこれほど長く喋りかけたのは、久しぶりのことだった。頬がわずかに赤らんでいるのを、デイビッドは見逃さなかった。
「いや……助かった。本当に」
「別に。当然のことをしただけ」
そっけない返事の裏に、隠しきれない照れが透けて見えた。デイビッドはそれ以上つつくことはしなかった。
「二度とナイトシティの危険物には手を出さないで。今度こそ、本当に助けられないよ」
その言葉には、単なる説教以上の重みがあった。デイビッドは黙って頷くしかなかった。
「なんで、俺なんかを助けたんだ」
ぽつりと呟いたデイビッドに、ニッカは一瞬手を止めた。
「別に。常連客に死なれると、後味が悪いから」
「常連客?」
「あんたの母親。グロリア」
その名前を聞いた瞬間、デイビッドの表情が凍りついた。
「母さんを知ってるのか?」
「知ってるも何も、あんたのポケットに入ってた端末のメモ、それで座標を辿ってきたんでしょ。緊急時はバッドランズのニッカのところへ、って」
言いながら、ニッカの脳裏に数か月前の記憶がよぎった。防護ベストを渡した日、グロリアが誇らしげに語っていた息子の話。「アラサカのてっぺんまで登るんだ、なんて言い出す始末よ」という声が、耳の奥で蘇る。
――やっぱり、あの時の。
自分の勘が当たっていたことに、ニッカは内心で小さくため息をついた。関わりたくないと思っていた物語の欠片が、こんな形で目の前に転がり込んでくるとは思っていなかった。それでも、今さら追い返すわけにもいかない。
ニッカはそう言って、作業台の隅に置かれた携帯端末を指差した。デイビッドはそれを手に取り、画面に残されたメモを見つめた。母がなぜこんな備えをしていたのか、彼にはまだ理解できていなかった。
「母さんは……」
言いかけたところで、デイビッドの端末が着信を告げて震えた。画面に表示されているのは、病院の番号だった。
震える指で応答すると、看護師の落ち着いた声が耳に届いた。
「デイビッド・マーティンさんですね。お母様の意識が戻りました」
その一言で、デイビッドの頭は真っ白になった。
「今……なんて」
「意識が戻られました。容体は安定しています。すぐにいらっしゃれますか」
通話を切ったあとも、デイビッドはしばらく端末を握りしめたまま動けなかった。ようやく我に返ると、彼は作業台から飛び降りるようにして立ち上がった。
「母さんの意識が戻ったって……行かないと」
「ちょっと、まだ本調子じゃないでしょうが」
「それでも行く」
ニッカは呆れたように息を吐きながらも、それ以上は止めなかった。バイクの状態を確認し、最低限の応急修理を済ませると、彼女はデイビッドの背を軽く押した。
「無茶するんじゃないよ。あんたが倒れたら、あんたの母親が悲しむんだから」
「……ああ。ありがとう、本当に」
デイビッドは深く頭を下げると、バイクにまたがり、砂埃を上げながらガレージを後にした。その後ろ姿を、ニッカはしばらく見送っていた。
土煙が完全に見えなくなるまで、ニッカは扉の前に立ち尽くしていた。作業台に残された焼け焦げた基盤の破片を片付けながら、彼女は小さくため息をついた。
「まったく、次から次へと」
口ではそう零しながらも、ニッカの手つきは決して不機嫌そうには見えなかった。誰かの命を救ったという実感が、胸の奥にほんのわずかな熱を残していた。それを認めるのは、少しだけ癪だったけれど。
病院に駆けつけたデイビッドは、病室の扉を開けた瞬間、言葉を失った。
ベッドの上で、グロリアが上体を起こしていた。頬はまだ青白かったが、その目には確かな光が戻っている。
「母さん」
声を震わせながら、デイビッドはベッドに駆け寄った。
「デイビッド……大きくなったんじゃない?」
「そんなわけ、ないだろ」
軽口を叩こうとするグロリアの声は、まだかすかに掠れていた。デイビッドはその手を強く握りしめた。堪えきれなくなった涙が、頬を伝って落ちていく。
「心配……したんだぞ。すごく」
「ごめんね。心配かけて」
グロリアは空いた手で、デイビッドの頭をそっと撫でた。その温もりに、デイビッドはしばらく声を上げて泣いた。子供の頃以来、こんな風に泣いたことはなかった。
「ごめん……俺、母さんが目を覚まさなかったらって、そればっかり考えてて」
「馬鹿ね。私がそう簡単にくたばるわけないでしょう」
軽口の奥に、グロリアなりの精一杯の強がりが滲んでいた。デイビッドはそれに気づきながらも、あえて何も言わなかった。ただ、母の手を握る力を、少しだけ強めた。
看護師が様子を見に顔を出し、容体が安定していることを改めて告げてくれた。デイビッドはようやく肩の力を抜いた。長く張り詰めていた緊張が、少しずつほどけていく感覚があった。
窓から差し込む夕方の光が、病室の白い壁をオレンジ色に染めていた。モニターの音は、もう恐ろしい響きには聞こえなかった。ただ母の生きている証として、規則正しく病室に満ちている。デイビッドは椅子を引き寄せ、ベッドの脇に腰を下ろした。しばらくの間、二人は言葉少なに、互いの無事だけを確かめ合っていた。
涙が落ち着いた頃、グロリアはふと表情を曇らせた。
「デイビッド、その背中……何をしたの」
デイビッドは一瞬言葉に詰まったが、隠しても仕方ないと腹をくくった。
「母さんの部屋にあった箱、見つけたんだ。中に入ってたサンデヴィスタン、使わせてもらった」
グロリアの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「あれは……預かり物なのよ。エッジランナーの男から、しばらくの間だけって」
「エッジランナー?」
「メインっていう男。何かの事情で、しばらく私に預けておきたいって言われて……まさか、あんたが使うなんて」
グロリアは深いため息をついた。その表情には、安堵と困惑が入り混じっていた。
「仕事で知り合ったのよ。荒事に片足突っ込んでる連中だけど、義理堅いところもあってね。預かってくれって頼まれたときは、断る理由もなかったから」
「その人、危ない連中なのか」
「危なくないエッジランナーなんて、この街にはいないわよ」
グロリアは苦笑いを浮かべながら、少しだけ声を落とした。
「あの人たち、仲間のためなら本気になる連中だから。下手に隠し立てすると、かえって話がこじれるかもしれない」
グロリアは一度言葉を切り、視線を窓の外へ向けた。
「メインって人、噂じゃかなりの腕利きらしいのよ。エッジランナーの中でもまとめ役をやってるとかで。だからこそ、機嫌を損ねたくない相手でもある」
「その人、俺に会いに来たりするのか」
「分からない。でも、可能性はゼロじゃないでしょうね」
デイビッドは無意識のうちに、背中に埋め込まれた部品にそっと触れていた。あの一夜の出来事が、思いがけない形で自分の日常と繋がり始めている。その実感が、じわりと胸の奥に広がっていった。
「返さないと、まずいことになるかもしれない」
「返せばいいのか。それとも、いくらか稼いでから返すか……」
「デイビッド」
グロリアは、真剣な眼差しで息子を見つめた。
「あの世界に、簡単に足を踏み入れちゃだめ。エッジランナーの仕事は、命を賭けるだけの価値なんて、本当はどこにもないんだから」
「でも、母さんだって……」
「私は違う。ただの救急隊員よ。荒事とは少し距離を置いてるつもり」
グロリアはそう言ったが、その声にはどこか無理をしているような響きがあった。デイビッドはそれ以上追及しなかった。今の母に、余計な負担をかけたくはなかった。
「とにかく、あのインプラントのことは私が何とかする。だからデイビッドは、もう危ないことに首を突っ込まないで」
「……分かった」
そう答えながらも、デイビッドの胸の中には、まだ言葉にならない思いがくすぶっていた。
夜の当直の看護師に見送られ、デイビッドは病室を後にした。廊下に並ぶ蛍光灯の光が、やけに白々しく感じられた。エレベーターの中、鏡に映る自分の顔を、彼はしばらく見つめていた。目の下の隈は相変わらずだったが、そこに宿る表情は、昨日までとは何かが違って見えた。
母のその言葉を胸に抱えたまま、デイビッドは夕暮れの街を一人で歩いていた。
ネオンの看板が一つ、また一つと灯り始める時間帯だった。行き交う人々の顔には、それぞれの疲労と欲望が滲んでいる。この街に生まれ育った人間なら誰もが知っている、代わり映えのしない夕暮れの光景だった。だが今のデイビッドには、その景色が少しだけ違って見えた。
サンデヴィスタンをどうするか、答えはまだ出ていなかった。売れば、入院費の足しにはなる。だが持ち主に無断で使い、勝手に売り払うことに、罪悪感がないわけではなかった。かといって、このまま黙って返せば、今の生活は何一つ変わらない。
あの一晩で味わった感覚が、まだ体の奥に焼きついていた。世界の速度そのものを追い越すような、あの高揚感。もう一度あの感覚を味わいたいという衝動と、二度と関わるなという母の忠告が、胸の中でせめぎ合っていた。
母は「危ないことに首を突っ込むな」と言った。ニッカも同じことを言っていた。二人とも、自分を心配してくれているのは分かっている。それでも、このまま何も変わらない日常に戻ることに、デイビッドはどこか物足りなさを感じていた。
――俺には何もない。
その思いは、あの箱を見つける前からずっと、彼の中に居座り続けていた。サンデヴィスタンを通して垣間見たあの世界は、危険と隣り合わせでありながら、同時に彼に「何者かになれるかもしれない」という手応えを与えていた。
考えあぐねながら歩いていると、路地の陰から声をかけられた。
「あなた、その様子……大丈夫?」
振り返ると、青みがかった髪の少女が立っていた。物陰から静かにこちらを窺うような、警戒心の滲んだ視線だった。
「あんたは……」
「別に。放っておいてもよかったんだけど、あんまり顔色が悪かったから」
少女はそっけなくそう言うと、路地の壁に寄りかかった。ネオンの光が、彼女の横顔を淡く照らしている。目が合った瞬間、デイビッドはなぜか視線を逸らせなかった。感情の読めない、静かな瞳だった。
「一人でこんな時間に、こんな場所うろついてると危ないよ」
「あんたには関係ないだろ」
「そうね。関係ない」
少女はあっさりとそう言って、それ以上踏み込んでこなかった。その距離の取り方に、デイビッドはかえって興味を惹かれた。
「名前は?」
「デイビッド」
「私はルーシー」
短く名乗り合っただけの、それだけのやりとりだった。それでも、デイビッドの中で何かが小さく動いた気がした。
「あんた、その目……何か抱えてる顔してる」
「そんな顔してたか、俺」
「街で嫌ってほど見てきた顔よ。これから何かに首を突っ込もうとしてる人間の顔」
図星を突かれ、デイビッドは思わず黙り込んだ。ルーシーはそんな反応を面白がるでもなく、ただ淡々と夜空を見上げていた。
「別に、止めるつもりはないけど」
ルーシーはぽつりと呟いた。
「この街で何かを望むなら、それなりの覚悟くらいは持っておいたほうがいい。中途半端が一番、割に合わないから」
その言葉には、経験に裏打ちされた重みがあった。デイビッドは何と返せばいいか分からず、ただ黙って頷いた。
「じゃあね」
ルーシーはそう言って、あっさりと背を向けた。夜の路地に、彼女の足音が徐々に遠ざかっていく。
夕暮れの空の下、二人はしばらく無言のまま、同じ方向を見つめていた。
ナイトシティの喧騒は、いつもと変わらず続いていた。だが、デイビッドにとってこの街は、もう昨日までと同じ場所ではなくなっていた。ポケットの中で、母から預かるよう頼まれたサンデヴィスタンのケースが、かすかに存在を主張していた。
その夜、デイビッドは長い間、街の灯りを見つめ続けていた。母を守りたいという思いと、あの一夜に垣間見た世界への未練が、彼の中でまだ答えを出せずにいた。遠くバッドランズの方角では、今日もニッカが同じ手順で一日を終えようとしている。二つの人生が交わり始めたことに、まだどちらも、はっきりとは気づいていなかった。