作業台の上で、ルーシーの体は人形のように動かなかった。
浅い呼吸だけが、彼女がまだこちら側に留まっていることを教えてくれていた。首筋のポートに繋がったケーブルは、依然として端末と接続されたままだった。画面には、意味を成さない信号の羅列がなおも流れ続けている。誰もその画面から目を離せずにいた。
非常灯の淡い光が、横たわる少女の輪郭をぼんやりと縁取っていた。閉じた瞼の下で、眼球がまだ小刻みに動き続けている。その様子を見つめるだけで、格納庫にいる全員の呼吸が浅くなっていくのが分かった。
誰かが息を吸う音さえ、やけに大きく響いて聞こえた。格納庫の隅々にまで、張り詰めた沈黙が染み渡っていく。普段なら軽口の一つも飛び交うはずの空間が、今はただ、機械の駆動音とルーシーの浅い呼吸だけに支配されていた。
「切らないのか」
レベッカが苛立ちを滲ませて尋ねた。
「今切ったら、意識ごと持っていかれる」
「じゃあ、どうすんだよ」
「考えてる。黙ってて」
短く言い放つと、ニッカは工具箱の中身を素早く漁り始めた。焦りを表に出す余裕はなかった。頭の中では、前世の記憶にある無数のクラフトレシピが、猛烈な速度で検索にかけられていた。
ケーブルを無理に引き抜けば、意識の防壁ごと剥ぎ取ることになる。だからといって、このまま繋いでおけば、流れ込む異常信号がルーシーの神経系を焼き続ける。どちらを選んでも、答えは同じ地獄に繋がっていた。必要なのは、第三の道だった。
脳裏をよぎったのは、バートの声だった。慌てるな、手順を飛ばすな。何度も叩き込まれた言葉が、震えそうになる指先を辛うじて繋ぎ止めていた。
工具箱の底から、ニッカは焼け焦げたコンデンサの束を取り出した。以前、廃棄されたインバーターから回収しておいたものだった。使い道もなく放置されていたそれらが、今この瞬間になって意味を持ち始めていた。
「メイン。あの棚の三段目、緩衝用の絶縁シートを取って」
「これか」
「それ。あと、キーウィ。あんたの端末、緊急遮断用のコードを積んでるはず。貸して」
指示は淀みなく続いた。普段のニッカからは想像もつかないほどの速さで、彼女の手は部品を組み合わせていく。焼け焦げたコンデンサを並べ替え、絶縁シートで包み込み、即席の緩衝回路を作り上げていく。信号を受け止め、少しずつ逃がしながら接続を切る。理屈の上では単純だったが、実行するにはミリ秒単位の判断が要求される作業だった。
指先が部品を繋ぐたび、頭の中で完成形の回路図が更新されていく。廃品の型番、内部抵抗の癖、経年劣化による誤差。前世で覚え込んだ知識の断片が、今この瞬間の判断材料として次々に呼び起こされていった。誰かに褒められるためでも、驚かれるためでもない。ただ、目の前の少女を失いたくないという一点だけが、彼女の手を突き動かしていた。
ケーブルの根本に、組み上げたばかりの緩衝回路を噛ませる。指先が震えているのが、自分でも分かった。それでも手は止まらなかった。止めれば、目の前の少女を失うかもしれない。その一点だけが、迷いを押し殺す理由になっていた。
「……いくよ」
誰にともなく呟き、ニッカは回路のスイッチを入れた。
端末の画面が、一瞬だけ激しく明滅した。異常な信号の流れが、緩衝回路を通って少しずつ減衰していく。荒れ狂っていた波形が、徐々に穏やかな線へと戻り始めた。誰も声を発さないまま、その変化を見守り続けた。
十数秒後、ニッカはケーブルのコネクタへ手を伸ばした。慎重に、それでいて迷いのない動きで、彼女はプラグを引き抜いた。
ルーシーの体が、びくりと小さく震えた。
「……ルーシー!」
デイビッドが声を上げたが、彼女の瞼はまだ固く閉じられたままだった。同時に、荒かった呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻していく。額に浮いていた玉のような汗も、心なしか引いていくように見えた。
「脈は」
キーウィの問いに、ドリオが手首へ指を当てた。
「安定してきてる。……よかった」
その一言に、格納庫の空気がわずかに緩んだ。だが、誰の表情にも安堵と呼べるほどの余裕は戻っていなかった。ルーシーはまだ目を覚まさない。何が彼女を襲ったのか、その正体すら、この時点では誰にも分かっていなかった。
ニッカは緩衝回路のスイッチを切り、額の汗を袖で拭った。手の震えは、まだ完全には収まっていなかった。
「……危なかった」
誰にともなく零れた呟きに、メインが低く応じた。
「助かったのか」
「体は、たぶん大丈夫。問題は、頭の中で何があったか」
答えながら、ニッカの視線は端末の画面へ向けられていた。異常な信号の奔流は収まっていたが、そこに残されたログの断片は、まだ何一つ意味を成していなかった。彼女はそれを見つめたまま、しばらく動かなかった。
「今すぐ、原因を調べる」
「頼めるのか」
「頼めるも何も、放っておいたら次はもっと酷いことになる」
突き放すような口ぶりの奥に、隠しきれない焦りが滲んでいた。メインはそれ以上何も言わず、黙って頷いた。
端末を膝の上に置き、ニッカはログの解析に取り掛かった。作業服の袖をまくり上げ、慣れた手つきで表示を切り替えていく。普段の彼女なら軽口の一つも挟むところだったが、今はそんな余裕すらなかった。
流れ込んでくるデータの形式は、見慣れたものとは明らかに違っていた。現代のプロトコルに慣れた目には、ひどく古臭く、それでいて奇妙なほど堅牢な作りに見えた。無駄を削ぎ落とした構造、余分な冗長性を持たない設計思想。前世の記憶を辿るまでもなく、それがどんな種類の技術か、ニッカにはおおよその見当がついた。
「これ、軍用規格の追跡プログラムだ。それも、かなり古い型の」
「軍用って、どこの」
「表示だけじゃ断定できない。でも、この構造の癖……昔のアラサカ製に近い」
その言葉に、キーウィの表情が僅かに強張った。煙草を挟んだ指先が、一瞬だけ止まった。
「確かか」
「断定はしてない。でも、限りなく近いとは言える」
ニッカは画面をスクロールしながら、さらに深いレイヤーへと解析を進めていく。表層のノイズを剥ぎ取っていくと、その奥から規則正しい信号のパターンが浮かび上がってきた。単なる乱数ではない。何かを探し続けるために設計された、執拗な検索アルゴリズムの残骸だった。
「……古い。相当、古い」
呟きながら、ニッカはログの日付らしき数値に目を留めた。刻まれた時刻情報は、明らかに近年のものではなかった。桁数の少ない旧式のフォーマットが、そこには使われていた。
「これ、何年も前から仕込まれてたものだと思う。眠ってたのが、何かのきっかけで目を覚ました」
「きっかけ、というと」
「分からない。でも、ここ最近ルーシーがずっとネットの深いところを漁ってたのは、確かでしょ」
言葉を切り、ニッカはキーウィへ視線を向けた。返ってきたのは、重い沈黙だった。
解析の手を止めないまま、ニッカは念のためログの構造をもう一段深く掘り下げていった。単純な追跡プログラムであれば、対象を発見した時点で外部へ信号を送り、任務を終える。だが、目の前のログにはそうした痕跡が見当たらなかった。発見した後も、対象の内側に留まり続ける設計になっている。まるで、監視すること自体が目的であるかのように。
「これ、見つけたら報告して終わり、みたいな作りじゃない」
「どういうことだ」
「ずっと居座り続ける前提で組まれてる。存在を隠したまま、何十年でも」
口にした言葉の重みを、ニッカ自身も噛み締めていた。前世のゲーム知識にあった、旧世代の潜伏型監視プログラムの設計思想。長期潜伏、低頻度起動、外部から検出されにくい休眠状態の維持。技術としては理解できても、それが実際に人間の脳へ埋め込まれていたという事実は、簡単には呑み込めなかった。
少し離れた場所で、デイビッドが横たわるルーシーの手を握りしめていた。彼女の指先は、まだ僅かに冷たいままだった。
握りしめた手のひらから伝わる冷たさが、デイビッドの胸をじわじわと締めつけていた。母が生死の境をさまよっていたあの夜の記憶が、否応なく蘇ってくる。あの時も、自分にできることは何もなかった。ただ病室に立ち尽くし、意識の戻らない母を見守るだけだった。
二度と同じ思いはしないと、誓ったはずだった。それなのに、今また同じ無力感が、指先から這い上がってくる。ルーシーの手を強く握り返しながら、デイビッドは奥歯を噛みしめた。今度だけは、何もできずに終わらせたくなかった。
「なあ、キーウィ。何か知ってるのか」
問いかけに、キーウィはすぐには答えなかった。煙草の煙をゆっくりと吐き出し、視線を宙へさまよわせる。
「詳しいことは、あの子自身の口から聞くべきだろうな」
「それでも、少しくらい教えてくれてもいいだろ」
デイビッドの声には、いつもの荒っぽさよりも切実さが勝っていた。キーウィはしばらく黙り込んだ後、ようやく口を開いた。
「あの子は、幼い頃にアラサカの施設から逃げてきた」
「……知ってる。それくらいは」
「知っているのは、その一言だけだろう。詳細までは、私も聞かされていない」
言葉を選ぶように、キーウィは続けた。
「ただ、逃げる時に何かを埋め込まれた可能性は、前から疑っていた。逃走があまりに順調すぎた。まるで、誰かが泳がせていたみたいにな」
その一言に、格納庫の空気が一段と重くなった。ドリオが息を呑む音が、静かに響いた。
「泳がせてた、って……つまり」
「監視のために、逃がしてやったということだ。逃げた先で何を持ち帰るか、確かめるために」
キーウィの声は、いつもと変わらず淡々としていた。だが、その奥には、長年抱え続けてきた疑念の重みが滲んでいた。
「拾った時から、どこか出来すぎていると思っていた。あの年頃の子供が、追手も撒かずにあれだけの距離を逃げ延びるなんて、普通はあり得ない」
「それでも、拾ったんだろ」
「拾った。理由を疑うより先に、目の前で凍えている子供を放っておけなかっただけだ」
短い答えの奥に、長年隠し続けてきた後悔が滲んでいた。デイビッドは、それ以上何も言えなかった。
キーウィの脳裏に、古い記憶が音もなく浮かび上がっていた。ネットの裏路地で拾い上げた、痩せこけた少女の姿。怯えた目をしていながら、手にした端末の扱いだけは異様なほど的確だった。才能だと思っていた。運が悪かっただけだと、そう片付けていた。だが今にして思えば、その才能自体が、誰かの手で研ぎ澄まされたものだったのかもしれない。
「あの頃から、この子には誰かの影がついて回っていた。私はそれに気づいていながら、見て見ぬふりをしてきた」
「見て見ぬふり、って……なんでだよ」
「怖かったんだろうな。掘り返せば、育てた意味そのものが崩れるかもしれないと思って」
珍しく本音を零したキーウィの声には、普段の乾いた響きとは違う、湿った重さが滲んでいた。
ニッカは端末の画面から視線を上げ、キーウィの言葉を静かに反芻していた。前世の記憶にある知識の中に、そうした運用手法の痕跡があったことを、彼女は思い出していた。逃亡者に発信源を仕込み、行動範囲や接触相手を長期的に監視する。使い捨てにするにはあまりに手間のかかる仕掛けだったが、対象がアラサカの実験施設で育てられた特別な子供だったとすれば、話は変わってくる。
「もしそうなら、これは事故でも偶然でもない」
「最初から、そういう設計だったってことか」
「たぶん。眠らせておいて、何十年もかけて監視を続ける。効率は悪いけど、対象次第では割に合う」
その言葉に、ニッカ自身が苦い後味を覚えていた。ゲームの知識として頭に入っていた技術の断片が、目の前で人間の人生を焼き尽くす刃になっている。その事実を、改めて突きつけられた気がした。
解析画面の隅に、ニッカはもう一つの発見を見つけていた。信号の応答パターンの中に、特定の生体情報と紐づいたとおぼしき識別子が埋め込まれている。無差別に振りまかれる類のプログラムではない。最初から、この一人だけを追うために組まれた仕掛けだった。
「これ、ばら撒き型じゃない。最初から狙いはルーシー一人」
「一人だけを追うために、ここまでのものを仕込んだのか」
「対象がそれだけの価値を持ってた、ってことだと思う」
画面の隅に、消えかけた識別コードの断片が浮かんでいた。ニッカは目を凝らし、ノイズに埋もれたその文字列を根気強く復元していく。桁の欠けた数列の中に、かつて聞き覚えのある施設名の略号が滲んで見えた。前世の記憶と照らし合わせるまでもなく、それがどんな場所を指す符号か、彼女にはすぐに分かった。
「施設のコードが、まだ残ってる。……本当に、根っこはそこに繋がってる」
呟く声が、自分でも思いがけないほど掠れていた。単なる推測ではなくなった。目の前の少女に巣くう影の出所は、もはや疑いようのない事実として、画面の中に刻まれていた。
言葉にしながら、ニッカの背筋を冷たいものが這い上がった。アラサカという名の巨大な影が、一人の子供にどれほどの執着を注ぎ込むか。その底知れなさを、あらためて思い知らされた気がした。
脳裏に、バートの死に様がふと浮かんだ。ナイトシティの依頼に巻き込まれ、あっけなく命を落とした育ての親。あの日から誓ってきたはずだった。ナイトシティの厄介事には、二度と関わらない。それなのに、今また同じ影が、大切な人間のすぐ側まで忍び寄ってきている。
拳を握り込み、ニッカは小さく息を吐いた。逃げたい気持ちがないと言えば嘘になる。それでも、目の前で苦しんでいる少女を見捨てる選択肢は、最初からどこにも存在していなかった。関わりたくないという誓いと、目の前の家族を守りたいという衝動。その狭間で、彼女はいつも同じ答えを選び続けてきた。
「関わりたくないのは、今でも本音」
その呟きに、キーウィがすっと視線を寄越した。
「それでも、手を止める気配はないようだが」
「関わりたくないのと、見捨てられないのは、別の話だから」
短く答えると、ニッカは再び端末の画面へ向き直った。迷いを言葉にすることで、かえって覚悟が固まっていくのを、彼女自身も感じていた。
作業台の傍らで、ドリオが震える指先でルーシーの額を拭い続けていた。
「この子、ずっとこんなものを抱えて生きてきたの」
「知らずに、だと思う。少なくとも、本人が気づいてた様子はなかった」
「気づかないまま、こんな爆弾を埋め込まれてたなんて」
ドリオの声が、僅かに震えていた。誰も、その震えを咎めようとはしなかった。
「毎日、根を詰めてたのは……この予感があったからかもしれないな」
「予感、って」
「言葉にできない不安ってのは、案外体の方が先に気づいてるものだ。あの子は、自分の中に何かがあると、どこかで分かってたのかもしれない」
ドリオの呟きに、誰も反論しなかった。それが真実かどうかは分からない。とはいえ、否定できるだけの根拠を持つ者も、その場にはいなかった。
濡らした布を絞り直しながら、ドリオはメインの方へちらりと視線をやった。長年連れ添ってきた恋人の顔には、いつもの豪快さの代わりに、静かな苦悩が刻まれていた。誰かを守り切れなかった時の重さを、この人は誰よりもよく知っている。だからこそ今、目の前の光景に人一倍胸を痛めているのだろうと、ドリオには分かっていた。
「メイン。あんたまで思い詰めた顔しないの。今は、ニッカを信じて待つしかないんだから」
「分かってる」
短い返事に、いつもの覇気は戻っていなかった。けれど、ドリオはそれ以上言葉を重ねず、ただ隣に寄り添い続けた。言葉よりも、傍にいることの方が、今は意味を持つと知っていたからだった。
視線を落とした先で、ルーシーの瞼がわずかに震えていた。目覚める気配はまだない。それでも、その小さな動きが、ニッカの胸の奥にある何かを刺激した。
「……ほんと、脳みそを粗末に使うんだから」
誰に聞かせるつもりもない呟きが、口から零れ落ちた。責めるような響きでありながら、そこに滲んでいるのは苛立ちよりも心配の色だった。無理を重ねて自分を追い込む癖は、放っておけば命取りになる。分かっていながら止められなかった少女の姿が、どこか昔の自分と重なって見えた。
「今度会ったら、説教の一つや二つじゃ済まさない」
小さく吐き捨てると、ニッカは再び端末へ向き直った。誰かがその呟きを聞いていたことに、彼女自身はまだ気づいていなかった。
メインが低く唸るように口を開いた。
「相手がアラサカだとしたら、これは只事じゃ済まなくなるな」
「たぶん」
短く答えたニッカに、メインは腕を組んだまま黙り込んだ。しばらくして、彼は静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「それでも、この子を渡す気はない」
「当たり前でしょ。今更、そんなこと聞くの」
素っ気ない口調だったが、その即答にメインは僅かに口元を緩めた。誰の胸に迷いはもうなかった。相手がどれほど巨大な影であろうと、守ると決めた者を差し出す気は、この場の誰にもなかった。
「取り除けるのか、それ」
「今すぐは無理」
ニッカは即座に首を振った。
「これ、たぶん彼女の神経系にかなり深く食い込んでる。無理に引き剥がそうとしたら、本体まで巻き添えにする」
「じゃあ、どうすんだよ」
レベッカが苛立たしげに詰め寄った。
「このまま放っておいたら、また同じことが起きるんじゃねえのか」
「起きる。次はもっと酷くなる可能性が高い」
冷静な即答に、レベッカは一瞬言葉に詰まった。
「……脅かすなよ」
「脅かしてるんじゃなくて、事実を言ってる」
突き放すような口調だったが、その奥には隠しきれない焦燥があった。ニッカは端末を握りしめ、視線を再び画面へ落とした。
解析を続けるうちに、ニッカはあることに気づいた。プログラムそのものはルーシーの神経系深くに根付いているが、それが活性化する条件は限られている。外部からの特定の信号帯域に晒された時、それも一定以上の強度と持続時間を要する時にだけ、眠っていた追跡機能が目を覚ます。つまり、日常生活の中では発症しない。だが、彼女のように頻繁にネットの深層へ潜る人間にとっては、いずれ避けられない発作だった。
条件を一つずつ洗い出しながら、ニッカは頭の中で仮説を組み立てていく。信号帯域の幅、閾値となる強度、持続時間の下限。数字を並べるほどに、輪郭がはっきりとしてきた。これは偶然の発症ではない。むしろ、極めて精密に設計された起爆条件だった。
「取り除けないなら、発症条件の方を潰せばいい」
独り言のような呟きに、キーウィが視線を向けた。
「どういうことだ」
「本体はいじれない。でも、外からの信号を物理的に遮断できれば、目を覚ます理由がなくなる」
言いながら、ニッカの頭の中では既に構想が組み上がり始めていた。前世の記憶にある、ノイズキャンセリングの原理。特定の周波数帯を検知し、逆位相の信号をぶつけて相殺する仕組み。廃品の中にも、応用できそうな部品はいくつか思い当たった。古いラジオの受信チューナー、壊れた電子レンジの耐熱シールド板。単体では何の価値もないガラクタが、組み合わせ次第で意味を持ち始める。
「作れるのか、そんなもの」
デイビッドの問いに、ニッカは短く頷いた。
「たぶん。時間はかかると思うけど」
「時間って、どれくらいだ」
「今夜中には、形にする」
言い切った声には、迷いがなかった。目の前で苦しむ少女を見過ごすという道を、彼女は最初から選べなかった。
少し離れた場所で、レベッカが握りしめた銃の重みを持て余していた。相手の姿が見えない戦いほど、彼女が苦手とするものはなかった。撃ち込む的があれば、迷いなく引き金を引ける。だが今、目の前で苦しんでいた仲間を救ったのは、銃でも拳でもなかった。
「……あたし、今の場面じゃ、何の役にも立てなかったな」
零れた声を拾うように、ファルコが静かに応じた。
「役に立ち方は、一つじゃない。今日はニッカの出番だった。それだけのことだ」
「分かってる。分かってるけど、こういう時になると、自分の無力さが嫌になる」
珍しく弱気な声に、ファルコもまた、あえて言葉を重ねなかった。ただ、隣に立ち続けることだけが、今の彼にできる精一杯だった。
外周へ視線を戻しながら、ファルコは腰の銃に手を添えた。目に見える敵がいないこの状況でも、警戒だけは緩めるわけにいかない。ニッカが手を動かしている間、誰かが外への注意を怠れば、それこそ取り返しのつかないことになる。
「見えない敵に怯えるくらいなら、見える範囲だけでも守り切る。今夜はそれで十分だ」
その言葉に、レベッカは小さく頷いた。銃の重みを持て余していた指先に、いつもの落ち着きが少しずつ戻ってくる。何もできないわけではない。守るべき持ち場は、確かにここにもあった。
トタン屋根の隙間から差し込んでいた最後の光が、完全に消えていった。格納庫の中は、非常灯の淡い明かりだけに包まれている。作業台に横たわるルーシーの呼吸は、依然として浅いままだった。だが、荒れ狂っていた発作の兆候は、今のところ影を潜めている。
ニッカは工具箱を引き寄せ、廃品の棚へ視線を走らせた。頭の中には、既に組み上げるべき構造の輪郭が見えていた。あとは、それを現実の形に落とし込むだけだった。
「メイン。ガラクタ置き場の奥、古いラジオの残骸がまだあったはず。持ってきて」
「ああ」
「キーウィ。ルーシーから、目を離さないで」
「言われるまでもない」
短いやり取りを交わしながら、ニッカは工具を握り直した。まだ何も終わっていない。だが、進むべき道筋だけは、ようやく見え始めていた。
棚に並んだ廃品を、ニッカは一つずつ手に取っては吟味していく。壊れた電子レンジの扉、焼き切れたモーターの巻き線、用途を失ったまま埃を被っていた金属板。どれもゴミとして片付けられて当然のものばかりだった。なのに、彼女の目には、それぞれが果たすべき役割がすでに見え始めていた。受信のための骨格、遮蔽のための外殻、そして信号を打ち消すための心臓部。頭の中の設計図が、少しずつ現実の部品と結びついていく。
持ってきた古いラジオの残骸を受け取り、ニッカは短く息をついた。
「これなら、いける」
「本当に、今夜で終わるのか」
メインの問いに、ニッカは手を止めずに答えた。
「終わらせる。終わらせないと、また同じことが起きる」
その声には、もう迷いの色はなかった。関わりたくないという本音と、目の前の家族を守りたいという想い。その二つを抱えたまま、彼女はいつも後者を選んで生きてきた。今夜もまた、同じ選択をするだけのことだった。
工具を並べ直し、ニッカは頭の中でもう一度、全体の設計を確認していく。受信部で信号を捉え、解析部で周波数を割り出し、相殺部で逆位相をぶつける。三段構えの仕組みを、限られた廃品だけでどう組み上げるか。パズルを解くような感覚と、失敗を許されない緊張感が、奇妙に混ざり合って彼女の集中を研ぎ澄ませていた。
バートなら、こんな時どうしただろう。ふとよぎった考えに、ニッカは静かに目を閉じた。答えはもう分かっていた。手を止めるな、迷うな、ただ最善だけを積み重ねろ。育ての親が残した教えは、こんな夜のためにあったのかもしれない。
視線を落とした先で、ルーシーの胸がゆっくりと上下を繰り返している。その呼吸の一つ一つが、今はまだ守られている証だった。だが、それがいつまで続くかは、誰にも分からない。時間との勝負が、静かに始まっていた。
誰もが黙り込んだまま、それぞれの持ち場へと動き出す。格納庫を包む静寂の中で、ニッカの指先だけが、確かな意志を持って動き続けていた。
夜はまだ長い。だが、恐れている暇はなかった。組み上げるべき形はすでに見えている。あとは、それを寸分違わず現実へ落とし込むだけだ。工具を握り直したニッカの横顔には、いつもの気だるさに代わって、静かな覚悟だけが浮かんでいた。