非常灯の淡い光だけが、静まり返った格納庫の輪郭をぼんやりと縁取っていた。
作業台の上で、ルーシーの呼吸はまだ浅かった。荒れ狂っていた発作の兆候は鳴りを潜めている。だが、意識が戻る気配はない。ニッカは工具箱を引き寄せ、床に広げた廃品の山と向き合った。頭の中には、組み上げるべき構造の輪郭がすでに描かれている。あとは、それを寸分違わず現実へ落とし込むだけだった。
関わりたくない、というのが本音だった。ナイトシティの影が誰かに絡みつくたび、そのたびに手を貸してしまう自分に、ニッカ自身が一番戸惑っている。バートを失った十八の夏、二度と誰かの事情に踏み込まないと誓ったはずだった。それなのに今、目の前で苦しむ少女を前にして、手を止めるという選択肢は最初から存在していなかった。
誓いを破っているという自覚はある。けれど、この矛盾を後悔する気持ちは、もうどこにも見当たらなかった。
古いラジオの受信チューナーを、ニッカは光にかざした。内部の基板には、経年劣化による腐食の痕がいくつも浮いている。だが、可変容量コンデンサの並びは、まだ十分に使える状態を保っていた。前世の記憶が、周波数の同調範囲を静かに読み上げてくる。この型番なら、狙った帯域を拾うのにちょうどいい。
次に手に取ったのは、焼け焦げた電子レンジの扉だった。内側に貼られた金属メッシュを、ニッカは指先で慎重に剥がしていく。マイクロ波を閉じ込めるための遮蔽構造は、少し手を加えるだけで、外界からの追跡信号を弾き返す殻に変わるはずだった。単体では何の意味もないガラクタが、組み合わせ次第で命を守る道具に変わっていく。その事実だけが、今の彼女を支えていた。
剥がしたメッシュを広げ、目の詰まり具合を光にかざして確かめる。網目の一つ一つが、想定した波長を反射できる密度を保っているかどうか。わずかな緩みも見逃せない検分だった。傍らに積まれた廃品の山から、ニッカは他にも使えそうな遮蔽素材がないか、手早く選り分けていった。焼け焦げた分だけ脆くなっている箇所は避け、まだ張りの残る部分だけを切り出していく。無駄を削ぎ落とす作業もまた、完成までの道のりの一部だった。
「メイン。あの棚の三段目、絶縁ワイヤーの束を取って」
「これか」
「それ。長さは、そんなに残ってなかったはずだけど」
「足りるか?」
「足りない分は、別のとこから継ぎ足す」
短いやり取りを交わしながら、ニッカは受信チューナーの基板を作業台に固定した。手を止める暇はなかった。頭の中では、完成までの手順がすでに一本の道筋として繋がっている。焦って進めれば、その分だけ見落としが増える。分かっていながらも、指先は自然と速さを増していった。
受信部の設計は、思っていたよりも骨が折れた。
ルーシーの神経系に食い込んだ古い追跡プログラムは、特定の信号帯域に反応して目を覚ます。その帯域を正確に割り出せなければ、いくら遮蔽の殻を組んでも意味がなかった。ニッカは端末の解析画面と、手元の受信チューナーとを交互に見比べながら、少しずつ同調範囲を絞り込んでいった。
波形の一部が、想定していたよりも狭い幅に集中している。前世で見た似た症例と照らし合わせても、これほど精密に絞り込まれた帯域は珍しかった。偶然生まれた欠陥ではない。最初から、狙って作られた仕掛けだった。
「……ほんと、性格悪い設計」
誰にともなく零れた呟きが、静かな格納庫に落ちた。作った側の悪意を思うたび、ニッカの指先に自然と力がこもった。
最初に組んだ受信回路は、狙った帯域のわずか手前で反応を止めてしまった。原因を探るため、ニッカは基板を裏返し、腐食した端子を一つずつ確かめていく。長年放置されていた部品には、思っていた以上の劣化が潜んでいた。抵抗値のずれが、同調点を微妙に狂わせている。前世の記憶が刻んだ補正式を頭の中で組み替えながら、彼女は代替の抵抗を探して工具箱を漁った。
見つけた部品は、古い扇風機の速度調整用ダイヤルから抜き取ったものだった。用途はまるで違う。けれど、必要な抵抗値さえ揃えば、由来など関係なかった。基板に半田を流し込み、新しい部品を継ぎ足す。指先が焦げた匂いを嗅ぎ取ったところで、ニッカは小さく息を止めた。
もう一度、端末の解析画面に波形を映し出す。反応が、わずかに狙った帯域へ近づいた。だが、まだ足りない。同調点はあと一歩のところで、標的の周波数をすり抜けていた。
「くそ……あと、ちょっとなのに」
珍しく苛立ちを滲ませた呟きに、キーウィが視線だけを寄越した。何も言わず、ただ見守り続けている。その沈黙が、かえってニッカの集中を研ぎ澄ませた。
コンデンサの容量を、もう一段階だけ細かく刻む。同調回路の設計図を前世の記憶から辿り直しながら、彼女は基板の上に極小の部品を追加していった。指先の感覚だけが頼りの、地道な微調整だった。
三度目の解析で、波形はようやく狙った帯域と重なった。ニッカは詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
「……これで、拾える」
独り言のような呟きに、安堵よりも先に、次の工程への焦りが押し寄せてきた。時間はまだ、残されているとは限らなかった。
同調範囲を絞り込んだところで、彼女は次に相殺回路の設計へ移った。受け取った信号と正反対の位相をぶつけ合い、互いを打ち消す。理屈は単純だったが、実現するには極めて正確なタイミング制御が要求される。ずれが大きければ、相殺どころか、逆に信号を増幅させてしまう危険すらあった。
古いスマートフォンの基板から、演算回路の一部を切り出す。かつて壊れた銃の弾道補正に使ったのと同じ手口だった。使い道を失ったジャンクの山が、今夜もまた新しい役目を得ようとしている。
相殺回路の設計で最も神経を使ったのは、増幅率の調整だった。逆位相の信号が弱ければ、追跡プログラムを完全には黙らせられない。強すぎれば、今度はルーシー自身の正常な神経信号まで乱してしまう危険があった。許される幅は、驚くほど狭かった。
ニッカは可変抵抗器を指先で少しずつ回しながら、端末に映る波形を何度も見比べた。針の穴を通すような調整を、彼女は根気強く繰り返していく。誰かに急かされるより先に、自分自身の中にある焦りと戦い続けていた。急げば失敗する。急がなければ間に合わない。相反する二つの声が、頭の中で絶えずせめぎ合っていた。
それでも、指先だけは着実に、正しい数値へと近づいていった。
少し離れた場所で、キーウィは煙草を挟んだ指先を持て余していた。火を点ける気にもなれないまま、彼女はルーシーの寝顔を見つめ続けている。
「……眠っているだけに、見える」
「たぶん、そう。脳の中では、まだ処理が続いてるかもしれないけど」
そう答える間も、ニッカは手元の作業を止めなかった。キーウィはしばらく黙り込んだあと、静かに口を開いた。
「危うい子だとは、拾った時から分かっていたつもりだった。だが、これほどのものを抱えているとまでは、思いもしなかった」
「今更、後悔してる?」
「後悔とは、少し違う。ただ、見て見ぬふりをしてきた分だけ、責任があるとは思っている」
淡々とした声の奥に、押し殺しきれない重さが滲んでいた。ニッカは手を止めずに応じた。
「見て見ぬふりしなかったら、何か変わってた?」
「分からない。それでも、何もしなかった時間は、取り戻せない」
その一言に、ニッカは何も返さなかった。バートを失った十八の夏の記憶が、ふいに脳裏をよぎる。何もできなかった時間を悔やむ気持ちなら、彼女にも覚えがあった。
「あんたの手元にある解析、まだ途中か」
しばらくの沈黙のあと、キーウィが静かに尋ねた。
「途中。施設のコードは分かったけど、それ以上は追えてない」
「追う必要は、あるのか」
「今夜は、ない。今夜やるべきことは、目を覚まさせない仕組みを作ること」
きっぱりとした答えに、キーウィは小さく息を吐いた。
「あの子には、まだ話していない。施設のことも、あんたが摑んだ手掛かりのことも」
「話す気は」
「いずれは。今夜じゃない」
「賛成。中途半端な情報だけ渡しても、余計に怖がらせるだけ」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。ルーシーの浅い呼吸だけが、その静けさを埋めていた。
「……昔、この子が施設から逃げてきた夜のことを、時々思い出す」
キーウィが、ぽつりと呟いた。
「裸足で、震えながら、それでも端末だけは絶対に手放さなかった。あの目つきを、今でも覚えている」
「怖かった、から?」
「たぶん、それだけじゃない。あの端末が、この子にとって唯一の武器だったんだろう。手放せば、次に頼れるものが何もなくなる」
淡々とした語り口の奥に、隠しきれない痛みが滲んでいた。ニッカは工具を握る手を止めずに、静かに耳を傾けていた。
「今度は、私の作った物が武器になる」
「そういうことになるな」
「重い役目、押し付けられた気分」
「不満か」
「不満じゃない。ただ、責任は重い」
迷いのない返事に、キーウィは口元をわずかに緩めた。
「なあ、まだかかりそうか」
レベッカが、工具棚の陰から顔だけを覗かせて尋ねた。銃の手入れをする気にもなれないまま、彼女はもう何度目かの問いを繰り返している。
「かかる。急かさないで」
「急かしてねえよ。ただ、じっとしてるのが性に合わねえだけだ」
「なら、外の警戒でもしてれば」
「それは、ファルコが見てる。あたしはこっちの方が、性に合ってんだよ」
「性に合ってるだけで、役には立ってない」
「うるせえな、分かってるっつーの」
言いながら、レベッカは作業台の方をちらりと見た。ルーシーの胸が、ゆっくりと上下している。その呼吸の一つ一つを数えるように、レベッカの視線は落ち着かなく揺れていた。
「あたし、こういう時ほんと役に立たねえな」
「役に立ってる。今夜は黙って待ってくれるだけで十分」
素っ気ない返事だったが、レベッカはその言葉に、わずかに肩の力を抜いたようだった。
外周を見張るファルコの傍らで、ドリオが焚き火の残り火をかき混ぜていた。
「メイン、少し座ったら」
「いや、いい」
立ち尽くしたまま答えるメインの声には、いつもの覇気がなかった。ドリオはそれ以上勧めず、ただ隣に腰を下ろした。
「あんたが動けなくなったって、ニッカの手は止まらない。分かってるでしょ」
「分かってる。分かってるが、こう、突っ立ってねえと落ち着かねえんだ」
「なら、突っ立ってればいい。ただ、無理して倒れられたら、それこそニッカの仕事が増える」
軽口めいた言葉に、メインの口元がわずかに緩んだ。だが、視線は格納庫の奥からほとんど離れなかった。誰かを守り切れなかった時の重さを、彼はこれまで何度も味わってきている。今夜もまた、その重さが胸の底に沈んでいた。
しばらくして、ドリオは水筒に水を汲み直し、格納庫の奥へと足を向けた。作業台に向かうニッカの背中は、いつもと変わらず真っ直ぐだった。だが、肩の強張り方には、隠しきれない疲労が滲んでいる。
「ニッカ、少し飲みなさい」
「今、手が離せない」
「手が離せなくても、喉は渇くでしょう」
差し出された水筒に、ニッカはようやく手を止めた。口をつけた瞬間、喉の渇きが思っていた以上だったことに気づいた。
「……ありがと」
「あんたが倒れたら、元も子もない」
「分かってる」
「分かってて、無理をするのがあんたでしょう」
図星を突かれ、ニッカは小さく肩をすくめた。ドリオはそれ以上何も言わず、ただ水筒を置いて踵を返した。誰かに気にかけられることに、まだ慣れきれていない自分を、ニッカは水筒の重みを通して思い知らされていた。
作業台の傍らで、デイビッドはルーシーの額に浮いた汗を拭い続けていた。
「……起きないな」
「起きない。まだ、その段階じゃない」
短く答え、ニッカは相殺回路の配線を一本ずつ確かめていく。デイビッドはしばらく黙っていたが、やがて低い声で口を開いた。
「なあ、ニッカ」
「なに」
「こいつ、いつも一人で無理してた。誰にも頼らないで、全部一人で背負い込もうとしてた」
「知ってる」
「今日みたいなことになるまで、俺は気づいてやれなかった」
声に滲む後悔に、ニッカは手を止めずに答えた。
「気づいてなかったのは、あんただけじゃない」
「それでも、悔しい」
短い呟きに、ニッカはそれ以上何も言わなかった。誰かを守り切れなかった悔しさなら、彼女自身が誰よりもよく知っている。言葉で埋められる種類の穴ではないことも、分かっていた。
「あんたも、一人で背負い込む癖があるだろ」
不意に向けられた指摘に、ニッカの手がわずかに止まった。
「……あんたに言われたくない」
「否定はしないんだな」
「否定する理由も、ない」
同じ言葉の返し方に、デイビッドは口の端を上げた。それ以上追及することはせず、ただ次の工具を静かに差し出した。何かを問い詰めるより、隣に立ち続けることの方が、今は意味を持つと分かっているようだった。
「……直せるのか、これ」
「直せない。取り除くのは無理」
迷いのない即答に、デイビッドの表情が強張った。
「でも、目を覚まさせないようにはできる」
「それで、十分か」
「十分。原因を消せなくても、発作を起こさせなければ、同じ生活を続けられる」
言い切る声には、迷いがなかった。デイビッドはしばらくニッカの横顔を見つめたあと、静かに頷いた。
相殺回路の組み立てが進むにつれ、ニッカは一つの壁にぶつかった。
信号を打ち消すための逆位相は、廃品の演算回路だけでは処理速度が足りない。わずかなタイミングのずれが、致命的な誤作動に繋がりかねなかった。画面に表示された遅延の数値を睨みながら、ニッカは奥歯を強く噛みしめた。
バートなら、こんな時どうしただろう。
ふとよぎった問いに、記憶の奥から答えが返ってきた。足りない部分は、余計な工程を削って埋めろ。複雑にするな、単純にしろ。何度も聞かされてきた言葉が、今になって鮮明に蘇る。
ニッカは回路図を一から見直した。処理速度を稼ぐために積み上げていた補正段階のいくつかは、そもそも過剰だったのかもしれない。信号の変化そのものが緩やかであれば、細かい補正を重ねるよりも、あらかじめ想定した波形をそのまま逆位相で流し込む方が早い。単純にすることで、速さを取り戻せるはずだった。
思いついた瞬間、ニッカの指先が止まった。それから、迷いなく回路の一部を取り外し始めた。
「……これでいける」
独り言に、キーウィが視線を寄越した。
「何か、分かったのか」
「難しく考えすぎてた。単純にすればいい」
言葉少なに返しながら、ニッカは新しい配線を継ぎ足していく。取り外した部品の代わりに、あらかじめ計算しておいた固定波形を書き込んだ小さなメモリチップを組み込む。演算の手間を省いた分だけ、応答速度は格段に上がるはずだった。
夜が更けるにつれ、格納庫の温度は少しずつ下がっていった。なのに、ニッカの額には絶えず汗が滲んでいる。工具を握る手だけは、一度も止まらなかった。
遮蔽用の外殻に、受信チューナーと相殺回路を収める作業に入ったのは、東の空がまだ完全な闇に包まれている頃だった。電子レンジの扉から剥がした金属メッシュを、耳を覆う形に曲げ加工していく。歪みが出れば、遮蔽性能に穴が生まれる。ニッカは何度も角度を確かめながら、慎重に形を整えていった。
メッシュを曲げる工程は、力加減が難しかった。強く曲げすぎれば網目が潰れて遮蔽効果を失う。緩すぎれば、耳を覆う形すら保てない。前世で培った工作精度の感覚を頼りに、ニッカは指先だけで力の入れ具合を測り続けた。何度か形を整え直しては、光にかざして歪みを確かめる。単調な繰り返しだったが、手を抜けば、それがそのまま性能の穴になる。
装置の内側には、緩衝材として、使い古したタオルの繊維を細かくほぐしたものを詰め込んだ。長時間の装着でも、耳への負担が最小限に収まるようにという配慮だった。誰に頼まれたわけでもない気遣いだったが、ニッカの手は自然とそこまで作り込んでいた。
「……これ、頭に着けるものなんだよな」
デイビッドが、覗き込みながら呟いた。
「そう。ヘッドホンみたいな形にする」
「見た目、かなりごつくなりそうだけど」
「見た目より、中身」
素っ気ない返事に、デイビッドは小さく笑った。張り詰めていた空気の中で、その笑いだけが、わずかな緩みを連れてきた。
夜半を過ぎた頃、外周モニターの前でファルコが小さく声を上げた。
「反応、なし。今のところは静かなもんだ」
「そのまま、頼む」
短いやり取りを交わし、ファルコは再び暗闇の向こうへ視線を戻した。目に見える敵がいない夜ほど、気の抜けない夜はない。彼はそのことを、これまでの経験で嫌というほど知っていた。
センサーの並ぶ操作盤には、これといった変化もなく淡い光だけが並んでいる。ファルコは腰の銃に指先を這わせ、感触だけを確かめた。長年、荒野で夜を明かしてきた男にとって、静けさそのものは珍しくもない。だが、誰かのためにここまで気を張り詰めて夜を明かすのは、久しぶりのことだった。
傍らに歩み寄ってきたレベッカが、銃口を地面に向けたまま腰を下ろした。
「なあ、ファルコ」
「なんだ」
「あたし、こういう夜が一番苦手だ。撃つ相手がいねえと、どこに苛立ちをぶつけりゃいいか分かんねえ」
「分かる。だが、今夜は待つのも立派な仕事のうちだ」
「分かってるよ、それくらい。……分かってても、落ち着かねえもんは落ち着かねえんだよ」
ぼやくような口調に、ファルコは小さく喉を鳴らした。
「お前がそこにいるだけで、外の連中は気安く近づけねえ。それも十分な仕事だ」
「持ち上げんな、柄でもねえ」
軽口を交わし終えると、二人はしばらく無言のまま、操作盤の淡い光だけを見つめ続けた。乾いた風だけが、二人の間を吹き抜けていった。
焚き火の傍らで、ドリオがメインの横顔をそっと窺った。
「あの子、まだ手を止めないつもりね」
「ああ。止まる気配が、まるでねえ」
「止められる人間なんて、どこにもいないでしょ」
ドリオの言葉に、メインは短く頷いた。誰かのために手を止めない人間の姿を、彼は今夜、また一つ胸に刻み込んでいた。
空がわずかに白み始めた頃、レベッカとファルコが交代で見張りを解き、格納庫の中へ戻ってきた。作業台の上に置かれた装置を目にした瞬間、レベッカの足が止まった。
「……これが、あれか」
「そう。まだ、試してはいないけど」
「見た目、ほんとにガラクタそのものじゃねえか」
からかうような口調だったが、そこに侮る響きはなかった。むしろ、見慣れたはずの光景に、いまだに驚かされている自分を隠しきれずにいるようだった。
「中身が大事」
「知ってるよ、それくらい。あんたの作る物で、見た目通りだったことなんて一度もねえ」
レベッカは装置に手を伸ばしかけて、思い直したように引っ込めた。
「あたしが触っていいもんじゃねえな、これは」
珍しく殊勝な態度に、ファルコが小さく笑った。
「珍しく、分別のあることを言う」
「うるせえ。柄でもねえこと言ってんのは、分かってらあ」
二人のやり取りに、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。だが、作業台に横たわるルーシーへ視線を戻すと、その緩みはすぐに消えていった。
外殻の形が整うと、ニッカは受信チューナーと相殺回路を丁寧に収めていった。配線の一本一本に絶縁テープを巻きつけ、振動による断線を防ぐ。ここまで来て、些細な緩みが命取りになることを、彼女は誰よりもよく理解していた。
組み上げの最終段階に差しかかったところで、ニッカは一度だけ手を止めた。額の汗を袖で拭い、深く息を吸い込む。焦る気持ちを抑えながら、彼女は最後の接続端子を、慎重に基板へ差し込んだ。
「……あと少し」
誰にともなく零れた呟きに、周囲の誰も声をかけなかった。今はただ、彼女の指先が導く結末を、静かに見守ることしかできなかった。
東の空に、わずかな白みが差し始めていた。
ニッカは組み上げたばかりの装置を、作業台の上にそっと置いた。耳当ての形をした金属の殻が、非常灯の光を鈍く反射している。傍目には、廃品を無理やり継ぎ接ぎしただけの、粗末な代物にしか見えなかった。だが、内側に詰め込まれた回路の一つ一つには、譲れない理屈が積み重なっていた。
「……できた」
小さく呟いた声には、拭えない疲労が滲んでいた。デイビッドが、覗き込みながら問いかける。
「これで、本当に大丈夫なのか」
「たぶん。理論上は」
「理論上、って」
「試してみないと、確証は持てない」
飾らない答えに、デイビッドは何も言い返せなかった。ニッカ自身、完璧だと言い切れるほどの自信はまだ持てていなかった。だが、今この場でできる最善は、すでに積み上げ終えている。
キーウィが、静かに歩み寄ってきた。
「見せてもらっても、いいか」
「どうぞ」
差し出された装置を、キーウィは手の中で確かめるように何度も回した。継ぎ接ぎだらけの外見の奥に、彼女は何かを見出そうとしているようだった。
「……随分と、無骨な形だな」
「見た目に構ってる余裕、なかったから」
「悪くない。むしろ、こういう不格好さの方が、信用できる気がする」
珍しく素直な感想に、ニッカは少しだけ肩の力を抜いた。
「……着けた後、何が起きるか、正確には分からない」
装置を見つめたまま、ニッカは静かに続けた。
「信号が消えるだけならいい。でも、この子の頭の中に、まだ知らない何かが残ってるかもしれない」
「それでも、今できる最善は、これなんだろう」
「うん。今できるのは、これだけ」
短い答えに、キーウィは装置をそっと作業台へ戻した。
「あんたが謝る必要はない。ここまでやってくれただけで、十分すぎる」
「謝ってるつもりはない。ただ、期待させすぎたくないだけ」
率直な物言いに、キーウィは小さく笑った。
「その慎重さが、あんたの仕事を信用できる理由なのかもしれないな」
言葉少なに返されたその一言に、ニッカは何と応じていいか分からず、視線を装置へ戻した。
組み上げた装置を作業台に戻し、ニッカは椅子の背もたれに体を預けた。強張っていた肩の筋肉が、ゆっくりと悲鳴を上げ始める。それでも、意識の芯だけは、まだ冷めきる気配を見せなかった。
視線を落とした先で、ルーシーの胸がゆっくりと上下を繰り返している。呼吸は、変わらず浅いままだった。だが、目覚めた時にこの装置を渡せる。それだけで、今夜積み重ねてきた時間には意味があった。
メインが、静かに近づいてきた。
「終わったのか」
「山場は越えた。あとは、着けてみないと分からない」
「危険は」
「たぶん、ない。でも、絶対とは言えない」
正直な答えに、メインはしばらく黙り込んだ。それから、低い声で呟いた。
「それでも、あんたが組んだものなら、信じる」
あっさりとした一言に、ニッカは意外そうな顔をした。
「簡単に、信じすぎ」
「今更だろう。俺の腕も、デイビッドの体も、あんたの手で救われた」
「あれは、たまたま」
「たまたまが、何度も続いてる時点で、それはもう実力だ」
真っ直ぐな言葉に、ニッカは何も言い返せなかった。関わりたくないという本音は、今も胸の奥に残っている。けれど、目の前の人間たちが向けてくる信頼を簡単には突き放せなくなっている自分に、彼女は気づき始めていた。
窓の外が、少しずつ明るさを増していく。長い夜が、ようやく終わろうとしていた。
ニッカは組み上げた装置を、もう一度手に取った。冷たい金属の感触が、指先に伝わってくる。この不格好な殻の中に、ルーシーを苦しめてきた悪夢を断ち切るための理屈が、確かに詰め込まれていた。
あとは、彼女が目を覚ました時に、これを差し出すだけだった。
バートなら、こんな時どんな顔をしただろう。ふとよぎった問いに、ニッカは小さく息を吐いた。答えはもう分かっている。壊れたものを見過ごせない性分だけは、何年経っても変わらない。今夜もまた、その性分に従っただけのことだった。
振り返れば、この十日間はずっと落ち着かない気持ちを抱えたまま過ぎていった。レインと名乗った男の薄い笑み、ルーシーの疲れきった横顔、そして深層に潜んでいた古い施設の残滓。積み重なった不安の断片が、今夜ようやく一つの形にまとまろうとしている。だが、これで全てが終わるわけではないことを、ニッカは誰よりもよく分かっていた。装置が防げるのは、目を覚まさせる引き金だけだ。その引き金を仕込んだ相手の存在そのものは、まだ何一つ消えていない。
工具箱の蓋を静かに閉じながら、ニッカは作業台に横たわるルーシーの顔を、しばらくの間見つめ続けた。夜明けの光が、彼女の輪郭をゆっくりと照らし始めていた。
誰かを守るということは、一晩で終わる仕事ではないのかもしれない。そう思いながらも、ニッカは装置をそっと布で包み、ルーシーの手の届く場所へ置いた。目を覚ました時、まず目に入るのがこれであってほしかった。理由をうまく言葉にできないまま、彼女はただそう願っていた。