東の空に差し込んだ白い光が、格納庫の壁を橙色から灰色へと少しずつ塗り替えていった。夜通し灯していたランタンの光が、その白さに溶けて薄れていく。
作業台の傍らに座り込んだニッカは、両膝を抱えるようにして動かずにいた。装置を布に包んでルーシーの傍らへ置いてから、もうどれくらい経っただろう。時間の感覚は、とうに失っている。徹夜の疲労が、今になって肩へ重くのしかかってくる。それでも、目を閉じる気にはなれなかった。
格納庫の中は、静かな緊張に包まれたままだった。見張りを終えたレベッカとファルコが戻り、代わってドリオが焚き火の残り火を落としていく。誰も大きな声を出さず、誰も足音を立てず、それぞれの持ち場でただ朝が来るのを待っていた。
「交代する。少し休め」
ドリオの声に、作業台の傍らに立ち尽くしていたデイビッドが振り返った。
「いや、まだいい」
「もう何時間、その場所に立ってるつもり」
「分からない。数える気になれなかった」
率直な答えに、ドリオは小さく息をついた。無理に引き剥がす言葉は、持ち合わせていなかった。誰かのために立ち続ける姿を、咎める資格は誰にもない。
「せめて、座りなさい。立ったまま倒れられても困る」
勧められるまま、デイビッドは工具箱の縁に腰を下ろした。視線だけは、ルーシーの顔から一度も離れなかった。
焚き火の傍らで、ドリオが小さな鍋に湯を沸かしていた。誰かの腹を満たすためというより、手を動かしていないと落ち着かないからだった。出来上がった塩気だけのスープを、彼女は紙コップに注ぎ分けていく。差し出された一杯に、レベッカもファルコも口をつけたが、味を確かめる余裕のある者はいなかった。それでも、温かいものが喉を通る感覚だけが、張り詰めた神経をわずかに緩めてくれた。
「ニッカ、あんたも飲みなさい」
「今、無理」
「無理でも飲みなさい。倒れられたら、こっちの手が足りなくなる」
有無を言わせぬ口調に、ニッカは渋々コップを受け取った。一口含むと、思っていたよりも喉が渇いていたことに気づかされる。だが、装置の効果を確かめるまでは、心から安堵する気にはなれなかった。
しばらくして、メインが低い声で呟いた。
「もう、何時間経った」
「六時間」
即座に答えたのは、腕の端末で時刻を確かめていたキーウィだった。煙草をくわえたまま、彼女の視線はずっとルーシーの寝顔へ向けられている。
「長いな」
「長い。だが、悪化の兆候はない」
抑揚のない声に、メインは黙って頷いた。誰の胸にも、同じ祈りが静かに巣くっていた。
ニッカは工具箱の中身を整理する振りをしながら、実際には手を動かさずにいた。前世の記憶にある知識を、もう一度洗い直す。組んだ回路に、見落としはなかったか。相殺の位相にずれはなかったか。何度検算しても、答えは変わらなかった。あとは、目を覚ました本人が、その効果を確かめるしかない。
理屈の上では、間違っていないはずだった。それでも、確信という言葉には、まだ手が届いていなかった。
格納庫の隅で、レベッカが銃の手入れを続けていた。分解と組み立てを、もう何度繰り返したか分からない。手を動かしていないと、落ち着いていられなかった。同じ工程を繰り返すたび、彼女の視線は作業台のルーシーへ何度も飛んだ。
「なあ、ファルコ。あたしら、いつまでこうしてりゃいい」
「終わるまでだ」
「終わるまで、って……いつだよ、それ」
「さあな。だが、こういう時は、待つのも仕事のうちだ」
短いやり取りに、レベッカは口を尖らせながらも黙り込んだ。銃口を布で拭う手が、いつもより丁寧だった。
見張りを終えて戻ったはずのファルコは、それでも格納庫の入り口に腰を下ろしたまま、白み始めた空を見つめていた。体に染みついた癖なのか、まだ座って休む気になれないだけなのか、自分でもよく分からなかった。
黙ったまま隣に座ったレベッカが、拭き終えた銃をホルスターへ収める。二人の間に、言葉はなかった。それでも、気まずさはどこにもなかった。
「……その帽子、汗臭くなってきたんじゃねえの」
ぽつりと零れたレベッカの軽口に、ファルコは自分のつばの擦り切れたハットへ手をやった。
「これがねえと、締まらねえだろ」
「そうかよ」
つばの擦り切れ具合を指先で確かめながら、ファルコは何も言わずに視線を落とした。この帽子の持ち主だった男の手も、いつからか震えていたはずだった。誰も気づいてやれなかった、あの震えを。今なら、あの震えの意味が分かる。そう思うたび、胸の奥がわずかに軋んだ。
軽口を挟み終えると、二人はしばらく無言のまま、白み始めた空を見つめ続けた。誰かのために夜を明かす。それが、いつからか当たり前のことになっていた。
工具箱の陰で、ニッカもまた、体の芯まで冷え切った疲労の中で、同じことを考えていた。関わりたくないと誓ったはずのこの手が、いつからこんなにも簡単に、誰かのために動くようになったのだろう。答えの出ない問いを抱えたまま、彼女は組み上げた装置の布を、もう一度そっと撫でた。
太陽が完全に顔を出した頃、作業台の上でルーシーの指先が、かすかに動いた。
「……ん」
小さな呻きに、その場にいた全員の視線が一斉に集まった。
「ルーシー?」
デイビッドが真っ先に身を乗り出した。閉じていた瞼が、ゆっくりと震えながら開いていく。
「……ここ、どこ」
掠れた声が、静まり返った格納庫に落ちた。焦点の定まらない瞳が、天井の梁をぼんやりと見上げている。
「ガレージ。ニッカのとこ」
「……なんで、私」
言いかけて、ルーシーは自分の体を見下ろした。首筋に指を這わせ、ポートの感触を確かめる。その瞬間、記憶が急速に戻ってきたのか、彼女の表情が強張った。
「……あれ」
「覚えてる?」
問いかけに、ルーシーはしばらく答えなかった。深層に潜った感覚、光の壁が閉じていく恐怖、そして遠い記憶の底から蘇ってきた白い廊下。断片的な映像が、まだ整理のつかないまま頭の中を巡っているようだった。
「……何、あれ」
震える声で呟いたルーシーに、キーウィが静かに歩み寄った。
「話せるか」
「師匠……」
「無理に思い出さなくていい。今は、体を確かめることが先だ」
落ち着いた声に、ルーシーはわずかに肩の力を抜いた。それでも、指先の震えは完全には収まっていない。
「気分は」
ニッカが問うと、ルーシーは自分の掌を見つめたまま答えた。
「……重い。頭の中に、何か引っかかってる感じがする」
「引っかかってる、っていうのは、具体的に」
「うまく言えない。ずっと、耳鳴りみたいなものが続いてる気がする」
答えを聞いたニッカの表情が、わずかに険しくなった。予想していた通りの症状だった。装置が抑えられるのは、あくまで信号の起爆条件であって、すでに刻み込まれてしまった恐怖の記憶までは消せない。
「その耳鳴り、いつからのもの」
「分からない。……昔からあった気もする。気にしたことなかったけど」
その答えに、格納庫の空気がわずかに張り詰めた。ニッカは黙って端末の解析画面へ視線を落とした。ずっとあった耳鳴り。それは、彼女がこれまで一度も気づかずに生きてきた雑音だったのかもしれない。
昨夜掘り起こしたログの断片が、脳裏をよぎる。長期潜伏、低頻度起動、外部から検出されにくい休眠状態の維持。前世のゲーム知識にあった旧世代の監視プログラムの設計思想が、目の前の少女の人生に、そのまま重なっていた。何十年もかけて誰かを見張り続けるための仕組みが、幼い頃から彼女の頭の奥で息を潜めていたのだ。
「ちょっと、確認したいことがある」
ニッカは布に包んだままの装置を持ち上げ、ルーシーの前に差し出した。
「……何、これ」
「あんたの頭に巣くってた古い追跡プログラム。取り除くのは無理だったけど、目を覚まさせる信号だけは、遮断できるようにした」
淡々とした説明に、ルーシーはしばらく装置を見つめたまま動かなかった。継ぎ接ぎだらけの外殻、耳を覆う不格好な形。廃品にしか見えないその代物が、自分の中に巣くう何かを黙らせるためのものだと言われても、すぐには実感が湧かないようだった。
「本当に、これで」
「保証はできない。でも、今夜、私にできる最善はこれだけだった」
「……あんた、一晩でこれを」
「あんたが倒れてる間、他に何かできることがあった?」
問い返され、ルーシーは何も言えなくなった。突き放すような口調の奥に、隠しきれない疲労が滲んでいる。それに気づいた彼女は、ようやく手を伸ばした。指先が装置の縁に触れる。
「着けて、みてもいい?」
「そのために作った」
短い返答に背中を押されるように、ルーシーはゆっくりと装置を持ち上げ、耳を覆う位置へ合わせていった。
装置が肌に触れた瞬間、格納庫にいた全員が息を止めた。
誰も声を発さないまま、ルーシーの表情の変化を見つめ続けた。数秒が、ひどく長く感じられた。
やがて、彼女の目が、大きく見開かれた。
「……嘘」
掠れた呟きが、静寂の中に落ちた。
「どう、なの」
デイビッドが身を乗り出して尋ねると、ルーシーは装置に触れたまま、しばらく言葉を探すように口を開閉させた。
「……静か」
誰にともなく零れたその一言に、格納庫の中がしんと静まり返った。
「静かって、どういう」
「ずっと、あったの。耳の奥の方で、何かがざわついてる感覚。物心ついた時から、ずっと」
ルーシーの声が、わずかに震えていた。
「気にしたこともなかった。誰でもそうなんだと思ってた。……でも、今、初めて分かった。これが、本当の静けさだったんだ」
言葉を継ぐごとに、ルーシーの瞳に、抑えきれない動揺が滲んでいった。生まれてから今まで、ずっと当たり前だと思っていた雑音。それは、誰にでもあるものではなかった。自分だけに巣くっていた異物だったのだと、彼女は今、初めて実感していた。
「私、ずっと……こんなものを抱えてたの」
誰に問うでもない呟きに、答えられる者は誰もいなかった。ただ、その場にいる全員が、彼女の表情の変化を、黙って見守り続けていた。
装置に触れた指先が、小さく震えている。それは、恐怖の震えとは違うものだった。長年当たり前だと思い込んでいた重荷から、不意に解き放たれた者だけが浮かべる、戸惑いに近い震えだった。
しばらくして、ルーシーの視線が、ゆっくりとニッカへ向けられた。
「……あんた、何者」
問いかけの奥に、感謝とは違う何かが滲んでいた。ニッカはその視線を受け止めながら、静かに答えた。
「ただのメカニック」
「ただのメカニックが、こんなもの作れるわけない」
「作れないはずのもの、作っちゃうのが、私」
軽い口調で返しながらも、ニッカの内心は穏やかではなかった。ルーシーの瞳に浮かんでいるのは、確かな信頼だった。だが、その奥に、わずかな怯えの色も見え隠れしていた。誰かの脳の奥深くにまで手を届かせる技術。それがどれほど危ういものか、ネットランナーである彼女には、誰よりもよく分かっているはずだった。
「……怖い、と思った?」
ニッカが静かに尋ねると、ルーシーは一瞬言葉に詰まった。
「少し。あんたが、その気になれば、私の頭の中身なんて、簡単に書き換えられちゃうんじゃないかって」
「そんなこと、しない」
「分かってる。分かってるから、余計に怖い」
飾らない答えに、ニッカは黙り込むしかなかった。信頼と恐怖が、同じ根から生えている。その事実を、彼女自身も薄々感じ取っていた。誰かの中に踏み込む技術を持つということは、誰かを丸ごと裏切れる力を持つということでもある。前世の知識をどれだけ積み上げても、その重みだけは代わりに背負ってくれる者がいなかった。
「私も、ナイトシティの技術を怖いと思って生きてきた。今度は、私が怖がられる番みたいね」
自嘲めいた呟きに、ルーシーは小さく首を振った。
「怖いのと、信じられないのは、別。……ありがとう。本当に」
照れくさそうに視線を逸らしながら、しかしはっきりと告げられた言葉に、ニッカは短く頷くことしかできなかった。誰かに真っ直ぐ感謝される感覚に、彼女自身、まだうまく慣れずにいた。
少し離れた場所で、キーウィがその一部始終を、煙草もくわえずに見つめていた。
「師匠」
ルーシーの呼びかけに、キーウィはゆっくりと歩み寄った。
「……昔から、聞こえてた耳鳴りのこと。話してなかった」
「知ってる。今、聞いた」
「気づいてた?」
不意を突かれたように、キーウィはしばらく黙り込んだ。それから、静かに口を開いた。
「気づいていたとは言えない。だが、疑っていたことはある。あんたの逃走が、あまりに出来すぎていたことも含めてな」
その言葉に、ルーシーの表情が硬くなった。
「……どういう、意味」
「詳しい話は、あんたの体調が戻ってからだ。今は、生きて目を覚ましたことだけを喜んでおけ」
素っ気ない口調でありながら、その奥には拭いきれない安堵が滲んでいた。ルーシーは師の顔をしばらく見つめたあと、小さく頷いた。
「……分かった。今は、それでいい」
答えながら、彼女の胸の奥には、まだ消えない不安が残っていた。だが、少なくとも今この瞬間、頭の中を蝕んでいた雑音だけは、確かに消え去っていた。その事実だけを、まず受け止めておきたかった。
「拾った時から、危うい子だとは思っていた」
キーウィが、ぽつりと呟いた。
「それでも、今日まで生き延びてくれた。それだけで、十分だ」
珍しく素直な言葉に、ルーシーは目を瞬かせた。長年連れ添ってきた師の口から、こんな言葉が出てくるとは思っていなかったのだろう。何か言い返そうとして、結局は言葉にならず、ただ小さく頷くことしかできなかった。
「……師匠、昔から聞きたかったこと、一つだけ」
「なんだ」
「なんで、あの夜、私を拾ったの。裏路地で行き倒れそうになってた、どこの誰とも分からない子供を」
とっさに答えられず、キーウィは視線を宙へさまよわせた。くわえた煙草の先が、小さく揺れている。
「理由なんて、大したものはない。目の前で凍えてる子供を、放っておけなかっただけだ」
「それだけ?」
「それだけだ。あんたの正体も、背負ってるものの大きさも、あの時の私は何一つ知らなかった。知らないまま、拾った」
淡々とした声の奥に、隠しようのない重さが滲んでいた。ルーシーはしばらくその顔を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……今なら、知ってても、同じことしたと思う?」
「馬鹿な質問をするな」
即答に、ルーシーは思わず笑いそうになった。だが、その笑いはすぐに、じんわりとした熱に変わっていった。
「おい、終わったのかよ」
工具棚の陰から、レベッカが顔を覗かせた。作業台に座り込むルーシーの姿を見た瞬間、彼女の表情がぱっと明るくなった。
「目、覚めたんだな!」
「……うん。おかげさまで」
「おかげさまって柄でもねえこと言うじゃねえか。でも、よかった。マジで」
飾らない喜びに、ルーシーは小さく笑った。数時間前まで生死の境をさまよっていたとは思えないほど、その場の空気が緩んでいく。
「あたし、こういう時なんの役にも立てなくてよ。ずっとイライラしてた」
「役に立ってたよ。あんたが騒いでくれるだけで、賑やかで安心する」
「なんだそりゃ、褒めてんのか貶してんのか分かんねえよ」
軽口の応酬に、ファルコが小さく笑いながら歩み寄った。
「無事でよかった。夜通し、みんな気が気じゃなかった」
「……ごめん、心配かけて」
「謝る必要はない。誰も、あんたを責めちゃいない」
穏やかな声に、ルーシーは小さく頷いた。
ドリオが水筒を手に、作業台へ歩み寄ってきた。
「起きたばかりで悪いけど、水分とっておきなさい」
「……ありがとう、ございます」
差し出された水筒を受け取りながら、ルーシーはその温かさに、少しだけ目を潤ませた。誰かに気にかけられる感覚に、彼女もまた、慣れきれずにいるようだった。
傍らで、メインが腕を組んだまま、静かにその光景を見つめていた。
「よかったな」
短い一言に、万感の思いが込められていた。ドリオがそっと隣に寄り添い、彼の背中に手を添えた。
「あんたも、少し休みなさい。一晩中、突っ立ってたんだから」
「ああ……そうする」
らしくない素直な返事に、ドリオは小さく笑った。誰かを守り切れるという安堵が、彼の肩からようやく重さを下ろしていくのが分かった。
工具箱の傍らで、ニッカは装置の効果を測定するため、端末の解析画面に目を落としていた。信号の波形は、これまで見てきた中で最も穏やかな線を描いている。異常な反応はどこにも見当たらなかった。
「……とりあえず、成功」
小さな呟きに、デイビッドが振り返った。
「とりあえず?」
「今のところは、って意味。長期間つけ続けた時、どうなるかまでは分からない。定期的に、状態は見ておいた方がいい」
慎重な物言いに、デイビッドは苦笑した。何をしても手加減を知らないその姿勢を、彼はもう何度も見てきた気がした。
「あんた、そういうとこ、ほんと手を抜かないよな」
「手を抜いて後で泣くのは、私じゃなくてルーシーでしょ」
ぶっきらぼうな答えだったが、そこに滲む気遣いを、デイビッドは見逃さなかった。
解析画面をもう一度スクロールしながら、ニッカは信号の減衰曲線を指先でなぞった。相殺回路が受け止めている負荷は、想定していた範囲の中にきちんと収まっている。だが、この均衡がどれほどの期間持続するのかまでは、まだ誰にも分からなかった。廃品の寄せ集めで組んだ以上、経年劣化による同調のずれは、いずれ必ず訪れる。
「キーウィ。悪いけど、今後は週に一度でいいから、この子をここへ連れてきて。波形の変化だけ、確認させて」
「週に一度、か。手間だな」
「手間かけたくないなら、あんたが毎日ここに住めばいい」
軽口とも本気ともつかない答えに、キーウィは小さく鼻を鳴らした。
「考えておく」
何気ないやり取りの奥に、確かな信頼が滲んでいた。誰も口には出さなかったが、この一夜を境に、何かが確かに変わっていた。キーウィとルーシーの師弟が、ガレージへ足を運ぶ理由は、また一つ増えたのだった。
「なあ、ニッカ」
「なに」
「ありがとな。本当に」
飾り気のない一言に、ニッカは工具を握ったまま、しばらく黙り込んだ。
「……別に、大したことしてない」
「大したことしてないやつが、一晩中手を止めずに動くかよ」
「うるさい。休んでないのは、あんたも同じでしょ」
図星を突かれ、デイビッドは言葉に詰まった。二人の間に、短い沈黙が落ちる。それでも、その沈黙は、決して気まずいものではなかった。
装置の効果を確かめ終えたところで、ニッカは工具を片付けながら、静かに息を吐いた。安堵よりも先に、頭の片隅にある冷たい事実が、彼女の意識を引き戻していた。
解決したのは、あくまで発症の引き金だけだった。ルーシーの神経系に根付いた古い追跡プログラムそのものは、まだそこに残ったままだ。そして、それを仕込んだ相手の存在も、施設のコードとして刻まれた事実も、何一つ消えてはいない。
アラサカという名の影は、まだこの荒野のどこかで、静かに次の機会を窺っているのかもしれなかった。レインと名乗った男が最後に浮かべた薄い笑みを思い出すたび、ニッカの胸の奥で、小さな棘が疼き続けていた。
「……これで、終わりじゃない」
独り言のような呟きに、キーウィが視線を寄越した。
「分かってる。今夜片付けたのは、応急処置に過ぎない」
「それでも、今日一日くらいは、休んでいいと思う」
柄にもなく気遣うような言葉に、ニッカは小さく肩をすくめた。
「休んでる暇があったら、次の対策を考えたい性分なんだけど」
「その性分のせいで、いつか本当に倒れるぞ」
的確な指摘に、ニッカは何も言い返せなかった。バートを失ってから、ずっとそうやって生きてきた。誰かの危機に手を貸すたび、休むことを後回しにしてきた。その癖が、いつか自分自身を追い詰めることになると、分かっていながら止められずにいた。
脳裏に、バートの声がふとよぎった。壊れた場所を叱っても直りはしない。まず、どこが痛んでいるのかを見つけてやれ。それが、修理の一番目だ。人の心を測る術を、育ての親から教わったわけではなかった。それでも、この一晩で少しだけ、何かを掴んだような気がしていた。
ドリオが、鍋に残っていたスープをもう一度温め直し、今度は全員のコップへ均等に注ぎ分けていった。誰からともなく、格納庫の中央に車座になる。徹夜明けの気だるさを引きずったまま、それでも誰の顔にも、確かな安堵が浮かんでいた。
「にしても、あんな不格好な代物が、あんだけの威力とはなあ」
レベッカが装置を横目に呟くと、ファルコが小さく頷いた。
「見た目で判断するもんじゃない。この場所じゃ、な」
「分かってるよ、それくらい」
軽口を挟みながらも、レベッカの視線は、装置を耳に着けたままのルーシーへ何度も向けられていた。安否を確かめずにはいられない、そんな眼差しだった。
「なあ、ルーシー。もう平気なのかよ」
「うん。今のところは」
「今のところ、って言い方、あんたらどっちも好きだよな」
呆れたような口調に、ルーシーとニッカが同時に顔を見合わせた。誰からともなく、小さな笑いが漏れる。張り詰めていた一夜の緊張が、その笑いを合図にして、ようやくほどけていくようだった。
デイビッドは、コップを片手に、しばらくその輪から少し離れた場所に立っていた。母を喪った夜の記憶が、まだ胸の奥に残っている。今度は何もできずに終わらせたくないと、あの時誓ったはずだった。目の前で笑うルーシーの横顔を見つめながら、彼はようやく詰めていた息を静かに吐き出した。
「デイビッド。あんたも座りなさいよ」
ドリオに促され、彼は輪の中へ腰を下ろした。誰かと肩を並べて同じ鍋を囲む。それだけのことが、今はひどく尊いものに感じられた。
輪から少し離れた工具箱の傍らで、ニッカはその賑やかな声を横目に、小さく息をついた。誰かと同じ鍋を囲むという当たり前のことが、この場所ではまだ、完全に当たり前にはなりきっていない。それでも、その当たり前へ近づこうとする気配だけは、確かに感じ取れた。
東の空で、日はさらに高く昇っていた。トタン屋根の隙間から差し込む光が、格納庫の中を柔らかく照らしている。夜通し張り詰めていた空気は、少しずつ緩みを取り戻しつつあった。
作業台に座ったルーシーが、装置に触れながら、小さく息を吐いた。
「……ほんとに、静か」
何度目かのその呟きに、今度は誰も驚かなかった。ただ、静けさそのものを噛み締めるような表情に、周囲の誰もが安堵の色を浮かべていた。
ニッカは工具箱の蓋を閉じ、椅子に深く座り込んだ。徹夜の疲労が、ようやくその重みを主張し始めている。それでも、頭の芯だけは、まだ完全には冷めきっていなかった。
一つの危機は、確かに乗り越えた。だが、この先も同じような影が、また誰かの元へ忍び寄ってくるかもしれない。関わりたくないという誓いは、もうとうに形を失いかけていた。それでも、目の前の家族を守るためなら、その誓いを何度でも破っていい。そう思えるようになった自分に、ニッカは少しだけ戸惑いながらも、確かな納得を覚えていた。
装置を外し、そっと布に包み直しながら、ルーシーがふと呟いた。
「これから、毎日着けなきゃいけないの?」
「しばらくは。データが揃うまでは、様子を見たい」
「面倒くさいこと言うわね」
「面倒でも、命の方が大事でしょ」
そっけない答えに、ルーシーは苦笑した。それでも、装置を大事そうに抱え直す仕草には、確かな安心の色が滲んでいた。
「これ、外で失くしたりしたら」
「そん時は、また作る。同じものは無理でも、似たようなものなら」
「……頼りにしてる」
ぽつりと零れた本音に、ニッカは何と返していいか分からず、視線を工具箱へ逸らした。誰かに頼られる感覚は、いつまで経っても、うまく馴染んでくれなかった。
キーウィが、煙草に火を点けながら、静かに外周モニターへ視線を移した。反応は、依然として平常のままだった。だが、彼女の胸には、拭いきれない違和感が残り続けていた。ルーシーの神経系に仕込まれた古い仕掛け。それを施した相手が誰なのか、まだ何一つ分かってはいない。あの子の脱走が、あまりに出来すぎていたことも含めて、いずれ自分の手で洗い直さなければならない日が来る。そんな予感だけが、胸の奥に静かに根を張っていた。
「……この平和も、そう長くは続かないかもな」
誰へともなく漏れたその一言に、答える者はいなかった。ただ、朝の光の中で、その言葉だけが、静かに格納庫の隅へ沈んでいった。
窓の外で、乾いた風が砂埃を巻き上げていく。トタン屋根が軋む音だけが、時折思い出したように響いた。夜明けの荒野には、まだ何も終わっていないという予感だけが、静かに横たわり続けていた。