長い入院生活を終えたグロリアが、デイビッドと共にニッカたちのガレージを訪れます。
消毒液の匂いに慣れきってしまうまで、いったいどれほどの朝を病室で迎えてきたことか。グロリアはもう、数えるのをやめていた。
窓から差し込む光だけは、今朝に限って心なしか柔らかく感じられた。担当医が持ってきた書類には、退院許可の判子がようやく押されている。長かったリハビリの記録を、彼女は一枚ずつ捲りながら思い返していた。
歩行訓練で何度も膝をついた日のことも、握力を取り戻すための単調な訓練のことも、今ではすべてが遠い出来事のように感じられる。体の内側に残った違和感だけが、まだ本調子ではないのだと静かに告げていた。
「今日で、本当に最後ですね」
荷物を纏める手を止めずに、看護師が声をかけてきた。
「長いこと、お世話になりました」
「無理はしないでくださいね。まだ、本調子ではありませんから」
「分かってる。もう、若くはないんだから」
軽口めいた返事に、看護師は柔らかく笑った。グロリアは鞄の口を締めながら、窓の外へ視線を投げる。ナイトシティの摩天楼が、いつも通りの無機質な輝きを放っていた。あの街の一角で自分は撃たれ、意識を失い、そして今こうして立っている。改めて考えると、現実感の薄い話だった。
担当医が最後の診察に顔を出したのは、荷造りがほとんど終わった頃だった。
「経過は良好です。定期的な検診だけは、必ず続けてください」
「ありがとうございます」
礼を言うグロリアに、医師はカルテを閉じながら、ふと呟くように言葉を継いだ。
「今でも、不思議なんですよ。あの時の損傷の少なさは」
「……そうなんですか」
「至近距離での被弾にしては、内臓へのダメージが驚くほど軽かった。防護ベストの内側に、見たことのない緩衝材が組み込まれていたと、当時の記録に残っています」
何気ない口調だった。医師にとっては、雑談の延長に過ぎないのだろう。だがその一言は、グロリアの記憶の奥にある小さな引っかかりを、そっと揺り動かした。
「……そのベスト」
「今はもう、処分されてしまっていますがね。運が良かった、としか言いようがありません」
医師はそう締めくくると、次の患者のもとへと去っていった。グロリアはしばらく、閉じたカルテの背表紙を見つめたまま動けずにいた。
運が良かった。それだけの言葉で片付けるには、あの時の記憶にはどこか腑に落ちない部分が残っていた。銃声が響いた瞬間のことは、はっきりとは思い出せない。ただ意識が途切れる直前、体のどこかに硬い感触があったことだけは、微かに覚えている気がした。
荷物をまとめ終えたグロリアは、ベッドの縁に腰掛けたまま、しばらく目を閉じた。三か月に及ぶ入院生活の中で、意識のなかった時間の記憶は当然ながら空白のままだった。その空白を埋める手がかりなど、どこにもない。それでも頭の隅に小さな棘のようなものが、いつまでも残り続けていた。
閉じた瞼の裏に、途切れ途切れの光景が浮かんでは消えていく。銃声、悲鳴、誰かに肩を掴まれた感触。断片はどれも曖昧で、繋ぎ合わせても一枚の絵にはならなかった。体のどこかを強く押されたような重みだけは、それでも消えずに残っていた。命を拾ったのだと、医師は言った。運が良かっただけだと、自分にも何度も言い聞かせてきた。拭いきれない違和感だけが、心の底にわずかに沈んだままだった。
窓の外を、輸送用のドローンが一機、低く飛んでいった。その音に気を取られながら、グロリアは深く息を吸い込んだ。もう、済んだことだ。今日からは、また元の生活に戻ればいい。そう自分に言い聞かせて、彼女は鞄の持ち手を握り直した。
病室の扉が開いたのは、荷造りを終えて間もなくのことだった。
「母さん」
声をかけてきたのは、デイビッドだった。以前よりも、明らかに背が伸びている。だがそれ以上にグロリアの目を引いたのは、息子の纏う空気そのものだった。
以前のデイビッドには、いつも余裕のない焦りが張り付いていた。学費と生活費に追われ、笑っていても目の奥だけが疲れきっている。そんな姿を、グロリアは何度も見てきた。今、目の前に立つ息子には、その面影がほとんど残っていない。
「迎えに来たぞ」
「……随分、逞しくなったのね」
「そうか?」
「見違えたわ。何をして、そんなに変わったの」
率直な問いに、デイビッドは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「色々、あってさ」
「色々、って」
「話すと長くなる。歩きながら話すよ」
はぐらかすような答えに、グロリアは訝しげに眉を寄せた。だがそれ以上は追及せず、荷物を纏めた鞄を息子へ手渡した。
「持って」
「ああ」
鞄を受け取るデイビッドの動きに、迷いがなかった。以前なら重い荷物を持つだけで、腕に力が入りすぎていたはずだった。今の彼の所作には、そうした無理な力みが見当たらない。
母親の勘だけが、はっきりと何かを告げていた。この子は、自分の知らないところで、大きく変わってしまった。良い方向にか、悪い方向にかは、まだ分からない。けれど、以前よりも足取りがしっかりしているという事実だけは、揺るがないものとして胸に残った。
会計窓口に立ち寄ると、受付の職員は端末を一瞥しただけで、あっさりと告げた。
「お会計は、既にお済みです」
「……済んでる? 誰が」
「詳しい経緯までは、こちらでは分かりかねます」
淡々と頭を下げる受付に、グロリアはさらに尋ねる気力を失った。積み上がっていったはずの請求額が、いつの間にか消えている。視線を横へ向けると、デイビッドは素知らぬ顔で鞄を担ぎ直していた。その横顔に、グロリアは何も聞かずにおくことにした。
病院を出て、車に乗り込んでからも、グロリアの視線は自然と息子の横顔へ向いた。
「今日、このまま帰るの?」
「いや、その前に寄りたい場所がある」
「どこへ」
「世話になってる人がいるんだ。母さんも、一度は会っておいた方がいい」
運転席のデイビッドは、そう言ってハンドルを切った。行き先はナイトシティの中心部ではなく、郊外を抜けてさらにその先、バッドランズの方角だった。
「随分と、遠いのね」
「ちょっとした荒野の外れにあるガレージなんだ。そこに、ニッカって奴が住んでる」
「ニッカ……?」
聞き覚えのある名前に、グロリアの中で記憶がすぐに繋がった。
「もしかして、前に何度か会ったことのある、あの子? 防護ベストを、譲ってくれた」
「……母さんも、知ってるのか」
驚いた様子のデイビッドに、グロリアは小さく頷いた。
「あなたが生まれる前からの、付き合いってわけじゃないけど。前は、鑑別だの修理だのって、たびたび荷物を持ち込んでたの。腕はいいけど、随分素っ気ない子だった記憶があるわ」
「ああ、それは今も変わってない」
苦笑まじりの返事に、グロリアは思わず笑ってしまった。まさか、とうに縁が切れたと思っていた相手と、息子がこれほど深く関わっているとは思いもしなかった。世間は、思うより狭いものらしい。
「腕利きのメカニックでさ。俺の……体の調子まで、色々診てもらってる」
「体?」
「まあ、色々あって」
またしても曖昧な答えが返ってくる。グロリアは小さくため息をついたが、それ以上は聞かなかった。息子が話したがらないことを、無理に暴くつもりはない。車が荒野を走るほどに、彼女の胸の内に浮かぶ疑問符だけは、少しずつ増えていった。
「学校は、ちゃんと通えてる?」
「……籍は、抜いてない。それだけだ」
「通ってはいない、ってことね」
「今は、そっちに構ってる余裕がない」
突き放すような即答に、グロリアは思わず言葉を失った。かつてなら、すぐさま説教の一つも飛ばしていたはずだった。けれど今の彼女には、それを咎めるだけの気力が残っていなかった。積もり積もった疲労のせいなのか、この子はもう自分の知らないところに立っているのだという予感のせいなのか。グロリア自身にも、判然としなかった。
「あと、レベッカとメインにも会うかもしれない。うるさい奴らだけど、悪い奴らじゃない」
「随分と、賑やかな人間関係になったのね」
「そう、かもな」
「デイビッド。あなた、前に会った時は、友達のことなんてほとんど話さなかったじゃない」
「……話す暇が、なかっただけだ」
ハンドルを握るデイビッドの横顔に、以前にはなかった落ち着きが滲んでいた。誰かに支えられている人間の顔だと、グロリアは直感した。それが誰なのか、まだ分からないままだったが。
窓の外を流れていく赤茶けた大地を眺めながら、グロリアは自分の胸の中を探ってみた。心配なのか、それとも安堵なのか。答えはうまく見つからなかった。けれど、それが誰であれ、息子を支えてくれているという事実そのものは、決して悪いものには思えなかった。
やがて、赤茶けた荒野の向こうに、錆びたトタン屋根が見えてきた。近づくにつれ、グロリアの中に小さな戸惑いが芽生えていく。
以前は、鑑別や修理の荷物を抱えて、何度もこの場所へ通ったものだった。あの頃の印象は、ただの廃車置き場でしかなかった。だが今、目の前にある光景は、それとは明らかに違っていた。
屋根の上に、見慣れない機材が幾つも取り付けられている。塀は補強され、扉も以前とは比べ物にならないほど頑丈な造りに変わっていた。どこか物々しい気配が、廃車置き場だったはずの場所全体を覆っている。
「……ここ、本当にただのガレージなの?」
「表向きは、な。詳しいことは、俺もあんまり聞いてない。ニッカが色々、自分でいじってるだけらしい」
軽く答えるデイビッドに、グロリアは釈然としない気持ちを抱えたまま車を降りた。乾いた風が、頬をかすめて通り過ぎていく。荒野特有の匂いを吸い込みながら、彼女はしばらく、その物々しい建物の全景を見上げていた。屋根の端には、見慣れないアンテナのようなものまで取り付けられている。バッドランズの外れで、これほど本格的な備えをしている理由までは、彼女にも想像がつかなかった。
扉が開く前から、中の賑やかさが伝わってきた。車の音を聞きつけたのか、真っ先に飛び出してきたのはレベッカだった。
「おいデイビッド! 遅かったじゃねえか!」
「悪い、病院の手続きに手間取った」
言い訳するデイビッドの後ろに立つグロリアへ、レベッカの視線が向く。
「お、あんたが噂のお袋さんか! いつも世話になってます!」
勢いのある挨拶に、グロリアは思わず目を丸くした。
「……ええ、デイビッドの母です。グロリアよ」
「レベッカだ! よろしくな!」
握手を求めるように差し出された手を、グロリアは戸惑いながらも握り返した。存外に硬く、力強い手だった。
「随分と、元気な子ね」
「うるせえのは生まれつきなんだよ!」
悪びれもせず笑うレベッカに、グロリアもつられて笑みをこぼした。緊張していた肩から、少しだけ力が抜けていく。
「なあ、聞いたぜ。撃たれて意識不明だったんだろ。大変だったな」
「……ええ、色々あってね」
「デイビッドの奴、あんたが運ばれたって聞いた日、面倒事も放り出して駆けつけようとしてたんだぜ」
レベッカの言葉に、デイビッドが慌てて口を挟んだ。
「おい、余計なこと言うなよ」
「事実だろうが」
二人のやり取りを見つめながら、グロリアの胸に、じんわりとした温かさが広がっていった。自分が眠っている間にも、息子は変わらず自分のことを想っていてくれた。そう思うだけで、胸が詰まりそうになる。
ガレージの奥から、ドリオとファルコも姿を見せた。
「騒がしくして悪いわね。私はドリオ」
「俺はファルコだ。デイビッドには、世話になってる」
落ち着いた挨拶に、グロリアは会釈を返した。
「こちらこそ、息子がお世話になっているみたいで」
「世話になってるのは、こっちの方だ」
ファルコが低い声でそう言うと、ドリオも黙って頷いた。
「あなたの息子さんは、よく頑張ってる。誇っていいと思うわ」
その言葉に、グロリアの胸がふわりと熱を持った。息子の知らない場所で、こんなにも大切にされている。そのことが、何よりも嬉しかった。
「ここでは、皆さんで一緒に暮らしているの?」
グロリアが尋ねると、ドリオは小さく首を振った。
「拠点は、それぞれ別。ただ、ここへ集まる時間の方が、最近は長くなってきてるかもしれないわね」
「賑やかで、いい場所ね」
「賑やかすぎて、頭を抱えたくなる時もあるけど」
苦笑まじりのドリオの答えに、ファルコも小さく頷いた。二人のやり取りに、荒野の暮らしの厳しさとは裏腹の、ささやかな温もりが滲んでいた。
工具箱の陰から、黒髪を一つに結んだ女が姿を見せたのは、その直後のことだった。オイル汚れの残る作業服のまま、ニッカは戸口に立つグロリアの姿を見て、束の間動きを止めた。
自分の足で、こうして立っている。その事実を目にした瞬間、ニッカの胸の奥で、張り詰めていた何かがふっと緩んだ。安堵という言葉では足りないほどの重みが、一瞬だけ肩にのしかかり、そしてすぐに消えていった。
「……グロリアさん」
掠れた声で名を呼ぶニッカに、グロリアは柔らかく目を細めた。
「久しぶりね、ニッカさん」
「元気そうで、何よりです」
「あなたのおかげ、なんでしょうね」
含みのある物言いに、ニッカは僅かに視線を逸らした。
「……デイビッドが、頑張っただけです」
「あら、謙遜ね。前に会った時と、ちっとも変わらない」
懐かしむような笑みを浮かべ、グロリアは丁寧に頭を下げた。
「息子が、いつもお世話になっているそうで。改めて、ありがとうございます」
「別に。ただの、仕事です」
ぶっきらぼうな返事に、レベッカが横から口を挟んだ。
「こいつ、いっつもそう言うんだよ。ただの仕事とか、ただの商売とか」
「うるさい、黙ってて」
「図星突かれると早口になるとこも、いつも通りだな」
言い返すニッカに、レベッカはニヤニヤと笑うだけだった。その気安いやり取りを見て、グロリアの表情が、ふっと和らいだ。
しばらく談笑が続いたあと、グロリアはふと、デイビッドの方へ視線を向けた。作業台の傍らで、彼はファルコと工具の話をしている。その横顔には、以前のような焦りも翳りも見当たらない。
「デイビッド、変わったわね」
グロリアが呟くと、隣にいたドリオが小さく相槌を打った。
「出会った頃とは、別人みたいよ」
「何が、あったの」
「詳しくは、私の口から言えることじゃないわ。ただ……あの子は、ここで、たくさんのものを見つけたと思う」
含みのある言葉に、グロリアはそれ以上踏み込まなかった。その事実だけで、十分だという気がした。
少し離れた場所で、メインが腕を組んだまま、こちらの様子を眺めていた。グロリアと目が合うと、彼は軽く会釈をして歩み寄ってきた。
「久しぶりだな、グロリア」
気安い呼びかけに、グロリアは一瞬、目を見開いた。
「メイン……こんなところで、また会うとはね」
「世話になりっぱなしだ。今日は、ちゃんと礼を言いに来た」
「礼、って?」
「あんたの息子のことだよ。それと……預けてた物のことも、含めてな」
メインの声に、グロリアの表情がふっと引き締まった。
「……あのサンデヴィスタンの、こと?」
「ああ。無理を言って預けたのは、こっちだ。まさか、あんたの息子が持ち出すことになるとは、思っちゃいなかったが」
「その節は、本当にごめんなさい。うちの子が、勝手なことをして」
深く腰を折ろうとするグロリアを、メインは片手で制した。
「謝る必要はねえ。むしろ、こっちが礼を言う番だ」
「礼を言われるようなこと、した覚えはないけど」
「あんたが、あれを黙って預かってくれてたおかげで、俺たちは何度も救われてきた。荒事の後始末も、無理な頼み事も、あんたは一度だって突っぱねなかった」
メインの声には、いつもの荒っぽさとは違う、不器用な実直さが滲んでいた。
「預けた物が、あんな形で誰かの命を繋ぐことになるとは、俺自身も思っちゃいなかった」
「……デイビッドの、こと?」
「ああ。だが、それだけじゃない」
メインは一瞬だけ言葉を切り、視線をニッカの方へと向けた。
「回り回って、俺自身も救われることになった。あんたが黙って預かっててくれた物がなけりゃ、今頃どうなってたか、俺にも分からねえ」
その言葉の奥にある詳細を、グロリアは問い質さなかった。メインの声に滲む重みだけが、揺るぎないものとして伝わってきた。
「……借りを、返した気持ちのつもり?」
「いや。返しきれるとは、思っちゃいない。それでも、今日はちゃんと言葉にしておきたかった」
メインはそう言って、深く頭を下げた。荒野の男が見せる、不器用ながらも真っ直ぐな礼だった。グロリアはしばらく言葉を失っていたが、やがて小さく笑った。
「そんな、畏まらなくていいのに」
「畏まらせてくれ。そのくらいは、させてほしい」
短いやり取りの中に、長い年月をかけて積み重ねられてきた信頼が、はっきりと表れていた。
「あんたの息子は、今じゃ俺たちにとって、大事な仲間だ。これからも、力になる」
「ありがとう。……本当に」
目を潤ませるグロリアに、メインは照れくさそうに頭を掻いた。
「柄にもねえこと、口にしちまったな」
メインはそれから、もう一度だけニッカの方へ視線を送った。
「この女には、俺は別の借りがある。あんたの息子とも、預けた物とも、また違う借りだ」
「……借り?」
「詳しいことは、聞かないでくれ。ただ、あんたの息子を大事にしてくれてるのと同じくらい、俺にとっても大きい借りだ」
メインの声には、普段の豪快さとは違う、抑えた重みがあった。グロリアはその温度差に、思わず言葉を止めた。
「随分と、抱え込んでいるのね」
「信頼、なんて言葉じゃ足りないくらいだ」
それだけ言うと、メインは軽く咳払いをして目を伏せた。グロリアはそれ以上追及せず、ただ頷くだけだった。誰かの秘密に、無理に踏み込むつもりはなかった。預けた物ひとつを巡ってこれほど多くの人間が繋がり合い、支え合っている。その事実だけが、彼女の胸に深く残った。
それだけ言うと、メインはまた元の場所へと戻っていった。グロリアはその背中を見送りながら、胸の中で小さな疑問が膨らんでいくのを感じた。だが、詮索するべきではない。そんな空気が、確かにこの場には流れていた。
ニッカの方へ向き直ると、グロリアは改めて頭を下げた。
「あの子のこと、詳しくは聞いていないけど。多分、あなたのおかげで、今のあの子があるんでしょうね」
「……大したことは、してません」
「大したことをしていない人が、こんなに大切にされるとは思えないけど」
静かな指摘に、ニッカはふいと視線を逸らした。誰かに面と向かって礼を言われる感覚には、いつまで経っても慣れることができずにいた。
「……たまたま、目の前で困ってただけです。放っておけなかっただけで」
「それを、優しさって言うのよ」
「優しさとは、違います。ただの、面倒臭がりです。困ってる奴を放っておくと、後で余計に面倒になるから」
早口気味に返す様子に、グロリアはくすりと笑った。
「そういうことにしておくわ」
ふと、グロリアの表情に、思案げな色が浮かんだ。
「そういえば……前に、あなたから譲ってもらったベストがあったの」
「……ベスト?」
「防護ワーカーベスト。ほとんどタダみたいな値段で、譲ってくれたじゃない」
ニッカの指先が、一瞬止まった。
「ああ……あれ、ですか」
「あの日、着けていたの。銃撃に巻き込まれた、あの日」
グロリアの声は、静かだった。責めるでも、疑うでもない、ただ事実を確かめるような口調だった。
「担当医が、不思議がっていたわ。あの距離で撃たれて、あそこまで内臓の損傷が少なかったのは、奇跡的だって」
「……そう、ですか」
「普通の防護装備じゃ、あそこまでの数値は出ないはずだ、とも言ってた」
ニッカは、視線を工具箱へ落としたまま、しばらく黙り込んだ。何と答えるべきか、頭の中で言葉を選んでいた。
「……気のせいじゃ、ないですか」
「気のせい?」
「ただの、排熱処理と緩衝材の組み合わせです。安物のパーツを、上手く重ねただけで」
いつもの誤魔化しが、口をついて出た。だがその声は、いつもより硬さを帯びていた。グロリアはそれを見逃さなかった。
しばらくの沈黙のあと、グロリアは小さく笑った。
「そう。なら、そういうことにしておくわ」
それ以上、彼女は何も聞かなかった。核心に踏み込む言葉を、あえて呑み込んだ。長く生きてきた者だけが持つ、踏み込まない優しさだった。
「あなたには、聞かない方がいいことが、色々ありそうね」
「……そうかも、しれません」
「いいのよ、それで。デイビッドが無事で、私も生きてる。それだけで、十分だもの」
柔らかな声に、ニッカは何も言えなくなった。核心には触れないまま、それでいて揺るぎない理解だけが、二人の間にそっと流れていった。
夕暮れが近づく頃、水筒を抱えた少女が、母親と共にガレージへ姿を見せた。ニッカの姿を見つけると、少女は勢いよく駆け寄っていく。
「ニッカ姉! 今日のお水、持ってきた!」
「ありがとう。気を付けて歩いてきた?」
「うん! お母さんと一緒だから、平気!」
元気な返事に、ニッカは小さく笑んで少女の頭を撫でた。その傍らで、少女の母親が丁寧に会釈をする。グロリアはその光景を、しばらく眺めていた。
「あの子は?」
「近くのクランの子です。よく、様子を見に来てくれます」
「懐かれてるのね」
「……さあ、どうでしょう」
はぐらかすような答えの裏に、隠しきれない親しみが覗いているのを、グロリアは見逃さなかった。この場所には、血の繋がりを超えた、小さな家族の輪ができている。そんな気がしてならなかった。
少女が母親と共に去っていくのを見送っていると、レベッカが自慢げに愛銃を抱えて近づいてきた。
「なあ、お袋さん! この銃、見てくれよ!」
「あら、随分と、物騒なものを持ち歩いているのね」
「これがあたしの相棒でな。ニッカに直してもらってから、化け物みてえな威力になったんだぜ!」
銃口を撫でながら得意げに語るレベッカに、グロリアは苦笑を浮かべた。
「デイビッドも、こういうものを扱っているの?」
「デイビッドは専門が違うけどよ。まあ、いざって時は頼りになる奴だぜ」
「頼もしいこと」
軽口を返しながらも、グロリアの内心は複雑だった。息子が銃を扱うような場所に身を置いていると聞けば、母親として心配が湧かないはずもない。それでも、レベッカの屈託のない笑顔と穏やかな空気を見ていると、不思議と恐ろしさは薄れていった。危険と隣り合わせでありながら、揺るがない絆に支えられている。そんな均衡の上に、この場所は成り立っているのかもしれなかった。
日が傾き、そろそろ帰る時間になった頃、グロリアは改めてニッカの前に立った。
「今日は、本当にありがとう。急に押しかけてしまって、ごめんなさいね」
「……別に。デイビッドの、母親なんだから」
「これからも、あの子のこと、よろしくお願いします」
深く頭を下げるグロリアに、ニッカは戸惑ったように視線を泳がせた。
「そんな、大袈裟な」
「大袈裟じゃないわ。あなたがいなかったら、今のあの子はいない気がするの」
真っ直ぐな言葉に、ニッカは何も返せなかった。気恥ずかしさを誤魔化すように、傍らの工具へ手を伸ばす。
「……あんまり、期待されても困るんですけど」
「期待はしてないわ。ただ、お願いしているだけ」
柔らかな笑みに、ニッカはようやく小さく頷いた。
「……分かりました。せいぜい、面倒見てあげます」
「よろしくね」
グロリアは鞄から、小さな包みを取り出した。
「これ、大したものじゃないけど。退院祝いのお裾分け」
「……いいんですか、こんな」
「もちろん。今日のところは、帰りがけにちょっと寄っただけだから。今度は、ちゃんとお礼をしに来るわ」
差し出された包みを、ニッカはおずおずと受け取った。中には、手作りらしいパンと、瓶詰めの保存食が詰められていた。誰かにこうして何かを手渡される感覚に、彼女はまだうまく慣れずにいた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
短いやり取りの中に、ささやかな温もりが行き交っていた。
やがて、日が完全に傾き切る前に、グロリアとデイビッドは帰路につくことになった。
「じゃあな、ニッカ。また来る」
「……はいはい」
軽く手を振るデイビッドに、ニッカも小さく手を上げて応じた。
車に乗り込む間際、グロリアは振り返り、集まった一同を見渡した。レベッカ、ドリオ、ファルコ、メイン。そしてニッカ。誰もが、それぞれの距離感で、デイビッドを見守っている。その光景に、彼女は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「みんな、本当にありがとう」
その一言に、レベッカが大きく手を振って応えた。
「またいつでも来いよ! 今度はもっとうまい飯用意しとくから!」
「楽しみにしてる」
笑いながら答えたグロリアの声には、久しぶりに感じる安らぎがあった。
「デイビッドのこと、本当によろしくね」
最後にもう一度、ニッカへ向けてそう告げると、グロリアは車の助手席へと乗り込んだ。
「ああ、そうだ」
思い出したように、彼女は窓を開けて付け加えた。
「今度、正式にお礼をしに来るから。逃げないでね」
「……逃げませんけど」
「あら、意外」
からかうような笑みに、ニッカは小さく口元を歪めた。それが照れ隠しであることは、その場にいた誰の目にも明らかだった。
エンジンが静かに唸り、車体が土埃を巻き上げながら向きを変えていく。窓越しに小さく手を振るグロリアの姿を、ニッカはしばらく見つめ続けていた。
車が完全に見えなくなるまで、誰も口を開かなかった。
「……いい人だな、あの母ちゃん」
レベッカがぽつりと呟くと、ドリオもふっと頷いた。
「デイビッドが、あんな風に育った理由が、少し分かった気がするわね」
「あの母ちゃんも、相当苦労してきたんだろうな」
ファルコの言葉に、誰も異を唱えなかった。荒野に立つ一同の間に、しばらく穏やかな沈黙が流れていく。
手の中に残った包みの重みが、ニッカにはじんわりと温かく感じられた。誰かの無事を、こうして確かめられる日が来るとは、あの時は思ってもみなかった。防護ベストを押し付けたあの日、自分がしたことの意味を、深く考えたつもりはなかった。ただの商売。そう言い聞かせてきたはずだった。
それでも、こうして自分の足で歩くグロリアの姿を目にした今、胸の奥にある何かが、はっきりとした形を帯び始めていた。守りたいと思う相手が、また一人増えた。その事実を、ニッカはもう否定するつもりはなかった。
背後から、レベッカの声が飛んできた。
「おいニッカ、あの包み何入ってんだよ! 見せろって!」
「触らないで。私が先に食べる」
「ケチくせえこと言うなよ!」
賑やかなやり取りが、夕暮れのガレージに響いていく。誰かに囲まれて過ごす時間が、いつからこんなにも当たり前になったのか。答えの出ない問いを抱えたまま、ニッカは包みを抱え直し、格納庫の中へと戻っていった。
トタン屋根の向こうで、太陽がゆっくりと地平線に沈んでいく。荒野を染める橙色の光が、いつもよりわずかに柔らかく感じられた。
工具棚の隅に置かれたバートの形見のレンチに、その光が柔らかく差し込んでいた。育ての親が遺したものを見つめながら、ニッカは小さく息をついた。あの人が生きていたら、今日という日を、どんな顔で眺めていただろう。答えの出ない問いを、彼女はそっと胸の内に仕舞い込んだ。
次にどんな影が近づいてくるのか、この時のニッカには、まだ知る由もなかった。ただ今日という一日だけは、穏やかな陽だまりの中にあった。
荒野の夜が、静かに訪れようとしていた。焚き火の準備を始めるドリオの手元に、小さな火花が散る。レベッカの笑い声が、乾いた空気の中に響き渡っていく。誰もが、束の間の平穏を、それぞれのやり方で噛み締めていた。
遠くから、水筒を届けにきた少女の声が、まだ微かに聞こえていた。母親に手を引かれながら帰っていくその後ろ姿を、ニッカはしばらく目で追った。守るべきものは、こうして気づかないうちに、少しずつ増えていく。数えたところで、きりがないほどに。
かつての自分なら、こうして誰かの無事を喜ぶ日が来ることなど、想像もしなかっただろう。関わらない、近づかない。それだけを支えに、荒野の片隅で息を潜めて生きてきたはずだった。今、手の中にある包みの温もりは、その誓いがどれほど遠くまで来てしまったかを物語っていた。
ニッカは工具箱の蓋を閉じ、包みを大事そうに抱えたまま、焚き火の傍らへと腰を下ろした。パチパチと爆ぜる薪の音に混じって、レベッカとファルコの軽口が飛び交う。ドリオが差し出した紙コップの湯気が、夜気の中にゆっくりと溶けていった。
誰かと同じ火を囲む。それだけのことが、今の彼女にとっては、かけがえのないものになっていた。
空を見上げると、満天の星が、乾いた荒野の上に広がっていた。バートが生きていた頃と、何も変わらない星空だった。変わったのは、この場所を取り巻く人の数と、その温もりだけだった。ニッカは小さく息を吐き、火のそばでゆっくりと目を閉じた。明日もまた、同じように穏やかな一日が続くことを、今はただ願うだけだった。