サイバーパンク:ジャンク・アルケミー   作:たこ焼き 龍月

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第10.1話 本人不在のまま商談成立

 

 ナイトシティの夜景は、高層階から見下ろすと、まるで基盤の上を這う光の川のように見えた。

 

 窓一面のガラス越しに、その景色を眺める男がいた。仕立てのいい灰色のスーツを纏い、椅子の背に深く体を預けている。片側の頬に埋め込まれた三つの人工眼球が、室内の照明を受けて鈍く光っていた。ファラデーと呼ばれるその男は、机の上に広げられた報告書へ、ゆっくりと視線を落とした。

 

 報告書の内容は、簡潔だった。ミリテクの私設回収部隊、一個小隊。バッドランズの外れにある廃車置き場を襲撃し、そのまま消息を絶っている。生存者はなく、装備の残骸だけが、砂の上に転がっていたという。

 

「ふむ」

 

 短く漏らした声には、驚きよりも興味の色が滲んでいた。ファラデーは指先で報告書の縁をなぞりながら、続くページへと目を通していく。アラサカの密使が接触を試み、そして何の成果も得られないまま静かに退いたという一文に差しかかると、彼の口元がわずかに緩んだ。

 

「あの化け物じみた企業が、手ぶらで帰ったのかね」

 

 誰へともなく呟いた問いに、部屋の隅に控えていた部下の一人が短く答えた。

 

「はい。詳細は不明ですが、交渉の余地なしと判断したものと思われます」

 

「面白い」

 

 ファラデーは報告書を閉じ、椅子の上で軽く体を起こした。人工眼球の一つが、部下の方へ向けてゆっくりと焦点を合わせる。

 

「ミリテクの重装部隊を無傷で退け、あのアラサカの誘いすら一蹴した。そんな人材が、荒野の片隅に埋もれたままでいいはずがないだろう。諸君はどう思うかね」

 

「……仰る通りかと」

 

 部下の返事に満足したように頷くと、ファラデーは再び窓の外へ視線を戻した。眼下に広がる光の川を眺めながら、彼はしばらく黙り込んでいた。

 

  

 

 アラサカという組織のやり方を、ファラデーはよく知っていた。時間をかけ、対象の周辺を調べ尽くし、決して急がない。あの静かな周到さは、真似のできるものではなかった。だが、真似をする必要もない。周到さで負けるのなら、速さで勝てばいい。それが、彼のこれまでの流儀だった。

 

「アラサカの連中は、いつも同じだ。石橋を叩き、さらに叩き、それでも渡らずに引き返すことすらある。悠長なことだよ、まったく」

 

 机上の資料を指先で叩きながら、彼は薄く笑った。

 

「だが、悠長さというのは、時に致命的な隙になる。彼らが裏を取り終える頃には、こちらはとっくに契約書を交わし終えているだろうさ」

 

 部下は無言のまま、主の言葉に相槌を打った。逆らう理由も、逆らう度胸も、彼にはなかった。

 

  

 

 噂の出所を洗わせるための人員は、既に手配済みだった。バッドランズの交易所、荒野を渡り歩く行商人、そして裏社会の情報屋。金の匂いをちらつかせれば、口の軽くなる者はいくらでもいる。アラサカのように何週間もかけて裏を取る余裕は、ファラデーにはなかった。他の誰かが先に手を伸ばす前に、自分の名の下へ囲い込んでしまえばいい。

 

「潤沢な資金と、最新の実験設備を用意してやろう。荒野で燻っているよりも、よほど有意義な話のはずだ」

 

 独り言のように呟いた声には、既に交渉が成立したかのような余裕があった。ファラデーにとって、これはただの人材確保の話に過ぎなかった。腕のいい技術者を一人、自分の傘下に加える。それだけの、いつも通りの商談だった。

 

「対象の身辺、引き続き洗わせろ。ただし」

 

 言葉を切り、彼は人工眼球越しに部下を見据えた。

 

「時間をかけすぎるな。アラサカに先を越されるようなことがあれば、諸君の首も一緒に飛ぶと思え」

 

 冷ややかな一言に、部下は短く一礼して部屋を辞していった。

 

  

 

 ファラデーは再び椅子に深く沈み込み、机の上に置かれた別の資料へ手を伸ばした。バッドランズの一角に点在する交易所の地図と、これまでに集めた断片的な噂話の記録が、そこには並んでいた。

 

 どれも憶測の域を出ないものばかりだったが、共通する一点だけは揺るがなかった。廃品から軍用規格を超える性能を引き出す、名も知れぬメカニック。その存在だけは、もはや疑いようのない事実として、彼の中で像を結びつつあった。

 

「面白いおもちゃを見つけたものだ」

 

 人工眼球の奥に浮かんだ光が、獲物を見定める獣のそれに似ていた。彼にとって、荒野に潜む才能は、発掘して磨き上げるべき原石でしかなかった。原石が誰の手で磨かれるかなど、本人の意思とは無関係に決まるものだと、ファラデーは疑いもなく信じていた。

 

「才能というものは、それに見合う舞台の上で輝いてこそ意味がある。荒野の廃車置き場など、宝の持ち腐れというものだろう」

 

 誰に聞かせるでもない台詞を、彼は窓ガラスへ向けて呟いた。ガラスに映る自分の顔を、しばらく満足げに眺め続けていた。

 

 これまでも、同じようにして幾人もの技術者を自らの傘下へ招き入れてきた。断られた例など、記憶にある限り一つもない。条件を吊り上げ、逃げ場を塞ぎ、最後には相手の側から頭を下げさせる。それが、ファラデーという男の商才そのものだった。荒野で燻る一介のメカニックなど、これまで手掛けてきた案件の中でも、むしろ扱いやすい部類に入るはずだった。

 

「諸君」

 

 部屋の隅にまだ控えていた別の部下へ、彼は視線を移した。

 

「私が、これまでの交渉で失敗したことがあったかね」

 

「……存じ上げません」

 

「その通りだ。だから今回も、案じる必要はない」

 

 揺るぎない自信が、声の端々に滲んでいた。相手がどれほどの実力者であろうと、最終的には自分の傘の下へ収まる。その確信を疑ったことは、これまで一度もなかった。

 

  

 

 同じ頃、バッドランズのガレージには、久しぶりに穏やかな朝が訪れていた。

 

 トタン屋根の隙間から差し込む光が、格納庫の床に細い筋を描いている。作業台の上に散らばった工具を、ニッカは一つずつ丁寧に拭き上げていた。手を動かす理由は、特にない。ただ、こうして道具を整える時間が、彼女にとっては数少ない安らぎの一つだった。

 

 グロリアが訪れてから、数日が経っていた。あの日以来、ガレージを取り巻く空気には、以前より柔らかいものが混じっているように感じられた。ルーシーの発作という大きな山を越え、装着した装置のおかげで、彼女の顔色も見違えるほど落ち着きを取り戻している。

 

「ねえ、これ」

 

 作業台の陰から、ルーシーが端末を手にして近づいてきた。

 

「何」

 

「昨日の測定結果。神経系への負荷、ほとんどゼロに近い」

 

 差し出された画面を、ニッカは工具を置いて覗き込んだ。並んだ数値のグラフは、これまでのどの記録よりも安定していた。

 

「悪くない」

 

「悪くない、じゃなくて。あなたの作った物、化け物じみてる」

 

「褒めてるの、それ」

 

「褒めてる」

 

 素っ気ないやり取りの中に、確かな安堵が滲んでいた。ニッカは端末を返しながら、ルーシーの首筋に取り付けられた装置へ、もう一度視線を落とした。焼け焦げた電子レンジの部品と、壊れた古いラジオの残骸から組み上げたその装具は、今のところ完璧に役目を果たし続けている。

 

「頭痛は」

 

「もう、ない」

 

「ノイズも」

 

「静か。ずっと」

 

 短い答えの奥に、まだどこか信じきれないような響きがあった。長年纏わりついてきたはずのものが、あっさりと消え去った。その静けさに、ルーシー自身が一番戸惑っているのかもしれなかった。

 

  

 

 少し離れた場所で、キーウィが煙草をくわえたまま、二人のやり取りを静かに見守っていた。弟子の顔色が戻ってきたことに、彼女は誰よりも安堵しているはずだった。それでも、その表情には、まだ拭いきれない硬さが残っている。

 

「まだ、根を詰めてるのか」

 

「もう、無茶はしてない」

 

「無茶をしなくなっただけで、休んでるとは言ってない」

 

 鋭い指摘に、ルーシーは肩をすくめた。

 

「師匠は、心配性すぎる」

 

「心配性で、これまで何度あんたを拾ってきたと思ってる」

 

 軽口めいたやり取りの奥に、長年積み重ねてきた師弟の情が滲んでいた。ニッカはその様子を横目に見ながら、工具箱の蓋を静かに閉じた。

 

  

 

 格納庫の入り口で、レベッカが銃の手入れをしながら足を投げ出していた。

 

「なあニッカ、暇なら、あたしの銃もついでに見てくれよ」

 

「別に、悪いとこないでしょ」

 

「悪いとこがなくても、もっと良くできんだろ」

 

「欲張り」

 

「褒め言葉として受け取っておくぜ」

 

 ニヤリと笑うレベッカに、ニッカは小さく肩をすくめた。工具箱を引き寄せながら、差し出された銃を受け取る。手入れの行き届いた銃身は、これまでの戦闘の跡を微塵も感じさせないほど滑らかだった。

 

「デイビッドは」

 

「あっちで、ファルコと話し込んでる」

 

 レベッカが顎で示した先では、デイビッドがファルコと共に、地図を広げて何かを確認していた。

 

「南の岩場、まだ雨が来てないから、今のうちなら通れる」

 

 ファルコの言葉に、デイビッドは地図の上に指を這わせながら頷いた。

 

「ここを抜けたら、キャンプの裏手まで一本道か」

 

「ああ。何かあった時は、ここを使え」

 

「覚えとく」

 

 短いやり取りの奥に、以前にはなかった実務的な落ち着きが滲んでいた。荒事に巻き込まれるたび、ただ振り回されるだけだった頃の彼はもう、そこにはいない。

 

「逃げ道の、確認」

 

「さあな。あの二人、暇があるとすぐあれをやりたがる」

 

 呆れたような口調とは裏腹に、レベッカの声には安堵が滲んでいた。誰もが、それぞれのやり方で、この場所を守るための備えを積み重ねている。その事実が、彼女にとっても支えになっているようだった。

 

  

 

 昼前、水筒を抱えた少女が母親と共に顔を出した。

 

「ニッカ姉、今日のお水」

 

「ありがとう。助かる」

 

 包みを受け取りながら、ニッカは少女の頭を軽く撫でた。少女はしばらくその場に立ち尽くし、格納庫の奥で談笑するルーシーたちの方を、興味深そうに眺めていた。

 

「あのお姉ちゃん、元気になったね」

 

「そうだね」

 

「よかった」

 

 屈託のない一言に、ニッカは思わず目を細めた。誰の目にも分かるほど、この場所は確かに穏やかさを取り戻しつつあった。

 

 少女の母親が、少し離れた場所から丁寧に会釈をした。以前よりも表情の硬さが和らいでいるのを見て、ニッカは小さく頭を下げ返した。危険が迫ってから付き添うようになったこの母親の存在にも、いつの間にか慣れ始めている自分に気づく。

 

  

 

 午後になると、中央キャンプから年長の男と老女が連れ立って顔を出した。フェンスの補強箇所を確かめながら、二人はしばらくガレージの様子を見て回っていた。

 

「変わりはないか」

 

「今のところは」

 

 いつも通りの短いやり取りの後、老女がふと視線を巡らせた。

 

「あの青い髪の娘、顔色が良くなったね」

 

「……おかげさまで」

 

「それは何より」

 

 老女は満足げに頷くと、年長の男と共に、拠点移動の相談へと話を移していった。移住の是非は、まだ結論が出ていない。それでも、以前ほど切迫した空気は消えつつあった。ニッカはその会話を耳の端で聞きながら、工具箱の中身を静かに整理し続けた。

 

  

 

 その平穏の裏側で、荒野の交易所には、これまでとは違う種類の人間が姿を見せ始めていた。

 

 露店の並ぶ通りに、洗練された装備を纏った男が一人、悠然と歩いていた。継ぎ接ぎだらけの上着で溶け込もうとしていた先客とは違い、その男は自分の異質さを隠そうともしなかった。仕立てのいい上着に、荒野には不釣り合いなほど磨き上げられたブーツ。腰に提げた拳銃も、市場に出回るような代物ではなかった。

 

 男は近くの露店に立ち寄り、金の詰まった小袋を無造作に取り出した。

 

「バッドランズの外れに、腕利きのメカニックがいるらしいな。心当たりは」

 

 店主は袋の中身にちらりと目を走らせ、それから男の顔を見返した。

 

「……さあな。聞いたことねえよ」

 

「そう硬いことを言うなよ。この袋の中身、丸ごとくれてやってもいい」

 

 露骨な提示に、店主は一瞬だけ言葉に詰まった。だが、すぐに首を横に振った。

 

「金の問題じゃねえ。知らねえもんは、知らねえ」

 

 突き放すような返答にも、男は気を悪くした様子を見せなかった。むしろ楽しむような笑みを浮かべたまま、小袋をしまい直す。

 

「まあいい。いずれ誰かが、口を割る」

 

 そう言い残して、男は次の露店へと足を向けた。金で釣り上げるやり方に迷いはなく、断られたことへの動揺すらない。その態度は、以前この場所を訪れたという別の男の静かな観察眼とは、まるで違う質のものだった。

 

  

 

 別の一角では、若い女が男の羽振りの良さに目を丸くしていた。

 

「あの人、さっきから金をばら撒いて回ってるみたいだけど」

 

「ああ。噂のメカニックとやらを、探してるらしいぜ」

 

「フィクサーの手の者か何かかしら」

 

「知らねえよ。ただ、金の使い方が荒すぎる。ろくな連中じゃなさそうだ」

 

 声を潜めた会話が、通りの喧騒に紛れて消えていく。だが、その噂もまた、確実に広がりの種を蒔いていた。

 

  

 

 部品商の天幕でも、同じ男が同じ調子で聞き込みを続けていた。

 

「腕のいいメカニック、心当たりはないか」

 

「……あんた、前にも似たような手合いが来たがね。あんたとは、まるで違う雰囲気だったよ」

 

「ほう。どう違った」

 

「向こうは、もっと静かだった。あんたみたいに、金を見せびらかしたりはしなかったね」

 

 部品商の言葉に、男は一瞬だけ興味深げな表情を浮かべた。

 

「先を越されている、ということか」

 

「知らねえよ、そこまでは」

 

 素っ気なく突き放されても、男の余裕は崩れなかった。むしろ、その情報こそが欲しかったとでも言うように、彼は小さく頷いた。

 

「教えてくれて助かった。これは礼だ」

 

 小袋の中身を惜しげもなく置いていく男の背中を、部品商はしばらく訝しげに見送っていた。

 

  

 

 その頃、ナイトシティの薄暗いバーの片隅でも、似たような噂が交わされていた。

 

「聞いたか。バッドランズの化け物メカニックの話、また尾ひれがついてるらしいぜ」

 

 カウンター越しに、酔客の一人が誰にともなく漏らす。

 

「ミリテクの部隊を丸ごと沈黙させただけじゃなく、今度はアラサカの使者まで追い返したって話だろう。眉唾もいいところだ」

 

「いや、今度は羽振りのいい男が、金をばら撒いて噂の裏を取ろうとしてるらしい。フィクサーの仕業だって、もっぱらの評判だぜ」

 

「フィクサーねえ。あの女、そんなに簡単に釣れる玉かよ」

 

 笑い交じりの会話が、煙草の煙と共に薄暗い店内へ溶けていく。噂という形のないものが、また一つ、確かな輪郭を持ち始めていた。誰かがそれを面白がるたび、噂はさらに広がりを増していく。荒野の片隅で静かに暮らしたいだけの女に、今どれほどの視線が集まりつつあるのか、当人はまだその全貌を知らないままだった。

 

  

 

 夕刻、外周モニターの前に座っていたニッカは、画面の隅に映る見慣れない反応に目を留めた。

 

 これまでの静かな偵察とは、明らかに質が違っていた。丘の陰に身を潜めるでもなく、その車両は堂々と、開けた道の上を進んでいる。磨き上げられた車体が、傾きかけた西日を受けて鈍く光っていた。

 

「……何、あれ」

 

 呟きながら、ニッカは表示を拡大した。荒野を走るには不釣り合いなほど手入れの行き届いた車が、ガレージから離れた場所をゆっくりと通り過ぎていく。乗り手の姿までは判別できなかったが、その存在感だけは、隠す気配すらなかった。

 

 振動センサーにも、光学監視にも、はっきりとした反応が刻まれている。以前、丘の上に佇んでいた男の静けさとは、まるで違う気配だった。あの時は、息を潜めるようにこちらを窺っていた。だが今回は、まるで見られることを厭わないかのように、堂々とその存在を晒していた。

 

 車両は、しばらくガレージの方角を横目に眺めるように速度を落とし、それからまた何事もなかったように走り去っていった。土煙だけが、夕暮れの中に長く尾を引いて残った。

 

  

 

「今の、何だったんだ」

 

 異変に気づいたレベッカが、駆け寄ってきて画面を覗き込んだ。

 

「分からない。ただの通りすがりにしては」

 

「にしては」

 

「隠す気が、まるでなかった」

 

 短い答えに、レベッカの表情が僅かに強張った。

 

「今までの奴とは、違う手合いってことか」

 

「多分」

 

 ニッカは画面を睨みながら、車両が消えていった方角を見つめ続けた。丘の上で静かに見張っていたあの男とは、明らかに種類の異なる何かが、この荒野に足を踏み入れ始めている。その予感だけが、胸の奥に重く沈んでいった。

 

  

 

 異変を聞きつけ、キーウィが煙草をくわえたまま近づいてきた。画面に残された走行記録を一瞥すると、彼女の眉間に僅かな皺が寄った。

 

「派手なやり口だ」

 

「知ってる相手」

 

「いや。だが、こういう金の使い方をする連中に、心当たりがないわけじゃない」

 

 言葉を濁したキーウィの表情には、苦々しいものが浮かんでいた。

 

「アラサカのような静かな脅威とは、明らかに違う種類の気配だ。金さえ積めば何でも動くと信じている連中は、大抵、隠れる必要すら感じない」

 

「フィクサーの類、ってこと」

 

「おそらくな」

 

 吐き捨てるような口調に、ニッカは何も言い返せなかった。目に見える形で示された脅威よりも、隠れることすらしないという傲慢さの方が、かえって不気味に感じられた。

 

  

 

 工具の音を聞きつけたのか、メインとドリオも作業台の方へ歩み寄ってきた。事情を短く聞かされたメインは、腕を組んだまま低く唸った。

 

「金でどうにかなると思ってる連中は、大抵、断られた時の後始末を考えてねえ」

 

「厄介な、ってこと」

 

「厄介というより、面倒だな。理屈が通じねえ分、余計に手間がかかる」

 

 メインの言葉に、ドリオも静かに頷いた。

 

「アラサカは、少なくとも礼儀があった。今度の相手は、そうとは限らない」

 

 メインは腕組みを解き、格納庫の外周モニターへ視線を移した。

 

「静かに値踏みしてくる奴と、金でごり押ししてくる奴。厄介さの種類が、まるで違う」

 

「二つ同時に、ってことか」

 

「ああ。片方を退けたところで、もう片方が消えるわけじゃねえ」

 

 低く落とされた言葉に、ドリオの目つきが、ひときわ鋭さを増していく。

 

「これまでは、一つずつ来てくれた。それだけでも、まだましだったのかもしれないわね」

 

 誰の顔にも、安堵の色は残っていなかった。守るべきものが増えるほど、狙われる理由もまた増えていく。その理屈だけは、誰の目にも動かしようのない事実として横たわっていた。

 

 二人のやり取りを聞きながら、ニッカは胸の奥にわだかまる不安が、少しずつ輪郭を持ち始めるのを感じていた。

 

  

 

 巡回から戻った見張りの青年が、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきたのは、その直後だった。走行記録の映像を一目見るなり、彼の表情が険しくなった。

 

「これ、ずっと気づかなかったのか」

 

「今、気づいたばかり」

 

「……悪い。今日は俺が、外周の見回りに出てた時間だ」

 

 悔しさの滲む声に、ニッカは小さく首を振った。

 

「あんたのせいじゃない。誰が見ても、気づける距離じゃなかった」

 

「それでも、だ」

 

 青年は拳を握りしめたまま、しばらく黙り込んだ。

 

「今度は絶対に、一人で背負わせない。そう決めたはずなのに、また同じことを繰り返しちまう」

 

「大袈裟」

 

「大袈裟でいい。この前の負い目、まだ何一つ返せてねえんだ」

 

 真剣な声に、ニッカは何と答えていいか分からず、視線を逸らした。誰かにここまで案じてもらう感覚には、いつまで経っても慣れることができずにいた。

 

  

 

 夜が更けても、ニッカは制御盤の前から離れられずにいた。走行記録に残された車両の軌跡を、何度も繰り返し確認する。異常は、それ以上検出されなかった。それでも、胸の奥に沈んだ重石は、簡単には消えてくれなかった。

 

 アラサカの静かな視線には、ある種の理屈が通っていた。時間をかけ、対象を見極めてから動く。その周到さは、恐ろしくはあっても、まだ理解の範疇にあった。だが、今日見た車両の在り方には、そうした理屈が一切通用しないように思えた。金さえ積めば、隠れる必要もない。そんな傲慢さを体現するかのような走り方だった。

 

「……次は、何が来るの」

 

 誰にともなく呟いた声に、答える者はいなかった。ニッカは工具箱の蓋をそっと閉じ、天井を見上げた。トタン屋根の隙間から、乾いた夜風が微かに吹き込んでくる。

 

 バートの遺したこの場所を、ただ守りたいだけだった。その願いが、また新しい影によって脅かされようとしている。誓いを何度緩めても、守るべきものは減るどころか、増え続けている。その事実に、ニッカはもう驚かなくなっていた。ただ、次にやってくる相手の正体だけは、まだ何一つ分からないままだった。

 

 十八の夏、バートを喪ったあの日の誓いを、ニッカは忘れたことなど一度もなかった。ナイトシティとは関わらず、誰も深くは踏み込ませず、荒野の片隅でただ息を潜めて生きていく。その支えだけを頼りに、ここまでの歳月を積み重ねてきたはずだった。

 

 それなのに、今では守りたいと思う顔が、片手では数えきれないほど増えている。焚き火を囲む声、水筒を届けにくる小さな足音、工具の受け渡しに慣れてきた不器用な手つき。どれも、あの日の自分には想像もつかなかったものばかりだった。誓いを破り続けている自覚は、確かにあった。それでも、後悔だけはどうしても見つからなかった。

 

  

 

 傍らに残っていたルーシーが、静かに端末を閉じながら口を開いた。

 

「調べてみる。今日の車、ナンバーの記録くらいは残ってるはず」

 

「無理は、しないで」

 

「これくらいなら、平気」

 

 軽く応じるルーシーの声に、以前のような危うさは滲んでいなかった。それでも、ニッカの胸から不安が完全に消えることはなかった。

 

「無理はしない。約束する」

 

 念を押すような一言に、ルーシーは小さく笑った。

 

「あなたに言われると、説得力あるわね」

 

「私は、無理してない」

 

「してる。自覚がないだけ」

 

 軽口めいたやり取りに、張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。だが、根底に横たわる不安までは、簡単には拭いきれずにいた。

 

 少し離れた場所で、レベッカが銃を抱え直しながら、誰にともなく吐き捨てた。

 

「アラサカだのフィクサーだの、次から次へとうるせえな。あたしらの平和を邪魔する奴は、全員まとめて叩き潰してやりゃいいんだよ」

 

「そう簡単な話でもないでしょ」

 

「簡単じゃなくても、やることは変わんねえだろうが」

 

 迷いのない口調に、ニッカは思わず苦笑した。単純な理屈だったが、レベッカの言葉には確かな芯があった。この場所を守り抜くという意志だけが、まっすぐに込められていた。

 

  

 

 遠く離れたナイトシティの一室では、ファラデーが窓の外の光景を眺めながら、静かに次の指示を練り上げていた。

 

「そろそろ、正式な使者を送る頃合いだ」

 

 人工眼球の奥に浮かぶ光が、獲物を前にした獣のそれに似て、静かに輝いていた。荒野の片隅で守られている小さな平穏のことなど、彼の頭の片隅にすら存在していなかった。ただ、値の付く才能を、自分の手の内に収める。その一点だけが、彼の思考の全てを占めていた。

 

「断られることなど、考えていない。誰であろうと、私の提示する条件を蹴る者などいるはずがない」

 

 自信に満ちた呟きが、静かな室内に落ちて消えた。彼にとって、これから起きることは、既に結末の決まった商談に過ぎなかった。

 

 控えていた部下が、恐る恐る口を開いた。

 

「使者には、誰を」

 

「私自身が出向く必要もあるまい。口の立つ者を選べ。条件を伝え、契約書に判を押させる。それだけの、単純な仕事だ」

 

「畏まりました」

 

「ああ、それと」

 

 部下が部屋を出ようとしたところで、ファラデーは思い出したように付け加えた。

 

「手土産の一つも、忘れずに持たせてやれ。荒野の田舎者を口説くには、多少の見栄えも必要だろうからね」

 

 薄い笑みを浮かべたまま、彼は再び窓の外へ視線を戻した。荒野の片隅にいるという相手の顔も、名も、まだ彼は知らない。それでも、この商談が失敗に終わるという可能性は、彼の思考のどこにも存在していなかった。

 

 窓の外に広がる光の川は、今夜もいつも通りの無機質な輝きを放ち続けていた。その光の一つが、明日にはバッドランズの荒野へ向けて動き出すことになる。だが、その事実を知る者は、まだこの部屋の中にしかいなかった。

 

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