サイバーパンク:ジャンク・アルケミー   作:たこ焼き 龍月

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第10.2話 天才技術者を札束で勧誘してみたら、退屈だからと断られた

 

 朝の光が、トタン屋根の隙間から格納庫の床へ細く差し込んでいた。

 

 昨夜の走行記録は、まだ制御盤の画面に残されたままだった。ニッカはそれを何度も見返したが、新しい反応は何一つ表示されなかった。異常なしという結果さえ、今朝はどこか信じきれなかった。静けさそのものが、かえって落ち着かなかった。

 

 画面の隅で点滅する時刻表示だけが、いつも通りの速さで数字を刻んでいる。世界の側は何も変わっていないというのに、ニッカの体だけが、まだ昨日の緊張を引きずったままだった。

 

 いつもなら軽口の飛び交う朝のはずだった。だが今朝は、誰の口数も少なかった。工具の音だけが、格納庫の中に規則正しく響いている。その規則正しさが、かえって張り詰めた沈黙を際立たせていた。

 

  

 

「今日は、外周の見回りを二人組でやる」

 

 メインが低く告げると、見張りの青年が短く頷いた。俯いた横顔には、昨日の悔いがまだ色濃く残っていた。

 

「一人で回らせるようなことは、もうしない」

 

「……分かった」

 

 短いやり取りの中に、昨日の反省が滲んでいた。誰もそれ以上は言わなかった。

 

  

 

 ドリオが双眼鏡を手に、外周の丘へ視線を巡らせていた。レベッカは銃を手入れしながら、時折その様子を横目で確かめている。誰もが、いつもより一段警戒を高めた仕草で、朝の作業を進めていた。

 

「あの車、また来ると思うか」

 

「分からない。でも、隠れる気がない相手は、大抵また来る」

 

 ドリオの答えに、レベッカは銃身を布で拭う手を止めなかった。

 

「来るなら来い。今度は見逃さねえ」

 

 強気な口調とは裏腹に、その目には昨日にはなかった張り詰めた光があった。

 

  

 

 昼前、水筒を抱えた少女が母親と共に顔を出した。いつもより早足に近づいてくる母親の足取りに、ニッカは小さく違和感を覚えた。

 

「ニッカ姉、今日のお水」

 

「ありがとう。助かる」

 

 差し出された包みを受け取り、ニッカは少女の頭へそっと手を伸ばした。少女はその場にとどまったまま、いつもより張り詰めた大人たちの気配を、不思議そうに見上げていた。

 

「今日、みんな怖い顔してる」

 

「……ちょっと、忙しいだけ」

 

「そう」

 

 あっさりと納得した少女とは対照的に、母親の表情には隠しきれない硬さが浮かんでいた。

 

「昨日の車のこと、キャンプにも伝わっています。何かあれば、すぐに連絡をください」

 

「大丈夫。今のところは」

 

 短く答えるニッカに、母親は深く頭を下げると、娘の手を引いて足早に去っていった。遠ざかる背中を見つめるうち、胸の奥に沈んだ重さが、あらためて存在を主張し始めた。守るべきものが増えるたび、守り方もまた同じだけ増えていく。その理屈だけは、いつまで経っても慣れることがなかった。

 

  

 

 入れ替わるように、中央キャンプの年長の男と老女が姿を見せた。フェンスの補強箇所へ目をやりながら、二人はいつもより長く格納庫の周囲を見て回っていた。

 

「昨日の車のこと、聞いた」

 

「隠す気がない相手だった。それだけしか、まだ分からない」

 

 年長の男は腕を組み、遠くの丘へ視線をやった。

 

「拠点移動の話、そろそろ本腰を入れて考えねばならんかもしれん」

 

「まだ、決めなくていいと思う」

 

「決めるのは、こちらの仕事だ。あんたは、自分の身を守ることだけ考えてくれればいい」

 

 きっぱりとした一言に、ニッカは何も言い返せなかった。

 

  

 

 老女が、皺の刻まれた手でニッカの肩を軽く叩いた。日に焼けた指先には、長年の労働の跡が色濃く残っている。

 

「バートが生きてたら、今頃どんな顔をしてるだろうね」

 

「……分からない」

 

「あの人なら、きっとこう言ったよ。無理はするな、でも逃げるな、ってね」

 

 ぽつりと零された言葉に、ニッカの胸の奥が微かに軋んだ。十八の夏に立てた誓いが、また静かに頭をもたげる。ナイトシティには関わらない。誰にも深く踏み込ませない。そう誓ったはずの自分が、今では守るべき顔を、片手では数えきれないほど抱えている。

 

 二人が拠点移動の相談へと戻っていく。その背を見送ってから、ニッカは工具箱の蓋をそっと撫でた。誓いを破り続けている自覚は、確かにあった。それでも、後悔だけはどうしても見つからなかった。

 

  

 

 昼を過ぎた頃、外周センサーが低い電子音を鳴らした。

 

 制御盤の前に座っていたニッカは、反射的に画面へ視線を落とした。

 

「……来た」

 

 映し出されたのは、一台の車両だった。舗装のない荒野の道を、まるで舗装路であるかのように滑らかに走ってくる。速度を落とす気配も、道を外れて隠れる素振りもなかった。

 

「昨日の、あれか」

 

 駆け寄ってきたキーウィが、画面を覗き込んだ。

 

「同じ型かは分からない。でも、走り方は同じ」

 

 答えながら、ニッカは表示を拡大した。荒野には不釣り合いなほど磨き上げられた車体が、まっすぐガレージへ向かってくる。

 

  

 

「装甲は」

 

「薄い。武装らしい反応も、今のところない」

 

 キーウィの問いに、ニッカは数値を確かめながら答えた。振動センサーが拾う質量、光学センサーが示す形状。どれも、戦闘を目的とした車両の特徴とは合わなかった。

 

「それなら」

 

「交渉に来た、ってことだと思う」

 

 二人のやり取りに、外から駆け込んできたメインが加わった。

 

「一台だけか」

 

「今のところ」

 

「なら、迎えは俺たちでいい」

 

 落ち着いた声に、格納庫の空気がわずかに引き締まった。

 

  

 

 搬出口の前に、メインとドリオ、そしてキーウィが並んだ。少し離れた位置には、銃を構えたレベッカとファルコが控えている。デイビッドとルーシーは、格納庫の奥から様子を窺っていた。

 

 ニッカは工具箱の陰から、その様子を見守っていた。前に出るつもりはなかった。だが、相手が何を言うつもりなのか、耳だけは澄ませておきたかった。

 

「出ないのか」

 

 隣に来たルーシーが、抑えた声で尋ねた。

 

「様子見。向こうが何言うか、聞いてからでいい」

 

「用心深い」

 

「臆病なだけ」

 

 素っ気ない答えに、ルーシーは小さく口の端を上げた。

 

  

 

 車両が、ガレージの手前でゆっくりと停止した。運転席の扉が開き、一人の男が降り立つ。

 

 仕立てのいい黒のコートに、磨き上げられた革靴。手には、薄い革の書類鞄を提げていた。荒野の砂塵など、まるで意に介していないような足取りで、男はまっすぐガレージへ歩み寄ってきた。その歩みには、値踏みをとうに終えた者だけが持つ余裕があった。

 

「初めまして」

 

 男は鞄を持ち直しながら、軽く会釈をした。

 

「私はファラデー様の使いで参りました。少々、お時間をいただけますか」

 

 ファラデーという名前に、工具箱の陰に潜んでいたニッカの肩が、微かに強張った。

 

 前世の記憶が、それをただの初対面の名前として素通りさせてはくれなかった。ミリテクとアラサカ、双方に顔が利く仲介屋。金と契約書だけで人を動かし、望んだものは必ず手に入れる。腕のいい技術者を駒として扱い、断られること自体を想定していない男。断片的な記憶の寄せ集めでしかなかったが、それでも輪郭ははっきりしていた。

 

 アラサカのような静けさは、この男にはない。もっと性急で、もっと手が早い。

 

 喉の奥が、いつの間にか渇いていた。

 

 誰も、すぐには言葉を返さなかった。短い沈黙の後、メインが一歩前に出た。

 

「用件は」

 

「ご商談です。悪い話ではありません」

 

 男は柔らかく笑った。だが、その目の奥には、値踏みするような冷たさが揺らめいていた。

 

「こちらの噂は、ナイトシティにも届いております。ミリテクの実働部隊を退け、アラサカの使者すら追い返した。並の技術者では、到底なし得ないことです」

 

「それで」

 

「ファラデー様は、その技術に見合う舞台を用意したいと仰っています」

 

 男は鞄を開き、薄い端末を取り出した。画面には、洗練された施設の映像が映し出されていた。

 

  

 

「潤沢な資金。最新鋭の実験設備。そして、身の安全を保証する専属契約」

 

 男は端末の画面を、格納庫の入り口越しに掲げて見せた。整然と並んだ研究棟に、清潔な作業台。無数の部品棚が、映像の中でひっそりと輝いていた。

 

「荒野の廃車置き場で燻っているには、あまりにも惜しい才能です。私どもの下でなら、その腕は正当な評価と共に、しかるべき舞台で発揮されるはずです」

 

 流れるような口上に、レベッカが鼻を鳴らした。

 

「随分と、聞こえのいい話だな」

 

「事実を申し上げているだけです」

 

 男は表情を崩さないまま答えた。相手の敵意すら、想定の範囲内であるかのような余裕があった。

 

  

 

「専属の研究員を、十名ほど付けることも可能です」

 

 男は続けた。

 

「ご希望とあらば、二十名でも構いません。素材の調達に関しても、軍用規格を含めて優先的な供給を約束いたします」

 

「軍用規格の部品を、優先的に」

 

 ドリオが眉をひそめて呟くと、男は満足そうに頷いた。

 

「もちろんです。この方の腕があれば、廃品を漁る必要すらなくなるでしょう」

 

 男は端末を操作し、別の映像を映し出した。広々とした研究棟の中に、思いのままに使える工作機械が並んでいる。

 

「研究テーマも、完全に自由です。誰かに指図されることなく、思う存分、腕を振るっていただけます」

 

 自信に満ちた口調だった。これまで幾人もの技術者が、この条件だけで首を縦に振ってきたのだろうと、その語り口からは容易に想像がついた。レベッカは眉を寄せ、ドリオは腕を組んだまま黙り込んでいる。心を動かされた様子は、誰の顔にも見当たらなかった。

 

「羨ましい話じゃねえか」

 

 ファルコが、腕を組んだまま低く呟いた。だが、その声には、皮肉とも本音ともつかない響きが混じっていた。

 

  

 

 その様子を、格納庫の奥からニッカは黙って見つめていた。

 

 自由に使える設備、誰にも咎められない研究テーマ。言葉の並びだけを見れば、確かに魅力的に映るのかもしれない。だが、その自由の裏側には、必ず誰かの視線がある。見守るという名の管理、評価という名の圧力。前世の記憶の中にも、そうした環境に押しつぶされていった技術者の末路が、いくつも刻まれていた。締め切りに追われ、成果だけを求められ続けるうち、自分が本当は何を作りたかったのかさえ見失っていく。そんな結末を、前世の記憶の中で数え切れないほど見てきた。

 

 差し出された条件は、確かに悪くはなかった。潤沢な資金と、最新の設備。身の安全の保証と、望むだけの人員や部品。前世の記憶にある基準で照らせば、どれも文句のつけようのない待遇だった。それでも、心のどこにも揺らぐものはなかった。

 

 むしろ、聞けば聞くほど、億劫さだけが胸の奥に積み重なっていく。研究員という名の他人、優先供給という名の管理。どちらも、彼女が最も苦手とするものの言い換えに過ぎなかった。壁一枚隔てた向こうに、いつも誰かの目がある。その息苦しさだけは、前世でも今生でも変わらないらしかった。

 

  

 

「答えは」

 

 メインが振り返り、ニッカへ視線を向けた。

 

 工具箱の陰から、ニッカはゆっくりと歩み出た。全員の視線が、一斉に彼女へ集まる。男は、値踏みするような笑みを浮かべたまま、彼女を迎えた。

 

「あなたが、噂の」

 

「私が、答えていいの」

 

 問いには答えず、ニッカは短く確かめた。メインが小さく頷く。それを見届けてから、彼女は男へ向き直った。

 

  

 

「断る」

 

 短い一言だった。あまりに短すぎて、男は一瞬、聞き間違えたかのような顔をした。

 

「……失礼、今一度」

 

「断るって、言った」

 

「理由を、お聞かせ願えますか」

 

 男の声には、それでもまだ余裕が残っていた。ニッカは工具箱の縁に肘を置き、面倒くさそうに息を吐いた。

 

「理由も何も。まず、人と話すのがダルい」

 

「……は」

 

「あんたの会社に入ったら、毎日誰かと打ち合わせしなきゃいけないんでしょ。研究員が十人も付くなら、なおさら。それだけで、もう無理」

 

 あっけらかんとした答えに、男の口元が僅かに引きつった。

 

  

 

「それに」

 

 ニッカは、端末の画面へちらりと目をやった。映っていたのは、真新しい部品が整然と並ぶ実験室の映像だった。

 

「その設備、パーツが最初から全部揃いすぎてる」

 

「……それは、利点のはずですが」

 

「利点じゃない。工夫のしようがないってことでしょ」

 

 ニッカは腕を組み、画面を指差した。

 

「廃品を組み合わせて、足りないところを頭で補う。その過程が面白いの。最初から完璧な棚から部品を選ぶだけの作業なんて、退屈すぎて死ぬ」

 

  

 

 男は、しばらく言葉を失っていた。これまで幾人もの技術者を説得してきた経験の中で、条件そのものを「退屈」と一蹴されたことは、一度もなかったのかもしれない。

 

「……本気で、仰っていますか」

 

「本気じゃなかったら、何しに来たと思うの」

 

 あっさりとした返答に、男は表情を整え直した。営業用の笑みが、再びその顔に張り付いた。

 

「それでは、条件を見直しましょう。ご要望があれば、資金の額も、設備の内容も、研究員の人選も、すべて」

 

「要らない」

 

「……何と」

 

「要らないって、言った」

 

 ニッカは短く言い切り、工具箱の蓋を閉じた。

 

  

 

「あんたが何を積んでも、答えは変わらない。私はここで、廃車直して静かに暮らしたいだけ」

 

「その暮らしが、危険に晒され続けているとしても、ですか」

 

 男の声に、初めて僅かな刺があった。狙いを定めたような一言に、ニッカの胸の奥で何かが小さく跳ねる。

 

 視線を巡らせる。メインの横顔は、動かないままだった。ドリオも、レベッカも、誰一人として表情を変えていない。その揺るがなさが、私の背中をそっと支えてくれている気がした。

 

 ニッカは短く息を吐き、男へ向き直った。

 

「……危険なら、自分で何とかする」

 

 抑えた声で、ひと呼吸置いてから続ける。

 

「あんたのとこの部隊、来た時と同じ数だけ、そのまま砂に埋めることになると思うけど」

 

 静かな一言に、格納庫の空気が張り詰めた。

 

  

 

 レベッカが、抑えきれない笑いを漏らした。

 

「ギャハハ! 言ってやったな、ニッカ!」

 

「事実、言っただけ」

 

「それが一番怖ぇんだよ、あんたの場合」

 

 軽口を挟むレベッカの傍らで、ファルコは表情を変えないまま、男の様子を注意深く観察し続けていた。

 

  

 

 男は、しばらく無言だった。書類鞄を持ち直し、端末の画面をそっと消す。それでも、まだ引き下がる気配は見せなかった。

 

「では、少し角度を変えましょう。ご家族や、周囲の方々の安全は、いかがですか」

 

「……何が、言いたいの」

 

 ニッカの声が、僅かに低くなった。男は変わらぬ調子で続けた。

 

「アラサカが動き、ミリテクが動いた。この場所は、既に幾つもの大企業から注視されています。私どもの庇護下に入れば、そうした脅威からも遠ざかれるはずです」

 

  

 

「脅す気?」

 

「事実を申し上げているだけです」

 

 男の口調は、あくまで穏やかだった。だが、その穏やかさこそが、かえって不気味だった。ドリオが一歩前へ出た。

 

「その言い方、随分と親切のふりが上手ね」

 

「親切のつもりですよ、これでも」

 

「親切な人間は、断られてまで居座らない」

 

 冷ややかなドリオの一言に、男は初めて僅かに表情を崩した。だが、それもすぐに営業用の笑みへ塗り替えられていく。

 

  

 

「守りたいものがある、って言うなら」

 

 ニッカが、ぽつりと口を開いた。

 

「あんたのところに預けるより、自分の手元に置いておく方が、よっぽど安全だと思うけど」

 

「……それは、過信では」

 

「過信かどうかは、この前来た連中に聞いてみれば」

 

 短い答えに、男は何も返せなかった。ミリテクの重装部隊が、砂の上に装備の残骸だけを残して消えたという報告書の一文が、彼の脳裏をよぎったのかもしれない。

 

  

 

「……承知しました。今日のところは、これで失礼いたします」

 

「今日のところは?」

 

 キーウィが、煙草の煙を吐きながら短く問い返した。男は薄く笑った。

 

「ファラデー様は、断られることに慣れておられません。今回の返答を、そのままお伝えするだけです」

 

「それで、どうなる」

 

「私には、分かりかねます。ただ」

 

 男は言葉を切り、ガレージ全体をゆっくりと見回した。

 

「主人が、この程度で諦める方だとは思えません」

 

  

 

 静かな警告を残し、男は踵を返した。荒野には不釣り合いなほど手入れの行き届いた靴音が、砂を踏みしめる音に混じって遠ざかっていく。

 

 車両に乗り込む直前、男は一度だけ振り返った。

 

「悪い話ではなかったのですがね」

 

 誰にともなく呟いた一言を残し、彼は運転席に体を沈めた。エンジン音が静かに響き、車体はゆっくりと向きを変える。土煙を巻き上げながら、車は来た時と同じように、隠れる素振りもなくガレージから遠ざかっていった。

 

  

 

 誰もが、しばらくの間、その後ろ姿を見送ったまま動かなかった。

 

 最初に口を開いたのは、メインだった。

 

「随分と、あっさりしたやり取りだったな」

 

「あっさりって、こっちが断っただけでしょ」

 

「その断り方が、あっさりしすぎてる、って言いてえんだよ」

 

 メインの言葉に、ドリオも小さく頷いた。

 

「あなた、本当に迷いがなかったわね」

 

「迷う理由が、どこにもなかったから」

 

 あっけらかんとした答えに、ドリオは微かに苦笑した。

 

  

 

 キーウィが、煙草の灰を落としながら口を挟んだ。

 

「あの手合いは、断られ慣れていない。それが一番厄介だ」

 

「厄介?」

 

「金でどうにかなると信じてる人間は、断られた時の受け止め方を知らない。感情の処理を知らないまま、力に頼る」

 

 冷ややかな分析に、格納庫の空気が僅かに冷えた。

 

「以前にも、似たような相手を見たことがある」

 

「……師匠が?」

 

 ルーシーの問いに、キーウィは短く頷いた。

 

「詳しくは話さない。ただ、金の力しか信じない人間は、断られた瞬間に、それを侮辱だと受け取る。厄介なのは、そこからだ」

 

「経験談、ってこと」

 

「昔の話だ。今は、関係ない」

 

 短く突き放すような答えに、ルーシーはそれ以上尋ねなかった。師匠が語らないと決めた過去には、踏み込まない。それが、この二人の間に長年守られてきた距離だった。

 

  

 

「アラサカは、少なくとも礼儀があった」

 

 キーウィは、煙草の先を見つめながら続けた。

 

「時間をかけ、裏を取り、静かに引く。腹立たしいが、あそこには一定の理屈がある。だが、今度の相手には、それすら期待できない」

 

  

 

「つまり、次は」

 

 デイビッドが低く尋ねた。キーウィは短く答えた。

 

「今度と同じ、静かなやり取りで済むとは限らない」

 

「……手荒な真似をしてくる、ってことか」

 

「可能性は、高いだろうな」

 

 落ち着いた声の奥に、これまでとは違う緊張が滲んでいた。

 

  

 

 レベッカが、銃を肩に担ぎ直しながら口を挟んだ。

 

「上等じゃねえか。次は正面から来い。返り討ちにしてやるだけだ」

 

「そう単純な話とも、限らないでしょ」

 

「単純じゃなくても、やることは変わんねえよ」

 

 迷いのない口調に、ニッカは小さく息をついた。頼もしさと危うさが、いつも紙一重のところにあるように感じられた。

 

  

 

「今の男、名前も名乗らなかったな」

 

 ファルコが、ぽつりと呟いた。

 

「名乗る必要も、感じてなかったんでしょ」

 

「使い捨ての駒、ってことか」

 

「たぶん」

 

 短いやり取りの奥に、相手の組織の底知れなさが滲んでいた。名も告げずに現れ、断られれば黙って去っていく。その先に、どれほどの人数と資本が控えているのか、誰にも見当がつかなかった。

 

  

 

 ニッカは工具箱を抱え直し、格納庫の奥へ戻ろうとした。その背に、メインが低く声をかけた。

 

「本当に、良かったのか」

 

「何が」

 

「条件だけなら、悪くない話だっただろう」

 

「悪くない、けど。欲しくない」

 

 振り返らずに答えたニッカの声には、迷いのかけらもなかった。

 

「私が欲しいのは、静かなガレージと、ガラクタと、たまに顔を出す面倒な連中くらいのもの」

 

  

 

 その一言に、レベッカが噴き出した。

 

「面倒な連中って、あたしらのことか」

 

「そう」

 

「はっきり言うじゃねえか」

 

「事実でしょ」

 

 軽口の応酬に、張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。それでも、根底に沈んだ不安までは、誰の胸からも消えなかった。

 

  

 

 夕刻、ルーシーが端末を操作しながら、ぽつりと呟いた。

 

「あの車のナンバー、追ってみたけど、正規の登録じゃない」

 

「使い捨て、ってこと」

 

「たぶん。組織自体が、身元を辿らせない仕組みで動いてる」

 

 淡々とした報告に、キーウィが煙草を挟んだ指先で頷いた。

 

「フィクサーの手口としては、珍しくない。だが、これだけ堂々と姿を晒す相手は、そう多くない」

 

「隠す気がない、ってこと」

 

「隠す必要すら、感じていないんだろうな」

 

 冷えた声に、誰も反論しなかった。

 

  

 

 少し離れた場所で、ファルコとデイビッドが地図を広げていた。

 

「南の逃げ道、もう一段補強しておくか」

 

「ああ。今度の相手は、正面から来るとは限らねえ」

 

 二人の声には、かつてなかった切実さが滲んでいた。荒事に振り回されるだけだった頃とは違う、実務的な備えの積み重ねが、地道に続けられていた。地図を照らすランタンの明かりだけが、二人の手元をぼんやりと浮かび上がらせている。

 

「金で人を動かす連中は、正面から堂々と来るか、裏からこっそり忍び込むか、どっちかに極端だ」

 

 ファルコが、地図の上に指を這わせながら呟いた。

 

「どっちに転んでも、いいように備えておくしかねえな」

 

「ああ。両方、頭に入れておく」

 

 デイビッドは地図を折り畳みながら、短く答えた。以前なら、こうした備えの必要性すら思いつかなかったはずの自分が、今では当たり前のようにそれを口にしている。その変化に、彼自身がまだ慣れきれずにいた。

 

  

 

 夜、外周モニターの前で、ニッカは今日の一件を黙って反芻していた。断ることに、迷いはなかった。それは今も変わらない。

 

 だが、断った後に何が起きるかまでは、まだ何一つ見えていなかった。アラサカの静かな視線と、ファラデーの性急な圧力。二つの影が、同時にこの場所へ伸びかけている。片方を退けたところで、もう片方が消えてくれるわけではない。その単純な理屈だけが、モニターの光の中でいつまでも頭を離れなかった。

 

  

 

「――ニッカ」

 

 傍らに腰を下ろしたデイビッドが、ぽつりと声をかけてきた。

 

「怖くないのか、あんな連中相手に」

 

「怖い、けど」

 

「けど?」

 

「怖いのと、従うのは、別の話だから」

 

 短い答えに、デイビッドはしばらく黙り込んだ。それから、小さく息を吐いた。

 

「あんたのそういうところ、俺は嫌いじゃない」

 

「褒めてるつもり?」

 

「褒めてる」

 

 素っ気ないやり取りの奥に、確かな信頼が滲んでいた。

 

  

 

 少し離れた場所から、ドリオが二人の様子を黙って見守っていた。近づいてきた気配に、ニッカは視線だけを動かした。

 

「聞いてた?」

 

「少しだけ」

 

 悪びれる様子もなく答えたドリオは、隣に腰を下ろした。

 

「あなたが誰かを守るために動いてるところ、何度も見てきた。でも、あなた自身が守られる側に回ることも、たまには覚えていいのよ」

 

「……慣れてない、そういうの」

 

「慣れなくていい。ただ、覚えておいて」

 

 静かな声に、ニッカは何も言い返せなかった。焚き火の匂いが混じった夜風だけが、しばらく二人の間を通り過ぎていった。遠くで、見張りの誰かが小さく足場を踏み替える音がした。それだけの物音が、やけにはっきりと耳に届く夜だった。

 

  

 

 同じ頃、ナイトシティの一室でも、動きがあった。報告を受けたファラデーは、窓の外を眺めたまま黙り込んでいる。

 

「……断られた、と」

 

「はい。交渉の余地は、ないものと判断されます」

 

 部下の言葉に、ファラデーはしばらく答えなかった。人工眼球の奥に浮かぶ光が、静かに揺らめいている。

 

「面白い」

 

 ようやく漏れた声には、これまでと違う色が滲んでいた。興味と苛立ちが、混ざり合ったような響きだった。

 

  

 

「これまで、断られたことがなかった。そうだったな」

 

「はい」

 

「では、初めての例外を作った相手には、それに見合う扱いをしてやらねばなるまい」

 

 薄い笑みを浮かべながら、ファラデーは机上の資料を無造作に引き寄せた。

 

「言葉で動かせないなら、力で動かすまでだ。手駒を用意しろ。それも、確実な結果を出せる連中を」

 

「……交渉ではなく」

 

「交渉は、終わった。次は回収だ」

 

  

 

「候補は、既に何人か」

 

 部下が、恐る恐る口を開いた。

 

「アサシン級のサイバーウェアを揃えた、精鋭の一団がおります。腕は確かですが、報酬もそれなりに」

 

「金の心配はいらない。結果さえ持ち帰ればな」

 

 ファラデーは、椅子の背に深く体を預け直した。

 

「荒野の田舎者一人、対して何の苦労もいらんだろう。速やかに済ませろ」

 

「捕獲、でよろしいですか。それとも」

 

「捕獲だ。壊れた道具を欲しがる趣味はない」

 

 冷ややかな一言に、部下は短く頭を下げた。

 

「ただし」

 

 言葉を切り、ファラデーは人工眼球越しに部下を見据えた。

 

「守りが思いのほか固いようなら、その限りではない。手段を選ぶ必要は、もはやあるまい」

 

  

 

 部下が一礼して部屋を出ていく。静まり返った室内で、ファラデーは指先を組み、しばらく動かずにいた。壁際の照明だけが、規則正しい間隔で室内を薄く照らし続けている。

 

  

 

 冷ややかな指示が、静かな室内に落ちて消えた。窓の外に広がる光の川は、今夜もいつも通りの輝きを湛えていた。荒野の片隅で交わされたやり取りの重さなど、その光は何一つ映し出してはいなかった。

 

 人工眼球の奥に浮かんだ光が、獲物を見定める獣のそれに似ていた。断られたという事実そのものよりも、断られてなお揺るがなかったあの態度が、彼のプライドの奥深くを静かに焦がし続けていた。これまで幾人もの技術者を口説き、逃げ場を塞ぎ、最後には頭を下げさせてきた。その成功の記憶が多ければ多いほど、今日の失敗はかえって重く残った。

 

「私の申し出を、退屈だと」

 

 誰にともなく呟いた声には、今まで聞いたことのない硬さが滲んでいた。荒野の片隅で静かに暮らすことだけを望む一人の女がいる。その女へ、ナイトシティの闇がまた一つ、確かな輪郭を持って近づこうとしていた。

 

 窓の外では、光の川が今夜も変わらず流れ続けている。その光の中に紛れて、明日の夜には、新たな影が荒野へと放たれることになる。だが、そのことを知る者は、まだこの部屋の中にしかいなかった。荒野の乾いた風だけが、何も知らないまま、いつも通り夜の底を静かに吹き抜けていった。

 

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読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

CyberPunk: EDGE CASE(作者:エネーロ)(原作:Cyberpunk2077)

目が覚めたらそこは最悪の街だったーーー▼ふと気づくと2020年代のナイト・シティ。▼体は時代錯誤(2077)のクロームまみれ。能力はMOD基準。▼企業にバレたら実験動物よろしく解剖コース。▼生き残る道を探しながら、ジョニー達と関わっていくことになる奮闘劇。▼本作品は設定作成、本文一部にAIを利用しています。▼


総合評価:3421/評価:8.86/連載:28話/更新日時:2026年07月30日(木) 00:00 小説情報

Good Luck , Raccoon City 【第二部始動】(作者:持麻呂)(原作:バイオハザード)

とにかく自意識の消失という死を受け入れたくなかったVは、蜂の巣にされて死ぬかもしれないという矛盾を抱えながら、単身アラサカタワーに乗り込んだ。▼なんとか《神輿》に辿り着いたものの、ジャックインした瞬間に意識を失ってしまう。▼気付いた時には知らない街のゴミ捨て場にひっくり返っており、職質を受ける始末。▼一先ず死ぬ危機から逃れられたので、今はスローライフを楽しも…


総合評価:3303/評価:8.96/連載:32話/更新日時:2026年07月05日(日) 12:00 小説情報

チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~(作者:tinko1129)(オリジナル現代/冒険・バトル)

東京大学理科三類へ落ちた平尾龍は、自分を人間失格と判定し、首を吊ろうとした。▼その瞬間、あらゆる電脳と機械へ絶対命令を下す【電脳神の右手】を獲得する。▼善性なし。社会性なし。コミュ力なし。▼人が人であるための三要素の無い自分は人ではないし生きる価値等無い▼それでも今度こそ理三へ合格し、人間だと証明する。▼そして受験勉強のストレス解消として、正規品の善人共より…


総合評価:2504/評価:8.3/連載:25話/更新日時:2026年08月26日(水) 18:19 小説情報

アルカンフェル転生(作者:ぶーく・ぶくぶく)(原作:強殖装甲ガイバー)

※本作は作者が読みたい原作改変を自給自足する趣味作です。感想や考察はありがたく拝見しますが、展開は作者の予定と趣味を優先して進めます。▼気が付くとアルカンフェルに転生していた▼お仕置きビリビリは嫌だが、巨大小惑星の衝突は回避しないと地球丸ごと死ぬとか草。▼原作開始まで何万年?忘れない様に石板に覚えてる原作内容を書き込んでおこう。気が付いたら眠りの神殿に石板が…


総合評価:3749/評価:8.58/連載:140話/更新日時:2026年08月30日(日) 17:00 小説情報

我輩は寄生虫である(作者:ナスの森)(原作:バイオハザード)

名は「Ne-α」寄生体プロトタイプである。


総合評価:4310/評価:8.57/連載:9話/更新日時:2026年08月23日(日) 00:31 小説情報


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