朝の光が、トタン屋根の隙間から格納庫の床へ細く差し込んでいた。
昨夜の走行記録は、まだ制御盤の画面に残されたままだった。ニッカはそれを何度も見返したが、新しい反応は何一つ表示されなかった。異常なしという結果さえ、今朝はどこか信じきれなかった。静けさそのものが、かえって落ち着かなかった。
画面の隅で点滅する時刻表示だけが、いつも通りの速さで数字を刻んでいる。世界の側は何も変わっていないというのに、ニッカの体だけが、まだ昨日の緊張を引きずったままだった。
いつもなら軽口の飛び交う朝のはずだった。だが今朝は、誰の口数も少なかった。工具の音だけが、格納庫の中に規則正しく響いている。その規則正しさが、かえって張り詰めた沈黙を際立たせていた。
「今日は、外周の見回りを二人組でやる」
メインが低く告げると、見張りの青年が短く頷いた。俯いた横顔には、昨日の悔いがまだ色濃く残っていた。
「一人で回らせるようなことは、もうしない」
「……分かった」
短いやり取りの中に、昨日の反省が滲んでいた。誰もそれ以上は言わなかった。
ドリオが双眼鏡を手に、外周の丘へ視線を巡らせていた。レベッカは銃を手入れしながら、時折その様子を横目で確かめている。誰もが、いつもより一段警戒を高めた仕草で、朝の作業を進めていた。
「あの車、また来ると思うか」
「分からない。でも、隠れる気がない相手は、大抵また来る」
ドリオの答えに、レベッカは銃身を布で拭う手を止めなかった。
「来るなら来い。今度は見逃さねえ」
強気な口調とは裏腹に、その目には昨日にはなかった張り詰めた光があった。
昼前、水筒を抱えた少女が母親と共に顔を出した。いつもより早足に近づいてくる母親の足取りに、ニッカは小さく違和感を覚えた。
「ニッカ姉、今日のお水」
「ありがとう。助かる」
差し出された包みを受け取り、ニッカは少女の頭へそっと手を伸ばした。少女はその場にとどまったまま、いつもより張り詰めた大人たちの気配を、不思議そうに見上げていた。
「今日、みんな怖い顔してる」
「……ちょっと、忙しいだけ」
「そう」
あっさりと納得した少女とは対照的に、母親の表情には隠しきれない硬さが浮かんでいた。
「昨日の車のこと、キャンプにも伝わっています。何かあれば、すぐに連絡をください」
「大丈夫。今のところは」
短く答えるニッカに、母親は深く頭を下げると、娘の手を引いて足早に去っていった。遠ざかる背中を見つめるうち、胸の奥に沈んだ重さが、あらためて存在を主張し始めた。守るべきものが増えるたび、守り方もまた同じだけ増えていく。その理屈だけは、いつまで経っても慣れることがなかった。
入れ替わるように、中央キャンプの年長の男と老女が姿を見せた。フェンスの補強箇所へ目をやりながら、二人はいつもより長く格納庫の周囲を見て回っていた。
「昨日の車のこと、聞いた」
「隠す気がない相手だった。それだけしか、まだ分からない」
年長の男は腕を組み、遠くの丘へ視線をやった。
「拠点移動の話、そろそろ本腰を入れて考えねばならんかもしれん」
「まだ、決めなくていいと思う」
「決めるのは、こちらの仕事だ。あんたは、自分の身を守ることだけ考えてくれればいい」
きっぱりとした一言に、ニッカは何も言い返せなかった。
老女が、皺の刻まれた手でニッカの肩を軽く叩いた。日に焼けた指先には、長年の労働の跡が色濃く残っている。
「バートが生きてたら、今頃どんな顔をしてるだろうね」
「……分からない」
「あの人なら、きっとこう言ったよ。無理はするな、でも逃げるな、ってね」
ぽつりと零された言葉に、ニッカの胸の奥が微かに軋んだ。十八の夏に立てた誓いが、また静かに頭をもたげる。ナイトシティには関わらない。誰にも深く踏み込ませない。そう誓ったはずの自分が、今では守るべき顔を、片手では数えきれないほど抱えている。
二人が拠点移動の相談へと戻っていく。その背を見送ってから、ニッカは工具箱の蓋をそっと撫でた。誓いを破り続けている自覚は、確かにあった。それでも、後悔だけはどうしても見つからなかった。
昼を過ぎた頃、外周センサーが低い電子音を鳴らした。
制御盤の前に座っていたニッカは、反射的に画面へ視線を落とした。
「……来た」
映し出されたのは、一台の車両だった。舗装のない荒野の道を、まるで舗装路であるかのように滑らかに走ってくる。速度を落とす気配も、道を外れて隠れる素振りもなかった。
「昨日の、あれか」
駆け寄ってきたキーウィが、画面を覗き込んだ。
「同じ型かは分からない。でも、走り方は同じ」
答えながら、ニッカは表示を拡大した。荒野には不釣り合いなほど磨き上げられた車体が、まっすぐガレージへ向かってくる。
「装甲は」
「薄い。武装らしい反応も、今のところない」
キーウィの問いに、ニッカは数値を確かめながら答えた。振動センサーが拾う質量、光学センサーが示す形状。どれも、戦闘を目的とした車両の特徴とは合わなかった。
「それなら」
「交渉に来た、ってことだと思う」
二人のやり取りに、外から駆け込んできたメインが加わった。
「一台だけか」
「今のところ」
「なら、迎えは俺たちでいい」
落ち着いた声に、格納庫の空気がわずかに引き締まった。
搬出口の前に、メインとドリオ、そしてキーウィが並んだ。少し離れた位置には、銃を構えたレベッカとファルコが控えている。デイビッドとルーシーは、格納庫の奥から様子を窺っていた。
ニッカは工具箱の陰から、その様子を見守っていた。前に出るつもりはなかった。だが、相手が何を言うつもりなのか、耳だけは澄ませておきたかった。
「出ないのか」
隣に来たルーシーが、抑えた声で尋ねた。
「様子見。向こうが何言うか、聞いてからでいい」
「用心深い」
「臆病なだけ」
素っ気ない答えに、ルーシーは小さく口の端を上げた。
車両が、ガレージの手前でゆっくりと停止した。運転席の扉が開き、一人の男が降り立つ。
仕立てのいい黒のコートに、磨き上げられた革靴。手には、薄い革の書類鞄を提げていた。荒野の砂塵など、まるで意に介していないような足取りで、男はまっすぐガレージへ歩み寄ってきた。その歩みには、値踏みをとうに終えた者だけが持つ余裕があった。
「初めまして」
男は鞄を持ち直しながら、軽く会釈をした。
「私はファラデー様の使いで参りました。少々、お時間をいただけますか」
ファラデーという名前に、工具箱の陰に潜んでいたニッカの肩が、微かに強張った。
前世の記憶が、それをただの初対面の名前として素通りさせてはくれなかった。ミリテクとアラサカ、双方に顔が利く仲介屋。金と契約書だけで人を動かし、望んだものは必ず手に入れる。腕のいい技術者を駒として扱い、断られること自体を想定していない男。断片的な記憶の寄せ集めでしかなかったが、それでも輪郭ははっきりしていた。
アラサカのような静けさは、この男にはない。もっと性急で、もっと手が早い。
喉の奥が、いつの間にか渇いていた。
誰も、すぐには言葉を返さなかった。短い沈黙の後、メインが一歩前に出た。
「用件は」
「ご商談です。悪い話ではありません」
男は柔らかく笑った。だが、その目の奥には、値踏みするような冷たさが揺らめいていた。
「こちらの噂は、ナイトシティにも届いております。ミリテクの実働部隊を退け、アラサカの使者すら追い返した。並の技術者では、到底なし得ないことです」
「それで」
「ファラデー様は、その技術に見合う舞台を用意したいと仰っています」
男は鞄を開き、薄い端末を取り出した。画面には、洗練された施設の映像が映し出されていた。
「潤沢な資金。最新鋭の実験設備。そして、身の安全を保証する専属契約」
男は端末の画面を、格納庫の入り口越しに掲げて見せた。整然と並んだ研究棟に、清潔な作業台。無数の部品棚が、映像の中でひっそりと輝いていた。
「荒野の廃車置き場で燻っているには、あまりにも惜しい才能です。私どもの下でなら、その腕は正当な評価と共に、しかるべき舞台で発揮されるはずです」
流れるような口上に、レベッカが鼻を鳴らした。
「随分と、聞こえのいい話だな」
「事実を申し上げているだけです」
男は表情を崩さないまま答えた。相手の敵意すら、想定の範囲内であるかのような余裕があった。
「専属の研究員を、十名ほど付けることも可能です」
男は続けた。
「ご希望とあらば、二十名でも構いません。素材の調達に関しても、軍用規格を含めて優先的な供給を約束いたします」
「軍用規格の部品を、優先的に」
ドリオが眉をひそめて呟くと、男は満足そうに頷いた。
「もちろんです。この方の腕があれば、廃品を漁る必要すらなくなるでしょう」
男は端末を操作し、別の映像を映し出した。広々とした研究棟の中に、思いのままに使える工作機械が並んでいる。
「研究テーマも、完全に自由です。誰かに指図されることなく、思う存分、腕を振るっていただけます」
自信に満ちた口調だった。これまで幾人もの技術者が、この条件だけで首を縦に振ってきたのだろうと、その語り口からは容易に想像がついた。レベッカは眉を寄せ、ドリオは腕を組んだまま黙り込んでいる。心を動かされた様子は、誰の顔にも見当たらなかった。
「羨ましい話じゃねえか」
ファルコが、腕を組んだまま低く呟いた。だが、その声には、皮肉とも本音ともつかない響きが混じっていた。
その様子を、格納庫の奥からニッカは黙って見つめていた。
自由に使える設備、誰にも咎められない研究テーマ。言葉の並びだけを見れば、確かに魅力的に映るのかもしれない。だが、その自由の裏側には、必ず誰かの視線がある。見守るという名の管理、評価という名の圧力。前世の記憶の中にも、そうした環境に押しつぶされていった技術者の末路が、いくつも刻まれていた。締め切りに追われ、成果だけを求められ続けるうち、自分が本当は何を作りたかったのかさえ見失っていく。そんな結末を、前世の記憶の中で数え切れないほど見てきた。
差し出された条件は、確かに悪くはなかった。潤沢な資金と、最新の設備。身の安全の保証と、望むだけの人員や部品。前世の記憶にある基準で照らせば、どれも文句のつけようのない待遇だった。それでも、心のどこにも揺らぐものはなかった。
むしろ、聞けば聞くほど、億劫さだけが胸の奥に積み重なっていく。研究員という名の他人、優先供給という名の管理。どちらも、彼女が最も苦手とするものの言い換えに過ぎなかった。壁一枚隔てた向こうに、いつも誰かの目がある。その息苦しさだけは、前世でも今生でも変わらないらしかった。
「答えは」
メインが振り返り、ニッカへ視線を向けた。
工具箱の陰から、ニッカはゆっくりと歩み出た。全員の視線が、一斉に彼女へ集まる。男は、値踏みするような笑みを浮かべたまま、彼女を迎えた。
「あなたが、噂の」
「私が、答えていいの」
問いには答えず、ニッカは短く確かめた。メインが小さく頷く。それを見届けてから、彼女は男へ向き直った。
「断る」
短い一言だった。あまりに短すぎて、男は一瞬、聞き間違えたかのような顔をした。
「……失礼、今一度」
「断るって、言った」
「理由を、お聞かせ願えますか」
男の声には、それでもまだ余裕が残っていた。ニッカは工具箱の縁に肘を置き、面倒くさそうに息を吐いた。
「理由も何も。まず、人と話すのがダルい」
「……は」
「あんたの会社に入ったら、毎日誰かと打ち合わせしなきゃいけないんでしょ。研究員が十人も付くなら、なおさら。それだけで、もう無理」
あっけらかんとした答えに、男の口元が僅かに引きつった。
「それに」
ニッカは、端末の画面へちらりと目をやった。映っていたのは、真新しい部品が整然と並ぶ実験室の映像だった。
「その設備、パーツが最初から全部揃いすぎてる」
「……それは、利点のはずですが」
「利点じゃない。工夫のしようがないってことでしょ」
ニッカは腕を組み、画面を指差した。
「廃品を組み合わせて、足りないところを頭で補う。その過程が面白いの。最初から完璧な棚から部品を選ぶだけの作業なんて、退屈すぎて死ぬ」
男は、しばらく言葉を失っていた。これまで幾人もの技術者を説得してきた経験の中で、条件そのものを「退屈」と一蹴されたことは、一度もなかったのかもしれない。
「……本気で、仰っていますか」
「本気じゃなかったら、何しに来たと思うの」
あっさりとした返答に、男は表情を整え直した。営業用の笑みが、再びその顔に張り付いた。
「それでは、条件を見直しましょう。ご要望があれば、資金の額も、設備の内容も、研究員の人選も、すべて」
「要らない」
「……何と」
「要らないって、言った」
ニッカは短く言い切り、工具箱の蓋を閉じた。
「あんたが何を積んでも、答えは変わらない。私はここで、廃車直して静かに暮らしたいだけ」
「その暮らしが、危険に晒され続けているとしても、ですか」
男の声に、初めて僅かな刺があった。狙いを定めたような一言に、ニッカの胸の奥で何かが小さく跳ねる。
視線を巡らせる。メインの横顔は、動かないままだった。ドリオも、レベッカも、誰一人として表情を変えていない。その揺るがなさが、私の背中をそっと支えてくれている気がした。
ニッカは短く息を吐き、男へ向き直った。
「……危険なら、自分で何とかする」
抑えた声で、ひと呼吸置いてから続ける。
「あんたのとこの部隊、来た時と同じ数だけ、そのまま砂に埋めることになると思うけど」
静かな一言に、格納庫の空気が張り詰めた。
レベッカが、抑えきれない笑いを漏らした。
「ギャハハ! 言ってやったな、ニッカ!」
「事実、言っただけ」
「それが一番怖ぇんだよ、あんたの場合」
軽口を挟むレベッカの傍らで、ファルコは表情を変えないまま、男の様子を注意深く観察し続けていた。
男は、しばらく無言だった。書類鞄を持ち直し、端末の画面をそっと消す。それでも、まだ引き下がる気配は見せなかった。
「では、少し角度を変えましょう。ご家族や、周囲の方々の安全は、いかがですか」
「……何が、言いたいの」
ニッカの声が、僅かに低くなった。男は変わらぬ調子で続けた。
「アラサカが動き、ミリテクが動いた。この場所は、既に幾つもの大企業から注視されています。私どもの庇護下に入れば、そうした脅威からも遠ざかれるはずです」
「脅す気?」
「事実を申し上げているだけです」
男の口調は、あくまで穏やかだった。だが、その穏やかさこそが、かえって不気味だった。ドリオが一歩前へ出た。
「その言い方、随分と親切のふりが上手ね」
「親切のつもりですよ、これでも」
「親切な人間は、断られてまで居座らない」
冷ややかなドリオの一言に、男は初めて僅かに表情を崩した。だが、それもすぐに営業用の笑みへ塗り替えられていく。
「守りたいものがある、って言うなら」
ニッカが、ぽつりと口を開いた。
「あんたのところに預けるより、自分の手元に置いておく方が、よっぽど安全だと思うけど」
「……それは、過信では」
「過信かどうかは、この前来た連中に聞いてみれば」
短い答えに、男は何も返せなかった。ミリテクの重装部隊が、砂の上に装備の残骸だけを残して消えたという報告書の一文が、彼の脳裏をよぎったのかもしれない。
「……承知しました。今日のところは、これで失礼いたします」
「今日のところは?」
キーウィが、煙草の煙を吐きながら短く問い返した。男は薄く笑った。
「ファラデー様は、断られることに慣れておられません。今回の返答を、そのままお伝えするだけです」
「それで、どうなる」
「私には、分かりかねます。ただ」
男は言葉を切り、ガレージ全体をゆっくりと見回した。
「主人が、この程度で諦める方だとは思えません」
静かな警告を残し、男は踵を返した。荒野には不釣り合いなほど手入れの行き届いた靴音が、砂を踏みしめる音に混じって遠ざかっていく。
車両に乗り込む直前、男は一度だけ振り返った。
「悪い話ではなかったのですがね」
誰にともなく呟いた一言を残し、彼は運転席に体を沈めた。エンジン音が静かに響き、車体はゆっくりと向きを変える。土煙を巻き上げながら、車は来た時と同じように、隠れる素振りもなくガレージから遠ざかっていった。
誰もが、しばらくの間、その後ろ姿を見送ったまま動かなかった。
最初に口を開いたのは、メインだった。
「随分と、あっさりしたやり取りだったな」
「あっさりって、こっちが断っただけでしょ」
「その断り方が、あっさりしすぎてる、って言いてえんだよ」
メインの言葉に、ドリオも小さく頷いた。
「あなた、本当に迷いがなかったわね」
「迷う理由が、どこにもなかったから」
あっけらかんとした答えに、ドリオは微かに苦笑した。
キーウィが、煙草の灰を落としながら口を挟んだ。
「あの手合いは、断られ慣れていない。それが一番厄介だ」
「厄介?」
「金でどうにかなると信じてる人間は、断られた時の受け止め方を知らない。感情の処理を知らないまま、力に頼る」
冷ややかな分析に、格納庫の空気が僅かに冷えた。
「以前にも、似たような相手を見たことがある」
「……師匠が?」
ルーシーの問いに、キーウィは短く頷いた。
「詳しくは話さない。ただ、金の力しか信じない人間は、断られた瞬間に、それを侮辱だと受け取る。厄介なのは、そこからだ」
「経験談、ってこと」
「昔の話だ。今は、関係ない」
短く突き放すような答えに、ルーシーはそれ以上尋ねなかった。師匠が語らないと決めた過去には、踏み込まない。それが、この二人の間に長年守られてきた距離だった。
「アラサカは、少なくとも礼儀があった」
キーウィは、煙草の先を見つめながら続けた。
「時間をかけ、裏を取り、静かに引く。腹立たしいが、あそこには一定の理屈がある。だが、今度の相手には、それすら期待できない」
「つまり、次は」
デイビッドが低く尋ねた。キーウィは短く答えた。
「今度と同じ、静かなやり取りで済むとは限らない」
「……手荒な真似をしてくる、ってことか」
「可能性は、高いだろうな」
落ち着いた声の奥に、これまでとは違う緊張が滲んでいた。
レベッカが、銃を肩に担ぎ直しながら口を挟んだ。
「上等じゃねえか。次は正面から来い。返り討ちにしてやるだけだ」
「そう単純な話とも、限らないでしょ」
「単純じゃなくても、やることは変わんねえよ」
迷いのない口調に、ニッカは小さく息をついた。頼もしさと危うさが、いつも紙一重のところにあるように感じられた。
「今の男、名前も名乗らなかったな」
ファルコが、ぽつりと呟いた。
「名乗る必要も、感じてなかったんでしょ」
「使い捨ての駒、ってことか」
「たぶん」
短いやり取りの奥に、相手の組織の底知れなさが滲んでいた。名も告げずに現れ、断られれば黙って去っていく。その先に、どれほどの人数と資本が控えているのか、誰にも見当がつかなかった。
ニッカは工具箱を抱え直し、格納庫の奥へ戻ろうとした。その背に、メインが低く声をかけた。
「本当に、良かったのか」
「何が」
「条件だけなら、悪くない話だっただろう」
「悪くない、けど。欲しくない」
振り返らずに答えたニッカの声には、迷いのかけらもなかった。
「私が欲しいのは、静かなガレージと、ガラクタと、たまに顔を出す面倒な連中くらいのもの」
その一言に、レベッカが噴き出した。
「面倒な連中って、あたしらのことか」
「そう」
「はっきり言うじゃねえか」
「事実でしょ」
軽口の応酬に、張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。それでも、根底に沈んだ不安までは、誰の胸からも消えなかった。
夕刻、ルーシーが端末を操作しながら、ぽつりと呟いた。
「あの車のナンバー、追ってみたけど、正規の登録じゃない」
「使い捨て、ってこと」
「たぶん。組織自体が、身元を辿らせない仕組みで動いてる」
淡々とした報告に、キーウィが煙草を挟んだ指先で頷いた。
「フィクサーの手口としては、珍しくない。だが、これだけ堂々と姿を晒す相手は、そう多くない」
「隠す気がない、ってこと」
「隠す必要すら、感じていないんだろうな」
冷えた声に、誰も反論しなかった。
少し離れた場所で、ファルコとデイビッドが地図を広げていた。
「南の逃げ道、もう一段補強しておくか」
「ああ。今度の相手は、正面から来るとは限らねえ」
二人の声には、かつてなかった切実さが滲んでいた。荒事に振り回されるだけだった頃とは違う、実務的な備えの積み重ねが、地道に続けられていた。地図を照らすランタンの明かりだけが、二人の手元をぼんやりと浮かび上がらせている。
「金で人を動かす連中は、正面から堂々と来るか、裏からこっそり忍び込むか、どっちかに極端だ」
ファルコが、地図の上に指を這わせながら呟いた。
「どっちに転んでも、いいように備えておくしかねえな」
「ああ。両方、頭に入れておく」
デイビッドは地図を折り畳みながら、短く答えた。以前なら、こうした備えの必要性すら思いつかなかったはずの自分が、今では当たり前のようにそれを口にしている。その変化に、彼自身がまだ慣れきれずにいた。
夜、外周モニターの前で、ニッカは今日の一件を黙って反芻していた。断ることに、迷いはなかった。それは今も変わらない。
だが、断った後に何が起きるかまでは、まだ何一つ見えていなかった。アラサカの静かな視線と、ファラデーの性急な圧力。二つの影が、同時にこの場所へ伸びかけている。片方を退けたところで、もう片方が消えてくれるわけではない。その単純な理屈だけが、モニターの光の中でいつまでも頭を離れなかった。
「――ニッカ」
傍らに腰を下ろしたデイビッドが、ぽつりと声をかけてきた。
「怖くないのか、あんな連中相手に」
「怖い、けど」
「けど?」
「怖いのと、従うのは、別の話だから」
短い答えに、デイビッドはしばらく黙り込んだ。それから、小さく息を吐いた。
「あんたのそういうところ、俺は嫌いじゃない」
「褒めてるつもり?」
「褒めてる」
素っ気ないやり取りの奥に、確かな信頼が滲んでいた。
少し離れた場所から、ドリオが二人の様子を黙って見守っていた。近づいてきた気配に、ニッカは視線だけを動かした。
「聞いてた?」
「少しだけ」
悪びれる様子もなく答えたドリオは、隣に腰を下ろした。
「あなたが誰かを守るために動いてるところ、何度も見てきた。でも、あなた自身が守られる側に回ることも、たまには覚えていいのよ」
「……慣れてない、そういうの」
「慣れなくていい。ただ、覚えておいて」
静かな声に、ニッカは何も言い返せなかった。焚き火の匂いが混じった夜風だけが、しばらく二人の間を通り過ぎていった。遠くで、見張りの誰かが小さく足場を踏み替える音がした。それだけの物音が、やけにはっきりと耳に届く夜だった。
同じ頃、ナイトシティの一室でも、動きがあった。報告を受けたファラデーは、窓の外を眺めたまま黙り込んでいる。
「……断られた、と」
「はい。交渉の余地は、ないものと判断されます」
部下の言葉に、ファラデーはしばらく答えなかった。人工眼球の奥に浮かぶ光が、静かに揺らめいている。
「面白い」
ようやく漏れた声には、これまでと違う色が滲んでいた。興味と苛立ちが、混ざり合ったような響きだった。
「これまで、断られたことがなかった。そうだったな」
「はい」
「では、初めての例外を作った相手には、それに見合う扱いをしてやらねばなるまい」
薄い笑みを浮かべながら、ファラデーは机上の資料を無造作に引き寄せた。
「言葉で動かせないなら、力で動かすまでだ。手駒を用意しろ。それも、確実な結果を出せる連中を」
「……交渉ではなく」
「交渉は、終わった。次は回収だ」
「候補は、既に何人か」
部下が、恐る恐る口を開いた。
「アサシン級のサイバーウェアを揃えた、精鋭の一団がおります。腕は確かですが、報酬もそれなりに」
「金の心配はいらない。結果さえ持ち帰ればな」
ファラデーは、椅子の背に深く体を預け直した。
「荒野の田舎者一人、対して何の苦労もいらんだろう。速やかに済ませろ」
「捕獲、でよろしいですか。それとも」
「捕獲だ。壊れた道具を欲しがる趣味はない」
冷ややかな一言に、部下は短く頭を下げた。
「ただし」
言葉を切り、ファラデーは人工眼球越しに部下を見据えた。
「守りが思いのほか固いようなら、その限りではない。手段を選ぶ必要は、もはやあるまい」
部下が一礼して部屋を出ていく。静まり返った室内で、ファラデーは指先を組み、しばらく動かずにいた。壁際の照明だけが、規則正しい間隔で室内を薄く照らし続けている。
冷ややかな指示が、静かな室内に落ちて消えた。窓の外に広がる光の川は、今夜もいつも通りの輝きを湛えていた。荒野の片隅で交わされたやり取りの重さなど、その光は何一つ映し出してはいなかった。
人工眼球の奥に浮かんだ光が、獲物を見定める獣のそれに似ていた。断られたという事実そのものよりも、断られてなお揺るがなかったあの態度が、彼のプライドの奥深くを静かに焦がし続けていた。これまで幾人もの技術者を口説き、逃げ場を塞ぎ、最後には頭を下げさせてきた。その成功の記憶が多ければ多いほど、今日の失敗はかえって重く残った。
「私の申し出を、退屈だと」
誰にともなく呟いた声には、今まで聞いたことのない硬さが滲んでいた。荒野の片隅で静かに暮らすことだけを望む一人の女がいる。その女へ、ナイトシティの闇がまた一つ、確かな輪郭を持って近づこうとしていた。
窓の外では、光の川が今夜も変わらず流れ続けている。その光の中に紛れて、明日の夜には、新たな影が荒野へと放たれることになる。だが、そのことを知る者は、まだこの部屋の中にしかいなかった。荒野の乾いた風だけが、何も知らないまま、いつも通り夜の底を静かに吹き抜けていった。