サイバーパンク:ジャンク・アルケミー   作:たこ焼き 龍月

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第10.3話 値の付く刺客、値の付かないコンデンサ

 

 ファラデーの執務室に、断りの一報だけを携えて使者が戻ってきたのは、日付が変わる少し前のことだった。多くを語らせる必要はなかった。求めていたのは言い訳ではなく、次の一手を選ぶための材料だけだった。

 

「周囲には、荒事に慣れた者が複数」

 

 控えめに付け加えられた一言に、ファラデーは指先で頬の人工眼球の縁をなぞった。数で押す真似は、既に一度懲りている。

 

「必要なのは、数ではなく質だ」

 

 低く落とされた指示は、これまでのどの命令よりも簡潔だった。

 

「気配を断ち、音もなく忍び寄れる者だけを選べ。荒事に慣れた護衛連中が束になっていようと、気づいた時にはもう遅い。そういう腕を持つ者だけを、確実に」

 

「畏まりました」

 

「対象は、傷つけるな。それ以外は、好きにしていい」

 

 付け加えられた一言を最後に、部下は一礼して部屋を出ていった。

 

  

 

 残されたファラデーは、窓の外へ視線を戻した。夜景の光は、いつも通り無機質に輝き続けている。だが、その内側には、これまで感じたことのない苛立ちが、静かにわだかまっていた。

 

「……荒野の田舎者ごときが」

 

 誰にも届かない呟きが、静かな室内に落ちて消えた。彼にとって、この一件は既に商談の域を超えていた。値の付く才能を手に入れる話ではなく、潰されたメンツを取り戻すための、意地の張り合いに変わりつつあった。

 

  

 

 その夜のうちに、選び抜かれた一隊が、荒野へ向けて音もなく発っていった。彼らの装備には、これまで送り込んできたどの部隊とも違う静けさが宿っていた。装甲を厚くする代わりに、気配を薄くする。力で押し通す代わりに、影に紛れて近づく。ファラデーの苛立ちがそのまま形になったような一団だった。

 

  

 

 同じ頃、バッドランズのガレージには、変わらぬ午後の光が差し込んでいた。

 

 トタン屋根の隙間から漏れる陽光が、格納庫の床に細い筋を描いている。作業台の上で、ニッカは廃品から抜き取った基板を選り分けていた。密使が訪れてから、既に数日が経っている。あの日の後味の悪さは、まだ胸の奥にわずかに残っていた。それでも、作業の手を止めれば、余計な考えばかりが頭を占める。だから今日も、ニッカはただ手を動かし続けていた。

 

「あんな話、二度と持ってこないでほしい」

 

 誰にともなく漏らした呟きに、傍らでレベッカが銃の手入れをしながら鼻を鳴らした。

 

「金と設備をちらつかせりゃ、簡単に転ぶとでも思われたんだろ。舐められたもんだな」

 

「別に、いい」

 

「よくねえよ。あたしのダチを、そんな軽い扱いされて黙ってられっか」

 

 乱暴な言葉の奥に、確かな怒りが滲んでいた。ニッカは工具を握る手を止めず、小さく肩をすくめた。

 

「もう、断った。それで終わり」

 

「終わりだといいけどな」

 

 レベッカの声には、素直に頷ききれない何かが残っていた。

 

  

 

 少し離れた場所では、デイビッドとファルコが並んで座り込み、黙々と武器の手入れをしていた。

 

「弾、足りてるか」

 

「今のところは。予備も含めれば、しばらく保つ」

 

 実務的なやり取りが、静かに交わされている。荒事に巻き込まれるたび、ただ振り回されるだけだった頃とは、明らかに違う落ち着きが、そこにはあった。

 

「あんな密使、また来るかな」

 

 デイビッドが呟くと、ファルコは手を止めずに答えた。

 

「金でどうにかなると思ってる連中は、断られた後の始末を考えねえ。二の矢が来ないとは、思わねえ方がいい」

 

 短い答えに、デイビッドは口をつぐんだ。手にした部品を握る指先に、僅かな力がこもった。

 

  

 

 格納庫の奥では、キーウィが煙草を挟んだまま、ルーシーの端末を覗き込んでいた。

 

「あの密使、素性は」

 

「掴めない。使い捨ての名前しか、記録に残ってない」

 

 ルーシーが端末を操作しながら答えると、キーウィは短く息を吐いた。

 

「フィクサーの手の者は、大抵そういう作りになってる。切られても、後を辿らせないように」

 

「本体は、まだ姿を見せてない、ってこと」

 

「かもな」

 

 淡々としたやり取りの奥に、隠しきれない警戒が滲んでいた。ニッカはその会話を耳の端で拾いながら、工具箱の中身を静かに整理し続けた。

 

  

 

 夕刻、水筒を提げた少女が、母親に手を引かれて姿を見せた。

 

「ニッカ姉、今日の分」

 

 差し出された包みを受け取り、ニッカは少女の髪をくしゃりと撫でた。少女はその場にしばらく留まり、格納庫の奥で笑い合うレベッカたちの様子を、興味津々に窺っていた。

 

「今日も、みんないるね」

 

「そうだね」

 

「安心する」

 

 屈託のない一言に、ニッカは思わず目を細めた。少女の母親が、少し離れた場所から丁寧に会釈をする。ニッカは小さく頭を下げ返した。この穏やかさが、いつまで続くのか。確かなことは、何一つ分からないままだった。

 

  

 

 日が沈み、格納庫の照明が灯る頃になっても、外周モニターの数値は平常のままだった。振動反応なし。光学センサーにも、通信帯域にも、目立った異常は見当たらない。

 

 ニッカは工具箱の蓋を閉じ、椅子の背にもたれた。密使が去ってからというもの、何かが起きる予感だけが、胸の底に薄く沈み続けている。それが杞憂であってほしいと、彼女は密かに願っていた。

 

  

 

 夜が更け、見張りの交代の時間が近づいた頃、外周センサーの一つが、極めて微弱な反応を拾い上げた。

 

 制御盤の前に座っていたニッカは、画面の隅に浮かんだ数値の揺らぎに目を留めた。これまでのどの偵察とも、質が違っていた。振動もない。熱源反応も、ほとんど検出できないほど薄い。ただ、ごく僅かな空気の乱れだけが、数値の端にちらついている。

 

 格納庫の中は、しんと静まり返っていた。工具の触れ合う音さえ、今は聞こえない。

 

「……何、これ」

 

 呟きながら、ニッカは表示を拡大した。何かがいる。だが、その何かの輪郭を、センサーはまるで捉えきれずにいた。

 

  

 

「キーウィ」

 

 声を上げると、煙草をくわえたキーウィがすぐに駆けつけてきた。画面を一瞥した彼女の表情が、みるみる険しくなっていく。

 

「……薄い」

 

「薄いって?」

 

「反応が、薄すぎる。まるで、初めから見つかることを想定してないみたいだ」

 

 低く漏らされた言葉に、ニッカの背筋が冷えた。これまでの相手は、多かれ少なかれ、見つかることを前提に動いていた。堂々と姿を晒す者も、丘の陰から窺う者も、いずれ気づかれることを織り込んでいたはずだった。だが今回は、その前提そのものが崩れている。

 

  

 

「ルーシー、通信は」

 

 駆け込んできたルーシーが、端末を素早く操作した。

 

「……何も、拾えない。信号自体が、ほとんど出てない」

 

「無音、ってこと?」

 

「近いと思う。光学迷彩か、それに近い技術を使ってる可能性がある」

 

 淡々とした報告に、格納庫の空気が一気に張り詰めた。姿を消し、音を消し、痕跡さえ残さずに近づいてくる何か。それがどれほどの脅威なのか、この場の誰もが即座に理解していた。

 

  

 

「距離は」

 

 メインの低い声が響く。振り返ると、ドリオを伴って彼が駆け寄ってくるところだった。

 

「近い。多分、もう外周のすぐ外」

 

 ニッカが答えると、メインの表情が一段と険しくなった。

 

「数は」

 

「分からない。反応が弱すぎて、一つなのか複数なのか、判別できない」

 

 画面を睨みながら、ニッカは奥歯を強く噛みしめた。前世の記憶が、目の前の状況に対して淡々と警告を発している。相手は、これまでのどの敵よりも、周到に牙を隠していた。

 

  

 

「迎撃タレットは」

 

 ファルコの問いに、ニッカは即座に首を振った。

 

「使えない。狙いを定められる相手じゃない」

 

「じゃあ、どうする」

 

 問いかけに、答える言葉をニッカはすぐには見つけられなかった。目に見える形を持たない脅威に対して、これまで積み上げてきた防衛の仕組みが、ほとんど意味を成さなくなっている。

 

  

 

「照明を絞れ」

 

 キーウィが低く指示を出した。

 

「向こうが闇に紛れてくるつもりなら、こっちも同じ土俵に立つ。無駄な光は、逆に的にされるだけだ」

 

 短い判断に、格納庫の照明が次々と落とされていく。橙色の薄明かりだけが、床の一部を照らし続けていた。

 

  

 

 ドリオが、いつの間にかニッカの傍らに立っていた。得物を構えたまま、視線だけを巡らせている。

 

「下がってて、とは言わない」

 

「言われても、下がらない」

 

「知ってる。だから、傍にいる」

 

 短いやり取りに、それ以上の言葉はいらなかった。

 

 キーウィが、ルーシーの肩を軽く押し、格納庫の奥へと下がらせた。

 

「あんたは、下がってろ」

 

「でも」

 

「今は、目より先に、無事でいてくれる方が要る」

 

 短い言葉に、ルーシーは唇を噛みながらも、素直に後ろへ下がった。

 

  

 

 ニッカは制御盤の前で拳を握りしめたまま、画面の端に映る揺らぎを見つめ続けた。反応は、少しずつ、しかし確実に近づいている。

 

「デイビッド」

 

 メインが低く呼びかけると、装備を確かめていたデイビッドが振り返った。

 

「サンデヴィスタン、いつでも動かせるな」

 

「ああ」

 

「頼む。だが、無茶はするな。相手の質が分からねえうちは、慎重に行け」

 

 短いやり取りの後、デイビッドは頷き、荷台から予備の装備を引き寄せた。

 

  

 

「レベッカ」

 

「もう構えてる」

 

 銃を抱えたまま、レベッカが短く答えた。その声には、いつもの威勢の良さとは違う、静かな緊張が滲んでいた。

 

「見えねえ敵、大っ嫌いなんだよ」

 

 吐き捨てるように呟きながらも、彼女の視線は微動だにせず、格納庫の入り口へ据えられていた。

 

 少し離れた位置で得物を構えたファルコが、静かに息を整えていた。

 

「慌てるな。見えねえもんほど、焦った方が負ける」

 

 抑えた声に、レベッカが小さく舌打ちを返す。

 

「分かってるよ、そんくらい」

 

 軽口とも言えないやり取りが、張り詰めた空気の中を短く通り過ぎていった。

 

  

 

 その時、外周センサーの一つが、突然沈黙した。

 

「……切れた」

 

 ニッカの声が、掠れた。振動反応、熱源反応、光学監視、すべての表示が一斉に途絶えている。まるで、そのセンサーだけが物理的に潰されたかのようだった。

 

「侵入された」

 

 短く告げたキーウィの声に、格納庫の空気が凍りついた。

 

  

 

 次の瞬間、格納庫の裏手から、鈍い金属音が響いた。振り返る間もなく、影が一つ、闇の中から滑り込んでくる。

 

 人の輪郭をした何かが、音もなく床を蹴った。

 

  

 

「――散れ!」

 

 メインの怒声が響き渡る。

 

 誰もが反射的に身を伏せた。その頭上を、鋭い刃を思わせる何かが、風を切って通り過ぎていった。壁に突き刺さったそれは、薄闇の中でも異様な光沢を放っている。

 

  

 

「……何だ、今の」

 

 ファルコが低く呻いた。壁に刺さった刃を一瞥し、彼の表情がさらに険しくなる。

 

「投擲武器、それも精密な狙いだ。ただのごろつきじゃねえ」

 

 ニッカは工具箱を抱え込んだまま、格納庫の隅へ後退った。心臓が、耳の奥で大きく鳴っている。目に映る影は一つだけではなかった。二つ、三つ、闇の中で微かに揺らめきながら、じりじりと距離を詰めてきている。

 

  

 

「囲まれてる」

 

 誰かが漏らした一言が、暗闇に落ちた。

 

 レベッカの銃口が閃いた。轟音が格納庫に響き渡り、影の一つが弾かれたように後退する。だが、その動きはあまりに速く、命中したのかどうかさえ判然としなかった。

 

「効いてんのか、これ」

 

 舌打ちしながら、レベッカは次弾を装填した。

 

  

 

 メインが拳を構え、最も近い影へ突進する。太い腕が振るわれる寸前、影は音もなく身を沈めた。空を切った拳の先を、何かが掠める。皮膚を裂く感触に、メインは短く息を詰めた。

 

「……速え」

 

 低く呟いた声に、初めて焦りの色が滲んだ。これまで相手にしてきたどの敵とも、質が違う。力任せの突破が通じる相手ではなかった。

 

  

 

 ドリオが素早く得物を構え、影の一つと切り結んだ。金属同士がぶつかる甲高い音が、闇に反響する。

 

「本職だ、こいつら」

 

 息を切らしながら、ドリオが叫んだ。

 

「一人ずつが、下手な軍隊より厄介」

 

  

 

 ニッカは工具箱の陰に身を潜めながら、目まぐるしく思考を巡らせていた。前世の記憶が、目の前の光景に対して淡々とした分析を差し出してくる。統率された部隊ではなく、個々に完結した殺意の塊。数を頼みにする戦い方とは、根本から異なる相手だった。

 

 こんな相手に、正面から立ち向かえる道具は、この格納庫のどこにもない。

 

  

 

 視線を巡らせた先に、作業台に無造作に置かれたハンダゴテと、廃品から取り外したばかりの超高圧コンデンサが目に入った。

 

 息を呑む間もなく、前世の記憶が、そこに眠る可能性を一気に解き明かしていく。放電容量、絶縁の限界、そして電子制御に依存する現代のサイバーウェアが、その手の衝撃に対してどれほど脆いか。

 

「……これなら」

 

 掠れた呟きが、口をついて出た。

 

  

 

「ニッカ、伏せてろ!」

 

 メインの怒声が飛んだ。だが、ニッカは動かなかった。震える指先で、ハンダゴテのコードをコンデンサの端子へと繋いでいく。前世の記憶が示す手順に、迷いはなかった。ただ、指先の震えだけが、どうしても止まらなかった。

 

  

 

 隙を突くように、影の一つが動いた。かすかな衣擦れの音とともに、切っ先がニッカの背へ向けて放たれる。

 

 風景が、ふいに粘度を持って遅くなった。

 

 視界の端で色を失った世界の中、デイビッドの体だけが正常な速さで動いていた。踏み込んだ足が床を蹴り、伸ばした腕が刃の軌道を強引に逸らす。金属同士が擦れる硬い音が、薄闇の中で短く弾けた。

 

「……危ねえところだった」

 

 息を吐きながら、デイビッドは逸らした刃を睨みつけた。サンデヴィスタンの余韻に、視界の端がまだ淡く滲んでいる。

 

「よそ見、すんな」

 

 短く告げられた声に、ニッカは顔を上げる余裕もないまま、小さく頷き返した。指先はまだ、コンデンサの端子から離れていない。

 

  

 

 配線を終えると、ニッカは金属製の工具棚を素早く引き倒した。棚が床に落ちる轟音に、影の一つが反応して振り向く。その一瞬の隙を、彼女は見逃さなかった。

 

「――こっち!」

 

 叫びながら、コンデンサの放電スイッチを叩き込む。

 

  

 

 光が、弾けた。

 

 轟音ではなかった。低く籠もった破裂音だけが、闇の中に響いた。だが、その一瞬の閃光を境に、影たちの動きが一斉に乱れた。

 

  

 

 最も近くにいた影が、痙攣するように体を仰け反らせる。皮膚の下に埋め込まれた回路が、過剰な電流に耐えきれず、悲鳴のような火花を散らした。

 

「……ぐっ」

 

 喉の奥から絞り出された呻き声とともに、影はその場に崩れ落ちた。

 

  

 

 残る二つの影も、明らかに動きを鈍らせていた。放電の余波を浴びたのか、それとも仲間の崩落に一瞬の躊躇いが生じたのか。その隙を、メインとドリオが見逃すはずもなかった。

 

「今だ!」

 

 メインの太い拳が、体勢を崩した影の一つを捉えた。骨の軋む鈍い音とともに、影が壁際まで吹き飛ばされる。

 

  

 

 ドリオの得物が、もう一つの影の得物を弾き飛ばした。体勢を崩した相手の膝裏を蹴り抜き、そのまま床へと押さえつける。

 

「……終わり、だ」

 

 息を切らしながら、彼女は低く告げた。押さえつけた相手の体から、力が抜けていくのが分かった。

 

  

 

 格納庫に、静けさが戻ってきた。

 

 崩れ落ちた影たちの体からは、まだ微かに焦げた匂いが漂っている。誰も、すぐには動けずにいた。誰かの荒い息遣いだけが、闇の中に短く尾を引いていた。

 

  

 

 ニッカは、放電スイッチを握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。指先の震えが、今になって一気に押し寄せてくる。目の前に転がる三つの影を、彼女は言葉もなく見つめ続けた。

 

「……ニッカ」

 

 名を呼ばれ、はっと顔を上げる。血の滲む拳を握ったまま、メインが歩み寄ってきていた。

 

「怪我は」

 

「……ない」

 

 答える声が、自分でも驚くほど掠れていた。膝から力が抜けそうになるのを、彼女は工具棚の縁を掴んで堪えた。

 

  

 

「今の、何をしたんだ」

 

 ファルコが、床に転がる影の一つへ視線を落としながら問うた。作業服に包まれた体の下から、精緻な回路の焼け跡が覗いている。人間の輪郭を纏いながら、その内側は明らかに機械の色を帯びていた。

 

「……過負荷。埋め込まれた回路に、電流を叩き込んだ」

 

 ニッカは震える声で答えながら、コンデンサに繋いだままのコードを見下ろした。

 

「殺しては、ない、はず」

 

「はず、なのか」

 

「確かめてない」

 

 短い答えに、ファルコは何も言い返さなかった。

 

  

 

 ドリオが押さえつけていた影を、慎重に確かめた。胸の上下する動きを見て、彼女は小さく息を吐いた。

 

「息は、ある」

 

 その一言に、ニッカの喉から、詰めていた息が漏れた。誰かを傷つける道具にはしたくない。そう思いながら組み立てたはずの手段が、初めて他者を打ちのめすために使われた。その事実の重さが、今になって肩にのしかかってくる。

 

  

 

 崩れ落ちた影の一つが、震える指先で自分の首元を探ろうとしていた。ニッカはその手を見つめ、静かに歩み寄る。

 

「動かないで」

 

 短く告げると、影は力なく手を落とした。作業服越しに覗く皮膚の下、埋め込まれた回路が焦げた匂いを立てている。この男もまた、命じられるままに動いていただけの、誰かの駒に過ぎなかった。

 

  

 

「レベッカ、無事?」

 

 振り返ったニッカに、レベッカが銃を下ろしながら答えた。

 

「かすり傷程度だ。心配すんな」

 

 声には、いつもの威勢が戻りつつあった。だが、目の奥には、まだ消えない緊張の色が残っている。

 

「見えねえ敵、マジで反則だろ」

 

 吐き捨てるような一言に、誰も反論しなかった。

 

 ニッカは、傍らに立つデイビッドへ視線を移した。

 

「さっきは、助かった」

 

「別に。礼はいい」

 

 素っ気ない返事の奥で、安堵だけは隠しきれていなかった。

 

  

 

 デイビッドが、床に落ちていた投擲武器を拾い上げた。鋭い刃の表面に、複雑な回路の模様が浮かんでいる。

 

「これ、ただの得物じゃねえな」

 

「サイバーウェア連動の武装だと思う」

 

 ルーシーが端末を近づけ、刃の断面をスキャンした。数値を見つめる彼女の顔が、静かに強張っていく。

 

「……専門の暗殺者。少なくとも、私設の護衛や下っ端じゃない」

 

「フィクサーの、本気ってことか」

 

 メインが低く呟くと、ルーシーは短く頷いた。

 

  

 

 ルーシーは、握りしめた端末をゆっくりと下ろした。

 

「信号も、痕跡も、何も拾えなかった。私の目、丸ごと意味がなかった」

 

 悔しさの滲む呟きに、キーウィが煙草を挟んだ指先で軽く肩を叩いた。

 

「拾えないように作られてた。あんたの目が、鈍ったわけじゃない」

 

 慰めとも突き放しともつかない一言に、ルーシーは小さく息を吐き、それ以上は何も言わなかった。

 

  

 

 キーウィが、崩れ落ちた影の一人に近づき、その顔を確かめた。作業服の下に隠された顔立ちは、驚くほど若かった。

 

「……こいつらも、命じられるままに動いてるだけだろうな」

 

 低く漏らした声に、憐れみとも呼べない、乾いた諦観が滲んでいた。荒野の暮らしに、優しさだけでは生き延びられない現実があることを、彼女は誰よりもよく知っていた。

 

  

 

 床に転がる影たちの装具を一瞥し、キーウィが煙草の煙を短く吐いた。

 

「マズいな、これは」

 

「マズいって?」

 

「クロームの質が違う。この手の即応型は、軍でもそう数が出回ってない代物だ」

 

 低い声に、誰もが言葉を失った。

 

「金だけじゃ、揃わない類のものってこと」

 

「金と、それを扱えるだけの伝手が要る。あの使いを寄越したファラデーって男、想定より底が深いのかもしれない」

 

 煙草の灰を落としながら、キーウィは崩れ落ちた影たちを見下ろした。乾いた警戒の色だけが、その横顔にはっきりと浮かんでいた。

 

  

 

 外周モニターの前に戻ったニッカは、震える指先で表示を確かめた。他に近づく反応は、今のところ検出されない。だが、その安堵は、決して確かなものではなかった。

 

「他には」

 

 メインの問いに、ニッカは首を振った。

 

「今のところ、ない。でも」

 

 言葉を切り、彼女は画面を見つめ続けた。

 

「これで、終わりだとは思えない」

 

  

 

 その一言に、格納庫の空気が再び張り詰めた。誰もが同じ予感を抱いていた。三人の刺客が沈黙したところで、これを命じた本体は、まだ何一つ揺らいでいない。

 

「タレットも、迷彩アンテナも、今回は何一つ役に立たなかった」

 

 キーウィが煙草の灰を指先で払いながら、低く続けた。

 

「次にまた、こういう手合いが来たら、同じ手はもう通じない」

 

 厳しい指摘に、ニッカは唇を噛んだ。積み上げてきたはずの備えが、今夜だけは何一つ機能しなかった。その事実の重さを、彼女は静かに噛み締めるしかなかった。

 

「なら、作り直すだけだ」

 

 メインが低く言い切った。

 

「今夜のうちに、できる範囲だけでもいい。手を貸す」

 

 迷いのない申し出に、ニッカは小さく頷いた。

 

  

 

 ドリオが、崩れ落ちた影の一人を縛り上げながら、静かに口を開いた。

 

「これ、どうするの」

 

「装備を検めたら、放り出す」

 

 メインが答えると、キーウィが付け加えた。

 

「情報を吐かせられるかもしれないが、あまり期待はできないだろう。この手の連中は、使い捨てにされる前提で雇われてる」

 

 冷たい響きの中に、荒野で生きる者たちの割り切りがあった。

 

  

 

 ニッカは、震える手のひらを見下ろした。ハンダゴテの熱が、まだ指先に微かに残っている。誰かを害するための道具ではなく、誰も傷つかせないための道具にしたい。それが、これまでずっと大事にしてきた指針だった。それでも、目の前に転がる三つの体を見るたび、指先の震えは簡単には収まらなかった。道具は、使う者の意志までは選ばない。ただ、そこにある可能性を、そのまま形にするだけだ。だとすれば、今夜のこの震えは、誰のものでもない。ニッカ自身が選び取った重さだった。

 

  

 

「ニッカ」

 

 メインが、血の滲んだ拳を握ったまま、静かに歩み寄ってきた。

 

「よく、持ち堪えた」

 

 短い一言だったが、そこに込められた重みは、これまでのどんな言葉よりも確かだった。ニッカは俯いたまま、小さく頷くことしかできなかった。

 

「……怖かった」

 

「怖くて当然だ。あんな真似、慣れる方がおかしい」

 

 低い声に、ニッカはようやく詰めていた息を吐き出した。膝から力が抜けかけた体を、メインの太い腕がそっと支えた。

 

「一人で、抱え込むな」

 

 付け加えられた一言に、ニッカは何も答えられなかった。ただ、その体温だけが、今はひどく心強かった。

 

  

 

 格納庫の外に広がる夜空を見上げながら、ニッカは胸の奥に残る重石の正体を、まだ言葉にできずにいた。ミリテクとも、アラサカの静かな視線とも違う。剥き出しの悪意が、初めてこの場所まで届いた。守りたいと願う場所が、これほど直接的な牙に晒される日が来るとは。彼女自身、まだ信じきれずにいた。

 

 アラサカの沈黙と、ファラデーの焦り。種類の違う二つの影が、この場所を同時に見据え始めている。どちらか一つだけを見ていれば済む夜は、もう二度と来ないのかもしれない。その予感だけが、疑いようもなく胸に落ちてきていた。

 

  

 

 異変を聞きつけた見張りの青年が、息を切らして駆け込んできたのは、その直後だった。倒れ伏す影たちと、崩れ落ちた工具棚を目にするなり、彼の顔から血の気が引いていく。

 

「……何が、あった」

 

「片付いた。今のところは」

 

 ニッカが短く答えると、青年はそれ以上何も聞かず、崩れた工具棚へ駆け寄って黙々と立て直し始めた。手を動かす合間に、拳が一度だけ固く握られる。

 

「今日は、見回りの当番だったでしょ」

 

「分かってる。分かってるが……次は、この手で止めてえんだ」

 

 短く零れた本音に、ニッカは何と答えていいか分からず、視線を落とした。誰かにここまで案じてもらう重みには、いつまで経っても慣れることができずにいる。

 

「今度は、ちゃんと二人組で回ってる。それだけは、守れてる」

 

 ニッカが静かに付け加えると、青年はようやく肩の力を緩めた。

 

  

 

 工具棚の陰にしゃがみ込んだまま、ニッカはハンダゴテの熱の残るコードを、ゆっくりと巻き取っていった。指先は、まだ小さく震えたままだった。それでも、手を動かしているうちに、少しずつ呼吸が整っていく気がした。

 

 古い誓いのことを、ニッカはふと思い出した。だが、その中身を今さら数え上げる気にはなれなかった。

 

 それなのに、今夜もまた、誰かを傷つける形で、大切な何かを守り抜いた。誓いを重ねるたびに擦り減っていくものと、その代わりに積み上がっていくものと。どちらが正しい天秤なのか、彼女自身にもまだ答えは出せずにいた。

 

  

 

 同じ頃、ナイトシティの執務室では、部下が青ざめた顔で報告を読み上げていた。

 

「一隊、通信途絶。位置情報から見て、対象地点への到達は確認されておりますが、その後の応答が」

 

「……ない、ということか」

 

 ファラデーの声から、初めて余裕らしきものが消えていた。

 

「はい。予備の追跡信号も、途中で切断されております」

 

  

 

 窓の外を見つめたまま、ファラデーはしばらく沈黙していた。人工眼球の奥に浮かぶ光が、これまでとは違う色合いを帯びている。

 

「……アサシン級を、丸ごと沈黙させただと」

 

 誰へともなく漏らした呟きに、答える者はいなかった。彼が長年築き上げてきた、断られたことのないという自負が、初めてその根底から揺らぎ始めていた。

 

「面白い」

 

 薄く笑おうとした口元が、途中で強張ったまま止まった。荒野の片隅に潜む才能は、彼が思い描いていた枠組みを、音もなく踏み越えようとしていた。

 

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