東の空が、白から灰へとゆっくり色を変えていった。
格納庫の中には、まだ焦げた匂いが薄く残っている。崩れ落ちた三つの影は、縄で縛られたまま、床の隅に転がされていた。誰も声を上げない。工具棚の倒れた音も、放電の残響も、既に夜の底へ沈んでしまっている。ただ、静けさだけが、やけに重たく感じられた。
ニッカは工具箱の縁に腰を下ろしたまま、動けずにいた。指先の震えは、まだ完全には収まっていない。震える手を見下ろすたび、自分がした選択の重みが、遅れてじわりと押し寄せてくる。
壁に突き刺さったままの刃が、薄明かりの中で鈍く光っていた。誰かがそれを引き抜こうとして、途中で手を止める。抜いてしまえば、この夜が本当に終わってしまう気がしたのかもしれない。しばらくの間、格納庫の中には、誰の足音も響かなかった。
縛られた影の一つが、微かに身じろぎした。ドリオがその傍らへ膝をつき、拘束の緩みを確かめる。
「起きてる?」
「……」
「答える気は、ないみたいね」
ドリオが立ち上がりながら呟くと、キーウィが煙草の先を見つめたまま口を開いた。
「無駄だ。こういう連中は、口を割らないように育てられてる」
「試すだけ、試してみたら」
「試したところで、時間を無駄にするだけだろうな」
冷ややかな声に、ドリオは小さく肩をすくめた。
メインが縛られた影の前にしゃがみ込み、低く問いを投げた。
「誰に、雇われた」
答えは返らなかった。若い顔立ちの男が、視線を床に落としたまま、口を固く結んでいる。
「名前くらいは、言えるだろう」
それでも、沈黙は破れなかった。メインはしばらくその顔を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「言わねえなら、それでいい」
「……聞き出すの、諦めるの」
ニッカが問うと、メインは首を振った。
「諦めるんじゃねえ。無駄な脅しで、時間を食うつもりはねえってだけだ」
ファルコが装備を検めながら、低く報告した。
「武器も装具も、出所を辿れるような刻印は一切ない。手練れの仕事だ」
「使い捨て、ってことね」
ドリオの言葉に、ファルコは頷いた。
「切られても、後を辿らせない。フィクサーの流儀、ってやつだろう」
装備を一つずつ袋に収めていく手つきに、迷いはなかった。
「どうする、これ」
レベッカが銃を担ぎ直しながら、縛られた影を顎で示した。
「あたしが好きにしていいなら、片っ端から締め上げてやるけどよ」
「駄目」
ニッカが即座に遮った。
「殺しても、情報にならない」
「殺さねえよ。ちょっと痛い目、見せるだけだ」
「それも駄目」
短いやり取りに、レベッカは渋々肩を落とした。
「分かったよ。あんたがそう言うなら」
キーウィが煙草を灰皿代わりの缶へ押し付け、静かに立ち上がった。
「装備を剥いで、荒野の外れに放り出す。それでいい」
「情報、聞き出さなくて」
「聞き出せる保証がないなら、時間をかける意味もない」
淡々とした判断に、メインが頷いた。
「その方が、早い」
「放り出すって、生きたまま?」
短い問いに、キーウィは即答した。
「生きたまま。ただし、装備は一切残さない。素手で歩いて帰れる保証まではしてやらない」
その冷たさに、ニッカは一瞬言葉を失った。だが、これがこの荒野の流儀なのだと、頭のどこかで理解している自分もいた。
「装備を全部剥いで帰す。それが、こっちからの返事だ」
メインが立ち上がりながら、誰にともなく告げた。
「捕まえて何もしなかった、ってわけじゃねえ。ただ、命までは取らねえ。その線引きだけは、崩さねえでおく」
誰も異論を挟まなかった。荒野で長く生きてきた者たちの、静かな一線がそこにあった。
装備を検め終えたファルコが、投擲武器の刃を袋の底に沈めながら、ふと手を止めた。
「若えな、こいつら」
「歳のこと、考えても仕方ない」
キーウィが煙草を挟んだ指先で答えると、ファルコは小さく頷いた。
「分かってる。ただ、こういう連中を見るたびに思うんだ。誰かが育てりゃ、ただの職人にもなれた腕だろうにってな」
「育てる余裕のある側と、そうじゃない側がいる。それだけの話だ」
乾いた声に、ファルコはそれ以上何も言わなかった。荒野に生きる者同士が、それぞれ違う形で背負ってきた事情を、これ以上探る意味はない。
夜が明けきる頃、三人の影は装備を剥がれ、意識のあるまま荒野の外れへと運ばれていった。誰かがそれを見送る声はなかった。ただ、遠ざかっていく足音だけが、乾いた風の中に消えていく。
搬出口を閉じたファルコが、ぽつりと呟いた。
「これで、伝わるだろう」
「何が」
「舐めた真似すりゃ、こうなるってことがだ」
短い答えに、誰もが同じ思いを抱いていた。言葉で伝える段階は、もう終わっている。
格納庫に、朝の光が本格的に差し込み始めた。誰もが疲労を隠せないまま、手を止めようとはしなかった。工具棚を起こし、転がった部品を拾い集め、崩れた秩序を一つずつ元に戻していく。
ニッカは工具箱の中身を確かめながら、ふと手を止めた。焦げた匂いの残る空気を吸い込むたび、昨夜の光景が瞼の裏に蘇る。震える指先で放電スイッチを叩き込んだ、あの一瞬の重み。
「……大丈夫か」
傍らに立ったデイビッドが、静かに声をかけてきた。
「大丈夫」
「嘘つけ。手、まだ震えてる」
図星を突かれ、ニッカは工具を握る手に力を込めた。
「震えてても、動けるならいい」
「動けりゃいい、って話でもねえだろ」
珍しく食い下がるデイビッドの声に、ニッカは言葉を探せずにいた。
ドリオが温かいスープを注いだコップを、無言でニッカの手に押しつけた。
「まず、これ飲みなさい」
「今、そういう気分じゃ」
「気分の問題じゃない。体を、休ませなさい」
有無を言わせぬ口調に、ニッカは渋々コップへ口をつけた。喉を通る温もりに、強張っていた肩が、ほんの少しだけ緩む。
「……美味しい」
「当たり前でしょ」
素っ気ない答えの奥に、確かな気遣いが滲んでいた。
工具箱の陰に座り込んだまま、ニッカは長い間、口を開けずにいた。震えの残る指先を見下ろし、それから、堰を切ったように言葉が溢れ出た。
「もう、いい加減にしてほしい」
誰にともなく漏らした声が、次第に大きくなっていく。
「ミリテクだの、アラサカだの、今度はフィクサーだの。次から次へと、よくもまあ湧いて出るもんだね」
「ニッカ……」
「私はただ、廃車直して、静かに生きてたいだけなの。それだけの、ささやかな願いなの。なのに、なんで毎回毎回、命の危険に晒されなきゃいけないわけ」
息継ぎもそこそこに、彼女は続けた。
「引きこもりの何が悪いの。誰にも迷惑かけずに、自分の作業台で好きなだけガラクタいじってる。それの、どこが咎められる生き方なわけ」
「……言いたいこと、それだけか」
メインが、口の端をわずかに緩めながら尋ねた。ニッカはコップを握りしめたまま、勢いよく顔を上げた。
「まだある。次に、この静かな暮らしを邪魔しに来る奴がいたら」
彼女は一度言葉を切り、低く言い放った。
「死刑」
短い一言に、格納庫の空気が、束の間ぽかんと止まった。
「……死刑って、あんたが決めていいのかよ、それ」
デイビッドが、思わず吹き出しながら突っ込んだ。
「決めるの。私の引きこもり生活を邪魔する奴は、問答無用で死刑」
「いや、法的根拠が」
「知らない。私の中の法律では、そう決まってる」
あまりにきっぱりとした答えに、レベッカが我慢できずに噴き出した。
「ギャハハ! いいぞニッカ、そのくらい啖呵切りゃ気も晴れるだろ!」
「別に、晴れてない。ただ、言いたかっただけ」
「それでも、言えてよかったじゃねえか」
軽口の応酬に、張り詰めていた空気が、少しずつ緩んでいく。疲労と緊張の澱の中に、束の間の笑いが差し込んだ。
ファルコが、腕を組んだまま静かに口を開いた。
「その啖呵、悪くねえけどよ。実際問題として、これで済むとは思えねえ」
「分かってる。分かってるけど、言わずにはいられなかった」
ニッカは息をつき、コップに残ったスープをもう一口飲んだ。
「ファラデーってやつ、諦める気配ある?」
「ねえだろうな」
ファルコが即答した。
「今回の一件で、あの手の男は大抵、余計にムキになる」
「面倒くさい」
「面倒くさいのは、こっちも同じだ」
短いやり取りに、誰もが小さく頷いた。
メインが、縛られていた影たちの装備が積まれた袋を見下ろしながら、低く口を開いた。
「ニッカ」
「なに」
「聞いておきたいことがある」
真剣な声に、格納庫の空気が引き締まった。ニッカは顔を上げ、メインの視線を受け止めた。
「ファラデーってやつを、完全に敵に回すことになる。それでも」
言葉を切り、メインは一同を見渡した。
「俺たちは、お前を守り抜く。その覚悟に、変わりはねえ」
力強い一言に、ドリオが静かに頷いた。
「私も、同じ気持ち」
「あたしも、もちろん」
レベッカが銃を担ぎ直しながら続いた。
「フィクサーだろうと、企業だろうと、あたしのダチに手を出す奴は容赦しねえ」
「俺も」
デイビッドが、迷いのない声で言い切った。
「あんたに助けられた分、今度は俺が守る番だ」
ファルコもまた、深く頷いた。
「逃げ道は、いつでも確保してある。守り方なら、いくらでも知ってる」
その一つ一つの言葉に、ニッカはしばらく何も言えずにいた。喉の奥が、じんわりと熱くなる。
「……ありがとう」
小さく零れた一言に、誰もそれ以上は何も言わなかった。ただ、朝の光が差し込む格納庫の中に、確かな温もりだけが満ちていった。
銃の手入れを終えたレベッカが、格納庫の隅でニッカの隣にそっと腰を下ろした。いつもの威勢は、まだ完全には戻っていない。
「なあ、ニッカ」
「なに」
「昨日の、見えねえ敵ってやつ。あたし、正直まだちょっと震えてる」
ぽつりと零された本音に、ニッカは横目でレベッカを見た。
「あんたでも、そういうことあるんだ」
「あるに決まってんだろ。銃なら、狙って撃てば当たる。でも、見えねえもんは、狙いようがねえ」
珍しく素直な弱音に、ニッカはしばらく黙り込んだ。
「私も、怖かった」
「あんたが?」
「うん。指、まだちょっと震えてる」
差し出した手を見て、レベッカは小さく笑った。
「なんだ、お互い様じゃねえか」
「お互い様」
軽く返した言葉に、二人の間にあった張り詰めた空気が、ほんの少しだけ緩んでいく。
「次、また見えねえ敵が来たら」
「その時は、また何か作る。約束はできないけど、手ぶらでは負けない」
迷いのない答えに、レベッカは満足げに頷いた。
「それでいい。あんたがそう言うなら、あたしはあたしのやり方で備える」
少し離れた場所で、ルーシーが端末を手にしたまま、静かにこちらを見ていた。
「あなたも、何か言うことは」
ニッカが問うと、ルーシーは小さく首を振った。
「言葉より、先にやることがある」
「なに」
「ファラデーの情報網、もう少し詳しく洗う。次に来る手が、正面からとは限らないから」
淡々とした答えに、キーウィが煙草を挟んだ指先で頷いた。
「らしい判断だ」
「師匠の教え、だから」
軽く返すルーシーの声には、以前のような危うさはもう滲んでいなかった。
その頃、中央キャンプから年長の男と老女が、いつもより急いだ足取りでガレージへ姿を見せた。転がされたままの工具棚と、焦げた匂いの残る空気を目にするなり、老女の表情が強張った。
「……本当に、やられたのかい」
「片付いた。今のところは」
ニッカが短く答えると、年長の男は険しい顔のまま、周囲を見渡した。
「これで、はっきりした。動き出すのを待つ余裕は、もうない」
「移住の話、決まったの」
「決めさせてもらう。あんたの意向とは、別の話だ」
きっぱりとした声に、ニッカは反論する言葉を持たなかった。クラン全体の安全を背負う立場の重さを、改めて思い知らされる。
老女が、皺の刻まれた手でニッカの肩に触れた。
「あんたを責めてるんじゃないよ」
「……分かってる」
「バートが生きてたら、きっとこう言うだろうね。守りたいものが増えるのは、悪いことじゃない、ってね」
静かな声に、ニッカの喉が小さく震えた。失っていくものと、代わりに手にしていくもの。どちらが正しい重さなのか、今もまだ答えは出せずにいる。
「でも」
老女は続けた。
「増えたものを守り切るには、それに見合った備えもいる。あんたの気持ちだけじゃ、間に合わない時が来る」
言葉の重さに、ニッカは黙って頷くしかなかった。
「移住の候補地は、もう絞ってあるんですか」
傍らで話を聞いていたドリオが、静かに尋ねた。年長の男は、懐から折り畳んだ地図を取り出した。
「三つ、目星をつけている。どこも、水源から半日以内の距離だ」
「ここからの、距離は」
「一番近い場所でも、今より遠くなる。すぐに駆けつけられる距離じゃなくなるだろうな」
地図を覗き込んだファルコが、指先で候補地の一つをなぞった。
「この辺りなら、逃げ道も確保しやすい。崖沿いだから、大人数での強行突破も難しい」
「詳しいな」
「昔、似たような土地に住んでたことがある」
短い答えに、それ以上誰も踏み込まなかった。
「決を採るのは、いつ」
ニッカが尋ねると、老女は静かに答えた。
「次の満月の集会で。もう先延ばしにはできない」
「私は、口を挟んでいいの」
「あんたの意見も、参考にはする。でも、決めるのはクラン全体だ。あんたが背負う話じゃない」
揺るがない一言に、ニッカは小さく頷くしかなかった。誰かの生活の重さを、自分一人の判断で左右してはいけない。その線引きだけは、彼女もようやく理解し始めていた。
「ガレージは、どうなるの」
「拠点そのものは、当面残す。あんたが望むならな」
年長の男の言葉に、ニッカは短く息を吐いた。
「残りたい。バートが遺した場所だから」
「なら、周りの守りだけは、こっちも本腰を入れて考える。あんた一人に背負わせる気は、端からない」
低い声に込められた重みを、ニッカは静かに受け止めた。
巡回から戻った見張りの青年が、荒れた格納庫の様子に足を止めたのは、その直後だった。転がされていた工具や焦げた床を目の当たりにするなり、彼の顔から見る間に血の気が引いていった。
「……また、俺がいない時に」
拳を握りしめたまま、青年はしばらく動けずにいた。
「今度こそ、傍にいるつもりだった。なのに、また」
絞り出すような声に、ニッカは静かに首を振るしかなかった。
「悔しがるの、もうやめて」
ニッカがそう言うと、青年は顔を上げた。
「悔しがってちゃ、駄目なのか」
「駄目じゃない。でも、悔しがる時間があるなら、次に活かして」
思いがけない返しに、青年はしばらく黙り込んだ。それから、深く一度頷いた。
「……分かった」
「今度は、二人組で見回りしてるんでしょ。それでいい」
短い言葉に、青年の肩からわずかに力が抜けた。
昼が近づく頃、水筒を抱えた少女が、母親と共に顔を出した。荒れた格納庫の様子に、少女は目を丸くした。
「ニッカ姉、何があったの」
「ちょっと、片付けものが多くて」
誤魔化すように答えるニッカに、少女はしばらく首を傾げていたが、それ以上は聞かなかった。
「今日のお水」
「ありがとう。助かる」
少女から包みを受け取ると、ニッカはその小さな頭に軽く手を乗せた。母親が、いつもより強張った表情で会釈をする。
「大丈夫、ですか」
「今のところは」
「移住の話、聞きました。あの子と一緒に、遠くへ移った方がいいのかと、迷っています」
硬い声に滲む不安を、ニッカは黙って受け止めた。
「決めるのは、あなたたちの権利だから。私が、何か言える立場じゃない」
「……そう、ですね」
母親はしばらく俯いていたが、やがて小さく頭を下げた。
「ただ、ここが安全になるなら、あの子はきっと、離れたくないと言うと思います」
短い答えに、ニッカは何も言えなかった。誰かの暮らしの選択が、自分の存在一つでこれほど左右されている。母親は深く一礼すると、娘の手を引いて足早に立ち去っていった。小さくなっていく二つの背中を、ニッカはしばらく見送り続けた。
水筒を届けるだけだったはずの日課の裏に、これほどの迷いが積み重なっていたことに、彼女は今更ながら気づかされていた。誰かの日常を脅かしているのは、他でもない自分自身なのかもしれない。工具を握る手が、いつもより重く感じられた。
午後、工具箱を片付けながら、ニッカはデイビッドとルーシーの二人と、少しだけ言葉を交わしていた。
「なあ、ニッカ」
デイビッドが、地図を畳みながら口を開いた。
「あんた、後悔してるか。関わっちまったこと」
「してない」
即答に、デイビッドはわずかに目を見開いた。
「面倒だとは、毎回思ってる。でも、後悔はしてない」
「なんで、言い切れるんだよ」
「面倒の分だけ、守りたいものも増えてるから」
あっさりとした答えに、デイビッドは何も言い返せなかった。
ルーシーが、端末をしまいながら静かに続けた。
「あなたの誓い、もう随分、崩れてるでしょう」
「……崩れてる」
「後悔は」
「ない、ってさっき言った」
「聞いてた」
軽くやり返され、ニッカは苦笑した。
「誓いって、守るためだけにあるものじゃない気がしてきた。守れなくなった時に、次の形に作り直すためのもの、なのかもしれない」
ぽつりと零れた本音に、ルーシーは目を伏せ、しばらく何も言わなかった。それから、小さく頷いた。
「あなたらしい、答え」
「褒めてる?」
「褒めてる」
短いやり取りの奥に、確かな信頼が滲んでいた。
夕方近く、焚き火の支度をしていたドリオが、ニッカの隣にそっと腰を下ろした。
「今日は、よく啖呵切ったわね」
「……忘れて」
「忘れない。あれは、聞いておく価値のある啖呵だった」
からかうような口調に、ニッカは顔を背けた。
「みっともなかった、と思う」
「みっともなくない。溜め込むより、よっぽど健全」
静かな声に、ニッカは少しだけ肩の力を抜いた。
「あなた、いつも誰かを守ることばかり考えてる」
ドリオが、焚き付けの薪を組みながら続けた。
「でも、自分が守られる側に回ることも、たまには覚えていい。前にも、そう言ったはずだけど」
「……覚えてる」
「覚えてるだけで、実践できてない」
図星を突かれ、ニッカは何も言い返せなかった。
「一人で背負おうとしたら、承知しないから」
念を押すような一言に、ニッカは小さく頷いた。誰かに気にかけられる重みに、彼女はまだ完全には慣れていない。だが、拒む理由は、もうどこにも見当たらなかった。
夕刻、外周モニターの前に座ったニッカは、静まり返った画面を見つめ続けていた。異常反応はない。それでも、この凪いだ時間が長くは続かないという予感だけが、胸の底に居座り続けている。
企業の周到さと、フィクサーの短気。質の異なる二つの脅威が、今もこの場所を挟み撃ちにしようとしていた。片方を退けたところで、もう片方が消えるわけではない。メインの言葉が、頭の中で繰り返し響いていた。
制御盤の傍らに立ったキーウィが、煙草に火を点けながら、低く口を開いた。
「今回の一件、レインの耳にも入ってるだろうな」
「アラサカと、フィクサーの間に、繋がりでもあるの」
重ねた問いに、キーウィは短く首を振った。
「繋がりはない。だが、同じ獲物を狙う者同士、互いの動きくらいは嗅ぎ取ってるはずだ」
「厄介、ってこと」
「厄介の質が、二重になったってだけだ。片方が動きを止めれば、もう片方が勢いを増す。そういう巡り合わせに、なりかねない」
冷ややかな分析に、傍らで話を聞いていたメインが腕を組んだ。
「どっちにしても、俺たちのやることは変わらねえ」
「何」
「来る奴を、片っ端から迎え撃つ。それだけだ」
単純明快な答えに、キーウィは煙を長く吐き出しながら、わずかに口の端を緩めた。
「単純で、悪くない方針だ」
同じ頃、ナイトシティの執務室では、ファラデーが窓の外を見つめたまま、長く沈黙を続けていた。
「アサシン級の一隊、装備のみを回収された状態で発見。全員、生存を確認」
部下の報告に、ファラデーは何も答えなかった。人工眼球の奥に浮かぶ光が、これまでとは違う色を帯びている。
「……生かして、返されただと」
ようやく漏れた声には、屈辱と困惑が入り混じっていた。
「はい。装備には、一切手をつけず、身体のみを無傷で解放したものと見られます」
「なぜだ」
誰へともなく漏らした問いに、答える者はいなかった。
「殺す方が、簡単だったはずだ。それを、あえてしなかった」
ファラデーは、指先で机上の資料をゆっくりとなぞった。
「舐められている、というわけではなさそうだな」
「では、いかが」
部下が恐る恐る尋ねると、ファラデーはしばらく答えなかった。窓の外に広がる光の川を見つめながら、彼はようやく口を開いた。
「今は、動くな」
「……よろしいのですか」
「よくはない。だが、力任せの手は、既に二度潰れている。同じ轍を、三度目も踏むつもりはない」
冷ややかな声の奥に、これまでにはなかった慎重さが滲んでいた。
「対象の周囲を、時間をかけて洗い直せ。今度は、急がない」
「アラサカのやり方と、同じに」
「そうだ。悔しいがな」
自嘲めいた響きに、部下は何も言えずにいた。
「アラサカは、既に一度接触して退いたと聞いている」
ファラデーは、指先を組みながら続けた。
「あの企業が、大人しく引き下がったままでいるとは思えん。今頃また、次の一手を練っているはずだ」
「動向を、探りますか」
「探れ。だが、正面から睨み合う真似はするな。あちらの土俵で張り合っても、勝ち目はない」
冷静な判断に、部下は静かに頭を下げた。
「もう一つ、報告が。以前、対象の周辺で確認された女――あの手練れの一人が、旧知の人物である可能性を、レインという男が示唆していたと」
ファラデーの人工眼球が、わずかに光を強めた。
「……アラサカの、あの男か」
「はい」
「奇妙な巡り合わせだ。値の付かないものを巡って、あちらとこちらが、思わぬ形で交錯し始めている」
口元を持ち上げかけたところで、その動きは途中で凍りついた。荒野の片隅で束ねられている絆の厚みが、彼の想像を超え始めていることに、彼自身も薄々気づき始めていた。
ファラデーは椅子に深く沈み込み、窓の外へ視線を戻した。潰されたメンツを取り戻すための意地の張り合いだったはずのこの一件は、いつの間にか別の色を帯び始めている。値の付かないものを値踏みしようとしたことこそが、そもそもの間違いだったのかもしれない。そんな考えが、初めて彼の胸をよぎった。
「もう少し、様子を見るとしよう」
誰にともなく零れた呟きが、室内に落ちて消えた。ナイトシティの夜景は今夜も変わらぬ輝きを放ち続けていたが、荒野の片隅で積み重ねられている小さな絆のことなど、その光は何一つ知らないままだった。
バッドランズのガレージに、夜の帳が降りていた。
工具箱の蓋を閉じたニッカは、椅子の背にもたれ、天井を見上げた。錆びた梁の隙間から、星のない夜空がわずかに覗いている。
アラサカという静かな脅威と、ファラデーという性急な脅威。双方から狙われ始めたという現実は、もう疑いようのないものになっていた。それでも、隣には誰かがいる。守ると誓ってくれる声が、いくつも重なっている。その事実だけを支えに、彼女は長い夜へと身を委ねていった。守りたいものは増え続けている。値のつかないものを値踏みされてなるものかと、彼女は胸の奥で、もう一度だけ誓い直した。
瞼を閉じると、遠い記憶がふと蘇った。幼い頃、初めて修理した廃品のラジオを抱えて駆け寄った日、バートは驚くでもなく、ただ皺だらけの顔で笑っていた。値打ちというのは値札に刻まれた数字ではなく、誰かがそれをどれだけ大事に思うかだけで決まるのだと、あの日バートは教えてくれた。当時は意味を掴みきれなかった言葉が、今になってようやく、輪郭を持って胸に落ちてくる気がした。潤沢な資金も、最新の設備も、この荒野で積み上げてきたものの重さには、到底及ばない。
外周モニターの光が、静まり返った格納庫を淡く照らしている。見張りに立つ足音が、遠く扉の外から規則正しく響いていた。眠れずにいるのは、自分だけではないのかもしれない。そう思うと、胸の底に沈んでいた重さが、ほんの少しだけ軽くなる気がした。誰かが同じ夜を分かち合ってくれている。ただそれだけの事実が、以前の自分には想像もつかなかったほど、大きな支えになっていた。
朝を迎えれば、また新しい備えを重ねていくだけだ。逃げるでも、闘い急ぐでもない。壊れた場所を一つずつ見つけ、直していくやり方を、彼女はこの荒野で誰よりも知っている。迫りくる二つの影に対しても、そのやり方だけは、きっと変わらないはずだった。
この場所で積み重ねてきたものだけは、誰にも値踏みさせない。そう思えるようになった自分に、ニッカは小さく息をついた。次の朝がどんな形で訪れるのか、今の彼女にはまだ分からない。それでも、迎え撃つための備えは、一つずつ確かに積み重ねられている。目を閉じた彼女の意識は、やがて眠りの底へと沈んでいった。