サイバーパンク:ジャンク・アルケミー   作:たこ焼き 龍月

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第11.1 企業に監視されすぎたので、ガレージごと引っ越してみた

 

 アサシン級を退けたあの夜から、数日が過ぎていた。

 

 格納庫に残っていた焦げた匂いは、いつの間にか薄れている。崩れた工具棚も元通りに直され、床に転がっていた縄の切れ端も片付けられていた。表向きには、いつもの静かなガレージが戻っていた。

 

 朝の光が、錆びたトタン屋根の隙間から差し込んでいる。ニッカは作業台に向かい、レベッカの銃の照準器を分解していた。ネジを一本ずつ外し、油の乗った部品を並べていく単調な作業に、彼女は久しぶりに没頭していた。

 

 バートが遺してくれた道具箱を開けるたび、彼女はいつも同じ手順を繰り返す。工具の並び順、油の匂い、刃こぼれを確かめる指先の動き。十八の夏から変わらないその手順だけが、荒れた日々の中で唯一、心を落ち着かせてくれる時間だった。

 

 朝の点検を終えたら、外周モニターの表示を確かめる。それが、ここ数年変わらぬ日課だった。だが、その日課の意味合いが、ここ最近になって少しずつ変わり始めていることに、ニッカ自身も薄々気づいていた。以前なら一瞥だけで済ませていた確認に、近頃は妙に長く目を留めてしまう。何かを探しているような、それでいて何も見つけたくないような、矛盾した緊張が指先に残っていた。

 

 外周モニターの警告音が鳴ったのは、その最中だった。

 

 手を止め、ニッカは制御盤へ視線を移した。表示された座標は、上空の高い位置を示している。地表からの侵入ではない。見慣れた反応ではあったが、以前より明らかに解像度の高い映像が、画面の端に映り込んでいた。

 

「……また?」

 

 呟きながら、ニッカは映像を拡大した。灰色の機体が、風にも流されず一点に留まっている。輪郭の作りは、以前見たものと似ていた。だが、飛行の高度と旋回の軌道が、微妙に違っていた。画面の向こうで、機体はまるで待ち構えているかのように、静止し続けていた。

 

  

 

 作業台の隅で工具を検めていたファルコが、警告音に気づいて顔を上げた。

 

「また偵察か」

 

「うん。今週で、もう四回目」

 

「四回」

 

 繰り返したファルコの声に、わずかな硬さが混じった。ニッカは映像を睨みつけたまま、小さく頷いた。

 

「前は、月に一度あるかないかだった。それが、今は」

 

 言葉を切り、彼女は画面に並んだログを指でなぞった。

 

「毎日みたいに、来る」

 

  

 

 その報告を聞きつけ、格納庫の奥からメインとドリオが歩み寄ってきた。ドリオは腕を組み、映像を覗き込む。

 

「頻度が上がってる、ってこと?」

 

「うん。しかも、来るたびに高度も角度も変えてる」

 

「同じ経路を、二度は使わない、ってわけか」

 

 メインの言葉に、ニッカは頷いた。

 

「学習してる。前に迷彩アンテナで誤魔化した経路は、次には使ってこない」

 

 その分析に、格納庫の空気がわずかに冷えた。相手が、ただ闇雲に飛ばしているわけではないという事実が、そこには含まれていた。ドリオが腕組みを解き、画面をもう一度覗き込んだ。

 

 ニッカは制御盤の脇にしゃがみ込み、迷彩システムの動作ログを呼び出した。前世の記憶にある知識では、この手の光学迷彩は、あくまで単発の観測を誤認させる仕組みに過ぎない。同じ地点を、異なる角度と時間帯から繰り返し観測されれば、蓄積されたデータに矛盾が生じていく。その矛盾を辿れば、いずれ真の位置が浮かび上がってくる。企業の偵察衛星と連携した学習型の索敵アルゴリズムであれば、なおのことだった。

 

「……つまり、時間の問題ってこと」

 

 誰にともなく漏らした呟きに、答える者はいなかった。だが、その場にいた誰もが、同じ結論に辿り着いていた。

 

  

 

 制御盤の前に立ったキーウィが、煙草を挟んだ指先で映像を示した。

 

「これは、探りじゃない」

 

「じゃあ、何」

 

「答え合わせだ」

 

 ニッカが問い返すと、キーウィは短く言い切った。

 

「一度目、二度目は、居場所を探るための探りだったんだろう。今は違う。もう場所は割れてる。あとは、いつ、どんな手段で仕掛けるかを詰めてるだけだ」

 

 冷ややかな分析に、誰も口を挟まなかった。長年荒野を渡り歩いてきた者の言葉には、経験に裏打ちされた重みがあった。

 

  

 

 ルーシーが端末を手に、静かに歩み寄ってきた。

 

「信号の出所、追ってみた」

 

「分かった?」

 

「途中で切られてる。前より、隠蔽が丁寧になってる」

 

 端末の画面を見せながら、ルーシーは続けた。

 

「アラサカとミリテク、両方の暗号方式に近い痕跡がある。どちらか一方、とは言い切れない」

 

「両方が、同時に嗅ぎ回ってる、ってこと」

 

 ニッカの問いに、ルーシーは小さく相槌を打った。

 

「もしくは、片方がもう片方の動きを真似てる。どちらにしても、良い兆候じゃない」

 

  

 

「捕まえた連中の装備、もう一度検めてみようと思う」

 

 ルーシーが続けると、ファルコが眉を上げた。

 

「何か、出そうなのか」

 

「装備そのものより、彼らを送り込んだ側の情報網が気になる。あの三人が、どうやってここまで正確に位置を絞り込んだのか」

 

「言われてみりゃ、確かに引っかかる。荒野の地図に載ってねえ道を、迷いもせず走ってきた」

 

 ファルコの言葉に、ルーシーは頷いた。

 

「信号の傍受だけじゃ、あそこまで精度は出ない。地上からの情報提供者がいる可能性も、考えておいた方がいい」

 

 その指摘に、格納庫の空気がさらに張り詰めた。空からの目だけでなく、地に潜む目の存在まで疑わなければならない現実が、静かに突きつけられていた。

 

  

 

 翌日の昼、装備の残骸を検め直していたルーシーが、小さな声を上げた。

 

「……あった」

 

 差し出された掌の上に、爪の先ほどの金属片が乗っていた。ベルトの留め具に、巧妙に埋め込まれていたものだという。

 

「発信機か」

 

 ファルコの問いに、ルーシーは短く答えた。

 

「もう死んでる。多分、捕まった時点で自壊させる仕組みになってた。でも、痕跡は残ってる」

 

「じゃあ、あいつらが連れてこられる前に、この信号が」

 

「ここの座標を、送り続けてた可能性がある」

 

 淡々とした答えに、ニッカは奥歯を噛みしめた。捕虜として捕らえた連中の体そのものが、位置情報を垂れ流す発信源になっていたのだとすれば、迷彩アンテナの出力をいくら上げたところで、意味をなさなかったことになる。

 

「……気づけなかった」

 

「誰も気づけなかった。装備は、全部検めたはずだった」

 

 キーウィが煙草を挟んだ指先で、金属片を軽く示した。

 

「爪の先ほどの部品を、事前に探し当てられる者は少ない。責める話じゃない」

 

 その言葉に、ニッカは小さく頷いたが、胸の奥に沈んだ重さは消えなかった。

 

  

 

 夕方近く、格納庫の外で見張りに立っていた青年が、息を切らせて駆け込んできた。

 

「上に、また」

 

「今度は、どっちの方角」

 

 ニッカが尋ねると、青年は西の空を指した。

 

「あっちだ。さっきのとは、違う機体だと思う」

 

 制御盤に走ったニッカは、示された方角へカメラを振った。画面の端に、また別の灰色の機体が浮かんでいる。今朝のものとは、明らかに飛行パターンが違っていた。

 

「……同じ日に、二機」

 

 呟いた声が、掠れていた。

 

  

 

 その夜、格納庫に集まった一同は、これまでのログを並べて検討を重ねていた。焚き火の明かりが、疲れの色を隠しきれない顔を照らしている。爆ぜる薪の音だけが、しばらくの間、重い沈黙を埋めていた。

 

「今週だけで、七回か」

 

 ファルコが、指折り数えながら呟いた。

 

「以前とは、桁が違う」

 

「これじゃ、まともに眠る暇もない」

 

 ドリオが息を吐きながら答えると、レベッカが不満げに肩をすくめた。

 

「いっそ、片っ端から撃ち落としてやりゃいいだろ」

 

「それは、駄目」

 

 食い気味に、ニッカが遮った。

 

「撃ち落とせば、こっちの位置がもっとはっきり伝わる」

 

「じゃあ、指くわえて見てろってのか」

 

「今は、そう」

 

 短いやり取りに、レベッカは口を尖らせた。

 

  

 

「迷彩アンテナの出力、上げられないのか」

 

 メインの問いに、ニッカは首を振った。

 

「上げてる。でも、相手も学習速度を上げてる。イタチごっこになってきてる」

 

「際限なく、続くってことか」

 

「多分、続く。向こうが諦めるまで」

 

 答えながら、ニッカは自分の声に滲む疲労を隠しきれずにいた。

 

  

 

 深夜、警告音が三度目に鳴り響いたのは、日付が変わる少し前のことだった。

 

 工具箱にもたれかかって眠りかけていたニッカは、跳ねるように身を起こした。頭の奥が鈍く痛み、寝不足の体が抗議するように重かった。制御盤に駆け寄り、表示を確かめる。今度は、地表に近い低空を、ゆっくりと滑るように移動する機体だった。

 

「……今度は、こっちも見てる」

 

 映像の一部に、旋回しながらガレージの外周をなぞる軌跡が映り込んでいた。以前のように、ただ上空を通過するだけの動きではない。明確に、この場所を対象として観察している動きだった。

 

  

 

 眠っていたはずのメインたちが、次々と目を覚まして集まってきた。

 

「今度は、何が」

 

「多分、これまでで一番、はっきり見られてる」

 

 ニッカの声には、隠しきれない硬さが滲んでいた。画面を覗き込んだキーウィが、煙草に火を点けながら低く呟いた。

 

「もう、隠す気もないってことだ」

 

「隠す気もない、って」

 

「探る段階は、終わったんだろう。これからは、確認の段階だ」

 

 冷たい響きに、誰もがしばらく口を閉ざした。

 

  

 

 翌朝、赤くなった目を擦りながら、ニッカは工具箱の縁に座り込んでいた。

 

 連日の警告音のせいで、まともに眠れた日がもうしばらくない。手元の作業に集中しようとしても、頭の片隅では常に外周モニターの音を待ち構えてしまっている。積み上げてきた静かな暮らしが、少しずつ削り取られていく感覚だけが、胸の中に沈んでいった。

 

「……大丈夫か」

 

 傍らに腰を下ろしたドリオが、静かに尋ねてきた。

 

「別に。ちょっと、眠いだけ」

 

「ちょっとじゃないでしょう。ここ数日、まともに寝てないのは分かってる」

 

 痛いところを突かれ、ニッカは黙り込んだ。

 

「あんた、抱え込む癖、まだ直ってないわね」

 

「抱え込んでる、つもりはない」

 

「つもりがなくても、そうなってる」

 

 静かな指摘に、ニッカは肩を落とした。

 

「じゃあ、どうすればいいの」

 

「今、こうして話してる。それだけで、少しは違う」

 

 あっさりとした答えに、ニッカはしばらく黙り込んだ。誰かに気にかけられる重みに、彼女はまだ慣れきれていない。それでも、拒む理由はもう見つからなかった。

 

  

 

 昼過ぎ、水筒を抱えた少女が、母親と共に顔を出した。荒野を渡る風が、いつもより強く砂埃を巻き上げている。

 

「ニッカ姉、また上に何か飛んでる?」

 

 小さな声で尋ねる少女に、ニッカは無理に笑みを作った。

 

「うん。でも、大丈夫。ちゃんと見張ってるから」

 

「……本当に、大丈夫?」

 

 少女の問いには、以前にはなかった不安の色が滲んでいた。傍らに立つ母親も、強張った表情のまま口を開いた。

 

「あの、最近は、水を届けに来るのも、少し怖くて」

 

「無理しなくていい。危ないと思ったら、来なくて構わない」

 

 その言葉に、母親は俯いたまま、小さく首を振った。

 

「この子が、どうしてもニッカ姉に会いたいと言うので」

 

 少女は、水筒を抱く腕に力を込めていた。いつもなら真っ先に差し出すはずのそれを、今日はまだ胸元から離そうとしない。

 

 その様子に、ニッカは胸の奥が締め付けられるのを感じた。自分の存在が、誰かの日常にこれほど重い影を落としているという事実を、また新しく思い知らされていた。

 

  

 

「危ない目に、遭わせたくない」

 

 少女が帰った後、ニッカはぽつりと呟いた。傍らにいたファルコが、小さく頷いた。

 

「クランの人間も、同じことを思ってるはずだ。あんたを、守りたいと思ってる」

 

「守られてばかりじゃ、割に合わない」

 

「割に合う合わないの話じゃねえだろ」

 

 その日の午後、中央キャンプから顔を出した年長の男が、格納庫の様子を見て眉をひそめた。

 

「毎日この調子じゃ、水を運ぶ子供たちにまで危険が及びかねない」

 

「分かってる。だから、これ以上あの子たちを巻き込みたくない」

 

 ニッカが答えると、年長の男はしばらく黙り込んだ。

 

「クランの移住先も、次の満月の集会で決まる。お互い、腹を括る時期が近づいてるってことだ」

 

 短い一言に、ニッカは静かに頷いた。クランの選択と、自分の選択が、別々でありながら同じ地平の上にあることを、彼女は改めて意識していた。

 

「あんたは、どうするつもりだ」

 

 年長の男が、探るような目でニッカを見た。

 

「まだ、決めてない」

 

 短い答えに、男はそれ以上何も言わなかった。ただ、その沈黙の重さが、答えを急かさない気遣いだとニッカにも伝わっていた。

 

 ファルコは地図を広げ、周辺の地形をなぞった。

 

「迷彩アンテナの出力を上げ続けても、いずれ限界が来る。相手の学習速度が、こっちの改良速度を上回ったらそこで終わりだ」

 

「分かってる」

 

 短い返事に、ファルコは地図から顔を上げた。

 

「分かってるなら、次の手も考えておいた方がいい」

 

「次の手、って」

 

「ここに、いつまでも留まるって手だけじゃない、って話だ」

 

 静かな一言に、ニッカはしばらく言葉を失った。バートが遺したこの場所を、易々と手放す選択肢など、これまで考えたこともなかった。

 

  

 

 少し遅れて、デイビッドがガレージに顔を出した。母のグロリアからの言伝を携えていた。

 

「母さんが、心配してた。最近、この辺りが物々しいって噂を聞いたって」

 

「噂、って」

 

「バッドランズで、企業の車両をよく見かけるようになったって話。詳しいことは知らないみたいだけど、ニッカのことを気にかけてた」

 

 退院してからというもの、こうして人づてにでも様子を尋ねてくる母親らしさに、ニッカは小さく頬を緩めた。

 

 デイビッドの言葉に、ニッカは苦笑した。

 

「あの人まで、心配性が移ったみたい」

 

「移ったんじゃなくて、元からだろ、あの人は」

 

 軽口の応酬に、張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。それでも、デイビッドの表情の奥には、隠しきれない懸念が浮かんでいた。

 

  

 

「なあ、ニッカ」

 

「なに」

 

「もし、危ないってなったら、遠慮なく言えよ。俺たちにできることなら、なんでもする」

 

「今のところ、まだ大丈夫」

 

「まだ、ってことは」

 

 デイビッドの問いに、ニッカはすぐには答えなかった。空を見上げ、灰色の機体が消えた方角を、しばらく見つめ続けた。

 

  

 

 入れ替わりに、見張りの青年が交代の時間を報告しに顔を出した。以前より一回り増えた巡回の名簿を手に、彼の表情には隠しきれない疲労が滲んでいた。目の下の隈は、ニッカのものと大差なかった。

 

「今日から、見張りを三交代にした。夜通し、誰かしら起きてる状態にする」

 

「無理、してない?」

 

 ニッカが尋ねると、青年は首を振った。

 

「無理はしてる。でも、今度こそ誰も一人にしない。それだけは、譲れねえから」

 

 以前、襲撃の際にガレージを離れざるを得なかったことを、彼はまだ悔いているようだった。ニッカはその横顔をしばらく見つめ、それ以上何も言わなかった。誰かの負い目に、軽々しく触れていい言葉を、彼女はまだ持ち合わせていない。

 

  

 

 夕暮れ、格納庫の隅でメインたちが車座になり、低い声で言葉を交わしていた。

 

「移動するにしても、行き先の当てはあるのか」

 

 ドリオの問いに、ファルコは腕を組んだ。

 

「候補はいくつか浮かんでる。だが、どこも一長一短だ。荒野の別の場所じゃ、また同じことの繰り返しになりかねない」

 

「じゃあ、荒野以外か」

 

「ナイトシティの中に潜り込む、って手もある。皮肉な話だけどな。企業の目が届きにくい場所は、案外あの街の奥の方にあったりする」

 

 その一言に、ニッカは顔を上げた。ナイトシティという言葉に、体が反射的に強張るのが分かった。だが、すぐに彼女はその強張りを飲み込んだ。

 

「……まだ、そこまでは考えてない」

 

「今すぐ決める必要はねえよ。ただ、選択肢の一つとして、頭の隅に置いといてくれ」

 

 ニッカは、それだけ短く頷いて応えた。

 

  

 

 その晩、見張りに立つファルコの傍らに、ドリオがそっと歩み寄った。星の少ない夜空を見上げながら、二人はしばらく無言のまま並んで立っていた。

 

「あの子、随分と痩せたわね」

 

「無理もねえだろ。連日、あの調子じゃ」

 

 ファルコは小銃を担ぎ直し、遠くの地平線に目を凝らした。

 

「あの子も、そろそろ潮時だと思い始めてるんじゃねえか」

 

「まだ、迷ってるだけかもしれない。でも、迷ってるってことは、もう半分は答えが出てるようなものよ」

 

 ドリオの言葉に、ファルコは小さく頷いた。

 

「ニッカの話に出てくるバートって爺さんなら、何て言ったと思う」

 

 ドリオはしばらく考え込み、それから小さく笑った。

 

「会ったこともないのに、何となく分かる気がするから不思議よね。きっと、何も言わずに、黙って荷造りを手伝ってたんじゃないかしら」

 

 その言葉に、ファルコはわずかに口元を緩めた。夜風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。

 

  

 

 その夜も、警告音は二度鳴った。

 

 一度目は、日が落ちて間もない時間帯。二度目は、深夜を過ぎた頃だった。そのたびに跳ね起き、制御盤の前で息を潜める日々が、もう一週間近く続いている。

 

 ニッカは、赤く充血した目を擦りながら、外周モニターの画面を見つめ続けていた。灰色の機体が、また高度を変えて旋回している。以前なら、その動きに戦慄したはずだった。だが今は、疲労の方が恐怖を上回っている自分に気づいていた。

 

  

 

 翌朝、朝食の支度をしていたレベッカが、珍しく神妙な顔でニッカに歩み寄ってきた。

 

「よお、ニッカ」

 

「なに」

 

「あんた、目の下、真っ黒だぞ」

 

「知ってる」

 

 素っ気ない答えに、レベッカは眉根を寄せた。

 

「知ってるなら、少しは休めよ」

 

「休みたいけど、休めない」

 

「なんでだよ」

 

「休んでる間に、来られたら困るから」

 

 あっけらかんとした答えに、レベッカは何も言い返せなかった。ただ、その横顔に浮かぶ疲労の色を、彼女は黙って見つめ続けた。

 

  

 

 三度目の警告音が、その日の昼過ぎに鳴った。

 

 二度目からまだ半日と経っていなかった。制御盤の前に駆け寄ったニッカは、表示された座標を見た瞬間、しばらく動けなくなった。

 

 この日だけで、三度目。今週だけで、数えるのも億劫になるほどの回数だった。

 

「……もう」

 

 喉の奥から、掠れた声が漏れた。

 

  

 

 工具箱を蹴りつけたい衝動を、ニッカはかろうじて抑え込んだ。代わりに、拳を握りしめたまま、制御盤の前に立ち尽くす。

 

 積み重なっていた疲労が、指先の震えとなって表れていた。恐怖のせいだけではないと、彼女自身にもはっきり分かっていた。

 

「……もう、限界かもしれない」

 

 誰へともなく漏れた呟きは、いつもの彼女らしくない、力の抜けた声だった。

 

  

 

 その呟きを拾い、メインたちが次々と駆け寄ってきた。

 

「どうした」

 

「別に。何でもない」

 

 答える声に、いつもの棘はなかった。ニッカは、制御盤の画面から目を離さなかった。

 

「三度目。今日、だけで」

 

 言葉少ない報告に、格納庫の空気が沈んだ。すぐには、誰も言葉を継げなかった。

 

  

 

 やがて、ニッカは制御盤の縁に両手をついた。指先の震えを、隠す気力すらもう残っていなかった。

 

「眠るたびに、起こされる。作業してても、次はいつかって、頭の隅がずっと落ち着かない」

 

 声は、大きくはなかった。それでも、そこに滲んだ疲労の重さだけは、その場にいた誰の耳にも確かに届いていた。

 

「私は、ただ静かにガラクタ直してたいだけなのに」

 

  

 

「……それで、終わりか」

 

 メインが、静かに問いかけた。ニッカは顔を上げないまま、小さく首を振った。

 

「まだ、ある」

 

「聞かせろ」

 

「もう、ここには」

 

 言葉を切り、ニッカは制御盤の画面へ視線を落とした。灰色の機体が、まだそこに浮かんでいる。バートが遺したこの場所で、彼女はずっと静かに生きてきたはずだった。その平穏が、今や見る影もなく削り取られている。

 

  

 

 やがて、ニッカは顔を上げた。声に滲んでいた疲労が、少しずつ別の色へ変わっていく。

 

「もう、ここを守り続けるだけじゃ、駄目な気がする」

 

 その一言に、格納庫の空気が静かに張り詰めた。ドリオが、そっと歩み寄る。

 

「それって」

 

「引っ越す。この場所を、捨てる」

 

 はっきりと告げられた言葉に、誰もすぐには反応できなかった。

 

  

 

「……バートが、遺した場所なのに」

 

 ぽつりと零れたニッカ自身の呟きに、彼女は一瞬、唇を噛んだ。それでも、迷いを振り払うように、彼女は続けた。

 

「場所に、こだわってる場合じゃない。ここにいる限り、あの機械は毎日来る。来るたびに、みんなの眠りも、暮らしも削られていく」

 

「それは、分かってる。だが」

 

 メインが口を挟もうとすると、ニッカは首を振った。

 

「分かってるなら、聞いて。私は、この場所そのものより、ここで積み上げてきたものの方が大事なの」

 

 その言葉に、ドリオが小さく息を呑んだ。

 

  

 

「この場所に、思い出がないわけじゃない。むしろ、多すぎるくらい」

 

 ニッカは、震える声のまま続けた。

 

「でも、思い出はここに置いていっても、消えたりしない。留まり続けて、みんなを危険に晒し続ける方が、よっぽど嫌」

 

  

 

 しばらく黙り込んだ末に、メインが低く口を開いた。

 

「……お前が、そこまで言うなら」

 

「反対、しないの」

 

「反対する理由が、どこにあるってんだ」

 

 メインは、静かに一同を見渡した。

 

「守るべきものは、場所じゃねえ。お前と、お前が守ろうとしてる連中だ。それが変わらねえなら、場所なんざ、いくらでも移せばいい」

 

 その一言に、ドリオもファルコも、黙って頷いた。

 

  

 

「あたしも、賛成」

 

 レベッカが、腕を組みながら言った。

 

「毎日毎日、空にあんな不気味なもん浮かべられてちゃ、こっちの気が休まらねえ。どうせ引っ越すなら、さっさと動いた方がいい」

 

「私も」

 

 ルーシーが、端末をしまいながら続けた。

 

「今の場所は、監視の網が厚すぎる。動くなら、早い方がいい」

 

  

 

 キーウィが、煙草の灰を落としながら口を挟んだ。

 

「決めたのなら、迷うだけ時間の無駄だ。荷造りの算段を、早いところ立てておけ」

 

「行き先は、どうする」

 

 ニッカが尋ねると、キーウィは短く答えた。

 

「今すぐ決めなくていい。ただ、荒野の外にも目を向けておいた方がいい。狭い視野で選べば、また同じ轍を踏む」

 

 その言葉に、ファルコが小さく頷いた。

 

「候補は、こっちで洗っておく。あんたは、荷物の算段に集中しろ」

 

  

 

 窓の外、夕陽が荒野を橙色に染め始めていた。制御盤の画面には、まだ灰色の機体が浮かんでいる。だが、その光景を見つめるニッカの目には、これまでとは違う色が宿っていた。

 

 守るべきものは、場所ではない。バートの教えを、ようやく本当の意味で噛みしめた気がした。この土地に刻まれた記憶を胸に抱いたまま、彼女は新しい場所で、また一から積み上げていく覚悟を固めていた。

 

 瞼の裏に、遠い記憶がふと蘇った。まだ幼かった頃、隣のクランが土地を捨てて移り住むという話を聞き、ニッカは駄々をこねてバートに縋りついたことがあった。どうして住み慣れた場所を捨てられるのか、幼い心にはどうしても理解できなかった。

 

 バートは笑いながら、こう答えた。

 

 土地に根を張るのは、木だけでいい。人ってのは、荷物を担いで歩くようにできてる。大事なものは、いつでも一緒に運べる。

 

 当時は分かったふりをして頷いただけだった。だが今、その言葉の意味が、ようやく体の芯まで染み込んでくる気がした。

 

 道具箱の蓋に手を置き、ニッカはしばらくその感触を確かめていた。何度も開け閉めしてきた蝶番の軋みが、今夜はいつもより重く響いた気がした。この箱と共に歩んできた歳月の分だけ、決断の重さも増していく。それでも、彼女はもう迷わなかった。

 

  

 

「明日から、荷造りを始める」

 

 ニッカの一言に、誰も異を唱えなかった。ただ、それぞれの胸の内には、これから始まる大仕事への緊張があった。その奥で、どこか清々しい決意が静かに広がっていくのを、誰もが感じ取っていた。

 

 レベッカが、いつもより静かな声で頷いた。ドリオもファルコも、それぞれの持ち場へ戻っていく。誰も多くを語らなかったが、迷いより先に、次にすべきことへ向かう確かさが足取りに滲んでいた。

 

 乾いた風が、格納庫の隙間を吹き抜けていく。灰色の機体は、まだ空の高いところで、静かに旋回を続けていた。

 

  

 

 翌朝、日の出とともに、ニッカは棚の奥から使っていない木箱を引っ張り出した。埃を払い、蓋を開けると、かつて仕分けたまま忘れていた予備の部品が、ぎっしりと詰まっていた。

 

「まずは、これから」

 

 誰にともなく呟き、彼女は木箱を作業台の上に置いた。長年かけて積み上げてきたガラクタの山を前に、ニッカはしばらく立ち尽くした。どこから手をつければいいのか、見当もつかないほどの量だった。それでも、逃げるつもりはなかった。

 

 作業台の隅に、分解したままのレベッカの照準器が転がっていた。組み上げ直す時間は、まだ取れていない。壊れたままでは、どこにも連れていけない。ニッカはそれを手のひらに乗せ、油の乗った部品を一つずつ布に包んでいった。小さなものから順に、運べる形にしていく。それが、これから始まる仕事の、最初の一歩のような気がした。

 

 外周モニターの画面には、まだ何も映っていない。だが、その静けさが長くは続かないことを、ニッカはもう十分に理解していた。荷造りという新しい仕事が、これから始まろうとしていた。

 

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