夕暮れの街角で別れたルーシーとは、それから幾度か顔を合わせるようになっていた。
デイビッドの方から探したわけではない。用もないのに路地裏を歩いていると、決まって彼女はそこにいた。青みがかった髪を夜風になびかせながら、壁に寄りかかって煙草に似た何かをくゆらせている。それが日常の一部になるまでに、そう長い時間はかからなかった。
「今日も来たのね」
「別に、あんたに会いに来たわけじゃない」
「そう」
短いやりとりだけで、ルーシーはそれ以上追及してこない。その素っ気なさが、デイビッドにはかえって心地よかった。誰かに気を遣われることに、彼はもう疲れ切っていた。学校の連中も、工場の同僚も、彼を見る目にはいつも憐れみが滲んでいる。だがルーシーの視線には、そうした湿った感情がまるでなかった。ただ黙って隣にいるだけの時間が、デイビッドにとっては珍しく息のできる時間になっていた。
会話らしい会話をするわけでもない。互いに近況を語り合うでもない。それでも、ネオンの滲む夜の路地に並んで立っているだけで、胸の奥にわだかまっていた重さが、少しだけ軽くなる気がした。ルーシーの方も、その静けさを気に入っているようだった。二人の間に流れる沈黙は、気まずさとは無縁の、不思議と落ち着いたものだった。
母の容体は落ち着いていたが、退院の目処はまだ立っていない。入院費の請求書は日を追うごとに厚みを増していった。工場の夜勤とアルバイトを掛け持ちしても、追いつく気配はなかった。財布の中身を数えるたび、デイビッドは目の前が暗くなるような感覚に襲われた。
支払いの督促は容赦なく届き続けた。冷蔵庫の中身はいつも寂しく、学校からの連絡も、いつしか完全に無視するようになっていた。友人と呼べる相手も、気づけば一人また一人と離れていった。それでも、母の病室に足を運ぶ時間だけは削らなかった。眠り続けていた頃の母の顔を思い出すたび、デイビッドは自分の中に何か焦げつくような焦りが募るのを感じていた。
背中に埋め込まれたままの部品のことを、彼はできるだけ考えないようにしていた。ニッカという名の女が施した謎の改造は、今のところ何の不調も引き起こしていない。それどころか、体の輪郭がいつもより鮮明に感じられるほどだった。眠りから覚めるたびに、頭の中を覆っていたはずの薄い霞がまだ晴れたままであることに、デイビッドは奇妙な安堵を覚えていた。
時折、あの夜のことを思い出しては、デイビッドは一人で首を振った。バッドランズの果てにあったガレージも、そこで交わした短いやりとりも、今となっては夢の続きのように感じられることがある。それでも背中に触れれば、確かな重みと熱の記憶がそこにあった。あれは夢などではなかった。
その夜も、二人は同じ路地の同じ場所で言葉を交わしていた。
「あんた、なんでいつもこんな時間にここにいるんだ」
「暇だから。それだけ」
「ネットランナーなんだろ。もっと稼げる仕事があるんじゃないのか」
ルーシーは煙を吐き出しながら、遠くのネオンに視線を向けた。
「稼ぐことに興味はないの。私が欲しいのは、ここじゃないどこかへ行くための切符だけ」
「どこかって」
「月」
あまりに唐突な答えに、デイビッドは一瞬言葉を失った。ルーシーの横顔には、冗談を言っている気配など微塵もなかった。街の明滅する光を映したその瞳は、どこか遠くを見据えているようだった。
「本気で言ってんのか」
「本気じゃなきゃ、こんな街で息を吸っていられないでしょう」
その言葉には、彼女なりの重みが確かに滲んでいた。デイビッドはそれ以上踏み込まなかった。互いにまだ、踏み込むだけの理由を持っていなかった。
沈黙が落ちると、遠くから工場のサイレンが低く響いてきた。夜勤の交代を告げる音だった。デイビッドはその音を耳の端で拾いながら、まだ動く気になれずにいた。
「あんたは、ネットランナーとしてどれくらい稼げるんだ」
「聞いてどうするの」
「別に。ただ、あんたみたいな腕があれば、俺の母さんの入院費くらい、あっという間に片付くんじゃないかと思って」
ルーシーは煙を吐き出すと、初めてデイビッドの方に視線を向けた。感情の読めない、静かな目だった。
「お金で解決できることなら、とっくにそうしてる。でも、この街のお金はたいてい誰かの血の匂いがついてるものよ。あなたのお母さんの入院費も、きっとその例外じゃない」
その言葉が、思いのほかデイビッドの胸に刺さった。何も言い返せないまま、彼は視線を落とした。
「あんたは」
ルーシーがふと尋ねた。
「あんたは、何が欲しいの」
デイビッドは即答できなかった。母を助けたい、それだけがずっと彼を動かしてきた理由だった。だがその奥に、もっと別の何かが疼いていることにも、彼はうすうす気づいていた。
「……分からない。ただ、このままじゃ駄目だってことは分かる」
「贅沢な悩みね」
ルーシーはそう言って、小さく笑った。皮肉ではなく、どこか羨むような響きがその声にはあった。
その帰り道だった。
工業地区の外れ、廃棄されたコンテナが積み重なる一角を通りかかったとき、デイビッドは背後に人の気配を感じた。振り向くべきかどうか迷った一瞬のうちに、答えは向こうから示された。
振り返るより早く、三つの影が前後を塞いでいた。
周囲に人の姿はなかった。コンテナの隙間を抜ける風の音だけが、やけに大きく耳に響いていた。デイビッドは息を殺し、三つの影の輪郭を素早く見定めようとした。逃げ道を探る間もなく、それぞれの立ち位置は、すでに彼を囲い込む形に定まっていた。
先頭に立つのは、頭一つ抜けた体格の男だった。分厚い肩と、無駄のない立ち姿。街灯に照らされたその輪郭だけで、素人ではないことが伝わってきた。低く唸るような声で、男は口を開いた。
「デイビッドってのはお前か」
答える前に、隣に立つ大柄な女がじろりと視線を寄越した。腕には重装備のガントレットが仕込まれているのが、街灯の光でかすかに見て取れた。
「メイン、こいつよ。グロリアの息子」
「間違いなさそうだな」
デイビッドの背筋を、冷たいものが伝った。逃げ場を探して視線を巡らせたが、三方はすでに塞がれていた。
「あんたら、母さんの知り合いか」
「知り合いっつーか、貸しがある相手だな」
メインと呼ばれた男は、ゆっくりと距離を詰めてきた。その歩き方には、無駄な動きが一切なかった。獲物を追い詰めることに慣れた獣の歩みだった。
「あんたのお袋さんに、大事な物を預けてたんだ。だが最近、その預け物が動いた形跡があってな」
「サンデヴィスタンの話か」
デイビッドの返答に、メインの目つきが変わった。それまでの探るような色が消え、代わりに何かを見定めるような鋭さが宿った。
「話が早くて助かるぜ。それ、今どこにある」
「……ここにある」
デイビッドは自分の背中に手を当てた。認めることに、迷いはあった。それでも今さら誤魔化す道理もなかった。嘘をついたところで、この男たちが素直に信じるとも思えなかった。
「――は?」
隣に立っていた小柄な女が、素っ頓狂な声を上げた。
「――てめえ、まさか勝手に自分の体に入れたのか! ミリテク規格のインプラントだぞ、それ! ガキが素人施術で扱えるようなシロモノじゃねえだろうが!」
「レベッカ、まずは話を聞け」
メインが片手で制すると、レベッカと呼ばれた女は口を尖らせながらも一歩下がった。それでも視線だけは、疑わしげにデイビッドの背中に注がれ続けていた。
「返してもらうぜ。無事に生きてるみたいだから、ごちゃごちゃ言うつもりはねえ」
「返せば、どうなるんだ」
「知ったことか。俺たちの物だ、返してもらう。それだけだ」
その物言いに、デイビッドの中で何かが強張った。
金のためだけに使ったのではない。母のために、藁にもすがる思いで手を出したものだった。それを一言で取り上げられることに、彼は納得できずにいた。奥歯を噛みしめながら、デイビッドは一歩も動かなかった。
「悪いけど、簡単には渡せない」
「あぁ?」
メインの声が、一段低くなった。空気そのものが張り詰めるのを、デイビッドは肌で感じ取った。
「坊主、状況がわかってねえみたいだな。俺たちは頼んでるわけじゃねえんだよ」
言い終えるより早く、メインの拳が動いた。
考える暇はなかった。
視界の端で、影が膨らむように迫ってくる。デイビッドの体は、思考よりも先に動いていた。指先に触れた背中の起動スイッチを、無意識のうちに押し込んでいた。
世界の色が、変わった。
風の音が消え、時間の流れが粘つくように遅くなる。メインの拳が、まるで静止画のようにゆっくりと空を切っていくのが見えた。デイビッドは体を半歩後ろに引き、拳の軌道を紙一重で躱していた。
熱は、なかった。
以前廃工場で味わった、頭蓋の内側を焼き尽くすような苦しみが、今はどこにもない。むしろ体の奥から、静かな冷たさが染み渡っていくような感覚があった。まるで、初めから自分がこの速度で生きてきたかのような、奇妙な馴染み方だった。
「な……っ!?」
拳が空を切ったことに気づいたメインが、驚愕の表情を浮かべた。だが、その表情の変化さえ、デイビッドの目にはやけにゆっくりと映っていた。世界のすべてが、静かに引き延ばされたフィルムのように見えていた。
続けて放たれた蹴りを、デイビッドは体を捻ってかわした。頭で計算したわけではなかった。体が勝手に、最も無駄のない軌道を選んでいた。まるで見えない誰かに手を引かれているかのようだった。
「てめえ、なんだそのレスポンスは!」
レベッカが銃を構えかけるのを、メインが片手で制した。
「待て。まだ様子を見る」
メインは荒く息をつきながら、じっとデイビッドを見据えていた。何度目かの拳を放つ。今度はフェイントを織り交ぜた、実戦仕込みの攻撃だった。それでもデイビッドの体は、まるで先読みしているかのように反応した。
拳を躱すたび、視界の端に映るコンテナの錆や、地面に落ちた埃の一粒までもが、やけに克明に見て取れた。感覚が研ぎ澄まされていくのと引き換えに、恐怖という感情だけが遠のいていく。それが正しいことなのかどうか、デイビッドには判断がつかなかった。
不思議なのは、体の内側に苦痛の気配が一切ないことだった。廃工場でサンデヴィスタンを起動させたあの夜は、数秒と経たずに頭蓋が沸騰するような痛みに襲われた。今はその痛みの代わりに、奇妙なまでの静けさが体の芯に居座っている。まるで誰かの手のひらの上で、そっと守られているかのような感覚だった。デイビッドはその静けさの理由を、まだ言葉にすることができずにいた。
数分にも感じられたその応酬は、実際には数十秒のことだった。
やがてメインは動きを止め、荒い呼吸を整えながら距離を取った。汗が額を伝い落ちていく。デイビッドもまた、肩で息をしながらその場に立ち尽くしていた。だが不思議なことに、疲労は思ったほど深くなかった。全力で動いたはずなのに、体の奥に燻るような熱は感じられなかった。
「……なんだ、それ」
メインの声には、明らかな困惑が滲んでいた。
「サンデヴィスタンだ。何のことはない、あんたが預けてたやつだよ」
「そういう意味じゃねえ」
メインはゆっくりと首を振った。
「サンデヴィスタンは知ってる。だがな、あんな連続稼働は聞いたことがねえ。普通は数秒起動しただけで、神経が悲鳴を上げて強制停止がかかる。お前は今、何十秒も止まらずに動いてたんだぞ」
言われて初めて、デイビッドは自分の体の異常さに気づいた。頭に浮かんでいたのは、あの夜の記憶ではなかった。作業台の上で、静かに講義するように語っていたニッカの声だった。
――たぶん、普通に稼働させても脳が茹だることはないと思う。
「発熱もねえ。呼吸も乱れちゃいるが、神経系がイカレた様子は微塵もねえ。おかしいだろ、これは」
メインの視線が、デイビッドの背中へと移った。
「その背中、見せてみろ」
戸惑いながらも、デイビッドは上着をめくった。街灯の淡い光の下、肩甲骨から背骨に沿って刻まれた見慣れぬ機構が露わになる。廃品のヒートシンクと配線を組み合わせただけの、粗末に見える継ぎ接ぎの塊だった。
メインは目を細め、無言でそれを凝視していた。長い沈黙が流れた。
「……なんだ、この配線」
呟くように漏れた声には、これまでの荒々しさとは違う響きがあった。
「規格外の熱伝導効率だ。それに、この分岐の仕方……見たことねえ設計だぞ」
ドリオと呼ばれる大柄な女も、覗き込むようにして息を呑んだ。
「メイン、これ……素人の仕事じゃないでしょう」
「わかってる」
メインは低く唸り、デイビッドの肩を掴んだ。指先に込められた力に、デイビッドは思わず身を強張らせた。
「おい、これは誰がやった」
「知り合いだ。バッドランズに住んでる、ただのメカニックだよ」
「ただの、ね」
メインは信じがたいという表情を崩さなかった。
「ミリテクの研究施設ですら、こんな効率の冷却回路は作れねえ。それを廃品でやってのけたって言うのか」
デイビッドは何と答えていいか分からず、ただ頷くしかなかった。実感としては、彼自身にもよく分かっていなかった。あの夜、ニッカが早口でまくし立てていた言葉の意味を、彼はまだ半分も理解できていなかった。
「レベッカ、この配線、お前の目にはどう見える」
「あたしに聞くなよ。銃をぶっ放すのは得意だけど、こまけえ配線とか専門外だっての」
レベッカは口を尖らせながらも、興味を隠しきれない様子で近づいてきた。顔を近づけて配線を睨みつけると、やがて低く唸った。
「でもよ、これ……なんかヤバい匂いがするな。廃品でここまでやるとか、逆に怖ぇよ」
「同感だな」
レベッカは腕組みをしたまま、値踏みするようにデイビッドの全身を眺め回した。
「なあ、聞いてもいいか。さっきの動き、あんた自分でコントロールしてたのか」
「いや……正直、自分でも何が起きたのかよく分かってない。体が勝手に動いてた」
「だろうな。目、完全に据わってたもん。あたしがぶっ放そうとしたときも、たぶん躱してた」
その言葉に、デイビッドの背筋がひやりとした。もし本当に発砲されていたら、自分は今頃どうなっていたか分からない。だが同時に、あの瞬間の自分なら、その弾丸すら躱せていたかもしれないという確信めいた感覚もあった。それが恐ろしくもあり、どこか誇らしくもあった。
メインは腕を組み、しばらく考え込んでいた。それから、探るような目でデイビッドを見据えた。
「デイビッド、だったな。お前、何が目的でこいつを使った」
「……母さんの治療費を稼ぐためだ」
正直にそう答えるしかなかった。誤魔化しても、この状況では意味がないと分かっていた。
「母さんが事故に遭って、入院してる。医療費が払いきれなくて、他に方法が思いつかなかったんだ」
その言葉に、メインの表情がわずかに緩んだ。
「グロリアか。あいつも、苦労してるんだな」
「あんた、母さんのこと知ってるのか」
「腐れ縁ってやつだ。荒事の後始末を、よく頼んでた」
メインは短く答えると、それ以上の説明を省いた。ドリオがその横で小さく息を吐き、腕を組んだまま黙って成り行きを見守っていた。
「グロリアには、世話になったこともある。だからこそ、あいつの息子をむざむざ痛めつける気はなかったんだがな」
メインはそう言って、片手で首の後ろを掻いた。先ほどまでの威圧的な空気は、いつのまにか薄れていた。
「まあ、痛めつけようにも、こっちがまるで手を出せなかったわけだが」
その言葉に、レベッカが噴き出すように笑った。
「だよなあ! あのメインが手も足も出ねえとか、あたし初めて見たぜ」
「うるせえ」
メインは苦い顔をしながらも、それ以上は言い返さなかった。
しばらくの沈黙のあと、メインはドリオと視線を交わした。何かを確かめ合うような、短いやりとりだった。ドリオが小さく頷くのを見て、メインは再びデイビッドに向き直った。
「デイビッド、お前、この後どうするつもりだ」
「どうするって」
「サンデヴィスタンは返してもらう。だが、お前の腕っぷしとその反射神経は、本物だ。誤魔化しようのない才能だな」
思わぬ言葉に、デイビッドは息を呑んだ。
「才能……俺に?」
「勘違いすんなよ。あくまで素材の話だ。まだ何も証明されちゃいねえ」
そう言いながらも、メインの目には確かな興味の色が浮かんでいた。値踏みをするような視線ではなく、むしろ何かを見出したような、静かな熱を帯びた目だった。
「稼ぎたいんだろ。母親のためによ」
「……ああ」
「なら、俺たちと組んでみるか」
隣でレベッカが「は?」と声を上げたが、メインはそれを無視して続けた。
「エッジランナーの仕事だ。命の保証はねえ。だが、お前の反射神経とその改造があれば、話は変わってくる」
デイビッドは即答できなかった。母の言葉が、頭の奥で警鐘のように鳴り響いていた。
――あの世界に、簡単に足を踏み入れちゃだめ。エッジランナーの仕事は、命を賭けるだけの価値なんて、本当はどこにもないんだから。
だが同時に、あの夜に味わった感覚が、まだ体の芯に焼きついていた。世界の速度を追い越すあの感覚を、彼はもう一度確かめたいと思っていた。母を守るための力が、目の前に差し出されている。その事実が、デイビッドの迷いを押し流していった。
「お前が嫌だってんなら、無理にとは言わねえ」
メインが静かに付け加えた。
「だが、稼ぐ手段を探してるなら、お前にはその素質がある。それだけは確かだ」
レベッカが横から口を挟んだ。
「ま、あたしとしちゃ反対はしねえけどな。使えるやつは大歓迎だ」
その言葉には、これまでの刺々しさとは違う響きが混ざっていた。デイビッドはしばらく黙り込んだまま、地面を見つめていた。
「……やる。母さんのために、稼がなきゃならない」
「いい覚悟だ」
メインは満足げに頷くと、デイビッドの肩を大きな手で軽く叩いた。
「歓迎するぜ、坊主」
レベッカが呆れたように肩をすくめながらも、口元にはどこか楽しげな笑みが浮かんでいた。
「ったく、面白いことになってきたじゃねえか」
ドリオだけは、まだ何か言いたげな表情を崩さずにいた。デイビッドが背を向けた一瞬、彼女はメインの袖をそっと引いた。
「メイン、さっきの動き、少し無理してなかった?」
「大した動きじゃねえよ」
「あんた、最近すぐそうやって誤魔化す」
ドリオの声には、咎めるというより案じるような響きがあった。メインはそれに答えず、ただ小さく肩をすくめただけだった。その仕草を、デイビッドは振り返らないまま、気配だけで感じ取っていた。
三人が去っていく足音が、路地の奥に消えていく。デイビッドはその場にしばらく立ち尽くしたまま、自分の背中に触れていた。
指先に伝わる感触は、いつもと変わらない継ぎ接ぎの機構だった。それでも、その粗末な部品が今夜、確かに彼の人生を変えていた。膝がまだ小さく震えていることに、彼は今さらのように気づいた。恐怖が薄れていたのは、あの高速の世界の中だけだったらしい。
――誰なんだ、あんた。
脳裏に浮かぶのは、バッドランズの奥、トタン屋根のガレージで工具を握っていた女の横顔だった。オイル汚れのついた指先で、まるで当然のことのように語っていたあの声を、デイビッドはまだ忘れられずにいた。
風が路地を吹き抜けていく。ネオンの光が、乾いた地面に不揃いな影を落としていた。
デイビッドは夜空を見上げた。星は霞んでいて、ほとんど見えなかった。それでも、遠くバッドランズの方角に、かすかな光が瞬いている気がした。
その夜、彼は帰り道の途中でルーシーの姿を探した。だが路地はもう空っぽで、誰の気配もなかった。仕方なく、デイビッドは一人で夜の街を歩いて帰った。
歩きながら、デイビッドは自分の手のひらを何度も見つめた。震えはもう止まっていたが、そこに刻まれた感触だけは消えずに残っていた。メインの拳を躱した瞬間の、あの粘つくような時間の流れ。あれを味わってしまった以上、もう後戻りはできない気がした。
母は喜ばないだろう。そのことは、痛いほど分かっていた。それでも、病室のベッドで眠り続けていた母の姿が、他のどんな言葉よりも彼の背中を押していた。稼がなければならない。誰かに強い力を借りてでも、今の状況を変えなければならない。その一心だけが、迷いを塗り潰していった。
安アパートの部屋に戻ると、デイビッドは灯りもつけずにベッドに腰を下ろした。窓の外では、いつも通りのネオンが明滅している。彼はしばらくの間、暗闇の中で自分の背中に触れ続けていた。
ふと、ルーシーの言葉が耳の奥に蘇った。
――この街で何かを望むなら、それなりの覚悟くらいは持っておいたほうがいい。
あのときは、ただの忠告としか受け取れなかった。だが今なら、その意味が少しだけ分かる気がした。何かを手に入れるためには、必ず何かを差し出さなければならない。この街の理屈は、きっとそういう風にできている。
デイビッドは深く息を吐き、ベッドに体を横たえた。天井の染みを見つめながら、彼はしばらくの間、動くこともできずにいた。明日からの生活がどう変わるのか、まだ実感は湧かなかった。それでも、後戻りできない一歩を踏み出したという事実だけは、はっきりと胸に刻まれていた。
その夜、メインは車の助手席で腕を組んだまま、しばらく黙り込んでいた。
「おい、ドリオ」
「なに」
「あの背中の配線、お前、本気でどう思う」
ドリオはハンドルを握りながら、少し考えるように視線を前に向けた。
「正直、気味が悪いくらいよ。あんな廃品の寄せ集めで、あそこまでの効率を出すなんて」
「だよな」
メインは窓の外を流れる街灯を眺めながら、低く呟いた。
「デイビッドの背中を弄った奴……一体誰だ」
その問いに、答える者は誰もいなかった。後部座席のレベッカも、珍しく口を挟まずに窓の外を見つめていた。
「ミリテクの技術者でもねえ。アラサカのプロキシでもねえ。だとすりゃ、いったい何者だってんだ」
呟きは、走行音の中に静かに溶けていった。
「あんな腕を持った奴が野放しになってるなんて、コーポの連中が知ったら黙っちゃいないでしょうね」
ドリオが呟くと、メインは短く鼻を鳴らした。
「だからこそ、こっちが先に押さえておく価値がある。デイビッドの背中を弄った奴に、いつか直接会ってみたいもんだ」
その言葉に、ドリオは何も答えなかった。ただ、フロントガラスの向こうに広がる夜の街を、じっと見つめ続けていた。バッドランズの方角には、まだ誰も気づいていない小さな灯りが、静かに揺れていた。
同じ頃、バッドランズのガレージでは、ニッカが一日の点検を終えようとしていた。
太陽光パネルの蓄電状況を確認し、周辺センサーの再起動を済ませる。防衛システムの作動確認まで一通り終えたところで、彼女はふと手を止めた。
――なんとなく、胸騒ぎがする。
理由のない予感が、胸の奥にわだかまっていた。デイビッドの姿を見送ってから、もう何日も経つ。あの少年が今どうしているのか、ニッカには知る由もなかった。
作業台の隅には、あの夜使った工具がまだ片付けられずに転がっていた。焼け焦げた基盤の破片を拾い上げ、ニッカはそれをしばらく手のひらの上で転がした。廃棄予定だったはずのその欠片が、今も誰かの命を繋ぎ止めている。そう考えると、単なる部品調整のつもりだった作業に、これまでとは違う重みが宿っているような気がした。
「別に、余計なことしただけだよ……たぶん」
誰に向けたわけでもない呟きが、静かな作業場に落ちて消えていく。作業台の明かりを見つめながら、ニッカはしばらくその場を動けずにいた。焼け焦げた基盤の匂いが、まだかすかに鼻先に残っている気がした。ニッカは基盤の破片を工具箱の隅に戻すと、いつものように棚の位置を整え始めた。手を動かしていれば、余計な考えは薄れていく。それが、彼女が長年かけて身につけてきたやり方だった。
それでも、彼が持ち去ったあの改造の中に、自分の刻んだ痕跡が確かに残っている。そのことだけが、なぜか妙に落ち着かない気持ちにさせた。
「……気のせいだといいけど」
つぶやいた声は、静まり返ったガレージに小さく落ちて、そのまま夜の闇に溶けていった。誰にも届かないその独り言は、しかしすでに、静かに動き始めた歯車の音を確かに孕んでいた。
ニッカは毛布を引き寄せながら、いつものように目を閉じた。関わらない、それが彼女の誓いだった。だがその誓いの輪郭が、少しずつ揺らぎ始めていることに、彼女自身はまだ気づいていなかった。
窓の外では、バッドランズの乾いた星空が音もなく広がっていた。彼女の平和な引きこもり生活に、賑やかで厄介な暗雲が、確かに近づき始めていた。