夜明け前、格納庫の奥からニッカが姿を現した。手には、油で汚れた工具袋がまだ提げられている。空気はまだ冷たく、吐く息がわずかに白い。徹夜作業の疲労が、瞼の裏に鈍く残っていた。
「終わった」
短い一言に、待ち構えていたファルコが顔を上げた。
「仕掛けは、全部か」
「全部。撤去できなかった部品、全部組み替えた」
ニッカは目を擦りながら、空になった格納庫を振り返った。棚の跡が残る床の隙間に、見慣れない配線の束が幾つも這っている。昨夜遅くまでかけて仕込んだ罠の全容は、彼女以外の誰にも把握しきれていなかった。
「起動条件は」
「外からの強行侵入、それだけ。中にいる人間は、絶対に巻き込まれない」
淡々と答えるニッカに、ファルコは小さく頷いた。
「解除は」
「これ」
差し出されたのは、色褪せた携帯ゲーム機だった。十字キーの塗装は剥げ、画面には蜘蛛の巣状のひびが走っている。継ぎ接ぎだらけの筐体は、いかにも頼りなさげだった。
「……解除スイッチが、それか」
「うん。Aボタン長押しで、起動と解除が切り替わる」
ファルコはしばらく無言のまま、その画面を見つめた。
「もっと、それらしい見た目のもんは、なかったのか」
「動けば十分でしょ」
あっさりとした答えに、ファルコは何も言い返せなかった。
その様子を離れたところで見ていたレベッカが、目を輝かせながら駆け寄ってきた。
「なあニッカ、それあたしが押していいか」
「駄目」
「なんでだよ」
「あんたが押すと、絶対いらないタイミングで押すから」
「押さねえよ、ちゃんと合図待つから」
食い下がるレベッカに、ニッカはゲーム機を懐へ仕舞い込んだ。
「合図を待てる人には、最初から頼んでる」
「ひでえ言われようだ」
肩を落とすレベッカの隣で、デイビッドが小さく笑った。
「お前、昨日爆弾に触りかけた前科あるだろ。信用ないのは当然だ」
「あの件は、もう時効だろうが」
「一日で時効になってたまるかよ」
軽口の応酬に、張り詰めていた格納庫の空気が、わずかに緩んだ。
傍らで話を聞いていたルーシーが、端末から目を離さずに口を挟んだ。
「その画面、電池残量が心配」
「え」
ニッカが慌てて画面を確かめると、右上の電池マークが、心許ない細さで点滅していた。
「……予備、持ってきてない」
「持ってきてないの」
「充電なんて、考えてなかった」
珍しく動揺するニッカに、ファルコが眉間を揉んだ。
「肝心なところで、詰めが甘いな、あんたは」
「今から作る。予備の電源くらい、廃品で足りる」
言うが早いか、ニッカは近くの木箱から使い古しの電池を掘り出し、手早く端子に繋ぎ直した。画面の点滅が、ようやく安定した光に変わる。
「……よし」
安堵の息を吐くニッカを見て、ファルコは天を仰いだ。
積み込みは、日の出とともに再開された。最後まで残っていた木箱の山を、メインとドリオが手際よくトラックの荷台へ運び入れていく。荷台はすでに満載に近く、隙間を埋める作業だけが黙々と続いていた。
「これで、最後だと思ってた箱なんだが」
メインが額の汗を拭いながら、棚の裏から出てきた新たな木箱を見下ろした。
「……また出てきたのか」
「三箱目だ」
ドリオが呆れた声で答えると、荷台の上からデイビッドが顔を覗かせた。
「昨日、最後だって言ってなかったか」
「昨日の最後は、昨日の最後」
ニッカは悪びれもせず言い切った。デイビッドは、天を仰ぐしかなかった。
「終わりの基準、どうなってんだよ」
「棚の裏に、まだ何かあるかどうか」
「それ基準になってねえだろ」
呆れ半分のやり取りに、荷台の上で作業していたルーシーが、珍しく口の端を緩めた。
荷台の陰で一息ついたドリオが、空になっていく格納庫の奥を、しばらく見つめていた。朝日が差し込む埃っぽい空間には、もう何も残っていない。
「随分、通ったわね、この場所にも」
「そうだな」
メインが荷物を担ぎ直しながら短く答えると、ドリオは小さく笑った。
「最初に来た時は、正体不明の防衛タレットに撃たれかけたのよ、私たち」
「懐かしい話だ」
「懐かしいで済ませていいのかしらね、あれ」
軽口を交わしながらも、二人の目には、この場所で積み重ねてきた歳月への確かな愛着が滲んでいた。
三箱目の中身を検めていたメインが、ふと動きを止めた。
「……おい、ニッカ。これは何だ」
差し出された木箱の底に、錆びた金属で作られた小さな鶏の置物が転がっていた。継ぎ接ぎの脚は不格好で、頭は少し傾いている。
「あ、それ」
ニッカの声が、わずかに柔らかくなった。
「バートが、暇潰しに作ったやつ。売り物にもならないから、ずっとしまい込んでた」
「趣味、悪くねえな」
メインが指先で突くと、鶏の首がかくかくと揺れた。荷台の上で、レベッカが吹き出した。
「なんだそれ、間抜けな顔しやがって」
「あんたに言われたくないでしょ、それ」
軽口の応酬に、緊張していた朝の空気が、少しだけ和らいだ。ニッカはその置物を指先でひとしきり撫でてから、そっと工具袋の隙間に押し込んだ。
杖をついた老女が、中央キャンプの方角からゆっくりと歩み寄ってきた。積み込みも、そろそろ大詰めを迎える頃合いだった。彼女は目を細めながら、空になった格納庫を見渡した。
「この場所も、とうとう空になっちまったね」
「うん」
「バートが、あんたを拾ってきた日のことを、まだ覚えてるよ」
老女の声には、懐かしさと寂しさが同じだけ滲んでいた。ニッカは黙って頷き、老女の傍らに膝を折った。
「泣き止まなかったあんたを、バートは一晩中抱いてた。あの馬鹿は、それを自慢話にしてたけどね」
「……初めて聞いた」
「言ってなかったのかい、あの人も」
小さく笑う老女の目に、光るものが浮かんでいた。ニッカはその手を、そっと握った。骨の浮いた指先は、思いのほか温かかった。
「新しい場所でも、達者でおやり」
「うん。落ち着いたら、必ず顔を出す」
「約束だよ」
「約束」
短いやり取りの後、老女はゆっくりと踵を返した。その背中を見送りながら、ニッカは胸の奥に灯った温かさを、しばらく噛みしめていた。
入れ替わりに、母親に手を引かれた少女が、水筒を胸に抱えたまま駆け寄ってきた。トラックの荷台を見上げ、少女は少し不安げな顔をする。
「ニッカ姉、本当に行っちゃうんだね」
「うん。でも、約束したでしょ。また会える」
少女はしばらく俯いていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「ねえ、何か、ニッカ姉の作ったやつ、一個ちょうだい」
「私の作ったやつ、って」
「お守りにする。ニッカ姉の代わりに」
真剣な眼差しに、ニッカは一瞬言葉に詰まった。渡せるものの大半は、危険物か未完成品ばかりだ。しばらく考え込んだ末、彼女は懐から小さな金属片を取り出した。
「じゃあ、これ」
「なにこれ」
「ただのボルトのキャップ。爆発しない。危なくない。約束する」
念を押すように付け加えると、少女は嬉しそうに両手で受け取った。小さな掌に収まったキャップを、少女はしばらく飽きずに眺め続けていた。母親が、その様子を見て小さく吹き出した。
「本当に、徹底してますね」
「学習した結果」
あっけらかんと答えるニッカに、母娘は顔を見合わせて笑った。
少し離れた場所で、見張りの青年が荷台の縁に手をかけていた。ニッカに気づき、彼はまっすぐこちらを見た。
「俺も、行く」
「クランの見張りは」
「交代を立てた。今度は、あんたから目を離さない。前みたいな真似は、二度としない」
固い決意の滲む声に、ニッカは頷いた。かつての負い目を、この青年はまだ胸の内に抱え続けている。それを軽々しく否定する言葉を、彼女は持ち合わせていなかった。
「……よろしく」
「ああ」
二人の間に、新しい約束がそっと結ばれていた。
入れ替わるように、年長の男が中央キャンプの方角から歩み寄ってきた。トラックの荷台を見上げ、彼はしばらく声を失ったまま立ち尽くした。
「……こんなに、荷物があったのか」
「あった」
「クラン全体の引っ越しより、多いんじゃないのか、これは」
呆れ交じりの一言に、ニッカは悪びれもせず答えた。
「十八年分だから」
その返答に、年長の男は小さく苦笑を漏らした。だが、次の瞬間には表情が引き締まり、手にした簡易端末を持ち直した。
「積み込みは」
「あと少し」
「急いでくれ。今朝の見張りから、妙な報告が上がってる」
その一言に、格納庫の空気が瞬時に張り詰めた。
「妙な、って」
ニッカが問い返すと、年長の男は端末の画面をこちらへ向けた。
「西の方角に、車両の土埃。しかも、複数」
その報告を聞きつけ、キーウィが煙草を挟んだまま制御盤へ駆け寄った。画面を素早く操作し、外周カメラの映像を呼び出す。
「……二方向だ」
「二方向?」
「西から一団、北からもう一団。どちらも、まっすぐこっちへ向かってる」
冷静なはずのキーウィの声に、わずかな硬さが混じっていた。ルーシーが端末を操作し、通信の傍受を試みる。
「暗号方式、違う」
「違う、ってことは」
「西はミリテクの索敵部隊。北は……ファラデーの追加部隊」
ルーシーの報告に、格納庫の空気が凍りついた。
「同時に、来た、ってこと」
ニッカの声が、掠れた。キーウィが煙草の灰を落としながら、短く応じる。
「偶然じゃない。どちらかが、もう一方の動きを察知して、乗っかってきたか」
「もしくは」
「示し合わせたか。どちらにしても、悠長に構えていい状況じゃない」
その言葉に、それまで荷台に立っていたメインが、勢いよく飛び降りた。
「積み込みは、後回しだ。今すぐ動くぞ」
「時間は」
ドリオが短く問うと、キーウィは画面の数値を睨みながら答えた。
「速度から見て、あと十五分。もっと早いかもしれない」
「クランの連中は」
「もう避難させてる。さっきの報告と同時に、中央キャンプへ連絡を回した」
淡々とした返答に、年長の男が頷いた。
「うちの人間は、俺が責任を持つ。あんたらは、自分の心配をしてろ」
短い言葉を残し、彼は踵を返して駆け出していった。土埃を蹴立てて遠ざかる背中を、ニッカはしばらく見送り、それから自分のすべきことへ意識を引き戻した。
「まだ、荷台に隙間がある。積み残しは」
ドリオの問いに、ニッカは短く首を振った。
「もう、いい。全部は無理」
「……本当に、いいのか」
「バートの道具袋は、もう積んだ。それがあれば、十分」
迷いのない答えに、ドリオはそれ以上何も返さなかった。優先順位を即座に見極める判断力が、この状況でも彼女の中に生きていた。荷台の隙間には、まだ拾いきれなかった廃材の欠片が、いくつか転がったままになっていた。
「乗る前に、待って」
ルーシーが、端末を片手に一同を呼び止めた。
「以前みたいに、体のどこかに発信機を仕込まれてたら、逃げた意味がなくなる。全員、簡単でいいから確認させて」
異を唱える者は、誰もいなかった。手早く端末を掲げ、ルーシーが一人ずつ確認していく。
「……ちょっと待って」
レベッカの前で、ルーシーの手が止まった。
「反応が、ある」
「は?」
血相を変えるレベッカに、ルーシーは彼女のブーツの側面を指差した。
「これ」
埋め込まれていたのは、以前捕らえたアサシンの装備から抜き取っていた発信機の残骸だった。とうに死んでいるはずのそれを、レベッカは戦利品として無自覚にブーツへ縫い付けていたらしい。
「あんた、なんでこんなもん後生大事に付けてんだよ」
デイビッドの呆れた声に、レベッカは慌てて言い訳した。
「か、かっこいいと思ったんだよ、勲章みてえで!」
「勲章が、追手の目印になるかもしれなかったんだぞ」
ニッカが半眼で指摘すると、レベッカはすっかり黙り込んでしまった。ルーシーはその場で発信機を引き剥がし、地面に投げ捨てる。
「もう、死んでる部品だから実害はなかったけど。次からは、拾った物を勝手に身につけない」
錆びた金属片が、乾いた土の上で小さく跳ねて転がった。
「……はい」
しおらしく頷くレベッカの姿に、荷台の空気がわずかに和んだ。
トラックのエンジンが、次々と唸りを上げ始めた。荷台に飛び乗ったレベッカが、銃を担ぎ直しながら叫ぶ。
「迎え撃つんじゃねえのかよ」
「数が違いすぎる。二方向から挟まれたら、詰む」
ニッカが答えると、レベッカは舌打ちしながらも荷台の縁に座り込んだ。
「じゃあ、あの罠は」
「これから、使う」
懐から取り出した携帯ゲーム機を、ニッカは強く握りしめた。
「全員、乗ったか」
運転席のファルコが、荷台へ声を張り上げた。次々と返る「乗った」の声を確認し、彼はハンドルを握り直す。
「行くぞ」
最初の一台が、土埃を巻き上げながら動き出した。続けて、二台目、三台目と、車列がガレージの前を離れていく。バックミラーに映る格納庫の輪郭が、少しずつ小さくなっていった。
荷台の隅に固定された車体へ、ニッカは一瞬だけ視線を落とした。ロープの結び目は、まだしっかりと荷台の縁に食い込んでいる。振動で緩んでいないか、指先で軽く確かめてから、彼女は視線を前へ戻した。
「……壊れるなよ」
誰へともなく囁いた声は、エンジンの唸りに紛れて消えていった。
荷台の後方に陣取ったニッカは、携帯ゲーム機の画面を見つめ続けていた。外周カメラの映像が、小さな画面の端に映り込んでいる。西からの車列は、もう格納庫まで数百メートルの距離まで迫っていた。画面を持つ手に、自然と力がこもった。
「まだか」
傍らに座ったレベッカが、待ちきれない様子で身を乗り出した。
「まだ。中に入るまで、待つ」
「入ったら」
「消える。跡形もなく」
短い答えに、レベッカは唾を飲み込んだ。
エンジンの唸りだけが、荷台に響いていた。誰も、それ以上は口を開かなかった。風の音さえ、やけに大きく聞こえた。
その時、荷台の上空を、灰色の小さな影が横切った。見慣れた偵察機の輪郭だった。
「上、来た」
デイビッドの声に、レベッカが即座に銃を構えた。
「落とす」
「駄目」
ニッカが鋭く制した。
「撃ったら、こっちの位置がもっとはっきり伝わる。前にも、同じこと言ったでしょ」
「けど、あのまま見逃していいのかよ」
「あと少しだけ、我慢して」
苛立ちを堪えるように、レベッカは銃口を下げた。頭上の機体は、しばらく旋回した後、進路を変えて西の方角へ遠ざかっていった。追跡してきた本隊への合流を急いでいるのだろうと、ニッカは画面を睨みながら判断した。
トラックが加速し、荒野の轍を土埃と共に切り裂いていく。荷台の幌が風を孕み、大きくはためいた。振り返ったデイビッドの目に、迫りくる敵の車両が映り込んだ。
「来たぞ、ニッカ」
「見えてる」
画面の中で、灰色の車両群が格納庫の敷地へ踏み込んでいく様子が映し出されていた。先頭の一台が、崩れかけた金網の門をくぐる。
「……入った」
呟いたニッカの指が、Aボタンへ触れた。指先は、微かに冷たかった。
その瞬間、画面が小さく明滅し、電池切れの警告音が鳴った。
「……嘘でしょ」
「なんだよ、今更!」
レベッカの悲鳴に近い声に、ニッカは画面を強く叩いた。明滅していた表示が、一拍置いてどうにか持ち直す。
「大丈夫、まだいける」
「まだいけるって、今の間に何かあったらどうすんだよ!」
「なかったから、いい」
冷や汗の滲む声で言い切ると、ニッカは改めてボタンへ指を置いた。
「行け」
短い一言と同時に、指先に力が込められた。息を止めたまま、彼女はボタンを押し切った。
地響きが、荒野の空気を震わせた。足元まで伝わる振動に、荷台の誰もが息を呑んだ。
振り返ったデイビッドの目に、格納庫のあった場所から、橙色の光が噴き上がる光景が飛び込んできた。光は瞬く間に膨れ上がり、崩れ落ちる建材と共に、灰色の車両群を呑み込んでいく。爆風が遅れて追いつき、幌を大きく揺らした。
「うわっ」
思わず身を屈めるデイビッドの隣で、レベッカが両手を突き上げた。
「うおおおおお、すげえ」
「喜んでる場合か」
「喜ぶだろ、これは」
叫び合う二人の声が、爆音の余韻に混じって荒野に響いた。
ニッカは、何も言わなかった。ただ、黒煙を見つめていた。指先が、まだ微かに震えている。それだけが、彼女の中に残った実感だった。
運転席のファルコは、バックミラー越しに立ち上る黒煙を一瞥した。それ以上振り返ることなく、アクセルを踏み込む。
「……派手だな」
「そのために作った」
助手席のニッカが、静かに答えた。声には、達成感よりも、乾いた疲労の色が滲んでいた。
つばの擦り切れた帽子に、ファルコはそっと指先で触れた。かつての相棒と共に走った日々も、こうして何かを置き去りにする瞬間の連続だったのかもしれない。あの時とは違い、今回は誰も失っていない。その事実だけで、胸の奥が少しだけ軽くなるのを、彼は感じていた。
しばらくの沈黙の後、ドリオの操るトラックから無線が入った。
「北の一団は、どうなった」
ルーシーが端末を操作し、応答する。
「格納庫に入った分は、爆風の範囲内。まだ距離のあった分は、生き残ってる」
「追ってくるか」
「分からない。でも、少なくとも足止めにはなった」
冷静な報告に、車内の緊張がわずかに緩んだ。
「あたしのおかげだよな、あの威力」
荷台の後方で、レベッカがまだ興奮冷めやらぬ様子で叫んでいた。
「あんた、何もしてないでしょ」
「あたしが煽ったから、あんたも早く押す気になったんだろ」
「関係ない」
にべもない答えに、レベッカは口を尖らせた。だが、その顔にはまだ、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
荷台の隅に座り込んだニッカは、遠ざかっていく黒煙を、しばらく見つめ続けていた。バートと過ごした十八年の歳月が、あの炎の中で今、灰になっていく。悲しみよりも先に、奇妙な軽さが胸の中に広がっているのを、彼女は感じていた。守るべきものは、場所ではない。その言葉を、彼女はもう何度も噛みしめてきたはずだった。それでも、実際に燃え落ちる光景を目にすると、胸の奥に鈍い痛みが走った。
「……大丈夫か」
隣に座ったドリオが、静かに尋ねた。
「大丈夫。ちゃんと、分かってたことだから」
「分かってても、痛いもんは痛い」
その一言に、ニッカは小さく頷いた。強がる必要のない相手が、いつの間にかこんなに増えていたことに、彼女は今更ながら気づかされていた。
しばらく走り続けた後、無線越しにキーウィの声が届いた。追加の報告だった。
「北の生き残り、追跡の様子なし。しばらく現場の後始末に、手を取られるだろう」
「西のミリテクは」
ファルコの問いに、キーウィは短く答えた。
「あちらは、もう用がない。全員、あの下だ」
淡々とした言葉に、車内は一瞬、静まり返った。エンジン音だけが、その沈黙を埋めていた。
助手席に座ったキーウィは、煙草に火を点け、窓の外へ紫煙を逃がした。荒野を渡り歩いてきた歳月の中で、拠点を捨てる夜を何度も経験してきた。それでも、これほど後腐れのない終わらせ方は、そう多くはなかったように思う。ニッカという規格外の存在が持ち込む決着は、いつも彼女の経験則を軽々と超えていく。その事実に、苦さと同時に、微かな痛快さも覚えている自分に、キーウィは気づいていた。
「……行き先は、決まってるのか」
沈黙を破ったのは、デイビッドだった。エンジンの音に紛れて、その声は普段より低く聞こえた。
「ナイトシティの、外れ」
ファルコが前方を見据えたまま答えた。
「サントドミンゴの外周に、企業の目が届きにくい一角がある。今夜のうちに、そこへ入る」
「どんなとこだよ、そこ」
荷台からレベッカが身を乗り出して尋ねると、ファルコはハンドルを握ったまま短く返した。
「廃棄物処理場の隣にある、地下の廃プラントだ。街のゴミが、四六時中流れ込んでくる場所らしい」
「ゴミって……食い物とかもか?」
「食い物の心配してんじゃねえよ」
デイビッドの突っ込みに、レベッカは肩をすくめた。
「腹が減っただけだよ」
その一方で、隣に座ったニッカの目が、わずかに輝いていた。廃棄物が絶え間なく流れ込む場所という響きに、彼女の中の職人気質が静かに反応している。
「……宝の山、かもしれない」
「あんた、こんな時まで、その顔すんのな」
呆れたようなレベッカの声に、ニッカは我に返って表情を引き締めた。だが、口元に浮かんだ笑みまでは、隠しきれていなかった。
「ナイトシティ、か」
ニッカの声に、わずかな強張りが混じった。何年もかけて誓ってきた約束を、自らの手で破ることになる。その事実の重みが、今更ながら肩にのしかかってくる。
「無理は、してねえか」
メインの操るトラックから、無線越しに低い声が届いた。
「してる。でも、他に手がない」
「なら、いい。無理をする理由がある無理なら、それは弱さじゃねえ」
短い言葉に、ニッカはしばらく黙り込んだ。握りしめていた工具袋の持ち手に、指先が強く食い込んでいた。それから、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
「礼はいらねえ。仲間だろうが」
あっさりとした返答に、車内の空気が、少しだけ和らいだ。
荷台の後方で、レベッカがまだ興奮した様子で拳を突き上げていた。
「よっしゃ、こうなりゃもう吹っ切れた。ナイトシティだろうがどこだろうが、あたしらの敵じゃねえ」
「あんた、さっきまで震えてたくせに」
「震えてねえよ」
「震えてた。声が上ずってた」
デイビッドの容赦ない指摘に、レベッカは真っ赤になって黙り込んだ。荷台に、乾いた笑いが広がった。
「……お前だって、最初の爆発の時、悲鳴上げてただろうが」
しばらくして反撃に転じたレベッカに、デイビッドは目を逸らした。
「あれは、悲鳴じゃねえ。驚いただけだ」
「悲鳴だったね、あれは」
その隣で、ルーシーが低く追い打ちをかけた。二人そろって黙り込む様子に、荷台の空気がまた少し緩んだ。
電池の切れかけた携帯ゲーム機を、ニッカはそっと工具袋の底に仕舞い込んだ。ひび割れた画面の感触を、彼女はしばらく指先で確かめ続けた。役目を終えた古い機械に、名残惜しさが滲んでいた。
「……よく持ってくれた」
誰にともなく零れた呟きに、隣に座ったルーシーが薄く笑った。
「次は、ちゃんと予備の電池も持ち歩いた方がいい」
「善処する」
「善処、じゃなくて、絶対」
珍しく強い口調の忠告に、ニッカは苦笑いを返すしかなかった。
夕闇が濃くなる中、遠くの地平線に、無数の光が滲み始めていた。ネオンとスモッグに霞んだ、ナイトシティの輪郭だった。かつて、絶対に近づかないと誓った場所へ、今、自らの意思で向かっている。その皮肉さに、ニッカは小さく苦笑した。
「怖いか」
束の間の沈黙の後、ドリオが横から声をかけてきた。
「怖い。でも」
言葉を切り、ニッカは背後を振り返った。荒野の彼方に、まだ薄く煙が立ち上っている。バートと過ごした場所の、最後の名残だった。
「あそこに置いてきたものより、今、この荷台に乗ってるものの方が、ずっと大事だから」
その答えに、ドリオはわずかに目を細めた。
「いい答えね」
「バートの受け売り」
「受け売りでも、あんたの言葉になってる」
言葉を交わし終えると、二人はしばらく声もなく、遠ざかる炎と近づく街の灯を、同時に見つめ続けた。
トラックの車列は、土埃を巻き上げながら、荒野とナイトシティの境界を音もなく越えていった。振り返れば、バートと歩んだ日々の残り火が、まだ小さく赤く滲んでいる。前を見れば、無数のネオンが、油断のならない街の輪郭を描き出している。
その狭間で、ニッカは工具袋を膝の上に抱え直した。失ったものと、これから向かう場所。その両方を胸に刻みながら、彼女は初めて、自分の意思でナイトシティへの道を選んでいた。
風向きが変わり、荒野の乾いた匂いに、微かな異臭が混じり始めた。金属の焼ける匂いとも、廃棄物の腐敗臭とも違う、都市特有の淀んだ空気だった。デイビッドが顔をしかめる。
「近づいてきたな、街の匂い」
「うん」
ニッカは、鼻先に触れる空気の質感を、黙って確かめていた。バッドランズの砂と油の匂いとは、根本から違う何かだった。息を吸うたび、見知らぬ土地に足を踏み入れていく実感が、少しずつ濃くなっていく。
「平気か」
短い問いに、ニッカは答えを探すように黙った。それから、小さく頷いた。
「平気。多分」
「多分、かよ」
「多分でも、進むしかないから」
その答えに、デイビッドはそれ以上、言葉を継がなかった。
夜の帳が、荒野とネオンの街を同時に覆い始めていた。灯りの海の向こうに、車列がこれから潜り込む場所が、まだ姿を見せないままじっと待ち構えていた。
エンジンの唸りだけが、暗闇の中を一定の調子で刻み続けていく。誰も、それ以上は口を開かなかった。それぞれの胸の内に、荒野への別れと、街への警戒を同時に抱えたまま、車列はただ前へと進み続けた。
荷台の隅で、三本の排気管が、揺れるたびに小さく鳴った。誰に聞かせるでもない、その音だけが、置いてきた場所の名残として、しばらく荷台に留まり続けていた。夜はまだ、明けようとしなかった。