充電期間が少々長くなってしまいましたが、今回から投稿を再開していこうと思います。
この話から、いよいよナイトシティ編に入ります。
これまで以上に独自解釈・独自設定が多くなっておりますので、「そういう解釈もあるよね」「それでも大丈夫!」という方は、引き続きお付き合いいただければ幸いです。
また、本作はAIによる本文利用を行っております。
そのため、感想への返信は控えさせていただいております。あらかじめご了承いただけますと幸いです。
それでは、久しぶりの投稿となりますが、よろしくお願いいたします。
第12.1話 白米を求める心、故郷を想う心
地下の新拠点に、朝の匂いが漂っていた。正確には、朝という区切りが存在しない空間に、無理やり朝食の匂いだけが漂っていた。換気口から差し込む細い光だけが、ここでの時刻を教えてくれる唯一の目安だった。遠くで水滴の落ちる音が、規則正しく反響していた。
簡易コンロの上で、合成米の入った鍋がぐつぐつと音を立てている。蓋を開けたニッカは、立ち上る湯気の向こうに広がる白っぽい粒を見つめ、小さくため息をついた。
見た目だけなら、悪くない。艶もあるし、粒の形も整っている。均一に並んだ粒の一つ一つが、まるで型から抜いたように寸分違わない大きさをしていた。本物の米が持っているはずの、微妙な粒の不揃いさは、そこになかった。だが実際に口へ運ぶと、そこにあるのは記憶の中の米とはまるで違う何かだった。舌の上で崩れる感触は妙に均一で、噛むたびに感じるはずの微かな甘みが、どこにも見当たらない。
「……なんか、違うんだよなあ」
誰に言うでもなく呟き、ニッカはスプーンを鍋の中へ戻した。前世の記憶にある白米の味を、彼女は今でもはっきりと覚えている。土鍋で炊いた時の香ばしさ、噛むほどに滲み出す甘さ、出汁の効いた味噌汁との相性。どれも、今この鍋の中にあるものとは別次元の存在だった。
合成食材が悪いわけではない。栄養価も申し分ないし、保存も利く。荒野で生き延びるには、これ以上ないほど合理的な選択だった。それでも、舌の記憶というのは理屈では割り切れないものらしい。頭では十分だと分かっていても、体のどこかが「これじゃない」と訴え続けていた。
思えば、前世の記憶の中でも、食にまつわるものだけは妙に鮮明に残っている。ゲームの攻略情報や技術知識は、必要に迫られて引っ張り出すたびに姿を現す。だが白米の香りや出汁の匂いは、頼みもしないのに、ふとした瞬間に勝手に蘇ってくるのだった。人間の記憶というのは、案外こういう部分の方がしぶといのかもしれない。そんなことを考えながら、ニッカは鍋を火から下ろした。
脳裏に浮かぶのは、湯気の立つラーメン屋の暖簾や、深夜に立ち寄った牛丼屋の匂いだった。前世の彼女にとって、それらはありふれた日常の一部でしかなかった。特別だと意識したことすら、一度もなかったはずだった。それなのに、この世界で合成米を口にするたび、記憶は不意に鮮明さを増して蘇ってくる。失って初めて、価値が分かる。そういう種類の記憶なのかもしれない。バートと過ごした十八年の間、そんな贅沢を考える余裕すらなかった。生き延びることが最優先だった荒野の暮らしでは、味の好みなど二の次の問題だった。
だが今は、少しだけ状況が違う。ナイトシティという街に良くも悪くも足を踏み入れてしまった以上、本物の味を求めることくらい許されてもいいはずだった。そう自分に言い聞かせながらも、ニッカの中では、まだ小さな抵抗が続いていた。
鍋を脇へ寄せながら、ニッカはぼんやりと考えていた。ナイトシティに移ってきたということは、少なくとも本物の食材が手に入る可能性が、以前よりずっと近くなったということでもある。
正規の流通に乗っているのは、大抵が合成品ばかりだ。だが闇市となれば話は別だった。値札も品質保証もない代わりに、そこには正規のルートから弾かれた「本物」が紛れ込む余地がある。バッドランズで散々世話になった経験則が、そう告げていた。
カブキ地区は、たしか露店と闇市が入り乱れる土地だったはずだ。合成米しか置いていない自販機やチェーン店とは、きっと勝手が違う。そんな見立てが、頭の片隅で静かに形を持ち始めていた。
「……いや、待って。行くって決めたわけじゃないから」
自分自身に言い訳するように呟いた声は、誰の耳にも届かないまま、地下空間の高い天井へと吸い込まれていった。
朝食の片付けをしていると、奥の方から賑やかな声が近づいてきた。先頭を歩いていたのはレベッカで、その後ろにデイビッドとルーシーが続いている。
「おーい、ニッカ! 聞いたか、この街の話!」
「何」
「カブキの露店、すげえらしいぞ。合成肉じゃない、本物の肉串が食えるって話だ」
鍋を洗う手を止めて、ニッカはゆっくりと顔を上げた。
「……本物の、肉」
「ああ。中央キャンプの連中が、荷物運びのついでに買ってきたんだと。めちゃくちゃ旨かったって、自慢げに話してたぜ」
レベッカの言葉に、ニッカの視線がわずかに泳いだ。合成米の件で頭がいっぱいだったところに、今度は本物の肉串という情報が飛び込んでくる。理性と食欲が、静かにせめぎ合い始めていた。指先が、無意識のうちに濡れた鍋の縁をなぞっていた。
「あんた、その顔。もう行く気になってるだろ」
「なってない」
「なってるって。目、めちゃくちゃ輝いてるぞ」
図星を指され、ニッカは口をつぐんだ。デイビッドが横から苦笑しながら口を挟む。
「無理もないだろ。ずっと合成食材ばっかだったんだから」
「別に、今のままでも十分やっていける」
「十分やっていけるけど、行きたいんだろ」
容赦のない指摘に、ニッカは反論の言葉を探しあぐねた。隣で聞いていたルーシーが、静かに付け加える。
「無理して我慢する必要、ないと思う」
「別に、我慢なんて」
「してる。さっきから、鍋を見る目が死んでた」
淡々とした指摘に、ニッカはとうとう言葉を失い、視線を鍋へ落とした。
その様子を、少し離れた場所で見ていたドリオが、静かに近づいてきた。壁に軽くもたれていた体を起こし、腕を組んだまま、ゆったりとした足取りだった。
「行ってくればいいじゃない」
「……危ないでしょ、街の中」
「あんたが一人でどこかに行くのを心配してるわけじゃない。むしろ、閉じこもりすぎるのを心配してる」
ドリオの言葉に、ニッカは思わず言葉を失った。バッドランズを離れてから、彼女はほとんど拠点の外へ出ていない。改造と設備の整備に没頭するあまり、外の空気を吸う機会そのものを、自分から遠ざけていた。
「別に、閉じこもってるわけじゃ」
「閉じこもってる。仕事の材料を探しに行く以外、外に出ようとすらしてない」
的確すぎる指摘に、ニッカは何も言い返せず、視線を逸らした。ドリオは腕を組み、少しだけ声を和らげて続けた。
「新しい街に来たんだから、少しくらい息抜きしてもいいと思う。あんたは、詰め込みすぎるきらいがあるから」
「詰め込んでない。好きでやってるだけ」
「好きでやってるのと、休まないのは、別の話よ」
諭すような口調に、ニッカはそれ以上言い返せなかった。
そこへ、荷物を抱えたメインが姿を見せた。防犯用の配線を点検してきたのか、袖口にうっすらと埃がついている。
「何の話だ」
「ニッカが、カブキの本物の飯に興味津々って話」
レベッカが即答すると、メインは何かを思い出したように、荷物の中から一枚のカードを取り出した。表面には、洗練された企業ロゴが刻まれている。
「そういや、ちょうどいいものがある」
「何、それ」
差し出されたカードを、ニッカは怪訝そうに受け取った。指先で表面を撫でると、金属質の滑らかな感触が伝わってくる。荒野の道具とは、明らかに手触りからして違う代物だった。
「デラマンの、VIP乗車券だ」
カードを見た瞬間、記憶の奥で古い検索が走った。やたらと個性の強いAIで有名だった企業の名前が、確かにそこにあった気がする。
「デラマンって……確か、あの高級AIタクシーの」
「ああ。この前、資材の運搬中に立ち往生してた奴の車両を、ついでに直してやったんだよ。修理費代わりに、って渡された」
「勝手に直したの」
「勝手にってか、放っておいたら向こうが困ってたからな。まあ、大した手間じゃなかった」
あっさりとした説明に、ニッカは眉根を寄せた。
「詳しく」
「詳しくも何も、道端で唸ってる車を見つけて、駆動系の配線を繋ぎ直しただけだ。そしたら向こうのAIが妙に感激しちまってな。この御礼は必ず、とか何とか、大袈裟なこと言い出してよ」
「大袈裟って、どれくらい」
「感謝の言葉が、五分くらい止まらなかった」
その説明に、レベッカが吹き出した。
「ギャハハ! 車に五分も感謝されるって、どんな絵面だよ!」
「笑い事じゃねえぞ。あの時ばかりは、俺も本気で困った」
苦笑いを浮かべるメインの様子に、ニッカは手の中のカードをまじまじと見つめた。廃品修理の腕は、こんなところでも回り回っているらしい。
「これ一枚あれば、街のどこへでもタダで乗れるらしい。専属の高級車両でな」
「タダって、そんな都合のいい話」
「向こうが勝手にくれたんだ。文句を言われる筋合いはねえだろ」
カードを見つめながら、ニッカはしばらく考え込んだ。徒歩でカブキまで行くとなれば、それなりの時間と危険が伴う。地下拠点からの経路もまだ完全には把握できていない。だが、専用の車両となれば話は別だった。
「……使わせてもらう」
「おう、使え使え。ついでに、旨いもん食ってこい」
メインの気楽な口調に、ニッカは小さく頷いた。
カードを工具ベルトのポケットへしまいかけたところで、キーウィが煙草の煙を吐きながら口を挟んだ。
「デラマンか。悪くない選択だ」
「名前くらいは。今も、評判いいの」
「有名だからな。ナイトシティじゃ、あの企業のAIタクシーを知らない奴の方が珍しい」
キーウィは短く続けた。
「昔から、やたらと客への対応にこだわる企業でな。運転手を挟まず、AI一台一台に個別の人格を持たせてる。おかげで、当たりが良ければ至れり尽くせりだが」
「当たりが悪ければ」
「妙に馴れ馴れしいだの、喋りすぎるだの、そういう苦情も少なくないらしい。まあ、企業への苦情なんて、どこも似たようなもんだ」
軽い調子で締めくくられた説明に、ニッカはさして気にも留めなかった。所詮は接客用のAIの癖に過ぎない、そう高を括っていた。この時の彼女は、後にその軽い相槌をどれほど後悔することになるか、まだ知る由もなかった。
誰が同行するかで、ちょっとした押し問答が始まった。
「あたしも行く! 肉串、絶対食う!」
「レベッカ、あんたは今日の見回り当番でしょう」
ドリオの一言に、レベッカは大袈裟に肩を落とした。
「マジかよ……」
「私が代わりに行こうか」
ルーシーが静かに申し出ると、デイビッドが慌てて手を挙げた。
「なら俺も」
「デイビッド、あんたは今日、拠点の配線工事の手伝いがある予定でしょう」
キーウィが煙草を挟んだ指先で、壁に貼られた予定表を指し示した。デイビッドは肩を落とし、渋々ながらも頷くしかなかった。
「……分かったよ」
「結局、私一人ってこと」
成り行きを見守っていたニッカが、呆れたように呟いた。
「一人の方が、目立たなくていい。専属タクシーとやらなら、危険も少ないだろう」
キーウィの言葉に、メインも同意するように頷いた。
「団体で乗り込む方が、かえって注目される。一人の方が動きやすいはずだ」
「にしても、あんたを一人で行かせるのはな……」
ファルコが腕を組み、帽子のつばを軽く持ち上げながら呟いた。
「まあ、乗り物自体が企業の管理下にあるなら、道中で妙な連中に絡まれる心配は少ねえか」
「絡まれても、返り討ちにするだけだけど」
「その自信が、一番心配なんだよなあ」
軽口を交わす二人のやり取りに、周囲から小さな笑いが起きた。メインが腕を組み、真顔で付け加える。
「返り討ちにするのはいいが、目立つのだけは避けてくれ。今のところ、俺たちの場所はまだ誰にも割れてない」
「分かってる。喧嘩を売りに行くわけじゃないんだから」
「お前の場合、売られてもないのに勝手に買っちまうことがあるからな」
「人聞きの悪いこと言わないで」
むっとした様子で言い返すニッカに、レベッカがけらけらと笑い声を上げた。
「否定しきれてねえのが、笑えるんだよなあ」
「うるさい」
拗ねたように言い捨てたニッカに、その場の空気がまた一段と和んだ。
結局、ニッカは単独でカブキへ向かうことになった。通信用の端末を受け取り、いくつかの注意事項を聞かされる。何かあればすぐに連絡すること。土地勘のない場所には近づかないこと。財布とは別に、緊急用の資金を隠しておくこと。
「分かった、分かった。子供扱いしないで」
「子供扱いじゃない。土地勘のない新参者への、最低限の注意だ」
キーウィの静かな指摘に、ニッカは口をつぐんだ。地名や噂なら、前世の記憶からいくらでも引き出せる。それでも、この足で実際に歩いたことのない道は、結局のところ知らない道と同じだった。荒野なら誰よりも詳しい自信があったが、ナイトシティの土地勘となると、話はまるで別だった。
「露店の場所は」
「端末に、大体の位置を送っておいた。ただし、あの辺りは人通りが多い。財布と工具箱には、目を離さないことだ」
「分かってる。子供じゃないんだから」
「子供じゃないからこそ、言ってる。ナイトシティじゃ、油断した大人から先に消えていく」
キーウィの静かな言葉には、それ以上茶化す気にさせない重みがあった。ニッカは小さく頷き、端末をポケットへ収めた。
準備を横目で見ていたレベッカが、悔しそうに地団駄を踏んだ。
「くそ、あたしも肉串食いたかった……」
「見回り、代わってあげられないけど。帰ったら、ちゃんとお土産買ってくる」
「マジか! 何本だ、何本買ってきてくれるんだ!」
「食べきれる分だけ」
「けち!」
声を張り上げるレベッカに、周囲から小さな笑いが起きた。デイビッドも横から未練がましく口を挟んだ。
「俺の分も、忘れんなよ」
「配線工事、真面目にやったらね」
「くっ……分かったよ」
渋々ながらも頷くデイビッドの姿に、ニッカは小さく笑みをこぼした。荒野では味わえなかった、こういう他愛のないやり取りが、今の暮らしにはいくつも転がっている。それだけは、ナイトシティに来てからの、数少ない収穫の一つだった。
準備を終えたニッカは、道具袋の中身を最小限に絞り、工具ベルトだけを腰に巻いた。使い慣れたドライバーとペンチだけを選び、残りは棚へ戻す。荒野なら防犯タレットの予備部品まで抱えて出るところだが、街中でそこまでの重装備はかえって目立つ。武器らしい武器は持たない。素性を隠して身軽に動くには、その方が都合がいいはずだった。
支度を終えた背中に、ドリオが声をかけた。
「気をつけて。何かあったら、すぐ連絡する」
「大丈夫。ただの、買い出しだから」
「その言い方、前にも聞いた気がする」
思わせぶりな一言に、ニッカは何と答えていいか分からず、視線を逸らした。
地上へ続く梯子に手をかけたところで、彼女はふと足を止めた。頭の中に、十八の夏に立てた誓いが、また小さく蘇ってくる。
――ナイトシティには関わらない。
あの誓いは、拠点を移した時点でとうに形を変えてしまっている。それでも、こうして自分の意思で街へ足を踏み入れようとしている今、その事実の重みが、いつもより少しだけ実感を伴って胸に迫ってきた。バートを奪ったのも、元をたどればこの街から伸びた依頼だった。それでも今、自分の足でこの街へ向かおうとしている。皮肉なものだと思いながら、ニッカは梯子を握る手に、わずかに力を込めた。
「……別に、依頼じゃないし。ただの、買い出し」
誰に向けたものでもない言い訳を口にして、ニッカは梯子を上り始めた。
*
地上に出ると、廃棄物処理施設の錆びた看板が、朝の光の中で鈍く光っていた。周囲に人の気配はない。荒れた敷地の向こうに、ナイトシティの高層ビル群が霞んで見えた。バッドランズの地平線とは違う、鋭利な輪郭を持つ影の連なりだった。
夜に見上げた時のような禍々しさは、朝の光の中では幾分和らいで見えた。それでも、あの光の川の底に何が渦巻いているのかを思うと、ニッカの胸の奥に、拭いきれない警戒心が滲んだ。
受け取ったカードには、簡単な操作方法が記されていた。表面を軽く叩くと、内蔵されたチップが起動し、微弱な信号を発信する仕組みらしい。ニッカは指示通りにカードを叩き、しばらくその場で待った。
数分もしないうちに、遠くから滑らかなエンジン音が近づいてきた。荒野の車両とはまるで違う、静かで無駄のない駆動音だった。土埃を巻き上げることもなく、車体は吸い付くように路面を滑ってくる。
目の前に停まったのは、艶やかな漆黒のボディに、企業ロゴを輝かせた流線型の車両だった。窓ガラスには、うっすらと発光する装飾模様が走っている。ニッカが知る限りの荒野の車とは、設計思想からしてまるで違う代物だった。
扉が、滑らかな駆動音とともに自動で開いた。同時に、車内から丁寧すぎる音声が流れ出す。
「いらっしゃいませ。デラマン社の最上級サービスへようこそ。本日は、当社の誇る特別車両をご利用いただき、誠にありがとうございます」
あまりに流暢な挨拶に、ニッカは思わず一歩後ずさった。前世の記憶にも、確かこの手のAIはよく喋ると聞いた覚えがある。それでも実際に浴びせられると、想像していた以上の圧があった。
「……本当に、喋るんだ」
小さく呟いた声にも、車内の音声は律儀に反応した。
「はい。お客様との円滑なコミュニケーションのため、当社のAIは常時応答体制を整えております。本日の目的地をお申し付けください」
「カブキ。露店街の方」
「かしこまりました。カブキ地区、露天飲食エリアへご案内いたします。移動時間はおよそ十二分を予定しております。座席の調整はいかがなさいますか。硬さ、角度、振動吸収レベル、いずれも細かく設定可能でございます」
次から次へと繰り出される選択肢に、ニッカは軽い眩暈を覚えた。
「……普通でいい」
「かしこまりました。標準設定にて調整いたします」
*
乗り込んだ座席は、見た目こそ豪華だったが、座った瞬間の感触は妙に硬かった。クッション材の反発が均一すぎて、体の凹凸に合わせて沈み込むような柔らかさがない。前世の記憶にある高級車の座り心地とは、明らかに何かが違っていた。
「あの、座席」
「はい、お客様。何かご不満な点がございましたら、遠慮なくお申し付けください」
「硬い」
「申し訳ございません。安全基準に基づき、衝撃時の姿勢維持を最優先した設計となっております。快適性よりも、お客様の身体保護を優先させていただいております」
「……理屈は分かるけど」
律儀な説明に、ニッカは言葉を濁した。安全のためという理由を持ち出されると、それ以上文句をつけにくい。だが、彼女の中の技術者としての血が、静かに疼き始めていた。
車両が動き出すと同時に、車内のスピーカーからは、耳に心地よいはずの環境音楽が流れ始めた。だが、その音量調整もまた妙に一律で、静かな旋律のはずが、ある帯域だけが不自然に強調されて聞こえる。
「音楽、変えられる?」
「もちろんでございます。当社は五百種類を超えるプレイリストをご用意しております。ジャンル別、感情別、時間帯別など、お客様のご要望に応じて」
「別に、種類はいい。今のままで」
「かしこまりました」
律儀すぎる応答の合間に、ニッカは窓の外へ目をやった。地上の景色が、滑らかに流れていく。看板の光が次々と車窓を過ぎ、ネオンの残像が座席の背もたれにまで映り込んでいた。荒野の砂塵とは違う、整然とした街並みが視界を埋めていた。
「お客様、当社の会員サービスにご興味はございませんか。定期利用いただくことで、様々な特典を」
「興味ない」
「かしこまりました。それでは、現在の走行データをご案内いたします。本日の路面状況は良好で……」
「それも、いい。静かにしてて」
「承知いたしました。ご要望に応じ、音声案内を最小限に控えさせていただきます」
そう言った直後にもかかわらず、しばらくすると再び別の案内が流れ始めた。今度は、目的地周辺の飲食店情報だった。
「本日のカブキ地区は、露店の混雑が予想されます。お急ぎでない場合は、少し時間をずらされることをお勧めいたします。また、当社と提携する飲食店をご利用いただければ、優待価格にて……」
「静かにしてって、言った」
「大変失礼いたしました。ご要望を優先いたします」
ニッカは眉間を押さえ、小さく息を吐いた。
束の間の静寂も、長くは続かなかった。今度は座席正面のモニターに、満面の笑みを浮かべたマスコットキャラクターのアニメーションが浮かび上がった。
「お客様、せっかくの機会でございますので、当社の記念撮影サービスはいかがでしょうか。ご乗車の思い出を、高画質のホログラムとして保存いたします」
「いらない」
「では、簡単なアンケートにご協力いただけますでしょうか。所要時間は、わずか三分ほどでございます」
「それも、いらない」
「かしこまりました。それでは、当社の年間契約プランについてご説明させていただきます。年間契約をご利用のお客様には、専属の……」
「さっき、興味ないって言ったよね」
「大変失礼いたしました。それでは、話題を変えさせていただきます。お客様は、ナイトシティにお住まいになって、まだ日が浅いのでしょうか」
唐突な質問に、ニッカは一瞬言葉を詰まらせた。
「……なんで、そう思うの」
「失礼ながら、走行経路の履歴に、当該エリアからのご乗車記録が一件もございませんでしたので」
妙なところで鋭い分析力を発揮するAIに、ニッカは眉をひそめた。荒野育ちの直感が、無意識のうちに警戒信号を灯し始めていた。
「別に、答える義理はないけど」
「失礼いたしました。個人情報に関するご質問は、控えさせていただきます」
あっさりと引き下がるあたりは、企業らしい徹底ぶりだった。だが、律儀に線引きをするたびに、かえって不気味さが増していくように、ニッカには感じられた。
律儀に沈黙したのも束の間、今度は座席の脇から小さな軽食メニューの画面がせり出してきた。
「お客様、道中のお時間つぶしに、軽食はいかがでしょうか。当社厳選の高級スナックを、無料でご用意しております」
「……いらない」
「かしこまりました。それでは、温度調整はいかがでしょうか。車内温度は現在二十二度に設定されておりますが、お好みに応じて」
「今のままでいい」
「かしこまりました。照明の色調は」
「今のままで」
「香りの調整は」
「……今のままでいい、から」
矢継ぎ早に繰り出される選択肢の数々に、ニッカはとうとう額に手を当てた。至れり尽くせりのはずのサービスが、かえって神経を逆撫でしてくる。荒野育ちの彼女にとって、これほど過剰な気遣いは、むしろ落ち着かない類のものだった。
座席の硬さ、音響の偏り、そして止まらない案内音声。どれも致命的な不具合とまでは言えない。だが、それぞれの粗が積み重なるうちに、ニッカの中で職業病めいた苛立ちが、少しずつ形を持ち始めていた。
コンソールの端に埋め込まれた操作パネルへ、彼女の視線が自然と吸い寄せられていく。継ぎ目の隙間、配線の取り回し、基盤の配置。プロが仕上げたはずのその内部構造に、彼女の目はすでに幾つもの改善点を見出していた。
「……この配線の取り回し、無駄が多いな」
誰に聞かせるつもりもない呟きが、口をついて漏れた。指先が、無意識のうちにパネルの継ぎ目をなぞっている。荒野で鍛え上げられた技術者としての本能が、目の前の不完全さを前に、静かに、しかし確実に目を覚まし始めていた。
目的地まで、あと少し。座席の硬さも、鳴り止まない案内音声も、あと数分だけ我慢すればいい話だった。そう己に言い聞かせてはみたものの、視線は繰り返しコンソールの継ぎ目へと引き寄せられていく。
直そうと思っているわけではない。ただ、目に入ったものの粗を見過ごせない性分が、じわじわと頭をもたげているだけだった。少なくとも、この時点ではまだ、彼女自身もそう思い込もうとしていた。
流れていく街並みの向こうに、ひときわ賑やかな灯りの一角が見えてきた。屋台の湯気なのか、それとも排気なのか判別のつかない白い靄が、通りの上に薄くたなびいている。カブキ地区が近いということだけは、その色と匂いの気配だけで、なんとなく察しがついた。
荒野の砂塵に慣れた目には、あまりにも情報量の多い光景だった。看板の光、行き交う人々の話し声、路上に漂う様々な匂い。どれか一つに意識を向けようとするたび、別の何かが割り込んでくる。バートと二人きりで過ごした静かな格納庫の日々とは、何もかもが対極の世界だった。
「お客様、間もなく目的地周辺に到着いたします。本日も、デラマン社をご利用いただき、誠にありがとうございました」
律儀な締めくくりの言葉に、ニッカは小さく息を吐いた。乗車自体は、決して悪い体験ではなかった。座席の硬さと、止まらない案内音声さえ除けば、の話だったが。
工具ベルトに忍ばせたドライバーの感触が、やけに手のひらに馴染んで感じられた。窓の外に流れる見慣れない街並みを眺めながら、ニッカは自分の指先がどこへ向かおうとしているのか、まだ気づかないふりを続けていた。
「本日は、当社をご利用いただき、誠にありがとうございました。またのご乗車、心よりお待ちしております」
最後まで律儀な挨拶を残して、車両はゆっくりと速度を落としていく。ニッカは小さく息を吐き、コンソールの継ぎ目から視線を引き剥がすようにして、窓の外へ意識を戻した。
少なくとも今は、まだ理性の方が勝っていた。
停止した車両の扉が、静かに開いていく。降り立った先には、湯気と喧騒に満ちたカブキの露店街が広がっていた。荒野では嗅いだことのない、幾重にも重なった食欲をそそる匂いが、一気に鼻先へ押し寄せてくる。焼ける油の匂いに混じって、炊きたての米らしき香りがどこからか漂ってきた。空腹という単純な感覚が、警戒心よりも先に彼女の足を動かしていた。
その匂いに誘われるように、ニッカの足は自然と一歩、前へ踏み出していた。背後で扉が静かに閉まる音を、彼女はほとんど気に留めなかった。