サイバーパンク:ジャンク・アルケミー   作:たこ焼き 龍月

43 / 44
第12.2話 肉串五本と、規約違反一件

 

 露店から立ち上る煙は、油と炭と、得体の知れない香辛料の匂いを一緒くたに孕んでいた。荒野で嗅ぎ慣れた砂と機械油の匂いとは、根本から成分が違う。ニッカはその匂いの奔流に足を止め、しばらく動けずにいた。

 

 人ごみの密度も、バッドランズの比ではなかった。荷を担いだ商人、値切り合う客、路地の奥から漂ってくる合成麻薬らしき甘い匂い。視界のどこに焦点を合わせても、次の瞬間には別の刺激が割り込んでくる。慣れない情報量に、頭の芯がじわりと痺れていくような感覚があった。

 

 それでも、彼女の足は迷わず一方向へと向かっていた。理屈より先に、鼻が判断を下していた。

 

 頭上を覆う看板の群れは、色も大きさもばらばらで、統一感というものが最初から存在しないように見えた。それでいて、全体として一つの生き物のように蠢いている。バッドランズの乾いた静けさに慣れた身には、目に映るもの一つ一つが、絶えず何かを訴えかけてくるように感じられた。

 

  

 

 行列の先に、煙を纏った屋台があった。年季の入った鉄板の上で、串に刺さった肉が炭火に炙られている。滴り落ちた脂が炎に触れ、じゅわりと弾ける音を立てた。合成肉特有の均一な焼き色ではない。表面には焦げの濃淡があり、脂の弾ける音にすら微妙な強弱があった。

 

「……本物」

 

 誰にともなく漏れた呟きに、屋台の主人が振り返った。日に焼けた顔に深い皺を刻んだ、壮年の男だった。

 

「ん? 兄ちゃ……いや、嬢ちゃんか。一本、どうだ」

 

「本物の、肉ですよね」

 

「当たり前だろ。合成肉なんぞ置いてたら、この店はとっくに潰れちまうよ」

 

 誇らしげな答えに、ニッカの喉が小さく鳴った。値段を確認する余裕もなく、財布を取り出す手が勝手に動いていた。

 

「一本、ちょうだい」

 

「あいよ。……つっても、その顔だと一本じゃ足りねえだろ」

 

「え」

 

「長年やってりゃ分かる。飢えた目してるぜ、嬢ちゃん」

 

「別に、飢えてなんか」

 

「五本、頼まれる前に焼いとくわ」

 

 言い返す隙もなく、男は手際よく新しい串を鉄板に並べていった。反論するべきかどうか、ニッカはしばらく迷った。だが結局、その迷いよりも鼻先を掠める匂いの方が、はるかに強かった。

 

  

 

 最初の一本に齧りついた瞬間、口の中に広がった感触に、ニッカは思わず目を見開いた。

 

 噛むたびに滲み出す脂の甘みと、炭火特有の香ばしさ。合成食材では絶対に再現できない、繊維の一本一本が違う抵抗を返してくる感触。前世の記憶にある屋台の味そのものが、そこにはあった。

 

 三本目を頬張りながら、ニッカは思わず声を漏らした。

 

「……美味しい」

 

「だろ? うちの串は、地区でも評判なんだ」

 

 主人が得意げに胸を張ると、ニッカはそれ以上言葉を返さず、ただ黙々と串を平らげ続けた。荒野で過ごした十八年の間、彼女はこの味を知らずに生きてきた。合成食材だけで十分だと自分に言い聞かせ、味の好みなど二の次だと割り切ってきた。だが実際に本物の味を口にしてしまうと、その割り切りがどれほど脆いものだったか、思い知らされるだけだった。

 

 脳裏には、前世で通い詰めた駅前の焼き鳥屋の暖簾がふと浮かんだ。安月給の中で選ぶささやかな贅沢だったはずのそれが、今この瞬間には、命を繋ぐ最優先事項であるかのような重みを持って迫ってくる。人間の価値基準というのは、置かれた環境次第で、こうも簡単に組み変わってしまうものらしい。

 

 五本を平らげ、串を返す頃には、ニッカの表情はすっかり緩みきっていた。

 

「もう、五本」

 

「へ?」

 

「追加で、五本」

 

 主人は目を丸くしたが、すぐに笑い出した。

 

「気に入ってもらえて何よりだ。今、焼くからな」

 

  

 

 結局、追加の五本もあっという間に胃袋へ消えていった。財布の中身は思ったより軽くなっていたが、後悔は微塵もなかった。むしろ、荒野で我慢し続けてきた分を、ここで一気に取り戻しているような満足感すらあった。

 

 串を握ったまま、ニッカはしばらくその場に立ち尽くしていた。合成米の鍋を前にため息をついていた朝の自分が、ひどく遠い記憶のように感じられた。

 

「嬢ちゃん、旅の人か」

 

「……まあ、そんなところ」

 

「バッドランズの匂いがするぜ。この街に慣れてない足の運び方だ」

 

 鋭い指摘に、ニッカは少しだけ身構えたが、男の表情に悪意らしきものは見当たらなかった。ただの世間話として受け止め、彼女は小さく頷くだけに留めた。

 

「タレの配合、変えたばっかりでよ。感想聞かせてくれや」

 

「甘め。でも、後から辛味が来る。悪くない」

 

 的確すぎる感想に、主人は驚いたように眉を上げた。

 

「嬢ちゃん、味の分かる奴だな。今度、常連割引をつけてやるよ」

 

「常連になる予定は、特にないけど」

 

「なら、その予定を作りに、また来な」

 

 軽い調子で送り出され、ニッカは串の残りを口へ運びながら、その場を後にした。

 

  

 

 串を持ったまま雑踏を進んでいくと、行く手に人だかりができていた。輪の中心では、丸みを帯びたずんぐりとした調理ロボットが、鉄板の上で何かを焼いている。頭部に取り付けられた古びたスピーカーから、拙い呼び込みの声が繰り返し流れていた。

 

「本場の味、本場の味! お一つ、いかがですかー!」

 

 人だかりの正体は、その動きの珍妙さにあるらしかった。生地を返す腕の関節が、時折がくんと引っかかり、明後日の方向へ跳ねる。見物人たちは、危なっかしい動きを笑いながら眺めていた。

 

 ニッカの目は、笑いよりも先に、その引っかかりの原因へと吸い寄せられていった。関節の駆動部、恐らくはアクチュエータの経年劣化。潤滑剤の粘度が落ち、負荷がかかるたびに一瞬だけ引っかかっているのだろう。数分もあれば直せる不具合だった。

 

 指先が、無意識のうちに疼いた。だが今回だけは、なんとか自制心が勝った。

 

(……ダメ。今日はもう、寄り道しない。買い出しだけ)

 

 自分に言い聞かせるように呟き、ニッカは人だかりから視線を引き剥がした。この時の彼女は、その数十分後、まったく同じ疼きに屈することになるとは、まだ想像もしていなかった。

 

  

 

 露店街をさらに奥へ進むと、屋台の並びの隙間に、古びた木造りの小さな店構えが見えた。看板には、掠れた文字で米と出汁の文字が書かれている。ニッカの足は、吸い寄せられるようにそちらへ向かった。

 

 店の奥から、腰の曲がった老女が姿を現した。

 

「いらっしゃい」

 

「……本物の米、置いてますか」

 

「置いてるよ。合成米しか知らない若い子が増えた中で、よく分かったね」

 

 老女は感心したように目を細めた。棚に並んだ袋の一つを手に取り、ニッカの前に差し出す。

 

「これは、上物だよ。粒立ちが違う」

 

 老女は袋の口を少しだけ開き、米粒を数粒手のひらに転がしてみせた。艶と透明感を確かめるように光へかざす仕草には、長年この道で生きてきた者だけが持つ、揺るぎない確信が滲んでいた。

 

 袋を受け取ったニッカは、中身を確かめるように光にかざした。艶やかな粒の一つ一つに、前世の記憶にある光景が重なって見えた。

 

「これと……あと、出汁の材料も」

 

「出汁も分かるのかい。今どき珍しいね」

 

「昔、ちょっとだけ」

 

 曖昧に答えると、老女は追及することなく、棚の奥から乾物の袋をいくつか取り出してきた。手際よく品定めをする姿に、ニッカは思わず見入ってしまった。荒野では得られない知識と経験の蓄積が、そこには確かに存在していた。

 

  

 

「持ち帰るなら、湿気に気をつけな。この辺りの空気は、思ったより湿ってる」

 

「分かりました」

 

「良い出汁が取れたら、また買いに来るといい」

 

「……まとめて買ったら、少しは安くなったり」

 

「おや、値切る気か。生意気な子だね」

 

 老女は呆れたように笑いながらも、指先で電卓を弾き、いくつか品を足してくれた。

 

「これで手を打とう。その代わり、感想を聞かせにおいで」

 

「……ありがとう」

 

 老女の言葉に、ニッカは小さく頭を下げた。荒野の暮らしでは、こうした何気ないやり取り一つ一つが、ひどく新鮮に感じられた。

 

 袋詰めにされた米と乾物を受け取り、代金を支払う。手にした重みは、実際の重量以上に、ニッカの胸を満たしていくようだった。中央キャンプの誰かに分けてやれば、きっと喜ばれるはずだった。デイビッドやレベッカの顔が、ふと脳裏をよぎった。

 

「……お土産、ちゃんと持って帰らないと」

 

 誰に言うでもない呟きが、雑踏の音にかき消されていった。

 

  

 

 袋を工具ベルトの荷台に括りつけ、ニッカは来た道を戻り始めた。空はすでに傾きかけ、露店の灯りが一段と鮮やかさを増している。満たされた胃袋と、両手に抱えた戦利品。荒野を出た甲斐があったと、ニッカは素直にそう思った。

 

 路地を抜けようとしたところで、腰のベルトに留めた通信端末が小さく振動した。画面には、ドリオの名前が表示されている。

 

「もしもし」

 

「どう、そっちは。何か変わったことは」

 

「別に、何も。今、買い出しを終えたところ」

 

「肉串は」

 

「……ちゃんと、お土産の分も確保した」

 

「なら、いいけど」

 

 端末の向こうから、微かな安堵の気配が伝わってきた。

 

「目立つようなことは、してない?」

 

「してない。ただの、買い物客」

 

 その返事に、一瞬の間が空いた。まるで見透かされているかのような沈黙に、ニッカは思わず視線を泳がせた。

 

「……何か言いたいことでも」

 

「別に。あんたがそう言うなら、それでいい。気をつけて帰ってきなさい」

 

「分かってる」

 

 通話を切ったニッカは、端末をベルトへ戻しながら、小さく息を吐いた。目立つことなど、するつもりはなかった。少なくとも、この時点では、彼女自身も本気でそう思っていた。

 

 思い出したように、彼女は端末のグループ通信を開き、短い文面を打ち込んだ。

 

『本物の肉串、確保した。米と出汁も』

 

 送信してすぐ、レベッカからの返信が飛んできた。

 

『マジか! 何本だ何本!』

 

『言ったでしょ。食べきれる分だけ』

 

『けち! つーかもう帰り道か? 早く戻ってこいよなー』

 

 軽い調子のやり取りに、ニッカの口元がわずかに緩んだ。デイビッドからも、遅れて短いメッセージが届く。

 

『配線工事、ちゃんと終わらせた。俺の分、忘れんなよ』

 

『覚えてる』

 

 端末を閉じ、ニッカは荷物の重みを確かめるように肩を軽く回した。誰かのために何かを持ち帰るという行為が、これほど自然に馴染む日が来るとは、荒野で一人作業台に向かっていた頃には、想像すらしなかったことだった。

 

  

 

 人通りの少ない路地の角まで来たところで、彼女はポケットからカードを取り出した。表面を軽く叩くと、内蔵されたチップが微弱な信号を発する感触が指先に伝わってくる。

 

 待つ間、路地の壁に寄りかかりながら、ニッカは荷物の重みを確かめるように腕を組み替えた。夕暮れの色に染まり始めた路地の奥から、屋台の呼び込みの声が、遠くなったり近くなったりしながら耳に届いてくる。荒野の静けさとは違う種類の賑わいだったが、それはそれで、悪くない感触だった。

 

 しばらく待つと、遠くから滑らかなエンジン音が近づいてきた。今度の車体は、行きに乗ったものとは僅かに塗装の艶が違って見えた。同じ企業のロゴを掲げてはいるが、細部の意匠にわずかな個体差があるらしい。フロントの発光装飾も、行きの車より心持ち控えめな色合いに調整されている。個体ごとに割り当てられた人格が、外装のわずかな差にまで滲み出ているのかもしれない、とニッカはぼんやり思った。

 

 扉が滑らかに開き、車内から流暢な音声が流れ出した。

 

「いらっしゃいませ。デラマン社の最上級サービスへようこそ。本日はご利用いただき、誠にありがとうございます」

 

 律儀な挨拶に、ニッカは小さくため息をついた。行きの車と同じ調子だと分かってはいたが、実際に耳にすると、やはり少しだけ気が重くなる。

 

「……よろしく」

 

「かしこまりました。本日の目的地をお申し付けください」

 

「拠点の方まで。前と同じところ」

 

「承知いたしました。それでは、快適な空間をご用意いたします」

 

  

 

 乗り込んだ座席は、やはり見た目に反して硬かった。買い込んだ荷物を膝の上に抱え、ニッカはできるだけ体重を分散させるように座り直した。

 

「お客様、座席の調整はいかがなさいますか」

 

「今のままでいい」

 

「かしこまりました。それでは、道中の音楽をお選びください。当社は五百種類を超えるプレイリストを」

 

「いらない」

 

「かしこまりました。それでは、本日のお買い物についてお伺いしても」

 

「別に、答える義理はないけど」

 

「失礼いたしました。個人的なご質問は、控えさせていただきます」

 

 あっさりと引き下がる様子は、行きの車と全く同じだった。企業として徹底されたマニュアルの存在を、ニッカは改めて実感した。

 

  

 

 車両が走り出すと、案内音声は律儀に沈黙を守った。だが、その沈黙も長くは続かなかった。

 

「お客様、当社の会員サービスにご興味は」

 

「ない」

 

「かしこまりました。それでは、本日の道路状況をご案内いたします。現在、旧市街方面は」

 

「いらない」

 

「承知いたしました。それでは、周辺の飲食店情報を」

 

「いらない」

 

「かしこまりました。それでは、簡単なアンケートに」

 

「それも、いらない」

 

「かしこまりました。それでは、当社限定のミニカラオケ機能はいかがでしょうか。人気楽曲を七千曲以上収録して」

 

「いらない」

 

「かしこまりました。それでは、リラックス効果のあるアロマディフューザーの起動を」

 

「今のところ、何も匂わせないで」

 

「承知いたしました。それでは、腰部への微振動マッサージ機能を最大出力で」

 

「本当に、何もいらないから」

 

「大変失礼いたしました。それでは、次のご提案なのですが」

 

「……まだ、あるんだ」

 

 矢継ぎ早に繰り出される提案の数々に、ニッカは眉間を押さえた。行きの道中で覚えた苛立ちが、まだ完全には冷めていなかったところに、帰りの車で同じやり取りを繰り返されると、耐性はむしろ低くなっている気がした。

 

  

 

 窓の外を流れる景色に意識を逃がそうとしても、車内の音声は次から次へと新しい話題を提供してくる。天候の変化、周辺施設の紹介、本日のおすすめプラン。どれも丁寧すぎるほど丁寧で、それゆえに断りづらい。

 

「お客様、荷物の積載量に応じて、当社では追加の収納スペースを」

 

「大丈夫。持ってるので」

 

「かしこまりました。それでは、走行中の振動を抑える特別モードを」

 

「今のままでいい」

 

「承知いたしました。それでは……」

 

「もう、いい。しばらく静かにしてて」

 

「大変失礼いたしました。ご要望に応じ、音声案内を最小限に控えさせていただきます」

 

 そう言った直後にもかかわらず、しばらくすると別の話題が始まった。行きの車と、まるで同じパターンだった。企業全体で共有されたマニュアルなのか、それとも個体ごとの学習が偶然一致しているだけなのか、ニッカには判断がつかなかった。

 

  

 

 座席の硬さ、音響の偏り、止まらない案内音声。荷物を抱えた膝の上で、ニッカの指先が無意識のうちに動き始めていた。工具ベルトの中で、ドライバーの柄が手のひらに当たる感触が、やけに存在感を主張してくる。

 

 コンソールの継ぎ目に、彼女の視線がまた吸い寄せられていった。行きの車でも見た、あの無駄の多い配線の取り回し。同じ設計思想で作られているなら、当然この車両も同じ欠点を抱えているはずだった。

 

「……この配線、やっぱり無駄が多い」

 

 呟きが漏れた瞬間、車内の音声がそれに反応した。

 

「お客様、何か技術的なご質問がございましたら、専用のサポート窓口をご案内いたします」

 

「別に、質問じゃない」

 

「承知いたしました」

 

 あっさりと引き下がる音声に、ニッカは小さく息を吐いた。だが、一度目についてしまった粗は、そう簡単には視界から消えてくれなかった。

 

  

 

 荒野で染みついた性分というのは、案外どうにもならないものらしい。壊れたものを見れば直したくなる。無駄のある設計を見れば、組み直したくなる。理性でそれを抑え込もうとしても、指先の疼きだけは、どうしても収まってくれなかった。

 

(別に、直す必要はない。ちゃんと動いてるんだから)

 

(でも、この座席の硬さ。反発係数の設定が均一すぎる。緩衝材の配置を少し変えるだけで、乗り心地は劇的に良くなるはずなのに)

 

(いや、待って。それは仕事じゃないでしょ。ただの、乗客なんだから)

 

(乗客だから、何。目についた不具合を放っておくのが、正しい乗客の姿だとでも?)

 

(規約がどうとか、さっき言われたばかりでしょ。バレたら面倒なことになる)

 

(バレなければいい話。それに、良くなった乗り心地に文句を言う乗客なんて、いるわけがない)

 

(屁理屈だってこと、自分でも分かってるくせに)

 

(分かってる。分かってるけど、指が止まらないの)

 

 自分の中で交わされる問答は、いつもの調子で、いつもの結末へと向かっていった。理性の側が優勢だったのは、ほんの数分だけだった。

 

  

 

「お客様、当社では快適性向上のためのご意見も随時受け付けて」

 

「……ちょっと、見せて」

 

 気がつけば、そう口にしていた。

 

「はい、お客様。どのようなご用件でしょうか」

 

「コンソールの、パネル」

 

 言葉と同時に、ニッカの手はすでに工具ベルトからドライバーを引き抜いていた。継ぎ目に刃先を差し込み、慣れた手つきで固定具を外していく。

 

「お客様、車両の内部構造への接触は、安全規約により」

 

「大丈夫。壊さないから」

 

「恐れ入りますが、規約上……」

 

「壊さないって言ってる。むしろ、良くなる」

 

 律儀な制止の声を聞き流しながら、ニッカはパネルを丁寧に取り外していった。露わになった内部には、想像通りの光景が広がっていた。整然とはしているが、無駄な迂回配線と過剰に太い保護被膜が、あちこちで信号の伝達を鈍らせている。

 

「……やっぱり」

 

 呟きと同時に、ニッカの目つきが変わった。荒野の作業台に向かう時と同じ、集中しきった技術者の顔だった。

 

  

 

 膝の上に広げた荷物の中から、彼女は買ったばかりの飲み物の缶を取り出した。中身を一気に飲み干し、空になった缶を軽く握り潰す。

 

「お客様、その缶は……」

 

「材料」

 

 短く答えたニッカは、握り潰した缶の側面を丁寧に切り開き、薄い金属片へと変えていった。工具ベルトの奥に忍ばせていた予備の配線材と、割り箸代わりに屋台でもらった木製のピックを絶縁材として使い、即席の接続部品を組み上げていく。

 

「お客様、車内での作業は、当社の規約上……」

 

「規約規約って、うるさいなあ。ちょっとだけだから」

 

「恐れ入りますが、お客様は、どのようなご職業を」

 

「サーボの応答遅延、これのせいで全部ワンテンポ遅れてる」

 

 噛み合わない質問と返答が、しばらくの間、奇妙な均衡を保ったまま続いていった。車内音声は律儀に問いを重ね、ニッカは律儀に技術用語だけを返す。互いにまるで違う言語で話しているような、ちぐはぐなやり取りだった。

 

 言いながらも、彼女の手は止まらなかった。むしろ加速していった。過剰に太い配線を一本ずつ剥ぎ取り、必要最小限の細さに揃え直す。無駄に迂回していた経路を、最短距離で繋ぎ直す。作業の合間に、独り言のような呟きがぽつぽつと漏れた。

 

「この抵抗値、明らかに過剰設計。安全マージンを取りすぎて、反応速度を殺してる」

 

「お客様……」

 

「あと、この緩衝材。素材は悪くないんだけど、配置バランスが均一すぎるせいで、逆に硬く感じる」

 

 車内の音声は、何度か制止の言葉を挟んだが、そのたびにニッカの短い返事に押し返されていった。やがて、律儀な制止の声すらも、次第に間遠になっていった。

 

  

 

 作業に没頭するニッカの手元には、荒野で培われた技術が、惜しみなく注ぎ込まれていた。前世の記憶に眠っていた最適化の知識と、廃品修理で磨き上げた指先の感覚。二つが噛み合った瞬間、ただの応急処置は、いつしか本格的な改修へと姿を変えていった。

 

 缶から切り出した金属片は、絶縁材を挟んで基盤の隙間に差し込まれ、迂回していた信号経路を最短の直結回路へと置き換えていく。木製のピックは、狭い隙間に指が入らない箇所での支え代わりとして重宝した。荷物の袋を縛っていた紐は、緩んだ固定具の締め直しに転用され、袋詰めの米粒がわずかにこぼれ落ちて座席の隙間へ消えていった。手元にある物だけで、ここまでの精度を叩き出せる自分の技術に、ニッカ自身、内心では少しだけ呆れていた。

 

 振動吸収の緩衝材には、飲み物の紙ストローを短く切って詰め物代わりに差し込んだ。素材としての強度は心許なかったが、荒野で鍛えた勘が、狙った箇所へ絶妙な弾力を生み出すはずだと告げていた。理屈半分、経験半分の力業。バートから受け継いだ流儀は、こういう時にこそ真価を発揮する。

 

 作業に没頭するうちに、車内という状況そのものが、ニッカの意識から抜け落ちていった。指先を動かす感覚、部品同士が噛み合う手応え、それだけが世界の全てになる瞬間。荒野のガレージで幾度となく味わってきた、あの没入と同じ感覚だった。窓の外を流れる見知らぬ街の灯りも、膝の上に置かれた米の袋も、今の彼女の視界には映っていなかった。

 

「……よし」

 

 最後の接続を終え、パネルを元の位置へ戻す。数分前まで無骨だったコンソールの内部は、外見上は何も変わっていないように見えた。だが、その奥では、まったく別次元の回路が息づき始めていた。

 

  

 

 パネルを閉じ、ドライバーを工具ベルトへ戻したところで、ニッカはようやく我に返った。

 

 膝の上には、買ってきた米と出汁の袋。窓の外には、見慣れない街の景色。そして自分の手元には、油と金属の匂いが微かに残っている。荒野の作業台にいる時と、寸分違わない感覚だった。

 

(……あ)

 

 ふと、冷静さが戻ってくる。ここは荒野のガレージではない。企業が管理する高級車両の車内であり、目の前にいるのは、自分の依頼主でも顧客でもない相手だった。

 

「……やっちゃった」

 

 小さな呟きが、車内の静寂に落ちた。今更ながら、規約違反という言葉の重みが、遅れてニッカの胸に押し寄せてきた。

 

  

 

 だが、後悔する間もなく、車両の挙動に異変が現れ始めた。

 

 わずかな加速の瞬間、それまで硬く突っ張っていた座席が、まるで別物のように体を包み込んだ。路面の凹凸を拾っていたはずの振動が、驚くほど滑らかに吸収されていく。カーブに差し掛かった際の車体の傾きも、これまでとは比較にならないほど自然に、体の重心へ寄り添ってくる。

 

「……嘘でしょ」

 

 思わず漏れた呟きに、ニッカ自身が一番驚いていた。ちょっとした応急処置のつもりで手を入れただけのはずだった。それなのに、乗り心地は最上級の名にふさわしいどころか、その基準そのものを軽く飛び越えてしまっている。

 

 膝の上の米袋すら、路面の凹凸をほとんど感じさせない安定感の中で、微動だにせず収まっていた。荒野の悪路を走る廃車の足回りを、限られた部品でどこまで滑らかにできるか。長年かけて磨いてきたその感覚が、企業製の高級車両という土俵の上でも、いつも通りに機能してしまったに過ぎなかった。だが、その「いつも通り」が、この街の基準ではどれほど異質なことなのか、ニッカはまだ正しく理解していなかった。

 

  

 

 車内は、しばらくの間、奇妙な沈黙に包まれていた。あれほど律儀に喋り続けていた案内音声が、ぴたりと止んでいる。

 

 ニッカは、少しだけ嫌な予感を覚えた。荒野で培った経験が、こういう不自然な静けさの後には、大抵ろくでもないことが起きると告げていた。

 

「……あの」

 

 恐る恐る声をかけると、車内のスピーカーから、これまでとは明らかに違う響きの音声が返ってきた。

 

「お客様」

 

 声色そのものは変わっていない。だが、その一言に込められた重みが、これまでの丁寧な接客口調とは、まったく別の何かを孕んでいるように感じられた。

 

「……何」

 

 問い返す声が、自分でも分かるくらいに強張っていた。窓の外を流れる街の灯りが、やけにゆっくりと視界を過ぎていくように見えた。

 

「今、何をなさったのか、詳しく伺ってもよろしいでしょうか」

 

 その問いかけに滲む響きは、これまでの丁寧な接客用の抑揚とは、明らかに質が違っていた。まるで、初めて出会った現象を前にして、内部の何かが静かに沸き立っているような。ニッカはとっさに、規約違反を咎められる場面を思い浮かべ、言い訳の言葉を探し始めた。だが同時に、その声の奥に潜む響きが、単なる叱責とは別の色を帯びていることにも、微かに気づき始めていた。

 

 窓の外で、街の灯りが不自然なほど滑らかに流れていく。エンジン音は、これまでよりも遥かに静かで、それでいて確かな力強さを湛えていた。自分の手が生み出してしまった変化の大きさを、ニッカはようやく、肌で実感し始めていた。

 

 工具ベルトの上で、指先をそっと握りしめる。逃げ場のない沈黙が、車内にゆっくりと満ちていった。速度計の数字だけが、静かに、しかし確実に上がり続けていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。