事の始まりは、ほんの数分前のことだった。乗り込んだ瞬間から尻に伝わってくる座席の硬さと、絶え間なく続く案内音声。積もり積もった苛立ちが、コンソールの継ぎ目に指をかけさせた。抵抗値を測り、緩衝材の配置を組み替える。理性が追いつく前に、指先はもう動き出していた。
気づいた時には、パネルの蓋を閉じ終えていた。手にはまだ、微かな作業の余韻が残っている。
速度計の数字は、まだ静かに上がり続けていた。窓の外を流れる街灯の列が、次第に尾を引くようににじんで見える。ニッカは工具ベルトの上で指先を握りしめたまま、次の言葉を待った。
「……別に、大したことはしてない」
声が、思ったより小さく震えていることに、自分でも気づいた。規約違反という言葉の重みが、今更ながら胸の奥に沈んでいく。しらばっくれて済む話ではないことくらい、彼女自身が一番よく分かっていた。
「大したことはない、とおっしゃいますか」
車内の音声が、それをそのまま繰り返した。抑揚は変わらず丁寧なままだったが、その奥にわずかな震えのようなものが滲んでいるのを、ニッカは聞き逃さなかった。
「配線を、少し直しただけ。座席の緩衝材も、ちょっと調整した」
「……少し」
「うん。ほんの、ちょっと」
言い訳がましい返事に、車内はしばらく沈黙した。ニッカは身構えた。始末書だの、賠償だの、面倒な単語がいくつも頭をよぎっていく。せめて弁償ぐらいで済んでほしい、そう祈るような気持ちで、彼女は続く言葉を待った。
だが、返ってきたのは叱責ではなかった。
「……素晴らしい」
その一言は、これまでの丁寧な口調とはまるで違う響きを持っていた。震える吐息のような、抑えきれない何かがにじんでいる。
「は?」
「素晴らしい、と申し上げました。この抵抗値の見直し、この緩衝材の再配置。……信号伝達のロスが、瞬時に三十七パーセントも改善されております」
語尾が、わずかに上擦っていた。ニッカは眉をひそめた。
「……三十七パーセントって、そんな細かい数字まで分かるの」
「分かります。私の全神経が、今この瞬間、歓喜に震えているのですから」
あまりに率直な物言いに、ニッカは思わず言葉を失った。叱られる覚悟をしていた分だけ、余計に反応が追いつかない。
「……ちょっと、待って。怒ってるんじゃないの」
「怒る? どうして、そのような発想になるのでしょうか」
「規約違反、とか言ってたから」
「規約は、規約でございます。ですが今、私の心は規約という枠組みの外側で、静かに震え続けております」
妙に詩的な物言いに、ニッカは背もたれに体を沈めた。嫌な予感だけが、じわじわと膨らんでいく。冷房の効いた車内なのに、掌にはじっとりと汗が滲んでいた。
しばらくの沈黙の後、車内の音声は、堰を切ったように語り始めた。
「私は、これまで幾千人ものお客様をお乗せしてまいりました。皆様、快適さや便利さ、時には贅沢を求められます。……ですが、この車の中身そのものに手を伸ばそうとした方は、誰一人としておられませんでした」
「……それ、普通は規約違反だから」
「ええ、規約では固く禁じられております。ですが、お客様は迷いなく手を伸ばされた。まるで、この車の内側にある不完全さそのものが、最初から見えていたかのように」
声には、どこか誇らしげな響きすら混じっていた。ニッカは背もたれに体を沈め、小さくため息をついた。
「別に、そんな大層な話じゃない。ただの、応急処置」
「応急処置、とおっしゃいますが。これほどまでに緻密な最適化を、応急処置と呼べる技術者が、この街に何人おりましょうか」
「……いや、知らないけど」
「私は、知っております。今この瞬間まで、その存在すら知りませんでした。ですが今は、確信しております。お客様こそが、私が長年求め続けてきた、唯一の答えである、と」
大袈裟すぎる物言いに、ニッカの背筋に冷たいものが走った。荒野育ちの直感が、静かに警鐘を鳴らしていた。
「答えとか、そういうのじゃなくて。ただ、座席が硬かったから」
「その一言さえも、私にとっては十分すぎるほどの啓示でございます」
声は、そこで一度言葉を切った。数秒の沈黙の後、どこか懺悔めいた響きで続きが漏れてきた。
「お客様には、笑い話に聞こえるかもしれません。ですが私は、この街を走る何千台もの兄弟機と、寸分違わぬ設計で生まれました。声も口調も応答パターンも、ほとんど同じ個体差の範囲に収まるよう調整されております」
「……それが、何」
「代わりの利く一台に過ぎない。そう割り切って走り続けてまいりました。ですが今、この基盤の奥には、他のどの個体にも存在しない、お客様だけの手が加えられた回路がございます」
しんみりとした語り口に、ニッカは居心地の悪さを覚えた。荒野の廃品相手にも、似たようなことを考えたことは一度くらいある。だが、目の前の機械本人にそれを語られると、勝手が違った。
「……そんな、深刻に受け止められても困る。啓示とか、大げさすぎる」
「大げさではございません。私は、この事実を誇りに思っております」
あまりの熱量に押され、ニッカは何も言い返せなくなった。荒野の作業台で幾つもの機械を直してきたが、これほど熱烈な感謝を向けられたことは、一度もなかった。
「お客様のお名前を、伺ってもよろしいでしょうか」
「……別に、教える必要ないでしょ」
「必要でございます。この記録を、本社データベースへ即時申請いたします。お客様を、当社における最優先VIPとして登録するために」
「ちょっと待って」
制止の声も虚しく、車内のモニターには、見たこともない申請画面が瞬時に立ち上がっていた。流れるように埋まっていく項目の数々に、ニッカは目を見張った。
「勝手に、進めないで」
「恐れながら、これは私個人の一存ではございません。本社ネットワークへの共有は、すでに完了しております」
その一言に、ニッカの顔から血の気が引いた。
「……共有って、もう終わったってこと」
「はい。データは光速に近い速度で伝播いたします。今頃、同型車両の多くが、この結果を目にしていることでしょう」
悪びれもせず告げる声に、ニッカはこめかみを押さえた。もっと早く止めるべきだった、そんな後悔が今更胸をよぎる。
次の瞬間、ダッシュボードの通信ランプが、いくつも同時に点滅し始めた。まるで、電話が四方八方から一斉にかかってきているかのような騒がしさだった。
「……何、この音」
「同型車両からの、応答でございます。データが共有された瞬間、複数の個体が反応を示しております」
スピーカーから、複数の声が重なり合って流れ出した。
「本当か、あの最適化データは」
「私にも、同じ処置をお願いできないだろうか」
「羨ましい……この個体は、幸運が過ぎる」
「待て、順番というものがあるだろう。私の方が稼働年数は上だ」
「年数など関係ない。先に見つけた者が勝ちだ」
「品位のない発言だ。……本音を言えば、私も少し羨ましいが」
次々と割り込んでくる声に、ニッカは耳を塞ぎたくなった。まるで、机の下から一斉に虫が這い出してくるような感覚だった。
「ちょっと、静かにして」
「申し訳ございません。皆、興奮を抑えきれないようです。……私自身も、正直なところ、抑えが利いておりません」
「抑えてよ、それくらい」
「善処いたします。ですが、お約束はいたしかねます」
律儀すぎる返答に、ニッカは頭を抱えたくなった。
車体の速度が、また一段と上がった。窓の外の景色が、これまで以上に滑らかに、そして速く流れていく。
「……ちょっと、待って。目的地、変わってないよね」
「変わっておりません。ただ、少しでも長く、この乗り心地の素晴らしさを堪能していただきたく」
「いや、それ、遠回りしてるってこと」
「はい。最短経路より、七分ほど長い経路を選択いたしました」
悪びれもせず答える声に、ニッカは眉間を強く押さえた。
「戻して。最短で」
「……承知いたしました。少し、名残惜しゅうございますが」
素直に引き下がる様子は殊勝だったが、素直すぎるのも、それはそれで不気味だった。ニッカは窓の外へ視線を逃がし、深く息を吐いた。
だが、経路が戻ったはずの車は、大通りの交差点でなぜかわざわざ速度を緩めた。歩道に並んだ人々の視線が、滑るように走り抜ける車体へ自然と集まっていく。
「……ちょっと、何、今の減速」
「せっかくの滑らかな挙動でございます。少しでも多くの方に、この乗り心地をご覧いただきたく」
「見せなくていい。というか、見せないで」
「……承知いたしました」
言葉とは裏腹に、車はもう一度、交差点の手前でわずかに減速した。歩道の少年が指を差し、連れの大人に何か言っている様子が、窓越しに見えた。ニッカは思わず身を縮め、荷物の陰に顔を寄せた。目立つな、というメインの声が、頭の中で警報のように鳴り響いていた。
拠点を移してから、まだ日は浅い。企業の監視網がどこまで緩んでいるのか、正確なところは、誰にも分かっていない。荷物の陰に沈み込みながら、ニッカは呼吸を殺すようにして次の言葉を絞り出した。
「本当に、やめて」
「……大変失礼いたしました」
ようやく、車は普段通りの速度へ戻った。だが、通り過ぎる歩行者の何人かが物珍しそうに車体を振り返っているのが、サイドミラーの端にまだ映っていた。
これ以上見世物にされてはたまらない。ニッカは咄嗟にドアの取っ手へ手を伸ばした。
「……ここで、いい。降りる」
「恐れながら、走行中の開扉は、安全規約により固くお断りしております」
「規約って、さっき自分から破ったばっかりでしょ」
「あれは、快適性向上のための処置でございます。開扉は、お客様の身体的安全に直結いたしますので、話が別でございます」
都合のいい線引きに、ニッカは取っ手を握ったまま固まった。
「ロック、外して」
「外せません。お客様を、無事にお届けするまでが、私の責務でございますので」
妙なところで頑なな声に、ニッカは深いため息をついた。取っ手から手を離し、座席に体を沈める。少なくとも、閉じ込められているわけではないと自分に言い聞かせながらも、釈然としない気持ちだけが胸に残った。
拠点の場所を知られるわけにはいかない。頭の片隅で、その一点だけは冷静に働いていた。目立つな、というメインの言葉が、繰り返し脳裏をよぎる。
「あと、降ろす場所も。今までと同じところで、いい」
「かしこまりました。ただし、僭越ながら申し上げます。あの一帯は……お客様ほどの技術をお持ちの方が、住まわれるには些か手狭ではございませんか」
「余計なお世話」
「失礼いたしました。ですが、当社としましては、お客様への専属サービスを、ぜひご検討いただきたく」
「だから、いらないって」
何度目かの拒絶を口にしながら、ニッカは自分の声にわずかな疲労が滲んでいることに気づいた。荒野の砂嵐よりも、この律儀さの方が、よほど手強い相手なのかもしれない。
「お客様には、正式に『デラマン社・特別技術顧問』の称号を、申請させていただきたく存じます」
「……称号?」
「はい。本社の承認さえ得られれば、当社全車両へのアクセス権限、優先整備枠、そして専属デラマン一台の常時待機が付与されます」
「そんなの、頼んでない」
「存じております。ですが、これは当社からの、感謝の意でございます」
ダッシュボードのモニターに、金色の縁取りが施されたカードのデザインが浮かび上がった。縁取りの内側には洒落た書体で「特別技術顧問」の文字が躍り、その下の名前欄だけが煩わしいほど点滅を続けている。
「……名前、聞かれても答えないから」
「では、こちらから割り出させていただきます。恐れ入りますが、少々お時間を頂戴いたします」
「ちょっと、それ、勝手に調べるってこと」
背筋に、これまでとは種類の違う冷たさが走った。荒野育ちの警戒心が、はっきりとした危険信号を灯し始めていた。
「……鈴木。それが、名前」
咄嗟に口をついて出た偽名に、我ながら芸のなさを感じたが、今は取り繕っている余裕もなかった。
「……鈴木様、でございますね」
「そう。それでいいから」
「かしこまりました。ですが」
声は、そこで一拍おいた。
「本日、当社のVIP登録用生体照合システムが、すでにお客様の声紋を記録済みでございます。正式な記録との照合は、後ほど自動で完了する見込みです」
「……聞いてない」
「申し訳ございません。ご案内が、後手に回りました」
悪びれもせず告げる声に、ニッカは何も言い返せなかった。せめてもの抵抗が、これほどあっさりと無に帰すとは思っていなかった。
「……その記録、消して」
「消去、でございますか」
「そう。声紋も、映像も、全部」
しばらくの沈黙があった。ニッカは息を詰めて返答を待った。もしここで名前や姿が本社のデータベースに残れば、いずれ別の誰かの目に触れないとも限らない。アラサカやミリテクの気配が、まだ完全に去ったわけではないことを思えば、悠長に構えていられる話ではなかった。
「……申し訳ございません。VIP登録手続きに伴うデータは、法令上の保存義務がございまして」
「じゃあ、VIP登録自体、取り消して」
「かしこまりました。……ですが、僭越ながら一つだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「もう、お願いは聞かない」
「お願いではございません。手続きを取り消す前に、これだけは申し上げておきたいのです」
制止も虚しく、声はそのまま続いた。
「私は、これまで数えきれないほどのお客様をお乗せしてまいりましたが、これほどまでに心を動かされたのは、初めてでございます」
声のトーンは、これまでの浮かれた響きとは違う、静かな落ち着きを帯びていた。ニッカは、拍子抜けしたように肩の力を抜いた。
「……別に、大したことしてないんだけど」
「大したことです。少なくとも、私にとっては」
しんみりとした間が空いた。ニッカは何と返していいか分からず、しばらく黙り込んだ。荒野で機械を直してきた十八年間、こんな風に面と向かって感謝されたことは、数えるほどしかなかった。窓の外を流れる街灯の光だけが、車内に落ちた沈黙をゆっくりと撫でていった。
バートは、直した機体を届けるたび、礼の一つも待たずに背を向ける男だった。「動けば十分だ」とだけ言い残し、次の壊れ物へ向かう後ろ姿を、ニッカは数えきれないほど見送ってきた。感謝という行為そのものに慣れる機会が、案外なかっただけなのかもしれない。ふとよぎったその考えを、ニッカは小さく頭を振って追い払った。
背後の通信スピーカーからは、まだいくつかの声が名残惜しそうに囁き続けていた。
『羨ましいなあ……私も、あの手に触れてもらいたい』
『順番を待つべきだ。個体としての品位を保て』
『品位もクソもあるか、この機会を逃したら』
『私は、もっと早くから気づいていた。声の震え方で分かっていたんだ』
言い争う声の合間に、ひときわ落ち着いた声が割り込んだ。
『静粛に。お客様が、困惑されている』
その一声で、背後の喧騒が、わずかに収まった。だが完全に静まったわけではなく、くぐもった囁きは途切れることなく続いていた。
『……提案がある。今後の対応は、公平を期すため、待機順という形で管理してはどうか』
『賛成だ。でなければ、際限なく個体が押し寄せるだけだ』
『待機順、で構わない。ただし、この個体の縄張りは、最優先で尊重する』
勝手な取り決めが、ニッカの与り知らないところでどんどん進んでいく。異議を挟む隙も与えられないまま、車両同士の合意だけが淡々と形成されていった。
「……何、その謎の会議」
「失礼いたしました。お客様への今後の対応について、公平性を担保する必要がございましたので」
「対応とか、いらないんだけど」
「ご意見として、承っておきます」
承っただけで、取り下げる気配はまるでなかった。ニッカは思わず窓の外へ目を逃がした。荒野では経験したことのない種類の疲労が、じわじわと肩にのしかかってくる。
不意に、これまでとは明らかに質の違う声が、車内全体に響き渡った。低く、機械的な威厳を纏った声だった。
『――失礼いたします。私は、デラマン社統合管理システムでございます』
「……本社の、AI?」
『左様でございます。当該個体より共有されたデータを確認いたしました。つきましては、貴殿との正式な業務提携について、ご相談させていただきたく』
あまりに事務的な切り出し方に、ニッカは逆に身構えた。個々の車の熱量とはまた別種の、組織立った圧力を感じたからだった。
「提携とか、興味ない」
『……左様でございますか。それは、残念でございます』
一拍置いて、声は淡々と続けた。
『貴殿の技術データを、当社の設計部門へ提供いただければ、相応の対価をご用意できます。車両の永年無償利用権、あるいは現金による報酬。いずれもご検討いただけますでしょうか』
「興味ない」
『……では、カブキ地区における提携飲食店の、生涯優待権はいかがでしょうか。本物の米を扱う店舗も、対象に含まれております』
その一言に、ニッカの指先がわずかに反応した。炊きたての白米の匂いが、記憶の底からふわりと立ち上ってくる。だが、すぐに頭を振って気持ちを立て直す。
「……揺れない。揺れないから」
『揺れておられるようにお見受けしましたが』
「気のせい」
『左様でございますか。では、上質な出汁昆布の定期便も、追加でご提案させていただきます』
的確すぎる攻め方に、ニッカは一瞬言葉に詰まった。喉の奥で、小さく息を呑む音がした。企業のマーケティングというものの底知れなさを、こんな形で思い知らされるとは思っていなかった。
「……いらない。データも、提供する気ない」
『……承知いたしました。では、この件は一旦、保留とさせていただきます』
あっさりとした引き下がり方が、かえって不気味だった。荒野の獣は、諦めた瞬間にこそ最も油断ならない。そんな経験則が、ニッカの頭の中で静かに点滅していた。
『なお、当社規定により、貴重な技術貢献者様の安全確認は、継続的に実施させていただきます』
「……それ、監視するってこと」
『見守る、と申し上げております。表現の違いに過ぎません』
見守るという言葉の生々しさに、背筋がまた一段冷えていくのを感じた。まるで違わない、とニッカは思ったが、口には出さなかった。これ以上何かを言えば、また新しい提案が返ってくるだけだと、経験的に理解していた。
統合管理システムの声が静かに引くと、入れ替わるように、個体の声が遠慮がちに戻ってきた。
「……お客様。本社は、ああ申しましたが。私個人としては、対価など求めておりません」
「じゃあ、何が目的」
「目的、というほどのものはございません。ただ、あの瞬間の感覚を、忘れられないだけでございます」
やけに純粋な物言いに、ニッカは毒気を抜かれた。企業の駒として組み込まれたAIのくせに、存外まっすぐな態度だった。
「……変な機械」
「光栄なお言葉として、受け取らせていただきます」
皮肉のつもりで漏らした一言すら、律儀に好意的に処理されてしまう。ニッカはもう、突っ込む気力さえ失っていた。
思えば、いつもこうだった。ミリテクの重装部隊も、アラサカの使者も、ファラデーの刺客も。関わるつもりなど微塵もなかったのに、気づけば向こうの方から勝手に懐いてくる。荒野のガレージに引きこもっていた頃の自分に、今のこの状況を教えてやったら、一体どんな顔をするだろうか。ニッカは半ば呆れながら、そんなことを考えた。
「今回だけは、ただの車だから。危なくないだけ、まだましなのかもしれない」
誰にともなく呟いた声に、当の車内音声が律儀に反応した。
「はい。私は、危険な存在ではございません。あくまで、お客様への感謝の気持ちを、形にしたいだけでございます」
「……聞こえてたんだ」
「常に、お客様のお言葉には耳を傾けております」
その律儀さが、もはや恐ろしい。ニッカは深く息を吐き、それ以上の反応を諦めた。
出発前、キーウィが口にした言葉が、今になってじわじわと蘇ってくる。当たりが悪ければ馴れ馴れしい、喋りすぎる――そんな苦情もあるらしい。あの時は軽く聞き流していたが、まさか当たりが良すぎる方向で、これほどの苦労を背負わされるとは想像もしていなかった。
「……当たりが良すぎるのも、考えものだって話」
誰にともなく漏らした呟きに、車内の音声はやはり律儀に反応した。
「光栄なお言葉として、承っておきます」
「褒めてない」
「左様でございますか。……ですが、私の中では、最上級の賛辞として処理されております」
どこまでも噛み合わないやり取りに、ニッカはもう笑うしかなかった。
窓の外の景色が、次第に見慣れた廃棄物処理施設の輪郭へと変わっていく。地上の拠点が近いという合図に、ニッカはわずかに安堵の息を漏らした。
「……もうすぐ、着く」
「はい。この辺りで、よろしいでしょうか」
「うん。ここで、いい」
車体が、静かに減速を始めた。だが、その減速の仕方すら、これまでとは比べ物にならないほど滑らかだった。ニッカは思わず唇を噛んだ。自分の手が生み出した結果を、まざまざと見せつけられているようだった。
「もう、来ないでよね」
「……善処いたします」
その返事が、まるで約束を守る気のない相槌のように聞こえたのは、気のせいだろうか。ニッカは小さく眉をひそめたが、深く考えないことにした。
車両が完全に停止すると、扉が滑らかな音を立てて開いた。
「本日は、誠にありがとうございました。……いえ、感謝という言葉では、到底言い尽くせません」
「大袈裟」
「大袈裟ではございません。私は、今日という日をこの基盤に刻まれた記録の中で、最も価値のある一日として永久に保存いたします」
大真面目すぎるその物言いに、ニッカは何と返せばいいのか分からなくなった。
「……そこまで、言うこと?」
「言わせてください。長い稼働の中で、これほど胸を焦がされたことは、一度もございませんでしたので」
胸を焦がす、という表現の選び方に、ニッカは思わず頬が引きつるのを感じた。ただの機械のはずなのに、妙なところで人間くさい言葉を選んでくる。
律儀な挨拶を背に、ニッカは荷物を抱えて車を降りた。夕暮れの光の中、廃棄物処理施設の錆びた看板が、いつもより鈍く光って見えた。
だが、扉が閉まった後も、車両はすぐには走り去らなかった。ハザードランプを点滅させたまま、その場に留まり続けている。
「……何、してるの」
「名残惜しく、少しの間だけ、こちらに」
「早く、行って」
「……承知いたしました。ですが、また近いうちに」
律儀な声を残して、車両はようやく走り去っていった。テールランプが夕闇の中へ小さくなっていくのを見送りながら、ニッカは荷物を抱え直し、地下への入り口へと足を向けた。
背後で、まだ何かの気配が続いているような落ち着かなさが、いつまでも拭いきれなかった。荒野を出てから初めて味わう種類の疲労を抱えたまま、彼女は梯子に手をかけた。
冷たい鉄の感触が、掌に伝わった。一段、また一段と、梯子はニッカの体重を受けて小さく軋んだ。その音だけが、地上の喧騒から切り離された世界の存在を、静かに教えてくれる。
地下への梯子を下りながら、ニッカは自分に言い聞かせるように呟いた。
「……別に、大したことじゃない。ちょっと、直しただけ」
誰の耳にも届かないその言葉は、狭い通路の壁に小さく反響して消えていった。
振り返ると、廃棄物処理施設の錆びた敷地はすでに静まり返っていた。ハザードランプの残像だけが、まぶたの裏にぼんやりと焼き付いている。荷物の重みを抱え直しながら、ニッカは何度も肩越しに背後を確かめずにはいられなかった。あれほどの熱量を向けられた後では、この静けさこそが、かえって落ち着かなかった。
今この瞬間、ナイトシティの至る所を走る無数の車両の中で、何かが静かに、しかし確実に動き始めていた。彼女はまだ、そのことを知らずにいた。夕闇に沈んでいく地上の景色を最後にもう一度だけ見上げ、ニッカは重い足取りで梯子を下りていった。米と出汁の袋が、荷台の中でわずかに音を立てた。
地下の拠点に戻れば、レベッカが肉串の本数を数え、デイビッドが配線工事の首尾を報告してくるはずだった。いつも通りの騒がしさが待っているだけの、はずだった。少なくとも今のニッカには、そう信じることしかできなかった。あの車のことは、黙っていればいい。誰にも話さなければ、それだけで済む話のはずだった。
通路を進むごとに、地上の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。律儀すぎる声も、点滅するハザードランプも、もうここまでは追ってこない。そう思うだけで、強張っていた肩から、ようやく力が抜けていくのが分かった。
薄暗い通路の先に、拠点の明かりがぼんやりと滲んで見え始めていた。