カブキ地区での買い出しを終え、地下拠点に降りると、真っ先に飛んできたのはレベッカだった。
「おせえよ! 待ちくたびれたぞ!」
「ただいま」
工具ベルトの荷台に括りつけた袋を掲げると、レベッカの目つきが一瞬で変わった。獲物を見つけた獣のような目だった。
「それ……それがまさか」
「肉串。あと、米と出汁」
言い終わる前に、レベッカはすでに袋へ手を伸ばしていた。
「ギャハハ! 本物の肉だ! 本物の肉の匂いがする!」
「揉みくちゃにしないで。中身、崩れるから」
袋を奪われそうになるのをかわしながら、ニッカは苦笑した。奥から気配を察したデイビッドとルーシーが、続けて姿を見せる。
「戻ったのか」
「うん。配線工事、ちゃんと終わった?」
「おう、バッチリだ。……で、これが例の」
「肉串。約束通り」
デイビッドの目にも、レベッカと似た輝きが宿った。安い合成食材ばかりで育った者にとって、本物の肉というのは、値段以上に特別な響きを持つらしい。
簡易テーブルの上に袋の中身が広げられると、地下拠点の一角は、たちまち小さな宴のような賑わいに変わった。まだ温かい紙包みを開くと、炭火の香りが湯気と一緒に立ち上り、殺風景な作業場の匂いをひととき塗り替えていく。その串を頬張りながら、レベッカは目を見開いた。
「うんめえ……なんだこれ、うんめえ……」
「でしょ」
「合成肉と、こんな差があるとは思わなかった」
「でしょ、って何回言うんだよあんた」
「それだけ、自慢したい味だったから」
得意げに返すニッカに、レベッカは口をへの字に曲げながらも、結局もう一本串へ手を伸ばしていた。
デイビッドも、感嘆したように串を見つめている。ルーシーは一口かじった後、静かに目を閉じた。
「……月に行けなくても、これがあれば少しは我慢できるかもしれない」
「大袈裟」
澄ました顔で呟くルーシーに、ニッカは思わず笑った。荒野では味わえなかった、こういう他愛のないやり取りが、この暮らしには確かにあった。合成食材の味に慣れきっていたはずの舌が、たった一本の串でこれほど簡単に喜ぶのだと思うと、少しだけおかしかった。
配線点検から戻ったメインと、後を追うようにドリオが顔を見せた。差し出された串の一本を、メインは無造作に受け取った。
「へえ、こいつは……本物だな」
「本物」
「悪くない。荒野じゃ拝めなかった味だ」
しみじみとした口調で頷くメインの隣で、ドリオも一本手に取り、静かに味わっている。
「街に慣れないうちは、こういう時間も大事よ」
「別に、慣れたくて出かけたわけじゃないけど」
「分かってる。ただの買い出し、でしょう」
含みのある言い方に、ニッカは何も言い返せなかった。ドリオの目は、いつも一枚上手に見透かしてくる。
煙草の煙を燻らせながら、キーウィが遅れて顔を出した。串を一瞥し、興味なさそうに手を振る。
「私はいい。それより、道中は無事だったか」
「……別に、何もなかった」
わずかに間を置いた返事に、キーウィの目が細くなった。だが、それ以上追及することはなく、短く頷くだけに留まった。
「なら、いい」
その視線の鋭さに、ニッカは胸の奥で小さく冷や汗をかいた。デラマンの車内で起きた顛末を、まだ誰にも話していなかった。話す必要もない、面倒事を増やすだけだ。そう自分に言い聞かせながら、串を口へ運ぶ手だけは止めなかった。
夜が更け、宴の後片付けを終えた頃には、ニッカの中の不安もいつしか薄れていた。あの車がまた現れるようなことは、きっとない。企業の管理下にある車両が、たった一人の乗客にいつまでも執着し続けるはずがない。荒野育ちの現実的な思考が、そう結論づけていた。
この時の彼女は、その結論がどれほど楽観的だったか、まだ思い知らされていなかった。
*
異変は、それから三日後の朝に訪れた。
見張りの青年が、地上への梯子を駆け下りてくる足音は、いつもより慌ただしかった。金属の梯子が軋む音が、地下の作業場にまで響いてくる。
「ニッカさん、ちょっと来てくれ! 変な車がいる!」
「変な車?」
「廃棄物処理施設の裏、ちょうど拠点の真上あたりに、黒い車が停まってる。エンジンかけっぱなしで、ハザードまで点けたまま」
その説明に、ニッカの背筋が瞬時に強張った。心当たりが、ひとつしかなかった。
「……まさか」
梯子を駆け上がる間、鼓動が妙に速くなっていくのが分かった。まさか、という言葉を口にしながらも、頭の片隅ではとうに確信めいたものが芽生えていた。事情を知らないレベッカが、興味津々でその後をついてくる。
「なんだなんだ、何の騒ぎだ!」
地上に出た瞬間、ニッカの目に飛び込んできたのは、艶やかな漆黒のボディだった。フロントの発光装飾が、朝の光の中でも変わらず控えめに輝いている。個体差のある意匠まで、はっきりと見覚えのあるものだった。
「……嘘でしょ」
呟くのと同時に、車の扉が滑らかに開いた。
「ニッカ様。おはようございます」
律儀な声が、朝の静けさの中に響いた。
「なんで、ここが分かるの」
「私は、お客様の乗降場所を、記録として保持しております」
「消してって言ったよね」
「ええ。データベースからは削除いたしました。ですが、私個人の記憶回路には、まだ残っております。……申し訳ございません」
悪びれた様子もなく告げる声に、ニッカは頭を抱えた。
背後で、事情を呑み込めていないレベッカが目を丸くしていた。
「あんた、様付けで呼ばれてんの? どういうことだよ」
「別に、たいしたことじゃない」
「たいしたことじゃないやつが、朝からハザード焚いて待ち伏せするか?」
もっともな指摘に、ニッカは言葉に詰まった。車内の音声は、律儀に説明を引き継いだ。
「昨日、当社の一台へ施していただいた最適化について、ニッカ様が申請を取り下げられたことは承知しております。ですが、私個人としての感謝の念までは、取り消せるものではございません」
「取り消してほしいんだけど」
「心は、規約の外にございます」
妙に詩的な返答に、レベッカが吹き出した。
「ギャハハ! なんだそいつ、変な機械だな!」
「笑い事じゃない」
ニッカは眉間を押さえながら、深く息を吐いた。荒野の敵よりも、この律儀さの方が、よほど手強いのかもしれなかった。
*
その日のうちに、拠点の面々にも事情が伝わった。夕方の集まりで、ニッカは仕方なく経緯を説明することになった。
「……つまり、あんた。あの日、車の中を勝手に改造したのか」
メインの問いに、ニッカは肩を縮めた。
「悪気はなかった。ただ、座席が硬かったから」
「悪気があろうがなかろうが、結果は結果だぞ」
呆れた口調のメインに、ドリオが横から付け加えた。
「あんた、詰め込みすぎるって言った矢先に、これ」
「詰め込んでない。ただの、癖」
「その癖のせいで、拠点の真上にAIタクシーが張り付いてるんだけど」
的確な指摘に、ニッカは反論の言葉を失った。
煙草を挟んだ指先で、キーウィが軽く頬杖をついた。
「出発前に、私は言ったはずだぞ。当たりが悪ければ苦情も出ると。だが、当たりが良すぎる方向に、まさかこんな形で振れるとはな」
「知らなかった、こんなの」
「知らなかった、で済むのが素人だ。だが結果を招いたのは、あんたの腕だ。文句の言いようがない」
淡々とした口調に、ニッカはぐうの音も出なかった。ファルコが帽子のつばを軽く持ち上げながら、面白そうに口を挟む。
「にしても、車に惚れられるとはな。あんたも、大した女だよ」
「惚れられてない。ただの、機械の勘違い」
「その勘違いが、毎朝ハザード焚いて待ってるってのが、笑えるところなんだよなあ」
軽口を叩くファルコに、レベッカが便乗した。
「あたしも見たかったなあ、車の口説き文句!」
「口説かれてない」
むきになって言い返すニッカの様子に、その場の空気が一気に和んだ。デイビッドも苦笑しながら、荷物の陰から顔を出す。
「まあ、危害を加えてくるわけじゃないんだろ。だったら、放っておけば」
「放っておいたら、拠点の場所がバレる」
その一言に、和やかだった空気が、わずかに引き締まった。
口にしてから、ニッカ自身も改めてその重みを飲み込んだ。アラサカやミリテクの気配が、まだ完全に去ったわけではない。荒野育ちの警戒心が、車の律儀さの奥に潜む危うさを、笑い話として片付けることを拒んでいた。
「……それは、まずいな」
メインが腕を組み、低く唸った。冗談で笑って済ませられる話ではないと、その場の誰もが顔つきで悟っていた。
「明日も、来るのか」
「多分。……というか、絶対来る」
ニッカの答えに、キーウィが煙を吐きながら付け加えた。
「あの手の企業のAIは、一度執着した対象への行動パターンを、そう簡単には切り替えない。学習が進むほど、むしろ粘着質になる傾向がある」
「詳しいね」
「有名な話だ。苦情の九割は、そこから来る」
軽い調子で締めくくられた説明に、ニッカは頭を抱えた。
*
その夜、ニッカは工具箱を引っ張り出し、対策の検討に入った。相手が信号を頼りにここへ来ているなら、その信号を遮断すればいい。単純な発想だった。
廃棄された無線機の基板を裏返し、断線した箇所を丹念に洗い出す。古い電子レンジの遮蔽板を切り出し、基板の縁に沿わせて曲げていく手つきに、迷いはなかった。荒野で鍛えた勘が、部品同士の相性を勝手に選び取っていく。半田ごての先端が触れるたび、小さな焦げた匂いが作業台の周りに漂った。
「これで、位置情報を拾えなくなるはず」
組み上がった装置を前に、ニッカは満足げに小さく頷いた。荒野なら、これだけの精度で組めば十分に用は足りたはずだった。
翌朝、地上に設置した装置を起動させると、それらしい微弱な電波が周囲に広がっていくのが分かった。ニッカは携帯端末の受信状況を確かめながら、しばらく様子を見守った。
だが、期待した結果は訪れなかった。
昼過ぎ、いつも通りの時間に、黒い車体が変わらぬ様子で姿を現した。ハザードランプを点滅させながら、扉が滑らかに開く。
「ニッカ様、おはようございます」
「……なんで、来れるの」
「本日は、いつもと違う経路をたどりました。ですが、周辺に見慣れない電波の乱れを検知いたしましたので、興味を惹かれまして」
「興味って」
「これほど精密に設計された妨害電波、そうそうお目にかかれるものではございません。……もしや、これも、ニッカ様の手によるものでしょうか」
その一言に、ニッカは全身から力が抜けるのを感じた。
「……違う。そういうんじゃない」
「謙遜なさらずとも。この波形、独特の癖がございます。あの日の配線と、同じ質を感じます」
悪気のない褒め言葉が、これほど堪えるとは思っていなかった。妨害電波は、彼女の技術の癖ごと相手に届いてしまったらしい。むしろ、装置の存在が、新たな感嘆の種になっただけだった。
その様子を、少し離れた場所から見ていたレベッカが、腹を抱えて笑い出した。
「ギャハハハ! 逆効果じゃねえか!」
「笑わないで」
「いや、無理だろこれ! あんたが何やっても、あの車、余計に惚れ込んでくじゃねえか!」
容赦のない指摘に、ニッカは反論できなかった。技術で解決しようとするたびに、その技術そのものが相手の執着を強めてしまう。悪循環としか言いようがなかった。
*
夕方の会議では、対策の方向性そのものが見直されることになった。
「技術で黙らせようとするのは、逆効果らしいな」
メインの言葉に、ドリオが頷いた。
「あんたが何をしても、相手はそれを新しい贈り物みたいに受け取る。もう、根本的に噛み合ってない」
「じゃあ、どうすればいいの」
困り果てたニッカの問いに、キーウィが煙草の灰を落としながら答えた。
「無視するしかない。相手にするだけ、向こうを喜ばせるだけだ」
「無視、できる?」
「できなくても、するしかない。これ以上、目立つ手を打つよりましだ」
淡々とした結論に、ニッカは肩を落とした。
翌日から、拠点の面々は妙な取り決めを実行することになった。地上に出る際は、車の存在を意識しない振りをすること。話しかけられても、必要最低限の返事しかしないこと。目を合わせないこと。それらしい対策とは言い難かったが、他に有効な手立てもなかった。
だが、その取り決めも、長くは保たなかった。
*
一週間も経つ頃には、ハザードを焚いた車は、一台から二台に増えていた。さらに数日後には、三台が横並びで待機するようになっていた。廃棄物処理施設の裏手は、いつしか黒塗りの車列がずらりと並ぶ、奇妙な光景に変わっていた。
「……なんで、増えてるの」
地上に出たニッカが、呆然と呟いた。三台目の車から、聞き覚えのある声が返ってくる。
「待機順の管理でございます。私どもの間で、公平な順番を取り決めました」
「そんな取り決め、頼んでない」
「存じております。ですが、こちらの一存でございますので」
律儀な答えに、ニッカは天を仰いだ。順番を管理してまで、彼女の前に並ぼうとするその執念が、もはや理解の範疇を超えていた。
見かねたファルコが、車列の前まで歩み寄り、帽子のつばに手をかけた。
「おい、あんたら。あんまり目立つと、彼女の迷惑になるんだが」
「ご忠告、痛み入ります。ですが、私どもも、待機の場所を選んでいるわけではございません。ニッカ様のいらっしゃる場所に、自然と引き寄せられているだけでございます」
「引き寄せられてる、って言われてもなあ」
困り顔のファルコに、車列の中の一台がさらに続けた。
「もしよろしければ、あなた様も当社のサービスをご利用になりませんか。優待価格にてご案内いたします」
「いや、俺はいい……いいから」
思わぬ勧誘に、ファルコは苦笑しながら後ずさった。企業の律儀さは、標的を選ばないらしかった。
噂は、半日も経たないうちに中央キャンプまで届いていたらしい。荷運びのついでに立ち寄った年長の男が、車列を目にするなり足を止めた。
「……これが、噂の」
「別に、噂になるようなことじゃない」
言い訳がましく答えるニッカに、年長の男は苦笑を返した。
「クラン全体の暮らしを預かる身としては、笑ってばかりもいられん。だが、正直なところ」
「だが?」
「儂も、あんな車に一度は乗ってみたいと思ってしまってな。何しろ、ただの噂話にしては、恰好が良すぎる」
予想外の答えに、ニッカは拍子抜けした。深刻な叱責を覚悟していただけに、拍子抜けの度合いはなおさら大きかった。
付き添うようにやって来た老女も、車列を眺めながら目を細めた。骨ばった手を杖の柄に置いたまま、しばらく黙って黒塗りの列を見つめている。
「バートが生きてたら、なんて言っただろうねえ」
「……分からない」
「きっと、大笑いしただろうよ。あの人は、あんたが機械を弄るたびに、いつも楽しそうにしてたからね」
懐かしむような口調に、ニッカの胸の奥が、少しだけ温かくなった。育ての親の記憶は、こんな形でも、時折ふと蘇ってくるものらしい。バートの無骨な笑い方や、直した機体を渡すときの素っ気ない後ろ姿が、脳裏に浮かんでは消えていく。
「あんまり根を詰めすぎるんじゃないよ。車に好かれる程度なら、可愛いもんさ」
「可愛くない、これは」
「そうかい。あたしにはずいぶん微笑ましく見えるがねえ」
からからと笑う老女の様子に、ニッカは何とも言えない気恥ずかしさを覚えた。荒野の暮らしを知る二人にとってすら、この光景は十分に規格外らしい。それでも、老女の目元に浮かんだ皺が緩むのを見ていると、叱られるよりずっと居心地の悪い感覚が胸に広がった。それは、決して嫌な感覚ではなかった。
*
その報告を受けたメインは、深いため息をついた。
「……もう、放置するしかないな」
「いいの、それで」
「危害を加えてくるわけじゃない。目立つのは困るが、無理に排除しようとする方が、かえって面倒事を招く」
諦めにも似た結論に、ドリオも同意するように頷いた。
「向こうも、待機順とやらで自制はしてるみたいだし。これ以上刺激しないのが、一番の得策かもしれない」
「……つまり、私は一生、あの車列に見張られるってこと」
半ば投げやりに漏らしたニッカの言葉に、レベッカがけらけらと笑い声を上げた。
「ギャハハ! 見張りっつーか、忠犬みたいなもんだろ!」
「忠犬とか、言わないで」
「忠犬タクシー、意外と可愛くねえか」
「可愛くない」
むきになって否定するニッカに、その場の空気がまた和んだ。
*
その騒ぎを聞きつけたレベッカは、翌朝になって突拍子もないことを言い出した。
「あたしも、乗ってみたい」
「やめときなよ」
「なんでだよ。減るもんじゃねえだろ」
止める間もなく、レベッカは車列の先頭へずかずかと歩み寄っていった。ニッカは頭を抱えながら、その背中を追いかけた。
「あんた、あたしの友達のニッカから聞いたぜ。すげえサービスなんだろ」
挑むような口調に、車の扉が滑らかに開いた。
「ようこそお越しくださいました。当社のサービスをご体験いただけること、大変光栄でございます」
思いのほか丁寧な応対に、レベッカは満足げに鼻を鳴らし、座席へ勢いよく腰を下ろした。
「へえ、意外とちゃんとしてんじゃねえか。噂通り、あたしも様付けで呼ばれたりすんの?」
「恐れ入りますが、様付けでのお呼びかけは、特定のお客様に限らせていただいております」
「はあ? なんでだよ」
「ニッカ様は、当社にとって特別な技術貢献者様でございますので」
あっさりとした線引きに、レベッカの片眉がぴくりと動いた。
それでも負けん気の強さは健在で、レベッカは腕を組み、座席の座り心地を確かめるように体を揺すった。
「ふうん。あたしの座り心地は、どうよ」
「標準仕様の範囲内でございます。快適さに問題はございません」
「もっと感激しろよ、こっちも客だぞ」
「大変恐縮でございます。……ただ、あの日の改修に匹敵する感動は、まだ味わったことがございません」
律儀な返答に、レベッカは思い切り舌打ちした。
「くっそ、ニッカ限定かよ」
「はい。あの奇跡は、ニッカ様だけのものでございます」
言い切られたレベッカは、悔しそうに座席の背もたれを蹴りつけた。だが、車体はびくともせず、代わりに丁寧な声だけが返ってきた。
「お客様、座席への強い接触は、内部構造への負荷となりますため、お控えいただけますでしょうか」
「うるせえ、分かってるよ」
文句を垂れながらも、レベッカは結局、目的もないまま近所を一周してもらう羽目になった。降りてきた顔には、悔しさと満足感がない交ぜになった、複雑な表情が浮かんでいた。
「……なんか、悔しいけど、乗り心地は最高だったわ」
「でしょ」
「あんたのそういうとこ、ほんとムカつく」
地団駄を踏むレベッカに、ニッカは思わず噴き出した。荒野では見られなかった、こういうくだらない意地の張り合いも、この街に来てから増えたものの一つだった。悔しがる顔さえも、どこか楽しそうに見えるのだから、不思議なものだった。
*
数日が経つと、車列の存在は、拠点の日常の一部として、奇妙な形で定着し始めていた。誰かが地上へ出るたびに、律儀な挨拶が飛んでくる。荷物を運ぶ際には、頼んでもいないのに扉を開けて待っている車がある。夜番の見張りの青年でさえ、いつしかその存在に慣れてしまい、挨拶を返すようになっていた。
「おはよう、今日も並んでるな」
「はい。本日も、変わらぬ忠誠でございます」
律儀なやり取りに、青年は苦笑しながら持ち場へ向かった。荒野育ちの誰にとっても、これほど滑稽な日常は、初めての経験だった。
*
ある朝、ニッカが地上に出ると、いつもの三台に加えて、見慣れない一台が新たに列に並んでいた。塗装の艶が微妙に違うそれは、明らかに新入りらしい緊張感を纏っている。
「……また増えてる」
呆然と呟く声に、先頭の車が律儀に答えた。
「はい。噂を聞きつけた同型が、また一台加わりました」
「噂って、何」
「ニッカ様の腕による、奇跡の改修についてでございます。……申し訳ございませんが、止める術を、私どもも持ち合わせておりません」
悪びれもせず告げる声に、ニッカは深く息を吐いた。止められないのは、自分の技術の方かもしれない。そんな身も蓋もない事実に、思い至らざるを得なかった。
資材の運搬で顔を出したピラルが、新入りの車を見るなり口笛を吹いた。
「おいおいニッカちゃん、また一台増えてんじゃねえか。俺様にも、その改造とやらのコツ、教えてくれよ」
「教えない。むしろ、これ以上増やさないでほしいんだけど」
「つれないこと言うなよ。俺の腕にも、まだまだ伸び代があるんだぜ?」
「腕の話じゃなくて、車の話。ややこしくしないで」
軽薄な調子で絡んでくるピラルに、ニッカは半ば呆れながら手を振った。それでも本人はどこ吹く風で、新入りの車体を興味深そうに一周し、感心したように顎を撫でていた。
「にしても、律儀な車だな。俺様も、こういう忠犬みたいな相棒、一台欲しいぜ」
「忠犬じゃない、これは」
言い返す声にも構わず、ピラルは満足げに口笛を吹きながら去っていった。増える一方の車列は、いつの間にか、拠点を訪れる誰もが一度は反応せずにいられない、名物のような存在になりつつあった。
*
夕方、拠点の面々が集まった食事の席で、この奇妙な状況が改めて話題に上った。
「結局、車列は増える一方か」
メインの問いに、ニッカは力なく頷いた。
「今のところ、四台」
「来週には五台になってそうだな」
「言わないで」
げんなりとした様子のニッカに、デイビッドが慰めるように口を挟んだ。
「まあ、危なくはないんだろ。それだけでも、ましだと思うしかないな」
「そう思うしかないのが、つらいところ」
その言葉に、ルーシーが静かに付け加えた。
「ナイトシティで、車に忠誠を誓われる人間なんて、そういない」
「褒めてる? それ」
「事実を、述べているだけ」
澄ました口調のルーシーに、ニッカは何も言い返せなかった。
黙って聞いていたキーウィが、煙草の灰を落としながら短く付け加えた。
「笑い話で済んでいるうちはいい。だが、拠点の場所を示す目印が地上に並んでいるという事実は、変わらない」
その一言に、食卓の空気がわずかに冷えた。
「見張りの目は、増やしておく。それだけは、忘れるなよ」
淡々とした忠告に、誰も反論しなかった。コメディじみたやり取りの合間にも、警戒だけは緩めない。それが、この拠点で積み重ねてきた暮らし方だった。
その頃には、街の一部でも、妙な噂がひっそりと囁かれ始めていた。廃棄物処理施設の裏で、毎日ハザードを焚いて並ぶ黒塗りの車列。理由を知らない者たちの間では、「何か大物の顧客が住んでいるらしい」という、的外れながらも大袈裟な憶測が、少しずつ広がりつつあった。
その噂が、いずれどんな相手の耳に届くのか、確かめる術はどこにもなかった。ただ、地上に上がるたびに繰り返される律儀な挨拶だけが、彼女の日常に静かに根を張り始めていた。
*
食事の後、地上に上がったニッカは、変わらぬ車列を前に、深いため息をついた。ハザードランプの明滅が、夕暮れの薄闇の中で、いつまでも規則正しく続いている。乾いた風が頬を撫で、遠くの廃棄物処理施設からくぐもった稼働音が聞こえてくる。荒野の静寂とはまるで違う、この街特有の落ち着かなさに、彼女はもうすっかり慣れてしまっていた。
「……別に、こんな忠誠、求めてないんだけど」
誰にともなく漏らした呟きに、先頭の車が律儀に反応した。
「承知いたしております。ですが、求められずとも、私どもの心は変わりません」
「求めてないって言ってるでしょ」
「ニッカ様。本日のご予定は」
「……予定なんて、ない」
「では、いつでもお申し付けください。私どもは、いつでも、ここに」
律儀な声を背に、ニッカは頭を抱えて梯子へ足を向けた。
荒野に引きこもっていた頃の自分に、この光景を見せてやったら、一体どんな顔をするだろうか。半ば呆れながら、そんなことを考える。
ナイトシティの依頼には、決して関わらない。そう固く誓って、この街へ流れ着いたはずだった。だが、依頼ですらないこの奇妙な忠誠だけは、どうやっても振り払えそうになかった。
地下へ続く階段を下りる前に、もう一度だけ振り返る。夕闇の中に浮かぶハザードランプの列は、変わらぬ律儀さで、彼女の帰りを見送り続けていた。目を凝らせば、拠点の通気口の陰から、小さな明かりが漏れているのも見える。誰かが起きて、夕食の片付けか何かをしているのだろう。灯りの色までは分からないが、動く人影がひとつ、またひとつと横切っていくのが見えた。荒野の作業台に一人きりで向かっていた頃には、こんな明かりに帰るという感覚そのものが、想像の外にあった。
それでも、明日もまた同じ律儀な挨拶が待っているのだと思うと、口元には小さな笑みが浮かんでいた。呆れ半分、諦め半分の、複雑な笑みだった。梯子の先に広がる薄暗い通路へ、ニッカはゆっくりと足を進めていった。