地下拠点のパントリー棚に並んだ米袋を、ニッカは指先で数えた。残っているのは、片手で足りる量だけだった。
あの味を知ってしまってからというもの、合成米へ戻る気にはもうなれなかった。棚の奥に押し込んだままの合成米の袋には、いつの間にか薄く埃が積もっている。出汁の乾物も、残りはあと一回分がせいぜいだった。
「……そろそろ、限界か」
誰に届けるでもない呟きが、換気口の奥へ静かに吸い込まれていった。
思えば、あの露店で串を頬張った瞬間から、自分の中の何かが確実に変わってしまった気がする。合成食材で十分だと割り切っていたはずの舌が、今では本物の味を当たり前のように求めている。理屈では、贅沢を覚えただけだと分かっていた。それでも、一度知ってしまった感覚は、そう簡単には元へ戻ってくれない。
棚の前にしゃがみ込んだまま、ニッカはしばらく考え込んだ。荒野では、味の好みなど二の次だと自分に言い聞かせてきた。だが、ナイトシティに移ってからというもの、その割り切りは少しずつ形を失い始めている。良いことなのか悪いことなのか、判断がつかないまま、彼女は米袋の残量をもう一度確かめた。
棚を閉じかけたところで、指先が乾物の袋に触れた。出汁を取った後の香りが、まだうっすらと袋の内側に染みついている。鼻を近づけると、記憶の底に眠っていた前世の台所の匂いが、ふいに蘇ってくるようだった。土鍋の湯気、味噌汁の湯気、朝の食卓に漂う何気ない匂い。特別だと意識したことすらなかったはずのそれらが、今になってこれほど恋しく感じられるとは、彼女自身も思っていなかった。
バートと二人で過ごした十八年間、生き延びることが常に最優先だった。味の好みなど、贅沢の部類にすら入らない些事だった。だが今は、状況が少しだけ違う。ナイトシティという街に足を踏み入れてしまった以上、本物の味を求めることくらい、許されてもいいはずだった。そう自分に言い聞かせながらも、棚を閉じる手には、まだ小さな迷いが残っていた。
朝の片付けを終えたところへ、賑やかな足音が近づいてきた。先頭を歩くのは、案の定レベッカだった。
「なあ、ニッカ。米、まだあるよな」
「もうすぐ、切れる」
「切れる!? マジかよ、あの飯がなくなるとかありえねえだろ!」
大袈裟に頭を抱えるレベッカの後ろから、デイビッドが顔を覗かせた。
「俺も、あの串の味が忘れられねえんだよな。合成肉に戻ると、正直きつい」
「みんな、贅沢になった」
ニッカが呆れたように言うと、ルーシーが静かに口を挟んだ。
「贅沢というより、正常な味覚に戻っただけ」
「屁理屈」
澄ました顔で返すルーシーに、ニッカは苦笑するしかなかった。
「で、誰が買い出しに行くんだ」
メインの問いに、レベッカが真っ先に手を挙げた。
「あたし行く! 今度こそ肉串、現地で食う!」
「レベッカ、あんた今日は見張り当番でしょう」
ドリオの一言に、レベッカは大きく肩を落とした。
「くそ、また当番かよ……前は配線工事、今度は見張りって、あたしばっかり損な役回りじゃねえか」
「文句なら、後で当番表を作ったキーウィに言いな」
「私はただ、公平に割り振っているだけだ」
煙草の煙を吐きながら答えるキーウィの声に、レベッカは口を尖らせたまま黙り込んだ。
「私が代わろうか」
ルーシーが申し出ると、キーウィが首を横に振った。
「お前は、例の妨害波の解析が残ってる。今日中に片付けろと言ったはずだ」
「……分かってる」
渋々頷くルーシーの隣で、デイビッドも未練がましく口を開いた。
「なら俺が」
「あんたは、地上の補強作業がまだ終わってないでしょう」
ドリオの指摘に、デイビッドはぐうの音も出ない様子で口をつぐんだ。ファルコが横から帽子のつばを軽く持ち上げながら付け加える。
「今日は俺も、地図の見直しで手一杯だ。悪いが、力にはなれそうにねえな」
そこへ、資材運搬から戻ったばかりのピラルが、荷物を肩に担いだまま顔を出した。
「なんだなんだ、賑やかじゃねえか。俺様も交ぜろよ」
「ピラル、あんたも予定が詰まってるでしょう」
ドリオの一言に、ピラルは大げさに肩をすくめた。
「そりゃそうだけどよ。ニッカちゃんの買い出しなら、多少は無理してでも付き合いてえところだぜ」
「無理しなくていい。むしろ、大人しく荷物運びの続きをして」
「つれねえなあ」
軽口を叩きながらも、ピラルはあっさり荷物を担ぎ直し、奥の作業場へ戻っていった。荒野育ちの面々の間では、こういう軽いやり取りも、ごく当たり前の日常の一部になっていた。
順番に予定を挙げていく面々を眺めながら、ニッカは半ば予想していた結論に、ゆっくりと近づいていった。示し合わせたわけでもないだろうに、見事なまでに全員の予定が埋まっている。この息の合った回避ぶりには、いっそ感心すらしてしまう。
「結局、また私一人ってこと」
成り行きを見守っていたニッカが、ため息混じりに呟いた。
「一人の方が、目立たなくていい。それは前と変わらない」
キーウィの声には、以前と同じ重みがあった。ファルコが帽子のつばに手をかけながら付け加える。
「まあ、前回の車列騒ぎを思えば、今度は少し違うやり方の方がいいかもな」
「違うやり方って」
「あの黒塗りの群れに囲まれた状態でカブキを歩けば、さすがに目立ちすぎる。今日は、歩きで行った方が賢明だろう」
ファルコの言葉に、ニッカは腕を組んで考え込んだ。徒歩となれば時間はかかるが、あの律儀すぎる車列を引き連れて露店街を歩く光景よりは、よほど気が楽だった。
「……分かった。歩いて行く」
その返事に、メインが低く笑った。
「賢明な判断だ。あの車列、この前見た時はさすがに笑ったが、正直あんまり褒められた状況じゃねえからな」
「言わないで」
げんなりとした声に、周囲から小さな笑いが起きた。
「歩きで行くにしても、油断はするな」
キーウィが煙草の灰を落としながら、静かに続けた。
「前も言ったはずだ。ナイトシティじゃ、油断した大人から先に消えていく。徒歩ならなおさら、周囲への注意は怠るな」
「分かってる。子供じゃないんだから」
「子供じゃないからこそ、言ってる」
繰り返される忠告に、ニッカは小さく頷くしかなかった。ドリオも心配げに一言添える。
「何かあったら、すぐ連絡すること。無理はしないで」
「大丈夫。ただの、買い出しだから」
「その言い方、また聞いた気がする」
思わせぶりなドリオの一言に、ニッカは苦笑いを浮かべながら視線を逸らした。
問題は、拠点の出口だった。いつもの梯子を使えば、地上で待ち構える車列に即座に見つかってしまう。ニッカは資材倉庫の奥にある、普段はあまり使わない排水路の点検口を思い出した。
「あっちから出れば、多分バレない」
「本気か、あんた」
レベッカが半信半疑の顔をする。
「本気。あの車たち、律儀すぎて、いつもの出口しか見張ってないから」
「盲点を突くってわけか。あんた、意外と姑息だな」
「褒め言葉として受け取っておく」
ニッカは工具ベルトを締め直し、資材倉庫の奥へと足を進めた。埃をかぶった点検口の蓋を持ち上げると、狭い通路の先に、鈍い光の筋が細く差し込んでいるのが見えた。
狭い通路を這うように進む間、遠くから微かにエンジン音のようなものが響いてくる気がして、ニッカは何度か足を止めた。いつもの出口の方角から聞こえてくる音だった。律儀な車列が、今日も変わらず待機している証拠だった。
息を潜めながら、彼女はゆっくりと点検口の先へ体を滑らせていった。金属の擦れる音一つにも、心臓が小さく跳ねる。荒野の廃車置き場で息を殺して敵の気配をやり過ごしていた頃の感覚が、思いがけない形で蘇ってくるようだった。
通路を抜けた先は、廃棄物処理施設の裏手からさらに離れた、人気のない路地だった。頭上を見上げても、見慣れた黒塗りの車体はどこにも見当たらない。ニッカは小さく息を吐いた。
「……よし、成功」
誰にともなく漏らした呟きに、満足げな笑みが浮かんだ。荒野育ちの人間にとって、盲点を突く小細工は、それほど難しい話ではなかった。
念のため周囲を見回してから、彼女は路地を歩き出した。通信端末をポケットに収め、工具ベルトだけを腰に巻いた身軽な格好は、前回とほとんど変わらない。違うのは、頼れる車がないという一点だけだった。
歩き始めてすぐ、ニッカは自分の判断を少しだけ後悔した。ナイトシティの徒歩移動は、想像していたよりもはるかに神経を使うものだった。
路地を抜けるたびに、見知らぬ視線が絡みついてくる感覚があった。荒野の砂塵の中では、遠くの気配さえ読み取れる自信があった。だがここでは、次から次へと現れる看板や人の群れに紛れて、本当に危険な視線がどこに潜んでいるのか、判別すること自体が難しい。
頭上には、蜘蛛の巣のように張り巡らされた高架道路が幾重にも重なっていた。その隙間から差し込む光は、常に何かに遮られたような弱々しい色をしている。バッドランズの容赦ない日差しとは、まるで別の星の光のようだった。
大通りに出ると、行き交う人々の密度が一段と増した。広告ホログラムが頭上で明滅し、耳障りな宣伝文句を繰り返している。荒野では感じたことのない、絶え間ない情報の洪水だった。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。ニッカは端末に表示された地図を頼りに、路地の角を一つずつ確かめながら進んでいった。
途中、路上で何かを売りつけようとする男に声をかけられたが、無言で視線を返しただけで相手は引き下がった。荒野で鍛えた眼光には、それなりの威力があるらしい。バートから受け継いだ処世術の一つだった。
交差点の向こうで、赤い光を明滅させた大型の飛行体が低空を横切っていった。トラウマ・チームの緊急出動便らしい。荒野では滅多に見ることのなかった光景に、ニッカは思わず足を止めて見上げた。
高額な医療保険に入れる者だけが救われるこの街の理屈を、彼女は前世の記憶として知っていた。だが実際に目の前でその光景を見せつけられると、知識として知っていたはずの冷酷さが、これまでとは違う重みを持って胸に迫ってくる。
少し離れた路地の入り口では、NCPDの巡回車が気だるげに停車していた。乗り込んだ制服の男たちは、周囲の喧騒に大した関心を払う様子もなく、ただ座席にもたれているだけだった。資金難と腐敗にまみれた組織の実態を、その緩慢な佇まいだけで十分に物語っているようだった。
ニッカは視線を逸らし、再び足を速めた。関わらない、という誓いを胸に刻んだ人間にとって、こういう光景はできるだけ早く通り過ぎるに限る。
大通りの切れ目から、ふと視界が開けた瞬間があった。高層ビル群がひしめき合う中心街の輪郭が、霞の向こうに幾重にも連なって見える。無数の光点が、夕暮れ前の薄い青空を細かく切り刻んでいた。
荒野の地平線には、こんな風に空を埋め尽くす人工の光は存在しなかった。あるのは、どこまでも続く乾いた大地と、遮るもののない広い空だけだった。同じ空の下にいるはずなのに、まったく別の世界を見ているような錯覚が、ニッカの胸をかすかに掠めていった。
あの光の連なりのどこかに、アラサカの本社ビルもミリテクの拠点もあるはずだった。前世の記憶として知っている情報と、今目の前に広がる現実の光景とが、頭の中でゆっくりと重なり合っていく。知識として知っているのと、実際に自分の足でその足元に立つのとでは、感じる重みがまるで違っていた。
人混みの合間を縫うように歩きながら、ニッカはふと足を止めた。路地の奥、崩れかけた壁の陰に、うずくまる痩せた男の姿があった。装着されたサイバーウェアの一部が焼け焦げ、微かな火花を散らしている。
修理してやりたい衝動が、指先の奥でちりりと疼いた。だが、荒野育ちの用心深さが、その衝動をすぐに抑え込んだ。見知らぬ相手に不用意に近づけば、どんな厄介事に巻き込まれるか分からない。ここは荒野のガレージではなく、ナイトシティの路地裏だった。
後ろ髪を引かれる思いを振り切るように、ニッカは再び足を進めた。関わらない、という誓いの重みを、こんな些細な場面でも思い知らされる気がした。
*
四十分ほど歩いた頃、ようやく空気の匂いが変わり始めた。油と炭と、得体の知れない香辛料が入り混じった匂いだった。前回、車を降りた瞬間に嗅いだのと同じ、あの匂いだった。
「……着いた」
小さく呟いた声に、自分でも気づかないうちに歩調が速まっていた。
角を曲がると、記憶にある通りの光景が広がった。頭上を埋め尽くす色とりどりの看板、湯気を上げる屋台の群れ、値切り合う商人と客の声。前回歩いた時よりも、いくぶん見慣れた景色に感じられるのが、自分でも意外だった。
人ごみをかき分けながら、ニッカは迷わずあの屋台を目指した。行列の先に見えてきた鉄板と炭火の輝きに、腹の虫が小さく鳴いた。頭上に掲げられた手書きの看板には、掠れた文字で「本場・焼き鳥」と記されている。
屋台の前に立つと、日に焼けた顔の主人が、すぐに顔を上げた。
「おっ、嬢ちゃんじゃねえか。また来たのか」
「また来た」
「そりゃ嬉しいねえ。今日も、五本くらいから始めるか」
「……よく、分かってる」
覚えられていたことに、ニッカは少しだけ気恥ずかしさを覚えた。主人は豪快に笑いながら、鉄板の上に新しい串を並べ始めた。
「タレ、また変えたんだよ。今度のは、あんたの感想を参考にしてな」
「私の感想」
「甘めで、後から辛味が来るって言ってただろ。それを踏まえて、もう一段階攻めてみた」
串を差し出す主人の顔には、隠しきれない期待が滲んでいた。ニッカは受け取った串に、迷わず齧りついた。
脂の甘みが舌の上に広がった直後、鋭い辛味が喉の奥から追いかけてくる。前回よりも、確かに一段階踏み込んだ味だった。
「……美味しい」
「だろ! あんたの舌、やっぱり信用できるわ」
得意げに胸を張る主人に、ニッカは小さく頷きながら二本目に手を伸ばした。荒野では味わえなかったこの満足感が、今日もまた胸の奥をじんわりと満たしていく。
「……この鶏、どこの仕入れ」
「お、気になるか。ワトソンのAI管理養鶏場から直で仕入れてる。合成肉とは格が違うだろ」
「天然じゃない、けど」
「天然なんぞ、うちみたいな屋台には縁のない代物だ。工業製とはいえ、正真正銘の鶏肉には変わりねえよ」
主人の説明に、ニッカは納得したように頷いた。前世の記憶にある区分と、この世界の流通事情が、頭の中で静かに噛み合っていく。合成でも天然でもない、本物の肉。その位置づけだけで、十分すぎるほどの贅沢だった。
「にしても、嬢ちゃん。今日は一人か」
「うん」
「前は、もっと洒落た車で来てたじゃねえか。今日は歩きか」
的確な指摘に、ニッカは一瞬言葉に詰まった。
「……色々、事情があって」
「まあ、詮索はしねえよ。旅の人には旅の人の事情があらあな」
あっさりと引き下がる主人の態度に、ニッカは小さく安堵の息をついた。荒野育ちの人間にとって、こういう踏み込みすぎない距離感は、案外居心地の良いものだった。
三本目を頬張ったところで、ニッカはふと視線の違和感に気づいた。人ごみの向こう、露店の連なりから少し離れた場所に、じっとこちらを見つめる人影があった。
派手さのない、ミリタリー調のタクティカルベストを纏った女だった。ネオンの氾濫するこの通りには、動きやすさを優先したその出で立ちが、明らかに異質な気配を放っていた。頭の形に沿って黒髪のポニーテールで、無駄な装飾が一切ない。
視線はまっすぐニッカへ向けられている。右目の全体を覆うように、暗い色合いのアイパッチ状のカバーが装着されていた。技術者としての本能が、あの覆いの下に潜む機構への興味を微かにくすぐった。慌てて隠す様子もなければ、近づいてくる気配もない。ただ静かに、興味深そうにこちらを観察しているだけだった。
背筋に、小さな警戒信号が灯った。長年の荒野暮らしが刻みつけた、反射のようなものだった。だが、敵意らしきものは、その視線のどこにも感じられない。むしろ、値踏みをするような、値打ちを見極めようとするような、そんな種類の眼差しだった。
その視線は、ニッカの顔よりも、串を握る指先や工具ベルトの辺りに長く留まっているように見えた。値踏みの対象は、顔立ちではなく腕の方らしい。
「嬢ちゃん、どうした。串、まだ焼くか」
主人の声に、ニッカは我に返った。視線を戻すと、先ほどの女の姿は、いつの間にか人ごみの中へ紛れて見えなくなっていた。
「……ううん、何でもない。追加、五本」
「あいよ」
主人は気にした様子もなく、新しい串を鉄板に並べ始めた。だが、ニッカの意識の片隅には、あの静かな眼差しの残像だけが、ずっと居座り続けていた。
串を持つ指先に、無意識の力がこもっていることに、彼女は少し遅れて気づいた。指の力を緩めながら、ニッカは強張っていた肩を小さく回した。
串を受け取りながらも、ニッカの意識はまだ落ち着かなかった。気のせいだったのかもしれない、そう自分に言い聞かせようとしても、胸の奥の違和感は消えてくれなかった。
「はい、追加の五本。今日はやけに旨そうに食うな、嬢ちゃん」
「……いつも通り」
曖昧に答えながら、ニッカは串に齧りついた。脂の甘みと辛味が、いつも通り舌の上で弾ける。それでも、視線だけは無意識のうちに、人ごみの隙間を彷徨っていた。
露店街の喧騒は、何も変わらず続いている。頭上の看板は明滅を繰り返し、行き交う人々の声が絶え間なく耳へ流れ込んでくる。ただ、さっきまで確かにそこにあったはずの視線の気配だけが、雑踏の中へ静かに溶けて消えていた。
脂の乗った串を三本目まで平らげたところで、ニッカはふと思い出したように顔を上げた。
「お土産の分も、お願い」
「お、律儀だな。何本だ」
「レベッカとデイビッドの分。あと、余裕があれば拠点の分もまとめて」
指折り数える様子に、主人は豪快に笑った。
「太っ腹じゃねえか。よし、多めに焼いてやるよ。冷めても美味いように、串の刺し方も工夫してな」
「ありがとう」
手際よく追加の串を焼き上げていく主人の背中を眺めながら、ニッカは荒野に残してきた面々の顔を思い浮かべた。見張り当番に文句を言っていたレベッカの顔も、配線工事に汗を流していたデイビッドの顔も、今頃は買い出しの成果を心待ちにしているはずだった。
誰かのために何かを持ち帰るという行為が、こうも自然に自分の中へ馴染んでいることに、ニッカはあらためて小さな驚きを覚えた。バートと二人だけで過ごしていた頃には、想像すらしなかった感覚だった。
串を平らげ、口元の脂を拭いながら、ニッカは屋台の看板の向こうへ視線を投げた。目当ての米と出汁を扱う店は、記憶にある通り、屋台の連なりの奥にひっそりと佇んでいるはずだった。
「主人、また来る」
「おう、いつでも来な。次はタレ、もう一段辛くしてみるつもりだ」
「……ほどほどにして」
軽口を交わしてから、ニッカは屋台の連なりの奥へと歩き出した。
*
木造りの小さな店構えは、以前と変わらない佇まいでそこにあった。看板の文字は相変わらず掠れていたが、その分だけ長く商いを続けてきた重みを感じさせた。
「いらっしゃい」
店の奥から現れたのは、記憶にある腰の曲がった老女だった。ニッカの顔を見るなり、皺の刻まれた目元がわずかに緩んだ。
「おや、この前の。米と出汁の分かる子だね」
「また、買いに来た」
「そうかい。ちょうど、いい米が入ったところだよ」
老女は棚の奥から新しい袋を取り出し、丁寧な手つきで中身を確かめてみせた。艶やかな粒の連なりに、ニッカは思わず目を細めた。
「今度のは、前より甘みが強い品種でね。出汁との相性も、悪くないはずだよ」
「……天然、じゃないですよね」
「そこまでの値段は、うちじゃ扱えないよ。これは企業の閉鎖型施設で育てた本物の米。合成米とは、粒の詰まり方からして違うだろう」
老女の答えに、ニッカは小さく頷いた。天然の米などという超高級品に、自分が手を出せる日は当分来ないだろう。それでも、合成米よりずっと上等な、この本物の米だけで十分だった。
「……お願いします」
「その顔、また美味かったんだね。あんたの反応を見てると、こっちまで嬉しくなるよ」
からからと笑う老女の言葉に、ニッカは少しだけ照れくさくなって視線を逸らした。荒野の暮らしでは味わえなかった、こういう温かいやり取りの一つ一つが、彼女の中に静かに積み重なっていく。
乾物の棚から選んだ数種を袋に詰めてもらいながら、ニッカは代金を数え始めた。
「まとめて買うと、また安くなったり」
「あんたは本当に、値切る気満々だね。仕方ない、少しだけおまけしてやろう」
「……ついでに、乾物も」
「欲張りだね、まったく」
呆れながらも、老女は乾物の小袋をもう一つ、黙って荷物に足した。前回と変わらない、この店ならではのやり取りだった。
支払いを終え、荷物を工具ベルトの荷台へ括りつけていると、老女が何かを思い出した様子で口を開いた。
「そういえば、さっきこの辺りをうろついてた女がいてね。あんたのことを、それとなく聞いて回ってたよ」
「……私のこと」
「ああ。妙に、てきぱきとした喋り方をする女でね。この露店街には似合わない雰囲気だった」
その一言に、ニッカの背筋が微かに強張った。先ほど視線を感じた、あの片目を覆った女の姿が、脳裏に浮かんでくる。
「……どんな用件だったか、分かる?」
「さあねえ。あたしには詳しいことまでは話してくれなかったよ。ただ、悪い人間には見えなかったけどね」
老女の言葉には、それ以上の情報は含まれていなかった。ニッカは礼を言って袋を受け取り、店を後にした。胸の奥に、先ほどよりもさらに深く刻まれた違和感を抱えたまま。
*
帰り道を歩きながら、ニッカは何度も、あの女の気配を探るように周囲を見回した。だが、賑やかな露店街のどこにも、それらしい姿は見当たらなかった。
ファラデーの手の者だろうか。それとも、アラサカの新たな接触だろうか。頭の中では、いくつもの可能性が浮かんでは消えていった。だが、これまでの二つのどちらとも、少しだけ質が違うような気がしてならなかった。力任せの威圧でもなく、周到すぎる観察でもない。もっと軽やかで、それでいて底の見えない何かを、あの一瞬の視線には感じ取っていた。
荷物を抱えたまま、ニッカは来た道を戻り始めた。夕暮れには少し早い時刻だったが、頭上の高架道路の隙間から差し込む光は、すでにいくぶん橙がかった色合いを帯び始めている。
行きに感じた徒歩移動の心細さは、帰り道になっても、さほど和らいではくれなかった。それでも荷物の重みと、串の残り香だけは、確かな手応えとしてニッカの腕の中にあった。
ナイトシティの依頼には、決して関わらない。バッドランズのガレージで、静かに一生を終える。その誓いは、拠点を移した時点でとうに形を変えてしまっていた。それでも、依頼でも仕事でもない、ただの買い出しという名目だけは、辛うじて誓いの外側に踏みとどまっているはずだった。
路地裏で見た、焼け焦げたサイバーウェアの男の姿が、ふと脳裏をよぎった。指先の疼きを堪えて通り過ぎたあの一瞬だけは、どうにか誓いを守り抜けたはずだった。ただ、踏みとどまるたびに要する力が、日を追うごとに少しずつ重くなっている気がしてならなかった。
少なくとも、この時のニッカは、まだそう信じ込もうとしていた。あの静かな視線の主が、その一線をどんな形で踏み越えてくるのか、彼女はまだ何も知らずにいた。
腰の通信端末が、小さく振動した。画面にはドリオの名前が表示されている。
「もしもし」
「どう、そっちは。何か変わったことは」
一瞬、答えに詰まった。あの視線のことを話すべきか、少しだけ迷いが生じたからだった。だが結局、面倒事を増やすだけだと判断し、いつも通りの言葉を選んだ。
「別に、何も。買い出しは、無事に終わった」
「肉串は」
「みんなの分、ちゃんと確保した」
「なら、いいけど」
端末の向こうから、微かな安堵の気配が伝わってくる。
「目立つようなことは、してない?」
「してない。ただの、買い物客」
その返事に、一瞬の間が空いた。まるで見透かされているかのような沈黙に、ニッカは思わず視線を泳がせた。
「……気をつけて帰ってきなさい」
「分かってる」
通話を切り、端末をベルトへ戻しながら、ニッカは小さく息を吐いた。話すべきかどうか迷ったあの一件は、結局、胸の奥にしまい込んだままだった。
誰かに心配をかけたくない、というだけでは説明のつかない感覚だった。荒野で一人だった頃は、不安も懸念も、すべて自分の内側だけで処理してきた。仲間が増えた今でも、その癖だけはそう簡単に抜けてくれないらしい。
路地の角を曲がりながら、ニッカはもう一度だけ、人ごみの気配を確かめるように振り返った。夕暮れの色に染まり始めた露店街の喧騒だけが、変わらぬ賑やかさで背後に広がっていた。