夕暮れ色に染まり始めた路地を、ニッカは拠点の方角へ向けて歩き出していた。
背後には、露店街の賑やかさがまだ変わらず広がっている。値切り合う声、鉄板の焼ける音、行き交う人々の足音。聞き慣れてきたはずのその喧騒を、彼女は半ば意識の外へ追いやりながら進んでいた。抱えた荷物の重みと、串の残り香だけが、今日一日の成果を静かに物語っている。
早く戻らなければ、という思いはあった。ドリオとの通話を終えたばかりだったし、拠点で待つ面々の顔も、頭の隅にちらついている。それでも、歩調はどこか緩やかだった。荒野育ちの体は、街の空気にまだ完全には馴染んでいない。気を張り詰めたまま歩き続けた分だけ、静かな路地に入った途端、肩の力がわずかに抜けていくのが自分でも分かった。
通り過ぎていく看板の明かりが、一つ、また一つと灯り始めている。昼間の喧騒とは違う色合いの夜が、少しずつナイトシティを塗り替えていく時間帯だった。荒野では、夜になれば闇と静寂がすべてを覆い尽くした。だがこの街は、闇が訪れるほどにかえって騒がしさを増していく。慣れたつもりでいても、その落差にはまだ時折戸惑わされる。
行き交う人々の顔ぶれも、昼間とは少しずつ変わり始めていた。仕事帰りらしい疲れた顔、これから夜の街へ繰り出す華やいだ顔。様々な生活の断片が、この時間帯だけ交差するように行き過ぎていく。
胸の奥には、まだ小さな棘が残っている。米屋の老女から聞かされた、あの上品な女の話だった。この露店街には似合わない雰囲気の女が、自分のことを聞いて回っていたという。悪い人間には見えなかった、という老女の言葉を思い出しながらも、警戒を解く気にはなれなかった。ファラデーの手の者か、それともまた別の何かか。答えの出ない問いを抱えたまま、ニッカは点検口へと続く道を急いでいた。
頭上の高架道路の隙間から差し込む光は、行きに見た時よりも幾分弱くなっていた。橙色に染まりかけた空を見上げながら、ニッカは自分の中の警戒心と、串の余韻に満たされた満足感とが、妙な具合にせめぎ合っているのを感じていた。荒野では、こんな中途半端な気の緩みなど許されなかったはずだった。
角を曲がりかけた瞬間、その喧騒の質が変わった。
鼻先を掠めたのは、香ばしい串の匂いとは明らかに違う、焦げた金属質の刺激臭だった。風向きが変わるたびに、その臭いは強くなったり弱くなったりしながら流れてくる。
値切り声でも、呼び込みの声でもない。もっと甲高く、切迫した悲鳴に近い声が、背後から追いかけてくる。ニッカは足を止めた。
振り返らずに済ませることも、できたはずだった。関わらない、という誓いを盾にすれば、そのまま点検口へ向かうことだって十分に可能だった。実際、足はほんの一瞬、その誓いに従おうとした。荒野で染みついた警戒心が、余計な騒ぎには近づくなと告げていたからだ。
それでも、体は先に反応していた。
悲鳴の質に、覚えがあったからだ。荒野で幾度となく耳にしてきた、機械が限界を迎える寸前の音。金属が軋み、制御を失った熱が行き場を探して暴れ回る、あの独特の気配だった。バートの口癖が、不意に耳の奥で蘇る。放っておいた機械は、必ず一番悪いタイミングで牙を剥く。そう繰り返し教え込まれてきた。
放っておけば、誰かが火傷では済まない怪我を負うかもしれない。誓いと、目の前で膨らみつつある危険。天秤にかけるまでもなかった。
脳裏に浮かんだのは、荒野のガレージで似たような煙を見た日のことだった。まだ幼かったニッカの手を引いて、バートは決して急がず、しかし迷いもせずに火元へ近づいていった。危ないから離れていろ、とは一度も言われなかった。代わりに教えられたのは、危険の正体を見極める目の作り方だった。あの背中を思い出すたび、体の芯にある何かが、勝手に動き出してしまう。
ニッカは踵を返し、来た道を駆け戻った。
*
「おい、待ってくれ! 頼むから止まってくれよ!」
人だかりの隙間から覗いたのは、小さなパン屋の店先だった。色褪せた庇の下、木の看板には手書きの文字が並んでいる。露店街の中でも、ひときわ古びた佇まいの店だった。据え付けられた業務用の窯が、白い煙をひっきりなしに吐き出している。焼き上がりを告げるはずの電子音は、今や耳障りな警告音へと変わり果てていた。
初老の主人が、窯の前で右往左往していた。小麦粉に汚れたエプロンの上から、震える手で制御パネルを何度も叩いてみるものの、点滅する赤い表示が消える気配はない。長年の力仕事で節くれ立った指先が、今はただ空回りするばかりだった。
「くそ、なんで今日に限って……!誰か、消防に連絡してくれ!」
叫ぶ声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。周囲の客たちは、じりじりと後ずさりながらも、その場を離れようとはしない。何かとんでもないことが起きる予感だけが、人々の足を縫い止めているようだった。
「おい、離れた方がいいんじゃねえか」
「でも、店主が……」
「あの窯、前にも一度小さく火を噴いたことがあるらしいぞ」
誰かの囁きに、別の誰かが不安げに応じる。人だかりの外側では、子供の手を引いた母親が急ぎ足で遠ざかっていくのが見えた。露店の連なりの奥からも、何事かと顔を覗かせる者たちが少しずつ集まってきている。
誰かがスマートグラス越しに録画を始めたのか、小さな赤いランプが人垣の隙間で点滅していた。こういう些細な記録が、後になって思わぬ形で広まっていくことを、ニッカはまだ知らない。今はただ、目の前の煙にだけ意識を集中させていた。
ニッカは咥えたままだった串を、口の端にそっと寄せた。人垣の向こうに膨らんでいく煙を見つめながら、彼女はほんの一瞬だけ迷った。
この街に深く関わるつもりはない。それは、十八の夏に立てた誓いのまま変わっていないはずだった。関わりを重ねるたびに、その誓いの輪郭は少しずつ滲んでいっている。分かってはいたが、認めたくはなかった。
だが目の前の煙は、もはや誰かの生活の些事ではなかった。ここにいる客の誰かが、次の瞬間には巻き込まれるかもしれない。荒野で身につけた判断基準が、そんな迷いをあっさりと押し流していく。人が傷つく可能性の前では、誓いも面倒も、二の次にしかならなかった。
気づけば、人垣をかき分けて前へ出ていた。
「ちょっと、見せて」
「なっ……あんた、何を」
「時間ない。黙って見てて」
有無を言わさぬ口調に、主人は言葉を失ったまま道を空けた。
「みんな、少し下がって」
振り返らずに投げた一言に、周囲の人垣がわずかにどよめきながらも従った。荒野で誰かを庇いながら作業する時と、同じ距離の取り方だった。安全な間合いさえ確保できれば、あとは腕一本の仕事だった。
ニッカは窯の側面に駆け寄り、点検用の小さな蓋を無造作にこじ開けた。中を覗き込んだ瞬間、彼女の目つきが変わった。
冷却回路の分岐が、根本から焼け付いている。熱を逃がすはずの経路が塞がれ、行き場を失った熱量が内部で渦を巻いているのが、配線の焦げ跡だけで手に取るように分かった。よくある故障だった。ただし、放置していい種類のものではなかった。このまま数十秒も経てば、内部圧は確実に限界を超える。
串をもう一度、口の端でしっかりと咥え直す。両手を自由にするための、いつもの癖だった。
工具ベルトから抜き取ったのは、細い針金だった。もう片方の手で、足元に転がっていた空き缶の切れ端を拾い上げる。荒野の廃品置き場で嫌というほど繰り返してきた組み合わせだった。頭で考えるより先に、指先が動き始めていた。
周囲がざわつく音は、もう耳に入ってこない。目の前の焦げた基盤と、そこに残された数少ない選択肢だけが、彼女の意識を占めていた。
基盤の端に刻まれた製造番号を一瞥する。量産型の廉価モデル、それも十年近く前の設計だった。冷却系の余裕が最初から乏しい造りで、長年の使用による摩耗が、たまたま今日という日に限界を迎えただけのことだった。誰のせいでもない、ただの老朽化。それが分かった分だけ、迷いは少なくなった。
まず、焼け付いた分岐を丁寧に外す。次に、空き缶の破片を熱交換の即席バイパスとして噛ませる。針金でしっかりと固定してから、極端に高まった内部圧を窯の背面へと逃がす経路を新たに作り出す。ひとつひとつの動作に、無駄がなかった。
背後で、誰かが小さく息を呑む気配があった。振り返る余裕はない。窯の内部から漏れる熱気だけが、頬の横をじりじりと焦がしていく。
接続を終えた直後、窯の内部から鈍い音が響いた。予定していた反応とは、明らかに違う音だった。ニッカの手が、一瞬だけ止まる。
このまま逃げ道を塞いでしまったのか。それとも、単なる圧力の再配分に伴う一時的な軋みなのか。頭の隅で、荒野の廃品置き場での失敗の記憶が過ぎった。あの時は、判断を誤って部品ごと吹き飛ばした。同じ轍は踏めない。
焦げ跡の分岐をもう一度目で追いながら、彼女は指先の感触だけを頼りに、接続の角度をわずかに調整し直した。呼吸すら、惜しかった。
最後の一箇所だけ、指先が僅かに止まった。ここを間違えれば、逃がしたはずの熱がそのまま逆流しかねない。前世の記憶に刻まれたクラフトの手順を、頭の中でもう一度なぞる。数字も、順序も、間違っていない。そう確かめてから、彼女は改めて手を動かした。
汗の粒が、こめかみを伝って落ちていくのが分かった。荒野の乾いた風の中では感じたことのない、街特有の湿った熱気のせいなのか、それとも緊張のせいなのか、判別する余裕さえ今はなかった。
周囲の喧騒が、ふいに遠のいた気がした。荒野のガレージで壊れた機械と向き合っていた時と、同じ感覚だった。人の目も、煙の臭いも、意識の外側へ押しやられていく。目の前の回路だけが、世界のすべてになる。
窯の輪郭が、やけにくっきりと見えた。焦げた基盤の一本一本の傷が、指先の記憶と正確に重なっていく。
警告音が一段と甲高くなった瞬間、ニッカは最後の接続を静かに差し込んだ。
息を止める。
一秒、二秒。誰も声を上げない。パン屋の主人でさえ、両手を握りしめたまま、窯だけを見つめている。人垣の誰もが、まるで申し合わせたかのように息を詰めていた。
窯の内部で、小さな唸りが上がった。赤い警告表示が瞬きを繰り返しながら、少しずつ弱まっていく。白かった煙の勢いも、目に見えて落ち着き始めていた。
やがて、耳障りだった警告音がぴたりと止んだ。代わりに聞こえてきたのは、安定した低い駆動音だけだった。
「……よし」
小さく呟いて、ニッカは点検口の蓋を閉じた。串は、いつの間にか噛み潰されそうなほど歪んでいた。
辺りは、しんと静まり返っていた。
誰も声を上げない。パン屋の主人でさえ、口を半開きにしたまま、窯とニッカを交互に見つめている。人だかりの後方からは、まだ煙の名残を確かめるように、何人かが背伸びをしていた。
沈黙を破ったのは、控えめな、それでいて明らかな驚きを含んだざわめきだった。
「今の、何秒だ……」
「見えなかった。手、動いてたのか、あれ」
「あの窯、去年業者が来ても直せなかったって聞いたぞ」
「串、咥えたままだったよな……」
「あの子、もしかして噂の……」
「よせ、滅多なこと言うんじゃない」
「ああいうの、緊張感ってもんがねえのか、あの嬢ちゃん」
場違いな感想に、周囲から小さな笑いが漏れた。張り詰めていた空気が、その一言だけでわずかに緩んだ気がした。
ぽつりぽつりと漏れる囁きが、次第に人垣全体へ広がっていく。ニッカは居心地悪そうに肩をすくめた。目立つことへの警戒心が、少し遅れて胸の奥から込み上げてくる。
「あ、あんた……一体、何をしたんだ」
我に返った主人が、震える声で尋ねてきた。
「冷却の経路、詰まってた。塞がってた分、逃がしただけ」
「詰まってた、って……いや、それだけで、あんな……」
言葉に詰まる主人に、ニッカは小さく肩をすくめた。
「ただの、応急処置。ちゃんとした部品に換えるまでの、繋ぎ」
「繋ぎって、あんた……」
主人は窯にそっと手を伸ばし、駆動音の安定ぶりを確かめるように撫でた。目元が、みるみる潤んでいく。
「この窯、親父の代から使ってる、うちの店にとっちゃたった一つの本物の窯なんだ。若い頃、親父から手ほどきを受けながら、何年もかけて火加減を体で覚えた。合成の粉じゃ、絶対に出せない味があってな」
主人はそこで一度言葉を切り、窯の傷んだ表面を見つめた。
「もし爆発でもしてたら、この店ごと終わりだった。それだけじゃない、周りの客にも何かあったかもしれねえ」
主人は一度、乾いた笑いを漏らした。
「うちの息子は、こんな古臭い商売はやりたくないってよ。まあ、気持ちは分かる。合成の粉で焼いた方が、よっぽど早くて安上がりだからな。それでも俺は、親父の窯を潰したくなかった」
声が震え、最後まで続かなかった。ニッカは気まずそうに視線を逸らした。
誰かにとっての「たった一つの本物」を、自分は無自覚のうちに繋ぎ止めていたらしい。「壊れた機械の向こうには、大抵誰かの生活がある」というバートの口癖が、今になって腑に落ちた気がした。
「大袈裟。ただの、部品調整だから」
「大袈裟なもんか!あんた、命の恩人だよ!」
叫ぶような声に、周囲の客たちからも小さな拍手が起こった。人だかりの中から、年配の女がしみじみとした様子で口を開く。
「この店のパン、あたしが子供の頃からずっと変わらないんだよ。なくなったら、寂しいなんてもんじゃなかった」
「昔はこの辺り、こんな屋台一つで飯を食う人間ばかりだったのにねえ。今じゃ合成の菓子ばかり売れるようになって、こういう店もめっきり減っちまった。あんたみたいな人がいてくれて、本当によかったよ」
年配の女は懐かしむような目で、煙の収まった窯を見つめた。その一言に、周りの何人かが小さく頷いた。ニッカは居たたまれなさに、思わず一歩後ずさった。
「せめて礼を……このパン、持ってってくれ!本物の小麦だ、いくらでも持ってっていい!」
「そんな、いらない」
「受け取ってくれないと、俺の気が済まない!」
押し切られる形で、焼きたての塊をいくつも押しつけられる。断る隙も与えられないまま、ニッカの荷物はいつの間にか一回り重くなっていた。
抱えた塊からは、まだ湯気混じりの温かさが伝わってくる。合成の粉では決して出せないという、その本物の匂いを胸の奥で確かめながら、ニッカは小さく息を吐いた。荒野で食べていたものとは、匂いの深みからして違う気がした。
「にしても、大したもんだ。どこで覚えたんだ、そんな腕」
「独学。ガラクタ、いじってるうちに」
「ガラクタ、ねえ……あんた、只者じゃねえな」
主人の言葉に、ニッカは曖昧に笑って誤魔化した。前世の記憶がどうとか、説明するつもりは初めからなかった。
「なあ、あんた。うちの隣の冷蔵庫も、最近調子が悪くてな……」
人垣の中から、遠慮がちな声が飛んできた。別の誰かも、それに便乗するように口を開きかける。ニッカは慌てて片手を上げ、それ以上の言葉を遮った。
「今日は、もう時間ない。ごめん」
これ以上関わりを広げれば、収拾がつかなくなる。そう判断するだけの分別は、まだ辛うじて残っていた。
落ち着きを取り戻していく人垣を眺めながら、彼女は帰り支度を急ぐことにした。長居をすればするほど、余計な注目を集める。デラマンの一件を思い出すだけでも、十分に懲りている。バッドランズの噂話がナイトシティにまで広がっていくような真似だけは、絶対に避けたかった。
露店街全体に、先ほどの騒ぎの噂がじわじわと広がり始めている気配があった。誰かが誰かに耳打ちし、その誰かがまた別の誰かに話す。荒野の噂が風に乗って広がっていくのと、仕組みはさほど変わらないのかもしれない。ただ、この街の噂の広まる速さは、荒野の比ではなかった。
荷物を抱え直したところで、ニッカはふと視線の圧を感じた。
振り返るまでもなく、それがどの方向から来ているのか、彼女にはすぐ分かった。荒野で鍛えた勘が、迷わずその一点を指し示していた。
少し離れた場所に、女が立っていた。
先ほど遠目に見えたミリタリー調のタクティカルベストが、間近で見るとより鮮明だった。ポニーテールの黒髪も、右目を覆う暗色のアイパッチ状のサイバーウェアも、遠目に見た時のままだった。カバーの表面が、夕暮れの光を鈍く反射している。首元と手首には、実用一辺倒の通信用インプラントらしき機器が控えめに収まっていた。ネオンの装飾など一切ない、動きやすさだけを優先した出で立ちに、無駄なものは一つもない。
その顔を、至近距離で見た瞬間、ニッカの喉が小さく鳴った。
もう疑いようがなかった。前世の記憶の中に、この顔と名前があった。今からおよそ一、二年先――瀕死の淵から目覚めたばかりの主人公へ、真っ先に連絡を寄越すことになるフィクサー。まだ起きてすらいない物語の一場面が、勝手に像を結んでいく。
レジーナ・ジョーンズ。
名前まで、勝手に頭の中で形になった。今しがた目にしたばかりの特徴の一つ一つが、記憶の中の顔と寸分違わず重なっている。人違いの余地などなかった。
デイビッドやレベッカと出会った時とは、驚きの質が違った。彼らは、今まさに動いているこの物語の登場人物だった。だがレジーナは違う。まだ始まってすらいない、別の時間軸の物語に属していたはずの人間だった。
その順番が狂っていることに、頭のどこかがまだついていけていなかった。
それでも、口にする気にはなれなかった。名前を知っている、素性を知っている。そう告げたところで、得をするとは思えない。得体の知れない相手だと思わせておく方が、まだ扱いやすい。荒野で身につけた駆け引きの勘が、そう告げていた。
知っていることを気取られれば、この街での立ち位置そのものが変わりかねない。荒野育ちの用心深さが、込み上げた確信をそのまま奥へ押し戻した。今はまだ、何も知らない振りを貫くしかなかった。
今は、数メートルという近さで、女はまっすぐにニッカを見つめていた。逃げ場を探す暇も与えず、視線がまっすぐ絡みついてくる。
値踏みするような、それでいてどこか楽しんでいるような眼差しだった。この街で何度も向けられてきた、力ずくの威圧とは明らかに違う。周到すぎるほど静かだった、あの別の接触とも違う。もっと軽やかで、それでいて底の見えない、そんな種類の余裕がその立ち姿には滲んでいた。
荒野育ちの直感が、再び小さな警戒信号を灯した。だが同時に、敵意らしきものはどこにも感じられない。ただ、こちらの手の内を、じっくりと見極めようとする視線だけがあった。
金でねじ伏せようとする気配でもなければ、こちらの素性を暴こうとする粘着質な圧力でもない。むしろ、値踏みの結果を悟らせることすら厭わない、奇妙なほど率直な佇まいだった。得体の知れなさだけが、じわりと肌を刺した。
ニッカは荷物の持ち手を握り直しながら、じりじりと後ずさりたい衝動を抑え込んだ。逃げれば、かえって面倒なことになる。荒野の暮らしで培った経験則が、静かにそう教えていた。
彼女は急ぐ様子もなく、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。周囲の喧騒が、いつの間にか遠くへ退いていくような錯覚があった。人だかりの誰もが、まだ興奮冷めやらぬ様子で窯の話をしているというのに、その一角だけ、時間の流れが違って感じられた。
パン屋の主人が何か声をかけてきた気もしたが、内容までは頭に入ってこなかった。ニッカの意識は、既に別の一点へ向けられていた。
数歩の距離まで近づいたところで、彼女は足を止めた。口元にだけ、微かな笑みを浮かべている。
その立ち居振る舞いには、焦りの気配が微塵もなかった。急いで話しかけるでもなく、かといって黙って立ち去るでもない。ちょうどいい間合いを、見計らったように保っている。
ニッカは工具ベルトに触れた手を、そっと下ろした。相手に敵意がない以上、こちらから構える理由もない。それでも、警戒を完全に解く気にはなれなかった。
手にした古めかしい記録端末を、彼女は軽く指先で叩いた。画面には何も表示されていない。ただの癖なのか、それとも何かを記録し終えた後の仕草なのか、判別はつかなかった。
「見事な腕ね」
静かな、それでいて芯の通った声だった。ビジネスライクな響きの奥に、隠しきれない興味の色が滲んでいる。ニッカは反射的に身構えながら、初対面を装う顔を意識して作り、相手の出方を注意深く窺った。
「……あんた、一体誰なの」
声に白々しさが滲んでいないか、内心でこっそり確かめていた。
「答える前に、一つ聞かせて。あの窯、直したのはどれくらいの時間だった?」
「……何秒か、数えてない」
「数えてない、か。それも含めて、興味深いわね」
彼女は値踏みするような視線を、もう一度荷物とニッカの手元へ這わせた。工具ベルトの擦り切れ具合、指先の油汚れ、荒野育ちの人間だけが纏う独特の空気。何もかもを、静かに読み取っているようだった。
「さっきの露店でも、串を頬張りながらこの騒ぎに気づいて戻ってきた。そうよね」
「……見てたの」
「最初から、ずっと」
あっさりと返された言葉に、ニッカは背筋が冷えるのを感じた。米屋の老女が言っていた、聞き込みをしていた女というのは、間違いなくこの女のことだった。
「あんたも、私に何か売りつけたいクチ?」
警戒を隠さず尋ねると、彼女はわずかに目を細めた。
「さあ、どうかしら。少なくとも、銃を突きつける趣味も、専属契約の書類を無理やり握らせる趣味もない。今のところはね」
その返答には、皮肉とも本音とも取れる響きがあった。ファラデーの名前を出したわけでもないのに、まるでこちらの警戒の理由を見透かしたような口ぶりだった。
「今のところ、っていうのが妙に気になる」
「勘がいいのね。気に入ったわ、それ」
彼女はそう言ってから、初めて小さく声を立てて笑った。値踏みの視線に混じっていた興味の色が、その笑みの分だけ、はっきりとした輪郭を帯びた気がした。
「私は……」
名乗りかけた言葉を、彼女は途中で止めた。夕暮れの光が、ベストの縁を橙色に染めていく。パン屋の周りではまだ、先ほどの騒ぎの余韻がざわめきとして残っている。だがニッカの意識は、目の前のこの一点にだけ、否応なく引き寄せられていた。
彼女の口元に浮かんだ笑みが、わずかに深くなる。
「まあ、それはまた今度でいいわ。今日のところは、顔を覚えただけで十分」
その言葉を残し、彼女はゆっくりと踵を返した。呼び止める間もなく、人ごみの向こうへ、後ろ姿が静かに紛れていく。
最後にもう一度だけ、彼女は肩越しに振り返った。
「腕のいい職人に会えるのは、悪い一日じゃないわ。それだけは、覚えておいて」
最後の一言だけ、これまでよりわずかに柔らかい響きを帯びていた。
言い残された一言の意味を、ニッカはすぐには測りかねた。脅しでも、勧誘でもない。まるで、ただの感想を口にしただけのような、そんな軽さがあった。
ニッカはしばらくその場に立ち尽くしたまま、彼女が消えていった方向を見つめていた。パン屋の主人が心配げに声をかけてきたが、うまく返事ができなかった。
「知り合いか、あの人」
「……ううん。今日、初めて」
「ふうん。妙な迫力のある人だったな」
主人の呟きに、ニッカは曖昧に頷くことしかできなかった。
荷物を背負い直し、拠点へ続く道を再び歩き出す。頭の中では、彼女の言葉が繰り返し蘇っていた。力任せに迫ってきたミリテクの一件とも、周到に外堀を埋めようとしたアラサカの接触とも、明らかに手触りが違う。ファラデーのような焦りも、レインのような底冷えする慇懃さも、彼女からは感じられなかった。
それがかえって、彼女という人間のつかみどころのなさを際立たせていた。何を求めているのかが分からない相手ほど、身構えづらいものはない。
結局、その日の帰り道は、行きよりもずっと重い足取りになった。荷物の重さのせいだけではないことを、ニッカ自身が誰よりもよく分かっていた。
夕闇が路地の隅々まで広がり始めていた。頭上の高架道路の隙間から漏れる光も、ほとんど橙色を失い、灰色がかった闇へと沈みかけている。歩きながら、ニッカは何度も背後を振り返った。だが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
最後に残された一言もまた、耳の奥でずっと尾を引いていた。腕のいい職人に会えるのは、悪い一日じゃない。ただの世辞なのか、それとも何か別の意味を含んだ言葉なのか、ニッカにはまだ判断がつかないままだった。
抱えた荷物の中で、まだ温かいパンの塊が、かすかに湯気を立てているのが分かった。今日という一日は、渇いていた舌を満たし、拠点の仲間たちへの土産も十分に確保できた、はずだった。それなのに、胸の内側に残る感触は、満足感よりもむしろ、正体の見えない予感に近かった。
点検口の蓋に手をかけたところで、ニッカはもう一度だけ露店街の方角を振り返った。橙と灰色の入り混じった空の下、賑わいの灯りだけが、変わらず遠くに揺れている。胸の奥に居座ったままの視線の重みだけが、いつまでも消えずにいた。
狭い通路を進みながら、ニッカは今日一日の出来事を、順を追うように振り返った。米と出汁を買い、串を頬張った。見知らぬ女の視線を浴びたかと思えば、今度は窯の暴走にまで巻き込まれた。ただの買い出しのはずが、いつの間にか随分と密度の濃い一日になっていた。レベッカやデイビッドが待ちわびる土産の串を思い浮かべながらも、今日あったことのすべてを話すつもりはない。だが、彼女のことだけは、いずれキーウィにだけでも相談しておくべきかもしれなかった。
通路の先に、鈍い光の筋が細く差し込んでいる。その光に向かって、ニッカは黙々と体を進めていった。関わらないと誓ったはずの自分が、少しずつ塗り替えられていくのを感じながら。