排水路の点検口を押し上げると、資材倉庫特有の埃っぽい空気が、ニッカの頬をひやりと撫でた。天井の配管を這う照明の明かりが、いつも通りの薄暗さで足元を照らしている。荒野育ちの体は、この人工的な光の下でようやく肩の力を抜くことを覚え始めていた。点検口の蓋を閉じる金属音だけが、静かな倉庫に小さく響いた。
「戻った」
誰にともなく呟いた声は、思ったよりも掠れていた。荷物を担ぎ直しながら、ニッカは奥の作業場へと足を進めた。長い一日だった。串の脂の匂いと、焦げた金属の刺激臭と、そして名乗らないままの女の視線とが、まだ体のあちこちに染みついている気がした。
肩にかかる荷物の重みだけは、確かな手応えとしてそこにあった。米も出汁も串も、パンまで、無事に持ち帰ることができた。それだけで、今日という一日は及第点だと言えるはずだった。頭の片隅にわだかまる違和感さえ、ひとまず脇へ押しやることができれば、の話だったが。
賑やかな声は、通路の角を曲がる前から届いていた。工具の擦れる音に混じって、聞き慣れたレベッカの怒鳴り声が響いている。何を揉めているのか、内容までは分からない。ただ、いつも通りの拠点の空気だけは、確かにそこにあった。
「おっ、帰ってきたぜ!」
真っ先に気づいたのはレベッカだった。作業台の上に広げていた部品を放り出し、勢いよく駆け寄ってくる。
「遅かったじゃねえか。何かあったのかよ」
「別に。ただ、歩きだったから」
あっさりと答えながら、ニッカは荷物を作業台の隅へ下ろした。串の包みを開けると、脂の香りがふわりと広がる。
「おお、これこれ! これだよ、待ってたやつ!」
歓声を上げたレベッカが、包みの端から一本を抜き取った。齧りついた瞬間、彼女の顔がだらしなく緩む。
「んー! やっぱ最高だな、これ!」
「みんなの分もある。喧嘩しないで、ちゃんと分けて」
「分かってるっつーの」
騒ぎを聞きつけたデイビッドも、作業道具を放り出して顔を出した。
「マジか、串あるのか」
「あんたの分も、ちゃんと確保した」
「助かる……最近、合成肉ばっかで正直きつかったんだよ」
串を受け取ったデイビッドが、嬉しそうに頬張る。その隣で、荷物の中身を覗き込んだドリオが、思わず声を上げた。
「これ、パン?」
「パン屋の主人から、貰った」
「貰った、って……随分な量ね」
訝しげに眉を寄せるドリオに、ニッカは一瞬答えを迷った。窯が暴走しかけたことを、正直に話すべきかどうか。だが、あまり大袈裟に語るつもりはなかった。
「ちょっと、機械の調子が悪かったから、直しただけ」
「ちょっと、って言う割には、報酬が豪華すぎる気がするけど」
鋭い指摘に、ニッカは視線を逸らした。
「気にしないで。ただの、ついで」
それ以上追及する気配はなく、ドリオはパンの塊を手に取って匂いを確かめている。その隙に、ニッカは荷物を整理する振りをして、話題をそっと横へ流した。
奥から現れたピラルが、パンの香りに誘われるように鼻を鳴らした。
「なんだこの匂い、めちゃくちゃ美味そうじゃねえか」
「あんたの分は、後で」
「後でって、今すぐ食いてえんだけど」
「順番、守って」
あっさりと突き放され、ピラルは大げさに肩を落としながらも、素直に列の後ろへ回った。荒野育ちの面々にとって、こういう軽いやり取りも、日常の一部としてすっかり馴染んでいた。
メインとファルコも、遅れて奥から姿を見せた。テーブルに広げられた米袋と乾物を見て、メインが満足げに頷く。
「上出来だ。これで、しばらくは日本食に困らねえな」
「うん。次に切れるまで、一ヶ月くらいは持つはず」
「その頃には、また誰かが買い出しの当番を押し付け合ってるんだろうな」
からかうように言うファルコに、レベッカが串を咥えたまま抗議した。
「あたしは押し付けられた側だっつーの!」
「見張り当番と買い出し、どっちが得かなんて、比べる話じゃねえだろ」
「串食えるかどうかの差はデカいだろうが!」
軽口の応酬に、拠点の空気がいつも通りの温度に戻っていく。壁際で端末を眺めていたルーシーが、顔を上げないまま短く口を挟んだ。
「その言い争い、毎回同じ結論になる気がする」
「ならねえよ! 今日は絶対あたしの勝ちだ!」
「先週も、同じこと言ってた」
澄ました指摘に、レベッカは言葉に詰まって黙り込んだ。デイビッドが小さく笑い声を漏らす。ニッカはその様子を眺めながら、荷物を無事に届け終えた安堵と、胸の奥に居座り続ける違和感とが、ゆっくりと入れ替わっていくのを感じていた。
パンの塊を一切れ千切って口に運んだメインが、目を丸くした。
「……これ、本物の小麦か」
「うん。窯の持ち主が、お礼だって」
「窯を直したくらいで、こんなにか」
「大した話じゃない。ただの応急処置」
軽く受け流すニッカに、ファルコが帽子のつばへ手をやりながら口を挟んだ。
「この前は車の会社に取り憑かれて、今度はパン屋に貢がれるとはな。あんた、この街じゃ随分と持てるらしい」
「言わないで」
デラマンの一件を思い出させる一言に、ニッカは思わず顔をしかめた。周囲から小さな笑いが起きる。
「ハザード焚いて待ち伏せしてた車の列、まだ拠点の外にいるんじゃねえのか」
「……多分、いる」
げんなりとした声に、レベッカが腹を抱えて笑い出した。
「あんた、放っといても勝手に人気者になっていくタイプだな」
「なりたくて、なってるわけじゃない」
不服そうに呟くニッカに、拠点全体がまた小さな笑いに包まれていった。
片付けの手を止めたデイビッドが、ふと怪訝な顔でニッカの方を振り返った。
「なあ、ニッカ」
「なに」
「今日、何かあったのか。妙に静かじゃねえか」
鋭い指摘に、ニッカは一瞬言葉を探した。荒野からの付き合いが長いだけあって、こういう機微には案外敏感な男だった。
「疲れただけ。歩きだと、思ったより時間かかるから」
「ふうん……ならいいけどよ」
まだ何か言いたげな顔をしていたが、デイビッドはそれ以上踏み込んでは来なかった。ニッカはその気遣いに小さく安堵しながら、荷物の整理を続ける振りで視線を逸らした。
片付けの途中、通りかかったドリオが、そっと隣に並んだ。
「デイビッドの言う通り、心ここに在らずって感じね」
「そう見える?」
「見える。何かあったなら、無理に隠さなくていいのよ」
静かな声には、詮索するというより、ただ気にかけているだけの温度があった。ニッカは一瞬迷ってから、小さく首を振った。
「大した話じゃない。ちょっと、考え事してるだけ」
「考え事の中身は」
「まだ、うまく言葉にできない」
正直な答えに、ドリオはそれ以上踏み込もうとはしなかった。代わりに、彼女はニッカの肩を軽く叩いた。
「言葉にできるようになったら、いつでも聞くから」
「……うん」
短い返事に、ドリオは小さく笑ってその場を離れていった。庇護と気遣いの入り混じったその背中を見送りながら、ニッカは自分がどれほど多くのものに支えられているのかを、あらためて思い知らされた気がした。
一人で抱え込む癖は、まだ抜けきっていない。それでも、こうして黙って寄り添ってくれる誰かがいるという事実だけは、荒野で一人だった頃には想像もできなかった、ささやかな救いだった。
夕食の片付けが済んだ頃、ニッカはキーウィの姿を探して奥の通信室へ向かった。薄暗い部屋の隅で、モニターの光を浴びながら煙草をくゆらせる姿は、いつもと変わらない。
「キーウィ」
「珍しいな、あんたから来るなんて」
振り向きもせずに答える声に、ニッカは戸口で一度立ち止まった。話すべきかどうか、まだ小さな迷いが残っていた。それでも、胸の奥の棘を抱えたまま黙っているよりは、ましなはずだった。
「ちょっと、聞きたいことがある」
「なんだ」
キーウィは灰を落としながら、ようやく椅子を回してこちらを向いた。
「今日、変な女に会った」
「変な女、とは」
「落ち着いた色のタクティカルベスト着てて、右目全体を覆う暗い色のアイパッチみたいなクローム、つけてた。首と手首に、通信用のインプラントもあった」
特徴を並べていくニッカの声に、キーウィの表情がわずかに変わった。煙草を持つ指先が、ほんの一瞬止まる。
本当は、それだけではなかった。あの顔にも、あの名前にも、覚えがあった。まだ始まってすらいないはずの物語の中に立っていた人物だと、喉まで出かかった言葉を、ニッカは静かに飲み込んだ。前世の記憶がどうとか、説明できるはずもない。
「……それだけか」
「話し方は、落ち着いてた。値踏みするみたいな目で見てくる感じで……名前は、名乗らなかった」
「心当たりは、なさそうだな。ワトソン界隈にも、素性を隠したがる連中は掃いて捨てるほどいる」
キーウィは煙草の灰を落とし、端末を引き寄せた。
「敵意は、感じたか」
「ううん。ただ……こっちの腕を、じっくり値踏みされてる感じはした」
「値踏み、ね」
その一言に、ニッカの喉の奥がちくりと痛んだ。値踏みの正体を、自分だけはとうに知っている。それでも、今はまだ口にできる言葉ではなかった。
キーウィは煙を長く吐き出しながら、天井を仰いだ。
「金を積んで買おうとする連中とも、力尽くで奪おうとする連中とも、違う種類の値踏みってことか」
「多分」
「厄介な部類だな、それは」
キーウィは短くそう結ぶと、灰皿へ煙草を押しつけた。
「その、バッドランズの謎のメカニックっていう噂……前から、そんなに広まってたの」
「ファラデーの一件のあたりから、じわじわとな。ミリテクの部隊を壊滅させ、アラサカの接触すら撥ねつけた。その二つだけでも、裏社会の噂話としちゃ十分すぎる材料だ」
「私は何も、望んでそうなったわけじゃない」
「望むかどうかは関係ない。噂ってのは、いつだって当人の意志を無視して育っていくものだ」
キーウィは煙草の煙を長く吐き出しながら、続けた。
「今のところは、力任せの連中と、周到すぎる連中の二種類しか、あんたに手を伸ばしてきていない。今日の女がそのどちらでもないなら、この街の見方が少し変わってきてるってことかもしれん」
「見方って」
「あんたを、脅威として見るか、価値として見るか。前の二つは前者だった。値踏みするような目、っていうのが本当なら……後者の匂いがする」
その言葉に、ニッカはしばらく黙り込んだ。脅威として狙われるのと、価値として値踏みされるのと、どちらが厄介なのか、すぐには判断がつかなかった。
「もし、また接触があったら」
「あったら?」
「一人で判断するな。すぐに、ここへ持ち帰れ」
その言葉には、いつもの皮肉めいた響きがなかった。ニッカは短く頷くしかなかった。
「分かった」
「探りを入れるにしても、時間はかかる。裏社会の情報網ってのは、荒野の噂と違って、金の匂いがしないと動かない連中も多いからな」
「お金、かかるの」
「かからないとは言わない。だが、この程度の探りなら、今まで積んできた貸し借りで十分足りる」
キーウィは灰皿へ煙草を押しつけながら、事もなげに答えた。
「今日のところは、私の方でも探りを入れておく。何か分かったら、伝える」
通信室を出る間際、ニッカは振り返って一度だけ、モニターの光に照らされたキーウィの背中を見つめた。長年の勘だけを頼りに危険を見極めてきた彼女の横顔には、珍しく隠しきれない緊張の色が滲んでいた。
通路の途中で、端末を片手に歩いていたルーシーとすれ違った。
「ルーシー、ちょっといい」
「何」
「拠点の通信網って、どれくらい固いの」
唐突な問いに、ルーシーはわずかに眉を寄せた。
「企業の下請け程度なら、まず突破できない設計にしてある。何かあった?」
「もし、それを平気で素通りしてくる相手がいたとしたら」
「……かなり、腕のいい相手ってこと」
ルーシーの声のトーンが、一段低くなった。彼女自身、アラサカの追跡プログラムに長年苦しめられてきた身だった。見えない形で監視や干渉を受けることへの警戒心は、他の誰よりも強い。
「原因、分かる?」
「今の段階じゃ、まだ」
ルーシーは端末の画面に視線を落としたまま、しばらく黙り込んだ。
「気配だけでも、何か覚えてる? 相手の腕を測る材料になるかもしれない」
「……分からない。ただ、素性を隠す気なら、もっと分かりにくいやり方もあるはずなのに、あえて気づかせるようなところがあった気がする」
「わざと気づかせる、か。それも一つのやり方ね。脅しにも、挨拶にもなる」
ルーシーの声には、感心とも警戒ともつかない響きが混じっていた。
「後で、ログを洗ってみる。何か引っかかるものがあれば、報告する」
淡々と請け合うルーシーの横顔には、いつもの冷静さの奥に、微かな緊張が滲んでいた。ニッカは礼を言って、その場を後にした。
自室代わりの作業場へ戻ったニッカは、工具ベルトを外しながら、作業台の端に腰を下ろした。壁際に積まれたジャンク部品の山が、いつも通りの雑然とした輪郭で薄暗がりに沈んでいる。
今日一日の出来事を、順を追って思い返してみる。米と出汁を買い、串を頬張った。窯の暴走を止めたかと思えば、最後には彼女と言葉を交わすことにまでなった。ただの買い出しのはずが、随分と密度の濃い一日になってしまった。
棚の隅に転がった錆びた金属の鶏の置物が、ふと目に入った。三箱目の木箱から見つかった、バートの手慰みの品だった。継ぎ接ぎの脚と、少し傾いた頭。売り物にもならない不格好な代物を、ニッカはそっと指先で撫でた。
「……バートなら、なんて言うかな」
誰にともなく呟いた声が、静かな作業場に小さく吸い込まれていく。迷った時にはいつも、あの背中を思い浮かべてしまう。関わるな、と繰り返し教え込まれてきたはずの声と、それでも困っている誰かを放っておけなかった彼自身の生き様とが、ニッカの中でいつも矛盾したまま同居していた。
思えば、バート自身も、口では散々ナイトシティの恐ろしさを説きながら、行き倒れの赤ん坊だったニッカを拾い上げた張本人だった。関わるな、と教えた師匠が、誰よりも先に関わってしまう。その矛盾を、幼い頃のニッカは不思議に思いながらも、深く問い詰めることはなかった。今になって振り返ると、あの矛盾こそが、バートという人間の生き方そのものだったのかもしれない。
壊れた機械を前にして、見て見ぬふりができない性分。それは血の繋がりを越えて、ニッカにもそのまま受け継がれてしまったものだった。誓いを立てても、結局は同じ道を辿ってしまう。そのことを、彼女自身がいちばんよく分かっていた。
彼女も、ある意味では「壊れかけの何か」を持ち込んできたのかもしれない。値踏みするような視線の奥に、バートに似た匂いを微かに感じ取ったのは、単なる気のせいだろうか。修理してほしいものが機械とは限らない、という考えが、ふと頭をよぎった。もっとも、それが具体的に何を指すのかまでは、ニッカ自身にもまだ見当がつかなかった。
考えても、今すぐ答えの出る話ではなかった。ニッカは置物を棚へ戻し、明かりを一段落として、椅子に体を預けた。
どれくらい時間が経った頃だろうか。作業台の隅に置いた通信端末が、聞き慣れない音を立てた。着信音でも、警告音でもない。もっと控えめな、それでいて確かに何かを告げる短い電子音だった。
ニッカは眉をひそめて端末を手に取った。画面に表示されているのは、見覚えのない発信元だった。拠点の通信網は、外部からの侵入を想定して幾重にも防壁を張り巡らせてあるはずだった。その防壁を、まるで気にも留めないような素っ気なさで、着信は届いている。
「……どうやって」
呟きながら、ニッカは画面を睨んだ。指先が、応答するかどうかの間で迷う。だが、拒否したところで、この相手が引き下がるとは思えなかった。
部屋の明かりを落としたままの薄闇の中で、端末の画面だけが、青白い光を放ち続けている。着信音は、静かに、しかし止む気配もなく鳴り続けていた。
深呼吸を一つ挟んでから、ニッカは通話を開いた。
「……誰」
しばらくの沈黙のあと、聞き覚えのある声が返ってきた。昼間、露店街で耳にしたばかりの、あの落ち着いた声だった。
「連絡先を無断で通したこと、まず謝るわ」
「あんた……」
「昼間は、名乗る間もなく行っちゃったから」
軽く笑うような響きが、声の端に混じっていた。
「レジーナ・ジョーンズ。ワトソン地区で、フィクサーをやってる」
知っていたはずの名前が、本人の声で紡がれると、まるで違う手触りで胸に落ちた。ニッカは思わず息を止めた。フィクサーという肩書きの重みも、脳裏で警戒の色をじわりと濃くしていく。
「フィクサー、って……ファラデーみたいな?」
「一緒にされるのは心外ね」
即座に返ってきた声には、笑いと苛立ちが半分ずつ滲んでいた。
「あの手の連中は、駒を安く買い叩いて、使い潰すだけ。あたしは、違う」
「……違うって、何が」
「対等な取引しか、しない主義なの」
きっぱりとした言い切りに、ニッカは黙って耳を澄ませた。夜の作業場に、レジーナの声だけが静かに響いている。
「あんたを縛るつもりも、専属にするつもりもない。ただ、お互いに得のある話を、一つ持ちかけたいだけよ」
「得のある話、っていうのが、一番信用できない」
「疑り深いのね。まあ、この街じゃそれくらいで正解」
あっさりと認める声に、ニッカは少しだけ拍子抜けした。
「あたしが欲しいのは、あんたの腕を独り占めすることじゃない。あの窯を直した時みたいな仕事を、たまに、必要な時にだけ回してもらえたら、それでいい」
「たまに、って」
「月に一度あるかないか。強制もしない。断ってもらっても構わない」
「見返りは」
「情報。あんたたちが今、何を狙われてるのか。街のどこが今、危ないのか。あたしのネットワークなら、それなりに拾える」
淡々と並べられる条件に、ニッカは眉間を押さえた。悪い話ではない、というのが正直な感想だった。だが、それが余計に警戒心をくすぐった。
「都合が良すぎる」
「そう思うのも、無理ないわ。だから、今すぐ返事は要らない」
レジーナの声が、わずかに柔らかくなった。
「ただ、一つだけ、正直に言っておく」
「……何」
「あたしは今、サイバーサイコシスの治療法を追ってる」
その一言に、ニッカの背筋がぴくりと強張った。メインの一件が、脳裏を一瞬だけよぎる。
「治療法……?」
「発症した人間を、殺す以外の方法で救う手立て。企業は誰も本気で研究してない。だから、あたしが個人的にやってる」
「なんで、そんなこと」
「昔、記者だった頃に、たくさん見てきたから。壊れていく人間を、何人も」
その声には、これまでの軽やかさとは違う、重たい響きが滲んでいた。ニッカは何も言い返せなかった。
「あんたの噂、方々で聞くのよ。ガラクタから、企業の技術を超える何かを作る職人がいる、って。あたしの調べたい方向と、あんたの得意分野が、少し重なる気がしてる」
「……買い被りすぎ。私はただの、メカニック」
「メカニックが、軍用ドローンを部隊ごと沈黙させたりする?」
切り返しに、ニッカは言葉を詰まらせた。噂の広がり方が、自分の想像よりも遥かに具体的な形を取り始めていることに、今さらながら気づかされた。
「……どこから、そんな話」
「フィクサーの仕事は、情報を集めることよ。あんたを脅かすためじゃない。ただ、興味を持ってる、それだけ」
悪びれる様子もなく答える声に、ニッカは小さく息を吐いた。押しの強さの種類が、ファラデーともレインとも、どこか違っている。力でねじ伏せるでもなく、周到に外堀を埋めるでもない。ただ、興味の在りかを隠さずに差し出してくる。その率直さが、かえって扱いにくかった。
「そういえば、あんたの名前、まだ聞いてなかったわね」
不意に投げられた問いに、ニッカは一瞬言葉に詰まった。デラマンの車内で名乗った、あの拙い偽名の記憶が、脳裏をよぎる。
「……鈴木」
「本気で言ってる?」
呆れを隠さない声に、ニッカは気まずさを誤魔化すように咳払いをした。
「別に、いいでしょ。呼び方なんて」
「まあ、いいわ。無理に聞き出す趣味はないから」
あっさりと引き下がる声に、ニッカは拍子抜けした。この街で名前を尋ねてくる相手は、大抵の場合、そこから素性を暴こうとする下心を隠していた。だがレジーナの声には、そういう粘つくような気配が一切なかった。
「呼び方くらい、勝手に決めさせてもらう。……そうね、ガレージの魔法使い、なんてどう?」
「趣味悪い」
「あら、気に入らない?」
揶揄うような響きに、ニッカは思わず苦い顔をした。
「乗る気になった時のために、聞いておきたい」
ニッカが尋ねると、レジーナの声にわずかな興味の色が滲んだ。
「何」
「その、対等な取引ってやつ。具体的に、どうやり取りすることになるの」
「難しい話じゃないわ。この周波数一本、あんた専用の裏窓口として残しておく。用がある時だけ、お互いに一言送ればいい。契約書も、拘束時間も、なし」
「随分、緩い」
「緩いくらいが、長続きするのよ。がんじがらめの契約なんて、どうせ片方が耐えられなくなって壊れる。あたしは、そういうやり方を何度も見てきたから」
その口ぶりには、ジャーナリスト時代の記憶を思わせる、乾いた実感が滲んでいた。ニッカは何も言い返せないまま、しばらく黙り込んだ。
「返事は、急がない」
レジーナの声が、話をまとめるように落ち着いていった。
「気が向いたら、この周波数に連絡して。乗る乗らないは、あんたが決めればいい」
「一方的」
「ビジネスってのは、大抵そういうものよ」
「それと、もう一つ」
通話を切りかけたところで、レジーナが付け加えるように口を開いた。
「この街の本物の食材、どこで手に入るか知ってる? あんたが探してる出汁と米、あたしのルートなら、露店で買うよりずっといいものが手に入るわよ」
その一言に、ニッカは束の間、言葉を失った。
「……なんで、それを」
「言ったでしょう。情報を集めるのが、仕事だって」
小さく笑う気配のあと、通話はあっさりと切れた。画面には、発信元不明の文字だけが、静かに残されている。
ニッカはしばらくの間、端末を手にしたまま動けずにいた。夜の作業場に、自分の呼吸だけが妙に大きく響いている気がした。
断る理由なら、いくらでも並べられる。この街に深入りしない、という誓いを盾にすれば、無視することだって十分に可能なはずだった。
それでも、サイバーサイコシスの治療法という一言だけは、胸の奥に小さな棘となって残り続けていた。メインの震えが完全に消えた夜のことを、ニッカはまだ鮮明に覚えている。もし、同じ苦しみを抱えた誰かが、この街のどこかにまだ大勢いるのだとしたら。
最後に付け加えられた食材の話も、地味に引っかかったままだった。断るつもりでいたはずの天秤が、ほんの少しだけ傾いた気がして、ニッカは自分でも呆れたように苦笑した。
考えかけて、ニッカは小さく首を振った。今すぐ答えを出す必要はない、とレジーナ自身が言っていた。ならば、今夜のところは、この違和感をひとまず胸の奥へしまい込んでおくべきだった。
端末を作業台へ置き、ニッカは明かりをさらに落とした。壁際のジャンク部品の山が、闇の中でぼんやりとした輪郭だけを残している。
「……明日、キーウィに話そう」
誰にともなく呟いた声が、静かな作業場に小さく吸い込まれていった。荒野で立てた誓いの輪郭は、今日もまた一つ、静かに滲んでいく。
その滲みの先に何が待っているのか、この時のニッカは、まだ何も知らずにいた。ただ、端末の画面に残った発信元不明の文字だけが、いつまでも消えずに、暗がりの中で薄く光り続けていた。
拠点の奥、換気口の低い唸りだけが、夜の静けさを絶えず埋めていく。誰もが寝静まった時間の中で、ニッカは椅子に体を預けたまま、しばらく天井を見上げ続けていた。荒野の空には、あんな人工の光は一つもなかった。ただ、星と、乾いた風の音だけがあった。
今はもう、その空の下には戻れない。分かってはいたが、時折こうして失われた静けさを恋しく思う自分がいることに、彼女自身まだうまく折り合いをつけられずにいた。
いつの間にか、うたた寝をしていたらしい。目を覚ますと、換気口の奥から、朝を告げる微かな駆動音の変化が伝わってきていた。拠点の照明が、夜間モードから徐々に明るさを取り戻していく。
首の凝りを揉みほぐしながら、ニッカは端末の画面をもう一度だけ確かめた。発信元不明の文字は、夜の間に消えることなく、そのまま履歴の中に残り続けている。
答えを出すのは、今日でなくてもいい。そう自分に言い聞かせながらも、指先はいつの間にか、その履歴を静かになぞっていた。
工具ベルトを締め直し、ニッカは作業場の扉を開けた。廊下の向こうから、レベッカの寝ぼけた怒鳴り声と、デイビッドの欠伸混じりの返事が聞こえてくる。いつも通りの朝が、変わらずそこに待っていた。
ただ、昨日までとは違う小さな重みを一つ抱えたまま、ニッカは拠点の喧騒の中へと足を踏み出していった。廊下を歩くたびに、その重みは消えるどころか、むしろ足取りに馴染んでいくようだった。
誓いも警戒も、これまでと何一つ変わってはいない。それでも、差し出された名刺一枚ほどの軽い重みが、これから先の日々にどれほど大きな影を落とすのか、この時のニッカにはまだ想像もつかずにいた。