サイバーパンク:ジャンク・アルケミー   作:たこ焼き 龍月

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第13.4話 専属契約は嫌だが米は欲しい

 

 

 目を覚ましたのは、換気口の駆動音がいつもより甲高く変わる、その一瞬だった。

 

 ニッカは天井を見上げたまま、しばらく体を起こさずにいた。昨夜のことは、眠りの浅い記憶の底にまだ生々しく残っている。発信元不明の着信、レジーナと名乗った女の声、そして最後に付け加えられた食材の話。答えを出すのは今日でなくてもいい、そう自分に言い聞かせて眠ったはずだったのに、朝になってもその重みは少しも軽くなっていなかった。

 

 むしろ、一晩寝かせたことで、あの提案の輪郭がかえって鮮明になった気がする。断る材料も、乗る材料も、頭の中で何度も同じ順番で浮かんでは消えていった。結論だけが、いつまで経っても出てこない。

 

 これまでの脅威とは、根本から質が違う相手だった。ミリテクは力で押し潰そうとし、アラサカは時間をかけて外堀を埋めようとした。だがレジーナは、そのどちらでもない。値踏みの結果を隠しもせず、こちらの手の内を面白がるように差し出してくる。その率直さこそが、警戒すべき点なのか、それとも信じてもいい点なのか、ニッカにはまだ判断がつかずにいた。

 

 誰かを易々と信じるな。バートは、そう繰り返し口にしていた。荒野で行き倒れの旅人を拾う時でさえ、まず疑ってかかるのが鉄則だった。だがその一方で、当のバート自身が、赤ん坊だったニッカを迷いもせず拾い上げた張本人でもある。教えと行いが噛み合わない、あの人らしい矛盾を、ニッカは今になってようやく少しだけ理解できる気がしていた。人を疑うことと、困っている誰かに手を差し伸べることは、案外同じ胸の中に同居できるものなのかもしれない。

 

 工具ベルトを締め直しながら、ニッカは昨夜の自分に言い聞かせた台詞を思い出す。明日、キーウィに話そう。あの時はそれで十分だと思えたが、朝の光の下で見返すと、随分と先延ばしにしただけの言葉に思えてくる。それでも、先延ばしにできる猶予は、もうほとんど残っていないはずだった。

 

  

 

 通信室の扉を開けると、キーウィはすでに端末の前に座っていた。煙草の先から立ち上る細い煙が、薄暗い部屋の空気をゆっくりとかき混ぜている。

 

「早いな」

 

「昨日の続き、話しに来た」

 

 ニッカが戸口で立ち止まると、キーウィは椅子を軽く回してこちらを向いた。

 

「例の女から、何かあったのか」

 

「うん。夜中に、直接電話がかかってきた」

 

 その一言に、キーウィの眉がわずかに動いた。灰皿へ煙草を押しつける手つきが、いつもより幾分ゆっくりとしている。

 

「防壁を、素通りしてきたわけだ」

 

「そう。しかも、今度は名乗った。レジーナ・ジョーンズ、って」

 

「……ジョーンズ、か」

 

 キーウィは灰を落としながら、わずかに目を細めた。

 

「名前だけなら、聞いたことがある。ワトソン地区で、独立系のフィクサーとしてそれなりに顔が利く女らしい。企業の傘下には入らず、自分の伝手だけで動くタイプだと聞いた」

 

「ファラデーみたいな金主とは、系統が違う。企業の犬じゃない分、読みにくい相手だ」

 

 ニッカは昨夜の通話を、順序立てて語り始めた。連絡先を勝手に通したことへの詫び、対等な取引を望んでいるという言葉、月に一度あるかないかという頻度、見返りに差し出される情報。ひとつひとつを並べる間、キーウィは黙って耳を傾けていた。

 

  

 

「……最後に、サイバーサイコシスの治療法を追ってると言った」

 

 その言葉を口にした瞬間、ニッカの中で別の記憶が重なった。

 レジーナがサイバーサイコシスに関心を持っていることも、その問題を追い続けていることも、前世の記憶に残っている。

 

 ゲームの中では、それは数ある依頼の一つとして存在していた。

 

 けれど、今は違う。

 

 この世界にいるレジーナは、画面の中のキャラクターじゃない。

 自分と同じ時間を生きて、昨日、自分に向かってその話をした一人の人間だ。

 

 知識として知っていることと、現実にその人間と向き合うことは、思っていた以上に違っていた。

 それに――ゲームで知っている未来が、この世界でも同じように進む保証なんてない。

 

 ニッカは余計なことを口にせず、キーウィの反応を待った。

 

「本人の口から、直接か」

 

「うん。記者だった頃に、壊れていく人間をたくさん見てきたからって」

 

「それが本当なら、この街では珍しい種類の人間だな」

 

 キーウィは新しい煙草に火をつけながら、しばらく黙り込んだ。窓のない部屋にこもった煙の匂いが、いつも以上に重く感じられた。

 

「危険がないとは、言い切れない」

 

「分かってる」

 

「だが、力任せに来る連中とは、明らかに手口が違う。急かしもしなければ、脅しもしない。それだけでも、少しは判断材料になる」

 

 淡々とした評価に、ニッカは小さく頷いた。

 

  

 

「前に言ってたよね。脅威として見るか、価値として見るか」

 

 ニッカが切り出すと、キーウィは煙を長く吐き出した。

 

「覚えていたか」

 

ニッカはしばらく黙っていた。

 

 前世の記憶だけなら、レジーナがどんな人物なのかは知っている。

 少なくとも、ゲームの中で見た限りでは、無意味に誰かを陥れるような人物ではなかった。

 けれど、それをそのまま信じていい理由にはならない。

 

 この世界には、自分がゲームの中で知らなかった時間がある。

 そして、その時間を生きているレジーナは、前世で知っていたレジーナとは違う経験を積んでいる。

 

 なら、今ここで判断するべきなのは「ゲームのレジーナが信用できるか」ではない。

 目の前のレジーナ・ジョーンズを、自分が信用できるかどうかだ。

 

 ニッカは一度だけ息を吐いた。

 

 

「あの女は、多分後者。じゃあ、そっちの方が安全ってこと?」

 

「安全とは、限らない」

 

 短く答えるキーウィの声に、いつもより鋭さが混じっていた。

 

「脅威なら、対処の仕方は単純だ。潰すか、逃げるか。だが価値として見られるなら、話は違ってくる。手放したくない相手は、じわじわと絡め取ろうとする。時には、こちらが望んだ形を装ってな」

 

「……つまり、もっと厄介ってこと」

 

「厄介というより、見えにくい。脅威なら牙が見える。価値として狙われる時は、たいてい笑顔の下に隠れてる」

 

 その一言に、ニッカは黙り込んだ。レジーナの落ち着いた笑みが、脳裏をよぎる。

 

  

 

 ちょうどそこへ、ルーシーが端末を片手に姿を見せた。昨夜、防壁の突破経路について調べておくと請け合っていたのを、ニッカは思い出す。

 

「言われた通り、ログを洗ってみた」

 

 前置きもなく切り出すルーシーの声には、いつもより硬い響きがあった。

 

「何か、分かった?」

 

「侵入経路そのものは、痕跡が消されてる。ただ、痕跡の消し方に見覚えがある」

 

「見覚えって」

 

「ネットランナーの中でも、上から数えた方が早い腕。少なくとも、素人の仕事じゃない」

 

 その説明に、キーウィが灰を落としながら口を挟んだ。

 

「フィクサー風情が、そこまでの手駒を抱えてるのか」

 

「フィクサーとしての顔は、あくまで表向きなのかもしれない。私の勘だけど」

 

 ルーシーの声には、珍しく警戒とも呼べる緊張が滲んでいた。アラサカの追跡プログラムに長年苦しめられてきた彼女にとって、見えない形での干渉ほど、神経を逆撫でするものはないらしい。

 

「危ない、ってこと」

 

「危ないと決めつけるには早い。ただ、侮っていい相手じゃないのは、確かだと思う」

 

 ルーシーの言葉に、キーウィが静かに頷いた。二人の判断が、期せずして同じ方向を指しているという事実だけが、ニッカの胸に小さな重石として残った。

 

  

 

 朝食の支度が始まった頃、話は自然と拠点全体へ広がっていった。簡易テーブルを囲む顔ぶれに、メインとドリオ、デイビッドとルーシー、そしてレベッカが加わる。ファルコは奥から様子を窺うように、帽子のつばへ手をかけたまま黙って聞いていた。少し遅れて、資材運搬から戻ったばかりのピラルも、荷物を肩に担いだまま顔を出した。

 

「つまり、また新手が来たってことか」

 

 メインの問いに、ニッカは頷きながら経緯を繰り返した。話が終わる頃には、簡易テーブルの上の湯気立つ器も、すっかり冷め始めていた。

 

「対等な取引、ねえ」

 

 腕を組んだメインが、低く唸る。

 

「聞こえはいいが、そういう言葉が一番信用ならねえ場合も多い」

 

「私も、最初はそう思った」

 

 ニッカが答えると、ドリオが横から静かに口を挟んだ。

 

「拘束されないっていうのは、本当かしら」

 

「レジーナ本人は、そう言ってた。契約書もない。断ってもいい、って」

 

「口で言うだけなら、誰でもできる」

 

 ドリオの声には、警戒の色がはっきりと滲んでいた。荒野で幾度となく裏切りを見てきた人間らしい、乾いた慎重さだった。

 

  

 

「けど、サイバーサイコシスの治療法かあ」

 

 デイビッドが呟くように言い、視線をふとメインへ向けた。メインは表情を変えないまま、腕を組んだ肘の位置だけをわずかにずらした。

 

「もし本当にそういう研究をしてる人間なら、無下に断るのも、少しもったいない気がする」

 

「もったいない、か」

 

「俺は、あんたのバッファーのおかげで助かった側だからな。同じ苦しみを、他の誰かも抱えてるかもしれねえと思うと」

 

 言葉を選びながら続けるデイビッドに、メインは何も言わなかった。ただ、腕を組んだままの表情が、いつもより幾分和らいで見えた。震えの止まったあの夜の記憶は、彼にとっても他人事ではないらしい。しばらくの沈黙のあと、メインは低く呟いた。

 

「あの夜のことは、忘れちゃいねえ。もし同じ苦しみを抱えた奴が、この街のどこかにまだいるんだとしたら……見捨てる理由には、したくねえな」

 

 珍しく本音の滲んだ一言に、テーブルの空気が一瞬だけ静まった。

 

 ニッカは、思わずメインの横顔を見つめた。飄々とした態度を崩さない男が、こんな風に本音を覗かせることは、めったにない。震える指先を握りしめていたあの夜の彼の姿が、ふと脳裏に蘇った。

 

  

 

「情報の価値は、無視できない」

 

 ルーシーが静かに付け加えた。

 

「今、街のどこが危ないか。誰が何を狙ってるか。それを知る手段があるなら、あって困るものじゃない」

 

「治療法の話は、置いといても」

 

 ニッカが呟くと、ルーシーは短く頷いた。

 

「置いといても、悪い話ではない。ただ、無条件で信じていい話でもない」

 

  

 

「一つ、気になることがある」

 

 それまで黙っていたファルコが、帽子のつばに指をかけたまま口を開いた。

 

「あの女、元は記者だったんだろう。人の噂を集めるだけじゃなく、広める側にいた人間でもあるってことだ」

 

「それが、何か」

 

「もし機嫌を損ねたら、あんたの噂を、面白おかしく書き立てられるかもしれねえ。ただの取引相手より、扱いには気を使う類の相手だと思うがな」

 

 思いがけない指摘に、ニッカは黙り込んだ。フィクサーとしての顔だけでなく、元記者としての勘所も持ち合わせているとしたら、確かに厄介な組み合わせだった。

 

「今は、フィクサーとしてしか動いてないと思うけど」

 

「今は、な」

 

 ファルコの言葉に、キーウィが煙を吐きながら短く同意した。

 

「肩書きは一つとは限らない。使い分けてる可能性は、頭の隅に置いておけ」

 

 その忠告に、ニッカは小さく頷くしかなかった。

 

  

 

「あんた、一人で全部決めようとしてない?」

 

 黙っていたドリオが、ふとニッカへ視線を向けた。

 

「一人で、っていうのは」

 

「乗るか乗らないか。最後は結局、あんたの判断に委ねられる話でしょう。だったら、抱え込みすぎないで」

 

「別に、抱え込んでない」

 

「本当に?」

 

 静かに重ねられた問いに、ニッカは言葉を詰まらせた。ドリオの目は、いつも一枚上手にこちらの内側を見透かしてくる。

 

「……分からない。正直、まだ迷ってる」

 

「迷ってるなら、迷ってると言えばいい。無理に一人で結論を出す必要はないの」

 

 柔らかい声だったが、その分だけ、ニッカの胸に深く沁みた。荒野育ちの人間にとって、こういう庇護の言葉は、まだ完全には慣れないものだった。

 

  

 

「あたしは、単純に気になる」

 

 黙って聞いていたレベッカが、突然身を乗り出した。

 

「その女、ファラデーとは違うって言ったんだろ。なら、どう違うのか見てみたい気もするけどな」

 

「見てどうするの」

 

「別に。ただ、あんたを狙う連中の中じゃ、一番マシそうな気がしただけだ」

 

 あっさりと言い切るレベッカの言葉に、ニッカは思わず苦笑した。荒野育ちの人間らしい、単純だが的を外さない判断基準だった。

 

  

 

「情報だけの話なら、乗る価値はあるかもしれん」

 

 メインが、ようやく結論めいた言葉を口にした。

 

「ただし、あんたが乗り気になるかどうかは、また別の話だ。無理に勧める気はない」

 

「私は、別に……」

 

 言いかけて、ニッカは言葉を濁した。断る理由なら、いくらでも並べられるはずだった。この街に深入りしない、という誓いを盾にすれば、無視することだって十分に可能だったはずだ。だが、昨夜からずっと、その理由の輪郭がうまく像を結んでくれない。

 

  

 

 様子を見守っていたピラルが、荷物を担いだまま横から口を挟んだ。

 

「難しい話は分かんねえけどよ。俺様に言わせりゃ、乗るか乗らないかは、結局あんたの腹一つだろ」

 

「腹一つ、って」

 

「損得を天秤にかけて、重い方を選ぶだけの話だ。荒野の取引だって、いつもそうだったろ」

 

 軽い口調のピラルの言葉に、ニッカは意外にも小さく頷いた。単純な理屈だったが、これまで積み上げてきた議論の中で、一番腑に落ちる響きがあった。難しい言葉を並べるより、荒野の取引所で叩き込まれた損得勘定の方が、今の自分にはよほど信用できる物差しなのかもしれなかった。

 

「にしても、あんたに近づいてくる連中、ろくなのがいねえな。車に惚れられたと思ったら、今度はフィクサーか」

 

 からかうようなピラルの一言に、ニッカは思わず顔をしかめた。

 

「その話、蒸し返さないで」

 

「まだ拠点の外に何台か並んでるんだろ、あの律儀な車」

 

「……多分、いる」

 

 げんなりとした声に、ファルコが帽子のつばを軽く持ち上げながら笑った。

 

「あんたの周りは、退屈しねえな」

 

「望んでない、こんな賑やかさ」

 

 不服そうに呟くニッカに、テーブル全体が小さな笑いに包まれた。張り詰めていた空気が、その一言だけでわずかに緩む。

 

 それでも、笑いの奥では、誰もが少しずつ同じことに気づき始めていた。脅威として狙われることも、価値として値踏みされることも、根っこの部分では同じ土から生えている。バッドランズの片隅で静かに暮らしていたはずのメカニックが、いつの間にか、この街の裏側で名指しされる存在に変わりつつある。その事実からは、もう誰も目を逸らせずにいた。

 

  

 

「そういえば」

 

 思い出したように、デイビッドが口を開いた。

 

「その女、最後に何か言ってなかったか。米とか出汁とか」

 

 その一言に、テーブルの空気がわずかに変わった。ニッカは視線を逸らしながら、渋々答えた。

 

「……本物の食材の入手ルートが、あるって言ってた」

 

「マジか」

 

 真っ先に反応したのはレベッカだった。串を握る手つきで、テーブルに身を乗り出す。

 

「露店で買うより、いいもんが手に入るってことか」

 

「多分」

 

「なら乗れよ! 何を迷うことがあるんだよ!」

 

 あまりにあっさりとした態度に、ニッカは眉間を押さえた。

 

  

 

「あんたたち、簡単に言いすぎ」

 

「いや、簡単だろ。米が美味くなるかもしれねえって話だぞ」

 

 レベッカの声には、一切の迷いがなかった。デイビッドも、隣で控えめに頷いている。

 

「正直、俺も気になる。あの串の味を知ってから、合成肉に戻るのがきつくてな」

 

「あんたたち、食い意地の張り方が同じ」

 

 呆れたように呟くニッカに、ドリオが微かに笑った。

 

「情に厚いのか、単に胃袋が正直なのか、あんたたちを見てるとよく分からなくなるわね」

 

「両方だろ、多分」

 

 ファルコが帽子のつばを持ち上げながら、軽い口調で口を挟んだ。その一言に、テーブルの空気が少しだけ和らいだ。

 

  

 

 ニッカは器の中で冷めていく合成の粥を見つめながら、しばらく黙り込んだ。米と出汁の残量は、あと片手で足りるほどしかない。あの露店の老女が扱う品も悪くはなかったが、レジーナの言うルートがそれ以上のものだとしたら。

 

 脳裏に、あの串の脂の甘みと、パン屋の窯から立ち上った本物の小麦の匂いが蘇る。合成の粉では出せない、あの深みのある匂い。荒野で十八年間、そんなものを知らずに生きてきたはずなのに、一度知ってしまった今は、その差をどうしても意識せずにはいられなかった。

 

 誓いを盾にするなら、断るべきだった。だが、天秤の反対側に積まれていくものが、思っていたよりもずっと重かった。バートと二人きりだった頃なら、味の良し悪しなど二の次にできたはずだった。今の自分は、あの頃とは少しだけ違う場所に立っている。それを認めるのは、思ったよりも簡単なことだった。

 

  

 

「……分かった」

 

 ニッカが小さく呟くと、テーブルの視線が一斉にこちらへ向いた。

 

「乗ってみる。ただし、情報の取引としてだけ。専属とか、そういうのは一切なし」

 

「そう来なくっちゃな!」

 

 真っ先に歓声を上げたのはレベッカだった。デイビッドも安堵したように肩の力を抜いている。

 

「あくまで、対等な取引としてだから」

 

 念を押すように繰り返すニッカに、キーウィが灰を落としながら口を挟んだ。

 

「線引きは、こちらで決めておけ。向こうの言い値に流されるな」

 

「分かってる」

 

「もし何か違和感があれば、すぐに切れ。それだけの覚悟があるなら、止めはしない」

 

 キーウィの声には、いつもの淡々とした響きの中に、確かな重みが混じっていた。ルーシーも、静かに付け加える。

 

「妙な信号のやり取りがないか、しばらくは私の方でも見ておく」

 

「ありがとう」

 

 短い礼に、ルーシーはわずかに目を細めただけだった。

 

  

 

「決まったなら、さっさと連絡しろよ! 食材、早く見たいだろ!」

 

 レベッカが待ちきれないとばかりに急かしてくる。

 

「今すぐ、届くわけじゃない」

 

「分かってるけど、気持ちの問題だ!」

 

 鼻息の荒いレベッカを、デイビッドが苦笑しながら宥めた。

 

「気持ちだけ先走っても、飯は炊けねえぞ」

 

「うるせえ、夢見るくらい自由だろ!」

 

 軽口の応酬に、テーブル全体が小さな笑いに包まれた。ニッカはその様子を眺めながら、これから先の面倒事の種を、また一つ自分の手で蒔いてしまったことを、あらためて自覚せずにはいられなかった。

 

  

 

 朝食の片付けを終えたところで、ニッカは作業場へ戻り、端末を手に取った。夜の間、履歴に残ったままだった発信元不明の記録が、そこにまだ静かに横たわっている。

 

 しばらく画面を見つめてから、彼女は短く文面を打ち込んだ。乗る、ただし条件がある。専属にはならない。情報と、あの食材のルートだけを対価とする。文字を並べながら、自分がどれほど単純な理由で天秤を傾けたのか、我ながら情けなく思わずにいられなかった。

 

 書いては消し、消してはまた書き直す。もっと堅い言い回しにするべきか、それとも今のままで十分か。迷っているうちに、指先の動きだけが妙に慎重になっていった。荒野で機械の配線を組む時には迷わない指先が、こういう言葉選びになると途端に鈍る。自分でも、少しばかり可笑しく思えてくる。

 

 結局、最初に打ち込んだ簡素な文面のまま、ニッカは送信を決めた。飾り立てたところで、伝えたいことの中身は変わらない。

 

  

 

 送信ボタンを押してから、さほど時間を置かずに返信が届いた。

 

「話が早いのね。気に入ったわ」

 

 文面越しでも、あの落ち着いた声の抑揚がそのまま浮かんでくるようだった。

 

「専属じゃない、って何度も言うつもり?」

 

 思わず文字を打ち込むと、すぐに返答があった。

 

「言わなくても分かってる。あたしも、縛るつもりはないって言ったでしょう」

 

「食材のルート、本当にある?」

 

「もちろん。カブキの奥、企業農場から直接卸してる裏筋がある。今度、案内するわ」

 

 その一文を目にした瞬間、ニッカの口元が、自分でも気づかないうちに緩んでいた。

 

 棚に押し込んだままの合成米の袋と、埃をかぶった乾物の匂いが、脳裏にふと浮かぶ。あの袋を数えながら限界を悟った朝から、まだ二日と経っていない。それだけの短い間に、ここまで話が転がっていくとは、自分でも思っていなかった。

 

  

 

「受け渡しは、どうするの」

 

 ニッカが問いを重ねると、返答はすぐに届いた。

 

「あんたの都合に合わせる。急ぎなら、こっちから届けさせてもいい。あんたが出向きたいなら、それでも構わない」

 

「拠点の場所は、教えない」

 

「初めから聞くつもりもないわ。信用は、時間をかけて積むものでしょう」

 

 あっさりとした返答に、ニッカは少しだけ拍子抜けした。この街で、素性を尋ねてこない相手というのは、それだけで珍しかった。

 

「言っておくけど、名前は鈴木のままでいい?」

 

 からかうような一文に、ニッカは少し身構えた。

 

「本気にしないでって、前も言った」

 

「分かってる。でも、呼び方は好きに決めさせてもらう」

 

 軽い調子で流されるやり取りに、ニッカは小さく息を吐いた。この程度の軽口なら、悪くない距離感なのかもしれないと、少しだけ思い始めていた。

 

  

 

「周波数は、これで固定でいい?」

 

 レジーナからの問いに、ニッカは短く返した。

 

「うん。これで」

 

「なら、これがあんた専用の裏窓口。用がある時だけ、お互い一言送る。それだけ」

 

「分かった」

 

「ようこそ、ガレージの魔法使い」

 

 からかうような一文に、ニッカは思わず顔をしかめた。

 

「その呼び方、まだ続けるつもり?」

 

「気に入ってるの。悪いけど、しばらくはこれで呼ばせてもらうわ」

 

 あっさりと押し切られる形で、通信は静かに切れた。画面には、新しく登録された発信元の欄が、これまでとは違う意味を帯びて残っていた。

 

  

 

 端末を置いたところで、ニッカは深く息を吐いた。あの十八の夏に立てた誓いが、また一つ静かに形を変えた気がした。ナイトシティの依頼には関わらない。そう固く決めていたはずの一線は、今日もまた、思わぬ方向から少しだけ押し広げられている。

 

 それでも、これは依頼ではない。ただの、情報と食材の交換に過ぎない。自分にそう言い聞かせながらも、その理屈がどこまで本気のものなのか、彼女自身にもよく分からなくなっていた。

 

  

 

 作業場を出ると、廊下の向こうから賑やかな声が聞こえてきた。レベッカがすでに、今夜の献立をあれこれ夢想しているらしい。

 

「本物の出汁で、味噌汁作ってくれよ! あと、卵かけご飯も!」

 

「食材が届いてから」

 

「気が早すぎるって、分かってるけどよ! 期待するくらい、いいだろ!」

 

 弾んだ声に、デイビッドも便乗するように顔を出した。

 

「俺は、卵かけご飯より、握り飯がいいな。焦げ目つけて」

 

「あんたたちの注文、多すぎ」

 

 通りがかったピラルまでもが、横から会話に割り込んできた。

 

「俺様は、卵焼きだな。甘めで頼むぜ」

 

「注文、受け付けてない」

 

 すげなく突き放されたピラルが、大げさに肩を落として作業場の奥へ戻っていく。呆れながらも、ニッカの口元には小さな笑みが浮かんでいた。荒野では想像もしなかった、こういう賑やかな注文合戦も、この暮らしにはすっかり馴染んでしまっている。

 

  

 

 通りかかったドリオが、微笑みながら二人を眺めていた。

 

「あんたたちが騒いでる間に、当のニッカは何も注文してないのね」

 

「私は、別に。米が炊ければ、それで十分」

 

「欲がないんだか、あるんだか」

 

 ドリオの一言に、ニッカは答えに詰まった。欲がないわけではない。ただ、望むものの形が、他の誰かとは少し違うだけだった。荒野の暮らしで身についた質素さは、この街に来てもなお、彼女の芯に残り続けている。

 

「あんたはいつも、自分のことは後回しね」

 

 静かな指摘に、ニッカは何も言い返せなかった。ドリオはそれ以上追及せず、代わりに肩をそっと叩いて離れていった。庇護と気遣いの入り混じった、いつもの背中だった。

 

  

 

 夕方、作業台の隅に座ったニッカは、棚の隅に転がる錆びた金属の鶏の置物へ、ふと目を向けた。バートが手慰みに作った、不格好な代物だった。

 

「……また、一つ増えたよ」

 

 誰にともなく呟いた声が、静かな作業場に小さく吸い込まれていく。関わるなと教えた張本人と同じ道を、今の自分も辿っているらしい。バートの生き様が遺した矛盾は、血の繋がりを越えて、確かにニッカの中にも根を張っていた。

 

 自分でも驚くほどあっさりと、境界線を一つ越えてしまった気がした。それが良いことなのか悪いことなのか、ニッカにはまだ何も見えていない。ただ、新しく開かれた裏窓口の存在だけが、これから先の日々に、静かな重みを一つ加えたことだけは確かだった。

 

  

 

 月に一度あるかないか、とレジーナは言っていた。だが、その頻度が本当に守られる保証は、どこにもない。頼み事というのは、たいてい最初だけ控えめで、後になるほど当たり前の顔をして増えていくものだった。荒野の暮らしでも、似たような成り行きを何度か見てきた気がする。

 

 それでも今は、まだ起きてもいない先のことを心配するより、目の前の裏窓口をどう扱うかを考える方が先だった。ニッカは端末の画面を一度だけ確かめてから、静かに明かりを落とした。

 

  

 

 夕食の片付けが済んだ頃、ニッカはもう一度だけ通信室へ顔を出した。キーウィは変わらず、煙草をくゆらせながら端末に向かっていた。

 

「決着はついたようだな」

 

「うん。裏窓口、開いた」

 

「後悔は」

 

 短い問いに、ニッカはしばらく考えてから答えた。

 

「まだ、分からない。ただ、断らなかったことは、間違ってないと思いたい」

 

「思いたい、か」

 

 キーウィは灰を落としながら、珍しく口元をわずかに緩めた。

 

「その程度の頼りなさで丁度いい。この街で確信ばかり持ってる奴の方が、大抵は危ない」

 

 皮肉とも励ましともつかない一言を残し、キーウィは端末へ視線を戻した。ニッカは小さく一礼し、通信室を後にした。

 

 扉の手前で、ニッカは一度だけ振り返った。キーウィの背中は、いつもと変わらない佇まいのままだった。それでも、あの素っ気ない一言だけは、彼女なりの精一杯の後押しだったのかもしれない。そう思うと、ニッカの口元はわずかに緩んだ。

 

  

 

 窓のない地下拠点に、夜の静けさが戻ってくる。換気口の低い駆動音だけが、変わらぬ律儀さで空気を満たし続けていた。作業台に広げたままの工具が、明かりを落とした薄闇の中でぼんやりと輪郭を残している。ニッカはその一つ一つを、片付けるでもなく、しばらく黙って眺めていた。

 

 天秤は、今日もまた、少しだけ傾いた。荒野で誓った一線の向こう側へと。関わらない、というあの十八の夏の誓いは、もう随分と原形をとどめていない。それでも、誓いそのものを完全に手放したつもりはなかった。ただ、天秤の傾き方だけが、以前とは少しずつ違う角度を刻み始めている。

 

 その傾きが、この先どんな形で返ってくるのか。この時のニッカは、まだ何も知らずにいた。ただ、棚の隅で薄闇に沈む金属の鶏だけが、変わらぬ不格好な姿のまま、静かにそこに佇み続けていた。

 

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総合評価:3571/評価:8.81/連載:28話/更新日時:2026年07月30日(木) 00:00 小説情報

Good Luck , Raccoon City 【第二部始動】(作者:持麻呂)(原作:バイオハザード)

とにかく自意識の消失という死を受け入れたくなかったVは、蜂の巣にされて死ぬかもしれないという矛盾を抱えながら、単身アラサカタワーに乗り込んだ。▼なんとか《神輿》に辿り着いたものの、ジャックインした瞬間に意識を失ってしまう。▼気付いた時には知らない街のゴミ捨て場にひっくり返っており、職質を受ける始末。▼一先ず死ぬ危機から逃れられたので、今はスローライフを楽しも…


総合評価:3441/評価:8.95/連載:32話/更新日時:2026年07月05日(日) 12:00 小説情報

時計塔にいる、時計塔のマリアさん(偽)(作者:アスタロット)(原作:Fate/stay night)

時計塔のマリアごっこで Bloodborneを周回して、上位者になった主人公さん。上位者パワーで、なんやかんやヤーナムを飛び出した。そんな外の世界で、主人公さんは自由に生きる。※なお、外の世界は型月世界とする。


総合評価:1438/評価:7.18/連載:24話/更新日時:2026年10月11日(日) 10:29 小説情報

アルカンフェル転生(作者:ぶーく・ぶくぶく)(原作:強殖装甲ガイバー)

※本作は作者が読みたい原作改変を自給自足する趣味作です。感想や考察はありがたく拝見しますが、展開は作者の予定と趣味を優先して進めます。▼気が付くとアルカンフェルに転生していた▼お仕置きビリビリは嫌だが、巨大小惑星の衝突は回避しないと地球丸ごと死ぬとか草。▼原作開始まで何万年?忘れない様に石板に覚えてる原作内容を書き込んでおこう。気が付いたら眠りの神殿に石板が…


総合評価:3908/評価:8.56/連載:150話/更新日時:2026年09月07日(月) 17:00 小説情報

崩壊世界でルートシューター(作者:穴熊拾弐)(オリジナル:SF/冒険・バトル)

ルートシューターってジャンルのゲームがある。広大な廃墟に放り出されてゴミを漁って持ち帰る。それを売ったり、施設を改良したりして成長していくってゲームだ。俺はそれをやらされている。何故か人を喰う怪物が闊歩し、滅亡寸前の現実世界で。▼金が尽きれば命が尽きる。崩壊世界で生きる1人の傭兵の話。▼


総合評価:4053/評価:8.34/連載:68話/更新日時:2026年10月10日(土) 11:00 小説情報


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