目を覚ましたのは、換気口の駆動音がいつもより甲高く変わる、その一瞬だった。
ニッカは天井を見上げたまま、しばらく体を起こさずにいた。昨夜のことは、眠りの浅い記憶の底にまだ生々しく残っている。発信元不明の着信、レジーナと名乗った女の声、そして最後に付け加えられた食材の話。答えを出すのは今日でなくてもいい、そう自分に言い聞かせて眠ったはずだったのに、朝になってもその重みは少しも軽くなっていなかった。
むしろ、一晩寝かせたことで、あの提案の輪郭がかえって鮮明になった気がする。断る材料も、乗る材料も、頭の中で何度も同じ順番で浮かんでは消えていった。結論だけが、いつまで経っても出てこない。
これまでの脅威とは、根本から質が違う相手だった。ミリテクは力で押し潰そうとし、アラサカは時間をかけて外堀を埋めようとした。だがレジーナは、そのどちらでもない。値踏みの結果を隠しもせず、こちらの手の内を面白がるように差し出してくる。その率直さこそが、警戒すべき点なのか、それとも信じてもいい点なのか、ニッカにはまだ判断がつかずにいた。
誰かを易々と信じるな。バートは、そう繰り返し口にしていた。荒野で行き倒れの旅人を拾う時でさえ、まず疑ってかかるのが鉄則だった。だがその一方で、当のバート自身が、赤ん坊だったニッカを迷いもせず拾い上げた張本人でもある。教えと行いが噛み合わない、あの人らしい矛盾を、ニッカは今になってようやく少しだけ理解できる気がしていた。人を疑うことと、困っている誰かに手を差し伸べることは、案外同じ胸の中に同居できるものなのかもしれない。
工具ベルトを締め直しながら、ニッカは昨夜の自分に言い聞かせた台詞を思い出す。明日、キーウィに話そう。あの時はそれで十分だと思えたが、朝の光の下で見返すと、随分と先延ばしにしただけの言葉に思えてくる。それでも、先延ばしにできる猶予は、もうほとんど残っていないはずだった。
通信室の扉を開けると、キーウィはすでに端末の前に座っていた。煙草の先から立ち上る細い煙が、薄暗い部屋の空気をゆっくりとかき混ぜている。
「早いな」
「昨日の続き、話しに来た」
ニッカが戸口で立ち止まると、キーウィは椅子を軽く回してこちらを向いた。
「例の女から、何かあったのか」
「うん。夜中に、直接電話がかかってきた」
その一言に、キーウィの眉がわずかに動いた。灰皿へ煙草を押しつける手つきが、いつもより幾分ゆっくりとしている。
「防壁を、素通りしてきたわけだ」
「そう。しかも、今度は名乗った。レジーナ・ジョーンズ、って」
「……ジョーンズ、か」
キーウィは灰を落としながら、わずかに目を細めた。
「名前だけなら、聞いたことがある。ワトソン地区で、独立系のフィクサーとしてそれなりに顔が利く女らしい。企業の傘下には入らず、自分の伝手だけで動くタイプだと聞いた」
「ファラデーみたいな金主とは、系統が違う。企業の犬じゃない分、読みにくい相手だ」
ニッカは昨夜の通話を、順序立てて語り始めた。連絡先を勝手に通したことへの詫び、対等な取引を望んでいるという言葉、月に一度あるかないかという頻度、見返りに差し出される情報。ひとつひとつを並べる間、キーウィは黙って耳を傾けていた。
「……最後に、サイバーサイコシスの治療法を追ってると言った」
その言葉を口にした瞬間、ニッカの中で別の記憶が重なった。
レジーナがサイバーサイコシスに関心を持っていることも、その問題を追い続けていることも、前世の記憶に残っている。
ゲームの中では、それは数ある依頼の一つとして存在していた。
けれど、今は違う。
この世界にいるレジーナは、画面の中のキャラクターじゃない。
自分と同じ時間を生きて、昨日、自分に向かってその話をした一人の人間だ。
知識として知っていることと、現実にその人間と向き合うことは、思っていた以上に違っていた。
それに――ゲームで知っている未来が、この世界でも同じように進む保証なんてない。
ニッカは余計なことを口にせず、キーウィの反応を待った。
「本人の口から、直接か」
「うん。記者だった頃に、壊れていく人間をたくさん見てきたからって」
「それが本当なら、この街では珍しい種類の人間だな」
キーウィは新しい煙草に火をつけながら、しばらく黙り込んだ。窓のない部屋にこもった煙の匂いが、いつも以上に重く感じられた。
「危険がないとは、言い切れない」
「分かってる」
「だが、力任せに来る連中とは、明らかに手口が違う。急かしもしなければ、脅しもしない。それだけでも、少しは判断材料になる」
淡々とした評価に、ニッカは小さく頷いた。
「前に言ってたよね。脅威として見るか、価値として見るか」
ニッカが切り出すと、キーウィは煙を長く吐き出した。
「覚えていたか」
ニッカはしばらく黙っていた。
前世の記憶だけなら、レジーナがどんな人物なのかは知っている。
少なくとも、ゲームの中で見た限りでは、無意味に誰かを陥れるような人物ではなかった。
けれど、それをそのまま信じていい理由にはならない。
この世界には、自分がゲームの中で知らなかった時間がある。
そして、その時間を生きているレジーナは、前世で知っていたレジーナとは違う経験を積んでいる。
なら、今ここで判断するべきなのは「ゲームのレジーナが信用できるか」ではない。
目の前のレジーナ・ジョーンズを、自分が信用できるかどうかだ。
ニッカは一度だけ息を吐いた。
「あの女は、多分後者。じゃあ、そっちの方が安全ってこと?」
「安全とは、限らない」
短く答えるキーウィの声に、いつもより鋭さが混じっていた。
「脅威なら、対処の仕方は単純だ。潰すか、逃げるか。だが価値として見られるなら、話は違ってくる。手放したくない相手は、じわじわと絡め取ろうとする。時には、こちらが望んだ形を装ってな」
「……つまり、もっと厄介ってこと」
「厄介というより、見えにくい。脅威なら牙が見える。価値として狙われる時は、たいてい笑顔の下に隠れてる」
その一言に、ニッカは黙り込んだ。レジーナの落ち着いた笑みが、脳裏をよぎる。
ちょうどそこへ、ルーシーが端末を片手に姿を見せた。昨夜、防壁の突破経路について調べておくと請け合っていたのを、ニッカは思い出す。
「言われた通り、ログを洗ってみた」
前置きもなく切り出すルーシーの声には、いつもより硬い響きがあった。
「何か、分かった?」
「侵入経路そのものは、痕跡が消されてる。ただ、痕跡の消し方に見覚えがある」
「見覚えって」
「ネットランナーの中でも、上から数えた方が早い腕。少なくとも、素人の仕事じゃない」
その説明に、キーウィが灰を落としながら口を挟んだ。
「フィクサー風情が、そこまでの手駒を抱えてるのか」
「フィクサーとしての顔は、あくまで表向きなのかもしれない。私の勘だけど」
ルーシーの声には、珍しく警戒とも呼べる緊張が滲んでいた。アラサカの追跡プログラムに長年苦しめられてきた彼女にとって、見えない形での干渉ほど、神経を逆撫でするものはないらしい。
「危ない、ってこと」
「危ないと決めつけるには早い。ただ、侮っていい相手じゃないのは、確かだと思う」
ルーシーの言葉に、キーウィが静かに頷いた。二人の判断が、期せずして同じ方向を指しているという事実だけが、ニッカの胸に小さな重石として残った。
朝食の支度が始まった頃、話は自然と拠点全体へ広がっていった。簡易テーブルを囲む顔ぶれに、メインとドリオ、デイビッドとルーシー、そしてレベッカが加わる。ファルコは奥から様子を窺うように、帽子のつばへ手をかけたまま黙って聞いていた。少し遅れて、資材運搬から戻ったばかりのピラルも、荷物を肩に担いだまま顔を出した。
「つまり、また新手が来たってことか」
メインの問いに、ニッカは頷きながら経緯を繰り返した。話が終わる頃には、簡易テーブルの上の湯気立つ器も、すっかり冷め始めていた。
「対等な取引、ねえ」
腕を組んだメインが、低く唸る。
「聞こえはいいが、そういう言葉が一番信用ならねえ場合も多い」
「私も、最初はそう思った」
ニッカが答えると、ドリオが横から静かに口を挟んだ。
「拘束されないっていうのは、本当かしら」
「レジーナ本人は、そう言ってた。契約書もない。断ってもいい、って」
「口で言うだけなら、誰でもできる」
ドリオの声には、警戒の色がはっきりと滲んでいた。荒野で幾度となく裏切りを見てきた人間らしい、乾いた慎重さだった。
「けど、サイバーサイコシスの治療法かあ」
デイビッドが呟くように言い、視線をふとメインへ向けた。メインは表情を変えないまま、腕を組んだ肘の位置だけをわずかにずらした。
「もし本当にそういう研究をしてる人間なら、無下に断るのも、少しもったいない気がする」
「もったいない、か」
「俺は、あんたのバッファーのおかげで助かった側だからな。同じ苦しみを、他の誰かも抱えてるかもしれねえと思うと」
言葉を選びながら続けるデイビッドに、メインは何も言わなかった。ただ、腕を組んだままの表情が、いつもより幾分和らいで見えた。震えの止まったあの夜の記憶は、彼にとっても他人事ではないらしい。しばらくの沈黙のあと、メインは低く呟いた。
「あの夜のことは、忘れちゃいねえ。もし同じ苦しみを抱えた奴が、この街のどこかにまだいるんだとしたら……見捨てる理由には、したくねえな」
珍しく本音の滲んだ一言に、テーブルの空気が一瞬だけ静まった。
ニッカは、思わずメインの横顔を見つめた。飄々とした態度を崩さない男が、こんな風に本音を覗かせることは、めったにない。震える指先を握りしめていたあの夜の彼の姿が、ふと脳裏に蘇った。
「情報の価値は、無視できない」
ルーシーが静かに付け加えた。
「今、街のどこが危ないか。誰が何を狙ってるか。それを知る手段があるなら、あって困るものじゃない」
「治療法の話は、置いといても」
ニッカが呟くと、ルーシーは短く頷いた。
「置いといても、悪い話ではない。ただ、無条件で信じていい話でもない」
「一つ、気になることがある」
それまで黙っていたファルコが、帽子のつばに指をかけたまま口を開いた。
「あの女、元は記者だったんだろう。人の噂を集めるだけじゃなく、広める側にいた人間でもあるってことだ」
「それが、何か」
「もし機嫌を損ねたら、あんたの噂を、面白おかしく書き立てられるかもしれねえ。ただの取引相手より、扱いには気を使う類の相手だと思うがな」
思いがけない指摘に、ニッカは黙り込んだ。フィクサーとしての顔だけでなく、元記者としての勘所も持ち合わせているとしたら、確かに厄介な組み合わせだった。
「今は、フィクサーとしてしか動いてないと思うけど」
「今は、な」
ファルコの言葉に、キーウィが煙を吐きながら短く同意した。
「肩書きは一つとは限らない。使い分けてる可能性は、頭の隅に置いておけ」
その忠告に、ニッカは小さく頷くしかなかった。
「あんた、一人で全部決めようとしてない?」
黙っていたドリオが、ふとニッカへ視線を向けた。
「一人で、っていうのは」
「乗るか乗らないか。最後は結局、あんたの判断に委ねられる話でしょう。だったら、抱え込みすぎないで」
「別に、抱え込んでない」
「本当に?」
静かに重ねられた問いに、ニッカは言葉を詰まらせた。ドリオの目は、いつも一枚上手にこちらの内側を見透かしてくる。
「……分からない。正直、まだ迷ってる」
「迷ってるなら、迷ってると言えばいい。無理に一人で結論を出す必要はないの」
柔らかい声だったが、その分だけ、ニッカの胸に深く沁みた。荒野育ちの人間にとって、こういう庇護の言葉は、まだ完全には慣れないものだった。
「あたしは、単純に気になる」
黙って聞いていたレベッカが、突然身を乗り出した。
「その女、ファラデーとは違うって言ったんだろ。なら、どう違うのか見てみたい気もするけどな」
「見てどうするの」
「別に。ただ、あんたを狙う連中の中じゃ、一番マシそうな気がしただけだ」
あっさりと言い切るレベッカの言葉に、ニッカは思わず苦笑した。荒野育ちの人間らしい、単純だが的を外さない判断基準だった。
「情報だけの話なら、乗る価値はあるかもしれん」
メインが、ようやく結論めいた言葉を口にした。
「ただし、あんたが乗り気になるかどうかは、また別の話だ。無理に勧める気はない」
「私は、別に……」
言いかけて、ニッカは言葉を濁した。断る理由なら、いくらでも並べられるはずだった。この街に深入りしない、という誓いを盾にすれば、無視することだって十分に可能だったはずだ。だが、昨夜からずっと、その理由の輪郭がうまく像を結んでくれない。
様子を見守っていたピラルが、荷物を担いだまま横から口を挟んだ。
「難しい話は分かんねえけどよ。俺様に言わせりゃ、乗るか乗らないかは、結局あんたの腹一つだろ」
「腹一つ、って」
「損得を天秤にかけて、重い方を選ぶだけの話だ。荒野の取引だって、いつもそうだったろ」
軽い口調のピラルの言葉に、ニッカは意外にも小さく頷いた。単純な理屈だったが、これまで積み上げてきた議論の中で、一番腑に落ちる響きがあった。難しい言葉を並べるより、荒野の取引所で叩き込まれた損得勘定の方が、今の自分にはよほど信用できる物差しなのかもしれなかった。
「にしても、あんたに近づいてくる連中、ろくなのがいねえな。車に惚れられたと思ったら、今度はフィクサーか」
からかうようなピラルの一言に、ニッカは思わず顔をしかめた。
「その話、蒸し返さないで」
「まだ拠点の外に何台か並んでるんだろ、あの律儀な車」
「……多分、いる」
げんなりとした声に、ファルコが帽子のつばを軽く持ち上げながら笑った。
「あんたの周りは、退屈しねえな」
「望んでない、こんな賑やかさ」
不服そうに呟くニッカに、テーブル全体が小さな笑いに包まれた。張り詰めていた空気が、その一言だけでわずかに緩む。
それでも、笑いの奥では、誰もが少しずつ同じことに気づき始めていた。脅威として狙われることも、価値として値踏みされることも、根っこの部分では同じ土から生えている。バッドランズの片隅で静かに暮らしていたはずのメカニックが、いつの間にか、この街の裏側で名指しされる存在に変わりつつある。その事実からは、もう誰も目を逸らせずにいた。
「そういえば」
思い出したように、デイビッドが口を開いた。
「その女、最後に何か言ってなかったか。米とか出汁とか」
その一言に、テーブルの空気がわずかに変わった。ニッカは視線を逸らしながら、渋々答えた。
「……本物の食材の入手ルートが、あるって言ってた」
「マジか」
真っ先に反応したのはレベッカだった。串を握る手つきで、テーブルに身を乗り出す。
「露店で買うより、いいもんが手に入るってことか」
「多分」
「なら乗れよ! 何を迷うことがあるんだよ!」
あまりにあっさりとした態度に、ニッカは眉間を押さえた。
「あんたたち、簡単に言いすぎ」
「いや、簡単だろ。米が美味くなるかもしれねえって話だぞ」
レベッカの声には、一切の迷いがなかった。デイビッドも、隣で控えめに頷いている。
「正直、俺も気になる。あの串の味を知ってから、合成肉に戻るのがきつくてな」
「あんたたち、食い意地の張り方が同じ」
呆れたように呟くニッカに、ドリオが微かに笑った。
「情に厚いのか、単に胃袋が正直なのか、あんたたちを見てるとよく分からなくなるわね」
「両方だろ、多分」
ファルコが帽子のつばを持ち上げながら、軽い口調で口を挟んだ。その一言に、テーブルの空気が少しだけ和らいだ。
ニッカは器の中で冷めていく合成の粥を見つめながら、しばらく黙り込んだ。米と出汁の残量は、あと片手で足りるほどしかない。あの露店の老女が扱う品も悪くはなかったが、レジーナの言うルートがそれ以上のものだとしたら。
脳裏に、あの串の脂の甘みと、パン屋の窯から立ち上った本物の小麦の匂いが蘇る。合成の粉では出せない、あの深みのある匂い。荒野で十八年間、そんなものを知らずに生きてきたはずなのに、一度知ってしまった今は、その差をどうしても意識せずにはいられなかった。
誓いを盾にするなら、断るべきだった。だが、天秤の反対側に積まれていくものが、思っていたよりもずっと重かった。バートと二人きりだった頃なら、味の良し悪しなど二の次にできたはずだった。今の自分は、あの頃とは少しだけ違う場所に立っている。それを認めるのは、思ったよりも簡単なことだった。
「……分かった」
ニッカが小さく呟くと、テーブルの視線が一斉にこちらへ向いた。
「乗ってみる。ただし、情報の取引としてだけ。専属とか、そういうのは一切なし」
「そう来なくっちゃな!」
真っ先に歓声を上げたのはレベッカだった。デイビッドも安堵したように肩の力を抜いている。
「あくまで、対等な取引としてだから」
念を押すように繰り返すニッカに、キーウィが灰を落としながら口を挟んだ。
「線引きは、こちらで決めておけ。向こうの言い値に流されるな」
「分かってる」
「もし何か違和感があれば、すぐに切れ。それだけの覚悟があるなら、止めはしない」
キーウィの声には、いつもの淡々とした響きの中に、確かな重みが混じっていた。ルーシーも、静かに付け加える。
「妙な信号のやり取りがないか、しばらくは私の方でも見ておく」
「ありがとう」
短い礼に、ルーシーはわずかに目を細めただけだった。
「決まったなら、さっさと連絡しろよ! 食材、早く見たいだろ!」
レベッカが待ちきれないとばかりに急かしてくる。
「今すぐ、届くわけじゃない」
「分かってるけど、気持ちの問題だ!」
鼻息の荒いレベッカを、デイビッドが苦笑しながら宥めた。
「気持ちだけ先走っても、飯は炊けねえぞ」
「うるせえ、夢見るくらい自由だろ!」
軽口の応酬に、テーブル全体が小さな笑いに包まれた。ニッカはその様子を眺めながら、これから先の面倒事の種を、また一つ自分の手で蒔いてしまったことを、あらためて自覚せずにはいられなかった。
朝食の片付けを終えたところで、ニッカは作業場へ戻り、端末を手に取った。夜の間、履歴に残ったままだった発信元不明の記録が、そこにまだ静かに横たわっている。
しばらく画面を見つめてから、彼女は短く文面を打ち込んだ。乗る、ただし条件がある。専属にはならない。情報と、あの食材のルートだけを対価とする。文字を並べながら、自分がどれほど単純な理由で天秤を傾けたのか、我ながら情けなく思わずにいられなかった。
書いては消し、消してはまた書き直す。もっと堅い言い回しにするべきか、それとも今のままで十分か。迷っているうちに、指先の動きだけが妙に慎重になっていった。荒野で機械の配線を組む時には迷わない指先が、こういう言葉選びになると途端に鈍る。自分でも、少しばかり可笑しく思えてくる。
結局、最初に打ち込んだ簡素な文面のまま、ニッカは送信を決めた。飾り立てたところで、伝えたいことの中身は変わらない。
送信ボタンを押してから、さほど時間を置かずに返信が届いた。
「話が早いのね。気に入ったわ」
文面越しでも、あの落ち着いた声の抑揚がそのまま浮かんでくるようだった。
「専属じゃない、って何度も言うつもり?」
思わず文字を打ち込むと、すぐに返答があった。
「言わなくても分かってる。あたしも、縛るつもりはないって言ったでしょう」
「食材のルート、本当にある?」
「もちろん。カブキの奥、企業農場から直接卸してる裏筋がある。今度、案内するわ」
その一文を目にした瞬間、ニッカの口元が、自分でも気づかないうちに緩んでいた。
棚に押し込んだままの合成米の袋と、埃をかぶった乾物の匂いが、脳裏にふと浮かぶ。あの袋を数えながら限界を悟った朝から、まだ二日と経っていない。それだけの短い間に、ここまで話が転がっていくとは、自分でも思っていなかった。
「受け渡しは、どうするの」
ニッカが問いを重ねると、返答はすぐに届いた。
「あんたの都合に合わせる。急ぎなら、こっちから届けさせてもいい。あんたが出向きたいなら、それでも構わない」
「拠点の場所は、教えない」
「初めから聞くつもりもないわ。信用は、時間をかけて積むものでしょう」
あっさりとした返答に、ニッカは少しだけ拍子抜けした。この街で、素性を尋ねてこない相手というのは、それだけで珍しかった。
「言っておくけど、名前は鈴木のままでいい?」
からかうような一文に、ニッカは少し身構えた。
「本気にしないでって、前も言った」
「分かってる。でも、呼び方は好きに決めさせてもらう」
軽い調子で流されるやり取りに、ニッカは小さく息を吐いた。この程度の軽口なら、悪くない距離感なのかもしれないと、少しだけ思い始めていた。
「周波数は、これで固定でいい?」
レジーナからの問いに、ニッカは短く返した。
「うん。これで」
「なら、これがあんた専用の裏窓口。用がある時だけ、お互い一言送る。それだけ」
「分かった」
「ようこそ、ガレージの魔法使い」
からかうような一文に、ニッカは思わず顔をしかめた。
「その呼び方、まだ続けるつもり?」
「気に入ってるの。悪いけど、しばらくはこれで呼ばせてもらうわ」
あっさりと押し切られる形で、通信は静かに切れた。画面には、新しく登録された発信元の欄が、これまでとは違う意味を帯びて残っていた。
端末を置いたところで、ニッカは深く息を吐いた。あの十八の夏に立てた誓いが、また一つ静かに形を変えた気がした。ナイトシティの依頼には関わらない。そう固く決めていたはずの一線は、今日もまた、思わぬ方向から少しだけ押し広げられている。
それでも、これは依頼ではない。ただの、情報と食材の交換に過ぎない。自分にそう言い聞かせながらも、その理屈がどこまで本気のものなのか、彼女自身にもよく分からなくなっていた。
作業場を出ると、廊下の向こうから賑やかな声が聞こえてきた。レベッカがすでに、今夜の献立をあれこれ夢想しているらしい。
「本物の出汁で、味噌汁作ってくれよ! あと、卵かけご飯も!」
「食材が届いてから」
「気が早すぎるって、分かってるけどよ! 期待するくらい、いいだろ!」
弾んだ声に、デイビッドも便乗するように顔を出した。
「俺は、卵かけご飯より、握り飯がいいな。焦げ目つけて」
「あんたたちの注文、多すぎ」
通りがかったピラルまでもが、横から会話に割り込んできた。
「俺様は、卵焼きだな。甘めで頼むぜ」
「注文、受け付けてない」
すげなく突き放されたピラルが、大げさに肩を落として作業場の奥へ戻っていく。呆れながらも、ニッカの口元には小さな笑みが浮かんでいた。荒野では想像もしなかった、こういう賑やかな注文合戦も、この暮らしにはすっかり馴染んでしまっている。
通りかかったドリオが、微笑みながら二人を眺めていた。
「あんたたちが騒いでる間に、当のニッカは何も注文してないのね」
「私は、別に。米が炊ければ、それで十分」
「欲がないんだか、あるんだか」
ドリオの一言に、ニッカは答えに詰まった。欲がないわけではない。ただ、望むものの形が、他の誰かとは少し違うだけだった。荒野の暮らしで身についた質素さは、この街に来てもなお、彼女の芯に残り続けている。
「あんたはいつも、自分のことは後回しね」
静かな指摘に、ニッカは何も言い返せなかった。ドリオはそれ以上追及せず、代わりに肩をそっと叩いて離れていった。庇護と気遣いの入り混じった、いつもの背中だった。
夕方、作業台の隅に座ったニッカは、棚の隅に転がる錆びた金属の鶏の置物へ、ふと目を向けた。バートが手慰みに作った、不格好な代物だった。
「……また、一つ増えたよ」
誰にともなく呟いた声が、静かな作業場に小さく吸い込まれていく。関わるなと教えた張本人と同じ道を、今の自分も辿っているらしい。バートの生き様が遺した矛盾は、血の繋がりを越えて、確かにニッカの中にも根を張っていた。
自分でも驚くほどあっさりと、境界線を一つ越えてしまった気がした。それが良いことなのか悪いことなのか、ニッカにはまだ何も見えていない。ただ、新しく開かれた裏窓口の存在だけが、これから先の日々に、静かな重みを一つ加えたことだけは確かだった。
月に一度あるかないか、とレジーナは言っていた。だが、その頻度が本当に守られる保証は、どこにもない。頼み事というのは、たいてい最初だけ控えめで、後になるほど当たり前の顔をして増えていくものだった。荒野の暮らしでも、似たような成り行きを何度か見てきた気がする。
それでも今は、まだ起きてもいない先のことを心配するより、目の前の裏窓口をどう扱うかを考える方が先だった。ニッカは端末の画面を一度だけ確かめてから、静かに明かりを落とした。
夕食の片付けが済んだ頃、ニッカはもう一度だけ通信室へ顔を出した。キーウィは変わらず、煙草をくゆらせながら端末に向かっていた。
「決着はついたようだな」
「うん。裏窓口、開いた」
「後悔は」
短い問いに、ニッカはしばらく考えてから答えた。
「まだ、分からない。ただ、断らなかったことは、間違ってないと思いたい」
「思いたい、か」
キーウィは灰を落としながら、珍しく口元をわずかに緩めた。
「その程度の頼りなさで丁度いい。この街で確信ばかり持ってる奴の方が、大抵は危ない」
皮肉とも励ましともつかない一言を残し、キーウィは端末へ視線を戻した。ニッカは小さく一礼し、通信室を後にした。
扉の手前で、ニッカは一度だけ振り返った。キーウィの背中は、いつもと変わらない佇まいのままだった。それでも、あの素っ気ない一言だけは、彼女なりの精一杯の後押しだったのかもしれない。そう思うと、ニッカの口元はわずかに緩んだ。
窓のない地下拠点に、夜の静けさが戻ってくる。換気口の低い駆動音だけが、変わらぬ律儀さで空気を満たし続けていた。作業台に広げたままの工具が、明かりを落とした薄闇の中でぼんやりと輪郭を残している。ニッカはその一つ一つを、片付けるでもなく、しばらく黙って眺めていた。
天秤は、今日もまた、少しだけ傾いた。荒野で誓った一線の向こう側へと。関わらない、というあの十八の夏の誓いは、もう随分と原形をとどめていない。それでも、誓いそのものを完全に手放したつもりはなかった。ただ、天秤の傾き方だけが、以前とは少しずつ違う角度を刻み始めている。
その傾きが、この先どんな形で返ってくるのか。この時のニッカは、まだ何も知らずにいた。ただ、棚の隅で薄闇に沈む金属の鶏だけが、変わらぬ不格好な姿のまま、静かにそこに佇み続けていた。