朝の光が、トタン屋根の隙間から幾筋も差し込んでいた。
埃の粒が光の帯の中でゆっくりと舞い、やがて床に落ちる。ニッカは作業台に向かい、旧式のセンサーユニットの基盤を磨いていた。手の動きは機械的で、何も考えずとも指先が正しい場所を辿っていく。長年繰り返してきた朝の作業だった。
デイビッドが去ってから、もう十日ほどが経っている。
あの夜以来、ガレージには変わったことなど何もなかった。太陽光パネルは今日も安定した数値を返し、周辺センサーも異常を示していない。それでも、ニッカの胸の奥には小さな違和感がずっと居座り続けていた。理由を言葉にしようとすると、いつも輪郭がぼやけて逃げていく。ただの気疲れだと自分に言い聞かせても、その違和感は消えてくれなかった。
「……別に、何も起きてないんだけどな」
誰にともなく呟いて、ニッカは基盤を工具箱に戻した。手を止めれば、また余計なことを考えてしまう。だから彼女は次の作業に取りかかった。
棚に並んだ工具の位置を確かめ、床の軋む場所を踏まないよう歩く。長い年月をかけて体に染みついた動きだった。窓の外では、乾いた風がいつも通りに吹き渡っている。バッドランズの朝は、今日もいつもと変わらない顔をしていた。
朝食代わりの乾燥保存食を鍋で戻しながら、ニッカはぼんやりと窓の外を眺めた。地平線の際まで続く赤茶けた大地は、今日もどこまでも静かだった。こうして誰にも邪魔されずに一日を始められることが、彼女にとっては何よりの贅沢だった。
デイビッドの背中を思い出さない日は、ここ数日なかった。あの粗末な継ぎ接ぎの配線に、自分の刻んだ痕跡が確かに残っている。放っておけばよかったのに、と思う一方で、あの時の判断を後悔してはいなかった。矛盾したその感情を、ニッカはうまく整理できないまま朝食を口に運んだ。
食事を終えると、彼女はいつものように工具箱の中身を並べ直した。使う頻度の高い順に、手の届く位置へ配置し直していく。単純な作業に没頭している間だけは、余計な考えが少しだけ遠のいてくれる。それが、彼女が長年かけて身につけてきたやり方だった。
窓辺に置いた古いレンチに、ニッカはふと目を留めた。バートが最後まで使っていた工具だった。刃こぼれした柄の感触を、彼女はもう何百回となく指先で確かめてきた。捨てる気にはなれないまま、それでいて特別に扱う気にもなれない。ちょうどいい距離を保ったまま、そのレンチは今もこの作業台の隅に居座り続けていた。
点検を終えたところで、ガレージの入り口に小さな影が差した。クランの子供の一人が、水筒を片手に立っている。
「ニッカ姉、今日の分」
「ありがとう。助かるよ」
少女は差し出した水筒を受け取ってもらうと、すぐに踵を返した。数歩歩いたところで、ふと足を止めて振り返る。
「そういえば、南の方から変な砂埃が出てるって、見張りの兄ちゃんが言ってた」
「南の方?」
「うん。でも遠いから、たぶんただの砂嵐だろうって」
少女はそれだけ言い残すと、駆け足で去っていった。ニッカはしばらくその後ろ姿を見送っていたが、やがて肩をすくめて作業に戻った。バッドランズでは、砂嵐など珍しくもない。それでも、胸の奥の違和感が、わずかに硬さを増したような気がした。
格納庫の奥に置かれた迎撃タレットへ、ニッカは何気なく目を向けた。骨組みは廃棄された建機のアームを流用し、砲身部分には旧式の給水ポンプの筒を組み込んである。誰の目にも粗末な鉄屑にしか映らない代物だが、その内部にはバートと二人で少しずつ積み上げてきた記憶が詰まっていた。
「まだ嬢ちゃんには早いって言ったのに、聞かねえんだからよ」
かつてバートが呆れたようにそう言っていたのを、ニッカは今でも覚えている。十四の頃だった。廃品置き場で見つけた対戦車兵器の残骸を、彼女は寝る間も惜しんで分解し続けた。バートは最後まで反対しなかった。ただ、危険な配線に触れそうになるたび、後ろから黙って手を添えてくれた。
あの日組み上げた原型を、ニッカは何度も改良してきた。照準の精度を上げ、連射の間隔を詰め、熱暴走を防ぐ冷却回路を足していく。その積み重ねの果てに、今のタレットがある。使う日など来てほしくない。そう願いながら、それでも彼女は磨き続けてきた。
同じ頃、ナイトシティの外れを走る一台の改造トラックの荷台で、レベッカは足をぶらつかせながら大声を上げていた。
「なあなあ、マジで行くのかよ! そのガレージ!」
「行くって決めただろうが」
運転席からメインの低い声が返ってくる。ハンドルを握る手には、いつになく力がこもっていた。助手席のドリオは、腕を組んだまま窓の外に流れる荒野を眺めている。
「デイビッドの背中、あれ見ただろ。あんな配線、あたしは見たことねえ。会ってみなきゃ気が済まねえよ」
「あんたが会いたいだけでしょう」
ドリオが呆れたように口を挟むと、レベッカは荷台の縁を掴んだまま身を乗り出した。
「そりゃそうだけどよ! 廃品であそこまでやれる奴だぞ! あたしの銃も直してもらえるかもしれねえじゃんか」
後部座席で、ルーシーは膝の上に置いた端末の画面を眺めていた。表情には、いつもの静けさが張り付いている。
「デイビッドの案内がなきゃ、あの場所には辿り着けないんでしょう」
「だな。地図にも載ってねえ廃車置き場だ。あいつの記憶頼みだよ」
助手席の後ろで小さくなっているデイビッドが、居心地悪そうに肩をすくめた。
「本当に、行くのか」
「今さら怖気づいたか、坊主」
「そうじゃない。ただ……」
デイビッドは言葉を濁した。ニッカという女がどんな反応をするか、彼にもまるで予想がつかなかった。あの夜、無愛想に、しかし確かに自分の命を繋ぎ止めてくれたあの背中を思い出す。押しかけていって歓迎される保証など、どこにもなかった。
「向こうは大人数で押しかけられて、喜ぶタイプじゃない気がする」
「なら、機嫌を取るしかねえだろ」
メインはハンドルを切りながら、平然と言い切った。
「礼も言わなきゃならねえ相手だ。今さら遠慮する理由がどこにある」
その言葉に、ドリオが小さく息をついた。
「礼を言うだけなら、あんた一人で行けば済む話でしょう」
「うるせえ。俺だって気になってんだよ、あの配線」
トラックの荷台で、レベッカが盛大に笑い声を上げた。
「ギャハハ! 素直じゃねえなあ、メインは!」
「うるせえっつってんだろ」
短いやり取りの合間にも、車は荒野の道を進み続けていた。舗装された道路が途切れ、車輪の下で砂利が跳ねる音が大きくなっていく。窓の外には、赤茶けた大地がどこまでも広がっていた。
尾根が近づくにつれて、レベッカは荷台に置いていたライフルを何気なく手元へ引き寄せた。長年染みついた癖だった。それに気づいたメインが、バックミラー越しに鋭く声を飛ばす。
「おい、しまっとけ。挨拶に行くんだ、銃なんざ構えるんじゃねえぞ」
「わかってるって。持っとくだけだよ、持っとくだけ」
そう言いながらも、レベッカの指は銃身をなぞる動きを止めなかった。見知らぬ相手のもとへ乗り込むという状況が、彼女の中の警戒心をわずかに刺激しているようだった。ドリオがその様子を横目に見て、小さく息をつく。
「歓迎されなかったら、大人しく引き返すのよ。相手の敷地に土足で踏み込むような真似はしないで」
「わかってるって言ってんだろ」
不貞腐れたように答えながらも、レベッカはライフルを膝の上に置いたまま、荷台の縁に背を預けた。緊張しているのか浮かれているのか、本人にもよく分からない様子だった。
「にしても、こんな何もねえ場所に住んでんのか。変わり者だな」
「変わり者じゃなきゃ、あんな腕を隠しちゃおかねえだろうよ」
メインは前方を見据えたまま呟いた。その声には、値踏みするような響きと、どこか期待めいた色が混じっていた。
ドリオは横目でその表情を窺い、口を挟むかどうか迷った様子を見せた。結局、彼女は何も言わずに視線を前へ戻した。数日前から、メインの右腕がわずかに震えることがある。本人に指摘しても、決まって「大した事じゃねえ」の一言で流されてしまう。その繰り返しに、ドリオはうんざりしながらも、これ以上は踏み込まないことにしていた。
「ルーシー、あんたは何が目的でついてきたんだ」
レベッカが後部座席に問いかけると、ルーシーは端末から視線を上げないまま答えた。
「デイビッドが気にかけてる相手を、この目で見ておきたかっただけ」
「随分素っ気ねえな」
「素っ気なくて悪い?」
レベッカは肩をすくめ、それ以上は追及しなかった。ルーシーの本心が別の場所にあることを、彼女はなんとなく察していた。デイビッドが最近になって見せるようになった、あの張り詰めた横顔の理由を、ルーシーもまた気にかけているのだろう。
デイビッドは窓の外を見つめながら、あのガレージへ続く道筋を記憶の中で辿っていた。二度と足を踏み入れることはないと思っていた場所に、今また向かっている。その事実が、彼の中でまだうまく消化できずにいた。
窓の外では、赤茶けた岩肌がどこまでも続いていた。錆びついた送電塔の残骸が、等間隔に地平線へ沈んでいく。人の手が入らなくなって久しいその景色は、荒涼としていながらも、どこか静けさを湛えていた。ナイトシティの喧騒とは対照的なその風景に、デイビッドは無意識のうちに目を奪われていた。
ルーシーもまた、窓の外を眺めていた。青みがかった髪が、車内に差し込む光を受けてかすかに揺れている。
「こんな場所に、ずっと一人で住んでるのね」
呟くように漏れたその言葉に、デイビッドは思わず視線を向けた。
「一人ってわけじゃない。近くにクランの人たちがいる」
「それでも、街から遠く離れてる。よほどの理由があるんでしょうね」
ルーシーの声には、探るような響きはなかった。ただ、静かに何かを見定めているような口調だった。デイビッドはそれ以上何も言わず、再び窓の外へ視線を戻した。ニッカがなぜあの場所を選んだのか、彼自身もまだ深くは知らなかった。
荷台の隅に転がっていた自分のライフルへ、レベッカはふと手を伸ばした。銃身の接合部が歪み、グリップの一部が焼け焦げている。この前の抗争で無理な連射を続けた代償だった。
「なあ、これも見てもらえっかな」
「ボロボロじゃない、それ」
デイビッドが顔を覗き込むと、レベッカは唇を尖らせた。
「うるせえ、あたしなりに大事に使ってんだよ。ただ、最近反動がキツくてよ。修理に出す金もねえし」
「金なら、うちが立て替えてやる」
メインが前を向いたまま口を挟んだ。
「その代わり、あの女に無理を言うんじゃねえぞ。会ったばかりで頼み事なんざ、礼を欠く」
「わかってるっつーの。……たぶん」
その返事に、ドリオが小さく苦笑した。彼女はふと視線を落とし、メインの右手にちらりと目をやった。ハンドルを握る指先が、信号待ちのわずかな間だけ、かすかに震えていたのを見逃さなかった。
「メイン」
「なんだ」
「今日は、あんたも大人しくしときなさいよ。……初対面の相手の前で、無理に振る舞う必要はないんだから」
「別に、無理なんてしてねえ」
いつも通りの返事だったが、その声にはわずかな硬さが滲んでいた。ドリオはそれ以上追及せず、ただ小さく息を吐いて前へ視線を戻した。心配の色を隠しきれないまま、彼女は窓の外を流れる荒野を見つめ続けた。
車内の空気が一瞬だけ沈んだのを察してか、レベッカが場を取り繕うように声を上げた。
「まっ、なんにせよ楽しみだぜ! ガラクタで軍用超えの化け物を作る女ってのがどんな奴か、この目で拝んでやる」
「化け物って言い方、失礼じゃないの」
デイビッドが小さく苦笑すると、レベッカは肩をすくめた。
「褒め言葉だっつーの。あたしにとっちゃ最上級のな」
「もうすぐだと思う。あの尾根を越えた先だ」
「よし、飛ばすぞ」
メインがアクセルを踏み込むと、トラックは砂埃を巻き上げながら加速していった。荷台のレベッカが歓声を上げ、ドリオが小さく舌打ちする。車列は三台に分かれ、荒れた道を蛇行しながらバッドランズの奥へと進んでいった。
しばらく無言でハンドルを握っていたメインが、ふと呟いた。
「グロリアの息子が世話になったんだ。放っておくわけにはいかねえだろ」
「あんたが恩義にこだわるのは、今に始まったことじゃないでしょう」
ドリオが横目で答えると、メインは短く鼻を鳴らした。
「昔、荒事の後始末をあいつに頼んでた頃の借りが、まだ返しきれてねえ。せめて息子には、まともな礼くらい尽くしておきたい」
その言葉には、いつもの豪快さとは違う静かな響きがあった。ドリオはそれ以上追及せず、ただ小さく頷いただけだった。フロントガラスの向こうに広がる荒野を見つめながら、彼女はメインの横顔にちらりと目をやった。表情の奥に、まだ何か言い切れていないものが残っている気がした。
その少し前、クランの外周を任されていた見張りの青年は、双眼鏡越しに立ち上る土煙を眺めながら首を傾げていた。
「……こっちに来る、のか?」
見慣れない車列が、キャンプを素通りしてガレージの方角へ真っすぐ向かっていく。荷台に積まれた装備の輪郭から見て、素人の集まりではないことは一目で分かった。無線で報告を上げようとした矢先、砂嵐の影響か通信は途切れがちで、繋がってもすぐに切れてしまう。青年は舌打ちしながら何度か呼びかけを繰り返したが、応答は返ってこなかった。
バイクに跨り、青年は砂埃を蹴立ててガレージの方角へ走り出した。ニッカ姉に危険が及んでいるかもしれない。その一心だけが、彼の背中を押していた。届くかどうかも分からない警告を抱えたまま、彼は荒れた道をひたすらに急いだ。
ガレージの奥、ニッカは制御盤の前でセンサーの表示を確認していた。
いつもの点検作業の途中だった。太陽光パネルの蓄電量、周辺の温度、地表の振動を拾う簡易センサーの反応。すべてが平常値の範囲に収まっている。それを見届けて、彼女は次の項目へ移ろうとした。
そのとき、画面の端に小さな点滅が現れた。
ニッカは眉を寄せ、表示を拡大した。地表の振動センサーが、微弱ながら継続的な揺れを拾い始めている。風による揺れとは明らかに違う周期だった。
「……車?」
呟きながら、彼女は制御盤の別の項目を呼び出した。振動の発生源を辿ると、南東の方角から、複数の反応が近づいてきていることが分かった。一台や二台の規模ではない。
心臓が、静かに音を立て始めた。
ここは地図に載っていない場所のはずだった。クランの人間以外がこの道を通ることは、ほとんどない。あるとすれば、それは決まって歓迎できない類の来訪者だった。
かつてこの荒野で聞かされた話の数々が、ニッカの脳裏をよぎった。ラフィ・シヴに襲われたキャラバンの話。獲物を求めてバッドランズを彷徨うスカベンジャーの話。子供の頃に焚き火の傍で聞いた噂は、どれも生々しく、忘れようとしても消えてはくれなかった。
「……冗談でしょ」
震える声で呟きながら、ニッカは急いで外周モニターを立ち上げた。粗末な廃品カメラの映像に、遠くの地平線がぼんやりと映し出される。まだ肉眼で捉えられるほどの距離ではなかったが、砂塵の帯がわずかに立ち上っているのが見て取れた。
複数の車両が、こちらへ向かってきている。
無線機に手を伸ばし、クランの見張りへ確認を取ろうとした。だが応答は返ってこない。雑音だけが、静かな空間に流れ続けていた。
「……なんで、繋がらないの」
指先が、わずかに冷たくなっていく。単なる砂嵐なら、ここまで動悸が速まることはない。何かが違う。理屈より先に、体がそう告げていた。
モニターの数値を、ニッカはもう一度確かめた。振動の間隔は規則正しく、明らかに複数のエンジンが同じ速度で並走している。徒歩の集団でも、単独の荒くれ者でもない。組織立った動きだった。それが何よりも恐ろしかった。
思い出すのは、数年前に隣接するクランを襲ったラフィ・シヴの一団だった。夜明け前に押し寄せ、あっという間にガレージを焼き払っていったという。生き残った者たちの話を、ニッカは今も忘れられずにいる。
焼け跡を見に行った大人たちが、帰ってきてから何日も口を閉ざしていたのを覚えている。子供だったニッカにその詳細が伝わることはなかったが、大人たちの張り詰めた表情だけで、そこに何があったのかは容易に想像がついた。以来、彼女は見知らぬ来訪者というものを、無条件に信用したことなど一度もなかった。あの日の恐怖が、体の奥から這い上がってくるようだった。
「落ち着け……落ち着いて」
自分に言い聞かせながら、ニッカは深く息を吸い込んだ。パニックになれば、判断を誤る。バートに教わった手順を、ひとつずつ思い出しながらこなしていくしかなかった。まず状況の把握、次に防衛態勢の構築、それから最悪の事態への備え。頭の中で手順を並べ直すたび、震えがわずかに収まっていく気がした。
ニッカは工具を放り出し、ガレージの奥へと走った。壁際に隠された小さなハッチを開け、防衛システムの主制御盤を露わにする。長年かけて磨き上げてきた回路が、鈍い光を放っていた。
指先が、震えながらもスイッチの並びを正確に辿っていく。頭の中では、前世の記憶が警鐘のように鳴り響いていた。相手の正体も、目的も分からない。分からないままに、悠長に構えている余裕などなかった。
――関わったら、死ぬ。
その一言が、幼い頃から染みついた鉄則として蘇る。バートが命を落としたあの日から、ニッカはこの言葉だけを頼りに生きてきた。誰であろうと、招かれざる客がこの敷地に踏み込むことは許されない。それがこのガレージを守る、唯一のルールだった。
制御盤の表示が、次々と緑色の準備完了を示していく。太陽光パネルの余剰電力を利用した自動迎撃タレットが、格納庫の中で静かに起動音を上げ始めた。廃品のパーツを組み合わせて作り上げたその機構は、傍目には粗末な鉄屑の塊にしか見えない。だがその内部には、前世の知識を注ぎ込んだ精密な照準機構と、軍用規格を上回る連射性能が眠っていた。
続けて、上空の偵察を欺く光学迷彩型アンテナの出力を最大まで引き上げる。少しでも足取りを掴まれれば、この場所は終わりだ。バートが遺してくれたこの土地を、誰にも渡すつもりはなかった。
制御盤の隣に据えた無線機を掴み、ニッカはクランの中央キャンプへ呼びかけた。
「聞こえる? 南東から車列が近づいてる。応援は……」
返ってくるのは、砂嵐に紛れた雑音だけだった。中央キャンプは、ここから半日以上離れた場所にある。何かあったとしても、駆けつけられる距離ではなかった。改めてその事実を突きつけられ、ニッカは無線機を握る手に力を込めた。
結局、この場所を守れるのは自分しかいない。呟くつもりのなかったその一言が、静かな格納庫の中に落ちて消えていった。彼女は無線機を元の位置へ戻すと、防衛システムの最終確認へと意識を切り替えた。太陽光パネルからの給電経路、迎撃タレットの弾薬残量、迷彩アンテナの出力波形。ひとつずつ表示を確かめるたび、指先の震えがわずかに収まっていくのが分かった。手を動かしていれば、恐怖に飲み込まれずに済む。それだけは、長年の経験がニッカに教えてくれていた。
ニッカは震える手で、外周センサーの映像をもう一度呼び出した。砂塵の帯は、先ほどよりも確実に近づいている。地平線の向こうから響いてくるエンジン音が、かすかにガレージの壁を震わせ始めていた。
「なんで……なんで、こんな……」
声が掠れた。せっかく静かに保ってきた日々が、また崩れようとしている。その予感だけが、胸の中で冷たく広がっていく。
脳裏に浮かぶのは、十八歳のあの日の光景だった。ガレージの前に立ち尽くし、闇の奥をいつまでも見つめていた自分。無線機から流れ続けていた雑音。そして、二度と戻らなかったバートの背中。あの記憶だけは、何年経っても色褪せることがなかった。
深呼吸を一つして、ニッカは制御盤の前に立ち直った。恐怖に飲まれている暇はない。誰の助けも借りずに、この場所を守り抜く。それが、バートの死から学んだ唯一の答えだった。
外周カメラの映像に、ようやく車両の輪郭が映り込み始めた。一台、二台、三台。荒れた地面を跳ねるように走る車列が、確かにこちらへ向かってきている。荷台らしき場所で、誰かが身を乗り出しているのも見て取れた。まるで、獲物に近づく肉食獣の群れのようだった。
先頭の一台が、ガレージへと続く道の入り口を示す古びた標識の脇を通り過ぎた。あの標識は、クランの人間以外にはただの錆びた鉄板にしか見えないはずだった。にもかかわらず、車列は迷う素振りも見せずに道を選び取っていく。誰かが、正確な行き先を知っている証拠だった。
ニッカの背筋を、冷たいものが伝った。行き先を知っている者に、心当たりなど一人もいない。少なくとも、これほど大人数を連れてくるような人間には。
画面に映る土煙が、次第に太く濃くなっていく。エンジン音は、もう遠雷のようにはっきりと聞き取れるほど近づいていた。ガレージの壁がかすかに震え、棚に並んだ工具が小さく音を立てる。ニッカは奥歯を噛みしめ、モニターから目を離さなかった。
ニッカは唇を引き結び、防衛システムの照準モードへ手を伸ばした。
「今度こそ、絶対に」
呟きの続きは、言葉にならなかった。
本当に撃っていいのか。頭の片隅で、もう一人の自分が問いかけてくる。相手がただの旅人だったら。道に迷った誰かに過ぎなかったら。そう考える端から、彼女は自分の甘さを振り払った。もし本当にただの旅人なら、こんな地図にない場所を、これほど躊躇なく目指してくるはずがない。
指先が、迎撃タレットの起動レバーに触れる。格納庫の奥で、機械が低く唸りながら目を覚ましていく気配が伝わってきた。長年かけて磨き上げてきたその牙が、ゆっくりと外へ向けて頭をもたげていく。
制御盤に並んだ表示灯が、赤から橙へ、そして戦闘準備を示す色へと移り変わっていく。照準補正のジャイロが回転音を上げ、弾倉に廃品から鋳造した徹甲弾が送り込まれていく感触が、床を通してかすかに伝わってきた。すべてが、彼女の指先ひとつで解き放たれる状態に整っていた。
――ナイトシティには関わらない。バッドランズのガレージで、静かに生きのびる。
十八の夏に立てた誓いが、今また胸の奥で鈍く響いた。あの誓いを守るためだけに、彼女はこの防衛システムを磨き続けてきたはずだった。招かれざる者を退けることに、迷う理由などどこにもない。そう自分に言い聞かせながらも、指先はほんのわずかに止まっていた。
もし誤解だったら。もし本当に、ただの旅人だったら。考えても仕方のない問いが、頭の隅で小さく点滅していた。それでも、ここで手を止めれば、いつか自分が代償を払うことになる。バートを失ったあの日から、ニッカはその教訓だけを胸に刻んで生きてきた。
窓の外では、砂塵を巻き上げながら、車列が確実にガレージへと近づいていた。エンジンの唸りが、乾いた大気を震わせて響いてくる。ニッカはモニターを睨みつけたまま、静かに息を止めた。
まだ相手の正体は分からない。だが、招かれざる者がこの場所に近づいているという事実だけは、疑いようがなかった。
タレットの砲身が、格納庫の暗がりからゆっくりと姿を現す。錆びついた鉄骨の隙間から、鈍く光る筒先が朝日を反射した。ガレージの敷地に踏み込む者を、一切の容赦なく撃ち抜くために作られたその砲口が、静かに車列の方角へと向けられていく。
エンジン音は、もう耳を塞ぎたくなるほどはっきりと響いていた。土煙の中に、三台の車体の輪郭がくっきりと浮かび上がってくる。荷台に乗った人影の一つが、何かを叫んでいるように腕を振り回しているのも見て取れたが、その声はまだ届かなかった。ガレージまでの距離は、あと数百メートルもないところまで迫っていた。
砂塵の向こうから迫る影に向けて、ニッカの指がレバーを引き絞ろうとした、その瞬間だった。