地下プラントの夜は、地上よりも一段深い静けさを纏っている。
剥き出しの配管を這う結露が、ぽつりぽつりと床に滴を落としていく。その規則正しい音だけが、広い空間の輪郭をかろうじて保っていた。かつて廃棄物を選別していたベルトコンベアは、今はもう動くことのない鉄の骨組みとして、隅の暗がりに沈んでいる。錆びついたクレーンアームの影が、非常灯の乏しい光を受けて壁に長く伸びていた。
移り住んでから、まだそれほど日は経っていない。それでもニッカにとって、この薄暗い地下は、荒野のガレージとはまるで違う種類の落ち着きを与えてくれていた。頭上を走る監視ドローンの羽音に怯えることもなく、砂嵐に設備を奪われる心配もない。何より、都市の胃袋そのものである廃棄物の山が、彼女にとっては尽きることのない資源庫だった。
朝は変わらず点検から始まり、昼は持ち込んだ廃材の選別に費やされる。夜になれば、ようやく自分だけの時間が訪れる。荒野の頃と手順こそ変わらなかったが、その合間に挟み込める娯楽の量だけは、比べものにならないほど増えていた。太陽光頼みだった発電とは違い、この施設には四六時中稼働する余熱発電機があるはずだった。少なくとも、今日の昼間まではそう信じて疑わなかった。
その一角に、ニッカの作業スペースはあった。
ジャンク品を寄せ集めて組んだ棚には、修理途中の基板や配線材が整然と並んでいる。壁際に据えられた小さなモニターからは、ノイズ混じりの旧い映像が流れ続けていた。荒野では望むべくもなかった娯楽が、この街に来てからは手の届く場所にある。それだけで、ニッカにとっては十分すぎる贅沢だった。
「……このシーン、何回見ても笑える」
モニターの前で膝を抱えたまま、ニッカは小さく呟いた。手元では、はんだごての先端がじりじりと熱を帯びている。片手で配線を整えながら、もう片方の意識は画面へ向いていた。
荒野の暮らしでは、こんな贅沢な二刀流は許されなかった。作業に没頭すれば娯楽は後回しになり、娯楽に浸れば作業の手は止まる。だが今は違う。安定した電源さえあれば、両方を同時に抱え込める。そのはずだった。
はんだの先端が、基板の一点に静かに触れる。焦げた匂いが、鼻先をかすかにくすぐった。修理しているのは、レベッカの予備銃に組み込む予定の照準補助回路だった。頼まれた仕事ではあったが、手を動かしながら好きな映像を眺められるこの時間が、ニッカにとっては何よりの息抜きになっていた。
同じ頃、簡易キッチンの一角では、レベッカが電子レンジの前で仁王立ちになっていた。
「早く回れよ、腹減ってんだよ」
急かす声には、いつもの威勢の良さがそのまま乗っていた。皿の上には、山盛りの合成肉が湯気を待ちわびている。回転する庫内の光を睨みつけながら、レベッカは苛立たしげに足を踏み鳴らした。
「あと何分だよ、これ」
「表示、見りゃ分かるでしょ」
通りかかったドリオが、呆れたように肩をすくめる。
「見てるから聞いてんだよ。数字が減らねえ気がすんの」
「気のせいよ」
軽くいなされたレベッカは、それでも納得のいかない顔で庫内を睨み続けていた。
少し離れた場所では、デイビッドがサンデヴィスタンの予備バッテリーを充電スタンドに繋ぎ、床に座り込んで待機していた。稼働中の表示ランプが、規則正しく明滅している。今夜のうちに満充電まで持っていきたい、と本人が漏らしていたのを、ドリオは通りすがりに耳にしていた。
その瞬間だった。
天井の照明が、ぶつりと途切れた。
モニターのノイズも、電子レンジの駆動音も、充電スタンドのランプも、すべてが同時に消え去った。地下プラント全体が、一瞬にして深い闇へ沈む。
「……は?」
ニッカの手から、はんだごてがわずかに浮いた。指先に灯っていたはずの熱源の光も、今は闇の中で見えなくなっている。
「おい、なんだこれ!」
レベッカの声が、暗がりの向こうから響いた。
「肉、あとちょっとだったのに!」
「私の作業も、途中だったんだけど」
不満げな声が、闇の中で二つ重なった。
「俺のバッテリーも、途中で止まった気がする……」
少し遅れて、デイビッドの困惑した声も加わる。三者三様の不満が、真っ暗な空間の中で行き場を失ったまま漂っていた。
「静かに」
落ち着いた声が割って入る。ファルコだった。
「慌てて動くと、何かにぶつかるぞ」
「わ、悪い」
レベッカの声が、すぐに大人しくなる。荒野育ちの経験則が、暗闇での軽率な行動を戒めていた。
ニッカは手探りで工具箱の位置を確かめ、その場から動かずに待つことにした。焦って動けば、修理中の基板を踏み潰しかねない。荒野で幾度となく叩き込まれた慎重さが、こういう時には自然と体を縛ってくれる。
しばらくして、揺れる光の輪が通路の奥から近づいてきた。
「大丈夫か、みんな」
懐中電灯を手にしたデイビッドが、慎重な足取りで姿を見せる。手にした充電スタンドを置いて、真っ先に確認に来たらしかった。
「デイビッド、こっち」
「うわ、真っ暗だな……何があったんだ」
光を向けられたレベッカが、電子レンジの前で仁王立ちのまま答えた。
「知らねえよ。突然消えた」
「俺の方も、充電中だったギアが途中で止まった」
デイビッドが背中のインプラントをさすりながら言う。予備バッテリーが、中途半端な出力のまま固まっているらしかった。
「私のも」
ニッカが暗がりの中から声を上げた。
「はんだ、途中で冷えた。もう一度やり直し」
「そりゃ災難だな」
同情するような口ぶりのデイビッドに、ニッカは小さくため息をついた。
闇の奥から、もう一つの光が近づいてきた。ライターの小さな炎を頼りに、キーウィが煙草を咥えたまま姿を見せる。
「また落ちたか」
その一言には、驚きの色が微塵もなかった。
「また、って」
ニッカが聞き返すと、キーウィは短く肩をすくめた。
「この手の設備じゃ、そう珍しい話でもない」
落ち着き払った返答に、ニッカの眉間へ皺が寄っていく。
「珍しくないって、どういうこと」
「この施設の発電、四十年前の余熱発電機を、そのまま流用してる」
キーウィが煙を吐きながら答えた。
「聞いてる。だから」
「だから、容量そのものが元々小さい。今の頭数と機材で、その細い供給を分け合ってる状態だ」
言葉の一つ一つが、ニッカの胸の奥に静かに積み重なっていった。
考えてみれば、越してきてから機材は増える一方だった。防衛用のセンサー、通信中継、義体の充電設備。どれも、以前のガレージにはなかったものばかりだ。増えた分だけ、電気を食う口も増えている。単純な理屈だった。それでも今の今まで、その単純さに気づかずにいた自分に、ニッカは小さく苦い顔をした。
揺れる光の輪の中、ようやく主電源の予備回路が入り、非常灯だけが薄暗く灯った。最低限の視界は戻ったものの、モニターや電子レンジといった主要設備はまだ沈黙したままだった。
「取り敢えず、ブレーカーの位置は」
ファルコの問いに、デイビッドが記憶を辿るように答える。
「確か、あっちの壁際だ」
一同は、薄明かりを頼りに壁際の配電盤へと向かった。錆びついた扉を開けると、古めかしいレバーが並んでいる。その一つが、力なく下がっていた。
「これか」
ニッカがレバーへ手を伸ばす。押し上げると、鈍い音とともに主要回路が息を吹き返した。天井の照明が瞬き、モニターのノイズが再び流れ始める。
「……戻った」
安堵の声が、闇の名残の中で小さく漏れた。
「よっしゃ、続き続き!」
真っ先に反応したのはレベッカだった。電子レンジへ駆け戻り、庫内の回転が再開したのを確かめて満足げに頷く。
「あと少しだったんだからな、まったく」
「肉のことしか考えてない」
呆れたように呟くニッカに、レベッカが振り返って言い返した。
「あんたこそ、アニメのことしか考えてなかっただろ」
「……否定はしない」
素直な返答に、周囲から小さな笑いが漏れた。だが、ニッカ自身の胸の中では、笑い事では済まない違和感が静かに膨らみ始めていた。
「ひとまず、根本の対策は後回しにするとして」
ドリオが両手を軽く打ち合わせ、その場をまとめるように口を開いた。
「今夜のところは、使う順番を決めましょう。電子レンジと充電と映像、全部同時には使わない。それだけでも、ましになるはずよ」
「なるほどな」
メインが頷き、簡単な取り決めがその場で組まれた。電子レンジを使う間は、他の大きな機材の電源を落とす。充電は一人ずつ、順番に。映像を見るなら、他の作業と時間をずらす。単純だが、筋の通った提案だった。
「よし、これで解決だな」
デイビッドがほっとしたように呟く。だが、その安心はさほど長くは続かなかった。
試しに、とレベッカが再び電子レンジのスイッチへ手をかけた。
「よし、あたしの番からだな」
「ちゃんと、他の電源落としてから」
「分かってるって」
軽い調子で答えたレベッカが庫内を回し始めた、ちょうどその時だった。奥の充電スタンドの前で、デイビッドがうっかり声を上げた。
「あ、俺のギア、まだ繋いだままだった」
「デイビッド!」
ニッカが叫ぶのとほぼ同時に、ルーシーも端末を握ったまま作業を続けていた。
「回線の監視、途中で切るわけには」
三つの負荷が、示し合わせたわけでもなく偶然に重なった。配電盤の奥で甲高いブザーが鳴り響いたかと思うと、パンという乾いた破裂音とともに火花が散り、焦げた匂いが一気に広がった。天井の照明が、再び深い闇へ沈む。
「今の、火花――」
声を上げかけたニッカを、キーウィの短い一言が制した。
「離れてろ。下手に触るな」
焦げた匂いが、闇の中でいっそう濃くなっていく。しばらくの沈黙の後、暗闇の中でレベッカの小さな舌打ちだけが響いた。
「あたしの肉、また……」
「決めたそばから、これだもんな」
ファルコは苦笑を滲ませながら、再び壁際のレバーへ向かって歩き出した。取り決めなど、人間の善意だけではものの数分と持たなかった。荒野育ちの人間にとって、規則を作ること自体は容易い。だが、その規則を全員が同時に守り続けるとなると、話は別だった。
配電盤の前に着いたファルコが、懐中電灯の光を近づけて眉をひそめた。
「……焦げてるな、ここ」
駆け寄ったニッカが覗き込むと、目当てのレバーの周囲がうっすらと黒ずみ、樹脂の焼けた臭いが鼻を刺した。押し上げようとしても、根元が熱で歪んだまま、びくともしない。
「……壊れてる」
舌打ち一つで工具箱を引き寄せると、ニッカは焼け付いた接点を削り落とし、仮の配線を直に繋ぎ直した。応急も応急、いつまで保つか分からない繋ぎ方だったが、それでもようやく、天井の照明がぼんやりと灯りを取り戻した。
「……これ、根本的に無理があるでしょ」
黒く煤けたレバーの前で、ニッカが低く呟いた。
「使う順番を決めたところで、うっかりが一つでも重なれば同じことの繰り返し」
「だな」
ファルコが同意する。
「人間の注意力に頼る対策は、長続きしねえ。特に、こういう頭数の多い場所じゃな」
「なら、余計に元から直すしかない」
ニッカの声には、諦めにも似た確信が滲んでいた。応急のやりくりで乗り切れる規模の問題ではない。そのことが、今の失敗一つで、いっそう鮮明になった気がした。人の注意力に頼る仕組みは、結局のところ、一番脆い部分から崩れていく。
「動くなら、今のうちにしとけ」
キーウィが煙草を新しくくわえながら言葉を継いだ。
「レジーナの一件で、あんたの名前は少しずつ知れ渡り始めてる。目立つ動きは、早い方がまだ紛れる」
「紛れる、って」
「注目が集まりきる前の方が、まだ動きやすいって話だ」
淡々とした忠告に、ニッカは小さく頷いた。厄介事を先延ばしにするたびに、その厄介事は決まって芽を伸ばす。荒野で学んだ教訓の一つだった。
修理途中の基板を見下ろしながら、ニッカは指先で軽く配線をなぞった。熱を失ったはんだの先端が、まだかすかに温もりを残している。あと数秒接続が保たれていれば、作業は完了していたはずだった。その数秒を、細すぎる回線が容赦なく奪っていった。
「……これ、頻度どのくらい」
問いかけると、キーウィは灰を指先で払いながら答えた。
「週に、二度か三度ってところだ」
「そんなに?」
「機材が増えるたびに、落ちる回数も増えてる。あんたのクラフトも、その一因だがな」
皮肉めいた指摘に、ニッカは口をつぐんだ。反論できる材料が、思い当たらなかった。
物音を聞きつけたのか、通路の奥からルーシーが姿を見せた。手にした端末の画面には、複数の警告表示が並んでいる。
「通信の中継が、一瞬途切れた」
抑揚のない声で報告するルーシーに、ニッカは眉をひそめた。
「そっちも?」
「電力が落ちた瞬間、外部との接続も一緒に切れてた。もし今が警戒中だったら、外の様子が数秒間、完全に見えなくなってたことになる」
その一言に、ファルコの表情がわずかに険しくなった。
「洒落にならねえな」
「洒落にならない」
ルーシーが静かに繰り返す。感情の起伏こそ薄いものの、その指摘の重みは誰の耳にも十分に届いていた。
ようやく集まった一同の顔を、非常灯の薄明かりが照らし出していた。メインが腕を組んだまま、低く口を開く。
「原因は分かってる。容量不足、それだけだ」
「なら、対策も考えなきゃな」
ファルコが帽子のつばへ手をかけながら続けた。
「今のままじゃ、いずれもっと深刻な場面で落ちる。防衛システムの最中に落ちたら、洒落にならねえ」
その一言に、場の空気がわずかに引き締まった。荒野で幾度も命の危機を潜り抜けてきた者たちにとって、電力の途絶は単なる不便では済まされない話だった。
「あたしは、飯さえ温められりゃそれでいい」
レベッカが、皿を抱えたまま呑気に言う。
「あんた、話聞いてた?」
「聞いてたよ。でも一番困るのは、飯が冷めることだろ」
「違う」
即座に否定するニッカに、レベッカは不満げに口を尖らせた。
「じゃあ、何が一番困るんだよ」
「……娯楽が、途切れること」
やや間を置いて答えた声に、ドリオがくすりと笑いを漏らした。
「結局、あんたも似たようなものね」
「違う。私のは、生活の質に関わる問題」
「その理屈、あたしの飯にも通用すると思うけどな」
軽口の応酬に、場の空気がまた少しだけ緩んだ。
「くだらねえ言い合いはそこまでにしろ」
メインの声が、二人のやり取りを遮った。
「問題は、今の供給じゃこの先やっていけないってことだ。増設するにしろ、何にしろ、手を打つ必要がある」
「増設って言っても」
デイビッドが困ったように口を挟む。
「余熱発電機自体が、もう四十年選手なんだろ。今さら性能を底上げできるのか」
全員の視線が、自然とニッカへ集まった。
「……できなくは、ない」
しばらく黙り込んでいたニッカが、ぽつりと呟いた。
「発電機自体の整備なら、明日の朝からでもやれる。錆びた配管を磨いて、劣化した巻き線を巻き直すだけでも、多少の底上げにはなるはず」
「なら、それでいいんじゃねえか」
レベッカが即座に言うと、ニッカは首を横に振った。
「それだけじゃ足りない。この発電機自体には、元々の限界がある。いくら磨いても、そもそもの元手が足りないと、頭打ちになる」
「つまり」
「外から、引っ張ってくるしかない」
言葉の意味を察したのか、キーウィが煙草の先を軽く揺らした。
「街の送電網から、直接か」
「うん」
「アラサカかミリテクの管理下だ。下手に触れば、痕跡が残る」
キーウィの声には、静かな警告が滲んでいた。
「痕跡が残らないように、間に何か噛ませればいい」
ニッカの声には、すでに考えの片鱗が見え始めていた。
「フィルターを通せば、検知網には引っかからないはず。理屈は、頭の中にある」
「理屈があるのは分かった。だが、材料は」
ファルコの問いに、ニッカは棚の隅を一瞥した。
「今ここにあるもんじゃ、足りない。高出力に耐えるケーブルと、変圧用の部品が要る」
「なら、調達しに行くしかねえな」
ファルコの言葉に、デイビッドが小さく身を乗り出した。
「カブキの闇市なら、そういう部品も出回ってるんじゃないか」
「多分」
短く頷くニッカの脳裏に、露店街の喧騒がふと浮かんだ。米や出汁とは違う種類の買い出しになりそうだったが、行き先の見当だけはついている。
「地下インフラ層に近い区画なら、俺も大体の道筋は頭に入ってる」
ファルコが帽子のつばに指をかけながら付け加えた。
「以前、逃げ道を確保するために調べ回った時のついでだ。送電線が集まる一帯の見取り図も、多少は覚えてる」
「頼りになる」
ニッカが素直に呟くと、ファルコは軽く肩をすくめた。
「役に立つ時が来ると思ってなかったがな」
「決まりだな」
メインが低く言い切った。
「カブキで部品を集めて、この施設の電力を根本から立て直す。ついでに、通信回線も強化できるなら、しておいた方がいい」
「そこまでやんの?」
レベッカが目を丸くする。
「どうせ手間をかけるなら、まとめてやった方が早い」
メインの言葉に、キーウィが煙を吐きながら小さく頷いた。
「一理あるな。細切れに対処するより、根こそぎ片付ける方が、結局は手間が省ける」
「私は、別にそこまで大掛かりにするつもりは」
ニッカが言いかけると、レベッカが横から食い気味に割り込んだ。
「爆速の回線があれば、あんたの見てる映像も、途切れずに見られるんだろ」
「……それは、そう」
「なら文句ねえじゃねえか! さっさと行くぞ!」
あっさりと押し切られる形になり、ニッカは小さく息を吐いた。反論の材料が、また一つ見当たらなくなっていた。
「回線の方も、ついでに見てもらえる?」
ルーシーが端末の画面をニッカへ向けながら尋ねた。表示された数値の羅列は、今の通信速度と遅延を示しているらしかった。
「今の帯域、これだけ?」
覗き込んだニッカが、思わず眉を寄せる。
「街の平均以下。企業エリアの十分の一にも届かない」
「そりゃ、ひどいな」
「深い階層の監視には、正直心許ない。もっと太い回線が引ければ、私の負担も減る」
珍しく本音めいた一言に、ニッカは目元を緩めて頷いた。
「軍用並みの回線なら、心当たりがなくもない」
「心当たり、って」
「詳しくは、また今度」
含みのある返事に、ルーシーはそれ以上追及せず、静かに端末を仕舞った。だがその目の奥には、微かな期待が滲んでいるように見えた。
「深層に潜る時、途中で回線が細ると、戻ってこられなくなることがある」
付け加えられた一言に、場の空気がわずかに静まった。ルーシー自身の過去を知る者にとって、それは軽く聞き流せる話ではなかった。
「太くする。約束はできないけど、できる限りは」
ニッカが短く答えると、ルーシーはただ小さく頷いた。それ以上の言葉は、必要なかった。
「冷静に考えてみりゃ、あんたの部屋が真っ先に喜ぶ話だもんな」
資材運搬から戻ったばかりのピラルが、荷物を担いだまま横から口を挟んだ。
「言い方」
「事実だろうが。娯楽と工作、両方守れるってんなら、あんたが一番乗り気になるべき話だぜ」
図星を突かれたニッカは、何も言い返せずに黙り込んだ。
「にしても、また盗みに行くのか。デラマンの次は、電気泥棒とはな」
からかうようなピラルの一言に、ニッカは思わず顔をしかめた。
「盗むって言い方、やめて」
「実際、そうだろうが」
「……間借りって言って」
苦しい言い訳に、ドリオが小さく吹き出した。
薄暗い非常灯の下、一同の視線は自然と壁際の配電盤へ向いていた。錆びついたレバーの並びが、これから解体されようとしている古い秩序の象徴のように見える。
「明日、動くか」
ファルコの問いに、メインが頷いた。
「早いに越したことはねえ。また今夜みたいに落ちたら、たまったもんじゃない」
その一言に、レベッカが真っ先に反応した。
「あたしの飯のためにも、頼むぜ」
「あんたの飯だけじゃない」
呆れ気味に返すニッカの声にも、どこか安堵の色が混じっていた。少なくとも、この不便な暗闇が、明日には解消へ向けて動き出す。それだけは確かだった。
「行く前に、一応現物を見ておきたい」
ニッカがそう言うと、キーウィが煙草を灰皿に押しつけながら先導した。通路の奥、鈍い唸りを上げ続ける一室へと案内される。分厚い鉄扉を開けた先には、四十年前の設計だという巨大な発電機が、今もなお低い駆動音を響かせていた。
「……思ったより、原形留めてる」
覗き込んだニッカが、感心とも呆れともつかない声を漏らした。錆と埃に覆われた筐体の隙間から、規則正しい振動が伝わってくる。年季の入った巻き線には劣化の跡が目立つが、致命的な損傷までは見当たらない。
「よく今まで持ったな、これ」
デイビッドが恐る恐る筐体に触れると、キーウィが煙を吐きながら答えた。
「持たせてきたのは、前にここを使ってた連中の技術屋だろうな。もういないがな」
「その人の仕事、悪くない」
ニッカが配管の継ぎ目を指先でなぞりながら呟く。荒っぽい補修の跡が、あちこちに残っていた。同業者の仕事ぶりを見て取ったのか、その口ぶりにはかすかな敬意が滲んでいた。
「巻き線、あとで巻き直す。効率だけなら、多少は上げられる」
興味本位でついてきたレベッカが、筐体を軽く叩きながら口を挟んだ。
「なあ、これ殴ったら早く直ったりしねえの」
「しない。むしろ壊れる」
「試す前に言ってくれよ」
ばつが悪そうに手を引っ込めるレベッカに、ニッカは呆れた視線を向けた。叩けば直るという発想は、荒野でも時々見かけた乱暴な理屈だった。銃なら殴って直ることもあるのかもしれないが、精密機器にその理屈は通用しない。
「多少、ってどれくらいだ」
メインの問いに、ニッカは腕を組んで少し考えた。
「一割か二割、良くて。それ以上は、この筐体のサイズじゃ物理的に無理」
「やっぱり、外から引くしかねえってことか」
「うん」
短い頷きに、一同は顔を見合わせた。老いた発電機の唸りを聞きながら、誰もがその限界を、今あらためて肌で理解していた。
「警護は、いつも通りでいいか」
ファルコがニッカへ向けて尋ねると、ニッカは少し考えてから頷いた。
「多分、大掛かりな買い出しになる。人手は、あった方がいい」
「なら、俺とデイビッドで行こう」
ルーシーも、静かに手を挙げた。
「回線の話が絡むなら、私も同行する。設備の選定くらいは手伝える」
その申し出に、ニッカは軽く頷いた。頼れる人手が増えるのは、素直にありがたかった。
その夜、ニッカは修理途中の基板を棚へ戻しながら、モニターの電源を落とした。娯楽も工作も、今夜はここで打ち止めだった。
薄暗い天井を見上げながら、ニッカは小さく息をつく。荒野の暮らしでは、電気の心配など考えたこともなかった。あの頃は、太陽さえ出ていれば十分だった。この街に来てからというもの、当たり前だと思っていたものの多くが、実は当たり前ではないのだと気づかされる場面が増えている。
電力も、通信も、この街では誰かが独占し、誰かがその余りを奪い合っている。荒野の広い空の下では感じたことのない種類の窮屈さだった。豊かな街のはずなのに、なぜかその豊かさの分け前は、いつまで経ってもこちらまで回ってこない。皮肉な話だった。
棚の隅に転がる、バートの遺した錆びた鶏の置物へ、ニッカはふと目をやった。
「……また、面倒事が増えた」
誰にともなく呟いた声が、静かな作業場に小さく吸い込まれていく。だが不思議と、その声に苛立ちの色は薄かった。むしろ、次にどんな部品が手に入るのか、頭の片隅ではすでに算段が始まっている。
娯楽のためか、生活のためか、それとも単なる技術者の性なのか。自分でもよく分からないまま、ニッカは非常灯の下で静かに明かりを落とした。
カブキの闇市には、明日また足を運ぶことになる。今度は米や出汁ではなく、電線と変圧器を求めて。荒野育ちのメカニックにとって、それもまた、悪くない買い出しの理由だった。
どうせ買い出しに行くなら、ついでに屋台の串も覗いてみようか。そんな考えが頭の片隅をよぎった瞬間、ニッカは自分の思考の呑気さに、思わず小さく笑ってしまった。
目を閉じる直前、ニッカの耳に、遠くの配管を伝う水滴の音がまた一つ届いた。規則正しいその響きだけは、電気の有無に関わらず、変わらずそこに在り続けている。頼りない発電機とは違う、この地下プラントそのものの鼓動のようにも思えた。
通りかかったドリオが、作業場の入り口でふと足を止めた。
「まだ起きてたの」
「今、寝るところ」
「明日、また出かけるんでしょう。無理はしないで」
「別に、買い出しに行くだけ」
軽く答えるニッカに、ドリオは小さく苦笑した。
「その買い出しのたびに、毎回何かしら騒ぎになってる気がするけど」
「……否定は、できない」
肩をすくめるニッカに、ドリオは何も言わず、ただ髪を軽く撫でて離れていった。誰かにこうして触れられることに、ニッカはいまだに慣れていなかった。それでも、拒む気にはならなかった。
誓いを立てたあの十八の夏、ニッカが望んでいたのは、誰にも煩わされない静かな暮らしだった。だが今の暮らしは、静かどころか、日を追うごとに賑やかさを増している。電気が落ちれば大の大人が右往左往し、飯の順番一つで軽口が飛び交う。荒野の孤独な作業場では、決して味わえなかった種類の煩わしさだった。
それでも、不思議と嫌ではなかった。むしろ、この騒がしさに慣れ始めている自分に、ニッカ自身が一番戸惑っていた。
バートがこの場にいたら、何と言っただろうか。荒野の流儀を叩き込んだ張本人は、きっと呆れながらも、口の端だけは笑っていたはずだった。厄介事は自分で蒔いて、自分で刈り取る。それが結局、あの人からもらった一番の教えだったのかもしれない。
明日からは、また少しだけ騒がしくなる。分かっていながらも、ニッカの口元には、隠しきれない小さな笑みが浮かんでいた。