足音は、止まらなかった。
一定の間隔を刻みながら、暗がりの奥から少しずつ近づいてくる。ニッカは工具ベルトの上で指先を握りしめたまま、息を殺して闇を見つめ続けた。荒野で染みついた警戒の型が、体の芯を静かに強張らせている。
規則正しい響きは、やがて金属同士がこすれるような軋みへと変わった。人の歩幅にしては、どこか不自然に硬い。一歩ごとに微妙な間があり、間隔そのものはやけに正確だった。
「……人の足音じゃない、かも」
小声で呟いたニッカに、ルーシーが端末の光量をさらに絞りながら頷いた。
「同感。歩調が、機械的すぎる」
張り詰めた沈黙の中、水滴が配管を伝う音だけが、変わらぬ調子で通路の奥へ反響していく。荒野の砂嵐とはまるで違う種類の静けさが、三人の肌にじわりと絡みついていた。
「機械的って、警備ドローンとかか」
デイビッドが荷袋の位置を直しながら、押し殺した声で尋ねる。
「その可能性も、否定はしない」
ルーシーの答えに、緊張が三人の間で改めて張り詰めた。ケーブルの束に身を寄せ合いながら、暗がりの奥からゆっくりと浮かび上がってくる輪郭を見守る。軋みは近づくたびに大きくなり、時折、何かにぶつかるような鈍い音を伴っていた。
ここは企業の管理区域だと、ニッカは改めて胸の内で繰り返した。荒野の廃車置き場で相手にしてきたのは、せいぜい野良の獣か、たまに迷い込むスカベンジャーくらいのものだった。アラサカかミリテクの息がかかった場所で息を潜めるという経験は、ここに来てまだ日が浅い。慣れない緊張が、指先の震えとなって滲み出ていた。
息を潜めたまま、どれほどの時間が過ぎただろうか。体感では長かったが、実際にはほんの数十秒だったのかもしれない。ニッカの頭の中では、最悪の想定がいくつも駆け巡っていた。武装した企業の私兵。追跡型の警備サイバーウェア。あるいは、もっと得体の知れない何か。
闇の中から現れたのは、片方の車輪が半分潰れた清掃用の保守ロボットだった。錆びついた腕を左右に力なく振りながら、決まった軌道をなぞるように壁際を進んでいる。潰れた車輪のせいで一歩ごとに体全体が右へ傾き、そのたびに壁へ軽く肩をぶつけていた。
「……あれ」
デイビッドが呆けたような声を漏らす。
「これのことだったのか、俺たちが怯えてたの」
ロボットは三人の存在にまるで気づく様子もなく、壁に肩をぶつけては軌道を修正し、また同じ動作を繰り返しながら、ゆっくりと通路の奥へ消えていった。規則正しい足音の正体は、四十年分の摩耗が生んだ、ただの故障だったらしい。
「拍子抜け」
ニッカが小さく息を吐き出すと、ルーシーも珍しく肩の力を抜いた。
「悪いけど、少し安心した」
「私も」
二人のやり取りに、デイビッドが乾いた笑いを漏らす。
「あんな薄暗い中で息潜めてたの、俺たちだけだったってことだよな」
「馬鹿にされてる気がする」
ニッカが眉を寄せると、デイビッドは慌てて首を振った。
「してねえよ。ただ、締まらない終わり方だなって」
「締まらなくていい。命拾いした方が、締まった終わり方より百倍いい」
あっさりと言い切るニッカに、デイビッドは反論せず、荷袋を担ぎ直した。緊張が抜けた分だけ、足取りが少し軽くなっている。
「あのロボット、型式は?」
興味本位で尋ねるデイビッドに、ニッカは去っていく背中を目で追いながら答えた。
「多分、旧式の清掃兼保守ユニット。今どき見かけない骨組み」
「詳しいな」
「荒野で、似たような骨組みの機体を何度も解体してきたから」
さらりと零れた一言に、デイビッドは追及せず、曖昧に頷くだけにとどめた。この手の発言に、いちいち驚かなくなったのはいつからだろうかと、彼自身どこかで自覚していた。
張り詰めていた空気が緩んだのも束の間、ルーシーが端末の画面を三人の間へ差し出した。
「本題に戻るわよ」
「うん」
表示された簡易図の中、点滅する印が示す先へ向けて、三人は再び歩き出した。太いケーブルの束が幾筋も天井から垂れ下がり、行く手を塞ぐように絡み合っている。潜り抜けるたびに、着ている作業服の肩がわずかに擦れた。
「地図だと、あと少しって話だったけど」
「実際の距離は、もう少しかかりそう」
ルーシーの端末には、緑色の光点が示すルートと、実際の通路の形が、微妙にずれて表示されていた。企業側の古い図面と現地の実態が、四十年の間にゆっくりと食い違っていったらしい。
「地図と現物が違うのは、荒野でもよくあった話」
ニッカが呟くと、デイビッドが苦笑した。
「こういうところは、街も荒野も変わらないんだな」
途中、似たような端子盤がいくつも目に留まったが、そのたびにニッカの首は横に振られた。
「これは?」
最初に見つけた端子盤を指し示すデイビッドに、ニッカは覗き込んですぐに首を振った。
「規格が古すぎる。多分、もうとっくに使われてない配線」
「じゃあ、こっちは」
二つ目の端子盤の前で尋ねられ、ニッカはしばらく黙り込んでから答えた。
「これは……多分、生きてる。けど幹線じゃなくて支線。容量が全然足りない」
「見分け、つくもんなんだな」
「刻印の桁数と、皮膜の太さで、だいたい分かる」
あっさりと説明するニッカに、デイビッドは半分も理解できないまま、それでも感心したように頷いた。三つ目も、四つ目も同じように却下され、ようやくルーシーの端末が示す点滅の真下で、ニッカの足が止まった。
目当ての場所は、壁一面に端子盤が並ぶ一角だった。表示板には色褪せた警告シールが貼られ、企業名の刻印だけがかろうじて読み取れる。
「これが、幹線」
ニッカは端子盤の前にしゃがみ込み、内部を覗き込んだ。太い幹線ケーブルが数本、束になって奥の暗がりへ続いている。指先で表面をなぞると、皮膜越しにわずかな振動が伝わってきた。休みなく電気が流れ続けている証だった。
「触る前に、聞いておきたい」
黙って様子を見ていたルーシーが、静かに口を開いた。
「間違えたら、どうなる」
「最悪、警報」
ニッカは端子盤の奥を見つめたまま、淡々と答えた。
「もっと最悪なら、逆流でこっちの機材が焼ける」
「穏やかじゃないわね」
「だから、間違えないようにする」
言葉とは裏腹に、その声にはいつもの飄々とした軽さが滲んでいた。ルーシーはそれ以上追及せず、周囲の警戒に意識を戻した。
荷袋から取り出されたのは、闇市で仕入れたばかりの高出力ケーブルと、ニッカが拠点で組み上げてきた小さな箱状の装置だった。古い変圧器の芯に、廃棄基板から剥ぎ取ったコイルを幾重にも巻きつけ、その上から焼け焦げた電子レンジの遮蔽板を継ぎ接ぎにして覆っている。
「それが、フィルター?」
デイビッドが覗き込むと、ニッカは装置の重さを確かめるように軽く持ち上げた。
「うん。電流の波形を、向こうの監視網が普段の消費と勘違いする形に均す」
「言葉にすると簡単そうだけど」
「簡単じゃないから、昨日の夜から頭の中で何度も組み直してた」
事もなげに答えるニッカに、デイビッドは短く息を吐いた。荷袋の重さに文句を言っていた自分が、少しだけ間抜けに思えてくる。
実際のところ、事件のあった晩からずっと、ニッカはこの装置に齧りついていた。会議が終わり、皆が寝静まった後も、頭の中の設計図だけはどうしても手放せなかった。棚に転がっていた古い変圧器と、廃棄基板から剥ぎ取ったコイルを引っ張り出し、部品同士の相性を何度も確かめ続けていた。物音を聞きつけて様子を見に来た誰かに「まだ寝ないのかよ」と呆れられながらも、手だけは止めなかった。荒野にいた頃から変わらない、部品を組み上げる時間だけは誰にも邪魔されたくないという頑固さが、そのまま今の装置に形を変えていた。
「一晩で、よくこんなもの組めたな」
「寝る間、削っただけ」
「それ、全然褒めてない自慢だからな」
からかうようなデイビッドの一言に、ニッカは涼しい顔で肩をすくめただけだった。
「これ一個で、全部賄えるのか」
「賄えるようにする。足りなければ、あとで二個目を作る」
「二個目もあるのか」
「必要になったら、作るって話」
端子盤の内部で、ニッカの指先が慎重に動き始めた。幹線から分岐させる位置を選び、絶縁シートを間に挟みながら、細い接続端子を一つずつ這わせていく。焦って手を動かせば、指先が本線に触れかねない。荒野の廃車修理で染みついた慎重さが、今この瞬間、そのまま生きていた。
「……もう少し」
呟きながら、ニッカは装置の端子を幹線の被膜へゆっくりと押し当てた。かすかな火花が散り、装置の表示灯が控えめに点る。
「繋がった」
短い報告に、ルーシーが端末の画面を確認した。
「監視側の数値、変化なし」
「よし」
安堵の息が、三人の間で静かに重なった。だが、その安堵は長くは続かなかった。
装置の表示灯が、不意にひとつだけ赤く点滅した。
「……あ」
ニッカの喉から、小さな声が漏れる。
「あって、何」
デイビッドが即座に反応すると、ニッカは装置を覗き込みながら早口になった。
「フィルターの均し方が、ほんの少しだけ甘い。このままだと、数十秒後に監視網が拾う」
「直せるのか」
「直す。だから静かにして」
言うが早いか、ニッカは装置の側面を開け、細い配線を数本引き出した。指先が小刻みに震えながらも、迷いのない動きで配線を組み替えていく。額に浮いた汗が、薄暗い光の中でわずかに光った。
「あと、五秒」
ルーシーが端末を見ながら、抑えた声で数える。
「四、三……」
「うるさい、数えないで」
「二」
「わかったから、数えるな……!」
悲鳴じみた声とともに、ニッカは最後の配線を差し込んだ。赤い点滅が消え、緑色の光へと切り替わる。
「……間に合った」
安堵の吐息が、通路の湿った空気に溶けていった。デイビッドが詰めていた息を、大きく吐き出す。
「心臓に悪いな、これ」
「ーー文句なら、後で聞く。今は、続き」
にべもない返答に、デイビッドは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「にしても、五秒でよく直せたな」
「昨日の夜、頭の中で何十回もやり直した作業。指が、勝手に覚えてた」
事も無げに答えるニッカだったが、その手のひらには、まだ細かな震えが残っていた。荒野で鍛えた度胸と、街の企業設備を相手にする緊張とは、根本的に質が違うらしい。
電力側の接続が安定したのを確かめてから、ニッカは隣の端子盤へ視線を移した。データ回線を束ねた別の一角に、ルーシーがすでに端末を接続し始めている。
「回線の方は、私がやる」
「頼りにしてる」
短いやり取りとともに、ルーシーの指先が滑らかに端末を操作していく。画面には、複雑な数値の列が次々と流れていった。
「軍用並みの帯域を、丸ごと分けてもらうつもり?」
「全部じゃない。気づかれない程度に、細く長く」
ルーシーの言葉に、ニッカは小さく頷いた。
「太くしすぎたら、向こうも気づく。加減が大事」
「あんたが言うと、説得力あるわね」
からかうような一言に、ニッカは肩をすくめただけで応じた。
「深く潜る時、途中で回線が細ると困るって、前に言ってたけど」
「言った」
「今回の分で、足りそう?」
ニッカの問いに、ルーシーは画面を見つめたまま、少しだけ間を置いた。
「多分。前よりは、ずっと戻りやすくなる」
いつもより短い返事の中に、微かな安堵が滲んでいるのを、ニッカは聞き逃さなかった。神経に潜んだままの追跡プログラムは、まだ完全には取り除けていない。発症の条件こそ物理的な遮蔽で抑え込めているものの、深い階層へ潜る作業そのものは、依然として危うい綱渡りのままだった。回線が太くなることは、その綱をほんの少しだけ太くすることに繋がるはずだった。
太くする。約束はできないけど、できる限り。
以前、拠点で交わしたのと同じ言葉を、ニッカはもう一度胸の中で繰り返した。今度は口には出さず、ただ指先の作業に、その分だけ丁寧さを加えるだけにとどめておいた。
接続作業が佳境に入った頃、通路の奥から再び軋む音が近づいてきた。三人が同時に身構える。
「……また、あいつか」
デイビッドが緊張した声で呟くと、ニッカが端子盤から顔を上げ、暗がりへ視線を向けた。軋みの調子は、先ほどの保守ロボットと同じだった。
「多分、さっきの奴。決まった巡回コースを、ぐるぐる回ってるだけだと思う」
「思う、って。確信は」
「ない。でも、あの潰れた車輪の音、間違えようがない」
あっさりと言い切るニッカに、デイビッドは半信半疑の顔を浮かべた。数秒後、暗がりから同じ傾いた輪郭が姿を見せ、変わらぬ調子で壁に肩をぶつけながら通り過ぎていく。
「……ほんとに、同じ奴だ」
「言ったでしょ」
得意げなニッカの声に、ルーシーが端末から目を離さないまま付け加えた。
「二度目は、驚かなかったわね」
「一度で学習するタイプなの」
軽口を挟みながらも、作業の手だけは止まらなかった。しばらくして三度目の軋みが遠くから響いた時には、デイビッドまでもが平然とした顔で「またあいつか」と呟くようになっていた。
だが、その三度目の巡回で、ロボットは通路の隅に垂れ下がっていた古い配線の端に、傾いた車輪をそのまま絡め取られてしまった。軋みが甲高い唸りに変わり、その場でくるくると無意味に回転を続ける。
「……止まった」
デイビッドが眉をひそめると、ニッカの視線が思わずそちらへ吸い寄せられた。壊れながらも役目を果たそうとする機体が、今度は完全に立ち往生している。指先が、勝手に動きたがっているのが自分でも分かった。
「まさか、助けに行く気?」
ルーシーの声に、ニッカは動きかけた足を止めた。
「……行かない。行かないけど」
「けど?」
「絡まってる配線、こっちからでも外せそうな位置」
言うが早いか、ニッカは屈んだまま手を伸ばし、通路の際まで垂れていた配線の端を軽く引いた。緩んだ配線がするりと車輪から抜け落ち、ロボットは何事もなかったかのように、また同じ軌道を辿り始める。
「……直った、というか、外れただけ」
「わざわざやることか、それ」
呆れたようなデイビッドの一言に、ニッカは視線を逸らしながら小さく答えた。
「壊れた機械を放っておくの、性分に合わない」
その一言に、ルーシーが小さく息を吐いた。咎めるようでいて、どこか納得したような響きだった。
だが、四度目に響いた音は、これまでとは明らかに違っていた。車輪の軋みではなく、規則正しい駆動音とともに、赤い光の筋が壁を横切っていく。
「……止まって」
押し殺した声で告げたのはルーシーだった。三人は同時に動きを止め、ケーブルの束の陰へ体を沈めた。
「あれ、さっきのと違う」
デイビッドが小声で呟く。ニッカも同じことに気づいていた。壊れた車輪特有の軋みも、傾いた歩幅もない。滑るように移動する光の筋は、明らかに別の機体のものだった。
「警備の巡回ドローン」
ルーシーが端末の画面を確かめながら、抑えた声で告げた。
「表向きは、廃止された保守区画のはずなのに」
「廃止されてても、見回りだけは続けてる、ってことか」
「多分」
短いやり取りの間にも、赤い光は壁をなぞりながら、ゆっくりと近づいてくる。ニッカは接続したばかりの装置へ手を伸ばしかけ、すぐに止めた。今動けば、光の筋がこちらを捉えかねない。
息を殺したまま、三人は光の軌跡を見つめ続けた。荒野で伏せて敵の哨戒をやり過ごした夜と、似た緊張が体の奥に蘇る。長くはない数十秒が、ひどく引き伸ばされて感じられた。
やがて光の筋は、ケーブルの束のわずか手前で軌道を変え、別の通路へと逸れていった。駆動音が徐々に遠ざかり、やがて完全に静寂が戻る。
「……行った」
デイビッドが詰めていた息を、大きく吐き出した。
「今の、洒落にならなかったな」
「洒落にならない」
ルーシーが端末を仕舞いながら、静かに繰り返した。以前も同じ言葉を口にしていたことを、ニッカはふと思い出す。
「さっきの奴と、間違えなくてよかった」
ニッカが小声で漏らすと、デイビッドが乾いた笑いを浮かべた。
「油断してたら、危なかったかもな」
「油断はしてない。ただの慣れが、ちょっと怖い」
自戒を込めた呟きに、ルーシーが小さく頷いた。息を整えるように一拍置いてから、三人は残りの作業に向き直った。
やがて、装置の表示灯がすべて緑色に落ち着いた。ニッカは額の汗を拭い、端子盤の内部をもう一度覗き込む。
「これで、電力も回線も、繋がった」
「本当に、気づかれてない?」
デイビッドの問いに、ルーシーが端末を差し出しながら答えた。
「向こう側の数値、平常運転の範囲内。少なくとも、今のところは」
「今のところ、ってのが不安になる言い方だけどな」
「不安がってても、数値は変わらないわ」
冷静な返しに、デイビッドは口をつぐんだ。
端子盤の蓋を元通りに閉じながら、ニッカは配線の隙間に薄い金属板を差し込み、痕跡を隠すように整えていく。もとの錆びついた見た目に馴染ませるため、あえて汚れを擦りつける手間まで惜しまなかった。
「そこまでするのか」
「見つかったら、全部無駄になる」
淡々と答えるニッカの横で、デイビッドが感心したように息を吐いた。荒野の廃車修理とは、まるで違う種類の丁寧さだった。
「これで、拠点の明かりは戻る?」
「戻るはず。あとは、実際に流れてくるのを見るまで、分からないけど」
慎重な物言いに、ルーシーは端末を握ったまま短く応じた。
「試しに、拠点へ連絡してみる」
言うが早いか、ルーシーは端末を操作し、短い通信を送った。しばらくの沈黙の後、返答が画面に浮かぶ。
『……お、おい、今、いきなり明かりが眩しくなったんだけど!』
文面には、レベッカらしい荒っぽさがそのまま滲んでいた。
『電子レンジも、フルパワーで回ってる! 肉が一瞬で焦げそうだ!』
『出力、絞って』
ニッカが横から素早く打ち込むと、少し間を置いて返答が届いた。
『了解。……にしても、すげえな、これ』
その一文に、ニッカは小さく安堵の息を漏らした。
『肉、無事だった?』
横からルーシーが問いを差し込むと、少し間を置いて返答が届いた。
『半分は消し炭になった。残り半分は、なんとか』
『それは、ご愁傷様』
『他人事かよ!てめえらのせいだろうが!』
文面越しにも、レベッカの憤りがそのまま伝わってくるようだった。デイビッドが画面を覗き込み、堪えきれずに小さく噴き出す。
「消し炭になった肉のことまで、しっかり報告してくるあたり、レベッカらしいな」
「うん」
短く同意しながらも、ニッカの口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。地下の緊張続きの後だけに、いつもの騒がしいやり取りが、妙に懐かしく感じられる。
「戻った、みたい」
「よかったな」
デイビッドがほっとしたように呟くと、ルーシーの端末に、もう一件の通信が続けて届いた。
『出力の調整、うまくいってるようだな』
簡潔な文面には、キーウィらしい素っ気なさが滲んでいる。
『帰りは、気をつけて戻れ』
『うん』
短く返信を打ち込みながら、ニッカは端子盤の蓋をもう一度確かめた。地上のどこかで、レベッカが暴走気味の電子レンジと格闘している様子が、なんとなく目に浮かぶ。
「勘弁して」
思わず漏れたニッカの本音に、デイビッドが小さく噴き出した。緊張が解けた分だけ、狭い通路の空気がわずかに軽くなっている。
荷物をまとめ終えた三人は、来た通路を引き返し始めた。頭上の配線が相変わらず淡い光を明滅させ、遠くでは潰れた車輪の保守ロボットが、変わらぬ調子で壁にぶつかり続けているのが聞こえた。
「あいつ、放っておいて大丈夫なのか」
「多分、あと十年はあの調子で回ってる」
「たくましいな、廃品も機械も」
デイビッドの呟きに、ニッカはふと足を止め、暗がりの奥へ視線を向けた。壊れながらも役目を止めない古い機械の姿が、どこか自分の仕事と重なって見えた気がした。
「……直してあげたい気もするけど」
「今は、我慢して」
ルーシーの短い一言に、ニッカは名残惜しそうに肩をすくめ、再び歩き出した。
梯子に近づいたところで、ルーシーが端末を取り出した。
『そろそろ、地上に出る』
短い文面を打ち込んで送ると、ほどなくして返信が届いた。
『了解。いつでも出せるようにしとく』
『ありがとう』
画面を覗き込んでいたデイビッドが、荷袋の紐を締め直した。
「じゃ、上がるか」
梯子を上りきり、地上へ顔を出した瞬間、乾いた夜風がニッカの頬を撫でた。カブキの喧騒はすでに寝静まりかけ、遠くのネオンだけが変わらず瞬いている。
「終わった、な」
デイビッドが伸びをしながら呟くと、ルーシーが端末の画面を確かめた。
「あとは、拠点に戻って、様子を見るだけ」
「様子って、電気がつくかどうかは、もう確認できたじゃねえか」
「本当の様子見は、これから。急に増えた電力に、古い設備がついてこられるかどうか」
ルーシーの指摘に、ニッカは小さく頷いた。
「発電機、巻き線の巻き直しもまだ途中。急に負荷が変わると、逆に壊れることもある」
「そういうものなのか」
「機械は、急な変化が一番苦手。人間もそうかもしれないけど」
しみじみと呟くニッカの声に、荒野で数え切れないほどの故障と向き合ってきた実感が滲んでいた。急に恵まれた環境というのは、恵まれた分だけ、どこかに歪みを溜め込みやすい。廃車の山と向き合い続けてきた経験が、そう静かに告げていた。
「明日から、しばらくは様子見の日々ってわけね」
ルーシーの言葉に、ニッカは小さく頷いた。
「巻き線の手直しと、負荷の確認。地味な作業が、しばらく続く」
「地味な作業、あんた得意そうだもんな」
デイビッドの茶化すような一言に、ニッカは肩をすくめただけで応じた。派手な立ち回りより、こういう地道な調整の方が、性に合っているのは否定しようのない事実だった。
「地味だけど、明日からが本番ってことだな」
「地味でいい」
即座に返すニッカの声には、安堵と疲労が入り混じっていた。
「派手な結末なんて、こっちからお断り」
その一言に、デイビッドは小さく笑い、荷袋の紐を締め直した。三人は端末で短く連絡を入れながら、ファルコが車を停めているはずの路地へと足を向けた。頭上に広がる曇り空の向こうで、街の明かりが変わらぬ調子で瞬き続けている。今夜のうちに、その明かりの一部が、少しだけこちらへ分けてもらえることになる。そんな実感だけを胸に抱えながら、ニッカは黙々と足を進めた。
角を折れると、ヘッドライトを消したままの車体が、路地の暗がりにひっそりと停まっていた。運転席の窓が下り、ファルコが顔を覗かせる。
「遅かったな」
「色々、あって」
ニッカが短く答えると、ファルコは荷袋を担いだデイビッドへ一瞥をくれただけで、それ以上は聞かずに後部のドアを開けた。
「詳しい話は、車の中で聞く。とりあえず乗れ」
促されるまま、三人は次々と乗り込んだ。エンジンが低く唸り、車体がゆっくりと動き出す。
「電気、無事に繋がったのか」
「繋がった。今頃、拠点は眩しいくらい明るくなってるはず」
ニッカが答えると、ファルコはバックミラー越しに小さく笑った。
「なら、上出来だ」
窓越しに流れていく夜景を横目に、ニッカは座席へ背を預けた。梯子を上り下りし、狭い通路を屈んで歩き続けた体に、車の振動が思いのほか心地よく染みていく。
もっとも、拠点で待ち受けているのが、静かな安堵だけとは限らない。暴走気味の電子レンジと格闘しているらしいレベッカの姿を思い浮かべ、ニッカは密かに気を引き締め直した。根本を直したはずの問題が、また別の形で騒ぎを連れてくる。この街に来てから、そういう成り行きにばかり慣れてきている気がした。
膝の上で、ニッカはふと自分の手のひらを見下ろした。まだ細かく震えている指先に、荒野で嗅ぎ慣れた焦げた基板の匂いが、かすかにこびりついている気がした。バートなら、この程度の仕事に大袈裟な感想は漏らさなかっただろう。ただ黙って手元を確かめ、次に壊れる場所を先回りして直すだけだったはずだ。厄介事を厄介事のまま放っておかない。それだけが、あの人からもらった数少ない教えの中で、今も色褪せずに残っている。
「疲れた顔してるな」
隣に座るデイビッドの一言に、ニッカは我に返った。
「ちょっと、考え事」
「バートさんのこと?」
思いがけない問いに、ニッカは一瞬言葉に詰まった。
「……なんで、分かるの」
「なんとなく。あんた、たまにそういう顔する」
あっさりと言い当てられ、ニッカは苦笑するしかなかった。荒野を離れても、あの人の教えだけは、こんな形でずっとそばに居続けているらしい。
運転席から、ファルコの落ち着いた声が割って入った。
「積もる話は、着いてからにしろ。……にしても、また随分と危ない橋を渡ったみたいだな」
「危なくは、なかった」
「その割に、三人揃って気が抜けた顔してるがな」
バックミラー越しに向けられた視線に、ニッカは思わず口をつぐんだ。図星だった。
「無事に戻ってきたんなら、それでいい」
それだけ言うと、ファルコはもう振り返らず、前方の道へ視線を戻した。多くを聞かず、余計な詮索もしない。荒野の頃から変わらない距離の取り方に、ニッカはどこかほっとするものを感じていた。
フロントガラスの先に、拠点の入り口を隠す錆びた看板がぼんやりと見えてきた。地上の喧騒から切り離されたその一角だけが、今夜は少しだけ賑やかな明かりを灯しているはずだった。車は速度を落としながら、いつもの物陰へと静かに滑り込んでいった。