目覚まし代わりの通知音が鳴る前に、ニッカは浅い眠りから覚めた。
天井の照明が、いつもより白く澄んで見える。寝ぼけた頭でその違和感の正体を探るまでもなく、彼女はすぐに思い出した。地下インフラ層から引いてきた電力が、ようやく拠点の隅々にまで行き渡り始めている証拠だった。
布団を撥ね除け、作業服に袖を通しながら通路へ出る。廊下の照明は、これまでの薄暗い橙色ではなく、真っ白な光を淀みなく放っていた。壁際のコンセントからは、微かな駆動音がひとつも途切れることなく続いている。普段なら耳の奥にこびりついているはずの、電力が細る時特有の小さな唸りも、今朝はどこにも見当たらなかった。
これまでは、朝一番に廊下を歩くたび、どこかの照明が明滅していないかを確かめる癖がついていた。古い配線が悲鳴を上げる兆候を、少しでも早く見つけるための習慣だった。だが今朝は、その癖を発動させる隙すらないほど、光は安定しきっている。慣れない静けさに、ニッカはむしろ落ち着かない気分になった。
「おい、見ろよこれ! 読み込み、一瞬だぞ!」
食堂に顔を出すと、真っ先に耳へ飛び込んできたのはレベッカの叫び声だった。端末の画面を両手で抱え込み、目を輝かせている。
「今までダウンロードに三十分かかってたブレインダンスの記録、五秒で終わった!」
「五秒?」
「五秒だ! バグかと思って三回試したけど、毎回五秒!」
興奮気味に画面を突きつけてくるレベッカに、ニッカは寝起きの頭をゆっくりと回転させながら頷いた。
「軍用回線、そんなもん」
「そんなもん、じゃねえよ! これ革命だろ!」
大袈裟な物言いに、隣で朝食を摘んでいたピラルが片眉を上げた。
「お前が興奮してんの、動画のダウンロード速度だけかよ」
「それ以外に何がある?!」
言い返すレベッカの声に、ピラルは肩をすくめただけで応じなかった。彼自身の義手も、充電スタンドに繋いだままわずか十数分で満タンの表示に切り替わっている。これまでの半分にも満たない時間だった。
「エアコンも、桁違いだぜ」
ピラルが天井近くの通風口を指差した。冷たい風が一定の強さで吹き出し続けている。
「今まではせいぜい生ぬるい風が申し訳程度に出るだけだったのに、今日は肌寒いくらいだ」
「……確かに、冷えすぎ」
ニッカが自分の二の腕をさすりながら呟くと、レベッカが端末から顔を上げた。
「贅沢言うなよ。昨日まで汗だくで寝てたくせに」
「寒いのも、それはそれで困る」
「じゃあ設定変えろよ」
「変える。後で」
軽いやり取りを交わしながらも、ニッカの視線は自然と壁際の分電盤へ向いていた。派手な快適さの裏側で、まだ確かめておかなければならないことが残っている。
食堂の奥、シャワー室の扉が勢いよく開いた。湯気を纏ったファルコが、タオルを頭に載せたまま呆然とした顔で立ち尽くしている。
「……なあ、あのシャワー、どうなってんだ」
「どうって?」
「捻った瞬間、熱湯みてえな勢いで出てきたぞ。心臓が止まるかと思った」
情けない声を上げるファルコに、ドリオが噴き出した。
「あんたの悲鳴、廊下まで丸聞こえだったわよ」
「悲鳴なんぞ上げてねえ」
「上げてた。可愛い声で」
からかわれたファルコが顔を赤くして黙り込む横で、ニッカは小さく口を挟んだ。
「給湯設備の圧力、上げすぎたかも。後で調整する」
「頼む、マジで」
切実な声に、ニッカは苦笑しながら頷いた。快適さというのは、加減を誤ると、思わぬところで悲鳴の種になるものらしい。
実のところ、この快適さは一晩の徹夜の上に成り立っていた。昨夜、皆が寝静まった後も、ニッカは発電機室に籠もり続けていた。
劣化した巻き線を一巻きずつ丁寧にほどき、新しい導線を同じ手順で巻き直していく作業は、単調でありながら神経を使うものだった。手を止めれば、明日の負荷増加に耐えられない。そう分かっていたからこそ、指先の疲労を無視して作業を続けた。
途中、夜食を運んできたドリオが、呆れたように声をかけたことがあった。
「まだやってたの」
「もう少しで、終わる」
「もう少しって、さっきも同じこと言ってたわよ」
苦笑交じりの指摘に、ニッカは手を止めずに答えた。
「今度は、本当にもう少し」
「一人で抱え込みすぎ。誰かに手伝わせなさいよ」
「これは、指先の感覚じゃないと分からない作業。人に任せるより、自分でやった方が早い」
頑固な物言いに、ドリオは小さくため息をついた後、それ以上は何も言わずに夜食の皿だけを置いて立ち去った。誰かに寄りかかるということを、ニッカはまだ上手く覚えられずにいる。それでも、皿を置いていってくれるだけの気遣いには、いつも密かに救われていた。
巻き直しが終わったのは、空が白み始める頃だった。指先の感覚はとうに麻痺していたが、それでも一巻き一巻きの手応えだけは、最後まで確かに掴み続けていた。
朝食もそこそこに、ニッカは工具箱を提げて発電機室へと向かった。分厚い鉄扉を開けると、四十年物の筐体が、これまでより一段高い駆動音を響かせている。負荷が増えた分だけ、機械の呼吸も荒くなっていた。
「……まだ、慣らし運転の途中」
誰にともなく呟きながら、ニッカは巻き線の絶縁を確かめる作業に取りかかった。昨夜のうちに手を入れておいた箇所を、指先でひとつずつなぞっていく。急に増えた負荷に、古い部品が悲鳴を上げないとも限らない。
背後で足音がして、キーウィが顔を覗かせた。煙草の先から、細い煙がゆっくりと立ち上っている。
「調子は」
「今のところ、平気。でも、油断はまだできない」
「昨日より、駆動音が高いな」
キーウィの指摘に、ニッカは筐体へ手を当てたまま頷いた。
「負荷が増えた分、当たり前。問題は、この状態が続いた時に、どこかへ皺寄せが出ないかどうか」
「様子見が続くってわけか」
「うん。あと数日は、こまめに見ておきたい」
短いやり取りの間にも、ニッカの指先は絶縁テープの巻き直しを進めていた。手際に迷いはなく、それでいて一箇所ずつ丁寧に確かめる動作を欠かさない。荒野で染みついた慎重さが、ここでもそのまま生きていた。
工具箱の脇には、刃こぼれた古いレンチが一本、他の道具に紛れることなく置かれている。バートが最後まで手放さなかった形見だった。使う機会はもうほとんどないが、手の届く場所に置いておくだけで、指先の迷いが少しだけ軽くなる気がした。
「試しに、負荷を最大まで上げてみる」
ニッカがそう言うと、キーウィは煙草を灰皿に押しつけた。
「今か」
「今のうちに確かめておきたい。後で急に落ちる方が、よっぽど困る」
言うが早いか、ニッカは制御盤のスイッチに手をかけた。同時に、拠点全体の照明とエアコン、通信機器をすべて同時稼働させる指示を端末経由で飛ばす。
「三、二……」
「数えないで」
「数えないと、逆に落ち着かない」
軽口を挟みながらも、キーウィの目は真剣に計器の針を追っていた。ニッカがスイッチを押し込むと、発電機の駆動音がひときわ大きく跳ね上がった。
「……」
誰も口を開かないまま、数秒が過ぎた。計器の針が右へ大きく振れ、それきり止まったまま小刻みに揺れ続けている。
「限界値、ギリギリ」
ニッカの声には、緊張がわずかに滲んでいた。針の揺れが収まらないまま、あと少しでも負荷が増えれば、巻き線のどこかが焼き切れかねない。
「無理をさせすぎたか」
「あと少し、待って」
言葉とは裏腹に、ニッカの指先は制御盤の上を素早く動いていた。分岐させた負荷の一部を、別の系統へ逃がすように調整を加えていく。針の揺れが、少しずつ緩やかになっていった。
「……落ち着いた」
安堵の息が、狭い機械室に静かに満ちる。キーウィが計器を覗き込みながら、小さく頷いた。
「今のところは、大丈夫そうだな」
「今のところは。あと数日、様子を見ないと確信は持てない」
慎重な物言いに、キーウィは煙草を取り出しかけて、思い直したように手を止めた。
「にしても、この発電機、よくもった」
「私も、正直そう思う」
珍しく本音を漏らしたニッカに、キーウィは片方の口角を上げただけで応じた。
「これがなきゃ、今頃また真っ暗だったな」
「うん。この四十年選手には、感謝しないと」
律儀に労うニッカの一言に、キーウィは口の端をわずかに緩めて応えた。それ以上の言葉はいらないとでも言うように、二人はしばらく黙ったまま、落ち着きを取り戻した駆動音にだけ耳を澄ませていた。
様子見の作業が一段落した頃、通路の奥から慌ただしい足音が近づいてきた。顔を出したのはデイビッドだった。手には端末を握りしめている。
「ニッカ、ちょっと来てくれ! ファルコが妙な話持ってきてる!」
「妙な話?」
「とりあえず来てくれって!」
急かされるまま食堂へ戻ると、テーブルを囲む面々の間に、いつになく落ち着かない空気が漂っていた。ファルコが帽子のつばを指で押し上げながら、端末の画面をテーブルの中央へ置く。
「こいつを見てくれ」
画面に映し出されていたのは、企業系ニュースの短い配信記事だった。見出しには「隣接区画にて原因不明の電圧変動」の文字が並んでいる。
「隣の区画で、うちが電気引っ張り込んだ日から、ちょくちょく妙な電圧の乱れが起きてるらしい」
ファルコが低い声で続けた。
「ミリ単位の低下だから、実害はほとんどねえって書いてある。だが、原因が分からないまま何度も起きてるってんで、担当の技術屋が首をひねってるそうだ」
「……それ、うちのせい?」
ニッカが恐る恐る尋ねると、ファルコは肩をすくめた。
「因果関係は不明、ってさ。だが時期がぴったり重なってる。俺の勘だと、たぶん」
言葉を濁したファルコの代わりに、キーウィが煙を吐きながら付け加えた。
「フィルターの均しが、完璧じゃなかったってことだろう。周辺への影響が、ゼロにはならなかった」
「……あの時、五秒で直したやつ」
ニッカの脳裏に、地下での慌ただしいやり取りが蘇った。赤い点滅を消すために配線を組み替えた、あの数秒間の処置。監視網には引っかからなかったはずだが、周辺への微細な影響までは、確かに読み切れていなかったのかもしれない。
「まずい、かな」
「実害がない以上、企業側も本腰入れて調べる理由がない」
キーウィの見立てに、ファルコが頷いた。
「実際、記事の中身もそんな深刻な調子じゃねえ。むしろ」
言いかけたファルコが、画面をスクロールしながら苦笑を浮かべた。
「むしろ、面白がってる連中の方が多いくらいだ」
「面白がってる、って」
ニッカが眉を寄せると、ファルコは画面の下部を指し示した。そこには、地元の掲示板らしきコメント欄が並んでいる。
「電圧が乱れるたびに、決まって深夜。しかも周期がバラバラ。おかげで、ネット上じゃちょっとした都市伝説になりかけてる」
読み上げられたコメントの一つに、レベッカが噴き出した。
「『地下に眠る古き機械の亡霊が目覚めた』だってよ! 亡霊って、あんたのことかよニッカ!」
「私、幽霊じゃない」
「見た目は生きてる幽霊感、ある」
「失礼な」
軽口を叩き合う二人を横目に、デイビッドが別のコメントを読み上げた。
「『あの区画には旧世代の実験施設が眠っているという噂がある。誰かが再起動させたのでは』だってさ」
「大袈裟」
「他にも、『バッドランズから来た伝説のメカニックが街に潜り込んだんじゃないか』って書き込みもあるぞ」
その一文に、ニッカの表情が固まった。
「……それ、誰情報」
「知らねえよ、匿名の書き込みだ」
ファルコが苦笑しながら答えると、ニッカは頭を抱えるように俯いた。
「なんで、そこに繋がるの」
「デラマンの件、闇市の目利きの件、カブキの屋台の件。こう並べりゃ、噂好きの連中が繋げたくなる気持ちも分かるけどな」
ファルコの淡々とした指摘に、ニッカは反論の言葉を見つけられなかった。噂というのは、こちらの意図とは無関係に、勝手に形を持って歩き出すものらしい。
議論が続く食堂の隅で、ルーシーが端末を静かに操作していた。指先が滑らかに画面をなぞり、いくつもの掲示板を渡り歩いていく。
「潜るのか」
キーウィの問いに、ルーシーは短く頷いた。
「浅い階層だけ。少し覗くくらいなら、危険は薄い」
答えながらも、ルーシーは自分の神経に潜んだままの追跡プログラムのことを、頭の片隅で意識していた。深く潜らなければ発症の条件には触れない。それでも、慎重さを欠かしていい理由にはならなかった。太くなった回線が支えてくれる分だけ、以前より僅かに余裕はある。だが余裕は、油断とは違う。
画面には、匿名の書き込みが次々と流れていく。都市伝説めいた噂は、すでに複数の掲示板へ飛び火していた。中には、電圧変動の発生時刻をまとめた表を作り、周期性を分析しようとする者までいるらしい。
「……真面目に調べてる奴、いるんだな」
デイビッドが覗き込みながら呟くと、ルーシーは淡々と続けた。
「暇な人間は、どこにでもいる。それに、正体不明の何かを追いかけるのは、この街の娯楽の一つ」
「娯楽にされる側は、たまったもんじゃないけど」
ぼやくニッカに構わず、ルーシーは画面をスクロールし続けた。しばらくして、彼女は画面から顔を上げる。
「私の方でも、似た記事を見つけた」
「何て書いてある」
「企業側の対応方針。『経済的損失が軽微なため、優先度を下げて継続監視とする』」
簡潔な報告に、キーウィが小さく頷いた。
「今のところ、本腰を入れて追う気はないってことか」
「ええ。ただし」
ルーシーが言葉を継いだ。
「監視カメラの巡回頻度は、わずかに増えてる。無関係とは言い切れない」
その一言に、場の空気がわずかに引き締まった。ニッカは腕を組んだまま、しばらく黙り込んだ。
「……フィルター、もう一段、精度上げた方がいい」
「今からか」
「今から。同じ轍は踏みたくない」
言い切るニッカの声に、迷いはなかった。派手な結末を望まないという彼女の性分は、こういう場面でこそはっきりと顔を出す。
議論が一段落したところで、拠点内に設置された外周モニターに、見慣れた車列の輪郭が映り込んだ。ハザードランプを焚いたデラマンの一台が、静かに敷地の前で停車している。
「……また来た」
ニッカが呟くと、配車アプリの通知が控えめに点灯した。タップすると、丁寧すぎる文面が画面いっぱいに表示される。
『お客様、朝早くから失礼いたします。実は、興味深い噂を耳にいたしまして』
画面を覗き込んだレベッカが、堪えきれずに噴き出した。
「デラマンにまで伝わってやがる!」
『聞かなかったことにして』
ニッカが早口で打ち込むと、しばらくの沈黙のあと、返信が届いた。
『承知いたしました。……とは申しましても、心の中の高鳴りまでは、抑えきれませんが』
『その律儀さ、いい加減慣れてきた』
ため息交じりに呟くニッカに、デイビッドが小さく笑った。
「もう、諦めた方が早いんじゃないか」
「諦めてない。まだ抵抗の余地はある」
「その台詞、もう何回目だ」
からかうような一言に、ニッカは口を尖らせたまま、それ以上言い返さなかった。
デラマンとのやり取りが一段落した頃、ニッカの端末に別の着信が届いた。表示された発信元に、彼女は小さく身構える。
「……レジーナ」
画面をタップすると、簡潔な文面が浮かんだ。
『隣の区画の電圧の話、聞いた?』
『もう、耳に入ってるんだ』
打ち込んだ問いに、すぐ返答が届く。
『この街で妙な噂が立てば、大抵あたしの耳にも入ってくる。それが商売だから』
『……それで、何の用』
『別に、責めるつもりはないわ。実害がない程度なら、企業もそのうち興味を失う。ただ』
文面が一拍置いて続いた。
『「鈴木」さん、その偽名を出す噂も、ちらほら混じり始めてる。気をつけた方がいいわよ』
その一文に、ニッカは端末を睨みつけた。
『気をつけろって、具体的にどうすれば』
『目立つ仕事を続けるなら、痕跡の消し方も一緒に覚えること。今度、いくつかコツを教えてあげる』
あっさりとした申し出に、ニッカは眉を寄せた。
『それも、取引の一環ってこと』
『そう。ジャンクと情報、たまにはお節介も込みで』
からかうような一文を最後に、通信は静かに途切れた。ニッカはしばらく画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……ありがた迷惑」
誰にともなく漏らした呟きに、答える者はいなかった。それでも、その申し出を無下にはできない自分がいることを、彼女はどこかで自覚していた。
昼過ぎ、発電機室の様子を再び確認しに戻ったニッカは、巻き線の状態を丹念に見て回った。数値に異常はなく、駆動音も安定した調子を保っている。ひとまずの峠は越えたらしかった。
工具を片付けながら、ニッカはふと棚の隅に置かれた小さな置物へ目をやった。バートの手慰みで作られた、不格好な金属の鶏だった。誰かに見せるためのものではなく、ただ暇を持て余した老人が、廃材を捻って形にしただけの品だ。
「……バートなら、こういう噂、どう思うかな」
言葉は誰の耳にも届かないまま、静かな機械室の空気に紛れて消えた。目立つな、関わるな。そう繰り返し教え込まれてきたはずの声が、今も耳の奥に残っている。それでいて、壊れた機械を放っておけなかったのも、他ならぬバート自身だった。矛盾を抱えたまま生きた男の背中を思い出すたび、ニッカは自分の性分がどこから来たものか、改めて思い知らされる気がした。
「噂が広まるのも、多分、性分のせい」
自分自身に言い聞かせるような呟きだったが、口にしてみると、その言葉は不思議と胸の中にすとんと収まった。
夕方、食堂に集まった一同の前で、キーウィが端末の画面を掲げた。
「新しい書き込みが増えてる」
「また?」
「ああ。今度は、『あの伝説のメカニックは、実は複数人組織されたチームなのではないか』という説まで出てきた」
「……もはや、私の与り知らないところで話が進んでる」
げんなりと呟くニッカに、ピラルが笑いを堪えきれずに肩を震わせた。
「いっそ、伝説のメカニック集団って名乗っちまえばいいんじゃねえか」
「絶対、嫌」
「即答だな」
「目立ちたくないの、こっちは」
語気を強めるニッカに、レベッカが横から茶々を入れた。
「もう手遅れなんじゃねえの、それ」
「手遅れじゃない。これから静かにしていけば、いつか収まる」
「その希望的観測、聞くたびに危なっかしいぜ」
冷静なピラルの一言に、ニッカは何も言い返せず、テーブルに突っ伏すように肩を落とした。
その晩の夕食は、いつもと勝手が違っていた。カブキで仕入れてきた本物の米を、これまでは非力な電熱器で騙し騙し炊き上げるしかなかったが、今夜は違う。ドリオが持ち込んだ業務用の炊飯器が、安定した出力の下で規則正しく蒸気を吐き出している。
「……こんなに、綺麗に炊けるものなんだ」
炊き上がった釜の蓋を開けたレベッカが、感嘆の声を漏らした。艶やかに輝く米粒が、湯気の向こうでふっくらと盛り上がっている。
「今までのは、なんだったんだよ」
「電力不足の犠牲者」
ニッカが淡々と答えると、レベッカは椀に山盛りの飯をよそいながら唸った。
「これが本来の実力だってんなら、今まで随分と損してた気分だぜ」
「損っていうか、うちの発電機のせい」
「その発電機、今は絶好調なんだろ」
「絶好調とは言ってない。まだ様子見中」
ぼやくニッカに構わず、レベッカは早々と一口目を頬張った。目を見開き、しばらく無言で咀嚼した後、ようやく感想らしき言葉を絞り出す。
「……美味い」
「良かった」
「美味すぎて、なんかムカつく」
「理不尽」
噛み合わないやり取りに、テーブルの端でファルコが小さく笑った。米の甘みと炊きたての香りが、狭い食堂いっぱいに漂っている。荒野の乾燥保存食とは比べ物にならない豊かさに、誰もがしばし言葉を忘れて箸を進めていた。
「これも、噂の種になったりしてな」
ピラルが茶碗を掲げながら軽口を叩くと、ニッカは即座に睨みつけた。
「ならない。米の炊き方までは、都市伝説にならない」
「わかんねえぞ。『地下から現れた謎の勢力、なぜか米だけは異様に美味い』とか」
「もう、やめて」
げんなりとした声に、テーブル全体がどっと沸いた。湯気の立つ茶碗を挟んで交わされる軽口が、狭い食堂の空気を柔らかく満たしていく。
食事が一段落した頃、それまで黙って成り行きを見守っていたメインが、茶碗を置いて低く口を開いた。
「噂の話だが」
その一言に、賑やかだった食堂が、わずかに静まった。
「派手に騒がれるのは、正直ありがたくねえ。だが、今回は実害もねえし、企業も本腰入れて追う気はなさそうだ。しばらくは、静観でいい」
「静観、でいいの?」
ニッカが尋ねると、メインは腕を組んだまま頷いた。
「騒ぎ立てて隠そうとする方が、かえって目立つ。今はただ、いつも通りに過ごせばいい」
落ち着いた物言いに、ニッカは小さく息を吐いた。
「……それが、一番難しい気がする」
「難しいのは分かってる。それでも、お前が今までやってきたことは、間違っちゃいねえ」
短い言葉に、ニッカは何と返していいか分からず、黙って頷くだけにとどめた。頼れる兄貴分としての落ち着きが、こういう時にはやはり心強い。
夜が更けた頃、発電機室の最後の見回りを終えたニッカは、外周モニターの前で立ち止まった。地下深くまで届いた都市の明かりが、画面越しにいくつも瞬いている。荒野で見上げていた星々とはまるで違う光の粒だったが、今の彼女にとっては、それもまた見慣れた景色になりつつあった。
誰かがすぐ隣に腰を下ろす気配がして、振り向くとデイビッドがいた。
「まだ起きてたのか」
「発電機、もう少しだけ見ておきたくて」
「様子見も、大変だな」
「地味な仕事だから、性に合ってる」
短いやり取りの後、二人はしばらく無言のまま、モニターに映る街の明かりを眺めていた。言葉を探すでもなく、ただ隣にいるというだけの時間が、今のニッカには不思議と心地よかった。
「噂、広まる一方だな」
ぽつりと呟いたデイビッドに、ニッカは小さく肩をすくめた。
「困ったもの」
「困ってる割に、そんな嫌そうな顔でもないけど」
その指摘に、ニッカは一瞬言葉に詰まった。
「……別に、嬉しくもない」
「嬉しくはない、けど?」
「けど、何も」
誤魔化すように視線を逸らすニッカに、デイビッドは追及せず、小さく笑っただけだった。地下深くで灯り続ける都市の光を見つめながら、二人はしばらくそのまま座り続けた。
しばらくして、デイビッドが席を立ち、食堂の方へ戻っていった。一人残されたニッカは、モニターの光を眺めながら、工具ベルトの上でそっと指先を組んだ。
バートが生きていた頃、荒野の夜空を見上げながら、彼はよくこう言っていた。
――目立つ星ほど、早く燃え尽きる。地味な星の方が、ずっと長く光り続けるもんだ。
子供の頃はただの慰めの言葉だと思っていたが、今になって振り返ると、あの一言には老メカニックなりの処世術が込められていたのかもしれない。目立たず、騒がず、必要な仕事だけを黙々とこなす。それがバートの生き方であり、彼がニッカに遺した唯一の教えだった。
その教えを守ろうと誓ったはずの自分が、今や街の掲示板で伝説めいた噂の主役に祭り上げられている。皮肉な巡り合わせに、ニッカは小さく笑うしかなかった。
「……ごめん、バート。あんまり、守れてない」
誰に届くわけでもない謝罪が、静かな機械室の空気に溶けて消えた。それでも、後悔だけが残っているわけではなかった。壊れた機械を放っておけない性分も、困っている誰かに手を貸してしまう癖も、すべてあの人から受け継いだものだ。工具箱の脇に置いたままの、あの刃こぼれたレンチと同じように、譲り受けたものは形を変えながらも、ちゃんとこの手の中に残り続けている。守れなかった誓いの代わりに、別の何かを確かに受け取っている。そんな実感だけが、胸の奥にひっそりと残っていた。
噂は、これからも形を変えながら広がっていくのだろう。地下に潜む正体不明のメカニックという物語が、この街の片隅で、ひとつの都市伝説として静かに根を張っていく。それを止める術は、もうニッカの手の中にはなかった。
それでも、拠点の明かりは今夜も途切れることなく灯り続けている。爆速の回線も、効きすぎるエアコンも、熱すぎるシャワーも、すべてはニッカが手を動かして掴み取った結果だった。派手な結末など望んでいないはずのニッカの日々が、また少しだけ、静かに変わり続けていた。
モニターの光を最後にもう一度確かめてから、ニッカは工具箱の蓋を閉めた。明日もまた、発電機の様子を見に来なければならない。地味で、目立たなくて、それでいて誰かの暮らしを支える仕事。バートがそうしてきたように、彼女もまた、その地道な仕事を淡々と積み重ねていくつもりだった。
通路の照明が、途切れることなく淡い光を放ち続けている。その灯りの下を、ニッカはゆっくりと歩いていった。足音だけが、静まり返った拠点の中に、いつまでも小さく反響し続けていた。