地下拠点の朝は、以前よりずっと静かになっていた。
照明が明滅することも、コンセントから焦げた匂いが漂うこともない。安定した駆動音だけが、通路の奥までまっすぐに届いている。ニッカは工具箱の中身を並べ直しながら、その静けさにまだ慣れきれずにいた。長年、不調の兆しを聞き分けることに神経を使ってきた耳が、今は行き場を失っている気がする。
通路の壁に手を当ててみても、以前のような微かな振動は伝わってこない。配線も、空調も、回線も、すべてがあるべき場所に収まって静かに働いている。誰かが不便を訴えることもなく、朝の食堂からは、レベッカとピラルの言い合う声だけが変わらず響いていた。
平穏というのは、思っていたより手持ち無沙汰なものらしい。
このままでいいのか、と自問することが増えた。誰にも脅かされず、機械も静かに働き続けている。それは紛れもなく望んでいた景色のはずなのに、指先はどこかで別の刺激を探している。荒野育ちの性分は、思いのほか頑固だった。
工具箱の蓋を、意味もなく開けては閉じる。中身はすでに三度並べ直した後で、これ以上いじる場所などどこにもない。それでも手を止められずにいる自分に気づいて、ニッカは小さく息を吐いた。壊れた何かを探して指が動く癖は、平穏な朝には行き場がなく、ただ空回りするだけだった。
食堂を覗くと、レベッカが端末を抱えたまま画面に釘付けになっていた。
「見ろよニッカ、この配信、途切れる気配すらねえ」
「良かったね」
「良かったねって、他人事かよ。あんたが引っ張ってきた回線だろうが」
得意げに言うレベッカの隣で、ピラルが冷房の吹き出し口に手をかざしながら唸っていた。
「この涼しさ、癖になるぜ。もう扇風機の時代には戻れねえ」
「戻さなくていい」
短く返しながら、ニッカは棚の隅に置いた発電機の予備部品を、ひとつずつ確かめる。快適さに浮かれる二人を横目に、彼女自身はまだ、どこか落ち着かない気分を拭えずにいた。積み上げてきた不便さと引き換えに得たものが、あまりに滑らかすぎて、実感が追いついてこない。
工具箱の点検を終えたニッカは、発電機室へ足を向けた。巻き線の温度計を確かめ、駆動音に耳を澄ませる。数値も音も、昨日と変わらず安定していた。
もう少し様子を見ておきたい気持ちと、いい加減これで十分だという気持ちが、頭の中でせめぎ合う。結局、後者に軍配が上がった。荒野育ちの慎重さは、平和な数値の前ではいつも少しだけ持て余される。
制御盤の蓋を閉じたところで、通路の奥からルーシーの声が届いた。
「浅い階層、異常なし」
「お疲れ」
短いやり取りだけを交わし、ルーシーは端末を抱えたまま食堂の方へ戻っていく。追跡プログラムの発症条件に触れないよう、深追いはしない。その慎重さが、以前よりずっと自然な習慣として身についているのを、ニッカは横目に確かめていた。
端末が短く震えたのは、点検を終えて椅子に腰を下ろした直後だった。表示された発信元に、ニッカは眉を寄せる。
「……レジーナ」
画面をタップすると、簡潔な文面が浮かんだ。
『おはよう。裏窓口、さっそく使わせてもらうわね』
『早い』
打ち込んだ一言に、すぐ返信が届く。
『善は急げって言うでしょう。カブキの地下で、面白い出物があるの』
続けて、画面に画像が一枚届いた。粗い解像度の写真には、大きく凹んだ筐体と、焼け焦げたコイルの断面が写っている。誰の目にも、ただの鉄くずにしか見えない代物だった。
『ミリテクの試作ジェネレーター。動作不能、回収不能って烙印を押されて、闇市の在庫処分に流れてきたらしいわ』
ニッカは画像を拡大し、コイルの巻き方をじっと見つめた。指先が、無意識のうちに机の縁を叩き始める。
「……これ」
小さな呟きが漏れた。
規格外の巻き数。損失を極限まで削るための、二重の遮蔽構造。教科書には載らない、現場の技術屋だけが辿り着ける設計だった。壊れているのは外殻と制御基板だけで、コイルの心臓部そのものは、写真越しでも十分に生きて見える。
この巻き方は、量産型の設計図には決して出てこない。誰か一人の技術屋が、試行錯誤の末に辿り着いた個人の癖だ。効率を突き詰めた者だけが持つ、無駄のない美しさがそこにはあった。廃棄の烙印を押した誰かは、きっとこの価値に気づかないまま、書類上の分類だけで処分を決めたのだろう。
前世の記憶の奥から、似た手触りの記録が引き出されてくる。出力と発熱を天秤にかけ、規格の上限ぎりぎりを攻めるための巻き数――ゲームの攻略サイトの片隅に、たった一行だけ載っていたような裏技のレシピだ。実物として目の前にあると、平面の数字だけでは分からなかった重みが、掌からじんわりと伝わってくる。
(この巻き方、廃棄されるやつじゃない)
(いや、待って。落ち着け。ただの鉄くずだって、向こうも言ってる)
(だからこそ、安く手に入るってこと。もったいなさすぎる)
(別に、欲しいわけじゃ)
(欲しい。すごく欲しい)
自分の中の問答が、いつもより早口で進んでいく。ニッカは端末を持つ手にわずかに力を込めた。
まだ使える場所がある。バートの口癖が、頭の隅でふと蘇った。壊れているように見えても、丁寧に手を入れれば息を吹き返すものがある。その教えを、彼女は今も律儀に守り続けている。皮肉なことに、今日ばかりは、その教えが自制心よりも先に動き出そうとしていた。
『今日の夕方、カブキの地下でジャンクオークションが開かれる。興味があるなら、場所を送るわ』
『……いくらくらい』
『さあ。誰も価値に気づいてないから、安値スタートだと思うわよ』
あっさりとした返信に、ニッカは椅子の上でわずかに前のめりになった。それから、はっと我に返り、姿勢を戻す。
『別に。ちょっと、気になっただけ』
『そう。気になっただけ、なのね』
文面越しにも、からかうような響きが伝わってきた。ニッカは口元を引き結んだまま、それ以上の返信を打たなかった。
食堂に顔を出すと、テーブルを囲む面々の視線が、一斉にニッカへ向いた。
「なんだ、その顔」
真っ先に気づいたのはピラルだった。ニッカは思わず頬に手を当てる。
「……顔?」
「なんか、悪だくみしてる時の顔してるぜ」
「してない」
「してるって。目、キラキラしてるもん」
レベッカが茶碗を置きながら身を乗り出す。ニッカは咄嗟に視線を逸らした。
「気のせい」
「絶対違うね、それ」
言い合いを横目に、ドリオが静かに茶を注ぎながら尋ねた。
「レジーナから、何か来たの」
「……なんで分かるの」
「あんたが端末見てそういう顔するのは、大抵あの女絡み」
図星を突かれ、ニッカは黙り込んだ。しばらくの沈黙のあと、諦めたように端末を差し出す。画面を覗き込んだドリオが、写真を見て小さく首を傾げた。
「これ、ただの壊れた機械にしか見えないけど」
「違う。中身のコイル、見て。この巻き方、普通の技術者はまず選ばない。損失を削るためだけに、わざわざ手間のかかる二重構造にしてる」
「……うん、ごめん。半分も分からなかった」
早口で続きかけた説明を、ドリオは苦笑しながら手のひらで制した。
「専門的な話は、あんたに任せるわ。要するに、欲しいってことよね」
「……欲しい、というか」
「欲しいのね」
言い切られ、ニッカはそれ以上抗う言葉を見つけられなかった。
「そんなに面白いなら、直せるのか、それ」
ドリオが端末を返しながら尋ねた。ニッカは腕を組み、真剣な顔で考え込む。
「直すっていうか……たぶん、別物になる」
「別物?」
「うん。元の形には、戻さない」
含みのある返事に、ドリオは追及を諦めたように肩をすくめた。
通りかかったデイビッドが、話に興味を惹かれた様子で覗き込んできた。
「なんの話だ」
「ニッカが、また鉄くずに恋してる」
ピラルの一言に、デイビッドは軽く噴き出した。
「恋って言い方、やめて」
「他に言いようがねえだろ。その顔」
「……鏡、見てないから分からない」
ニッカがぼそりと返すと、レベッカが画面を覗き込みながら茶々を入れた。
「あたしにゃ、どこがそんな価値あるのか、さっぱり分からねえけどな」
「分からなくていい」
「冷たくない?」
「冷たくない。得意分野が違うだけ」
軽口の応酬に、食堂の空気がまた少しだけ緩んだ。
話を聞きつけたキーウィが、煙草の先を軽く揺らしながら口を挟んだ。
「闇市のオークション、か。場所は」
「カブキの地下。今日の夕方」
「タイガークロウズの縄張りに近い一角だな」
その名前を耳にした瞬間、ニッカの奥で前世の記憶がざわりと反応した。ゲームの攻略サイトや掲示板で、繰り返し目にした注意書きの数々が、ほとんど反射のように蘇ってくる。縄張り意識は病的なまでに強く、よそ者への容赦は端から期待できない。刀と改造バイクを得物にする一団で、揉め事の後始末は大抵、こちらが代償を払う側に回る。
厄介なのは、目に見える構成員だけではないということも、ニッカは知っていた。組織を裏で束ねているのは、正式な肩書きすら持たない一人の老婦人――ワカコ・オカダ。かつて幹部だった夫を亡くしてなお発言力を失わず、生涯で五人の夫、九人の息子の多くを組織の要職に送り込んできたという、ウェストブルックの女主人。表舞台に立たないぶん、その影響力の底が見えない。末端の小競り合いに見えるものでさえ、辿っていけばどこかであの女の目に届いている――そう考えると、背筋の冷える話だった。
知らなければよかった、と思うくらいには、頭の中の情報が的確すぎる。ニッカは湯呑みの取っ手を、無意識のうちに強く握りしめていた。
「……本当に、危なくない?」
念を押すような声の硬さに、キーウィが片方の眉だけを上げた。
「危なくはない。ただ、目立つ真似はしない方がいい場所ではある」
あっさりとした返事に、渦巻いていた警戒心が、ほんの少しだけ和らいだ。修羅場を数え切れないほど見てきたはずのキーウィが、これほど平然としているのなら、少なくとも今日のところは、本当の意味で危険な話ではないのだろう。テーブルの下で、湯呑みの縁をなぞっていた指先から、そっと力が抜けていく。今、頭の中で何が繋がっているかを、誰かに打ち明けるつもりはまだなかった。
「先週の話聞いたばっかだぜ。都市伝説の主役が、また目立ちに行くのかよ」
内心では、まださっきの話が燻っていた。それでも、キーウィがああまで平然としていたのだ。深刻に構えすぎるのも、らしくない。ニッカは小さく息を整え、いつもの調子を装う。
「行かない。買うだけ。すぐ帰る」
「買うだけって顔じゃねえけどな、それ」
からかいの応酬に、ニッカは反論の糸口を見つけられず、テーブルに視線を落とした。
その様子を、部屋の隅で腕を組んで見ていたメインが、低く口を開いた。
軽口の応酬をよそに、彼はさっきからずっと黙って話を聞いていた。噂が独り歩きを始めているこの時期に、よりによってタイガークロウズの縄張りへ足を踏み入れる。護衛なしで済ませていい話ではないと、判断を固めるまでに大した時間はかからなかった。
「行くなら、護衛はつける」
「……別に、平気」
「平気かどうかは、こっちが決める」
短い一言に、ニッカは口をつぐんだ。反論しても無駄だということだけは、これまでの経験で嫌というほど分かっている。
「ドリオ、お前も付き合ってやれ」
「言われなくても、そのつもりよ」
ドリオが即答すると、メインは小さく頷いた。
「俺も行く。あの一帯は、下手すりゃ揉め事に巻き込まれる」
議論が固まりかけたところで、ファルコが帽子のつばを指で押し上げながら口を挟んだ。
「足なら、俺が出す。地図にない道なら、大体頭に入ってる」
「頼りになる」
ニッカが呟くと、ファルコは軽く肩をすくめた。
「役に立つ時が来ると思ってなかったがな、こういうのは」
その一言に、以前も似たようなやり取りがあったことを、ニッカはぼんやりと思い出していた。街に降りるたび、少しずつ頼れる人間が増えていく。誓いを立てたはずの自分が、今はこの状況をどこかで受け入れ始めている。矛盾を自覚しながらも、それを正す気にはもうなれなかった。
「工具ベルトは、外していけ」
キーウィの忠告に、ニッカは一瞬、動きを止めた。
「……それは、無理」
「無理でも外せ。その工具まみれの格好、一目で技術屋だと分かる代物だぞ。噂が広まってる最中に、わざわざ看板背負って歩く馬鹿がどこにいる」
「でも、これがないと落ち着かない」
「……好きにしろ」
呆れたようなキーウィの一言に、ニッカは工具ベルトを外さないまま、こっそり視線を逸らした。
「意地でも手放さねえのな、それ」
横から茶化してきたのはピラルだった。ニッカは唇を尖らせただけで、何も言い返さなかった。
「にしても」
黙って成り行きを見ていたキーウィが、灰皿に煙草を押しつけながら続けた。
「目立つ真似はするな、言うたそばから鉄くず一つにこの執着か」
「……これは、別」
「何が別なんだ」
「電圧の噂は、勝手に広まっただけ。今回は、私の意思」
開き直ったような言い草に、レベッカが噴き出した。
「意思って、要するに欲まみれってことだろ」
「うるさい」
場が小さく沸く中、ニッカは頬を赤くしたまま、それ以上の反論を諦めた。
「気をつけて行けよ」
キーウィが煙を吐きながら、素っ気なく言った。柄にもない気遣いに、ニッカは一瞬言葉に詰まる。
「……うん」
短い返事だけを残し、ニッカは支度に向かった。
工具袋の中身を確認しながら、ニッカは小銭の入った巾着と、使いかけのジャンク基板を数枚放り込んだ。荒野で染みついた癖で、値切り交渉の材料になりそうなものは、いつも手元に用意してある。基板の傷み具合を一枚ずつ確かめる指先が、いつもより幾分か念入りだった。今日ばかりは、その癖が誰よりも役に立つ予感があった。
支度を整える間、留守番役のルーシーとデイビッドが、通信機材の前に並んで座っていた。
「向こうでの位置、常に追うわ」
ルーシーが端末の設定を確かめながら言う。回線を太くたどるだけで、深い階層まで潜る必要はない。それだけは自分に言い聞かせるように、指先の動きは終始浅い範囲に留められていた。デイビッドは腕を組んだまま、少し落ち着かない様子で頷いた。
「俺も行った方がよくねえか」
「留守番も、必要な仕事よ」
ルーシーの短い一言に、デイビッドは不満げに口を尖らせながらも、それ以上は言い返さなかった。
「何かあったら、すぐ知らせろよ」
「……心配性」
「あんたが言うのか、それ」
軽口を交わす二人の傍らを、工具袋を担いだニッカが通り過ぎていく。
「行ってくる。すぐ戻るから」
「ああ」
短い返事の奥に滲む気遣いを、ニッカは聞こえないふりで受け止めた。
夕方が近づく頃、拠点の裏口にファルコの車が横付けされた。運転席に乗り込んだファルコの隣に、メインが助手席で腕を組んでいる。後部座席にはドリオとニッカが並んで座っていた。
「地図にない道、通るぞ」
ファルコの一言とともに、車は静かな地下通路を抜け、カブキへと続く裏路地の闇へ滑り込んでいった。窓の外を流れる光が、次第に濃い色へと変わっていく。ネオンの気配が近づくにつれ、ニッカの指先は、無意識に肩の工具袋を確かめていた。
「そんなに緊張しなくても」
隣に座るドリオが、小さく笑った。
「緊張じゃない。楽しみにしてる」
「もっと悪いじゃない、それ」
からかうような一言に、ニッカは言葉を返せず、窓の外へ視線を逃がした。走る車の振動が、指先の落ち着かなさをかえって際立たせていた。
「あの辺りの締め付け、最近はどんな具合?」
ドリオの問いに、ファルコが前を向いたまま答えた。
「相変わらずだ。縄張り意識が強くて、よそ者には容赦しない。派手な喧嘩を売る趣味はねえが、目についたお零れは平気で掻っ攫っていく」
朝方頭をよぎった注意書きと、大して変わらない内容だった。ニッカは口を挟まず、黙って聞き流す。
「厄介そうね」
「厄介というより、面倒くさい。正面切って揉めるより、目立たず退散するのが一番だ」
「今日は、それでいい」
助手席から、メインが低く付け加える。
「買ったら、すぐ帰る」
「うん」
短く頷きながらも、ニッカの意識は、すでに写真で見た筐体の方へと半分以上飛んでいた。
カブキの地下に降りる階段は、表通りの喧騒とは切り離されたように静かだった。錆びついた手すりを伝いながら、ニッカたちは薄暗い通路を進んでいく。壁の配管からは、絶え間ない蒸気の音が響いていた。
通路の先に広がっていたのは、廃倉庫を改装したらしい広い空間だった。裸電球が等間隔に吊るされ、雑多な商品が並ぶ露店が、壁際にずらりと連なっている。中古のサイバーウェア、型落ちのドローン部品、出所の怪しい電子機器。値札の代わりに、口頭でのやり取りだけが飛び交っていた。
「思ったより、賑わってるな」
ドリオが辺りを見回しながら呟く。ニッカは無言のまま、視線を会場の奥へと向けていた。目当ての品以外、今の彼女の目にはほとんど映っていなかった。
焼けた金属と汗の匂いが入り混じり、鼻の奥に絡みついてくる。怒鳴るような値切り交渉の声と、遠くで鳴り続ける古いスピーカーの音楽が、空間全体をひとつの濁った喧騒に変えていた。時折、遠くで何かが爆ぜるような音が響き、そのたびに誰かの笑い声が続いた。
露店の間を抜けながら、メインが低く周囲を観察していた。
「柄の悪い連中も、それなりにいるな」
「気配、殺してるつもりのやつが多い」
低く応じながら、メインの視線は雑踏の出入り口と死角になりそうな柱の陰を、ひとつずつ順に辿っていた。銃撃戦のような分かりやすい脅威より、こういう場所に潜む半端な悪意の方が厄介だということを、長年の稼業で嫌というほど知っている。修羅場を潜り抜けてきたソロとしての勘なのか、ドリオも自然と周囲へ目を配っていた。すれ違う露店の一つでは、傷だらけの義眼を並べた老人が、値切り交渉に興じる客と大声で言い争っている。別の一角では、若い男が怪しげな注射器の束を布に並べ、通りかかる誰かに小声で売り込みをかけていた。ニッカはその喧騒を半分だけ耳に入れながら、会場の奥に置かれた一台の台へと、視線を吸い寄せられていた。
途中、露店の一つで足を止めた店主が、通りかかったニッカたちの顔をちらりと見て、何かに気づいたように目を細めた。
「……あんたら、もしかして」
「?」
「いや、なんでもねえ。近頃、地下に伝説のメカニックがいるとかって噂、聞いたことあるか、って話さ」
店主の言葉に、ニッカは思わず肩を強張らせた。
「……知らない」
「だよな。俺も、噂は噂だと思ってるよ」
あっさりと引き下がる店主に、ニッカは胸を撫で下ろした。だが、隣を歩くドリオが、そっと耳打ちしてくる。
「噂、こんなところにまで届いてるのね」
「……聞かなかったことにして」
小声のやり取りを交わしながら、一行は目当ての台へと歩みを進めた。
人だかりの中心に、目当ての品はあった。
台の上に無造作に置かれたそれは、写真で見た通り、外殻の凹んだ無骨な筐体だった。周囲の業者たちが、それを一瞥しては笑い合っている。
「こんなのに値がつくと思ってんのか」
「業者側も処分に困って、こっちに流したんだろ」
嘲るような声が、いくつも耳に入ってくる。ニッカはその輪の外から、じっと台の上の筐体を見つめていた。誰にも気づかれないよう、表情だけは平静を保とうと努める。
(落ち着け。落ち着くの)
(でも、あのコイルの巻き方。近くで見たい)
(近寄ったら、絶対顔に出る)
(出さない。出さないから)
自分に言い聞かせる声が、頭の中で何度も繰り返された。
オークションが始まるまでの間、品物は自由に見て回れるらしかった。ドリオに促され、ニッカは台の前まで歩み寄る。
近くで見る筐体は、写真よりもさらに酷い有様だった。外殻の凹みは深く、焼け焦げた基板からは、まだ焦げ臭い匂いがかすかに漂っている。それでも、覗き込んだ内部のコイルだけは、傷一つなく静かに眠っていた。
指先が、無意識のうちに筐体の縁へ伸びかける。
「……触っても、いいですか」
近くにいた業者が、面倒臭そうに頷いた。ニッカはそっと蓋を開き、コイルの巻き始めを確かめる。想像していた通りの、いや、想像以上に丁寧な仕事だった。巻き数も、遮蔽の重ね方も、無駄が一切ない。放熱経路の取り回しまで、無理のない綺麗な配置になっている。素人がやれば真っ先に焼き切れる箇所を、最初から見越して設計してあった。指先で辿るたびに、写真だけでは伝わらなかった手応えを確かめていく。
(すごい……この人、絶対分かってる人だ)
(誰が作ったんだろう。会って話してみたい)
興奮のあまり、口元が緩みかけた瞬間、ドリオの手がそっと肩に触れた。
「顔、緩んでる」
「……えっ」
「みんな見てるわよ、こっち」
慌てて表情を引き締めるニッカに、ドリオは小さく笑いを堪えていた。メインも腕を組んだまま、呆れたように息を吐く。
「お前の悪い癖、直った方がいいぞ」
「分かってる。分かってるけど」
言い訳がましく呟きながら、ニッカは蓋を静かに閉じた。それでも、指先の高揚だけは、なかなか収まってくれなかった。
開始を告げる声が響いたのは、それからほどなくのことだった。
台の脇に立つ主催者は、片眼に古いゴーグルをかけた痩せた男だった。気だるげな仕草で紙束をめくりながら、次の出品へと視線を落とす。
「さあ、次の出品はこいつだ。動作不能、詳細不明。始まりの値は、この街の子供の小遣い程度からいくぞ」
抑揚のない声でそう告げると、周囲から、あからさまな失笑が漏れた。
「そんな鉄くず、誰が買うんだよ」
「持ち帰るだけ無駄だろ」
場の空気は、最初からその品を見放していた。誰も手を挙げる気配すら見せない。主催者が値を下げようとした、その時だった。
冷やかし半分らしい若い男が一人、面白がるような調子で声を上げた。
「話のネタに、もらってやろうか」
軽い口ぶりの一言に、周囲がどっと沸いた。近くにいた仲間らしき男が、面白がるように囃し立てる。
「おいおい、部屋の飾りにでもする気かよ」
「悪くねえだろ、話のタネにはなる」
軽口の応酬に笑いが広がる中、ニッカの胸の奥が、ひやりと冷えた。
(取られる)
(いや、まだ)
(落ち着いて。まだ交渉の余地はある)
焦る内心を押し殺し、ニッカはゆっくりと手を上げた。
「……私」
周囲の視線が、一斉にこちらへ向いた。ニッカは工具袋に入れていた小銭と、余分に持ってきていたジャンク基板を差し出す。
「これで、足りる?」
あまりにも安すぎる提示額に、主催者は一瞬呆気に取られた顔をした。先ほどの若い男も、興味を失ったように肩をすくめる。
「別に、俺は本気じゃねえよ。そこまでして欲しいなら、勝手に持ってけ」
肩の力が抜けたのは、ドリオも同じだったらしい。小さく息を吐く音が、隣から聞こえた。
「……まあ、そんな鉄くずなら、それで十分だが」
「なら、それで」
あっさりと交渉が成立し、会場のあちこちから小さなざわめきが上がった。誰も本気で欲しがっていなかった品を、あまりにあっさりと持ち去ろうとする小柄な女に、周囲の視線がわずかに集まる。
「おい、あの嬢ちゃん、正気か」
「鉄くずに、あんなに嬉しそうな顔しやがって」
背後で交わされる会話に、ニッカは慌てて表情を引き締めた。だが、時すでに遅かったらしい。何人かの視線が、値付けの安さよりも、彼女の反応そのものに興味を移し始めていた。
「本当に、それでよかったのか」
傍らで見守っていたドリオが、小声で尋ねた。ニッカは筐体を受け取りながら、こくりと頷く。
「十分すぎる。むしろ、申し訳ないくらい」
「申し訳ないって、あんたね」
ドリオが呆れたように苦笑した。メインも腕を組んだまま、小さく息を吐く。
「早く済んだのは、助かる。長居する場所じゃねえ」
「うん。すぐ帰る」
ニッカが筐体を抱え直したその時だった。
人垣の奥から、値踏みするような視線がこちらへ注がれているのに、ニッカはふと気づいた。
派手な刺青を覗かせた男が数人、台のそばで低く言葉を交わしている。この一帯の空気に、明らかに馴染んだ雰囲気を纏っていた。値がつかなかった鉄くずを、あっさりと持ち去っていく小柄な女を、面白がるような目で眺めている。
腰の鞘に収まった得物の柄が、裸電球の光を受けて鈍く光った。誰かに見せつけるためではなく、そこにあるのが当たり前だと言わんばかりの佩き方だった。ニッカは筐体を抱える腕に、知らず力を込めていた。
「……何」
小さく漏れた呟きに、答える者はいなかった。ただ、その視線だけが、いつまでもこちらの背中に張りついているような気がしてならなかった。
隣で気づいたドリオが、視線だけを男たちの方へ動かした。
「……見られてるわね」
「気のせいじゃない」
「かもね」
短いやり取りの後、メインが低く一言だけ告げた。
「急ぐぞ」
ドリオとメインに促され、ニッカは筐体を大事に抱えたまま、会場の出口へと足を向けた。裸電球の下を通り過ぎるたび、抱えた筐体の重みが、これから起こる何かを予感させるように、じんわりと腕に伝わってくる。
薄暗い階段を上りきると、ファルコが待たせていた車のエンジン音が、静かに響いていた。ドリオが後部に乗り込み、ニッカも続いて筐体を膝の上に抱え直す。
「……何かあったのか」
運転席から、ファルコが窺うように尋ねた。メインが助手席に乗り込みながら、短く答える。
「タイガークロウズらしき連中に、目をつけられたかもしれん」
「……穏やかじゃねえな」
ファルコがハンドルに手をかけながら、わずかに眉を寄せた。エンジンが唸りを上げ、車は薄闇の裏路地を静かに滑り出していく。
「で、結局何を作るつもりなの」
ドリオの問いに、ニッカは筐体を見つめたまま、小さく笑った。
「まだ、内緒」
「またろくでもないこと考えてるわね、その顔」
「褒め言葉として受け取っておく」
軽いやり取りの後、車内には束の間の静けさが戻った。
膝の上の筐体を見下ろしながら、ニッカはふと、バートならこれをどう評価しただろうかと考えた。きっと渋い顔で「危ない橋を渡るな」と小言を言いながらも、コイルの巻き方だけは、黙って褒めてくれた気がする。
膝の上の重みを抱えながら、ニッカの頭の中では、早くもこの部品をどう組み替えるかという算段が動き始めていた。壊れた外殻をどう切り離すか。コイルの特性を殺さずに、どんな出力へ作り替えられるか。不安と好奇心が、奇妙に同居したまま胸の中で渦を巻いている。
手に入れた喜びと、拭いきれない胸騒ぎが、同じ重さで胸の中に居座っていた。窓の外を流れるネオンの光を眺めながら、彼女はただ、この夜が静かに終わってくれることを願うしかなかった。
今朝、あれほど持て余していた平穏の分厚さを思い出す。あの手持ち無沙汰な静けさが、今はもう随分と遠いものに感じられた。求めていたのは、こんな胸騒ぎではなかったはずだ。それでも指先の高揚だけは、まだしっかりと膝の上の重みに繋ぎ止められている。
視線の主が誰なのか、ニッカにはまだ分からなかった。それでも、平穏な買い出しでは済まないという予感だけが、静かに胸の奥へ沈んでいった。