車内に流れる沈黙は、行きよりも重たく感じられた。膝の上に抱えた筐体の冷たさだけが、ニッカの意識をどうにか繋ぎ止めている。頭の中では、焼け焦げた外殻をどこまで削り落とせるかという算段が、勝手に回り続けていた。
窓の外を流れる裏路地の灯りは、行きに見たものよりもまばらだった。ファルコはハンドルを握ったまま、時折バックミラーへ視線を投げている。その頻度が来た時よりも明らかに増えていることに、ニッカは気づいていた。
「……ついてきてる?」
小さく尋ねると、ファルコは前を向いたまま短く答えた。
「まだ確証はねえ。だが、勘は外れねえ時の方が多い」
言いながらも、ファルコの手はハンドルを握り直していた。いつでも急旋回できる姿勢が、無理なく保たれている。長年荒野を走り抜けてきた者だけが持つ、無駄のない身構えだった。
助手席のメインが腕を組んだまま、窓の外を睨みつける。
「灯りを落とせ。回り道でいい」
「了解だ」
車内の照明が絞られ、周囲の闇がひときわ濃くなった。ドリオがニッカの肩にそっと手を添える。
「大丈夫。こういう時は、下手に慌てない方がいいの」
「……うん」
頷きながらも、ニッカの指先は筐体の縁を強く握りしめていた。
膝の上の重みを確かめるたび、頭の片隅では外殻をどう切り離すかという算段が勝手に進んでいく。恐怖よりも先にそちらの計算が動き出してしまう自分の性分を、彼女は今更ながら少し情けなく思った。
「そんなに固くならなくても」
沈黙を破ったのはドリオだった。
「……固くなってない」
「なってる。さっきから、その筐体を抱く力がどんどん強くなってるわよ」
指摘されて初めて、ニッカは自分の腕の強張りに気づいた。慌てて力を緩めると、ドリオが小さく笑う気配がした。
「壊さないでよ、その大事な鉄くず」
「鉄くずじゃない」
「分かってる、分かってる」
軽くいなされ、ニッカは口をつぐんだ。窓の外を過ぎていく裏路地の暗がりを見つめながら、指先だけは、まだ筐体の縁から離れずにいた。
異変は、細い路地の折れ角で起きた。
行く手を塞ぐように、数台のバイクが横並びに停まっている。逆光の中、跨がった人影のシルエットだけが浮かび上がっていた。エンジンの唸りが、狭い路地の壁に反響している。
左右に迫るコンクリートの壁には、罅割れた表面に古い落書きが重なり合っていた。頭上を這う配管から落ちる水滴の音だけが、やけにはっきりと耳に届く。逃げ場のなさが、静けさによって際立っていた。
ファルコが小さく舌打ちし、車を停めた。
「……挟まれたな」
バックミラーの中にも、いつの間にか同じ数のライトが並んでいる。退路は、すでに塞がれていた。
狭い路地の左右には、逃げ込めそうな脇道すら見当たらない。メインが窓の外へ視線を這わせ、低く呟いた。
「六、いや七か。数えるだけ無駄な人数だな」
「悪知恵は働くらしい。挟み撃ちの位置取り、素人の仕事じゃねえな」
ファルコが低く応じる。エンジン音の唸りが四方から重なり合い、車体を包み込むように迫ってきた。ニッカは息を殺したまま、膝の上の筐体を胸に引き寄せる。
逃げ道を数えることに慣れた頭が、勝手に左右の壁の高さと隙間の幅を測り始めていた。荒野で染みついた癖は、都会の裏路地でも変わらず律儀に働き続けている。だが今は、その計算がどこにも答えを出せずにいた。頭の中の地図には、抜け道の一本すら見当たらない。
バイクの群れの中心から、一人の男がゆっくりと降りてくる。首筋から腕にかけて這う龍の彫り物が、皮膚の下から淡い光を滲ませていた。腰の鞘に収まった刀の柄には、微かな青い明滅が走っている。
その意匠を、ニッカは知っていた。ヘッドライトの逆光越しでも見間違えようがない。今朝キーウィの口から聞いた名前と、前世の記憶の底に沈んでいた注意書きが、頭の中で音もなく重なった。
(タイガークロウズ)
(よりによって、一番会いたくない相手)
「――あんたら、さっきの会場にいたよな」
男の声には、隠す気のない値踏みの響きがあった。
「悪いが、通してもらう」
メインが低く答えると、男は笑うでもなく肩をすくめた。
「そう急ぐなよ。ちょっとした通行料の話だ」
「聞く義理はねえ」
「あるさ。ここは俺たちの縄張りだ。会場から鉄くず持ち出す連中には、それなりの筋を通してもらってる」
軽い口調のまま、男の視線が後部座席へと動いた。ニッカが抱えた筐体の上で、その目がわずかに細くなる。
「その荷物、見せてもらおうか」
「見せる義理も、ない」
「義理の話をしてるんじゃねえ。俺が見たいって言ってるんだ」
男の口調が、わずかに苛立ちを帯び始めた。
「……これは」
思わず筐体を抱え直したニッカに、男は初めて表情を崩した。嘲るような笑みだった。
「別に取って食おうってんじゃねえ。ただ、あんな鉄くずに、なんでそこまで必死になれるのか気になっただけだ」
仲間らしき数人が、後ろでどっと笑い声を上げる。
「会場でも見たぜ。誰も見向きもしねえゴミを、大事そうに抱えてる女がいるってな」
「価値、分かってない」
思わず口をついて出た反論に、男は片眉を上げた。
「へえ。じゃあ聞かせてくれよ。そのポンコツの、どこにそんな価値があるんだ」
ニッカは口を閉ざした。ここで説明したところで、通じる相手ではない。分かっていながらも、指先だけは筐体の縁を強く押さえていた。
男が一歩、車に近づいた。
「黙ってちゃ分からねえな。まあいい。どうせ大した理由もねえんだろ。捨てられかけた屑くらい、屑らしく手放しちまえよ」
言うなり、半分下ろしたままの窓から男の手が筐体へ伸びた。乱暴な仕草だった。中の巻き線が、この持ち方では歪みかねない。
(そこ、そんな持ち方したら)
(駄目、繊細な巻き方なのに)
(力を入れすぎたら、断線する)
考えるより先に、ニッカの手が動いていた。筐体を強く引き戻し、男の指先をすり抜けさせる。
「触らないで」
低く発した声に、自分でも驚くほどの硬さが混じっていた。
男の目つきが変わった。面白がるような色から、苛立ちの色へ。
「……はっ。ゴミ拾いの分際で、随分と態度がでかいじゃねえか」
「ゴミじゃない」
「ゴミだろうが。会場の連中も、誰一人本気で欲しがってなかった代物だ」
「見る目、なかっただけ」
言い返す声が、自分でも止められないほど早口になっていく。傍らでドリオが息を呑む気配がした。
「このコイルの巻き方は、量産品には絶対出てこない設計。損失を極限まで削るための、二重の遮蔽構造。作った人は、間違いなく本物の技術屋。壊れてるのは外殻と制御基板だけで、心臓部はまだ生きてる。それを分からずに、鉄くず扱いで処分するなんて」
一息に言い切ったところで、車内の空気がしんと静まった。ドリオが呆れたように、それでいてどこか可笑しそうに、小さく肩を揺らしている。
「……あんた、こんな時まで早口の解説癖」
「……つい」
我に返ったニッカが口をつぐんだ隙に、男が鼻で笑った。
「ご立派な講釈だが、こっちにゃ興味ねえ。ただの理屈より、実物を見せてもらった方が早いな」
男が刀の柄に手をかけた。青い光が、刃の輪郭に沿って一段と強くなる。
「大人しく渡すか、無理やり奪われるか。好きな方を選ばせてやるよ」
「……渡さない」
ニッカの声は、震えてはいなかった。恐怖よりも、ただ理不尽への苛立ちが先に立っていた。何も分かっていない誰かに、丹念な仕事の結晶を屑として扱われる。その一点だけが、彼女の中で許せない何かに触れていた。
「頑固な女は嫌いじゃねえが、時と場所を考えろよ」
男が刀を完全に鞘から抜いた。青い刃が路地の暗がりに、細く尾を引くような光を残す。周囲のバイクの上でも、刃や銃身が次々と持ち上がっていく気配が伝わってきた。
路地に満ちていた喧騒が、その瞬間だけ遠くへ退いた。エンジンの唸りも、仲間たちの息遣いも、耳の奥で鈍く霞んでいく。聞こえるのは、自分の鼓動と、抱えた筐体のかすかな軋みだけだった。
「メイン、下がって」
「今更遅い」
メインが低く唸り、得物へ手をかける。ドリオも身構え、車内の空気が一気に張り詰めた。
だが、実際に動いたのは、ニッカの方が先だった。
膝の上の筐体を素早く裏返し、破損した外殻の隙間から内部の端子を露出させる。工具ベルトに挟んでいたハンダごてと、道端で拾ったまま工具袋の底に転がっていたジュースの空き缶を、迷いなく取り出した。
「……何のつもりだ」
男が訝しげに眉を寄せる。ニッカは答えなかった。答える余裕もないほど、指先はすでに動き始めていた。
空き缶の底を切り開き、内側の金属面をコイルの端子へ押し当てる。義手の右腕が、震え一つなく細い配線を挟み込んでいく。ハンダごての先端が焦げた基板の残骸を薙ぎ払うように滑り、剥き出しの端子同士を素早く繋いでいった。
誰かが息を呑む音が、車内に微かに響いた。
(このコイル、放熱の逃がし方まで最初から計算されてる)
(ここに繋いで、ここを絞れば……)
(缶の内側、ちょうどノズルの形に潰せば、方向も収束できる)
思考が言葉になるより早く、指先がそれを形にしていった。義手の握力を極限まで絞り込みながら、空き缶の口を慎重に潰して細い噴出口へと変えていく。焦げた基板の残骸を取り除いた分だけ、内部の熱が逃げ場を求めて渦を巻き始めた。
手順に迷いはなかった。この巻き線がどこまで無茶を許すかは、蓋を開けて指先で辿った時点で、すでに掌が覚えている。あとは足りない部品を、その場にあるもので埋めていくだけだった。
コイルの奥に眠っていた電荷が、繋いだ回路を通じて空き缶の内側へと集束していく。放熱経路の取り回しまで見越して設計された巻き線は、急ごしらえの回路にも従順に応えた。缶の口から、白く細い光が漏れ始める。
「……できた」
小さな呟きが、車内の緊張をわずかに緩めた。だが、外の空気はまだ張り詰めたままだった。
「おい、時間切れだ」
男が痺れを切らしたように、抜き身の刃を大きく振り上げた、その瞬間。
缶の口から漏れる光が、白から青へと色を変えていく。義手が最後の一本の配線を繋いだ感触を、ニッカは指先の奥ではっきりと捉えていた。出力が臨界に届く寸前の、あの独特の痺れるような手応えだった。
振り下ろされる刃と、収束していく光。どちらが先に間に合うか、その一点だけに意識が絞られていく。
(――いける)
ニッカは窓を一気に開け放ち、缶の口を外へ向けた。
次の刹那、白い光の帯が空き缶の先端から迸った。狙いは男でも、バイクの群れでもない。彼女の視線は、路地の側面――配管の陰に埋もれるように据えられた、朽ちた非常扉の鉄板だけを捉えていた。
光の帯が鉄板を舐めると、分厚い一枚が音もなく赤く染まった。溶けた縁からどろりと垂れ落ちていく。数秒足らずで、車一台がやっと通れるほどの穴が、闇の向こうへと開いていた。
辺りが、しんと静まり返った。
バイクに跨がった男たちが、誰一人として言葉を発しない。刀を振り上げたままだった男も、青白い刃を握ったまま口を半開きにして固まっている。
「……マジかよ」
誰かの掠れた声が、静寂を破った。
「あんな鉄くずから、あの出力……」
呟きが、群れの中に小さく波紋のように広がっていく。ニッカは焼けた缶の残骸を膝の上に置いたまま、荒くなった息を整えていた。
「行くぞ!」
メインの声が短く飛んだ。
ファルコが即座にアクセルを踏み込み、車は溶け落ちた鉄板の穴へ向かって斜めに切り込んでいく。立ち尽くす男たちの脇を掠め、まだ赤みの残る縁を擦りながら、車体は穴の向こうへ滑り込んだ。追ってくる者は、一人もいなかった。
「あんた、正気?」
ドリオが半ば呆れ、半ば感心したような声で呟いた。ニッカは膝の上の缶を見つめたまま、小さく肩をすくめる。
「……壁だけ、狙ったから」
「そういう問題じゃないのよ……」
苦笑交じりの指摘に、ニッカは何も言い返せなかった。
穴を抜けた先は、別の路地に繋がっていた。だが、安堵する暇もなく、背後から複数の足音と怒声が追いついてくる。振り返った先には、会場から流れ出てきたらしい野次馬の群れが、我先にと車を追いかけ始めていた。
「あの女、闇市の噂の……!」
「本物だ、本物がいたぞ!」
群れの先頭で叫んでいたのは、見覚えのある顔だった。会場へ向かう途中、声をかけてきたあの露店の店主だ。噂は噂だと笑っていたはずの男が、誰よりも興奮した顔で車を指差している。
「やっぱり本物だったんだ! 俺、最初から気づいてたんだよ!」
白々しい台詞に、ニッカは窓の内側から思わず低く呻いた。周囲の野次馬たちの声が幾重にも重なり合い、狭い路地の壁に反響していく。
群れの後方では、片眼にゴーグルをかけた主催者の男までもが、紙束を抱えたまま走り出していた。
「おい待て、鑑定料も払わずに逃げる気か!」
的外れな叫び声が、追いかける足音に紛れて遠ざかっていく。誰もが好き勝手に理由をつけて追いすがってくる様子に、ニッカは頭を抱えたまま座席の奥へ沈み込んだ。
「……最悪」
「今更だな、それ」
メインの一言はいつもの軽口の形をしていたが、その声には笑いの色が一つも混じっていなかった。ファルコが舌打ちしながらハンドルを切る。
「先の交差点、瓦礫で塞がってる。回り道するぞ」
「急げ」
メインの一言に、車は激しく揺れながら次の角を折れた。
その時、車載の通信端末が甲高い音を立てて震えた。表示された発信元に、ニッカは目を疑った。
『お客様、大変とお見受けいたします』
聞き覚えのある、丁寧すぎる文面だった。
「……なんで、今」
『恐れながら、鈴木様の生体信号を継続的に見守っております故、些細な変化にも即座に気づく次第でございます』
「見守るとか、いらない」
打ち込む間もなく、返信が続いた。
『ちょうど付近を巡回しておりました。よろしければ、緊急脱出のお手伝いをさせていただきます』
言い終わるより早く、前方の角から一台のセダンが猛烈な勢いで滑り込んできた。ハザードランプを激しく点滅させながら、ファルコの車と並走する形で速度を合わせてくる。
「……嘘でしょ」
「本物か、これ」
メインが目を丸くする横で、続けて二台、三台と、同じ塗装のセダンが次々に路地へ雪崩れ込んできた。
『鈴木様、こちらの車両へお乗り換えください。追跡を撒くルートは、既に計算済みでございます』
「……なんで、こんなにいるの」
『たまたま近くを走っていた同型車両にも、状況を共有させていただきました。皆、鈴木様のお役に立ちたいと申しております』
誇らしげとも取れる文面に、ニッカは頭を抱えたまま声にならない呻きを漏らした。
並んだ三台のセダンの間で、誰が先頭を務めるかを巡って、微妙な位置取りの押し合いが起きているのが窓越しにも見て取れた。ハザードランプの点滅が、心なしか対抗心を帯びて激しさを増している。
『鈴木様、恐れながら先頭車両は本個体でお願いいたします。本日、担当のシフトを調整して参りましたので』
『それは異議あり。本個体は先週より鈴木様の追跡優先順位を継続して保持しております』
二台分の通信文が、続けざまに端末へ流れ込んできた。ドリオが横から画面を覗き込み、堪えきれずに噴き出す。
「……車同士で、順番争ってるじゃない」
「知らない。私は何も見てない」
現実逃避のように呟くニッカの膝の上で、焼けた缶が小さく音を立てて転がった。
「乗り換えてる暇はあるのか」
メインが後方を一瞥しながら短く尋ねる。ファルコが速度を緩めずに答えた。
「向こうの方が速い。それに、こっちの車はもう面が割れてる」
「なら、置いていくか」
「そいつは勘弁してくれ。まだ走れるうちは、俺が乗る」
ファルコが帽子のつばを軽く押し上げ、バックミラーへ視線を戻した。
「ニッカと荷物だけでも先に移せ。この車が残ってりゃ、向こうもどっちを追うか迷う」
「……分かった」
諦めたようなニッカの一言を合図に、セダンの車列が角を折れながら巧みに速度を合わせた。ファルコの車と並んだわずかな隙間で、ドリオがニッカの背を押す。荷物の筐体を抱えたまま、ニッカは半ば引きずられるようにセダンの座席へ収まった。メインが最後に身体を滑り込ませ、後ろの扉が音もなく閉じる。
シートに背中を預けた瞬間、車内に落ち着いた合成音声が響いた。
『改めまして、ご乗車ありがとうございます、鈴木様』
「……喋らなくていい」
『承知いたしました。ですが、心の高鳴りまでは制御できかねます』
同じやり取りを、以前にもどこかで聞いた気がする。ニッカは深く息を吐き、シートに沈み込んだ。焼けた缶の残骸を握りしめたままの手のひらに、ようやくじんわりと汗の感触が戻ってきた。
しばらくして、車内のスピーカーから通信越しのファルコの声が届いた。後続で追走している自分の車から、どこか複雑そうに呟いている。
『……俺の運転技術、車のAIに負けたってことか』
「負けてない。役割が違うだけ」
ドリオが慰めるように口を挟むと、通信の向こうで小さく唸る気配がした。
『地図にない道を知ってるのは、俺だけのはずなんだがな』
「今日は、その道すら塞がれてたじゃない」
『……それはそう、なんだが』
しょげたようなファルコの声に、車内の空気がわずかに和んだ。
窓の外を、後方に取り残された野次馬の声が、みるみる遠ざかっていく。追いすがるバイクの音も、やがて完全に聞こえなくなった。
「……逃げ切った、みたい」
ドリオの呟きに、車内へ小さな安堵が広がった。だが、その安堵を吹き飛ばすように、助手席のメインが低く息を吐く。
「派手にやってくれたな」
「……ごめん」
「謝るところは、そこじゃねえだろ」
呆れた声に、ニッカはますます身を縮めた。
「壁一枚、瞬時に溶かすなんて」
ドリオが隣で、焼けた缶をまじまじと覗き込みながら呟いた。
「これ、本当にただの空き缶なの」
「うん。あとハンダと、コイルの中身」
「材料費、ほぼゼロってことよね」
「たぶん」
あっさりとした答えに、ドリオは天を仰ぐように息を吐いた。
「あんたのその無自覚さ、いつか本気で怖くなる時が来るわ」
「……気をつける」
「気をつけて、どうにかなる問題でもない気がするけど」
半ば呆れた言葉に、ニッカは黙って項垂れるしかなかった。
拠点の裏口が見えてきた頃、車内の合成音声が改めて口を開いた。
『鈴木様、本日はまことに貴重な瞬間に立ち会わせていただきました。この栄誉、社内記録として永久に保存させていただきます』
「……記録、消して」
『申し訳ございません。感謝の記憶までは、規約の外にございます』
以前にも聞いたやり取りが、今回も同じ結末を迎える。ニッカは深いため息とともに、シートへ完全に沈み込んだ。
拠点の裏口に横付けされたセダンから降りると、待ち構えていたキーウィが煙草の先を軽く揺らしながら出迎えた。焦げた金属の匂いをまとったまま、ニッカは重い足取りで一歩を踏み出す。膝の震えを気取られないよう、筐体を抱える腕にだけ、余分な力を込めていた。
「随分と派手な帰り方だな」
「聞かないで」
「聞かなくても、大体察しはつく」
乾いた声に、ニッカは何も言い返せなかった。キーウィは煙を細く吐きながら、抱えられた筐体へ一瞥をくれる。
「その様子だと、無事に持ち帰れたわけだ」
「……うん、それだけは」
「それだけは、か」
どこか含みのある言い方に、ニッカは肩を縮めた。
「工具ベルトは置いていけと言ったはずだが」
「……外すと、落ち着かないから」
「その落ち着かない代物で、壁を溶かしてきたわけか」
「壁は、缶で溶かした。ベルトじゃない」
「屁理屈は得意だな、相変わらず」
呆れたような一言を最後に、キーウィは煙草の灰を落としながら踵を返した。忠告を破った側が結果を出してしまった以上、これ以上の説教に意味がないと判断したらしい。通路の奥から様子を窺っていたレベッカとピラルが、揃って駆け寄ってくる。
「おい、なんだこの車列! デラマン、いつの間にこんなに増えたんだよ!」
「……成り行き」
「成り行きって言葉、あんたの口癖になりつつあるぜ」
ピラルの茶化しに答える気力もなく、ニッカは筐体を抱えたまま、ふらふらと通路の奥へ足を向けた。
「待てよ、まだ話終わってねえって!」
レベッカが端末を突きつけながら追いすがってくる。画面には、早くも拡散を始めた掲示板の書き込みが並んでいた。
「見ろよこれ、『壁をプラズマで溶かした謎の女』だとよ! あんた、ついにプラズマ使いにまで進化したのか!」
「プラズマ使いじゃない。ただの空き缶」
「空き缶で壁溶かすのが、もう十分おかしいんだよ!」
声を張り上げるレベッカの隣で、ピラルが長い義手を大袈裟に広げてみせた。
「ヒャハハ! 地下の亡霊が、今度は闇市の壁抜き女かよ! 一晩で肩書き増やしすぎだろ、お前!」
「増やしてない。勝手に増えた」
「そりゃあもう手遅れってやつだぜ、ニッカちゃん」
げらげらと笑うピラルに、ニッカは反論する気力すら残っていなかった。
背後から、デイビッドとルーシーが揃って様子を見にやってきた。
「無事だったか」
「……無事、というか」
「壁を溶かして逃げてきた、って話だけど」
「誰情報?」
「メインが今、そのまま報告してた」
容赦のない一言に、ニッカは天井を仰いだ。
「位置情報、ずっと追ってた」
ルーシーが端末を軽く掲げながら続けた。
「出力の異常値が、一瞬だけ振り切れてた。あれ、あなたの缶?」
「……見えてたんだ、それも」
「うん。デイビッド、ちょっと心配してた」
「俺は心配って言うか……その、まあ、心配はしてたけど」
デイビッドが気まずそうに視線を逸らす。留守番の間、通信機材の前でどんな顔をしていたのか、ニッカには想像するまでもなかった。
「……もう、噂になるの秒読み?」
「たぶん、もうなってる」
ルーシーが端末の画面を見せながら、淡々と告げた。会場周辺の掲示板には、すでに断片的な書き込みが並び始めている。「壁を溶かした女」「壁を溶かした鉄くず拾い」「闇市の伝説、目撃談」。誰かの誇張混じりの証言が、早くも独り歩きを始めていた。
「……早すぎる」
膝から崩れ落ちそうになるニッカを、ドリオがそっと支えた。
「今日のところは、休みなさい。続きは明日、頭を抱えればいい」
ドリオの声には、いつもより少しだけ優しい響きが混じっていた。
「……うん」
力なく頷いたニッカは、抱えた筐体だけは決して手放さず、自室へと引き上げていった。
ようやく一人になれた自室で、ニッカは筐体をそっと机に下ろすと、崩れるように椅子へ体を預けた。強張っていた肩から、ゆっくりと力が抜けていく。端末が短く震えたのは、そのすぐ後だった。表示された発信元に、ニッカは重い瞼のまま画面を見下ろす。
「……レジーナ」
『生きてるみたいね』
「……なんとか」
『今夜はそれだけ確かめたかったの。あの一帯で騒ぎを起こしたなら、向こうの筋にも顔は覚えられたと思いなさい』
「覚えられたくない」
『でしょうね。だから、しばらくカブキの地下には近づかないこと』
素っ気ないながらも気遣いの滲む一文に、ニッカは少しだけ肩の力を抜いた。
『続きは、また改めて。今日はもう寝なさい』
珍しく短い文面を最後に、通信は静かに途切れた。画面を見つめたまま、ニッカは小さく息を吐く。
「……忙しくなりそう」
誰にともなく漏らした呟きが、静まり返った自室に落ちて消えた。窓のない壁を見つめながら、ニッカはしばらくの間、椅子から動けずにいた。
*
深夜、消灯した拠点の片隅で、机の上には焼けた缶の残骸と、外殻を剥がされたコイルが並べられていた。
本来ならば、今夜くらいは大人しく休んでおくべきだった。分かっていながらも、指先は、既に新しい設計図を頭の中で組み立て始めている。
(あの出力、もう少し絞れば安定する)
(缶じゃなくて、もっと耐熱性のある筒があれば)
(次は、誰にも見られない場所で試したい)
反省とは名ばかりの独り言が、頭の中で次々と湧いては消えていく。今日の一件で得た教訓は、目立たないようにする方法ではなく、次はどう改良するかという算段だけだった。
工具箱の蓋を開けたニッカは、ふと手を止めた。窓の外――といっても地下深い拠点に窓などないが、それでも遠く感じる都市の気配へ向けて、小さく呟く。
「……バートなら、絶対怒る」
誰にともなく漏らした言葉に、答える声はなかった。それでも、怒られると分かっていて手を止められないのも、間違いなく彼から受け継いだ性分の一つだった。作業台の隅に転がったままの刃こぼれのレンチが、薄闇の中で鈍く光っている。
コイルの巻き始めに指を這わせるたび、会場で覚えた高揚がまだそこに残っていることに気づく。誰にも見向きもされないまま処分されかけていた仕事の結晶を、拾い上げられたのは自分だったという事実だけが、静かな誇らしさになって胸の奥に居座っていた。この巻き方に辿り着いた誰かは、今どこで何をしているのだろう。名前も顔も知らないその技術屋に礼を言える日が来るとは思えなかったが、そう考えるだけで、指先の動きが少しだけ軽くなった気がした。
焼けた缶を脇に置き、ニッカは新しいコイルの巻き直しに取りかかった。目立たないための誓いは、また一つ、静かに形を変えていく。
壁を溶かした瞬間の、あの静まり返った路地の空気を思い出す。誰かに褒められたいわけでも、認められたいわけでもなかった。ただ、丁寧に作られた物を屑扱いされることが我慢ならなかっただけだ。それだけのはずなのに、結果として残ったのは、また一つ増えた噂と、追いかけてくる視線だった。
バートの教えは、目立つな、関わるな、という一言に集約されていた。だが同じ人物が、壊れた機械を見捨てられなかったことも、ニッカはよく知っている。矛盾した二つの教えを、都合よく使い分けているだけなのかもしれない。そう思いながらも、彼女はコイルの導線を一巻きずつ、丁寧に巻き直す手を止めなかった。
通路の照明が、遠くでかすかに瞬いている。誰かが夜更かしをしているのか、それとも見回りの誰かが通っただけなのか、確かめる気力はもう残っていなかった。
それでも彼女の指先だけは、今夜もいつも通り、迷いなく動き続けていた。窓のない部屋の奥では、コイルを巻き直す小さな音だけが、いつまでも静かに続いていく。
今回は二話構成にしてみました。