昨夜の一件は、拠点の誰の記憶にもまだ生々しく残っていた。掲示板に流れた「壁を溶かした女」という文言を、レベッカは寝る直前まで飽きずに眺めていたらしい。ピラルは寝言でくすくす笑っていたと、ドリオが呆れ顔で証言していた。ニッカ自身は深夜過ぎまでコイルの巻き直しに没頭し、明け方近くになってようやく眠りに落ちていた。
朝食の席に着いても、頭の芯には夜更かしの重さがまだ残っていた。空き缶ひとつで壁を溶かした顛末を誰かに茶化されるだろうという覚悟だけは、目を覚ました瞬間から済ませていた。
その覚悟は、無駄にはならなかった。ただし茶化してきたのは、拠点の誰でもなかった。
朝食の後片付けが終わりかけた頃、テーブルの端に置いていた端末が軽く震えた。表示された発信元に、ニッカは箸を持ったまま眉を寄せる。
「……レジーナ」
画面をタップすると、いつもより幾分くだけた文面が浮かんだ。
『おはよう。昨夜の空き缶の話、もう街の噂になってるわよ』
「……早すぎる」
思わず声が漏れると、食堂の視線が一斉にこちらへ集まった。ニッカは慌てて画面を胸元へ引き寄せる。
『商売柄ってやつ。それはそれとして――今度、鈴木の仕事場を一度見てみたいんだけど』
「……仕事場?」
聞き返した声は、思っていたよりも大きく響いた。一度は逸れかけた視線が、今度こそ残らず戻ってくる。
『そう。あんたがどんな環境で、あの魔法みたいな仕事をしてるのか、単純に興味があるの』
「見せるようなものじゃない。ただの物置」
『それでも構わない。ジャンクと情報の取引相手なら、顔を合わせる場所くらい知っておきたいでしょう』
あっさりとした要求に、ニッカは端末を持つ手を止めた。
『別に探りを入れたいわけじゃないの。手の内を覗きに行くつもりなら、こんな前置きはしないでしょう』
「……興味だけ?」
『それだけ。信じるかどうかは、あんたの自由だけど』
からかうような一文を最後に、通信は途切れた。ニッカは端末を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
「なんだ、その顔」
真っ先に気づいたのはピラルだった。ニッカは思わず頬に手を当てる。
「……顔?」
「今度は悪だくみじゃなくて、困った顔してるぜ」
「困ってる」
素直に認めるニッカに、レベッカが茶碗を置きながら身を乗り出した。
「またレジーナか」
「うん。拠点、見に来たいって」
その一言に、食堂の空気が一瞬で引き締まった。誰もが同時に、まだ見ぬ来客のことを思い浮かべているらしかった。
「拠点の場所を、知らせるつもりか」
真っ先に低い声を上げたのはメインだった。ニッカは首を横に振る。
「場所は教えない。でも、仕事場を見たいって言われたら、多分断りきれない」
「断れない、じゃなくて、断らないの間違いじゃない?」
ドリオが静かに指摘すると、ニッカは言葉に詰まった。図星だった。あの淡々とした声で押し切られると、なぜか毎回、断る前に頷いてしまう自分がいる。
「――まあ、いつかはこうなる話だったのかもな」
腕を組んだファルコが、帽子のつばを指で押し上げながら呟いた。
「情報のやり取りを続けるなら、向こうも一度くらい直接顔を見て話したいと思うのは自然だ」
「危険は?」
ニッカが尋ねると、キーウィが煙草の先を軽く揺らしながら答えた。
「今のところ、あの女が裏切る兆候はない。だが招き入れるからには、こっちも見られて困るものは片付けておくべきだな」
「片付けるって、何を」
軽い気持ちで聞き返したニッカに、ドリオが真顔で答えた。
「まず、臭い」
「……臭い?」
ニッカが聞き返すと、ドリオは腕を組んだまま深く頷いた。
「あんた、自分じゃもう気づかないんでしょうけど。この拠点、正直かなり臭うわよ」
「……そんなに?」
「そんなに。真隣がゴミの山で、しかも風の通らない地下だもの。当然っちゃ当然だけどね」
容赦のない指摘に、ニッカは思わず自分の袖に鼻を近づけた。長年の油と金属の匂いに慣れきった鼻では、もはや判断がつかない。
「さすがに、あの臭いのまま人を招くのはまずいと思う」
ドリオの一言に、テーブルを囲む面々が一斉に頷いた。誰一人として、反論する者はいなかった。
「言われてみりゃ、最初の頃より鼻が慣れちまってるだけかもな」
ピラルが自分の腕の匂いを嗅ぎながら唸る。
「レベッカも、もう慣れちまったか?」
「うるせえ、あたしは元から鼻が利かねえんだよ」
軽口を叩き合う二人を横目に、デイビッドが心配そうに口を挟んだ。
「レジーナさん、来る前に何とかしないとまずいよな」
「うん。まずい」
ニッカは短く同意しながら、頭の中ではすでに脱臭装置の仕組みを組み立て始めていた。
「試しに、外から戻ってきた直後の鼻で確かめてみるか」
ファルコが提案した時、地上の中継アンテナを見に行っていたルーシーが、ちょうど通路を歩いてくるところだった。
「……ルーシー、今戻ったばかりだよな」
デイビッドの問いに、ルーシーは足を止め、小さく眉を寄せる。
「……確かに、少し」
「少し?」
「かなり」
言葉少なな評価に、食堂の空気がどっと沈んだ。外の空気を知っている人間の判定は、何よりも重かった。
「ほら見ろ、外から来た人間には一発でバレるんだよ」
ピラルが得意げに言うと、ニッカは頭を抱えた。
「……分かった。本気で対策する」
「脱臭対策、いつまでにやる必要がある」
メインが尋ねると、ニッカは端末の画面をもう一度確かめた。切れたはずの通信の末尾には、返事を待つ気配すらない短い一文が残されている。
『来週の頭、都合つけて』
日付も時刻も添えられていない。それでも、こちらが断らない前提で書かれていることだけは、嫌になるほど伝わってきた。
「一週間」
「一週間で、臭い消せるのか」
「消す装置なら、多分組める。問題は、どこに設置するか」
ニッカが呟くと、キーウィが灰を落としながら口を挟んだ。
「今の拠点、装置を置けるほど空いてる場所があったか」
「……ないかも」
言われてみれば、地下拠点の隅々まで、すでに生活と作業のための物で埋まっている。ニッカは腕を組んだまま、しばらく考え込んだ。
「物置なら、あるじゃない」
ドリオが思い出したように口を開いた。
「旧プラント時代のまま、誰も手をつけてない棚の一角」
「……ああ、あの奥」
ニッカの脳裏に、拠点移転の際、荷物をざっと放り込んだだけの一角が浮かんだ。四段組みの古い鉄棚が、天井近くまで廃材を抱え込んだまま、埃をかぶって立っている。
「あそこ、片付ければ装置置けそう」
「片付けるって、あんた一人で?」
「手伝ってくれるなら、助かる」
ニッカの言葉に、メインが腕組みを解いた。
「俺が付き合う。重い物運ぶだけなら造作もねえ」
*
朝食が片付いた後、ニッカとメインは連れ立って旧物置へ向かった。狭い通路を抜けた先に広がる空間には、長年の放置を物語るように、埃と油の匂いが濃く漂っている。
「……こりゃ、確かに酷いな」
メインが天井近くまで積まれた棚を見上げ、低く唸った。四段に組まれた鉄製の棚には、廃材や工具、正体不明の梱包材が無秩序に押し込まれている。
「一段ずつ、下から片付ける」
ニッカが腕まくりをしながら言うと、メインは頷き、上段へ手を伸ばした。
「上は俺がやる。お前は下だけでいい」
「平気、私も届く」
「無理すんな。棚、見るからに怪しい」
メインの忠告に、ニッカは軽く肩をすくめただけで、下段の廃材を手早く仕分け始めた。
二人の手が動くたび、積もった埃が細かい塵となって舞い上がる。掘り返すたびに、旧プラント時代の遺物が顔を出した。用途の分からない配線の束。錆で固まったままの万力。中身の抜けた樹脂ケース。どれも捨てられたわけではなく、ただ忘れられただけの物ばかりだった。
「こんなもん、いつ使う気だったんだろうな」
メインが錆びたスパナを摘み上げながら苦笑する。
「多分、誰も使う気なかった。とりあえず突っ込んだだけ」
「引っ越しの時にゃ、よくある話だ」
軽口を交わしながらも、二人の手は止まらなかった。棚の下段は、思ったより早く片付いていった。
作業が半分ほど進んだ頃、通路の奥からレベッカとピラルが顔を出した。
「差し入れ持ってきたぞ」
レベッカが飲み物の入った容器を掲げながら近づいてくる。ピラルもその後ろから、興味深そうに棚を覗き込んだ。
「うわ、埃すげえな。何十年放置されてたんだよ、これ」
「ここがまだ工場だった頃から、多分ずっと」
「そりゃ、そろそろ崩れてもおかしくねえ年季だな」
軽口交じりの一言が、まさかの前兆だったとは、この時誰も気づいていなかった。
異変は、上段の梱包材をメインが引き抜いた、その直後に起きた。
支柱を軋ませる嫌な音が、一瞬にして棚全体を伝った。
「……っ、離れろ!」
メインが叫ぶと同時に、四段の棚が横倒しになるように傾いた。積み上がった廃材と工具が、雪崩れるように落下してくる。
ニッカは咄嗟に飛び退いたが、逃げ遅れたのはレベッカだった。差し入れの容器を掲げたまま、崩落の真下に立ち尽くしている。
「危ない!」
メインが横合いから体当たりするように飛び込み、レベッカを突き飛ばした。二人が転がり込んだ場所のすぐ脇を、崩れた棚の残骸が轟音とともに叩きつける。
埃が濃く舞い上がり、しばらくの間、誰も声を発することができなかった。
「……レベッカ、無事か」
メインの掠れた声に、埃の中から咳き込む音が返ってきた。
「……危うく、玉座ごと潰されるとこだったぜ」
軽口混じりの返答に、ニッカは思わず安堵の息を吐いた。
「――メイン、腕」
ドリオが駆けつけ、真っ先にメインの右腕を指差した。廃材の角が掠めたらしく、肘の下に細い擦り傷ができている。
「これくらい、大したことねえ」
「大したことなくても、消毒くらいさせなさい」
ドリオの有無を言わせぬ声に、メインは渋々腕を差し出した。手当てを受けながらも、その視線は崩れた棚の残骸へ向いたままだった。荒事には慣れているはずの男が、こういう時だけは大人しくドリオの指示に従う。長年の付き合いが培った、ある種の信頼の形だった。
「にしても、こいつはまずいな」
「まずい、って」
ニッカが尋ねると、メインは低く続けた。
「この程度の棚一つで、こうなるってことは、拠点全体の老朽化も思ってる以上に進んでるかもしれねえ」
その指摘に、集まってきた面々の間に、静かな緊張が走った。
ニッカは崩れた棚の残骸を見つめながら、拳を握りしめていた。片付ける手順ばかり考えて、棚そのものを一度も点検していなかった。放っておいた機械は、必ず一番悪いタイミングで牙を剥く。幼い頃から何度も聞かされたバートの言葉が、よりによってこんな形で証明されてしまった。
「……ごめん。先に、支柱を見ておくべきだった」
小さく漏らした謝罪に、メインは首を横に振った。
「お前のせいじゃねえ。四十年放置された棚だ、いつ崩れてもおかしくなかった」
「それでも」
「それでも、じゃねえ。今度から気をつければいい、それだけの話だ」
あっさりとした物言いに、ニッカは何も言い返せなかった。傍らでドリオが、二人のやり取りを黙って見守っていた。
「崩れた棚、片付けるついでに、中身も確認しとくか」
ピラルが廃材をどかしながら呟いた。積み重なった瓦礫の隙間から、見覚えのない配管の断片が覗いている。
「……これ、何」
ニッカが屈み込み、埃を払いながら覗き込む。壁の奥から伸びる古い配管が、崩れた棚の裏に隠れる形で、これまで誰の目にも触れずに残っていた。
「配管の先、辿ってみる」
工具袋から懐中電灯を取り出したニッカは、狭い隙間へ体を滑り込ませた。
「……給水管、みたい。それと」
配管を指先でなぞりながら、ニッカは奥へ光を向けた。壁面に埋め込まれた古い分岐盤が、埃の下からうっすらと姿を現す。
「余熱発電の分岐点。旧プラント時代の設備」
「まだ生きてるのか、それ」
メインの問いに、ニッカは分岐盤の端子を確かめながら頷いた。
「配線、生きてる。今の発電系統には繋がってないだけ」
思いがけない発見に、ニッカの指先がわずかに速く動き始めた。
「おい、何か見つかったのか?」
狭い隙間の外から、ピラルが首を伸ばして覗き込んでくる。
「配管。給水と、余熱発電の分岐」
「マジかよ、そんなのがこんな奥に眠ってたのか」
驚いた声を上げるピラルの後ろで、レベッカも興味津々に肩を並べた。
「使えるのか、それ」
「多分。ちゃんと繋ぎ直せば」
ニッカが答えると、狭い物置の空気が、にわかに色めき立った。
「……この余熱、脱臭装置の触媒にも使えるし」
呟きながら、ニッカの視線は配管のさらに奥へと移っていった。給水管の先には、朽ちかけた蛇口のような部品が、埃をかぶったまま残っている。
「ついでに」
彼女はゆっくりと顔を上げ、集まった面々を見回した。
「お風呂も、作れるんじゃない?」
その一言に、狭い物置がしんと静まり返った。
「……お風呂?」
最初に反応したのはレベッカだった。
「うちにあんのは、立ったまま浴びて終わりのシャワーだけだろ」
「そう。湯船がない。あるのは、ファルコを茹でかけたあれだけ」
ニッカが答えると、ピラルが目を輝かせた。
「マジかよ、それ本当に作れんのか!」
「給水と余熱の分岐、両方生きてる。配管さえ繋ぎ直せば、たぶん」
興奮気味に頷くニッカに、ドリオまでもが珍しく前のめりになった。
「本当に、作れるものなの?」
「作れる、と思う」
盛り上がる一同の輪から、少し離れた場所で煙草をくゆらせていたキーウィが、灰を落としながら口を挟んだ。
「ちょっと待て」
その一言に、場の空気が静まる。
「脱臭装置、棚の補強、それに加えて風呂まで。三つ同時にやって、どれも中途半端になるのが一番まずい」
冷静な指摘に、ニッカは口ごもった。
「……でも、せっかく余熱と給水、両方見つかったのに」
「見つかったからって、全部一度にやる理由にはならない」
キーウィの声には、いつもの淡々とした重みがあった。
「時間は、一週間しかない」
ドリオが腕を組みながら続けた。
「レジーナが来るまでに、優先すべきは脱臭でしょう。棚の補強と風呂は、後回しでもいいんじゃない」
「それは、もったいない」
ニッカが即座に反論すると、レベッカとピラルが揃って頷いた。
「あたしも、お風呂は今すぐ欲しい」
「俺様も一票。臭い消すのと同時に、風呂も作っちまえばいいだろ」
二人の後押しに、ニッカの表情がわずかに明るくなった。
「やる気は買うが、無理をして中途半端に終わらせるくらいなら、最初から絞った方がいい」
キーウィが重ねて釘を刺す。長年の経験に裏打ちされた忠告には、それなりの重みがあった。だが、ニッカはすでに頭の中で作業の割り振りを組み立て始めていた。
「三班に分ければ、いける」
「三班?」
「棚の補強班と、脱臭装置班と、お風呂班。同時に動けば、一週間でも間に合う」
自信ありげな物言いに、キーウィは小さくため息をついた。
「……止めても聞かないんだろうな、お前は」
「多分」
あっさりと認めるニッカに、キーウィは携帯灰皿へ煙草を押しつけながら、諦めたように肩をすくめた。
「なら、役割はこっちで決める」
メインが腕を組んだまま、低く声を発した。
「棚の補強は、俺とファルコでやる。力仕事は任せろ」
「異存ねえ」
ファルコが帽子のつばを軽く持ち上げながら頷いた。
「補強材は、資材倉庫の余りで足りるか?」
「足りねえだろうな。追加で調達が要る」
メインが答えると、ファルコは顎に手を当てて考え込んだ。
「鉄骨の余り、カブキの解体現場に行けば安く手に入るかもしれねえ。心当たりがある」
「頼りになるね」
ニッカが呟くと、ファルコは軽く肩をすくめただけだった。
「脱臭装置は、ニッカとデイビッド」
「俺?」
名指しされたデイビッドが目を丸くする。
「回路の細かい作業、手伝えるだろう」
「……まあ、やれることはやる」
少し緊張した面持ちで頷くデイビッドに、ニッカは小さく笑った。
「触媒コンバーター組む。デイビッドには、配線と組み立ての補助、お願いする」
「触媒コンバーターって、何だよそれ」
「臭いの分子を、化学反応で分解する装置。仕組みは説明しても、多分長くなる」
「……いい、聞かない。あんたの技術は、いつも聞くと長くなるって分かってるから」
諦めたようなデイビッドの返答に、周囲から小さな笑いが漏れた。
「お風呂の方は」
メインが視線を巡らせると、ドリオが真っ先に手を挙げた。
「私が仕切るわ。配管の勾配とか、水回りの細かい注文は任せて」
「注文、多そうだね」
「多いわよ、覚悟しておきなさい」
からかうような笑みに、ニッカは苦笑するしかなかった。
「水質と、排水の経路。それから、ちゃんと温度調整できる仕組みも欲しい。ファルコのシャワー事件、二度と繰り返さないでよ」
「あれは俺のせいじゃねえだろ」
名指しされたファルコが横から抗議すると、ドリオは涼しい顔で聞き流した。
「あたしとピラルは?」
レベッカが待ちきれないとばかりに尋ねると、キーウィが煙草を新しくくわえながら答えた。
「お前らは、資材調達だ。足りない部品を、カブキで揃えてこい」
「了解!買い出しなら得意分野だ!」
レベッカが拳を突き上げると、ピラルも肩をすくめながら頷いた。
「三班分の部品リスト、あとで寄越せよ」
「まとめて渡す」
ニッカが答えると、レベッカは既に頭の中で買い出しの段取りを組み立てているらしく、指を折りながらぶつぶつと呟き始めた。
「――配管の継手に、パッキンに、耐熱テープだろ。ついでに、腹が減るから何か食い物も買っとくか」
「買い出しのついでに、それ本題じゃない」
ニッカが呆れたように突っ込むと、ピラルが横から便乗した。
「大事なことだろうが。腹が減っては、力仕事もできねえ」
「せめて、部品を先に買ってから考えて」
念を押すニッカに、二人は揃って適当な返事をしながら、通路の奥へ駆け出していく。その後ろ姿を見送りながら、ニッカは小さく息を吐いた。
「あんたら、継手より先に肉串とか買ってくるんじゃないでしょうね?」
ドリオが呆れ混じりに念を押すと、遠ざかる二人の足音が一瞬だけ乱れたように聞こえた気がした。
「ルーシーは、レジーナ側の動きに変化がないか、引き続き見ておいてくれ」
キーウィが付け加えると、物置の隅で静かに端末を操作していたルーシーが小さく頷いた。
「了解」
「あと、拠点の消費電力。三班同時に動くと、発電機の負荷も上がる」
ルーシーの一言に、ニッカははっとした顔をした。
「……それも、見ておかないと」
「私の方で、モニターしておく。異常があれば、すぐ知らせる」
頼もしい申し出に、ニッカは小さく頭を下げた。
「無理はするなよ」
最後に、キーウィが煙草の灰を落としながら付け加えた。
「三班に分けるのは、お前の言い分としては筋が通ってる。だが、根を詰めすぎて誰かが倒れたら元も子もない」
「分かってる」
「――分かってる、はお前の口癖だが、大抵守られた試しがない」
図星を突かれ、ニッカは何も言い返せなかった。キーウィはそれ以上追及せず、短く息を吐いて踵を返した。
役割分担が決まると、崩れた棚の残骸を囲んでいた面々の顔つきが、それぞれの持ち場を思い描くように引き締まっていった。
「一週間で、全部終わらせるぞ」
メインの一言に、皆が短く頷く。狭い物置には、埃の匂いに混じって、これから始まる慌ただしい改修への高揚が静かに満ちていた。
「……本当に、間に合うかな」
ニッカが小さく呟くと、隣に立ったドリオが肩を軽く叩いた。
「間に合わせるのよ。あんたが言い出したことでしょう」
「うん」
*
午後になると、それぞれの班がさっそく動き出した。ファルコとメインは崩れた棚の残骸を運び出し、代わりに新しい支柱を組む準備に取りかかっている。金属を切る音と、資材を運ぶ重い足音が、通路の奥から絶え間なく響いていた。
「支柱、この角度で本当に持つのか」
「持たせる。持たなきゃ、また崩れて元も子もねえ」
二人のやり取りが、埃の舞う空間に淡々と続いていく。溶接の火花が時折散り、薄暗い物置を一瞬だけ明るく照らし出した。
「――にしても、三つも同時に始めるとはな」
ファルコが手を止めずに呟くと、メインは短く笑った。
「あいつらしいだろ。一つで済ませる性分じゃねえ」
「否定はできねえな」
ファルコが苦笑まじりに呟くと、二人の間に短い笑いが漏れた。
ニッカとデイビッドは、隣の一角に机を広げ、触媒コンバーターの部品を並べ始めていた。
「これ、どこから手をつければいい」
「まず、フィルターの骨組み。廃品置き場から、耐熱性のある金網、拾ってきてくれる?」
「了解」
素直に頷いたデイビッドが駆け出していく後ろ姿を見送りながら、ニッカは部品をひとつずつ手に取り、頭の中で回路図を組み立て始めた。触媒の反応速度、風量の調整、そして何より、効きすぎて周囲に影響を及ぼさない程度の出力に抑えること。考えるべきことは、思っていたよりも多かった。
しばらくして、金網を抱えたデイビッドが戻ってきた。
「――これでいいか?」
「うん、ちょうどいい。次は、これを筒状に丸めて」
「丸めるって、素手でか」
「工具、貸す」
手渡された金網用の曲げ工具を使い、デイビッドは不慣れな手つきで金網を丸め始めた。慣れない作業に苦戦しながらも、投げ出そうとはしない粘り強さが、彼の性分らしい。
「なあ、これ本当に一週間でできるのか」
「できる。多分」
「多分、って言われると、ちょっと不安になるんだけど」
デイビッドが手を止めずに苦笑すると、ニッカは配線を束ねる手も止めずに答えた。
「大丈夫。設計は、もう頭の中でほとんど組み終わってる。あとは、手が追いつくかどうかだけ」
「その自信、いつも根拠が謎なんだよな」
呆れたような呟きに、ニッカは小さく肩をすくめただけだった。
少し離れた場所では、ドリオが配管の図面らしきものを広げ、カブキから戻ったばかりのレベッカとピラルに指示を飛ばしていた。
「排水は、こっちの経路。傾斜、もう少しつけないと水が溜まるわよ」
「傾斜って言われても、俺様には分かんねえよ。そんな細かいの」
「分からなくていいから、言われた通り掘って」
容赦のない指示に、ピラルが情けない声を上げながらもシャベルを手に取る。買い込んだ継手の袋を下ろしたばかりのレベッカは、案の定、串焼きの包みを小脇に抱えたままだった。
「言っとくけど、これは部品を買ったついでだかんな」
「順番、完全に逆になってると思うけど」
ドリオが半眼で突っ込むと、レベッカは悪びれずに串を頬張りながら作業へ加わった。
夕方近く、通信室の隅でモニターを眺めていたルーシーが、静かに呟いた。
「――発電負荷、今のところ問題なし」
「ありがとう」
通りかかったニッカが短く礼を言うと、ルーシーはわずかに目を細めただけで、また画面へ視線を戻した。
通路の奥からは、土を掘り返す音と、ドリオの指示する声が絶えず聞こえてきた。狭い拠点の中で、三つの作業が同時に進んでいく様子は、これまでの静かな暮らしからは想像もつかない賑やかさだった。
その日の作業を終える頃には、拠点全体に、これまでとは違う種類の疲労と、確かな手応えが同居していた。崩れた棚の跡地には新しい支柱が二本まで立ち、触媒コンバーターは筒の骨組みまで形になった。水回りの掘削も、わずかながら進んでいる。
「思ったより、進んだな」
メインが額の汗を拭いながら呟くと、ファルコも小さく頷いた。
「初日にしちゃ、上出来だろう」
その言葉に、ニッカは工具を片付けながら小さく息を吐いた。三つの計画が同時に動き出した今日という日は、拠点にとって、確かに新しい何かが始まった一日だった。疲労の色は誰の顔にも滲んでいたが、道具を置こうと言い出す者は一人もいなかった。
*
その夜、作業道具を片付けたニッカは、剥き出しになった壁面の分岐盤を見つめていた。余熱発電の熱は四十年ものあいだ拠点の電気を賄い続けてきたのに、この分岐だけは一度も繋ぎ直されないまま、棚の裏で埃をかぶっていたことになる。
「……あんたも、まだ働けるとは思ってなかったよね」
誰にともなく漏らした呟きに、答える声はなかった。それでも、埃を払われた分岐盤は、心なしか静かに存在を主張しているように見えた。
思えば、この拠点そのものが、廃棄の烙印を押されたまま忘れられていた場所だった。誰にも顧みられなくなった施設に、もう一度息を吹き込む。その作業は、闇市で拾い上げた壊れたコアを新しい形へ組み替えることと、どこか似ている気がした。壊れているように見えても、丁寧に手を入れれば、まだ動くものがある。バートの教えは、こんな場所にまで、静かに根を張っていたらしい。
昨夜は壁を溶かし、今日は棚を崩した。振り返れば、褒められたものではない二日間だったが、それでも積み上がった瓦礫の下から、思いがけない拾い物が見つかったこともまた事実だった。壊れたものの奥に、まだ使えるものが眠っている。その事実だけは、いつだって彼女を静かに前へ進ませてくれる。
レジーナが訪れるまで、あと一週間。臭いも、老朽化も、水回りの不便さも、すべてが一度に牙を剥いてきたような始まりだった。それでも彼女の指先は、次にやるべき作業の順番をもう組み立て始めている。
物置の奥には、片付けきれなかった廃材の山が、まだ黒い影のまま残っていた。明日はあの下も掘り返すことになる。何が出てくるかは分からないが、この拠点に関しては、何も出てこない方が珍しかった。
工具箱の蓋を静かに閉じながら、ニッカはもう一度、分岐盤へ目を向けた。
「一週間後、笑ってられるといいけど」
誰に聞かせるでもない呟きが、静まり返った物置の暗がりに溶けていく。答える声はどこからも返ってこなかった。それでも彼女は一人で小さく頷き、明かりを落として通路へ出た。