棚が崩れた夜から一晩が明けても、拠点にはまだ埃と汗の匂いが濃く残っていた。三班に分かれた改修は初日の勢いを保ったまま二日目へ持ち越されている。通路のあちこちには工具箱や資材の束が、片付ける暇もないまま無造作に積み上げられていた。誰の顔にも寝不足の色が滲んでいる。それでも、疲れよりは高揚の方が濃かった。
旧物置の一角に組み上げられた触媒コンバーターは、二日目の朝を迎える頃には、あらかた形を成していた。円筒状に丸めた金網の内側へ、ニッカが手ずから焼き固めた触媒層が幾重にも重ねてある。風を送るのは廃棄場から拾ってきたファンモーターだった。余熱発電の分岐から引いた配線が、装置の腹に小さな唸りを灯している。
骨組みだけは昨夜のうちに仕上げてあった。残っているのは細かな詰めばかりで、触媒の焼成具合、風量の絞り、それに排気の向き。どれも一つずつ確かめながら進めるしかない。派手さとは無縁の、地味な時間だった。
「これで、あとは電源を繋ぐだけ」
ニッカが最後の配線を留め具で固定しながら呟くと、傍らでしゃがみ込んでいたデイビッドが額の汗を拭った。
「本当に、これで臭い消えるのか」
「消える。多分、想像してるより早く」
「その『多分』が、いつも一番怖いんだよな」
自信ありげな答えに、デイビッドは半信半疑の顔をしたまま電源盤の前へ回り込んだ。指先が触れるたびに軽く跳ねる配線の束を、まだ慣れない手つきで束ね直していく。出会った頃は工具の名前すらろくに覚えていなかった少年が、こうして装置の一角を任されるようになっている。その事実に、ニッカは密かな感慨を覚えていた。
「じゃあ、いくよ」
ニッカがスイッチへ手をかけると、装置の内部でファンが低く回り始めた。金網の筒を通り抜けた空気が触媒層をくぐり、わずかな熱を帯びて排気口から吐き出されていく。最初の数秒は、何も変わらないように見えた。
変化は、気づいた瞬間にはもう起きていた。
この拠点の臭いは、いつも喉の奥に薄く貼りついてくる種類のものだった。腐りかけた甘さと、金属の錆と、湿った紙の饐える匂い。それらが幾重にも折り重なった膜が、剥がれるようにして薄れていく。抜けた後に残ったのは、油と埃と、乾いたコンクリートの匂いだけだった。
デイビッドが小さく首を傾げる。それから、自分の鼻を指先で軽く挟み、もう一度深く息を吸い込んだ。
「……あれ」
「どうかした」
「臭い、薄くなってねえか」
「うん。順調」
ニッカが装置のメーターを覗き込みながら短く答える。通路の奥から、様子を見にきたピラルが大げさに鼻をひくつかせながら近づいてきた。
「おお、確かに違うな。これ、俺様の鼻がおかしくなったわけじゃねえよな」
「おかしくなってない。触媒が、臭いの分子を分解してる」
「小難しいことは分かんねえけど、効果はマジらしい」
ピラルは自分の作業着の袖に鼻を近づけ、感心したように何度も頷いた。長年染みついた匂いすら薄れているように感じるらしい。その反応に、ニッカは満更でもない顔をした。
「仕組み、気になる?」
「いや、別に」
「触媒層の表面積を稼ぐために、金網を三重構造にしてる。風が通るたびに分子レベルで――」
「悪い、俺様やっぱ興味ねえわ」
早口で語り出したニッカに、ピラルは両手を挙げてあっさりと降参した。得意な分野の話になると解説が止まらなくなるのは、彼女の昔からの癖だった。横で聞いていたデイビッドが、慣れた様子で苦笑する。
「その調子で喋り出したら、誰も止められねえんだよな」
「止めてくれていい。分かってる、聞かれてもないのに喋る癖」
自覚はあるらしく、ニッカは咳払い一つで口をつぐんだ。それでも視線を落とした先では、指先だけが嬉しそうにメーターの縁を撫で続けていた。
異変の報せが届いたのは、稼働から小一時間ほどが過ぎた頃だった。通路の入り口に立っていた見張りの青年が、慌てた様子で駆け込んでくる。
「おい、外の様子がおかしいぞ」
その声に、作業の手を止めたニッカとデイビッドが顔を見合わせる。
「外って、廃棄物処理場のか」
「ああ。いつもの鼻が曲がるようなやつが、今日に限って全然しねえ」
告げられた内容に、ニッカの手が表示盤の上で止まった。想定していた効果範囲は、あくまで拠点の内部までのはずだった。
「……効果、拠点の外まで届いてる?」
「らしいな。俺、見回りの途中で気づいた。処理場の連中も、なんか変な顔して周り嗅ぎ回ってたぞ」
青年の声には、驚きと戸惑いが半々に滲んでいた。
「あと、これは俺の見間違いかもしれねえけど」
「なに」
「処理場の隅から、ネズミの群れがぞろぞろ逃げ出していくのを見た。ねぐらにしてた場所から急に臭いが抜けて、驚いたのかもしれねえ」
「……それは、さすがに想定してなかった」
ニッカが珍しく言葉に詰まると、傍らのデイビッドが噴き出した。
「臭いを消しただけで、ネズミの引っ越しまで引き起こすとかな」
「悪いことした気持ちには、ならないけど」
「ならなくていいと思う。むしろ、あいつらにとっちゃ贅沢な悩みだろ」
軽口を叩き合う二人をよそに、青年は肩をすくめながら持ち場へと戻っていった。
「効きすぎだろ、これ」
改めて装置を見上げたデイビッドが、思わず苦笑を漏らす。
「触媒の反応範囲、そんなに広いとは思ってなかった」
ニッカは装置に張り付いたまま、風量を示す表示を何度も確かめている。困った様子は微塵もなく、むしろその頬にはうっすらと満足げな色が浮かんでいた。
「設計より、効率が二割くらい上振れしてる。多分、旧プラントの余熱の質が想定より高かった」
「褒めてるところ悪いけど、それ喜んでる場合か」
「喜んでるわけじゃない。ただ、性能が出てるのは事実」
澄ました顔で言い切るニッカに、デイビッドはもう何も言わず天井を仰いだ。地下に潜んでいるはずの自分たちが、真上に広がる処理場一帯の悪臭まで消し去ってしまった。その事態は、彼の想像を軽く超えていた。
「……なあ、これ、逆に目立ったりしないよな」
思いついたように呟いたデイビッドに、ニッカは配線を束ねる手を止めて首を傾げた。
「臭いが消えて、何が目立つの」
「いや、俺にもよく分かんねえけど。急に周りだけ空気が変わったら、気づく奴もいるんじゃないかって」
「考えすぎ。ただの脱臭でしょう」
軽く受け流したニッカの声には、迷いのかけらもなかった。装置の唸りは規則正しく、メーターの針も安定した位置で落ち着いている。手元の数字がこれだけ素直に応えてくれている以上、疑う理由の方が見つからなかった。
噂を聞きつけたレベッカが興奮した様子で駆け込んできたのは、それからほどなくのことだった。
「マジかよ、あの悪臭名所が丸ごと消えたって話!」
「大げさに言うほどじゃない。ただ、装置の効果範囲が思ったより広かっただけ」
「いや、十分すげえだろ! ナイトシティ育ちのあたしでも、あんな臭いは滅多にお目にかかれねえレベルだったんだぜ。それが半日で消えるって、ちょっとした奇跡だろ」
興奮冷めやらぬ様子のレベッカに、ニッカはメーターへ視線を戻したまま控えめに肩をすくめた。
「奇跡じゃなくて、化学反応」
「細けえこと言うなよ」
レベッカは装置の周りを一周し、排気口に顔を近づけて大きく息を吸い込むと、大げさに天を仰いだ。
「これ、あたしの寝床にも一台欲しいくらいだ」
「一台しか作ってない。今のところは」
「今のところ、ってことは、増産の予定はあるんだな」
「そういう意味じゃない」
「いや、あったな。今の一拍、完全に『ある』って顔だったぞ」
目を輝かせるレベッカに、ニッカは苦笑しながら装置の記録を取り続けた。
壁際で煙草をくゆらせていたキーウィは、この一連のやり取りを黙って眺めていた。灰を落とすその指先には、いつもよりわずかに慎重な動きが滲んでいる。
「効きすぎるのも、考えものだな」
誰にともなく漏らした一言に、レベッカが振り返った。
「なんだよ、キーウィ。臭い消えたんだから、いいことじゃねえか」
「悪いとは言ってない。ただ、急に環境が変わりすぎると、それに気づく目もある」
「またそういう小難しいこと言う」
軽く目を細めるキーウィに、レベッカは首を傾げただけで、それ以上深くは考えなかった。ニッカもまた装置の調整に気を取られたまま、その一言をどこか聞き流していた。煙草の先から立ち上る細い煙だけが、装置の風に吸い寄せられて消えていく。
*
旧物置を離れ、拠点の水回りへ向かう通路の先では、ドリオが図面を広げたままレベッカとピラルに細かな指示を飛ばし続けていた。
「もう一度言うわよ。排水の勾配は、最低でも五度」
「五度って言われても、俺様には見当がつかねえんだよ」
ピラルがシャベルを手にしたまま情けない声を上げると、ドリオは水平器を差し出した。
「これで測るの。傾きが浅いと、水が途中で溜まって腐る」
「腐るって、風呂の水がか」
「そう。掃除する羽目になるのはあんたたちよ」
脅し文句にも似た一言に、ピラルとレベッカは揃って口をつぐみ、黙々とシャベルを動かし始めた。数分もしないうちに、ピラルのシャベルが硬い何かに当たって鈍い音を立てる。
「……なんだ、これ」
「石か何か?」
「いや、金属っぽい」
二人が慎重に周りの土を掘り起こすと、錆びついた配管の切れ端が姿を現した。旧プラント時代のものらしく、用途も分からないまま地中に埋もれていたようだった。
「役に立ちそうか」
「知らねえよ。とりあえず脇にどけとくか」
特に大きな騒ぎにもならず、切れ端はあっさりと資材置き場へ放り込まれた。この拠点で土を掘れば、何かしらが出てくる。それはもう、驚くほどのことでもなくなっていた。
掘削の音を背に配管を組んでいたニッカは、ドリオから渡された要求リストを見つめながら静かに息を吐いた。紙面には水質、勾配、排水経路、温度調整という四つの項目が並んでいる。その脇には、細かな注釈がびっしりと書き込まれていた。
「お風呂って、こんなに面倒なものだったんだ」
思わずこぼれた呟きに、隣で配管を支えていたドリオが軽く笑った。
「当たり前でしょう。適当に作ったら、すぐ壊れるか、誰かが火傷するかのどっちかよ」
「分かってる。分かってるけど」
「あんたの技術なら、条件を揃えさえすれば作れるはずよ。手を抜かせないだけ」
情けの欠片もない励ましに、ニッカは苦笑しながらも工具を握り直した。荒野で叩き込まれた応急処理の技術は、粗さと引き換えに速さを誇る流儀だった。壊れたものを、今この場で動く形にする。それだけを考えて何年も指を動かしてきた。
(この注文書、真逆のことを要求してる)
速さではなく、長く使えること。動くことではなく、誰も怪我をしないこと。
荒野で直してきた機械は、次に壊れるまでの時間さえ稼げればそれでよかった。壊れたらまた直せばいい。誰も、その繰り返しを不便だとは思っていなかった。
だが風呂は違うらしい。毎日使われて、湯気で錆びて、誰もが無防備な格好で湯を浴びる。壊れ方が、そのまま誰かの火傷になる。慣れない要求に手間取りながらも、彼女の指先は着実に配管を継いでいった。
「温度調整の弁、こっちの分岐にもう一つ噛ませて」
「もう一つ?」
「そう。急に熱湯が出て誰か火傷したら、目も当てられないでしょう」
ドリオの指摘に、ニッカは配管の図を見直しながら頷いた。
「……ファルコの、シャワー事件みたいに」
「そう、まさにそれ」
名前を出された途端、通路を挟んだ向かいで溶接をしていたファルコが、こちらへ視線だけを向けた。
「聞こえてるぞ」
「聞こえて構わないわよ。同じ轍は踏ませないって話をしてるの」
ドリオがすまし顔で返すと、ファルコは小さく舌打ちしながらも作業へ戻っていった。
「言っとくが、あん時は俺のせいじゃねえからな」
「知ってるわよ。悪いのは給湯の圧を上げすぎた誰かさんでしょう」
名指しを避けた言い方に、ニッカは手元の配管から目を上げないまま短く答えた。
「……あれは、後で調整した」
「今度は最初から調整しなさい、って話をしてるの」
淡々と返され、ニッカは口をつぐんだ。ファルコの方はといえば、蒸し返された記憶の続きが気になるらしく、溶接面の陰から用心深く様子を窺っている。
「その話、悲鳴のくだりまでいくのか」
「言ってほしいなら言うけど」
「いい。作業に戻る」
早口で切り上げたファルコが、火花の向こうへ視線を逃がした。耳がわずかに赤くなっているのを、誰も指摘しないでいた。
配管の接続がひと段落した頃、ニッカは仮の通水テストを提案した。
「本格的な試験は明日だけど、漏れがないか、少しだけ流してみる」
「少しだけよ。あんたの少しは、いつも当てにならないから」
ドリオが釘を刺すと、ニッカはバルブへ手をかけながら曖昧に頷いた。
「気をつける」
バルブを捻った瞬間、継手の一つから予想以上の勢いで水が噴き出した。
「うわっ!」
真正面にいたピラルが、頭から水を浴びて悲鳴を上げる。慌ててバルブを締め直したニッカが、気まずそうに視線を逸らした。
「……ごめん。仮止めの締めが甘かった」
「ごめんで済むかよ! びしょ濡れじゃねえか!」
水を滴らせながら抗議するピラルの姿に、レベッカが腹を抱えて笑い出す。
「ぎゃはは! ざまあねえな!」
「他人事だと思いやがって」
ずぶ濡れのピラルが恨みがましく睨むと、レベッカは笑いを堪えきれないまま距離を取った。ドリオだけが冷めた目で継手を確認し、ニッカへ淡々と告げる。
「締め直し、私が見ておくわ。あんたはあっちの作業に戻りなさい」
「……お願い」
肩を落としたニッカに、ドリオは呆れながらも工具を手に取った。シャワー事件からさほど日も経たないうちに、拠点の水回りには新たな「事件」が一つ加わったことになる。
*
昼近くになると、三班はいったん手を止め、通路の中ほどに設けられた休憩場所へ集まった。誰からともなく差し入れの携行食が回され、束の間の静けさが作業場を包む。
「にしても、朝から半日で、拠点の空気がここまで変わるとはな」
メインが携行食の包みを開けながら呟くと、ファルコも小さく頷いた。
「臭いが消えるだけで、こんなに気分が変わるもんかね」
「気分の問題じゃない。実際に空気の質、変わってる」
ニッカが真顔で訂正すると、レベッカがけらけらと笑った。
「相変わらず、そういうとこ真面目だよなあ、あんた」
「真面目じゃなくて、事実」
軽い笑いが起きる中、ニッカは携行食を頬張りながらも、頭の中では午後の段取りを組み立て続けていた。触媒コンバーターの最終調整と、浴場の配管接続。どちらも今日中に目処をつけたい作業だった。
その静けさを破ったのは、テーブルの端に置かれた端末の震えだった。表示された発信元を見て、ニッカは携行食を持つ手を止める。
「……レジーナ」
その一言だけで、休憩場所の空気が一斉に張り詰めた。包みを置き、ニッカは画面に浮かんだ短い文面へ目を落とす。
『順調? 進み具合、ちょっと気になって』
「……順調」
それだけを打ち込んで送ると、横からレベッカが遠慮なく画面を覗き込んできた。
「おい、監視されてんじゃねえだろうな」
「監視じゃない。多分、ただの世間話」
「世間話にしちゃ、タイミング良すぎるだろ」
疑わしげなレベッカに、ニッカは端末をポケットへしまいながら小さく肩をすくめた。内心では、約束の日までに残された時間の短さを改めて意識させられていた。臭いは消えた。それでも風呂には、まだ湯の一滴も通っていない。
「休憩終わり。午後、進める」
誰よりも早く立ち上がったニッカに、ファルコが苦笑しながら腰を上げた。
「気合入れ直したところ悪いが、まだあと五分あるぞ」
「五分あれば、配線一本繋げる」
言うが早いか、ニッカはすでに旧物置へ向かって歩き出していた。その背中を見送りながら、メインが小さく笑う。
「あいつ、急かされると余計に速くなる質だな」
「出会った頃からそうだったろ」
休憩を終えた午後、棚の補強を進めていたファルコとメインが天井裏の奥で見慣れない機材を見つけたのは、夕方に差しかかる頃だった。
「……なんだ、これ」
メインが支柱の隙間から手を伸ばし、埃をかぶった小さな箱状の機材を引き出した。表面には旧式の企業ロゴらしき刻印が薄く残っている。
「配線、まだ繋がってるぞ」
ファルコが箱の裏側を覗き込みながら言うと、メインは眉を寄せて機材を掲げた。
「防犯用のセンサーか何かか」
「旧プラント時代の代物だろうな。今どき見ねえ規格だ」
二人はしばらく機材を回しながら眺めていたが、専門外の代物を前に、それ以上の判断はつかなかった。埃を払っても、刻印の文字は最後まで読み取れないままだった。
二人のやり取りを耳にしたニッカが、配管作業の手を止めて顔を上げた。旧式の機材、企業規格、埋もれたままの配線。その言葉の並びに、彼女の中の何かが小さく反応する。
「……ちょっと、見せて」
興味を隠しきれない足取りで近づこうとするニッカに、しかしドリオが横から鋭く声をかけた。
「駄目よ、あんたは今、こっちの担当でしょう」
「でも、旧式の防犯システムなら、今の拠点の警戒網に応用できるかもしれない」
「気持ちは分かるけど、脱臭装置とお風呂、両方抱えてる状態でそっちにまで手を出したら、絶対にどれも中途半端になるわよ」
ドリオの声には、からかいと本気の忠告が半分ずつ混じっていた。
取りつく島もない指摘に、ニッカは配管を握りしめたまま動きを止めた。頭の中では、もう機材の内部構造を想像する作業が勝手に始まっている。基板の配置、電源の取り方、そして今の拠点の防衛網へどう組み込めるか。考え始めれば、いくらでも時間を吸い込んでいきそうな予感があった。
(見たい。今すぐ、開けて中を見たい)
それでも、握った配管の重みが、この瞬間の優先順位を静かに思い出させていた。この管の先には、明日には湯を通すと約束した浴場がある。
「……後回しに、する」
絞り出すような一言に、ドリオが片眉を上げた。
「珍しいこと言うじゃない」
「珍しくない。今は、優先順位が分かってるだけ」
「へえ」
澄ました声で言い返すニッカに、ドリオは口元だけで小さく笑った。未知の技術を前にして自分から手を引く姿は、確かにこの拠点では滅多に見られない光景だった。
「メイン、ファルコ。その機材、埃だけ払って倉庫に置いといてくれる? 手が空いたら、ちゃんと見るから」
「了解だ」
メインが短く頷き、機材を布で包んで小脇に抱えた。未練を残しつつも、ニッカは視線を配管へ戻し、再び手を動かし始める。その背中を見ていたファルコが、メインへ小声で耳打ちした。
「珍しいな、あいつがガラクタから目を離すなんて」
「よっぽど、今のお前らの仕事が大事だってことだろ」
「悪い気はしねえな」
二人は小さく笑い合いながら、機材を倉庫の棚へと運んでいった。運び込む途中、ちょうど通りかかったキーウィが、布の隙間から覗く輪郭に目を留めて足を止める。
「……それ、どうした」
「棚の裏から出てきた。旧式の防犯センサーらしい」
ファルコが答えると、キーウィは煙草を咥えたまま布を軽くめくり、中を確かめた。刻印されたロゴを一瞥する目つきが、わずかに険しくなる。
「この規格、見覚えがあるな」
「知ってるのか」
「――昔、似たような代物を扱ったことがある。……詳しい話は、また今度だ」
それ以上は語らず、キーウィは布を元通りに戻すと静かに背を向けた。短いやり取りだったが、その口ぶりには、懐かしさだけでは片付かない重みが滲んでいた。ファルコとメインは顔を見合わせたものの深追いはせず、機材を倉庫の奥へと運び入れた。
*
夕方が近づく頃には、拠点全体の空気が朝とはまるで違うものに変わっていた。触媒コンバーターの効果は安定し、通路を歩いても油と埃の匂いしか感じられない。崩れた棚の跡地には新しい支柱が四本、しっかりと組み上がっている。浴場も骨組みが立ち上がり、配管の大半が繋がった。あとは仕上げの内装を残すだけの段階まで進んでいる。
「……うそだろ、もうここまで進んでんのか」
通路を歩いてきたレベッカが、骨組みを見上げて声を上げた。
「まだ、お湯は出ない。配管の圧力調整が終わってない」
「それでも十分すげえよ。二日でここまで来るとか、あんたやっぱりおかしいって」
「褒め言葉として受け取っとく」
ピラルも遅れて顔を出し、骨組みの周りをぐるりと一周しながら、感心したように口笛を吹いた。作業着はまだ湿ったままだったが、機嫌はすっかり直っているらしい。
「マジで湯船まであるとはな。俺様、生まれて初めてまともな風呂に入れるかもしれねえ」
「まだ完成してない」
「分かってるけど、期待するくらい許してくれよ」
浮かれた様子の二人を横目に、通路の奥からドリオが図面を丸めながら歩いてきた。
「明日の午前中には、通水試験までいけそうね」
「うん。あとは、漏れがないか確認するだけ」
ニッカが答えると、ドリオは満足げに頷いた。
「あんたにしては、注文にちゃんと応えたじゃない」
「注文が多すぎて、途中で心が折れそうだった」
「折れなかったんだから、よしとしましょう」
軽口を交わす二人のやり取りに、通りがかったレベッカが茶々を入れる。
「あたしも交ぜろよ、その褒め合い」
「あんたは掘っただけでしょう」
ドリオに一蹴されたレベッカが、心外だとばかりに口を尖らせた。
その一方で、輪から一歩下がった位置に立つキーウィだけは、浮かれた空気に加わろうとしなかった。煙草の先を軽く揺らしながら、通路の奥から外へ続く排気口の方向へ、何度も視線を投げている。
「どうかした?」
様子に気づいたニッカが尋ねると、キーウィは短く首を横に振った。
「別に。ただ、変化が急すぎるのが少し気にかかってるだけだ」
「臭いが消えたことが?」
「それもある。だが、こういう時に限って、余計な目を引くもんだ」
抽象的な物言いに、ニッカは首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。今はただ、目の前の作業が予定より順調に進んでいるという事実だけで、頭がいっぱいだった。
*
夜になり、その日の作業が一区切りついた頃、拠点の食堂にはこれまでにない種類の高揚が漂っていた。悪臭が消え、崩れていた棚は補強され、浴場の骨組みまで形になった。誰の目にも明らかな進展だった。
「にしても、三班同時進行が、まさかここまでハマるとはな」
メインが椅子に深く腰を下ろしながら呟くと、ファルコも小さく頷いた。
「キーウィの心配をよそに、上出来すぎるくらいだ」
「まだ油断はできない。残ってる作業だって、少なくない」
冷静に釘を刺すニッカの声に、レベッカが茶碗を叩きながら反論した。
「いいじゃねえか、たまには素直に喜んどけよ。明日には湯船に浸かれるかもしれねえんだぜ」
「明日じゃない。多分、明後日」
「細けえ!」
「細かくない。工程通り」
言い合う二人の傍らで、デイビッドが呆れたように笑いながら口を挟んだ。
「二人とも、いい加減その言い合いも様式美になってきたよな」
「うるせえ」
「うるさくない」
声を揃えて返した二人に、食堂の空気がどっと笑いに包まれる。ピラルが便乗して騒ぎ始め、テーブルの上の缶が一つ倒れた。それすら笑いに変わるほど、その夜の空気はよく緩んでいた。
賑やかな輪を背にして、キーウィは新しい煙草に火を点けながら、通路の奥の暗がりへ視線を向けていた。悪臭が消えたことへの安堵と、変化そのものへの警戒。相反する二つの感覚が、彼女の胸の内で静かにせめぎ合っている。
誰かがふと肩を叩いたのは、その時だった。
「考え事?」
振り向くと、通信室から戻ってきたルーシーが、静かな眼差しでキーウィを見つめていた。
「……ああ。ちょっとな」
「レジーナのこと?」
「それだけじゃない。臭いが消えたのは、いいことだ。だが、良いことが起きた時ほど、後ろで何かが動き始めてる場合がある」
「――引き続き、外の動きは見ておく」
「頼む」
短いやり取りを交わすと、ルーシーは食堂の喧噪へは加わらず、そのまま静かに通信室へ引き返していった。キーウィはその背中を見送りながら、煙草の煙を一つ、長く吐き出した。
二人の会話は、浮かれた空気の中で誰の耳にも届かなかった。ニッカもまた装置の稼働ログを確認しながら、明日の通水試験に向けた段取りを組み立てるのに忙しく、気づく余裕はなかった。
*
その夜、拠点の照明が一つ、また一つと落とされていく。それでもキーウィだけは、しばらくの間、通路の暗がりに立ったまま静かに煙草をくゆらせ続けていた。悪臭の消えた空気は、これまでよりずっと澄んでいる。その澄み方こそが、彼女には少しだけ落ち着かなかった。
自室へ戻ったニッカは、寝台に腰掛けたまま、今日一日の作業記録を端末に打ち込んでいた。触媒コンバーターの出力調整値、浴場の配管接続図、それに倉庫へ運ばれた旧式機材の簡単なメモ。項目を一つ書き足すたび、慌ただしかった一日が数字と記号に変わって整理されていく。指先を動かすうちに、頭の中では明日の段取りが勝手に組み上がっていった。
ふと、窓代わりに設けられた通気口の向こうから、かすかな水音が聞こえてきた。まだ完成していない浴場のどこかで、配管の中に残った水がゆっくりと流れているのだろう。その音に耳を澄ませながら、ニッカは小さく息を吐いた。
昨日は棚が崩れ、今日は水浸しの椿事もあった。それでも拠点は確かに、少しずつ形を変えつつある。臭いという長年の当たり前が消えたことは、思っていた以上に、ここで暮らす者たちの気分を軽くしているらしい。だが同時に、キーウィの言葉が頭の隅に小さな棘のように残り続けていた。
「……変化が急すぎる、か」
誰にともなく呟いた言葉に、答える声はどこからも返ってこなかった。
それでも、明日の通水試験のことを考えると、指先は自然と軽くなっていく。棚も、装置も、配管も、一つずつ形になっていく手応えがある。その重みは、漠然とした不安を上回るだけの確かさを持っていた。臭いのない静かな拠点で、レジーナを迎える日までの残りを数えながら、ニッカはようやく端末を閉じ、明かりを落とした。