通水試験を翌日に控えた拠点には、これまでにない静けさが満ちていた。悪臭の抜けた空気は、深呼吸をするたびに肺の奥まで澄んでいくような感覚を運んでくる。ニッカは早朝の点検を終え、旧物置の扉にもたれかかりながら、その静寂を味わっていた。
昨日までは意識すらしなかった空気の軽さが、今はやけに贅沢なもののように思えてならなかった。荒野の暮らしでは、匂いなど気にする余裕もなかった。生き延びることだけを考えていれば、それで十分だったからだ。だが人という生き物は、一度快適さを知ってしまうと、その手前の状態には案外戻りたがらないものらしい。
(起きたら真っ先にお風呂……はまだ、無理か)
昨夜寝る前に思い描いた期待を、ニッカは小さく苦笑しながら打ち消した。浴場の骨組みは仕上がっていても、通水試験を終えるまでは、まだ湯を張ることさえできない。段取り通りに進めるしかなかった。
工具箱を担ぎ直し、通路を歩き出す。すれ違ったピラルが、まだ湿った作業着のまま欠伸をしていた。昨日の水浸し事件の名残らしく、髪の先がわずかに跳ねている。
「おはよう。まだ乾いてない」
「うるせえ。乾く前に次の作業が始まるんだから、意味ねえんだよ」
ぼやきながらも、ピラルの足取りに苛立ちの色はなかった。拠点全体を包む穏やかな空気が、多少の理不尽すら軽く受け流させてしまうらしい。
食堂に足を踏み入れると、既にレベッカとデイビッドが席についていた。テーブルの上には、携行食の空き袋がいくつも重なっている。
「おっす。今日も臭くねえ朝だな」
缶詰の蓋を開けながら、レベッカが誇らしげに鼻を鳴らした。
「毎朝、それ言うの」
「言うだろ普通。昨日まで死んでた鼻が生き返ってんだぞ」
「大げさ」
「大げさじゃねえよ。あたし、この一週間で人生変わったレベルだと思ってる」
真顔で語るレベッカに、デイビッドが呆れたように口を挟んだ。
「風呂もまだなのに、気が早すぎるだろ」
「気が早いくらいがちょうどいいんだよ。楽しみは先に味わったもん勝ちだろ」
軽口の応酬に、ニッカは席につきながら小さく笑った。荒野では味わえなかった、こういう他愛のない朝の空気こそが、案外一番の贅沢なのかもしれないと思うことがあった。
朝食の匂いが漂い始めた頃、通信室から駆け出してきたルーシーが、珍しく足音を立てて食堂へ飛び込んできた。
「……悪い知らせ」
短い一言に、椅子に座っていた面々の視線が一斉に集まった。
「どうした」
真っ先に反応したのはメインだった。ルーシーは端末を掲げ、画面に浮かぶ地図を示す。地図上には、拠点を中心とした半径数百メートルの範囲に、いくつもの赤い光点が点滅していた。
「企業系の、環境調査班。三十分前から、周辺を巡回してる」
「環境調査って……まさか」
デイビッドが眉を寄せると、ルーシーは静かに頷いた。
「臭いが消えたこと、もう噂になってる。廃棄物処理場の異常として、企業に報告が上がったみたい」
その言葉に、食堂の空気が一気に張り詰めた。
「臭いが消えただけで、企業が動くのかよ」
声を上げたのはレベッカだった。信じられないという顔で、ルーシーの端末を覗き込む。
「動く。異常値は、異常値だから」
「あたしらにとっちゃ、いいことしかねえのに」
「企業にとっては、違う。原因不明の環境変化は、放置できない案件になる」
淡々と説明するルーシーの声に、レベッカは唇を尖らせたまま黙り込んだ。
ピラルが携行食の包みを持ったまま、遠慮のない声を上げる。
「つまりどういうことだよ? 俺らのお手柄が、逆に俺らの首を絞めてるってことか」
「大体、そういうこと」
端的に返すニッカの声に、ピラルは大げさに天を仰いだ。
「せっかく毎日快適になったってのに、世の中うまくできてねえな」
その物言いに、食堂のあちこちから乾いた笑いが漏れた。緊張の中にも、拠点らしい軽さは失われていなかった。
少し離れた場所で煙草に火を点けていたキーウィが、ゆっくりと歩み寄ってきた。昨夜からくすぶっていた懸念が、思っていたよりも早く現実になったことに、彼女は驚いた様子も見せなかった。
「言った通りだろう」
静かな一言に、ニッカは視線を落とした。
「……予想、してたの」
「予想というより、経験だ。急に環境が良くなった場所は、大抵誰かに目をつけられる」
その言葉には、荒野で長く生きてきた者だけが持つ、冷めた実感が滲んでいた。
ルーシーが端末を操作すると、画面の一部に音声波形が流れ始めた。周辺を巡回する調査班の通信を、ある程度傍受できているらしい。
「音声、拾ってる。聞いてみる?」
頷いたキーウィの前で、くぐもった会話が再生される。
『……おかしいな。湿度も、揮発性物質の数値も、昨日の記録と全然違う』
『機材の故障じゃないのか』
『三台とも同じ数値出してる。故障の線は薄い』
困惑した様子の二人の会話に、食堂の一部から小さな笑いが漏れた。原因を作った当人たちにとっては、他人事とは思えない滑稽さがあった。
「あの人たち、まさか自分らが引っ掻き回されてるとは思ってねえだろうな」
ピラルが笑いを堪えながら呟くと、レベッカも肩を揺らした。
「あたしらのせいで、企業の調査員が頭抱えてるって考えると、ちょっとだけ愉快かもな」
「愉快がってる場合じゃない」
冷静に釘を刺すニッカの声に、二人は同時に首をすくめた。とはいえ、その表情にはまだ、緊張よりも面白がる気配の方が強く残っていた。
端末の向こうでは、調査員たちの困惑した会話がなおも続いていた。
『とりあえず、周辺の巡回を続けよう。本部には、原因不明のまま報告するしかない』
『上、絶対に不機嫌になるぞ、これ』
『知るか。俺のせいじゃない』
愚痴混じりのやり取りに、食堂の空気がまた少しだけ緩んだ。相手も相手なりに、頭を抱えながら働いているらしいと分かると、緊張の質が少しだけ変わって感じられた。
「……向こうも、大変そうだな」
ぽつりと呟いたデイビッドに、ルーシーが端末を閉じながら頷いた。
「大変にさせてるのは、こっちだけどね」
「それを言われると、ちょっと申し訳ない気もしてくる」
苦笑するデイビッドの隣で、ニッカだけは表情を変えず、次の作業に向けて工具を握り直していた。
議論が続く中、水回りの点検をしていたドリオが、青ざめた顔で駆け込んできたのは、それからほどなくのことだった。
「ちょっと、これ見て」
差し出された図面には、赤いペンで書き加えられた一本の線が走っていた。浴場から伸びる排水管の経路を示すその線は、拠点内の処理槽を通らず、そのまま外部――旧市街の地下水道へと直接繋がっていた。
「……これ」
図面を覗き込んだニッカの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「排水の一部が、外の下水に流れてる。旧プラント時代の配管、そのまま使っちゃってた」
ドリオの説明に、集まった面々が息を呑んだ。
「まずいのか、それ」
尋ねたファルコに、ドリオは硬い表情で頷いた。
「水温も、水質も、拠点で使ってる分は普通の下水と全然違う。今、企業の調査班が周辺うろついてるなら」
「気づかれる」
言葉を継いだのはキーウィだった。短い一言が、その場の全員に事態の深刻さを突きつけた。
「快適さを追いかけた結果、自分たちで隠密性を壊しかけてるってわけだ」
皮肉めいた響きを帯びたその言葉に、誰も反論できなかった。
「……つまり、あれか」
沈黙を破ったのはピラルだった。
「臭いを消したのも、風呂を作ったのも、全部裏目に出てるってことか」
「そういう、こと」
ニッカが短く肯定すると、ピラルは頭を抱えながら椅子に座り込んだ。
「勘弁してくれよ。せっかく快適になったのに、全部台無しじゃねえか」
「台無しじゃない。まだ、間に合う」
ニッカの声には、焦りよりも先に、既に頭の中で修正案を組み立て始めている落ち着きが滲んでいた。荒野で培った応急処理の勘が、こういう時こそ本領を発揮する。
「排水経路、作り直せば済む話。処理槽を経由させて、温度と水質を下水と同じレベルまで戻す」
「言うのは簡単だけどよ」
「時間、ない。だからこそ、今すぐやる」
迷いのない即答に、レベッカが呆れ半分感心半分の顔でため息をついた。
「相変わらず、切り替え早すぎだろ、あんた」
「悩んでる時間、もったいない」
立ち上がったファルコが、静かに口を開いた。
「俺は、外の様子を見てくる。調査班の巡回ルートと、ドローンの飛び方くらいは把握しておきたい」
「頼む。何かあったら、すぐ知らせて」
ドリオの言葉に頷き、ファルコは工具袋を担いだまま、裏口の方へと姿を消した。逃げ道の確保や周辺の把握は、彼にとって最も得意とする領分だった。派手さのない仕事だからこそ、誰かがきちんとやらなければならないということを、この男は誰よりもよく理解していた。
*
拠点は、再び慌ただしい空気に包まれた。ドリオを中心に、排水経路の作り直しが急ピッチで始まる。ニッカは配管図を睨みながら、処理槽への迂回ルートを頭の中で組み立てていった。
「ピラル、そっちの継手外して。デイビッドは予備の配管、倉庫から持ってきて」
「了解だ」
「合点承知!」
二人が動き出すと同時に、ドリオが排水バルブの位置を指差した。
「ここを閉めて、こっちに繋ぎ変える。急いでやるからって、雑にはしないで」
「分かってる」
配管を担いだデイビッドが戻ってくると、作業はさらに加速した。狭い通路に、金属の擦れる音と工具の音が重なり合う。
作業の途中、バルブの締め付けを確認していたピラルが、うっかり緩めたままの継手に触れてしまった。
「うおっ!」
勢いよく噴き出した水が、彼の顔面を直撃する。
「……また、お前かよ」
通りかかったメインが、呆れた声を漏らした。
「またって言うな!これで二回目だぞ!」
「二回目なら、もう学習しろよ」
「学習する前に、水の方が先に来るんだよ!」
ずぶ濡れのまま抗議するピラルに、離れた場所で作業していたレベッカが腹を抱えて笑い出した。
「ぎゃはは!てめえ、風呂もできてねえのに水浴び係になってんじゃねえか!」
「他人事だと思いやがって!」
叫ぶピラルの声を背景に、ドリオが淡々とバルブを締め直しながら告げる。
「濡れてる暇があるなら、次の継手も見て。時間、ないんだから」
「分かってるよ、ちくしょう……」
水を滴らせながらも、ピラルは文句を言いつつ次の作業へ戻っていった。慌ただしさの中でも、軽口を叩き合う余裕だけは変わらず残っていた。
迂回ルートを掘り進めていたレベッカのシャベルが、途中で硬い感触に当たった。
「おい、また何か出てきたぞ」
声に振り返ったドリオが、面倒くさそうに眉根を寄せる。
「今度は何。時間ないんだから、余計な寄り道はしないでよ」
「寄り道じゃねえよ。ただの石ころか、確かめるだけだ」
掘り出された物の正体は、錆びついた空き缶の塊だった。旧プラント時代の作業員が、埋めるでもなく放置していったものらしい。
「……なんだ、ただのゴミか」
拍子抜けした様子のレベッカに、ドリオが容赦なく突っ込む。
「当たり前でしょう。何か出てくると思ったの」
「いや、ちょっとくらい期待するだろ。前も配管の切れ端出てきたし」
「今回は本当にただのゴミ。埋め直して、先進めて」
あっさりと切り捨てられたレベッカが、口を尖らせながらも缶の塊を脇へどけ、再びシャベルを握り直した。何も出てこないと分かっていても、掘るたびに一瞬だけ期待してしまう癖は、なかなか抜けそうになかった。
排水経路の付け替えと並行して、ニッカは脱臭装置の出力を絞る作業にも取り掛かっていた。触媒層への送風量を落とし、反応範囲を拠点内部に留めるよう、慎重に調整していく。
「……もったいない」
思わずこぼれた本音に、隣で作業を手伝っていたデイビッドが苦笑した。
「性能落とすの、そんなに嫌か」
「嫌。せっかく、綺麗に決まってたのに」
「気持ちは分かるけど、今は仕方ねえだろ」
デイビッドに諭され、ニッカは渋々ながら出力調整のつまみを回した。メーターの数値が下がっていくのを見つめる横顔には、明らかな未練が滲んでいた。
出力を絞った直後、通路の奥からうっすらと、以前の名残めいた匂いが漂い始めた。完全な悪臭には程遠いが、昨日までの清浄な空気に慣れた鼻には、はっきりと違いが分かるほどの変化だった。
「……おい、なんか匂い戻ってきてねえか」
真っ先に気づいたレベッカが、大げさに顔をしかめた。
「戻した。わざと」
「わざとって、何のためだよ」
「変化が急すぎると、目立つ。少しくらい、隙があった方がいい」
キーウィの助言を受けた説明に、レベッカは納得しかけたものの、すぐに不満げな声を上げた。
「いや、理屈は分かるけどよ。あたし、もうあの快適さに慣れちまったんだよ」
「贅沢な悩み」
「贅沢で悪いか!一回知っちまったもんは、簡単に手放せねえんだよ!」
悲痛な叫びに、周囲から乾いた笑いが漏れた。快適さの味を知ったばかりの拠点の面々にとって、それは思いのほか切実な悩みらしかった。
「文句言うなら、あんたが匂い担当やる?」
ドリオの一言に、レベッカは即座に口をつぐんだ。
「……いや、それは遠慮する」
「なら、大人しく我慢しなさい」
あっさりと言い負かされたレベッカが、腕を組んだまま拗ねたように黙り込む。その様子を見ていたメインが、堪えきれずに笑い声を漏らした。
「お前、そこは素直に折れるのか」
「うるせえ。あたしにだって、譲れる時と譲れねえ時があんだよ」
「今回は、譲れる時だったってわけだ」
からかうようなメインの言葉に、レベッカは顔を赤くしながら視線を逸らした。周囲からくすくすと笑いが漏れる中、彼女は誤魔化すように携行食の残りを口へ詰め込み、それ以上何も言い返そうとしなかった。
休憩がてら集まった食堂で、誰からともなく「言い訳」の話題が持ち上がった。出力を絞っただけでは、これまでの急激な改善との整合性が取れない。誰かが不自然さに気づけば、かえって疑いを招きかねなかった。
「野生動物の大移動、ってのはどうだ」
真っ先に案を出したのはピラルだった。
「ネズミの大群が、たまたま巣を作り直したせいで一時的に環境が変わった、ってことにするんだよ」
「無理がある」
即座に切り捨てたのはドリオだった。
「じゃあ、隕石でも落ちたことにするか」
「もっと無理がある」
「厳しいな、おい」
肩を落とすピラルの隣で、レベッカも自信満々に手を挙げた。
「あたしに任せろ。『処理場の作業員が、こっそり脱臭剤を大量にぶちまけた』ってことにすりゃいいんだよ。単純な話だろ」
「その脱臭剤、どこの誰が持ち込んだことにするの」
「……知らねえ。誰かが、こう、こっそりと」
「駄目。突っ込まれたら終わり」
あっさり却下されたレベッカが、唇を尖らせながら黙り込む。
「なら、俺が言うのはどうだ」
携行食を頬張りながら、メインが割って入った。
「拠点の連中が、大掃除の勢いで洗剤をぶちまけまくった。それだけの話にすればいい」
「大掃除って、こんな地下施設で誰がやるの」
冷静なドリオの一言に、メインは腕を組んだまま黙り込んだ。
「……確かに、無理があるな」
「無理しかない」
畳みかけるドリオの隣で、キーウィが煙草の灰を落としながら、面白がるように目を細めた。
「案が出るたびに却下されるのも、それはそれで見物だな」
「他人事だと思って」
ため息交じりのドリオに、キーウィは肩をすくめるだけで、何も言い返さなかった。
「装置の不調、ってことにする」
議論を眺めていたニッカが、静かに口を開いた。
「触媒コンバーターの排熱系が、一時的に過負荷を起こしたって設定にすれば、出力が上下しても不自然じゃない」
「……お、それっぽいな」
感心した様子のピラルに、ニッカは小さく頷いた。
「それっぽいんじゃなくて、それが一番自然。機械の不調は、誰にとっても納得しやすい理由」
「理屈っぽいこと言ってるけど、要は嘘のつき方も上手いってことだろ」
「上手いとは言ってない。合理的、なだけ」
澄まし顔で言い切るニッカに、レベッカが呆れたように肩をすくめた。
「でも、それ、どこで信じさせる気だよ。うちの装置なんて、向こうは見たことねえだろ」
もっともな指摘に、ニッカは首を横に振った。
「装置そのものは見せない。見せるのは、旧プラント時代の換気口。外まで繋がってる方」
「換気口?」
「効果が外まで届いたのも、あの経路から。今も地上側に、口が出てるはず」
答えながら、ニッカはすでに古い配線の切れ端を選り分けていた。あの換気口になら、拠点そのものを晒さずに済む。処理場の敷地に転がる古い設備の一つとして、調査班の目に触れさせるだけでよかった。
言うが早いか、ニッカは配線の切れ端を手に、換気口の内側へ体を滑り込ませた。手慣れた仕草でハンダゴテを当て、いかにも過熱したような焦げ跡を残していく。
「……あんた、それ、自分で証拠でっち上げてるのか」
呆れた声で覗き込んできたデイビッドに、ニッカは真顔で頷いた。
「本当に壊れたわけじゃないから、心配しなくていい。ただの、演出」
「演出って言葉、お前が使うと妙に説得力あるな」
苦笑するデイビッドの隣で、キーウィが小さく口の端を上げた。
「なかなか、様になってきたじゃないか」
「褒められてる気、しない」
しれっと返すニッカに、キーウィは煙を吐き出しながら、それ以上何も言わなかった。
偵察から戻ったファルコが、拠点に顔を出したのは、日が高くなり始めた頃だった。
「調査班、処理場の外縁を回ってるだけだ。今のところ、こっちの入り口までは近づいてきてない」
「ドローンは」
「二機、確認した。高度は低いが、熱源探知までは積んでなさそうだ」
簡潔な報告に、ドリオが小さく息を吐いた。
「ひとまず、時間の猶予はあるってことね」
「ああ。だが、油断はできない」
報告を聞いていたピラルが、水気の抜けきらない髪をかき上げながら口を挟んだ。
「なあ、もし今、あの調査班が入り口から乗り込んできたらどうすんだよ」
「その時は、普通に応対する。慌てて隠そうとする方が、かえって怪しい」
ファルコの落ち着いた答えに、ピラルは少し驚いた顔をした。
「意外と肝が据わってんだな、あんた」
「据わってないと、この稼業は務まらない」
短く返すファルコの横で、ドリオが図面を丸めながら付け加える。
「とはいえ、来てほしくはないけどね。今の状態で踏み込まれたら、言い訳する暇もないし」
「だから、急いでる」
工具を握り直すニッカの声に、その場の全員が頷き、再び作業へと散っていった。
付け加えたファルコの声には、油断のなさが滲んでいた。荒野での防衛経験は、こういう時にこそ拠点全体の安心材料になっていた。
作業の合間、倉庫の前を通りかかったニッカの視線が、布に包まれたままの機材へと吸い寄せられた。棚から見つかった旧式の防犯センサーは、あの日から一度も開けられないまま、埃をかぶって置かれている。
(……今なら、少しだけ)
伸ばしかけた指先を、ニッカは自分で止めた。排水経路の目処がついたとはいえ、まだ通水試験も、脱臭装置の最終調整も残っている。優先順位を間違えれば、ドリオに叱られるのは目に見えていた。
「後で、ちゃんと見る」
誰にともなく呟き、ニッカは布の端を軽く整えると、そのまま作業へ戻っていった。未練を振り切るその横顔には、少しずつではあるが、確かな成長の跡が滲んでいた。
出力調整と排水経路の付け替えは、夕刻近くまで続いた。処理槽を経由するよう組み直された配管からは、これまでよりわずかに時間はかかるものの、確実に水温と水質が均され、排水口から流れ出る頃には周辺の下水と大差ない状態にまで戻っていた。
「……これで、多分、大丈夫」
最後の継手を締め終えたニッカが、額の汗を拭いながら呟いた。
「多分、じゃ困るんだけど」
ドリオの突っ込みに、ニッカは苦笑しながら計測器を確認する。
「数値上は、問題ない。あとは、外の様子次第」
通信室に詰めていたルーシーから、状況の変化を知らせる連絡が届いたのは、それから一時間ほどが過ぎた頃だった。
「調査班、撤収し始めてる」
端末越しの短い報告に、拠点の面々は顔を見合わせた。
「……マジか」
「うん。有意な異常値、検出できなかったみたい。それと」
言葉を継いだルーシーの声に、わずかな笑いの気配が混じった。
「装置の不調のせい、って報告書に書いてる担当者がいた」
その一言に、食堂の空気が一気に緩んだ。
「よっしゃあ! 危機一髪ってやつだな!」
ピラルが両手を突き上げて叫ぶと、レベッカも便乗するように拳を突き上げた。
「あたしらの嘘、ちゃんと信じてもらえたってわけだ!」
「危機一髪って言うほど、余裕はなかったけどね」
冷静に返すニッカの言葉に、二人は肩をすくめながらも笑みを崩さなかった。
拠点全体に、ようやく本物の安堵が広がっていく。だがその空気の中で、キーウィだけは変わらず落ち着いた表情のまま、通路の奥へと視線を向けていた。
「……今回は、凌いだ。だが、覚えておいた方がいい」
誰にともなく漏らした言葉に、ニッカが振り返る。
「何を」
「目立たないための改修が、目立つ原因になる。今回みたいなことは、この先も何度だって起こり得る」
その一言には、単なる警告以上の重みが込められていた。快適さを求めるほど、隠密性が犠牲になる。バッドランズの引きこもり生活では考えもしなかったジレンマが、ナイトシティという街の中では、避けようのない現実として立ちはだかっていた。
「……分かってる」
短く答えたニッカの声に、いつもの即答めいた軽さはなかった。荒野での暮らしとは違う種類の慎重さが、少しずつ、彼女の中に根を張り始めているようだった。
*
その夜、拠点の食堂には、慌ただしい一日を乗り越えた者たちの、静かな達成感が漂っていた。悪臭の名残はまだうっすらと残っていたが、それすらも今は、必要な代償として誰もが受け入れているようだった。
「明日には、通水試験だな」
メインの言葉に、ドリオが頷く。
「予定通りよ。今度こそ、ちゃんと最後まで」
「ちゃんと、やる」
ニッカが静かに応じると、レベッカが茶碗を掲げながら茶々を入れた。
「その代わり、風呂が完成したら、あたしが一番風呂な」
「駄目。それは、一番働いた人」
「またそれかよ!」
「今日一番働いたの、多分ドリオ」
ニッカが淡々と評価を下すと、レベッカは項垂れながらも反論できずにいた。ドリオだけが満足げに腕を組み、その様子を見守っている。
少し離れた席では、ファルコとメインが冷めかけた携行食を口に運びながら、今日一日を振り返っていた。
「にしても、朝から晩まで、休む間もなかったな」
「ああ。だが、悪くない疲れ方だ」
メインの言葉に、ファルコは小さく笑った。
「外の見張りだけで済んだ俺と違って、あんたらは中で振り回されてたもんな」
「振り回されてたのは、ピラルだけだろ」
「二回も水浴びしたのは、確かにあいつだけだったな」
二人のやり取りを聞きつけたピラルが、乾いたタオルを首にかけたまま、抗議の声を上げた。
「聞こえてるぞ、てめえら!人が苦労してる時に限って、笑いのネタにしやがって」
「苦労は認めてる。だが、笑いのネタになるのも事実だ」
ファルコの容赦ない返しに、ピラルは大げさに肩を落とし、そのまま椅子へ倒れ込んだ。周囲から上がる笑い声に、拠点の一日は静かに幕を下ろしていくようだった。
賑やかなやり取りの輪から少し離れた場所で、ルーシーが端末を閉じながら、キーウィの隣に腰を下ろした。
「調査班の報告書、念のため、もう少し監視しておく」
「頼む。今日みたいな綱渡りは、そう何度もできることじゃない」
「分かってる」
短いやり取りを交わす二人の視線の先で、ニッカがピラルと何やら言い争いながら、装置の記録を端末に打ち込んでいる。快適さを取り戻すための代償を払いながらも、その横顔には、既に次の課題へ向かう意志の色が浮かんでいた。
自室に戻ったニッカは、寝台に腰掛けたまま、今日一日の記録を端末に打ち込んでいた。排水経路の付け替え図、脱臭装置の出力調整値、そして「装置不調」という名目で残しておくための、でっち上げの故障報告書。項目を一つ書き足すたびに、慌ただしかった一日が、数字と記号に変わって静かに整理されていく感覚があった。
指先を止め、ニッカは天井を仰いだ。荒野で暮らしていた頃は、誰かに見られることも、誰かを欺くことも考えずに済んだ。壊れた機械を直し、その日を生き延びる。それだけで十分だった。だがナイトシティでは、直したもの一つ一つが、誰かの目に留まり、誰かの興味を引く。良いことをすればするほど、隠れる場所が狭くなっていくという逆説を、この街に来てから何度も思い知らされている気がした。
「……面倒な街」
誰にともなく呟いた声が、静かな部屋に小さく響いて消えた。それでも、荒野では味わえなかった賑やかさが、この面倒さの奥に確かに混じっていることを、ニッカはうっすらと自覚していた。
明日の通水試験のことを考えると、疲れた指先には自然と力が戻ってくる。棚も装置も配管も、一つずつ確かな形になっていく。その手応えだけは、この慌ただしさの中でも揺らぐことがなかった。
窓のない拠点の奥で、明日への段取りだけが静かに積み上がっていく。壁の向こうから、出力を絞ったままの送風音がかすかに響いていた。本来の性能を隠したまま働き続ける装置の唸りは、今のニッカたちの姿と、どこか重なって聞こえた。
ニッカはようやく端末を閉じ、明かりを落とした。