約束の日の朝、拠点にはこれまでにない種類の緊張が満ちていた。悪臭はすっかり消え去り、崩れた棚の跡には真新しい支柱が四本、壁をしっかりと支えている。通路の奥からは、まだ本調子ではない浴場の配管が立てる、控えめな湯気の気配が漂っていた。
ニッカは早朝から装置の記録を見直し、数値の一つ一つを指先でなぞりながら確認していた。触媒コンバーターの出力は安定域を保ち、浴場の給湯温度も昨夜のうちに規定値まで詰め終えている。それでも、確認すればするほど、頭の隅に新しい不安の種が芽生えてくる気がしてならなかった。
「……多分、大丈夫」
誰にともなく呟いた声には、いつもの落ち着きの下に、わずかな緊張が滲んでいた。
目に見える脅威が相手なら、いくらでも身構えようがある。だが今日訪れるのは、銃も牙も持たない相手だ。それなのに、荒野で修羅場を潜り抜けてきた時と同じ種類の緊張が、拭っても拭っても薄れてくれなかった。
食堂に顔を出すと、レベッカとピラルが早くも言い争いを始めていた。
「だから、一番風呂はあたしだって言ってんだろ!」
「うるせえ!掘削は俺様が一番粘ったんだよ!」
「粘っただけで二回も水浴びしといて、よく言うぜ!」
容赦のない指摘に、ピラルが言葉を詰まらせる。テーブルの端で携行食を頬張っていたデイビッドが、呆れたように口を挟んだ。
「二人とも、今日はレジーナさんが来る日だろ。それどころじゃないと思うけど」
「それとこれとは別問題だ!」
真顔で言い切るレベッカに、デイビッドは小さくため息をついただけで、それ以上は何も言わなかった。傍らでは、ドリオが図面を片手に、忙しなく通路を行き来している。
少し離れた場所では、ファルコが帽子の位置を直しながら、外周の様子を報告していた。
「調査班の残党は、今のところ気配なしだ。ドローンも二日前から見てねえ」
「それは良かった」
応じたキーウィが、煙草の灰を落としながら目を細める。
「油断はするな。あの女が来る日を狙って、他の連中まで動かねえとも限らねえ」
「分かってる。裏口の見張りは、いつも通り立てておく」
短いやり取りを交わす二人の傍らで、ドリオが図面を丸めながら通りかかった。
「浴場の仕上げ、もう一段落したわよ。今のところ、漏れも異音もなし」
「ほんとに?」
声を上げたのはニッカだった。ドリオは軽く肩をすくめる。
「あんたが徹夜で詰めた甲斐があったってこと。素直に喜びなさい」
「喜んでる。でも、油断は禁物」
澄まし顔で返すニッカに、ドリオは苦笑しながら図面を小脇に抱え直した。
朝食の片付けが終わる頃、旧物置の方から重い足音が響いてきた。振り返ると、メインが補強したばかりの支柱を拳で軽く叩きながら近づいてくるところだった。
「見てみろ、この頑丈さ。もう二度と崩れねえよう、余分に鉄骨も足しといた」
「頼もしい」
ニッカが素直に頷くと、メインは満足げに胸を張った。
「ファルコと二人で、寝る間も惜しんでやった甲斐があったってもんだ」
そこへファルコも顔を出し、帽子のつばを軽く持ち上げながら付け加える。
「褒めてもらえるのは悪くねえが、まだ倉庫にしまい込んだままの機材があるのを忘れんなよ」
その一言に、ニッカの視線が奥の棚へと吸い寄せられた。布に包まれたまま眠る旧式の防犯センサーが、埃をかぶった姿でそこにある。
「……あれも、そのうちちゃんと見る」
「言うだけなら簡単だがな」
からかうようなファルコの声に、ニッカは苦笑いを浮かべ、視線を布の包みから引き剥がした。今日ばかりは、余計な寄り道をしている余裕はなかった。
拠点の防壁は、この一週間のうちにルーシーがさらに幾重にも張り直していた。侵入経路の想定される穴を潰し、通信の暗号化も一段階引き上げてある。誰もがそう信じていたはずだった。
だが裏口の扉が軋みもせずに開いた瞬間、集まった面々の自信はあっさりと崩れ去った。
「邪魔するわよ、鈴木」
ミリタリー・タクティカルスタイルの装いに身を包んだレジーナが、涼しい顔で拠点の中へと歩を進めてくる。片目を覆う暗色のカバーが、通路の照明を鈍く反射していた。
「……防壁、また素通りしたの」
ニッカが呆然と呟くと、レジーナは肩をすくめただけだった。
「破ったわけじゃないわ。あんたのネットランナーが、正面から招き入れてくれただけよ」
その言葉に、通信室の方角からルーシーの小さな声が響いた。
「……正確には、招き入れさせられた」
付け加えられた訂正に、レジーナは口の端だけで笑ってみせた。
「思ったより、ちゃんとした拠点じゃない」
通路を数歩進んだところで、レジーナが足を止めて呟いた。ニッカは緊張した面持ちで隣に立つ。
「……普通の物置」
「普通の物置は、こんなに空気が澄んでない」
軽く鼻を鳴らしたレジーナの視線が、天井近くまで組まれた新しい支柱へと移る。
「これも、あんたがやったの」
「棚が崩れたから、補強した。それだけ」
簡潔な返答に、レジーナはわずかに眉を上げただけで、それ以上は追及しなかった。代わりに、支柱の継ぎ目を指先でそっとなぞり、感心したように小さく息を吐く。
「溶接、雑には見えないわね。餅は餅屋ってやつかしら」
その隣で腕を組んでいたメインが、得意げに口を挟んだ。
「俺とファルコで仕上げた仕事だ。多少は褒めてくれてもいいんだぜ」
「多少ね。合格点はあげる」
あっさりとした評価に、メインは満更でもない様子で頷いていた。
支柱の根元を興味深そうに眺めていたレジーナは、通りかかったレベッカに気づいて足を止めた。
「そういえば、あんたが危うく潰されかけた場所って、ここ?」
「よく知ってんな」
驚いた顔をするレベッカに、レジーナは涼しい顔で答える。
「ニッカから、報告代わりに一言もらってただけよ」
「玉座ごと潰されるとこだったんだぜ、マジで」
得意げに語るレベッカに、レジーナは思わず噴き出した。
「玉座、ね。次はもう少し丈夫な玉座を用意してあげたいところだけど」
「その時は、ニッカに頼むぜ」
あっさりと話を振られたニッカが、渋い顔で肩をすくめる。
「玉座は専門外」
そっけない切り返しに、レジーナはまた小さく笑った。
通路の奥に進むと、旧物置に据えられた触媒コンバーターが、静かに唸りを上げていた。ピラルが得意げに近づいてくる。
「どうだ、レジーナさん。この空気の綺麗さ」
自分の袖に鼻を寄せる仕草を見せるピラルに、レジーナは短く息を吸い込んだ。
「……確かに、驚くほど無臭ね」
「だろ! ニッカがこの一週間で組み上げたんだぜ」
誇らしげに続けるピラルの背後で、ニッカは装置のメーターへ視線を落としたまま、控えめに頷いた。
「触媒層を三重にした。効果範囲、少し広く出すぎたけど」
「少し、じゃなかったでしょう」
レジーナの一言に、ニッカの手が止まった。
「廃棄物処理場一帯の異臭が、丸ごと消えたって噂、あたしの耳にも入ってきてる。原因不明の環境異常として、企業の調査班が動いたことも」
淡々と告げられた事実に、食堂に集まっていた面々が顔を見合わせた。
「……もう、知ってたのか」
驚いた声を上げたのはメインだった。レジーナはこともなげに答えた。
「情報屋の耳は、あんたたちが思ってるより広いのよ。廃棄物処理場の異常くらい、この街じゃ半日で噂になる」
その言葉には、からかいと本気の両方が半分ずつ混じっていた。
「臭いを消すこと自体は、悪くないの。むしろ、あんたたちの生活の質としちゃ大正解でしょうね」
レジーナは腕を組み、天井を見上げながら続けた。
「問題は、消し方が急すぎたってこと。一晩で周辺一帯の異臭が消えたら、そりゃあ誰だって不審に思うわ」
「……対策は、した」
ニッカが小さく反論すると、レジーナは片眉を上げた。
「聞いてるわよ。装置の不調のせい、って報告書に書かせたんでしょう。悪くない機転だけど、いつまでも通用する言い訳じゃない」
その一言に、食堂の空気がわずかに沈んだ。
力ずくで脅されるなら、まだやりようがある。殴られれば殴り返せばいい、壊されれば直せばいい。だが「変化の速さ」などという、形のない物差しを相手取るすべを、ニッカはまだ持ち合わせていなかった。
「あたしがジャーナリストだった頃、企業の不祥事を追いかけてた時期があったの」
レジーナは腕を組んだまま、少し遠い目をした。
「急に綺麗になった帳簿、急に静かになった労働環境。そういうのって、逆に一番怪しく見えるのよ。変化が急なほど、隠したい何かがあるって、みんな勘繰る」
「……変化は、ゆっくり見せろってこと?」
「そういうこと。今回は運良く凌いだみたいだけど、次はそうもいかないかもしれない」
率直な忠告に、ニッカは何も言い返せなかった。荒野育ちの応急処理の勘は、速さと引き換えに、こういう繊細な機微をいつも置き去りにしてしまう。
少し離れた場所で聞いていたキーウィが、煙草をくわえたまま静かに口を挟んだ。
「言った通りだろう」
その一言に、ニッカは視線を落とした。
「……分かってる。今度は、ちゃんと考える」
「考えるだけで終わらせるなよ」
釘を刺すキーウィの声に、レジーナが興味深そうな目を向けた。
「あんた、この子にはずいぶん手厳しいのね」
「甘やかして得することのない性分だからな、こいつは」
二人の間に漂う、何か通じ合うものを感じ取ったのか、ニッカは居心地悪そうに視線を泳がせた。
浴場へ向かう通路に差し掛かると、うっすらとした湯気が奥から漂ってくるのが見えた。レジーナの足が、初めてわずかに緩む。
「……これは?」
「お風呂。もうすぐ、完成する」
答えたニッカの声には、隠しきれない誇らしさが滲んでいた。レジーナは足を止め、湯気の向こうに組まれた配管と湯船をしばらく眺めていた。
「地下拠点で、まともな風呂まで作るとはね」
「まともかどうかは、まだ分からない」
「謙遜しなくていいわよ。これだけの設備、ワトソンの安宿より上等じゃない」
珍しく素直な称賛に、ニッカは戸惑ったように視線を逸らした。
ちょうどそこへ、水回りの最終点検を終えたドリオが姿を見せた。
「あら、噂の情報屋さんね」
「ご丁寧にどうも」
レジーナが軽く頭を下げると、ドリオは値踏みするような目で相手を見返した。長い付き合いの勘が、こういう場面では誰よりも早く働く。
「排水は、外の下水と同じ温度と水質まで戻してある。前みたいな失敗は、もうしないわ」
ドリオの一言に、レジーナは興味深そうに目を細めた。
「前みたいな失敗、って?」
「排水が外の水道に直接流れてて、危うく企業にバレかけたのよ」
あっさりと暴露するドリオに、ニッカは慌てて口を挟んだ。
「もう、直した。今は問題ない」
「問題ないなら、隠さなくてもいいでしょう」
澄まし顔で切り返すドリオに、ニッカは反論の言葉を失った。
「見せてもらってもいい?」
興味を隠さないレジーナの視線に、ドリオが得意げに配管の一角を指差した。
「せっかくだから、実演してみせようか」
その一言に、通りかかったピラルが目を輝かせて割り込んできた。
「俺様がやってやるよ!この蛇口、捻るだけですぐお湯出るんだぜ」
「ピラル、あんたは」
止めようとしたドリオの声より早く、ピラルは意気揚々とバルブへ手をかけていた。
「見てろよ、レジーナさん。これがうちの技術力――」
言い終わるより先に、締めの甘かった継手から勢いよく水が噴き出した。
「うおっ!?」
真正面から浴びたピラルが、悲鳴を上げてよろめく。通路の奥からその一部始終を見ていたレベッカが、腹を抱えて笑い出した。
「ぎゃはは!また同じ場所やらかしてんじゃねえか!」
「うるせえ! 今回は締め直したばっかりだったんだよ!」
ずぶ濡れのまま抗議するピラルに、レジーナは驚いた顔をした後、堪えきれない様子で肩を震わせた。
「……ふふ。噂通り、賑やかな場所ね」
「お恥ずかしいところを」
ニッカが頭を抱えると、レジーナは口元を緩めたまま首を横に振った。
「いいえ。こういう空気、嫌いじゃないわ」
その言葉には、いつもの淡々とした調子とは違う、幾分柔らかい響きが混じっていた。
通信室から様子を見に出てきたルーシーが、廊下の角でちょうどレジーナと鉢合わせた。二人はしばらく無言のまま、互いを値踏みするように見つめ合う。
「あんたが、噂のネットランナーね」
先に口を開いたのはレジーナだった。ルーシーは表情を変えずに頷く。
「防壁、破らせたつもりはない」
「知ってる。あたしの側が、少し強引に潜っただけよ」
あっさりと認めるレジーナに、ルーシーは細く息を吐いた。
「今度は、通さない」
「それは楽しみね。次はちゃんと正面から挑ませてもらうわ」
挑発とも取れる一言に、ルーシーの目つきがわずかに鋭くなる。だが緊張が走ったのは一瞬だけで、レジーナはさっさと視線を外し、通路の先へ歩き出してしまった。取り残されたルーシーは、しばらくその背中を睨みつけたまま動かなかった。
「……食えない女」
小さく呟いた声が、誰の耳にも届かないまま通路の奥へ消えていった。
水を滴らせたまま立ち尽くすピラルの肩を、通りかかったファルコが軽く叩いた。
「三度目は、さすがに学習しろよ」
「三度目じゃねえ、二度目だ! ……いや、待て、もしかして今ので三度目か」
自分で数えて青ざめるピラルに、周囲からまた小さな笑いが漏れた。
一通りの案内を終え、拠点の一室に落ち着くと、レジーナは持参した端末を軽く操作し始めた。
「本題に入るわね」
その一言に、周囲の空気がまた引き締まる。
「今回みたいな環境調査班の動き、あたしの情報網なら、事前にある程度は掴める。企業がどのエリアに目をつけてるか、どのタイミングで人を動かすか」
「……それを、教えてくれるってこと?」
ニッカが尋ねると、レジーナは頷いた。
「対価はいらない、とは言わないわ。あんたの腕を、たまに貸してもらえたらそれでいい」
「腕を貸すって、具体的には」
「今すぐ何かをしろとは言わない。ただ、いつかあたしが本当に困った時に、断らないでほしいだけ」
抽象的な言い回しに、ニッカは眉を寄せた。
「曖昧すぎる」
「曖昧なくらいでちょうどいいのよ。細かく縛る契約なんて、お互い息が詰まるだけでしょう」
レジーナの声には、これまでの取引で培ってきた、独特の距離感の取り方が滲んでいた。
壁際で話を聞いていたキーウィが、煙草の煙を吐き出しながら割り込んだ。
「曖昧な約束ほど、後で高くつくもんだ」
「あら、手厳しいこと言うのね」
レジーナが振り返ると、キーウィは表情を変えずに見つめ返した。
「この街で、無条件の親切なんて信じるな。……誰かに、そう教わったもんでな」
その一言に、レジーナの口元がわずかに緩んだ。
「懐かしい台詞ね。あんたらしいわ」
二人の間に流れた短い視線の交わし合いには、言葉以上の何かが含まれているようだった。だが、それ以上踏み込む素振りを、どちらも見せなかった。
「……正直に言うと」
少し間を置いてから、レジーナは珍しく声のトーンを落とした。
「あんたが組みあげたっていう、神経の負荷を逃がす回路の噂。聞いた時から、ずっと気になってる」
その一言に、ニッカの肩がわずかに強張った。
「……何のこと」
「とぼけなくていいわ。あたしが探してる治療法と、どこかで繋がる技術かもしれない。今すぐ詳しく聞くつもりはないけど、いつか教えてもらえたら嬉しい」
その声には、フィクサーとしての打算だけでなく、もっと個人的な切実さが薄く滲んでいた。少なくとも、ニッカにはそう聞こえた。
「……考えとく」
「知ってるわよ、あんたのその返事」
からかうように笑うレジーナに、ニッカは肩をすくめるしかなかった。
「……また、保留にしていい?」
絞り出すような一言に、レジーナは意外にも小さく笑った。
「またそれね」
「決めるの、苦手」
「知ってるわよ。あんた、前もそうだった」
揶揄うような響きに、ニッカは視線を逸らすことしかできなかった。
「別に急かさないわ。契約書もない、拘束時間もない。あたしはただ、必要な時に必要な分だけ、対等に取引したいだけだから」
その言葉には、一貫した誠実さが滲んでいた。ニッカはしばらく黙り込んだ後、小さく頷いた。
「……考えとく。今度こそ」
「今度こそ、が何度目か数えてないけどね」
澄ました声で返すレジーナに、周囲から小さな笑いが漏れた。
滞在を切り上げる頃、レジーナは湯気の立ち込める通路へちらりと視線を向けた。
「あの風呂、完成したら教えて。……興味、なくはないから」
「入りに来るつもり?」
ニッカが尋ねると、レジーナは素っ気なく答えた。
「気が向いたらね。今日のところは、仕事が残ってる」
立ち去り際、レジーナはふと足を止め、倉庫の隅に置かれた布包みへ視線を投げた。旧式の防犯センサーが、埃をかぶったまま静かに眠っている。
「……その規格、懐かしいわね」
「知ってるの、それ」
ニッカが尋ねると、レジーナは一瞬だけ表情を曇らせ、すぐに元の澄ました顔へ戻した。
「昔、記者時代に似たようなものを取材したことがあるだけよ。詳しい話は、また今度」
それだけ言い残し、レジーナは来た時と同じように、静かに裏口から姿を消していった。防壁が素通りされたことに、ルーシーがまだぶつくさと文句を言っているのが、通信室の方角から聞こえてきた。
客が去った後の拠点には、張り詰めていた緊張の代わりに、じわじわとした解放感が広がっていった。
「よっしゃ、緊張の来客タイムは終わりだ!あとは風呂だけだろ!」
両手を突き上げるレベッカに、ピラルもずぶ濡れのまま便乗する。
「待ってました! 俺様、もう我慢の限界なんだよ!」
「あんたは着替えるのが先でしょう」
ドリオの一言に、ピラルは項垂れながらも渋々通路の奥へと引っ込んでいった。
「それで、結局一番風呂は誰なんだ」
メインが尋ねると、食堂に集まった面々の視線が一斉にニッカへ向いた。
「私が決めるの?」
「あんたが作ったんだから、あんたが決めるのが筋だろ」
ファルコの言葉に、ニッカはしばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。
「ドリオ」
名指しされたドリオが、意外そうに目を丸くする。
「……なんで私」
「一番、注文が多かった。一番、細かく見てくれた。それに、今日レジーナに一番ちゃんと説明してくれた」
淡々と理由を並べるニッカに、ドリオは一瞬言葉を詰まらせた後、小さく笑った。
「……そういうことなら、遠慮なく」
その返答に、周囲から拍手混じりの歓声が上がった。
「あたしは?」
不満げに手を挙げたレベッカに、ニッカは短く答える。
「二番目。掘削、頑張った」
「よっしゃ!」
「俺様は?」
便乗するように尋ねたピラルに、ニッカは容赦なく告げた。
「一番最後。今日、三回も水浴びした人は、もう十分濡れてる」
「数えるなよそこ!てか三回目は俺のせいじゃねえだろ、あの継手が悪いんだよ!」
悲鳴じみた抗議に、食堂中が笑いに包まれた。荒野育ちの合理性は、こういう場面でも変わらず発揮されるらしかった。
「メインとファルコは?」
尋ねたデイビッドに、メインは腕を組んだまま鷹揚に答えた。
「俺たちは最後でいい。力仕事に湯船の順番なんざ、そう急ぐもんでもねえだろ」
「珍しく譲るじゃねえか」
ファルコがからかうように言うと、メインは短く笑った。
「たまにはな」
その隣で、キーウィが煙草を吸いながら興味なさそうに肩をすくめた。
「私は、最後でいい。……というより、正直あまり興味がない」
「そう言うと思った」
答えたニッカに、キーウィは片眉を上げただけだった。
その夜、順番を待つ間の食堂には、これまでにない賑やかさが満ちていた。工具の音の代わりに、笑い声と湯気の気配が、狭い拠点の隅々にまで行き渡っている。
最初に湯船から戻ってきたドリオは、いつもより幾分血色の良い顔で、満足げに息を吐いていた。
「――悪くないわね。水温も、圧も、文句なし」
「本当?」
勢い込んで尋ねるニッカに、ドリオは珍しく素直に頷いた。
「本当。あんた、意外とちゃんと仕事するのね」
「意外は余計」
しれっと返すニッカに、周囲から小さな笑いが漏れた。
順番はそのまま滞りなく進んでいった。レベッカは湯船から出てくるなり「最高だ最高だ」と繰り返し、通りかかった誰彼構わず感想を語り続け、しまいにはデイビッドに口をふさがれる始末だった。ピラルは自分の順番が回ってきた頃には、すでに二度分の水浴びで体温を奪われ、湯船に浸かった瞬間「生き返った」と涙ぐんでいた。
「大げさなんだよ」
呆れるレベッカに、ピラルは真顔で反論する。
「大げさじゃねえ、これは信仰だ」
「何の信仰だよ」
軽口の応酬に、通路の隅で聞いていたルーシーが、珍しく小さく吹き出した。
深夜に近づく頃、ようやくメインとファルコの番が回ってきた。湯船から戻ってきた二人は、いつもより幾分口数が少なく、それでいて満足げな顔をしていた。
「悪くねえな、こういうのも」
髪を拭きながら呟くメインに、ファルコが小さく笑った。
「まともな水回り一つなかった頃を思えばな」
「思えば、遠くへ来たもんだ」
しみじみとした口調に、通りかかったドリオが茶々を入れる。
「感傷に浸る前に、脱衣所の水滴くらい拭いておきなさい」
「……分かってるよ」
素直に頷くメインの姿に、ファルコが堪えきれずに肩を揺らした。
「ルーシー、あんたの番よ」
ドリオに呼ばれたルーシーは、端末を手にしたまま、少し戸惑うように視線を泳がせた。
「……仕事、まだ残ってる」
「調査班はもう撤収したんでしょう。少しくらい休みなさい」
「でも」
言い淀むルーシーの背中を、通りかかったキーウィが軽く押した。
「行ってこい。溜め込んだ疲れは、意外と体の芯に残るもんだ」
師匠の一言に、ルーシーはしばらく黙り込んだ後、小さく頷いて浴場へ向かった。戻ってきた時の彼女の頬は、いつもよりわずかに赤らんでいた。
「……悪くなかった」
短い感想に、デイビッドが安堵したように笑う。
「良かったな」
「うん」
珍しく素直な返事に、その場にいた誰もが、どこか温かい気持ちで顔を見合わせた。
最後に湯船へ向かったのは、キーウィだった。興味なさそうな態度を崩さないまま席を立った彼女を、ルーシーがそっと見送る。
「……珍しい、ちゃんと入るんだ」
「せっかく用意されたものを、無下にする理由もない」
そっけない返事を残し、キーウィは煙草を灰皿に押しつけて席を立った。しばらくして戻ってきた彼女の髪は、いつもよりわずかに湿り気を帯びていた。その表情には、普段より幾分和らいだ色が滲んでいる。
「……どうだった?」
尋ねたルーシーに、キーウィは短く答える。
「悪くない。それだけだ」
多くを語らないその一言に、ルーシーは小さく笑うだけで、それ以上は聞かなかった。
ニッカは自分の順番が回ってくるまでの間、装置の記録を最後まで確認していた。触媒コンバーターの出力、浴場の給湯温度、そしてレジーナから受け取ったきり返事をしていない提案の概要。項目を一つ書き足すたびに、慌ただしかった一週間が、少しずつ数字と記号に変わって整理されていく感覚があった。
順番が回ってきたのは、深夜近くになってからだった。湯船に体を沈めた瞬間、荒野の暮らしでは知りようもなかった温もりが、指先の先まで静かに染み渡っていく。
「……悪くない」
誰にともなく漏らした呟きが、湯気の中に溶けて消えていった。臭いも崩れかけた棚も、水回りの不便さも、ひとまずは形になった。だがその代償として、拠点は新しい監視の目とレジーナという新しい取引相手を、静かに抱え込むことになった。
快適さの向こうには、いつも何かしらの代償がある。荒野では考えもしなかったその理屈を、ニッカはこの一週間で、身をもって思い知らされていた。それでも今この瞬間だけは、湯気に包まれたまま、何も考えずに目を閉じていたかった。
水面に浮かぶ湯気の粒が、天井の低い明かりを受けてほのかに光っていた。長年、砂と油の匂いしか知らなかった鼻先に、今はただ湯の匂いだけが満ちている。それだけのことが、今のニッカには十分すぎるほどの贅沢だった。
通気口の向こうから、誰かの弾んだ笑い声がかすかに響いてくる。順番を待つ仲間たちの気配を感じながら、ニッカはもう少しだけ、この温もりに浸っていることにした。
明日からはまた、いつもの慌ただしい日々が戻ってくるのだろう。旧式の防犯センサーも、レジーナの提案も、片付けなければならない宿題として静かに順番を待っている。それでも今夜だけは、拠点全体を満たす湯気の温もりが、積み重なった疲れを一つずつ溶かしていく。その感覚を、ニッカはただじっと感じ続けていた。
湯船から上がり、脱衣所の鏡に映った自分の顔を見て、ニッカは小さく苦笑した。長年の油汚れが染みついていたはずの頬が、今はすっかりさっぱりとしている。荒野で暮らしていた頃には、鏡越しに自分の顔を眺める習慣すらなかった。ここへ来てから増えたものは、道具や設備だけではないらしい。
脱衣所を出ると、廊下の向こうから、まだ寝つけずにいるらしいレベッカとピラルの笑い声が聞こえてきた。明日には、また新しい部品や図面と向き合う一日が始まる。分かっていながらも、ニッカの足取りは不思議と軽かった。工具箱を担ぎ直し、彼女は静かに自分の部屋へと歩き出した。