サイバーパンク:ジャンク・アルケミー   作:たこ焼き 龍月

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第5.2話 「止まれ」の火力じゃない

先頭のトラックの荷台で、何かが大きく揺れた。

 

 反射的に、ニッカの指がレバーを引き絞った。

 

 轟音が格納庫の奥から弾け、砂塵の上空を光の筋が幾筋も走り抜けていく。徹甲弾は車体そのものではなく、進路をふさぐように地面へ突き刺さった。乾いた大地が次々と抉れ、土煙が壁のように立ち上る。着弾の間隔は寸分の狂いもなく、まるで定規で引いたように一直線に並んでいた。

 

「うおっ!?」

 

 先頭のトラックが急ハンドルを切り、大きく横滑りしながら停止する。荷台のレベッカが体勢を崩し、抱えていたライフルを取り落としかけた。

 

「な、なんだこりゃ!?」

 

「止まれ! 全員伏せろ!」

 

 メインの怒声が響いた。三台の車両が次々と急制動をかけ、土煙の中でタイヤが甲高い悲鳴を上げる。エンジンが唸りを上げたまま止まり、荒野に硝煙の匂いが漂い始めた。乾いた大気の中で、それはいつまでも薄れずに漂い続けているように感じられた。

 

 砲撃は、そこで終わらなかった。

 

 停止した車列の四方を囲むように、二射目、三射目が矢継ぎ早に撃ち込まれていく。着弾点は、まるで見えない檻の格子を描くように車両の周囲へ規則正しく並んでいった。逃げ場を塞ぎ、動きだけを封じる。殺すための弾ではなく、留めるための弾だった。

 

 その計算された正確さこそが、かえって恐ろしかった。腕利きの傭兵であればあるほど、この一斉射撃に込められた技量の底知れなさを痛感せずにはいられなかった。狙って外す。狙って封じる。その芸当を、誰にでもできることだと考える者は、この場に一人もいなかった。

 

  

 

 土煙が薄れた頃には、車列はガレージの手前で完全に立ち往生していた。

 

 ドリオはとっさにメインの肩を掴み、庇うように荷台の縁の下へ引き倒していた。金属の陰に身を寄せながら、彼女は自分の心臓が痛いほど脈打っているのを感じていた。

 

「メイン、動かないで」

 

「……分かってる」

 

 低く答えながらも、メインの目は油断なく前方を見据えていた。右手が無意識に武器へ伸びかけ、その動きを彼自身が途中で止めた。かつて幾度も潜り抜けてきた修羅場の勘が、今は逆に彼の体を縛りつけていた。下手に動けば、次の一斉射は警告では済まない。それだけは、経験が教えてくれていた。

 

 荷台から転がり出たレベッカは、地面に伏せたままライフルを構えていた。指先が引き金にかかる寸前で、ふと動きを止める。狙いをつけるべき相手の姿が、どこにも見当たらなかった。

 

「……敵、どこだよ」

 

 呟きながら周囲を見回しても、砂塵の向こうに人影一つ見えない。撃ってきたのがどこの誰なのか、皆目見当がつかなかった。着弾の跡だけが、地面に整然と刻まれている。その規則性に、レベッカは戦い慣れた者だけが持つ違和感を覚えていた。

 

「……こいつ、素人の仕事じゃねえ」

 

 呟いた声は、いつもの威勢とは違う硬さを帯びていた。数えきれないほどの銃撃戦をくぐり抜けてきたレベッカにとって、精度と抑制を両立させた射撃というものが、どれほど困難であるかは骨身に染みて分かっていた。目の前の着弾は、その困難をあまりにも軽々と超えていた。

 

 後部座席から這い出たルーシーは、端末を握りしめたまま周辺の電波を探っていた。感情の起伏に乏しい彼女にしては珍しく、眉が寄った。

 

「……嘘でしょう」

 

「どうした」

 

「探れない。この一帯だけ、通信も測位も全部が乱れてる。まるで最初から、何もない場所みたいに」

 

 ルーシーの声には、隠しきれない驚きが滲んでいた。ナイトシティの最新鋭のセキュリティですら、彼女の腕にかかれば大抵は隙を見せる。それが今、廃品置き場としか見えないこの荒野で、まるで歯が立たなかった。指先で端末を操作するたび、応答は同じ乱れたノイズを返すばかりだった。

 

「侵入経路が、一つも見つからない。壁がないんじゃなくて……壁そのものが、存在しないように偽装されてる」

 

 普段の彼女なら、時間さえかければどんな防壁も突破できるという自負があった。だが今回ばかりは、突破口を探る糸口すら掴めなかった。初めから何一つ存在しなかったかのような沈黙が、端末の画面いっぱいに広がっているだけだった。

 

 その言葉の意味を、ルーシー自身もまだ正確には掴めていなかった。ただ一つ分かるのは、この荒野の只中に、常識の外にある技術が確かに息づいているという事実だけだった。

 

 ネットランナーとして積み上げてきた経験が、ルーシーの中で警鐘を鳴らしていた。ブラックウォールの向こう側を覗き見た時でさえ、ここまで完全な拒絶を感じたことはなかった。存在を消すのではなく、初めから存在していなかったことにする。そんな芸当が、たかが荒野の廃品置き場で実現できるはずがなかった。

 

「……何者なの、あの人」

 

 呟いた声は、誰に向けたものでもなかった。端末を握る指先が、かすかに冷たくなっていくのをルーシーは感じていた。

 

 伏せたまま身を寄せていたレベッカは、すぐ傍らの地面に目を留めていた。先ほど撃ち込まれた徹甲弾の着弾痕が、乾いた土に深く刻まれている。指を突っ込み、縁の感触を乱暴に確かめる。断面は驚くほど滑らかで、余計な跳弾の跡も歪みもなかった。

 

「……こんな綺麗な穴、見たことねえ」

 

 呟いた声には、恐怖とはまた別の響きが混じっていた。戦いの世界で生きてきた者だけが分かる、道具としての完成度への羨望だった。自分の手にあるボロボロのライフルと、目の前の着弾痕とを見比べ、レベッカは思わず唇を舐めた。こんな仕事をする奴を、敵になんて回したくなかった。

 

  

 

 土埃の向こうから、小さなエンジン音が近づいてきた。

 

 見張りの青年が、バイクを飛ばして現場へ辿り着いたのはその直後だった。急ブレーキをかけ、砂を撒き散らしながら停止する。目の前に広がる光景に、彼はしばらく言葉を失っていた。停止した見知らぬ車列。伏せたまま動かない人影。そして、ガレージの奥から静かに睨みを利かせる砲身。

 

「な……ニッカ姉、大丈夫か!?」

 

 叫びながらも、彼はどちらに向かって声をかければいいのか分からずにいた。無線が繋がらないまま飛び出してきた自分の判断が、状況をさらにややこしくするかもしれない。そんな不安が、今さらのように胸をよぎった。青年はバイクから飛び降り、腰の小銃に手をかけたまま、じりじりと後退った。

 

 その動きに、伏せていたレベッカの視線が鋭く反応した。

 

「新手か!?」

 

「待て。あの子供、クランの見張りだ」

 

 デイビッドが低く制した。バッドランズを通り過ぎる道すがら、似たような格好の若者を何人も見かけていた。敵意よりも困惑の方が色濃く滲んだその表情に、彼は見覚えがあった。

 

「敵じゃない。ここの奴らだ」

 

「だったら、なんで撃たれてんだよ、こっちが」

 

 レベッカの声には苛立ちが滲んでいたが、それでも彼女はライフルの狙いを下ろした。理屈より先に、デイビッドの声色に何かを感じ取ったようだった。

 

 腰の小銃に手をかけたまま立ち尽くしていた見張りの青年も、その様子を見て少しだけ肩の力を緩めた。ニッカ姉が誰かを迎え入れようとしているのか、それとも敵として排除しようとしているのか、この距離からでは判断がつかない。それでも、彼女が一方的に蹂躙されているわけではないことだけは、格納庫から放たれる正確無比な着弾の数々が雄弁に語っていた。青年は小銃から手を離し、代わりに拳を強く握りしめた。今の自分にできることは、ここで下手に動いて事態をこじらせないことだけだった。

 

「……ニッカ姉、頼むから無事でいてくれよ」

 

 誰にも聞こえないほどの小声で、彼はそう呟いた。

 

  

 

 土煙の中に伏せていたデイビッドは、地響きのような着弾の余韻を全身で感じ取っていた。

 

 耳鳴りが収まらないまま、彼は自分の背中にそっと手を当てた。埋め込まれた部品の輪郭が、皮膚越しに指先へ伝わってくる。あの夜ニッカが施した細工と、今しがた叩き込まれた着弾のパターンが、頭の中で重なり合っていく。

 

 一発一発の狙いに、迷いがなかった。にもかかわらず、車体にも人にも、一発たりとも当たっていない。それは偶然などではなく、明確な計算の上に成り立った制御だった。

 

――これは、威嚇だ。

 

 確信めいた予感が、デイビッドの胸に落ちた。相手はまだ、殺すつもりで撃ってはいない。だとすれば、まだ間に合う。

 

「デイビッド、伏せてろ!」

 

 メインの声が背後から飛んだが、デイビッドは首を振った。

 

「……いや、これ、ニッカだ」

 

「なに?」

 

「間違いない。狙いの精度も、パーツの匂いも……あいつがやった俺の背中の仕事と、同じだ」

 

 言い切ると同時に、デイビッドは体を起こしていた。土煙にまみれた膝を叩き、両手を高く掲げる。声を張り上げようとした喉が、緊張でかすかに震えた。

 

「よせ、坊主……!」

 

 メインが手を伸ばしかけたが、届かなかった。ドリオがその腕を強く押さえ込む。

 

「もう遅いわ。今引き戻せば、余計に狙われる」

 

 歯を食いしばりながら、メインは動きを止めた。土に伏せたまま、彼は少年の背中を睨みつけることしかできなかった。

 

「待ってくれ! 俺だ、デイビッドだ!」

 

  

 

 ガレージの制御盤の前で、ニッカは息を止めていた。

 

 外周カメラの映像に、土煙の中から立ち上がる人影が映り込んでいる。両手を高く掲げたその姿を、彼女はモニター越しにじっと見つめた。指先はまだ、迎撃タレットの照準レバーにかかったままだった。

 

 聞き覚えのある声が、無線機のノイズ混じりに届いた気がした。空耳かもしれない。距離を考えれば、地声がここまで届くはずはなかった。それでも耳の奥で、その声だけが妙に鮮明に反響していた。

 

――デイビッド。

 

 名前を思い浮かべた瞬間、頭の芯がすっと冷えていく感覚があった。だが、すぐにもう一人の自分がそれを打ち消しにかかる。

 

 姿形が似ているだけかもしれない。声を真似ることなど、この街ではいくらでもやり方がある。招かれざる者を招き入れて、後悔した話をニッカは何度も聞かされてきた。信じたその一瞬に、すべてを失った者たちの話を。

 

 照準の座標が、立ち上がった人影の輪郭をなぞるように追尾していく。表示された数値はどれも、迎撃の準備が整っていることを告げていた。あとは指先を落とすだけで、すべてが終わる。

 

「……嘘、かもしれない」

 

 掠れた声で、自分に言い聞かせるように呟いた。

 

 その一方で、指先はどうしても最後の動きへ移れなかった。理屈ではなく、体のどこかが強く拒んでいた。

 

 制御盤の隅で、警告灯が静かに明滅を続けている。侵入者、未確認、対応保留。無機質な文字列が、彼女の逡巡をそのまま映し出しているようだった。

 

 十四の頃、初めてこのタレットの原型を組み上げた日のことを、ニッカはふいに思い出した。バートは何も言わず、ただ隣で工具を渡してくれた。誰かを傷つけるための道具ではなく、誰も傷つかせないための道具にしたい。そう言った自分に、バートは静かに頷いてくれた。あの約束を、今ここで違えるわけにはいかなかった。

 

  

 

 土煙の向こうで、デイビッドはさらに一歩を踏み出した。

 

「聞こえてるか! この前、あんたに直してもらった背中の……あれのおかげで、俺は今も普通に立ってられる!」

 

 叫びながらも、彼の視線はガレージの方角から一切逸れなかった。姿の見えない相手に向かって声を投げ続けることに、意味があるのかどうかも分からない。それでも黙っていれば、次の一斉射撃が本物の狙いを持って放たれるかもしれなかった。その予感だけが、デイビッドの喉を動かし続けさせていた。

 

「頼む……! 話をさせてくれ!」

 

 答えは、返ってこなかった。

 

 風が乾いた音を立てて吹き抜け、砂塵の残滓を薄く払っていく。静寂だけが、荒野に横たわっていた。

 

 背後で、メインが低く舌打ちした。

 

「無茶しやがって……」

 

「止めても聞かねえだろ、あいつは」

 

 レベッカが伏せたまま呟くと、メインは短く息を吐いた。腕を伸ばしかけて、しかしその手を途中で止める。今飛び出せば、状況をさらに悪化させかねない。分かっていながら、じっとしていることの方が、彼にとってはよほど堪えた。

 

 ドリオがその横顔を見て、静かに口を開いた。

 

「今は、あの子に賭けるしかない」

 

「……分かってる」

 

 メインの声には、いつもの豪快さが欠けていた。伏せた体勢のまま、彼は拳を握りしめて土に押し付けていた。指の隙間から、砂がさらさらと零れ落ちていく。

 

  

 

 ニッカの視界の端で、照準の数値がわずかに揺れた。

 

 呼吸を整えようとしても、うまくいかない。モニターに映る人影の輪郭を、彼女は瞬きもせずに見つめ続けていた。両手を掲げたまま、じっと同じ場所に立ち尽くしている。逃げる素振りも、隠れる素振りもなかった。

 

 十八の夏、バートを失ったあの日の記憶が、脳裏をよぎった。

 

 あの日も、こんな乾いた風が吹いていた。ナイトシティのフィクサーが持ち込んだ仕事だと聞かされたのは、事が終わった後のことだった。輸送車を襲う手筈の護衛に駆り出されたバートは、ろくな説明もされないまま、巻き添えの銃撃に沈んだ。知らせを受けたニッカが現場に着いた時には、すでに遺体の周りに人だかりができていた。

 

 土に横たわる背中が、いつもより小さく見えたことを、ニッカは今でも覚えている。あれほど大きく、頼りになるはずの背中が、なぜあんなにも縮んで見えたのか。答えの出ない問いだけが、あの日から胸の奥にずっと沈んだままだった。

 

 あの時、自分に力があれば。もっと早くに気づいていれば。何度繰り返しても意味のない後悔を、ニッカは幾晩も抱え続けた。守れなかったものの重さを、彼女は誰よりもよく分かっていた。同じ過ちを、二度と繰り返すつもりはなかった。

 

 だが、あの夜のことも同時に思い出す。血まみれの少年の背中に、震える手で工具を当てた夜のことを。あの時感じた重み、あの時聞いた掠れた声を。助けを求めるでもなく、ただ黙って痛みに耐えていたあの背中を、ニッカは忘れたことがなかった。

 

「……もし、違ったら」

 

 呟きながら、ニッカは照準レバーに置いた指へさらに力を込めた。もし違ったら、この一発で終わる。だが、もし本物だったら――その先を考えることを、彼女は自分に許さなかった。

 

 外周カメラのズームを、ニッカは震える手でさらに絞り込んだ。土煙の隙間から、輪郭がわずかに鮮明になっていく。

 

 見覚えのある痩せた肩の線。不揃いに切られた髪。あの夜、作業台の上で祈るように動かなかった、あの姿と重なるものが確かにそこにあった。

 

 喉の奥が、詰まったように動かなくなった。

 

 それでも、指先だけはまだ照準の上で止まったままだった。

 

  

 

 指先が、照準レバーからほんのわずかに逸れた。

 

 その拍子に、迎撃タレットの砲身が小さく跳ねた。放たれた一発は、デイビッドの頭上高くを掠め、遥か後方の岩肌に着弾して砕け散った。狙いを外したのではなく、明確に外れる軌道を描いた一発だった。

 

 轟音が荒野に響き渡り、砂と岩の破片が舞い上がる。デイビッドは思わず身をすくめたが、逃げ出しはしなかった。両手を掲げたまま、その場に立ち続けた。

 

 心臓が耳の奥で鳴っていた。今の一発が警告なのか、それとも見逃されたのか、彼自身にも判断がつかなかった。それでも、退く理由にはならなかった。

 

 土煙が晴れていくにつれて、辺りには奇妙な静けさが降りてきた。誰も声を発さない。誰も動かない。冷えていくエンジンが、時折小さく金属音を立てるだけだった。

 

 伏せていたレベッカが、そっと顔を上げた。土埃にまみれた頬を袖でぬぐいながら、彼女はガレージの方角を睨みつけた。

 

「……今の、外したのか。それとも、外さなかったのか」

 

 隣で、ドリオが小さく息を吐いた。

 

「たぶん、後者よ」

 

  

 

 しばらくの沈黙の後、ガレージの屋根の下から、くぐもった機械音声が響いた。廃品のスピーカーを寄せ集めて作った、粗末な外部拡声器を通した声だった。

 

「……そこの、両手を上げてる奴」

 

 声は硬く、わずかに震えを帯びていた。それでも、荒野の隅々にまで届くだけの強さを持っていた。

 

「名前、名乗りなさい。ゆっくりと」

 

 デイビッドは、掲げた手を下ろさないまま声を張った。

 

「デイビッド・マルティネスだ。前に、世話になった」

 

 沈黙が落ちた。数秒か、それとも数十秒か、体感の時間はひどく曖昧だった。エンジンの余熱が金属を鳴らす音だけが、荒野に低く響き続けていた。

 

「……他の連中は」

 

「俺の知り合いだ。話がしたくて、来た。それだけだ」

 

「武器は」

 

「……持ってる。でも、誰も撃つつもりはない」

 

 正直に答えたデイビッドの声に、迷いは感じられなかった。ガレージの方から、再び長い沈黙が返ってきた。ニッカが何を考え、何を天秤にかけているのか、この距離からは窺い知れない。それでも、砲身はもう彼らのどこにも向けられていなかった。その事実だけが、二人にとってわずかな希望だった。

 

  

 

 制御盤の前で、ニッカは拡声器のスイッチを握ったまま、動けずにいた。

 

 タレットの照準は、今もまだ準備状態のまま保持されている。指一本で、すべてを終わらせることもできた。それでも、彼女はその指を下ろさなかった。

 

 モニターの中で、デイビッドと呼ばれた人影は、微動だにせず両手を掲げ続けている。逃げず隠れず、ただそこに立ち続けるその姿を、ニッカはもう一度だけ見つめ直した。

 

 嘘をつく人間の目を、彼女はさほど多く見てきたわけではない。それでも、あの夜の記憶だけは、どんな理屈よりも確かに胸へ残っていた。

 

「……車、そこから動かさないで」

 

 震える声で、ニッカはようやくそれだけを告げた。

 

「武器は、荷台に置いたまま。一人ずつ、ゆっくりこっちへ歩いてきて」

 

 拡声器越しの声が、荒野の乾いた空気に溶けて消えていく。命令にしては頼りなく、それでいて、確かな警戒だけは滲んでいた。

 

 伏せていた一同が、顔を見合わせた。誰も、すぐには動こうとしなかった。

 

「……誰から行く」

 

 低く問うたメインに、レベッカが真っ先に手を挙げかけた。

 

「あたしが」

 

「駄目だ」

 

 即座に却下され、レベッカは口を尖らせた。

 

「なんでだよ」

 

「お前は頭に血が上ると銃を握りたがる。今、そういう奴を先頭に立たせるわけにはいかねえ」

 

 にべもない返答に、レベッカは不満げに黙り込んだ。それでも言い返さなかったのは、彼女自身、自分のその癖を誰よりも自覚していたからだった。

 

「私が行くわ」

 

 ドリオが静かに申し出ると、メインが首を振った。

 

「駄目だ。俺が行く」

 

「あんた、腕が――」

 

 言いかけたドリオの言葉を、メインは遮った。

 

「関係ねえ。ここで俺が動かなきゃ、この先も同じことの繰り返しだ」

 

 低いが、揺るぎのない声だった。ドリオはしばらくその横顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐いて頷いた。反論すれば長引くことを、彼女は経験から知っていた。

 

  

 

 車両の陰から、ドリオはメインの背中を見送っていた。土煙にまみれたその背中は、いつも通り広く逞しく見えた。それでも、右手の指先がわずかに震えていることに、彼女だけは気づいていた。

 

 近頃、その震えは少しずつ大きくなっている気がした。眠っている間に、無意識に手のひらを握り締めていることもある。本人に問い詰めても、決まって同じ答えしか返ってこない。大した事じゃねえ。その一言の裏に何が隠れているのか、ドリオにはまだ確かめる術がなかった。今はただ、その背中が無事に戻ってくることだけを祈るしかなかった。

 

 メインは伏せていた体をゆっくりと起こし、両手を高く掲げた。荷台のライフルには、指一本触れなかった。

 

「ニッカとやら! 俺はメインだ! こいつの……デイビッドの、仲間だ!」

 

 野太い声が、荒野の乾いた空気を震わせた。ガレージの方からの返答はない。それでも、砲身の角度に変化がないことを見て取り、メインは一歩を踏み出した。図体に似合わず、その足取りは妙に慎重だった。

 

 デイビッドの隣まで進み出ると、メインは短く目配せをした。

 

「ここまで来た。文句はねえだろうな」

 

「……あんた、無茶しすぎだ」

 

「今さらだろうが」

 

 軽口めいた口調とは裏腹に、メインの背中にはうっすらと汗が滲んでいた。狙われているという感覚は、彼にとって決して初めてのものではなかった。それでも、姿の見えない相手にここまで完璧に制圧された経験は、記憶にある限り一度もなかった。

 

 二人並んで歩き出しながら、デイビッドは足元の砂の感触を確かめるように一歩ずつ進んでいった。あの夜も、こうして同じ道を歩いた。血の匂いに塗れ、意識が朦朧とする中で、遠くに灯る明かりだけを頼りに足を引きずった記憶が蘇る。あの時は、生き延びることしか考えられなかった。今は、それとは違う重さが胸にあった。世話になった相手に、きちんと顔を見せて礼を言う。ただそれだけのことが、こんなにも命がけになるとは思ってもみなかった。

 

 太陽はすでに高く昇り、乾いた大地から陽炎が揺らめき立っていた。汗が背中を伝い落ちるのを感じながらも、デイビッドは足を止めなかった。喉の渇きよりも、胸の奥で疼く緊張の方がずっと強かった。隣を歩くメインの息遣いも、いつもより浅く、速いことに彼は気づいていた。

 

  

 

 ガレージの内側で、ニッカはモニターに映る二つの人影を交互に見比べていた。

 

 一人は、あの夜の記憶と重なる痩せた輪郭。もう一人は、見覚えのない大柄な男だった。両手を掲げたその歩き方には、警戒よりも覚悟のようなものが滲んで見えた。

 

 照準の数値が、二人の動きを正確に追い続けている。指先はまだ、いつでも引き絞れる位置にあった。それでも、その必要はもう感じられなくなっていた。

 

 不意に、荷台に置かれていた誰かの荷袋が、風にあおられて大きく揺れた。その動きに反応し、迎撃タレットの砲身がわずかに跳ねる。

 

「ひっ……」

 

 荷台の陰にいたレベッカが、小さく息を呑んだ。誰も、声を出さなかった。数秒の静寂の後、砲身は再びゆっくりと静止した。ただの荷物だと判断したのか、あるいは誰かの意志がそれを押しとどめたのか、その判断の過程は誰にも分からなかった。

 

 メインとデイビッドの足が、一瞬止まった。互いに視線を交わし、小さく頷き合うと、二人は再び歩き出した。

 

  

 

 ガレージの門扉まで、あと十数メートルというところで、メインが足を止めた。

 

「これ以上は、そっちの判断に任せる」

 

 言葉を投げかけると、彼はその場に立ち尽くした。デイビッドもまた、隣で静かに息を整えていた。

 

 錆びた鉄柵の向こう、薄暗い格納庫の奥に、小さな人影が動くのが見えた。ゆっくりと、しかし確かにこちらへ近づいてくる。逆光の中でその輪郭がはっきりとした形を結ぶまで、デイビッドはただ息を殺して待ち続けた。

 

 格納庫の暗がりの中で、ニッカは制御盤から一度手を離し、深く息を吸い込んだ。照準は自動追尾のまま維持させ、いつでも呼び戻せる状態にしておく。それだけの用心を残してから、彼女は震える足で入り口へと向かった。

 

 作業台の隅に置かれたバートの古いレンチに、ニッカはふと手を伸ばした。使い込まれて丸みを帯びた柄の感触を握り込むと、わずかに気持ちが落ち着いていく気がした。武器にはならない、ただの工具だった。それでも今の彼女には、その重みだけが唯一の支えだった。レンチを腰のベルトに差し込み、ニッカは扉の外へと足を踏み出した。

 

 やがて、格納庫の影から抜け出したニッカの姿が、白い陽光の中に浮かび上がった。作業着の裾を握りしめたまま、彼女はその場に立ち止まり、二人の姿を無言で見つめていた。

 

 近くで見るその顔は、記憶にあるものよりもいくらか青ざめていた。目の下にはうっすらと隈が浮かび、握った拳はまだ小さく震えている。それでも、その瞳の色だけは、あの夜と寸分違わなかった。

 

 しばらくの間、誰も口を開かなかった。鉄柵越しに向き合う二人と一人の間に、乾いた風だけが行き来していた。

 

「……本当に、あんたなんだ」

 

 デイビッドが、掠れた声で呟いた。安堵とも困惑ともつかない響きが、その一言に滲んでいた。

 

 ニッカは答えなかった。ただ、鉄柵を挟んだまま、探るような視線を二人へ向け続けていた。何を確かめようとしているのか、彼女自身にもうまく言葉にできない。それでも、目を逸らすことだけはしなかった。

 

「……あんたたち、まさかここまで来て」

 

 言葉の途中で、ニッカは一度唇を噛んだ。喉の奥に、まだ吐き出しきれない緊張の塊が残っていた。

 

「ここが、どこだか分かってて来たの」

 

 問いかけの語尾は、思いのほか震えていた。長年守り続けてきた静かな暮らしが、この一言で終わってしまうかもしれない。そんな予感を抱えながらも、ニッカは目を逸らさなかった。答えを待つように、彼女はじっと二人を見据えたまま、鉄柵の向こうで動かずにいた。太陽はすでに中天にあった。静止した車列と動かない人々の影を、容赦なく地面へ焼き付けている。風だけが、乾いた音を立てて荒野を渡っていった。誰も、まだ何も言わなかった。荒野の乾いた匂いだけが、いつまでも消えずに漂い続けていた。

 

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