拠点に漂う空気は、この数日ですっかり様変わりしていた。
悪臭の名残はどこにもなく、通路の奥からはまだ控えめな湯気の気配が漂っている。崩れかけていた棚は真新しい支柱に支えられ、触媒コンバーターの唸りだけが、静かな廊下に規則正しく響いていた。快適さというものを、ニッカはこの一週間で初めて実感として理解した気がしていた。
あれほど頻繁に姿を見せていた環境調査班の巡回も、ここ数日はめっきり数を減らしていた。排水路を作り直した甲斐があったのか、それとも単に運が良かっただけなのか。判断のつかないまま、静けさだけが拠点に降り積もっていた。
その平穏の隅で、ニッカは薄暗い倉庫にしゃがみ込み、布に包まれたままの旧式センサーを久しぶりに広げていた。棚の補強作業の最中に見つかったきり、他の作業に押し流されて後回しにされていたものだった。
埃を払うと、基板の表面に刻まれた製造番号が浮かび上がる。見覚えのない規格だった。バッドランズの廃品市場でも、ナイトシティの闇市でも、これと同じ型を目にした記憶はない。
配線を一本ずつたどりながら、ニッカは眉を寄せた。ただの防犯センサーにしては、内部の作りが妙に凝っている。信号強度を測る回路の隣に、本来なら不要なはずの暗号化チップが埋め込まれていた。誰かが意図的に、痕跡を残さないよう手を加えた形跡だった。
荒野で染みついた勘が、目の前の基板にどこか覚えのある感触を訴えていた。だがその正体を言葉にできるだけの手がかりは、まだどこにも見当たらない。
しばらく基板を睨んでいたニッカは、結局それを布に包み直し、棚の奥へと戻した。今の自分の手には余る謎だという判断だった。優先すべき作業は、他にいくらでもある。
「まだ、それ弄ってんのか」
声をかけてきたのはファルコだった。帽子のつばを軽く持ち上げ、興味深そうに手元を覗き込んでくる。
「後回しにしてたやつ。ちょっと、気になって」
「気になる、ね。あんたのその気になるは、大抵ろくでもない発見に繋がる」
軽口混じりの指摘に、ニッカは苦笑した。荒野で暮らしていた頃から、この手のからかいには慣れきっている。
「別に。ただの古いセンサーでしょ、多分」
「多分、ってのが引っかかるがな」
ファルコはそう言い残し、通路の奥へと戻っていった。その背中を見送りながら、ニッカは手の中の布包みへもう一度視線を落とす。暗号化チップの意味を、まだ言葉にできずにいた。
食堂では、いつも通りの騒がしさが続いていた。
「――なあニッカ、今日の飯当番あたしだから、期待していいぜ」
通りかかったレベッカが、得意げに胸を張る。
「期待、していいの」
「当たり前だろ。この間よりは絶対美味くなる」
「この間、焦がしたでしょ」
「あれは鍋のせいだ!火加減、あの鍋のクセが強すぎたんだよ!」
声を張り上げるレベッカに、通りかかったデイビッドが呆れた顔で口を挟んだ。
「鍋のせいにするなよ。ただの目測ミスだろ」
「うるせえ、味方しろよ普通!」
軽い言い争いが食堂に響く。そこへ、着替えを終えたばかりのピラルが、まだ湿った髪のまま顔を出した。
「おう、見ろよこの艶!昨日の風呂は最高だったな」
「あんた、三回も水浴びしといて、よく寝れたな」
呆れたレベッカの一言に、ピラルは大真面目な顔で答えた。
「あれはあれ、これはこれだ。俺様の体は切り替えが早いんだよ」
「屁理屈だけは一人前だな」
軽く突っ込んだレベッカに、ピラルはにやりと笑い返しただけだった。
その様子を眺めながら、ニッカは工具箱の脇に腰を下ろし、朝食代わりの携行食を口に運んだ。慌ただしくも穏やかなこの時間が、いつからか彼女にとってもかけがえのないものになりつつあった。
食堂の入り口では、キーウィが煙草をくわえたまま、外周モニターの映像を眺めていた。
「――静かすぎる、と思わないか」
通りかかったドリオに、キーウィがぽつりと呟く。
「良いことじゃない、静かなのは」
「静かすぎるのは、大抵の場合、次の何かの前触れだ」
乾いた声には、長年ナイトシティを渡り歩いてきた者だけが持つ、独特の勘が滲んでいた。ドリオは肩をすくめただけで、それ以上は何も言わなかった。だが彼女の視線も、しばらくの間、モニターの映像から離れなかった。
「前触れ、ね。あんたのそれ、外れたためしがないから困る」
ドリオが小さく漏らすと、キーウィは煙を長く吐き出しただけで、それ以上は答えなかった。
少し離れた場所では、メインが補強したばかりの支柱を点検していた。拳で軽く叩き、継ぎ目のたわみがないことを確かめる。単調な作業のはずが、彼の手つきには、いつになく丁寧さが宿っていた。
「今日は、特に何も予定ねえよな」
独り言のような呟きに、答える者はいなかった。それでも、その言葉が数時間後には裏切られることを、この時のメインはまだ知らずにいた。
その予感が形を取ったのは、昼を過ぎてすぐのことだった。
通信室の隅で作業をしていたルーシーの端末が、聞き慣れた着信音を鳴らした。だがその音は、いつもより一段階、切迫した響きを帯びている。
「……レジーナの、専用回線」
呟いたルーシーの手が、一瞬止まった。いつもの雑談めいた着信とは、明らかに質が違う。指先の動きに、微かな緊張が加わっているのが分かった。彼女はすぐに回線を繋ぎ、通話をニッカの端末へと転送した。
端末を耳に当てた瞬間、ニッカは違和感を覚えた。聞こえてきた声は、確かにレジーナのものだった。だが、いつもの軽い調子がどこにもない。
「鈴木、今すぐそっちに行っていい?」
「……何かあったの」
「電話じゃ、話しきれない」
短く切り上げられた言葉の端に、これまで一度も聞いたことのない硬さが混じっていた。ニッカは端末を握る手に、無意識のうちに力を込めた。
「分かった。来て」
それだけ答えると、通話はすぐに切れた。切れた後の静寂が、いつもより長く感じられた。
連絡を受けてから、レジーナが拠点の裏口に姿を見せるまで、さほど時間はかからなかった。普段の余裕を纏った足取りとは違う、幾分急いた歩調で、彼女は通路を進んでくる。
「早いね」
出迎えたニッカに、レジーナは短く答えた。
「近くにいたの、たまたま」
その言い訳めいた一言に、いつもの軽妙さは薄かった。集まってきたメインやキーウィ、ドリオたちの視線が、自然とレジーナへ集中する。物々しい空気を察したのか、食堂で言い争っていたレベッカとデイビッド、ピラルまでもが、いつの間にか口を閉ざしていた。
「本題に入るわ。時間、あまりないから」
レジーナはそう前置きすると、持参した端末を操作し、通路の壁に簡易的な投影を映し出した。粗い画質の写真には、見知らぬ男の顔が映っている。頬のこけた、疲れの色が濃い顔立ちだった。
「この男、通称『グリッチ』。ワトソン地区で、企業のセキュリティ関係を渡り歩いてたソロよ」
レジーナは端末を指先で叩きながら、淡々と説明を始めた。
「あたしがまだ記者だった頃、何度か情報をもらってた。企業の裏帳簿とか、隠された事故の記録とか。表に出せない話ほど、あの男は正確に嗅ぎつけてきた」
「……情報源、ってこと」
「そう。それも、かなり危険を冒してくれてた側の」
その一言に、レジーナの声がわずかに沈んだ。ニッカは黙って先を促した。
「二年前、正体がバレかけて追われた。あたしが匿おうとしたけど、本人が拒んで姿を消した。それきり、消息は掴めなかった」
「それが、今になって」
「見つかった。……あまり、いい状態じゃない形で」
言葉を選ぶような間の後、レジーナは投影の画像を切り替えた。次に映し出されたのは、監視カメラらしき粗い映像だった。路地の奥、一人の男が壁に向かって何度も拳を叩きつけている。腕の動きには、明らかな異常があった。
「サイバーサイコシスの、初期症状」
映像を見つめたまま、ニッカが低く呟いた。レジーナは頷く。
「たぶんね。あの男、逃げてる間も生き延びるために、闇医者から闇医者へ渡り歩いて、際限なくクロームを積み増してた。神経の負荷なんて、誰も気にしちゃいなかった」
「治療は」
「受けてない。受けられる場所も、知らなかったんでしょうね」
レジーナの声には、隠しきれない苦さが混じっていた。
「昨日、通報が入った。近隣住民が、様子のおかしい男を見たって。今のところはまだ、通り魔未満の段階よ。でも」
「でも?」
「正式に確認が取れ次第、MaxTacが動く。手順通りなら、それは救助じゃなくて、排除」
その一言に、通路の空気が一段と重くなった。食堂の隅で聞いていたレベッカが、思わず声を上げる。
「排除って、殺すってことか」
「そう。相手が武装した傭兵だろうと、行き倒れの元情報屋だろうと、手続き上は同じ扱い」
あっさりと告げられた事実に、レベッカは眉をひそめたまま黙り込んだ。
「正直に言うと」
レジーナは端末を握る手に、わずかに力を込めた。
「あの男が姿を消した後も、ずっと引っかかってた。あたしが匿いきれなかったせいで、あそこまで壊れていったんじゃないかって」
「……あんたのせいじゃない」
思わず口をついて出たニッカの一言に、レジーナは小さく首を振った。
「分かってる、頭では。でも、あの男が情報をくれなかったら、あたしはとっくにただの記者崩れで終わってた。借りがあるのは、あたしの方」
「恩を仇で返すみたいな真似だけは、したくない」
珍しく声を揺らしたレジーナの横顔には、フィクサーとしての打算を超えた、個人的な切実さが滲んでいた。
「あんたに頼みたいのは、二つ」
レジーナは指を二本立てた。
「一つは、あの男を、企業やNCPDより先に見つけること。もう一つは……殺さずに、止める手段」
「……前に言ってた、借りって」
ニッカの声が、わずかに掠れた。レジーナはまっすぐこちらを見据える。
「そう。今回が、それ」
あっさりとした答えに、かえって重みが増した気がした。曖昧なままにしておいた約束が、思っていたよりずっと早く、輪郭を持って迫ってきている。
沈黙を破ったのは、メインだった。
「殺さずに止める、って、簡単に言うが。サイバーサイコ化した奴を捕まえるのがどれだけ危険か、あんたも知ってるだろう」
腕を組んだメインの声には、経験に裏打ちされた重みがあった。自分自身、際どい淵をくぐり抜けてきた身だからこそ、軽々しく請け合えない話だった。
「知ってる。だから、あんたたちの力を借りたいの」
レジーナは臆する様子もなく答えた。
「あたし一人の伝手じゃ、限界がある。でも、この拠点になら、まだ間に合わせる手段があるかもしれない」
その視線が、自然とニッカへ向く。
「あんたが組んだ、神経負荷を分散させる回路。あれの応用が使えないかって、ずっと考えてた」
しばらく黙っていたファルコが、帽子のつばを指先で押し下げた。
「……震えは、右腕か、左腕か」
唐突な問いに、レジーナは一瞬戸惑った表情を見せた。
「映像だと、右腕みたいだけど。それが、何か」
「いや。……昔、似たようなのを見たことがある。それだけだ」
短く答えたファルコの声には、普段の飄々とした響きがなかった。誰も、それ以上は踏み込まなかった。ドリオだけが、その横顔を静かに見つめていた。
「――昔の相棒も、そうだった」
少し間を置いてから、ファルコは静かに続けた。
「利き手が、少しずつ震え始めて、本人はただの疲れだと思い込んでた。俺も、そう思ってた。今なら、あれが何だったか分かる」
その声には、長年沈めてきた後悔の色が、隠しきれずに滲んでいた。ニッカは、以前ファルコから聞いた形見の帽子の話を思い出し、胸の奥が静かに締めつけられるのを感じた。
「気づいてやれなかった。それだけが、ずっと引っかかったまま消えねえんだ」
低い声で付け加えたファルコは、視線を落としたまま動かなかった。今更悔いても遅いと分かっていながら、それでも吐き出さずにはいられない声だった。
「今度は、間に合わせる」
ファルコの短い一言に、その場にいた誰もが、しばらく言葉を返せなかった。
壁際で話を聞いていたキーウィが、煙草の灰を落としながら、静かに口を開いた。
「……グリッチ」
その名前を、確かめるように繰り返す。レジーナが視線を向けると、キーウィは表情を変えないまま、短く付け加えた。
「聞き覚えのある名だ。それだけだ」
含みのある一言に、レジーナの目が細くなった。
「あんた、知り合いなの」
「今は、関係ない話だ」
にべもない返事に、レジーナはそれ以上追及することなく肩をすくめた。だが、灰を落とす指先がほんの一瞬遅れたことにも、視線がしばらくキーウィの横顔から離れなかったことにも、ニッカは気づいていた。
「あたしからは、以上」
レジーナは端末をしまいながら、改めてニッカへ向き直った。
「無理にとは言わない。あんたには、あんたの生き方がある。それは、最初から尊重してきたつもり」
「……分かってる」
「でも」
一拍置いて、レジーナは声のトーンを落とした。
「あの男が街の記録に残らないよう、あたしなりに手は尽くしてきた。それでも、限界がある。今日、あんたに断られたら、あたしはもう、打てる手がなくなる」
その言葉には、これまで見せたことのない弱さが滲んでいた。ニッカは、投影の消えた壁を見つめたまま、しばらく口を開けなかった。
少し離れた場所で、デイビッドが低く呟いた。
「……母さんの時と、似てる」
誰にともなく漏れたその一言に、周囲の空気がわずかに揺れた。
「あの時も、もう少し遅かったら、間に合わなかった」
デイビッドの声には、過去の記憶を辿るような重さがあった。ルーシーが、その隣でそっと肩に触れる。彼女自身、二人が出会った経緯を思えば、他人事とは思えない話だった。
「私も、似たようなものだった」
小さく付け加えたルーシーの一言に、デイビッドは黙って頷いた。
「だから、余計に他人事とは思えねえんだ」
デイビッドが絞り出すように呟くと、ルーシーは何も言わず、ただ肩に触れた手にわずかに力を込めた。
ニッカは、投影に映ったままの男の顔を、しばらく見つめていた。
関わらない。誓ったはずのその一線は、この街に来てからというもの、何度も形を変えながら擦り減ってきた。買い出しのついでだと言い聞かせ、依頼ではないと言い張り、それでも気づけば、いつも誰かの事情の中心に巻き込まれている。
バートなら、なんて言うだろうか。関わるなと教えながら、誰よりも先に手を伸ばしてしまう。その矛盾を、今の自分は誰よりも色濃く受け継いでいる気がした。
迷っている時間さえ、今はもう惜しかった。
「……時間の猶予、どれくらい」
絞り出すように尋ねると、レジーナは端末の画面に視線を落とした。
「正式な報告書が上がるまで、もって半日。それを過ぎたら、あたしの伝手じゃ止められない」
「半日」
繰り返した声が、自分でも驚くほど硬かった。
「いつもみたいに、保留にはできない、ってことね」
レジーナの声は、初めて聞くほどの真剣さを帯びていた。ニッカは工具ベルトの上で、指先をそっと握りしめた。
答えは、まだ出ていなかった。それでも、断るという選択肢が、頭の中からいつの間にか消えていることに、彼女自身が一番驚いていた。
「私に何ができるか、まだ分からない」
ニッカは低い声で、そう切り出した。
「でも、話だけは、ちゃんと聞く」
「それで十分よ」
レジーナは短く答え、初めて肩の力を抜いたように見えた。
その様子を見ていたメインが、腕を組んだまま口を開いた。
「話を聞くだけで済ませる気はねえよな、お前」
「……分からない」
「分からない、って顔じゃねえけどな」
図星を突かれ、ニッカは何も言い返せなかった。
「どのみち、半日しかないなら、悠長に話し合ってる暇もねえ」
メインはそう言うと、周囲を見回した。
「装備の準備は、俺とファルコで進める。ルーシー、あの男の足取り、追えるか」
「……やってみる。生体データの断片くらいなら、街の監視網に残ってるはず」
端末を握り直したルーシーが、静かに頷いた。指先はすでに、次の作業へ向けて動き始めている。
「あたしも、何か手伝うぜ」
レベッカが銃を軽く叩きながら言うと、ドリオもそれに続いた。
「水回りの次は、これね。休む暇もないったら」
口では文句を言いながらも、その表情には、いつもの頼もしさが覗いていた。
「俺様も、荷物運びくらいはやるぜ」
珍しく神妙な顔で申し出たピラルに、レベッカが小さく笑う。
「お前がいると、なんか一つ壊れそうで怖いけどな」
「今日は真面目にやるっての!」
いつもの軽口に、張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
それを見ていたメインが、短く頷いた。
「上等だ。今夜は、全員の手が要る」
キーウィだけが、しばらく動かずにその場に留まっていた。煙草の煙をゆっくりと吐き出しながら、投影が消えた壁の方角を見つめている。誰の耳にも届かない小さな声で、彼女はもう一度だけ、その名前を繰り返した。
「……グリッチ、か」
その呟きに込められた感情を、この場の誰も読み取ることはできなかった。
拠点の空気は、慌ただしさと緊張の入り混じったものに変わっていた。半日という区切られた時間だけが、静かな拠点の中に、重く垂れ込め始めている。
ニッカは工具箱の蓋を開け、手元にある部品を一つずつ確かめ始めた。廃家電のヒートシンク、余った配線、そしてメインの手術で使った回路の設計図の写し。神経負荷分散バッファーの応用形を、頭の中で組み立て直していく。
携行できる大きさで、しかも即座に効果を発揮する必要がある。研究室のような整った環境ではなく、路地裏の暗がりで、暴れる相手に一瞬で接続しなければならない。条件を並べるほど、実現の難しさが際立っていく。
それでも、部品を手に取るニッカの指先に、迷いはなかった。完成させるには、時間が足りない。それでも、やらないという選択肢は、もうどこにも残されていなかった。
「間に合わせられそうか?」
傍らで工具を並べ始めたデイビッドの問いに、ニッカは基板から視線を上げないまま答えた。
「分からない。でも、やる」
短い答えに、デイビッドは小さく頷いただけだった。それ以上の言葉は、今は必要ないと分かっていた。
設計の要は、装着の速さにあった。
これまでの神経負荷分散バッファーは、作業台に相手を固定し、時間をかけて神経経路へ直接接続する形を取ってきた。だが今回、そんな余裕は望めない。暴れる相手に対して、一瞬で神経系へ干渉し、痙攣にも似た暴走を鎮める必要がある。
かつてメインの神経経路を測った時のデータを、頭の中で呼び起こす。あの時の数値をそのまま流用はできない。人によって、神経の太さも伝導速度も微妙に違う。
ニッカは廃家電のヒートシンクを机に並べながら、頭の中で回路図を組み替えていく。接続端子を細く尖らせ、衣服の上からでも神経の走行に届くよう、深さを計算し直す。威力を上げすぎれば、心臓や呼吸中枢まで巻き込みかねない。逆に弱すぎれば、暴走を抑えきれず、こちらが返り討ちに遭う。
「……綱渡り、か」
誰にともなく漏らした呟きに、隣で工具を仕分けていたデイビッドが顔を上げた。
「危ない橋、渡らせて悪いな」
「あんたのせいじゃない」
短く返しながら、ニッカは端子の先端をヤスリで削り続けた。金属の粉が、作業灯の下で細かく舞っている。
準備が本格的に動き始める中、通信室からルーシーの声が響いた。
「……足取り、途切れ途切れだけど拾えた」
駆け寄ったニッカの前で、ルーシーは端末の地図を示した。ワトソン地区の外れ、廃棄されたモノレール駅の周辺に、点が幾つか浮かんでいる。
「監視カメラの死角を選んで動いてる。移動のパターンからすると、まだ完全に理性を失ってはいない」
「……つまり」
「まだ、間に合う可能性が高い、ってこと」
ルーシーの声には、珍しくかすかな希望が滲んでいた。ニッカはその地図を、目に焼きつけるように見つめた。
装備の一覧を確認していたメインが、地図を覗き込みながら低く唸った。
「モノレール駅の周辺なら、逃げ場も隠れ場所も多い。厄介な地形だ」
「厄介な分、企業の目も届きにくい」
ファルコが付け加えると、メインは短く頷いた。
「悪い話ばかりじゃねえってことか」
「今のところは、な」
二人のやり取りに、レジーナが小さく口を挟んだ。
「あたしの方でも、その周辺の巡回スケジュールは押さえておく。少なくとも、今夜のうちに動くなら、企業の定期パトロールとは鉢合わせしない」
その言葉に、拠点の空気がわずかに前向きなものへ変わっていった。
作業の合間、ニッカは工具箱の陰で、キーウィと二人きりになる瞬間があった。煙草の煙を吐き出しながら、キーウィは静かに口を開いた。
「サイバーサイコに近づくってのがどういうことか、分かってるか」
「……理性が、ほとんど残ってない状態でしょ」
「それだけじゃない。奴らは、自分がまだ人間のつもりでいる。その分だけ、こっちの容赦のなさに、傷つく余地が残ってる」
乾いた声の奥に、経験に裏打ちされた重みがあった。ニッカは手を止め、キーウィの横顔を見つめた。
「……見たこと、あるの」
「昔、な」
それだけ答え、キーウィは灰を落とした。踏み込ませない一線が、いつも通りそこに引かれている。それでも、今日のその一線には、いつもよりわずかに柔らかい響きが混じっている気がした。
「無茶はするな。あんたが壊れたら、元も子もない」
「……気をつける」
短いやり取りの後、キーウィは煙草をくわえ直し、通路の奥へと歩いていった。その背中を見送りながら、ニッカは工具を握る手に、もう一度力を込め直した。
拠点を後にする前、レジーナはもう一度だけニッカのもとへ立ち寄った。
「決行は、日が落ちてからにするわ。夜の方が、まだ人の目も企業の目も少ない」
「分かった」
「装備、間に合いそう?」
問われたニッカは、机に並べた部品へ視線を落とした。まだ半分も形になっていない設計図が、頭の中でくすぶり続けている。
「間に合わせる。間に合わなかったら、意味ないから」
迷いのない答えに、レジーナはわずかに目を細めた。
「あんたのそういうところ、嫌いじゃないわ」
「褒めてる?」
「さあ、どうかしらね」
はぐらかすように笑ってから、レジーナは声のトーンを落とした。
「一つだけ、覚えておいて。あの男を助けたいのは、あたしの都合。あんたが無理をする理由には、ならない」
「……分かってる」
「分かってるようで、分かってない顔してるけどね」
図星を突かれ、ニッカは何も言い返せなかった。レジーナは短く息を吐き、それ以上は追及せずに背を向けた。
「日没に、また連絡する」
それだけ言い残し、レジーナは来た時と同じように、静かに裏口から姿を消していった。彼女の足音が完全に消えるまで、通路の空気はどこか張り詰めたままだった。
残された面々は、それぞれの持ち場へと散っていった。メインとファルコは装備の点検を、ドリオは応急処置の準備を、レベッカとピラルは移動用の車両を整え始める。誰もが口数少なく、それでいて手つきには迷いがなかった。
通信室では、ルーシーが端末に向かい続けていた。粗い断片の位置情報を繋ぎ合わせ、少しでも精度の高い足取りを描き出そうとしている。時折漏れる小さな舌打ちが、彼女なりの焦りを物語っていた。
車両置き場では、レベッカとピラルが古びた輸送車のタイヤを確かめていた。
「こいつ、夜道を飛ばすには心もとないな」
「文句言うな、今ある中じゃ一番マシなんだよ」
ぼやくレベッカに、ピラルが工具を放り投げながら答える。
「マシって言われても、なあ」
「贅沢言う暇があったら、燃料の残量確認しとけ」
いつもの軽口の応酬だったが、その手つきにはいつになく真剣さが見え隠れしていた。誰に言われるでもなく、二人は積み荷の固定を何度も確かめ直している。今夜だけは、いつもの適当さが許されないと、どちらも分かっていた。
通路の奥で、湯気の名残がかすかに揺れている。誰かを救うための時間は、いつだって、思っているより短い。それを、ニッカは今、身をもって知ろうとしていた。
半日。その短い区切りの向こうに、まだ会ったこともない一人の男の運命が、静かにぶら下がっている。ニッカは工具を握り直し、作業台の明かりの下へと、体を沈めていった。
窓のない拠点の中で、時間だけが容赦なく減っていく。誰も、それを口には出さなかった。それでも、作業台に集まる面々の手の動きには、いつもより確かな速さが見て取れた。
完成にはまだ遠い試作品を前に、ニッカは一度だけ手を止め、静かに息を吐いた。関わらないと誓った街で、また一つ、誰かの明日を背負おうとしている。矛盾を承知の上で、それでも今は、目の前の部品に集中する以外、進む道はなかった。
作業灯の明かりだけが、狭い作業台の上を白く照らし続けている。日没まで、あと数時間。その短い猶予の中で、ニッカの手は止まることなく動き続けていた。
どこかで触媒コンバーターの唸りが、いつもと変わらない拍子で響いている。変わらない音だけが、今はやけに心強く感じられた。