サイバーパンク:ジャンク・アルケミー   作:たこ焼き 龍月

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第17.1話 保留ボタンを探したが、最初から付いていなかった

 

 

 拠点に漂う空気は、この数日ですっかり様変わりしていた。

 

 悪臭の名残はどこにもなく、通路の奥からはまだ控えめな湯気の気配が漂っている。崩れかけていた棚は真新しい支柱に支えられ、触媒コンバーターの唸りだけが、静かな廊下に規則正しく響いていた。快適さというものを、ニッカはこの一週間で初めて実感として理解した気がしていた。

 

 あれほど頻繁に姿を見せていた環境調査班の巡回も、ここ数日はめっきり数を減らしていた。排水路を作り直した甲斐があったのか、それとも単に運が良かっただけなのか。判断のつかないまま、静けさだけが拠点に降り積もっていた。

 

 その平穏の隅で、ニッカは薄暗い倉庫にしゃがみ込み、布に包まれたままの旧式センサーを久しぶりに広げていた。棚の補強作業の最中に見つかったきり、他の作業に押し流されて後回しにされていたものだった。

 

 埃を払うと、基板の表面に刻まれた製造番号が浮かび上がる。見覚えのない規格だった。バッドランズの廃品市場でも、ナイトシティの闇市でも、これと同じ型を目にした記憶はない。

 

 配線を一本ずつたどりながら、ニッカは眉を寄せた。ただの防犯センサーにしては、内部の作りが妙に凝っている。信号強度を測る回路の隣に、本来なら不要なはずの暗号化チップが埋め込まれていた。誰かが意図的に、痕跡を残さないよう手を加えた形跡だった。

 

 荒野で染みついた勘が、目の前の基板にどこか覚えのある感触を訴えていた。だがその正体を言葉にできるだけの手がかりは、まだどこにも見当たらない。

 

 しばらく基板を睨んでいたニッカは、結局それを布に包み直し、棚の奥へと戻した。今の自分の手には余る謎だという判断だった。優先すべき作業は、他にいくらでもある。

 

「まだ、それ弄ってんのか」

 

 声をかけてきたのはファルコだった。帽子のつばを軽く持ち上げ、興味深そうに手元を覗き込んでくる。

 

「後回しにしてたやつ。ちょっと、気になって」

 

「気になる、ね。あんたのその気になるは、大抵ろくでもない発見に繋がる」

 

 軽口混じりの指摘に、ニッカは苦笑した。荒野で暮らしていた頃から、この手のからかいには慣れきっている。

 

「別に。ただの古いセンサーでしょ、多分」

 

「多分、ってのが引っかかるがな」

 

 ファルコはそう言い残し、通路の奥へと戻っていった。その背中を見送りながら、ニッカは手の中の布包みへもう一度視線を落とす。暗号化チップの意味を、まだ言葉にできずにいた。

 

  

 

 食堂では、いつも通りの騒がしさが続いていた。

 

「――なあニッカ、今日の飯当番あたしだから、期待していいぜ」

 

 通りかかったレベッカが、得意げに胸を張る。

 

「期待、していいの」

 

「当たり前だろ。この間よりは絶対美味くなる」

 

「この間、焦がしたでしょ」

 

「あれは鍋のせいだ!火加減、あの鍋のクセが強すぎたんだよ!」

 

 声を張り上げるレベッカに、通りかかったデイビッドが呆れた顔で口を挟んだ。

 

「鍋のせいにするなよ。ただの目測ミスだろ」

 

「うるせえ、味方しろよ普通!」

 

 軽い言い争いが食堂に響く。そこへ、着替えを終えたばかりのピラルが、まだ湿った髪のまま顔を出した。

 

「おう、見ろよこの艶!昨日の風呂は最高だったな」

 

「あんた、三回も水浴びしといて、よく寝れたな」

 

 呆れたレベッカの一言に、ピラルは大真面目な顔で答えた。

 

「あれはあれ、これはこれだ。俺様の体は切り替えが早いんだよ」

 

「屁理屈だけは一人前だな」

 

 軽く突っ込んだレベッカに、ピラルはにやりと笑い返しただけだった。

 

 その様子を眺めながら、ニッカは工具箱の脇に腰を下ろし、朝食代わりの携行食を口に運んだ。慌ただしくも穏やかなこの時間が、いつからか彼女にとってもかけがえのないものになりつつあった。

 

  

 

 食堂の入り口では、キーウィが煙草をくわえたまま、外周モニターの映像を眺めていた。

 

「――静かすぎる、と思わないか」

 

 通りかかったドリオに、キーウィがぽつりと呟く。

 

「良いことじゃない、静かなのは」

 

「静かすぎるのは、大抵の場合、次の何かの前触れだ」

 

 乾いた声には、長年ナイトシティを渡り歩いてきた者だけが持つ、独特の勘が滲んでいた。ドリオは肩をすくめただけで、それ以上は何も言わなかった。だが彼女の視線も、しばらくの間、モニターの映像から離れなかった。

 

「前触れ、ね。あんたのそれ、外れたためしがないから困る」

 

 ドリオが小さく漏らすと、キーウィは煙を長く吐き出しただけで、それ以上は答えなかった。

 

 少し離れた場所では、メインが補強したばかりの支柱を点検していた。拳で軽く叩き、継ぎ目のたわみがないことを確かめる。単調な作業のはずが、彼の手つきには、いつになく丁寧さが宿っていた。

 

「今日は、特に何も予定ねえよな」

 

 独り言のような呟きに、答える者はいなかった。それでも、その言葉が数時間後には裏切られることを、この時のメインはまだ知らずにいた。

 

  

 

 その予感が形を取ったのは、昼を過ぎてすぐのことだった。

 

 通信室の隅で作業をしていたルーシーの端末が、聞き慣れた着信音を鳴らした。だがその音は、いつもより一段階、切迫した響きを帯びている。

 

「……レジーナの、専用回線」

 

 呟いたルーシーの手が、一瞬止まった。いつもの雑談めいた着信とは、明らかに質が違う。指先の動きに、微かな緊張が加わっているのが分かった。彼女はすぐに回線を繋ぎ、通話をニッカの端末へと転送した。

 

  

 

 端末を耳に当てた瞬間、ニッカは違和感を覚えた。聞こえてきた声は、確かにレジーナのものだった。だが、いつもの軽い調子がどこにもない。

 

「鈴木、今すぐそっちに行っていい?」

 

「……何かあったの」

 

「電話じゃ、話しきれない」

 

 短く切り上げられた言葉の端に、これまで一度も聞いたことのない硬さが混じっていた。ニッカは端末を握る手に、無意識のうちに力を込めた。

 

「分かった。来て」

 

 それだけ答えると、通話はすぐに切れた。切れた後の静寂が、いつもより長く感じられた。

 

  

 

 連絡を受けてから、レジーナが拠点の裏口に姿を見せるまで、さほど時間はかからなかった。普段の余裕を纏った足取りとは違う、幾分急いた歩調で、彼女は通路を進んでくる。

 

「早いね」

 

 出迎えたニッカに、レジーナは短く答えた。

 

「近くにいたの、たまたま」

 

 その言い訳めいた一言に、いつもの軽妙さは薄かった。集まってきたメインやキーウィ、ドリオたちの視線が、自然とレジーナへ集中する。物々しい空気を察したのか、食堂で言い争っていたレベッカとデイビッド、ピラルまでもが、いつの間にか口を閉ざしていた。

 

「本題に入るわ。時間、あまりないから」

 

 レジーナはそう前置きすると、持参した端末を操作し、通路の壁に簡易的な投影を映し出した。粗い画質の写真には、見知らぬ男の顔が映っている。頬のこけた、疲れの色が濃い顔立ちだった。

 

  

 

「この男、通称『グリッチ』。ワトソン地区で、企業のセキュリティ関係を渡り歩いてたソロよ」

 

 レジーナは端末を指先で叩きながら、淡々と説明を始めた。

 

「あたしがまだ記者だった頃、何度か情報をもらってた。企業の裏帳簿とか、隠された事故の記録とか。表に出せない話ほど、あの男は正確に嗅ぎつけてきた」

 

「……情報源、ってこと」

 

「そう。それも、かなり危険を冒してくれてた側の」

 

 その一言に、レジーナの声がわずかに沈んだ。ニッカは黙って先を促した。

 

「二年前、正体がバレかけて追われた。あたしが匿おうとしたけど、本人が拒んで姿を消した。それきり、消息は掴めなかった」

 

「それが、今になって」

 

「見つかった。……あまり、いい状態じゃない形で」

 

 言葉を選ぶような間の後、レジーナは投影の画像を切り替えた。次に映し出されたのは、監視カメラらしき粗い映像だった。路地の奥、一人の男が壁に向かって何度も拳を叩きつけている。腕の動きには、明らかな異常があった。

 

  

 

「サイバーサイコシスの、初期症状」

 

 映像を見つめたまま、ニッカが低く呟いた。レジーナは頷く。

 

「たぶんね。あの男、逃げてる間も生き延びるために、闇医者から闇医者へ渡り歩いて、際限なくクロームを積み増してた。神経の負荷なんて、誰も気にしちゃいなかった」

 

「治療は」

 

「受けてない。受けられる場所も、知らなかったんでしょうね」

 

 レジーナの声には、隠しきれない苦さが混じっていた。

 

「昨日、通報が入った。近隣住民が、様子のおかしい男を見たって。今のところはまだ、通り魔未満の段階よ。でも」

 

「でも?」

 

「正式に確認が取れ次第、MaxTacが動く。手順通りなら、それは救助じゃなくて、排除」

 

 その一言に、通路の空気が一段と重くなった。食堂の隅で聞いていたレベッカが、思わず声を上げる。

 

「排除って、殺すってことか」

 

「そう。相手が武装した傭兵だろうと、行き倒れの元情報屋だろうと、手続き上は同じ扱い」

 

 あっさりと告げられた事実に、レベッカは眉をひそめたまま黙り込んだ。

 

  

 

「正直に言うと」

 

 レジーナは端末を握る手に、わずかに力を込めた。

 

「あの男が姿を消した後も、ずっと引っかかってた。あたしが匿いきれなかったせいで、あそこまで壊れていったんじゃないかって」

 

「……あんたのせいじゃない」

 

 思わず口をついて出たニッカの一言に、レジーナは小さく首を振った。

 

「分かってる、頭では。でも、あの男が情報をくれなかったら、あたしはとっくにただの記者崩れで終わってた。借りがあるのは、あたしの方」

 

「恩を仇で返すみたいな真似だけは、したくない」

 

 珍しく声を揺らしたレジーナの横顔には、フィクサーとしての打算を超えた、個人的な切実さが滲んでいた。

 

  

 

「あんたに頼みたいのは、二つ」

 

 レジーナは指を二本立てた。

 

「一つは、あの男を、企業やNCPDより先に見つけること。もう一つは……殺さずに、止める手段」

 

「……前に言ってた、借りって」

 

 ニッカの声が、わずかに掠れた。レジーナはまっすぐこちらを見据える。

 

「そう。今回が、それ」

 

 あっさりとした答えに、かえって重みが増した気がした。曖昧なままにしておいた約束が、思っていたよりずっと早く、輪郭を持って迫ってきている。

 

  

 

 沈黙を破ったのは、メインだった。

 

「殺さずに止める、って、簡単に言うが。サイバーサイコ化した奴を捕まえるのがどれだけ危険か、あんたも知ってるだろう」

 

 腕を組んだメインの声には、経験に裏打ちされた重みがあった。自分自身、際どい淵をくぐり抜けてきた身だからこそ、軽々しく請け合えない話だった。

 

「知ってる。だから、あんたたちの力を借りたいの」

 

 レジーナは臆する様子もなく答えた。

 

「あたし一人の伝手じゃ、限界がある。でも、この拠点になら、まだ間に合わせる手段があるかもしれない」

 

 その視線が、自然とニッカへ向く。

 

「あんたが組んだ、神経負荷を分散させる回路。あれの応用が使えないかって、ずっと考えてた」

 

  

 

 しばらく黙っていたファルコが、帽子のつばを指先で押し下げた。

 

「……震えは、右腕か、左腕か」

 

 唐突な問いに、レジーナは一瞬戸惑った表情を見せた。

 

「映像だと、右腕みたいだけど。それが、何か」

 

「いや。……昔、似たようなのを見たことがある。それだけだ」

 

 短く答えたファルコの声には、普段の飄々とした響きがなかった。誰も、それ以上は踏み込まなかった。ドリオだけが、その横顔を静かに見つめていた。

 

  

 

「――昔の相棒も、そうだった」

 

 少し間を置いてから、ファルコは静かに続けた。

 

「利き手が、少しずつ震え始めて、本人はただの疲れだと思い込んでた。俺も、そう思ってた。今なら、あれが何だったか分かる」

 

 その声には、長年沈めてきた後悔の色が、隠しきれずに滲んでいた。ニッカは、以前ファルコから聞いた形見の帽子の話を思い出し、胸の奥が静かに締めつけられるのを感じた。

 

「気づいてやれなかった。それだけが、ずっと引っかかったまま消えねえんだ」

 

 低い声で付け加えたファルコは、視線を落としたまま動かなかった。今更悔いても遅いと分かっていながら、それでも吐き出さずにはいられない声だった。

 

「今度は、間に合わせる」

 

 ファルコの短い一言に、その場にいた誰もが、しばらく言葉を返せなかった。

 

  

 

 壁際で話を聞いていたキーウィが、煙草の灰を落としながら、静かに口を開いた。

 

「……グリッチ」

 

 その名前を、確かめるように繰り返す。レジーナが視線を向けると、キーウィは表情を変えないまま、短く付け加えた。

 

「聞き覚えのある名だ。それだけだ」

 

 含みのある一言に、レジーナの目が細くなった。

 

「あんた、知り合いなの」

 

「今は、関係ない話だ」

 

 にべもない返事に、レジーナはそれ以上追及することなく肩をすくめた。だが、灰を落とす指先がほんの一瞬遅れたことにも、視線がしばらくキーウィの横顔から離れなかったことにも、ニッカは気づいていた。

 

  

 

「あたしからは、以上」

 

 レジーナは端末をしまいながら、改めてニッカへ向き直った。

 

「無理にとは言わない。あんたには、あんたの生き方がある。それは、最初から尊重してきたつもり」

 

「……分かってる」

 

「でも」

 

 一拍置いて、レジーナは声のトーンを落とした。

 

「あの男が街の記録に残らないよう、あたしなりに手は尽くしてきた。それでも、限界がある。今日、あんたに断られたら、あたしはもう、打てる手がなくなる」

 

 その言葉には、これまで見せたことのない弱さが滲んでいた。ニッカは、投影の消えた壁を見つめたまま、しばらく口を開けなかった。

 

  

 

 少し離れた場所で、デイビッドが低く呟いた。

 

「……母さんの時と、似てる」

 

 誰にともなく漏れたその一言に、周囲の空気がわずかに揺れた。

 

「あの時も、もう少し遅かったら、間に合わなかった」

 

 デイビッドの声には、過去の記憶を辿るような重さがあった。ルーシーが、その隣でそっと肩に触れる。彼女自身、二人が出会った経緯を思えば、他人事とは思えない話だった。

 

「私も、似たようなものだった」

 

 小さく付け加えたルーシーの一言に、デイビッドは黙って頷いた。

 

「だから、余計に他人事とは思えねえんだ」

 

 デイビッドが絞り出すように呟くと、ルーシーは何も言わず、ただ肩に触れた手にわずかに力を込めた。

 

  

 

 ニッカは、投影に映ったままの男の顔を、しばらく見つめていた。

 

 関わらない。誓ったはずのその一線は、この街に来てからというもの、何度も形を変えながら擦り減ってきた。買い出しのついでだと言い聞かせ、依頼ではないと言い張り、それでも気づけば、いつも誰かの事情の中心に巻き込まれている。

 

 バートなら、なんて言うだろうか。関わるなと教えながら、誰よりも先に手を伸ばしてしまう。その矛盾を、今の自分は誰よりも色濃く受け継いでいる気がした。

 

 迷っている時間さえ、今はもう惜しかった。

 

「……時間の猶予、どれくらい」

 

 絞り出すように尋ねると、レジーナは端末の画面に視線を落とした。

 

「正式な報告書が上がるまで、もって半日。それを過ぎたら、あたしの伝手じゃ止められない」

 

「半日」

 

 繰り返した声が、自分でも驚くほど硬かった。

 

  

 

「いつもみたいに、保留にはできない、ってことね」

 

 レジーナの声は、初めて聞くほどの真剣さを帯びていた。ニッカは工具ベルトの上で、指先をそっと握りしめた。

 

 答えは、まだ出ていなかった。それでも、断るという選択肢が、頭の中からいつの間にか消えていることに、彼女自身が一番驚いていた。

 

  

 

「私に何ができるか、まだ分からない」

 

 ニッカは低い声で、そう切り出した。

 

「でも、話だけは、ちゃんと聞く」

 

「それで十分よ」

 

 レジーナは短く答え、初めて肩の力を抜いたように見えた。

 

  

 

 その様子を見ていたメインが、腕を組んだまま口を開いた。

 

「話を聞くだけで済ませる気はねえよな、お前」

 

「……分からない」

 

「分からない、って顔じゃねえけどな」

 

 図星を突かれ、ニッカは何も言い返せなかった。

 

  

 

「どのみち、半日しかないなら、悠長に話し合ってる暇もねえ」

 

 メインはそう言うと、周囲を見回した。

 

「装備の準備は、俺とファルコで進める。ルーシー、あの男の足取り、追えるか」

 

「……やってみる。生体データの断片くらいなら、街の監視網に残ってるはず」

 

 端末を握り直したルーシーが、静かに頷いた。指先はすでに、次の作業へ向けて動き始めている。

 

  

 

「あたしも、何か手伝うぜ」

 

 レベッカが銃を軽く叩きながら言うと、ドリオもそれに続いた。

 

「水回りの次は、これね。休む暇もないったら」

 

 口では文句を言いながらも、その表情には、いつもの頼もしさが覗いていた。

 

「俺様も、荷物運びくらいはやるぜ」

 

 珍しく神妙な顔で申し出たピラルに、レベッカが小さく笑う。

 

「お前がいると、なんか一つ壊れそうで怖いけどな」

 

「今日は真面目にやるっての!」

 

 いつもの軽口に、張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。

 

 それを見ていたメインが、短く頷いた。

 

「上等だ。今夜は、全員の手が要る」

 

  

 

 キーウィだけが、しばらく動かずにその場に留まっていた。煙草の煙をゆっくりと吐き出しながら、投影が消えた壁の方角を見つめている。誰の耳にも届かない小さな声で、彼女はもう一度だけ、その名前を繰り返した。

 

「……グリッチ、か」

 

 その呟きに込められた感情を、この場の誰も読み取ることはできなかった。

 

  

 

 拠点の空気は、慌ただしさと緊張の入り混じったものに変わっていた。半日という区切られた時間だけが、静かな拠点の中に、重く垂れ込め始めている。

 

 ニッカは工具箱の蓋を開け、手元にある部品を一つずつ確かめ始めた。廃家電のヒートシンク、余った配線、そしてメインの手術で使った回路の設計図の写し。神経負荷分散バッファーの応用形を、頭の中で組み立て直していく。

 

 携行できる大きさで、しかも即座に効果を発揮する必要がある。研究室のような整った環境ではなく、路地裏の暗がりで、暴れる相手に一瞬で接続しなければならない。条件を並べるほど、実現の難しさが際立っていく。

 

 それでも、部品を手に取るニッカの指先に、迷いはなかった。完成させるには、時間が足りない。それでも、やらないという選択肢は、もうどこにも残されていなかった。

 

  

 

「間に合わせられそうか?」

 

 傍らで工具を並べ始めたデイビッドの問いに、ニッカは基板から視線を上げないまま答えた。

 

「分からない。でも、やる」

 

 短い答えに、デイビッドは小さく頷いただけだった。それ以上の言葉は、今は必要ないと分かっていた。

 

  

 

 設計の要は、装着の速さにあった。

 

 これまでの神経負荷分散バッファーは、作業台に相手を固定し、時間をかけて神経経路へ直接接続する形を取ってきた。だが今回、そんな余裕は望めない。暴れる相手に対して、一瞬で神経系へ干渉し、痙攣にも似た暴走を鎮める必要がある。

 

 かつてメインの神経経路を測った時のデータを、頭の中で呼び起こす。あの時の数値をそのまま流用はできない。人によって、神経の太さも伝導速度も微妙に違う。

 

 ニッカは廃家電のヒートシンクを机に並べながら、頭の中で回路図を組み替えていく。接続端子を細く尖らせ、衣服の上からでも神経の走行に届くよう、深さを計算し直す。威力を上げすぎれば、心臓や呼吸中枢まで巻き込みかねない。逆に弱すぎれば、暴走を抑えきれず、こちらが返り討ちに遭う。

 

「……綱渡り、か」

 

 誰にともなく漏らした呟きに、隣で工具を仕分けていたデイビッドが顔を上げた。

 

「危ない橋、渡らせて悪いな」

 

「あんたのせいじゃない」

 

 短く返しながら、ニッカは端子の先端をヤスリで削り続けた。金属の粉が、作業灯の下で細かく舞っている。

 

  

 

 準備が本格的に動き始める中、通信室からルーシーの声が響いた。

 

「……足取り、途切れ途切れだけど拾えた」

 

 駆け寄ったニッカの前で、ルーシーは端末の地図を示した。ワトソン地区の外れ、廃棄されたモノレール駅の周辺に、点が幾つか浮かんでいる。

 

「監視カメラの死角を選んで動いてる。移動のパターンからすると、まだ完全に理性を失ってはいない」

 

「……つまり」

 

「まだ、間に合う可能性が高い、ってこと」

 

 ルーシーの声には、珍しくかすかな希望が滲んでいた。ニッカはその地図を、目に焼きつけるように見つめた。

 

  

 

 装備の一覧を確認していたメインが、地図を覗き込みながら低く唸った。

 

「モノレール駅の周辺なら、逃げ場も隠れ場所も多い。厄介な地形だ」

 

「厄介な分、企業の目も届きにくい」

 

 ファルコが付け加えると、メインは短く頷いた。

 

「悪い話ばかりじゃねえってことか」

 

「今のところは、な」

 

 二人のやり取りに、レジーナが小さく口を挟んだ。

 

「あたしの方でも、その周辺の巡回スケジュールは押さえておく。少なくとも、今夜のうちに動くなら、企業の定期パトロールとは鉢合わせしない」

 

 その言葉に、拠点の空気がわずかに前向きなものへ変わっていった。

 

  

 

 作業の合間、ニッカは工具箱の陰で、キーウィと二人きりになる瞬間があった。煙草の煙を吐き出しながら、キーウィは静かに口を開いた。

 

「サイバーサイコに近づくってのがどういうことか、分かってるか」

 

「……理性が、ほとんど残ってない状態でしょ」

 

「それだけじゃない。奴らは、自分がまだ人間のつもりでいる。その分だけ、こっちの容赦のなさに、傷つく余地が残ってる」

 

 乾いた声の奥に、経験に裏打ちされた重みがあった。ニッカは手を止め、キーウィの横顔を見つめた。

 

「……見たこと、あるの」

 

「昔、な」

 

 それだけ答え、キーウィは灰を落とした。踏み込ませない一線が、いつも通りそこに引かれている。それでも、今日のその一線には、いつもよりわずかに柔らかい響きが混じっている気がした。

 

「無茶はするな。あんたが壊れたら、元も子もない」

 

「……気をつける」

 

 短いやり取りの後、キーウィは煙草をくわえ直し、通路の奥へと歩いていった。その背中を見送りながら、ニッカは工具を握る手に、もう一度力を込め直した。

 

  

 

 拠点を後にする前、レジーナはもう一度だけニッカのもとへ立ち寄った。

 

「決行は、日が落ちてからにするわ。夜の方が、まだ人の目も企業の目も少ない」

 

「分かった」

 

「装備、間に合いそう?」

 

 問われたニッカは、机に並べた部品へ視線を落とした。まだ半分も形になっていない設計図が、頭の中でくすぶり続けている。

 

「間に合わせる。間に合わなかったら、意味ないから」

 

 迷いのない答えに、レジーナはわずかに目を細めた。

 

「あんたのそういうところ、嫌いじゃないわ」

 

「褒めてる?」

 

「さあ、どうかしらね」

 

 はぐらかすように笑ってから、レジーナは声のトーンを落とした。

 

「一つだけ、覚えておいて。あの男を助けたいのは、あたしの都合。あんたが無理をする理由には、ならない」

 

「……分かってる」

 

「分かってるようで、分かってない顔してるけどね」

 

 図星を突かれ、ニッカは何も言い返せなかった。レジーナは短く息を吐き、それ以上は追及せずに背を向けた。

 

「日没に、また連絡する」

 

 それだけ言い残し、レジーナは来た時と同じように、静かに裏口から姿を消していった。彼女の足音が完全に消えるまで、通路の空気はどこか張り詰めたままだった。

 

  

 

 残された面々は、それぞれの持ち場へと散っていった。メインとファルコは装備の点検を、ドリオは応急処置の準備を、レベッカとピラルは移動用の車両を整え始める。誰もが口数少なく、それでいて手つきには迷いがなかった。

 

 通信室では、ルーシーが端末に向かい続けていた。粗い断片の位置情報を繋ぎ合わせ、少しでも精度の高い足取りを描き出そうとしている。時折漏れる小さな舌打ちが、彼女なりの焦りを物語っていた。

 

  

 

 車両置き場では、レベッカとピラルが古びた輸送車のタイヤを確かめていた。

 

「こいつ、夜道を飛ばすには心もとないな」

 

「文句言うな、今ある中じゃ一番マシなんだよ」

 

 ぼやくレベッカに、ピラルが工具を放り投げながら答える。

 

「マシって言われても、なあ」

 

「贅沢言う暇があったら、燃料の残量確認しとけ」

 

 いつもの軽口の応酬だったが、その手つきにはいつになく真剣さが見え隠れしていた。誰に言われるでもなく、二人は積み荷の固定を何度も確かめ直している。今夜だけは、いつもの適当さが許されないと、どちらも分かっていた。

 

  

 

 通路の奥で、湯気の名残がかすかに揺れている。誰かを救うための時間は、いつだって、思っているより短い。それを、ニッカは今、身をもって知ろうとしていた。

 

 半日。その短い区切りの向こうに、まだ会ったこともない一人の男の運命が、静かにぶら下がっている。ニッカは工具を握り直し、作業台の明かりの下へと、体を沈めていった。

 

 窓のない拠点の中で、時間だけが容赦なく減っていく。誰も、それを口には出さなかった。それでも、作業台に集まる面々の手の動きには、いつもより確かな速さが見て取れた。

 

 完成にはまだ遠い試作品を前に、ニッカは一度だけ手を止め、静かに息を吐いた。関わらないと誓った街で、また一つ、誰かの明日を背負おうとしている。矛盾を承知の上で、それでも今は、目の前の部品に集中する以外、進む道はなかった。

 

 作業灯の明かりだけが、狭い作業台の上を白く照らし続けている。日没まで、あと数時間。その短い猶予の中で、ニッカの手は止まることなく動き続けていた。

 

 どこかで触媒コンバーターの唸りが、いつもと変わらない拍子で響いている。変わらない音だけが、今はやけに心強く感じられた。

 

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時計塔のマリアごっこで Bloodborneを周回して、上位者になった主人公さん。上位者パワーで、なんやかんやヤーナムを飛び出した。そんな外の世界で、主人公さんは自由に生きる。※なお、外の世界は型月世界とする。


総合評価:1560/評価:7.29/連載:26話/更新日時:2026年10月18日(日) 15:13 小説情報

アルカンフェル転生(作者:ぶーく・ぶくぶく)(原作:強殖装甲ガイバー)

※本作は作者が読みたい原作改変を自給自足する趣味作です。感想や考察はありがたく拝見しますが、展開は作者の予定と趣味を優先して進めます。▼気が付くとアルカンフェルに転生していた▼お仕置きビリビリは嫌だが、巨大小惑星の衝突は回避しないと地球丸ごと死ぬとか草。▼原作開始まで何万年?忘れない様に石板に覚えてる原作内容を書き込んでおこう。気が付いたら眠りの神殿に石板が…


総合評価:3911/評価:8.56/連載:150話/更新日時:2026年09月07日(月) 17:00 小説情報

チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~(作者:tinko1129)(オリジナル:現代/冒険・バトル)

東京大学理科三類へ落ちた平尾龍は、自分を人間失格と判定し、首を吊ろうとした。▼その瞬間、あらゆる電脳と機械へ絶対命令を下す【電脳神の右手】を獲得する。▼善性なし。社会性なし。コミュ力なし。▼人が人であるための三要素の無い自分は人ではないし生きる価値等無い▼それでも今度こそ理三へ合格し、人間だと証明する。▼そして受験勉強のストレス解消として、正規品の善人共より…


総合評価:3957/評価:8.46/連載:28話/更新日時:2026年09月14日(月) 20:00 小説情報


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