作業台の上に散らばっていた部品が、少しずつ数を減らしていく。
ニッカは端子の先端へもう一度ヤスリをかけ、光にかざして角度を確かめた。金属を削る乾いた音だけが、静かな作業場に細く続いている。廃家電のヒートシンクを削り出した放熱板は、掌に収まる大きさまで縮められていた。携行できることを最優先にした結果、余分な機構は一つ残らず切り捨てられている。
接続端子の並びを見直し、小さく息をついた。神経経路への刺入角度は、これで理論上の最適値に近づいたはずだった。ただ一点、実際に効くかどうかを確かめる術がないことだけが、指先に引っかかったまま残っている。
メインの時に使った回路図を、頭の中でもう一度なぞり直す。あの時は作業台に相手を固定し、時間をかけて神経経路を探り当てることができた。今回は、その余裕がない。一瞬の接触だけで、正しい経路を捉えなければならなかった。差の大きさを数えるほど、指先の緊張は増していく。
「……ぶっつけ本番、か」
誰にともなく呟くと、隣で配線を束ねていたデイビッドが顔を上げた。
「試し打ち、できないのか」
「相手がいないと、意味ないから」
端子を布で包みながら、ニッカは答えた。疑似負荷を相手にした確認なら、もう何度も済ませてある。熱の逃げ方も電流の通り方も、設計どおりに動いてくれた。それでもこの装置は、生きた神経系に繋いで初めて、本当の効果が測れる代物だった。暴走した人間の体に触れた瞬間の反応までは、廃品をどれだけ相手にしても読み切れない。
「あんたで試すわけにもいかないし」
「俺は別に構わねえけど」
「私が困る」
短く突き放すと、デイビッドは苦笑して肩をすくめた。それきり何も言わず、次の部品を黙って手渡してくる。その手つきには、言葉の代わりになるだけの積み重ねが滲んでいた。
作業灯の下で、筐体の蓋を仮止めする。
掌に収まる金属の塊は、傍目には玩具じみて見えるかもしれない。だがその内側には、メインの神経を救った回路の縮図が、限界まで圧縮して詰め込まれていた。
起動確認のスイッチを入れる。内部のインジケーターが一瞬だけ赤く灯り、すぐに落ち着いた緑へ変わった。異常なし。表示をしばらく見つめてから、ニッカは長く息を吐き出した。
「……できた」
自分でも驚くほど平坦な声だった。安堵が追いつくより先に、これから先の不確かさが胸を占めていく。
「――見せてみろ」
通りかかったメインが、作業台に手をついて覗き込んできた。黙って差し出すと、太い指が慎重な手つきで筐体を摘み上げる。
「軽いな」
「重いと、装着に手間取るから」
「速さを取った、ってことか」
「そう」
メインは筐体を、そっと作業台へ戻した。
「効くのか、これ」
「分からない。理論上は、いける」
正直な答えに、メインが片眉を上げる。
「理論上、ね」
「文句があるなら、自分で組んで」
「そいつは勘弁だ。嬢ちゃんに任せるさ」
ぶっきらぼうな信頼を投げられて、ニッカは何も返せなかった。作業灯の白い光の下で、二人はしばらく黙ったまま、掌ほどの金属塊を見つめ続けた。
窓のない拠点では、時間の経過を照明の切り替わりでしか測れない。壁の時計の針が、夕刻へと近づいていた。
通信室から戻ってきたルーシーが、端末を握ったまま声をかけてくる。
「レジーナから、追加の情報」
差し出された画面には、街灯の少ない裏路地の地図が映っていた。赤く縁取られた区画が、いくつか静かに点滅している。
「企業のパトロールが避けてるルート。ここを通れば、鉢合わせは最小限で済むって」
「……ずいぶん詳しいね」
「元記者だから。街の裏道には強いみたい」
ルーシーは言いながら、地図を拡大した。廃棄されたモノレール駅の輪郭が、画面の中央にぼんやりと浮かび上がる。
「グリッチの足取りは、この駅の構内で途切れてる。中に潜んでるか、それとも」
「それとも?」
「地下の配線トンネル。古い駅なら、保守用の通路が地下に伸びてるはず」
淡々とした分析に頷きながら、ニッカは地図を目に焼き付けた。逃げ場が多いということは、隠れる側にも探す側にも、同じだけ厄介だということだった。
夕刻、食堂に主要な面々が集まった。いつもなら誰かが椅子を蹴り倒している時間帯なのに、今日は食器の触れ合う音すら聞こえない。
「――作戦の確認だ」
メインが低い声で切り出すと、空気が一段引き締まった。
「現場に向かうのは、俺とファルコ、ニッカ。それにキーウィだ」
名を呼ばれたキーウィが、煙草をくわえたまま小さく頷く。普段なら通信を預かる立場の彼女が、自分から現場行きを申し出ていた。誰も驚いた顔は見せなかった。ただ、その理由を口にする者もいなかった。
「残りは拠点で支援に回る。ルーシーは通信と誘導。レベッカとドリオは、拠点の防衛と負傷者の受け入れだ」
「ちぇっ。あたしも行きてえんだけどな」
レベッカが唇を尖らせると、メインは首を振った。
「今回は、銃を振り回す仕事じゃねえ。目立たず近づくのが第一だ」
「わあってるよ、それくらい」
文句を言いながらも、レベッカはそれ以上食い下がらなかった。今夜の仕事の性質を、彼女なりに呑み込んでいるのだろう。
「俺様は、今回もお留守番かよ」
ピラルが大げさに肩を落とすと、ドリオが横から小突いた。
「あんたには、帰りの足の面倒を見てもらう。戻ってきた車がガタガタじゃ、笑い話にもならないでしょ」
「分かってるっての! ちゃんと万全にしとくぜ」
いつもの軽さが戻ったやり取りに、空気がわずかに緩んだ。それも束の間で、視線は再び卓上の地図へ引き戻されていく。
「デイビッドは」
ニッカが尋ねると、デイビッドは硬い表情のまま答えた。
「拠点で待機、だってさ」
「……不満そう」
「不満だよ、そりゃ」
率直な答えに、ニッカは少し驚いた。デイビッドは視線を床へ落としたまま、低く続ける。
「母さんの時、俺は何もできなかった。今度は、って思ってたのに」
誰も、すぐには口を開かなかった。メインが、その肩に手を置く。
「今回は、お前がいると逆に動きにくくなる」
「……分かってる」
「サンデヴィスタンの速さは、路地裏の潜行向きじゃねえ。派手すぎる」
諭すような声に、デイビッドは唇を噛んだまま頷いた。理屈では納得していても、感情までは折り合いがつかないらしい。ニッカはその横顔を見つめ、言葉を選んだ。
「拠点にいてくれた方が、私は安心する」
「……何でだよ」
「何かあった時、真っ先に動けるのはあんたでしょ。ここが空っぽだったら、それこそ困る」
理屈と気遣いの混ざった言い方に、デイビッドは一瞬だけ目を見開いた。それから、諦めたように小さく笑う。
「……分かったよ。留守番、しっかりやる」
ニッカはわずかに頷き返した。
ルーシーが通信機を配って回り、一人ずつ耳へ押し込んでいく。冷たく小さな部品の感触が、出発の実感を連れてきた。誰かが椅子を引く音が、やけに長く食堂に残った。
日没の少し前、レジーナから最後の連絡が入った。
「巡回の間隙、確認できた。今夜は九時から十一時まで」
「二時間、か」
メインが呟くと、レジーナは端末越しに短く応じた。
「それを過ぎたら、企業の定期便があのエリアを通る。捕まりたくなければ、その前に片をつけて」
「分かった」
「あたしはこっちで待機してる。何かあれば、すぐ動けるようにしておくから」
言い終えた声が、ほんの少しだけ途切れた。
「それと、鈴木」
不意に名を呼ばれて、ニッカは端末へ顔を向けた。
「……何」
「無理だと思ったら、引きなさい。あの男の命より、あんたたちの方が先よ」
返事を探している間に、通信は切れていた。壁の時計が刻む秒針の音が、急に大きく聞こえた。
*
車両置き場では、古びた輸送車が一台、低くエンジンを唸らせて待っていた。
出発の前に、ニッカは工具ベルトの留め具を一つずつ確かめた。携行型バッファーは、内ポケットの奥にしっかりと固定されている。指先で触れるだけで、その存在を確かめられる位置だった。
「準備はいいか」
声をかけてきたファルコの帽子が、いつもより深くつばを下げていた。
「うん」
「運転は俺だ。危なくなったら、無理に踏ん張らずに叫べ」
「……了解」
短いやり取りのあと、ファルコは先に運転席へ向かった。その背中を見送りながら、ニッカは胸の底で何かが固まっていくのを感じていた。覚悟と呼ぶには、まだ少し柔らかい。
少し離れた場所で、ドリオが最後の点検を終えたメインへ歩み寄っていた。
「無茶だけは、しないでね」
「分かってる」
「その『分かってる』が、信用できたためしがないのよ」
半ば呆れた口調に、メインは苦笑した。
「今回は本当に分かってる。相手は暴走した元情報屋が一人だ。無茶をする理由がねえ」
「その一人が、一番厄介なんじゃない」
ドリオの指摘に、メインは黙って頷いた。分かっていることと、油断していいことは違う。誰よりも彼自身が、それを知っていた。
最後に乗り込もうとしたキーウィが、煙草を灰皿代わりの缶へ押しつけ、短く息を吐いた。ルーシーが、その背中をじっと見つめている。
「……師匠」
「何だ」
「無理は、しないで」
「無理をするのは、いつもあっちの小娘の方だろう」
視線だけが、ちらりとニッカへ流れた。軽口めいた返しに、ルーシーは小さく笑う。だがその笑みの奥に、拭いきれない不安が滲んでいるのを、ニッカは見逃さなかった。
*
四人を乗せた輸送車が、拠点の奥から滑り出した。
年季の入ったエンジンを宥めるように、ファルコはアクセルをごく浅く踏み続けている。軋みも唸りも、外周のセンサーにほとんど拾われない程度にまで抑え込まれていた。
窓の外を流れる景色が、無機質な地下廃プラントの壁面から、ナイトシティの雑然とした夜景へ変わっていく。ネオンの光が水たまりに滲み、行き交う人影が濃淡を描いて通り過ぎた。自動販売機の白い明かりの下で、誰かが背中を丸めて何かを啜っている。その姿もすぐに、後ろへ流れて消えた。
ニッカは窓に額を寄せ、その光景を見つめた。バートを喪った夏に立てた誓いから、自分はこの街へどれだけ近づいてしまったのだろう。数えるたびに、答えは思っていたより大きくなる。
「――緊張してるのか?」
運転席から、ファルコが短く声をかけてきた。
「……少し」
「珍しいな。素直に認めるとは」
「今回は、相手の状態が読めないから」
膝の上で、拳を握りしめた。これまでの相手は、機械であれ人であれ、原因と結果がおおよそ読める範囲にいた。だが理性を失いかけた人間は、知識をどれだけ積んでも、予測しきれない部分を残す。
「……大丈夫だ」
ファルコが、前を見据えたまま静かに続けた。
「あんたの腕を、俺たちは信じてる。それだけは忘れるな」
バックミラーの中で、ファルコの視線が一瞬だけこちらを捉え、すぐ前へ戻っていった。
ニッカの肩から、わずかに力が抜けた。信頼は、時に緊張を増やす。同時に、支えにもなる。矛盾したその感触を抱えたまま、彼女は座席へ深く身を沈めた。
助手席のメインは、地図を投影した端末を膝に置き、外の景色を見張っていた。
「この先に、企業の巡回車が通る交差点がある。念のため、速度を落とせ」
「了解」
輸送車が減速して、交差点を抜ける。遠くに、企業ロゴを掲げた巡回車のライトが見えた。だがそれは、レジーナの情報どおり、こちらの進路と交わらない方角へ遠ざかっていく。
「……本当に、避けられた」
ニッカが呟くと、メインは短く頷いた。
「あの女の情報網は、伊達じゃねえってことだ」
後部座席の奥で、キーウィは無言のまま窓の外を見つめていた。煙草には、もう火をつけていない。流れていく街並みの向こうに、何かを探しているような眼差しだった。
「……キーウィ」
ニッカが小さく呼びかけると、彼女はゆっくりとこちらへ視線を移した。
「何だ」
「グリッチのこと、聞いても」
「……今は、いい」
短く遮る声には、いつもの素っ気なさとは違う、微かな揺らぎが混じっていた。ニッカはそれ以上踏み込まず、黙って前へ向き直る。踏み込ませない一線があることは、これまでの付き合いで、何度も学んできた。
しばらく、エンジンの低い唸りだけが車内を満たした。タイヤが濡れた路面を噛む音が、一定の間隔で足元から伝わってくる。
「一つだけ」
沈黙の底から、キーウィが静かに口を開いた。
「あの男は、昔、私に何かを託そうとした。受け取らなかった。それだけの話だ」
「……託そうと、したもの」
「今は、関係ない」
繰り返された拒絶に、ニッカは尋ねるのをやめた。ただ、窓ガラスに映ったキーウィの横顔が、これまで見たどの瞬間よりも遠くを見ているように思えた。
誰かに託されかけた何かを、かつて受け取らなかった過去。その悔いの形を、ニッカはまだ正確には知らない。それでも今夜のキーウィが纏う空気の重さだけは、はっきりと伝わってきた。自分から現場行きを申し出た理由の一端は、きっとそこにある。
*
同じ頃、拠点の通信室では、ルーシーが端末の前から一歩も動かずにいた。
画面に映る現場チームの位置情報を、瞬きも惜しむように見つめている。傍らに置いた飲みかけの携行食は、とうに冷めきっている。地図の上では、四つの光点が寄り添うように重なったまま、ゆっくりと廃駅へ近づいていた。
「どうだ、動きはあるか」
通りかかったレベッカが、椅子の背もたれに肘を乗せて覗き込んでくる。
「今のところ順調。企業のパトロールとも、鉢合わせしてない」
「順調、ねえ」
呟きながら、レベッカは腰の銃を無意識に撫でていた。武器を持って現場に立てないもどかしさが、その仕草の端々に滲んでいる。
「あんたも、行きたかったんでしょ」
応急処置の道具を並べていたドリオが、静かに声をかけた。
「そりゃ、まあな」
「今回は、銃で片のつく話じゃない。それが分かってて拠点に残ったんだから、それでいいのよ」
諭されて、レベッカは肩をすくめた。それ以上、言い返しはしなかった。
少し離れた壁際で、デイビッドは腕を組み、目を閉じていた。眠っているわけではない。何もできない自分と、ただ向き合っているだけだった。
「……祈ってどうにかなる話じゃ、ねえんだけどな」
誰にともなく漏れた一言に、答える者はいなかった。拠点に残る誰もが、同じ思いを胸の奥で噛み締めていたからだった。
車両置き場では、ピラルが一人、空いた駐車スペースに作業灯と工具を並べている。いつもの軽口はなりを潜め、帰ってくる車を迎える準備だけが黙々と進んでいた。
*
車は市街地を抜け、人通りの少ない区画へ入っていった。街灯の間隔が広がり、代わりに廃棄されたビルの輪郭が、闇の中に黒々と立ち上がってくる。ワトソン地区の外れ、企業の管理が行き届かなくなった一帯だった。
「――もうすぐだ」
ファルコが速度をさらに落として告げた。前方に、錆びついた高架の残骸が見えてくる。かつてモノレールが走っていた線路は、途中で無残に途切れ、闇の中に骨組みだけを晒していた。
崩れかけたフェンスの裏手に車を寄せ、四人は静かに降り立った。夜気は湿り気を帯びている。遠くの工場地帯から流れてくる異臭が、かすかに鼻をついた。
「ここから先は徒歩だ」
メインの指示に、全員が無言で頷く。ニッカは工具ベルトの位置を確かめ、内ポケットの携行型バッファーの重みを、もう一度指先で確かめた。
崩れかけた駅舎の入り口が、闇の奥にぽっかりと口を開けている。その先に、まだ顔を合わせたこともない一人の男の運命が、静かに待っていた。
「……行こう」
ニッカの一言を合図に、四つの影は音もなく、廃駅の暗がりへ入っていった。
頭上では、途切れた高架の残骸が、風の音だけを乗せて軋み続けている。遠くで野良犬の遠吠えが一度だけ響き、それきり音が絶えた。
*
崩れたコンコースの奥は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
割れたガラスの破片が、足元で微かな音を立てる。ニッカはその一つひとつを避けるように、慎重に歩を進めた。天井の一部が抜け落ち、そこから差し込む月明かりだけが、頼りない道標となって床を照らしている。
「九時を回ったところだ。十一時までに、ここを出る」
メインが低く言い置いた。
「二手に分かれる。俺とファルコは、改札の奥からホームへ回る。ニッカとキーウィは、こっちの通路から地下の保守区画を当たってくれ」
「了解」
短く答えたキーウィが、懐から小型の投光器を取り出した。強い光は使わない。赤みを帯びた最低限の明かりだけを、足元へ落としている。目立たないための工夫だった。
二手に分かれる直前、耳元の通信機からルーシーの声が届いた。
「そっちの映像、こっちでも受け取ってる。何か見えたら、すぐ共有して」
「分かった」
ニッカが応じると、通信は静かになった。拠点との細い糸がまだ繋がっているというだけで、心強さがいくらか増す。
地下へ続く階段は、半分近くが崩落していた。キーウィが先に降り、足場を確かめてから、ニッカへ手を差し伸べる。
「気をつけろ。踏み外したら、下まで真っ逆さまだ」
「うん」
差し出された手を借りて、一段ずつ下りていく。湿った空気が肌にまとわりついた。地上とは違う、饐えた臭いが鼻の奥に絡みつく。どこかで水滴が落ち、その音が長く尾を引いて、闇の奥へ吸い込まれていった。
保守用の通路は、想像していたよりずっと広かった。壁際には錆びた配電盤が並び、天井から垂れた配線の束が、風もないのに時折かすかに揺れている。
ニッカは配電盤の一つに歩み寄り、表面の焦げ跡を指先でなぞった。指に、黒い煤がうっすらと移る。比較的新しい傷だった。
「……ここ、誰かが触った跡がある」
「いつ頃だ」
「数日以内だと思う。煤がまだ、指につくから」
キーウィは無言でしゃがみ込み、床に落ちた小さな金属片を拾い上げた。埃をかぶる前の、まだ新しい欠片だった。
「この形……サイバーウェアの端子カバーだ」
「グリッチの?」
「断定はできない。だが可能性は高い」
二人は顔を見合わせたが、言葉は交わさなかった。そのまま、通路の奥へ進んだ。
しばらく進んだところで、ニッカの足が止まった。壁の一角に、拳ほどの凹みがいくつも並んでいる。塗装が剥がれ、下地のコンクリートまで抉れていた。
「……これ」
「殴った跡だな」
キーウィが淡々と告げた。凹みの並びに規則性はなく、深さも揃っていない。感情の赴くまま、力任せに叩きつけられた痕跡だった。
「握力だけなら、並のサイバーウェアでもここまでは出ない。相当な出力の腕だ」
「しかも、排熱が追いついてない。ほら、凹みの縁が焦げてる」
ニッカが示した縁には、確かに黒い煤が薄く残っていた。
「積むだけ積んで、冷やす余裕がなかったんだと思う」
「逃げるだけで手一杯だった、ってことか」
「たぶん」
凹みの一つへ、そっと指を当てる。冷たいコンクリートの感触の奥に、追い詰められた誰かの焦りが染み込んでいる気がした。
二人は、しばらく何も言わなかった。この凹みの数だけ、あの男は誰にも届かない叫びを壁へぶつけてきたのだろう。そう思うと、軽々しい言葉は喉の奥で形を失った。
耳元の通信機が、短く鳴った。
「……メインだ。聞こえるか」
「聞こえる」
「ホーム側にも争った跡がある。券売機が一台、丸ごと殴り倒されてた」
「怪我人は」
「血痕はない。だが券売機の中身が漁られてる。金目のものより、電源ユニットが抜かれてた」
ニッカは眉を寄せた。
「電源……」
「ああ。積んだクロームの充電が、切れかけてるのかもしれねえ」
メインの声には、これまでにない硬さがあった。理性を失いかけた人間が、それでも生き延びるための行動を続けている。希望であると同時に、予測のつかなさの証でもあった。
「ファルコが周辺の足跡を追ってる。まだ、これといった方向は掴めてねえが」
「そっちは任せる」
「ああ。何かあったら、すぐ呼べ」
通信が切れると、通路には投光器の赤い光だけが残った。ニッカは深く息を吸い、わずかに乱れていた呼吸を整え直した。
通路の先、瓦礫の陰から、小さな物音が聞こえた。
キーウィが即座に手を上げ、投光器の光を落とす。二人はその場に身を沈め、耳を澄ませた。
音の正体は、すぐに知れた。瓦礫の隙間から、痩せこけた老人が顔を覗かせている。ぼろ布を幾重にも巻いた姿は、この一帯に潜むホームレスの一人らしかった。
「……誰か、いるの」
ニッカが静かに声をかけると、老人の体がびくりと震えた。逃げ出しかけた気配に、キーウィがすかさず声を挟む。
「危害は加えない。少し、話を聞きたいだけだ」
その口調には、ニッカが聞いたことのない柔らかさがあった。老人は警戒を解ききらないまま、それでも足を止めた。
「……あんたら、あの男を探してるのか」
しわがれた声に、ニッカは息を呑んだ。
「見たの」
「見た。腕を、壁に叩きつけてた。何度も、何度も」
老人は震える手で、通路の奥を指さした。
「あっちへ行った。……変な、うめき声を上げながら」
「いつ頃」
「分からん。時間なんてここじゃ、とっくに忘れちまった」
キーウィが無言で懐から携行食を一本取り出し、老人の足元へそっと置いた。老人はそれを見下ろし、何も言わずに拾い上げると、逃げるように瓦礫の奥へ消えていった。キーウィは追わなかった。その判断に、ニッカも黙って従った。
「……行こう」
キーウィの一言に、ニッカは頷いた。老人の指した方角へ、二人は歩を進める。通路は緩やかに下り、より深い闇へ沈み込んでいった。
耳元の通信機が、静かに震える。
「音声、拾えてる。老人の証言、信憑性は高いと思う」
ルーシーの声には、張り詰めた響きがあった。
「気をつけて。もう、そんなに遠くないはず」
その言葉を最後に、通信は再び沈黙した。ニッカは携行型バッファーの位置を、無意識のうちに、もう一度確かめていた。
通路の先で、風の流れが変わった。どこかから外気が入り込んでいる。キーウィが足を止め、闇の奥へ視線を凝らした。
「……匂う」
「何が」
「焼け焦げた配線の匂いだ。それと、血の匂いも。微かにな」
乾いた声の底に、隠しきれない緊張が滲んでいた。ニッカは息を潜め、通路のさらに奥へ目を凝らす。
闇の底で、何かがかすかに蠢いた。荒い呼吸のような音が、遠くから途切れ途切れに響いてくる。人のものなのか、それとも別の何かなのか。この距離では判別がつかない。
二人は視線を交わし、無言のまま、その気配のほうへ歩き出した。
頭上の配管の隙間から、冷たい夜風が一筋、通路の奥まで吹き抜けていった。
通路は、崩れた壁の向こうで開けていた。
かつて機材室だったらしい空間に、倒れた棚と散らばった工具箱の残骸が、薄い光の下で影を落としている。空気が、通路より少しだけ温かい。熱を持った金属の匂いが、鼻の奥に絡みついた。足元の瓦礫には、乾ききらない赤黒い染みが点々と続いている。荒い呼吸の音は、その奥からはっきりと聞こえていた。ニッカは足音を殺し、崩れた棚の陰へ身を寄せる。心臓の音が、やけに耳の奥で響いた。
「……見えるか」
キーウィが低く囁く。ニッカは棚の隙間から、そっと奥を覗き込んだ。
薄闇の中に、人影が一つ、蹲るように佇んでいた。背を丸め、右腕を左手で押さえつけるようにして、小刻みに震えている。時折漏れる呻きは、言葉になりきらないまま闇に溶けていった。
写真で見た顔と、目の前の輪郭が重なる。頬のこけた輪郭。着崩れた上着。間違いなく、探していた男だった。
右腕には、不釣り合いなほど大きな義肢が食い込むように移植されている。継ぎ接ぎだらけの配線が、皮膚の上をむき出しのまま這っていた。関節の継ぎ目から、ときおり青白い火花が散り、そのたびに男の肩が小さく跳ねる。誰の手も借りず、自分自身で積み増してきたのだろう。その痛々しさに、ニッカは思わず奥歯を噛み締めた。
息を詰めたまま、内ポケットの携行型バッファーへ、そっと指先を伸ばす。冷たい金属の感触が、掌の中で存在感を増していった。理論上は成功するはずの試作品を、これから初めて、生きた人間の体に試す。
その事実の重みが、今さらのように喉元までせり上がってきた。
「……落ち着け」
隣で囁くキーウィの声が、わずかに揺れている。長年ナイトシティの修羅場を渡ってきたはずの彼女でさえ、この瞬間だけは平静を装いきれずにいた。
「……うん」
短く応じて、呼吸を整える。あと数歩。その距離を詰めた瞬間に、すべてが決まる。
脳裏に、バートの口癖がよぎった。放っておいた機械は、必ず一番悪いタイミングで牙を剥く。幼い頃、煙の上がる火元へ急がず迷わず近づいていった背中が、その言葉と一緒に浮かんでくる。
目の前で震えているのは機械ではない。だが、放っておかれたまま壊れかけているという一点では、何も違わなかった。ならば、目を逸らす理由もない。
人影が、ふいに顔を上げた。
闇に慣れた双眼が、こちらの気配を捉えたように、ゆっくりと向けられていく。その眼差しに宿る光は、正気とは呼べない、濁った赤に近い色をしていた。
喉の奥から、獣じみた低い唸りが漏れる。震えていた右腕が、ゆっくりと持ち上がった。
ニッカとキーウィは、同時に動きを止めた。
棚の陰まで、荒い息遣いが届いてくる。理性の欠片を、まだどこかに残しているのか。それとも、この一瞬こそが、その最後の欠片の擦り切れる瞬間なのか。判断する材料は、どこにもなかった。
指先は、ポケットの縁にかかったまま動かない。一歩を踏み出すかどうかの判断が、この先のすべてを決めてしまう。それだけは、痛いほどはっきりと分かっていた。