サイバーパンク:ジャンク・アルケミー   作:たこ焼き 龍月

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第17.2話 テスト環境がないので、本番環境で直接やります 

 

 

作業台の上に散らばっていた部品が、少しずつ数を減らしていく。

 

 ニッカは端子の先端へもう一度ヤスリをかけ、光にかざして角度を確かめた。金属を削る乾いた音だけが、静かな作業場に細く続いている。廃家電のヒートシンクを削り出した放熱板は、掌に収まる大きさまで縮められていた。携行できることを最優先にした結果、余分な機構は一つ残らず切り捨てられている。

 

 接続端子の並びを見直し、小さく息をついた。神経経路への刺入角度は、これで理論上の最適値に近づいたはずだった。ただ一点、実際に効くかどうかを確かめる術がないことだけが、指先に引っかかったまま残っている。

 

 メインの時に使った回路図を、頭の中でもう一度なぞり直す。あの時は作業台に相手を固定し、時間をかけて神経経路を探り当てることができた。今回は、その余裕がない。一瞬の接触だけで、正しい経路を捉えなければならなかった。差の大きさを数えるほど、指先の緊張は増していく。

 

「……ぶっつけ本番、か」

 

 誰にともなく呟くと、隣で配線を束ねていたデイビッドが顔を上げた。

 

「試し打ち、できないのか」

 

「相手がいないと、意味ないから」

 

 端子を布で包みながら、ニッカは答えた。疑似負荷を相手にした確認なら、もう何度も済ませてある。熱の逃げ方も電流の通り方も、設計どおりに動いてくれた。それでもこの装置は、生きた神経系に繋いで初めて、本当の効果が測れる代物だった。暴走した人間の体に触れた瞬間の反応までは、廃品をどれだけ相手にしても読み切れない。

 

「あんたで試すわけにもいかないし」

 

「俺は別に構わねえけど」

 

「私が困る」

 

 短く突き放すと、デイビッドは苦笑して肩をすくめた。それきり何も言わず、次の部品を黙って手渡してくる。その手つきには、言葉の代わりになるだけの積み重ねが滲んでいた。

 

  

 

 作業灯の下で、筐体の蓋を仮止めする。

 

 掌に収まる金属の塊は、傍目には玩具じみて見えるかもしれない。だがその内側には、メインの神経を救った回路の縮図が、限界まで圧縮して詰め込まれていた。

 

 起動確認のスイッチを入れる。内部のインジケーターが一瞬だけ赤く灯り、すぐに落ち着いた緑へ変わった。異常なし。表示をしばらく見つめてから、ニッカは長く息を吐き出した。

 

「……できた」

 

 自分でも驚くほど平坦な声だった。安堵が追いつくより先に、これから先の不確かさが胸を占めていく。

 

  

 

「――見せてみろ」

 

 通りかかったメインが、作業台に手をついて覗き込んできた。黙って差し出すと、太い指が慎重な手つきで筐体を摘み上げる。

 

「軽いな」

 

「重いと、装着に手間取るから」

 

「速さを取った、ってことか」

 

「そう」

 

 メインは筐体を、そっと作業台へ戻した。

 

「効くのか、これ」

 

「分からない。理論上は、いける」

 

 正直な答えに、メインが片眉を上げる。

 

「理論上、ね」

 

「文句があるなら、自分で組んで」

 

「そいつは勘弁だ。嬢ちゃんに任せるさ」

 

 ぶっきらぼうな信頼を投げられて、ニッカは何も返せなかった。作業灯の白い光の下で、二人はしばらく黙ったまま、掌ほどの金属塊を見つめ続けた。

 

  

 

 窓のない拠点では、時間の経過を照明の切り替わりでしか測れない。壁の時計の針が、夕刻へと近づいていた。

 

 通信室から戻ってきたルーシーが、端末を握ったまま声をかけてくる。

 

「レジーナから、追加の情報」

 

 差し出された画面には、街灯の少ない裏路地の地図が映っていた。赤く縁取られた区画が、いくつか静かに点滅している。

 

「企業のパトロールが避けてるルート。ここを通れば、鉢合わせは最小限で済むって」

 

「……ずいぶん詳しいね」

 

「元記者だから。街の裏道には強いみたい」

 

 ルーシーは言いながら、地図を拡大した。廃棄されたモノレール駅の輪郭が、画面の中央にぼんやりと浮かび上がる。

 

「グリッチの足取りは、この駅の構内で途切れてる。中に潜んでるか、それとも」

 

「それとも?」

 

「地下の配線トンネル。古い駅なら、保守用の通路が地下に伸びてるはず」

 

 淡々とした分析に頷きながら、ニッカは地図を目に焼き付けた。逃げ場が多いということは、隠れる側にも探す側にも、同じだけ厄介だということだった。

 

  

 

 夕刻、食堂に主要な面々が集まった。いつもなら誰かが椅子を蹴り倒している時間帯なのに、今日は食器の触れ合う音すら聞こえない。

 

「――作戦の確認だ」

 

 メインが低い声で切り出すと、空気が一段引き締まった。

 

「現場に向かうのは、俺とファルコ、ニッカ。それにキーウィだ」

 

 名を呼ばれたキーウィが、煙草をくわえたまま小さく頷く。普段なら通信を預かる立場の彼女が、自分から現場行きを申し出ていた。誰も驚いた顔は見せなかった。ただ、その理由を口にする者もいなかった。

 

「残りは拠点で支援に回る。ルーシーは通信と誘導。レベッカとドリオは、拠点の防衛と負傷者の受け入れだ」

 

「ちぇっ。あたしも行きてえんだけどな」

 

 レベッカが唇を尖らせると、メインは首を振った。

 

「今回は、銃を振り回す仕事じゃねえ。目立たず近づくのが第一だ」

 

「わあってるよ、それくらい」

 

 文句を言いながらも、レベッカはそれ以上食い下がらなかった。今夜の仕事の性質を、彼女なりに呑み込んでいるのだろう。

 

  

 

「俺様は、今回もお留守番かよ」

 

 ピラルが大げさに肩を落とすと、ドリオが横から小突いた。

 

「あんたには、帰りの足の面倒を見てもらう。戻ってきた車がガタガタじゃ、笑い話にもならないでしょ」

 

「分かってるっての! ちゃんと万全にしとくぜ」

 

 いつもの軽さが戻ったやり取りに、空気がわずかに緩んだ。それも束の間で、視線は再び卓上の地図へ引き戻されていく。

 

  

 

「デイビッドは」

 

 ニッカが尋ねると、デイビッドは硬い表情のまま答えた。

 

「拠点で待機、だってさ」

 

「……不満そう」

 

「不満だよ、そりゃ」

 

 率直な答えに、ニッカは少し驚いた。デイビッドは視線を床へ落としたまま、低く続ける。

 

「母さんの時、俺は何もできなかった。今度は、って思ってたのに」

 

 誰も、すぐには口を開かなかった。メインが、その肩に手を置く。

 

「今回は、お前がいると逆に動きにくくなる」

 

「……分かってる」

 

「サンデヴィスタンの速さは、路地裏の潜行向きじゃねえ。派手すぎる」

 

 諭すような声に、デイビッドは唇を噛んだまま頷いた。理屈では納得していても、感情までは折り合いがつかないらしい。ニッカはその横顔を見つめ、言葉を選んだ。

 

「拠点にいてくれた方が、私は安心する」

 

「……何でだよ」

 

「何かあった時、真っ先に動けるのはあんたでしょ。ここが空っぽだったら、それこそ困る」

 

 理屈と気遣いの混ざった言い方に、デイビッドは一瞬だけ目を見開いた。それから、諦めたように小さく笑う。

 

「……分かったよ。留守番、しっかりやる」

 

 ニッカはわずかに頷き返した。

 

 ルーシーが通信機を配って回り、一人ずつ耳へ押し込んでいく。冷たく小さな部品の感触が、出発の実感を連れてきた。誰かが椅子を引く音が、やけに長く食堂に残った。

 

  

 

 日没の少し前、レジーナから最後の連絡が入った。

 

「巡回の間隙、確認できた。今夜は九時から十一時まで」

 

「二時間、か」

 

 メインが呟くと、レジーナは端末越しに短く応じた。

 

「それを過ぎたら、企業の定期便があのエリアを通る。捕まりたくなければ、その前に片をつけて」

 

「分かった」

 

「あたしはこっちで待機してる。何かあれば、すぐ動けるようにしておくから」

 

 言い終えた声が、ほんの少しだけ途切れた。

 

「それと、鈴木」

 

 不意に名を呼ばれて、ニッカは端末へ顔を向けた。

 

「……何」

 

「無理だと思ったら、引きなさい。あの男の命より、あんたたちの方が先よ」

 

 返事を探している間に、通信は切れていた。壁の時計が刻む秒針の音が、急に大きく聞こえた。

 

*

 

 車両置き場では、古びた輸送車が一台、低くエンジンを唸らせて待っていた。

 

 出発の前に、ニッカは工具ベルトの留め具を一つずつ確かめた。携行型バッファーは、内ポケットの奥にしっかりと固定されている。指先で触れるだけで、その存在を確かめられる位置だった。

 

「準備はいいか」

 

 声をかけてきたファルコの帽子が、いつもより深くつばを下げていた。

 

「うん」

 

「運転は俺だ。危なくなったら、無理に踏ん張らずに叫べ」

 

「……了解」

 

 短いやり取りのあと、ファルコは先に運転席へ向かった。その背中を見送りながら、ニッカは胸の底で何かが固まっていくのを感じていた。覚悟と呼ぶには、まだ少し柔らかい。

 

  

 

 少し離れた場所で、ドリオが最後の点検を終えたメインへ歩み寄っていた。

 

「無茶だけは、しないでね」

 

「分かってる」

 

「その『分かってる』が、信用できたためしがないのよ」

 

 半ば呆れた口調に、メインは苦笑した。

 

「今回は本当に分かってる。相手は暴走した元情報屋が一人だ。無茶をする理由がねえ」

 

「その一人が、一番厄介なんじゃない」

 

 ドリオの指摘に、メインは黙って頷いた。分かっていることと、油断していいことは違う。誰よりも彼自身が、それを知っていた。

 

  

 

 最後に乗り込もうとしたキーウィが、煙草を灰皿代わりの缶へ押しつけ、短く息を吐いた。ルーシーが、その背中をじっと見つめている。

 

「……師匠」

 

「何だ」

 

「無理は、しないで」

 

「無理をするのは、いつもあっちの小娘の方だろう」

 

 視線だけが、ちらりとニッカへ流れた。軽口めいた返しに、ルーシーは小さく笑う。だがその笑みの奥に、拭いきれない不安が滲んでいるのを、ニッカは見逃さなかった。

 

*

 

 四人を乗せた輸送車が、拠点の奥から滑り出した。

 

 年季の入ったエンジンを宥めるように、ファルコはアクセルをごく浅く踏み続けている。軋みも唸りも、外周のセンサーにほとんど拾われない程度にまで抑え込まれていた。

 

 窓の外を流れる景色が、無機質な地下廃プラントの壁面から、ナイトシティの雑然とした夜景へ変わっていく。ネオンの光が水たまりに滲み、行き交う人影が濃淡を描いて通り過ぎた。自動販売機の白い明かりの下で、誰かが背中を丸めて何かを啜っている。その姿もすぐに、後ろへ流れて消えた。

 

 ニッカは窓に額を寄せ、その光景を見つめた。バートを喪った夏に立てた誓いから、自分はこの街へどれだけ近づいてしまったのだろう。数えるたびに、答えは思っていたより大きくなる。

 

  

 

「――緊張してるのか?」

 

 運転席から、ファルコが短く声をかけてきた。

 

「……少し」

 

「珍しいな。素直に認めるとは」

 

「今回は、相手の状態が読めないから」

 

 膝の上で、拳を握りしめた。これまでの相手は、機械であれ人であれ、原因と結果がおおよそ読める範囲にいた。だが理性を失いかけた人間は、知識をどれだけ積んでも、予測しきれない部分を残す。

 

「……大丈夫だ」

 

 ファルコが、前を見据えたまま静かに続けた。

 

「あんたの腕を、俺たちは信じてる。それだけは忘れるな」

 

 バックミラーの中で、ファルコの視線が一瞬だけこちらを捉え、すぐ前へ戻っていった。

 

 ニッカの肩から、わずかに力が抜けた。信頼は、時に緊張を増やす。同時に、支えにもなる。矛盾したその感触を抱えたまま、彼女は座席へ深く身を沈めた。

 

  

 

 助手席のメインは、地図を投影した端末を膝に置き、外の景色を見張っていた。

 

「この先に、企業の巡回車が通る交差点がある。念のため、速度を落とせ」

 

「了解」

 

 輸送車が減速して、交差点を抜ける。遠くに、企業ロゴを掲げた巡回車のライトが見えた。だがそれは、レジーナの情報どおり、こちらの進路と交わらない方角へ遠ざかっていく。

 

「……本当に、避けられた」

 

 ニッカが呟くと、メインは短く頷いた。

 

「あの女の情報網は、伊達じゃねえってことだ」

 

  

 

 後部座席の奥で、キーウィは無言のまま窓の外を見つめていた。煙草には、もう火をつけていない。流れていく街並みの向こうに、何かを探しているような眼差しだった。

 

「……キーウィ」

 

 ニッカが小さく呼びかけると、彼女はゆっくりとこちらへ視線を移した。

 

「何だ」

 

「グリッチのこと、聞いても」

 

「……今は、いい」

 

 短く遮る声には、いつもの素っ気なさとは違う、微かな揺らぎが混じっていた。ニッカはそれ以上踏み込まず、黙って前へ向き直る。踏み込ませない一線があることは、これまでの付き合いで、何度も学んできた。

 

 しばらく、エンジンの低い唸りだけが車内を満たした。タイヤが濡れた路面を噛む音が、一定の間隔で足元から伝わってくる。

 

「一つだけ」

 

 沈黙の底から、キーウィが静かに口を開いた。

 

「あの男は、昔、私に何かを託そうとした。受け取らなかった。それだけの話だ」

 

「……託そうと、したもの」

 

「今は、関係ない」

 

 繰り返された拒絶に、ニッカは尋ねるのをやめた。ただ、窓ガラスに映ったキーウィの横顔が、これまで見たどの瞬間よりも遠くを見ているように思えた。

 

 誰かに託されかけた何かを、かつて受け取らなかった過去。その悔いの形を、ニッカはまだ正確には知らない。それでも今夜のキーウィが纏う空気の重さだけは、はっきりと伝わってきた。自分から現場行きを申し出た理由の一端は、きっとそこにある。

 

*

 

 同じ頃、拠点の通信室では、ルーシーが端末の前から一歩も動かずにいた。

 

 画面に映る現場チームの位置情報を、瞬きも惜しむように見つめている。傍らに置いた飲みかけの携行食は、とうに冷めきっている。地図の上では、四つの光点が寄り添うように重なったまま、ゆっくりと廃駅へ近づいていた。

 

「どうだ、動きはあるか」

 

 通りかかったレベッカが、椅子の背もたれに肘を乗せて覗き込んでくる。

 

「今のところ順調。企業のパトロールとも、鉢合わせしてない」

 

「順調、ねえ」

 

 呟きながら、レベッカは腰の銃を無意識に撫でていた。武器を持って現場に立てないもどかしさが、その仕草の端々に滲んでいる。

 

  

 

「あんたも、行きたかったんでしょ」

 

 応急処置の道具を並べていたドリオが、静かに声をかけた。

 

「そりゃ、まあな」

 

「今回は、銃で片のつく話じゃない。それが分かってて拠点に残ったんだから、それでいいのよ」

 

 諭されて、レベッカは肩をすくめた。それ以上、言い返しはしなかった。

 

  

 

 少し離れた壁際で、デイビッドは腕を組み、目を閉じていた。眠っているわけではない。何もできない自分と、ただ向き合っているだけだった。

 

「……祈ってどうにかなる話じゃ、ねえんだけどな」

 

 誰にともなく漏れた一言に、答える者はいなかった。拠点に残る誰もが、同じ思いを胸の奥で噛み締めていたからだった。

 

 車両置き場では、ピラルが一人、空いた駐車スペースに作業灯と工具を並べている。いつもの軽口はなりを潜め、帰ってくる車を迎える準備だけが黙々と進んでいた。

 

*

 

 車は市街地を抜け、人通りの少ない区画へ入っていった。街灯の間隔が広がり、代わりに廃棄されたビルの輪郭が、闇の中に黒々と立ち上がってくる。ワトソン地区の外れ、企業の管理が行き届かなくなった一帯だった。

 

「――もうすぐだ」

 

 ファルコが速度をさらに落として告げた。前方に、錆びついた高架の残骸が見えてくる。かつてモノレールが走っていた線路は、途中で無残に途切れ、闇の中に骨組みだけを晒していた。

 

  

 

 崩れかけたフェンスの裏手に車を寄せ、四人は静かに降り立った。夜気は湿り気を帯びている。遠くの工場地帯から流れてくる異臭が、かすかに鼻をついた。

 

「ここから先は徒歩だ」

 

 メインの指示に、全員が無言で頷く。ニッカは工具ベルトの位置を確かめ、内ポケットの携行型バッファーの重みを、もう一度指先で確かめた。

 

 崩れかけた駅舎の入り口が、闇の奥にぽっかりと口を開けている。その先に、まだ顔を合わせたこともない一人の男の運命が、静かに待っていた。

 

「……行こう」

 

 ニッカの一言を合図に、四つの影は音もなく、廃駅の暗がりへ入っていった。

 

 頭上では、途切れた高架の残骸が、風の音だけを乗せて軋み続けている。遠くで野良犬の遠吠えが一度だけ響き、それきり音が絶えた。

 

*

 

 崩れたコンコースの奥は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 

 割れたガラスの破片が、足元で微かな音を立てる。ニッカはその一つひとつを避けるように、慎重に歩を進めた。天井の一部が抜け落ち、そこから差し込む月明かりだけが、頼りない道標となって床を照らしている。

 

「九時を回ったところだ。十一時までに、ここを出る」

 

 メインが低く言い置いた。

 

「二手に分かれる。俺とファルコは、改札の奥からホームへ回る。ニッカとキーウィは、こっちの通路から地下の保守区画を当たってくれ」

 

「了解」

 

 短く答えたキーウィが、懐から小型の投光器を取り出した。強い光は使わない。赤みを帯びた最低限の明かりだけを、足元へ落としている。目立たないための工夫だった。

 

  

 

 二手に分かれる直前、耳元の通信機からルーシーの声が届いた。

 

「そっちの映像、こっちでも受け取ってる。何か見えたら、すぐ共有して」

 

「分かった」

 

 ニッカが応じると、通信は静かになった。拠点との細い糸がまだ繋がっているというだけで、心強さがいくらか増す。

 

  

 

 地下へ続く階段は、半分近くが崩落していた。キーウィが先に降り、足場を確かめてから、ニッカへ手を差し伸べる。

 

「気をつけろ。踏み外したら、下まで真っ逆さまだ」

 

「うん」

 

 差し出された手を借りて、一段ずつ下りていく。湿った空気が肌にまとわりついた。地上とは違う、饐えた臭いが鼻の奥に絡みつく。どこかで水滴が落ち、その音が長く尾を引いて、闇の奥へ吸い込まれていった。

 

  

 

 保守用の通路は、想像していたよりずっと広かった。壁際には錆びた配電盤が並び、天井から垂れた配線の束が、風もないのに時折かすかに揺れている。

 

 ニッカは配電盤の一つに歩み寄り、表面の焦げ跡を指先でなぞった。指に、黒い煤がうっすらと移る。比較的新しい傷だった。

 

「……ここ、誰かが触った跡がある」

 

「いつ頃だ」

 

「数日以内だと思う。煤がまだ、指につくから」

 

 キーウィは無言でしゃがみ込み、床に落ちた小さな金属片を拾い上げた。埃をかぶる前の、まだ新しい欠片だった。

 

「この形……サイバーウェアの端子カバーだ」

 

「グリッチの?」

 

「断定はできない。だが可能性は高い」

 

 二人は顔を見合わせたが、言葉は交わさなかった。そのまま、通路の奥へ進んだ。

 

  

 

 しばらく進んだところで、ニッカの足が止まった。壁の一角に、拳ほどの凹みがいくつも並んでいる。塗装が剥がれ、下地のコンクリートまで抉れていた。

 

「……これ」

 

「殴った跡だな」

 

 キーウィが淡々と告げた。凹みの並びに規則性はなく、深さも揃っていない。感情の赴くまま、力任せに叩きつけられた痕跡だった。

 

「握力だけなら、並のサイバーウェアでもここまでは出ない。相当な出力の腕だ」

 

「しかも、排熱が追いついてない。ほら、凹みの縁が焦げてる」

 

 ニッカが示した縁には、確かに黒い煤が薄く残っていた。

 

「積むだけ積んで、冷やす余裕がなかったんだと思う」

 

「逃げるだけで手一杯だった、ってことか」

 

「たぶん」

 

 凹みの一つへ、そっと指を当てる。冷たいコンクリートの感触の奥に、追い詰められた誰かの焦りが染み込んでいる気がした。

 

 二人は、しばらく何も言わなかった。この凹みの数だけ、あの男は誰にも届かない叫びを壁へぶつけてきたのだろう。そう思うと、軽々しい言葉は喉の奥で形を失った。

 

  

 

 耳元の通信機が、短く鳴った。

 

「……メインだ。聞こえるか」

 

「聞こえる」

 

「ホーム側にも争った跡がある。券売機が一台、丸ごと殴り倒されてた」

 

「怪我人は」

 

「血痕はない。だが券売機の中身が漁られてる。金目のものより、電源ユニットが抜かれてた」

 

 ニッカは眉を寄せた。

 

「電源……」

 

「ああ。積んだクロームの充電が、切れかけてるのかもしれねえ」

 

 メインの声には、これまでにない硬さがあった。理性を失いかけた人間が、それでも生き延びるための行動を続けている。希望であると同時に、予測のつかなさの証でもあった。

 

「ファルコが周辺の足跡を追ってる。まだ、これといった方向は掴めてねえが」

 

「そっちは任せる」

 

「ああ。何かあったら、すぐ呼べ」

 

 通信が切れると、通路には投光器の赤い光だけが残った。ニッカは深く息を吸い、わずかに乱れていた呼吸を整え直した。

 

  

 

 通路の先、瓦礫の陰から、小さな物音が聞こえた。

 

 キーウィが即座に手を上げ、投光器の光を落とす。二人はその場に身を沈め、耳を澄ませた。

 

 音の正体は、すぐに知れた。瓦礫の隙間から、痩せこけた老人が顔を覗かせている。ぼろ布を幾重にも巻いた姿は、この一帯に潜むホームレスの一人らしかった。

 

「……誰か、いるの」

 

 ニッカが静かに声をかけると、老人の体がびくりと震えた。逃げ出しかけた気配に、キーウィがすかさず声を挟む。

 

「危害は加えない。少し、話を聞きたいだけだ」

 

 その口調には、ニッカが聞いたことのない柔らかさがあった。老人は警戒を解ききらないまま、それでも足を止めた。

 

  

 

「……あんたら、あの男を探してるのか」

 

 しわがれた声に、ニッカは息を呑んだ。

 

「見たの」

 

「見た。腕を、壁に叩きつけてた。何度も、何度も」

 

 老人は震える手で、通路の奥を指さした。

 

「あっちへ行った。……変な、うめき声を上げながら」

 

「いつ頃」

 

「分からん。時間なんてここじゃ、とっくに忘れちまった」

 

 キーウィが無言で懐から携行食を一本取り出し、老人の足元へそっと置いた。老人はそれを見下ろし、何も言わずに拾い上げると、逃げるように瓦礫の奥へ消えていった。キーウィは追わなかった。その判断に、ニッカも黙って従った。

 

  

 

「……行こう」

 

 キーウィの一言に、ニッカは頷いた。老人の指した方角へ、二人は歩を進める。通路は緩やかに下り、より深い闇へ沈み込んでいった。

 

 耳元の通信機が、静かに震える。

 

「音声、拾えてる。老人の証言、信憑性は高いと思う」

 

 ルーシーの声には、張り詰めた響きがあった。

 

「気をつけて。もう、そんなに遠くないはず」

 

 その言葉を最後に、通信は再び沈黙した。ニッカは携行型バッファーの位置を、無意識のうちに、もう一度確かめていた。

 

  

 

 通路の先で、風の流れが変わった。どこかから外気が入り込んでいる。キーウィが足を止め、闇の奥へ視線を凝らした。

 

「……匂う」

 

「何が」

 

「焼け焦げた配線の匂いだ。それと、血の匂いも。微かにな」

 

 乾いた声の底に、隠しきれない緊張が滲んでいた。ニッカは息を潜め、通路のさらに奥へ目を凝らす。

 

 闇の底で、何かがかすかに蠢いた。荒い呼吸のような音が、遠くから途切れ途切れに響いてくる。人のものなのか、それとも別の何かなのか。この距離では判別がつかない。

 

 二人は視線を交わし、無言のまま、その気配のほうへ歩き出した。

 

 頭上の配管の隙間から、冷たい夜風が一筋、通路の奥まで吹き抜けていった。

 

  

 

 通路は、崩れた壁の向こうで開けていた。

 

 かつて機材室だったらしい空間に、倒れた棚と散らばった工具箱の残骸が、薄い光の下で影を落としている。空気が、通路より少しだけ温かい。熱を持った金属の匂いが、鼻の奥に絡みついた。足元の瓦礫には、乾ききらない赤黒い染みが点々と続いている。荒い呼吸の音は、その奥からはっきりと聞こえていた。ニッカは足音を殺し、崩れた棚の陰へ身を寄せる。心臓の音が、やけに耳の奥で響いた。

 

「……見えるか」

 

 キーウィが低く囁く。ニッカは棚の隙間から、そっと奥を覗き込んだ。

 

  

 

 薄闇の中に、人影が一つ、蹲るように佇んでいた。背を丸め、右腕を左手で押さえつけるようにして、小刻みに震えている。時折漏れる呻きは、言葉になりきらないまま闇に溶けていった。

 

 写真で見た顔と、目の前の輪郭が重なる。頬のこけた輪郭。着崩れた上着。間違いなく、探していた男だった。

 

 右腕には、不釣り合いなほど大きな義肢が食い込むように移植されている。継ぎ接ぎだらけの配線が、皮膚の上をむき出しのまま這っていた。関節の継ぎ目から、ときおり青白い火花が散り、そのたびに男の肩が小さく跳ねる。誰の手も借りず、自分自身で積み増してきたのだろう。その痛々しさに、ニッカは思わず奥歯を噛み締めた。

 

  

 

 息を詰めたまま、内ポケットの携行型バッファーへ、そっと指先を伸ばす。冷たい金属の感触が、掌の中で存在感を増していった。理論上は成功するはずの試作品を、これから初めて、生きた人間の体に試す。

 

 その事実の重みが、今さらのように喉元までせり上がってきた。

 

「……落ち着け」

 

 隣で囁くキーウィの声が、わずかに揺れている。長年ナイトシティの修羅場を渡ってきたはずの彼女でさえ、この瞬間だけは平静を装いきれずにいた。

 

「……うん」

 

 短く応じて、呼吸を整える。あと数歩。その距離を詰めた瞬間に、すべてが決まる。

 

 脳裏に、バートの口癖がよぎった。放っておいた機械は、必ず一番悪いタイミングで牙を剥く。幼い頃、煙の上がる火元へ急がず迷わず近づいていった背中が、その言葉と一緒に浮かんでくる。

 

 目の前で震えているのは機械ではない。だが、放っておかれたまま壊れかけているという一点では、何も違わなかった。ならば、目を逸らす理由もない。

 

  

 

 人影が、ふいに顔を上げた。

 

 闇に慣れた双眼が、こちらの気配を捉えたように、ゆっくりと向けられていく。その眼差しに宿る光は、正気とは呼べない、濁った赤に近い色をしていた。

 

 喉の奥から、獣じみた低い唸りが漏れる。震えていた右腕が、ゆっくりと持ち上がった。

 

 ニッカとキーウィは、同時に動きを止めた。

 

 棚の陰まで、荒い息遣いが届いてくる。理性の欠片を、まだどこかに残しているのか。それとも、この一瞬こそが、その最後の欠片の擦り切れる瞬間なのか。判断する材料は、どこにもなかった。

 

 指先は、ポケットの縁にかかったまま動かない。一歩を踏み出すかどうかの判断が、この先のすべてを決めてしまう。それだけは、痛いほどはっきりと分かっていた。

 

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CyberPunk: EDGE CASE(作者:エネーロ)(原作:Cyberpunk2077)

目が覚めたらそこは最悪の街だったーーー▼ふと気づくと2020年代のナイト・シティ。▼体は時代錯誤(2077)のクロームまみれ。能力はMOD基準。▼企業にバレたら実験動物よろしく解剖コース。▼生き残る道を探しながら、ジョニー達と関わっていくことになる奮闘劇。▼本作品は設定作成、本文一部にAIを利用しています。▼


総合評価:3589/評価:8.81/連載:28話/更新日時:2026年07月30日(木) 00:00 小説情報

Good Luck , Raccoon City 【第二部始動】(作者:持麻呂)(原作:バイオハザード)

とにかく自意識の消失という死を受け入れたくなかったVは、蜂の巣にされて死ぬかもしれないという矛盾を抱えながら、単身アラサカタワーに乗り込んだ。▼なんとか《神輿》に辿り着いたものの、ジャックインした瞬間に意識を失ってしまう。▼気付いた時には知らない街のゴミ捨て場にひっくり返っており、職質を受ける始末。▼一先ず死ぬ危機から逃れられたので、今はスローライフを楽しも…


総合評価:3450/評価:8.95/連載:32話/更新日時:2026年07月05日(日) 12:00 小説情報

時計塔にいる、時計塔のマリアさん(偽)(作者:アスタロット)(原作:Fate/stay night)

時計塔のマリアごっこで Bloodborneを周回して、上位者になった主人公さん。上位者パワーで、なんやかんやヤーナムを飛び出した。そんな外の世界で、主人公さんは自由に生きる。※なお、外の世界は型月世界とする。


総合評価:1562/評価:7.29/連載:26話/更新日時:2026年10月18日(日) 15:13 小説情報

アルカンフェル転生(作者:ぶーく・ぶくぶく)(原作:強殖装甲ガイバー)

※本作は作者が読みたい原作改変を自給自足する趣味作です。感想や考察はありがたく拝見しますが、展開は作者の予定と趣味を優先して進めます。▼気が付くとアルカンフェルに転生していた▼お仕置きビリビリは嫌だが、巨大小惑星の衝突は回避しないと地球丸ごと死ぬとか草。▼原作開始まで何万年?忘れない様に石板に覚えてる原作内容を書き込んでおこう。気が付いたら眠りの神殿に石板が…


総合評価:3912/評価:8.56/連載:150話/更新日時:2026年09月07日(月) 17:00 小説情報

チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~(作者:tinko1129)(オリジナル:現代/冒険・バトル)

東京大学理科三類へ落ちた平尾龍は、自分を人間失格と判定し、首を吊ろうとした。▼その瞬間、あらゆる電脳と機械へ絶対命令を下す【電脳神の右手】を獲得する。▼善性なし。社会性なし。コミュ力なし。▼人が人であるための三要素の無い自分は人ではないし生きる価値等無い▼それでも今度こそ理三へ合格し、人間だと証明する。▼そして受験勉強のストレス解消として、正規品の善人共より…


総合評価:3963/評価:8.46/連載:28話/更新日時:2026年09月14日(月) 20:00 小説情報


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