棚の陰から覗く男の双眼が、赤黒く濁ったまま、ゆっくりとこちらを捉えていた。
持ち上がった右腕の継ぎ目から、焼け焦げた配線の匂いが濃く漂ってくる。ニッカは息を止めた。内ポケットの携行型バッファーへ、指先をそっと滑らせる。冷たい金属が掌に馴染むまでの数秒が、やけに長かった。
男の喉から漏れる呼吸は、獣のそれに近かった。荒く、短く、そのくせどこか痛みを堪えるような間が挟まる。写真で見た頬のこけた輪郭と、目の前の輪郭が重なった。継ぎ接ぎだらけの配線が皮膚の上を這い、義肢の関節が軋むたびに、火花にも似た微かな光が闇へ散る。
濁った赤の奥で、何かがゆっくりと瞬いていた。理性の名残と獣じみた衝動とが、綱引きをするように揺れている。どちらが勝つのか、判断する材料はどこにもなかった。
機材室の空気は、通路よりも熱を帯びていた。男の義肢が放つ熱が、澱んだ空気の中で陽炎のように揺れている。足元の赤黒い染みは、すぐそこまで続いていた。
男の肩が、わずかに沈んだ。獣が跳ぶ前に見せる、低い溜めだった。
隣で、キーウィの呼吸が浅くなる。
「……動くぞ」
息だけの合図だった。囁きにすらなりきらない。
次の瞬間、男の体が跳ねた。
棚が蹴り飛ばされ、瓦礫が散る。義肢の腕がまっすぐに振り下ろされた。金属の唸りが空気を裂く。ニッカは肩から転がるようにして避けた。拳がかすめた床が、鈍い音を立てて陥没する。
「離れてろ!」
叫びと同時に、キーウィが投光器を男の顔へ向けて全開にした。赤みを帯びた薄明かりが、一瞬で白に変わる。
闇に慣れた目には、強すぎる光だった。男が呻き、顔を庇うように腕を振る。その腕が投光器ごとキーウィの体を薙ぎ、壁際まで弾き飛ばした。
男は光の残像を振り払うように棚の山へ倒れ込み、瓦礫の中でもがいた。起き上がるまでの数秒だけが、こちらに与えられた猶予だった。
床を転がる投光器が、白い光を天井へ振り回している。そのたびに、機材室の影が右へ左へ揺れた。
耳元の通信機が、短く震えた。
「聞こえるか。状況は」
メインの声だった。ニッカは瓦礫の陰に身を寄せ、押し殺した声で答える。
「接触した。暴れてる。かなり」
「今、そっちへ向かってる。持たせろ」
通信はそれきり途切れた。通路の奥から、足音が急速に近づいてくる。
棚の山の中から、男が身を起こした。
視線が、ニッカとキーウィを交互に捉える。理性の光は、ほとんど残っていない。それでも時折、瞳の奥に何かを堪えるような揺らぎが差した。人であった頃の名残が、まだ完全には消えていない。そう思わせるだけの揺らぎだった。
壁際で体を起こしたキーウィが、低く呼んだ。
「……グリッチ」
男の動きが、止まった。
義肢の指が、半端な形で宙に開いたまま固まっている。荒い呼吸の合間に、ほんの一瞬だけ別の音が混じった気がした。名を呼ばれた人間が、思わず息を呑む時の音によく似ていた。
効いたのか。それとも偶然か。確かめる余裕は、どちらの側にもなかった。
止まった今しかない。ニッカは瓦礫の陰から飛び出した。
だが動きは読まれていた。振り向きざまの一撃が、空を切る寸前で肩をかすめる。それだけで体が浮いた。硬い床に叩きつけられ、息が詰まる。視界の端で埃が舞った。耳鳴りの向こうで、金属のぶつかり合う音だけが続いている。
「ニッカ!」
駆け込んできたメインの声が響いた。ファルコが続き、二人がかりで男の体に組み付く。
「暴れるな。落ち着け……!」
メインの太い腕が、男の胴を後ろから締め上げた。だが積み増された義肢の出力は、人間の腕力を軽々と凌駕している。締める腕ごと引き剥がされ、メインの体が壁へ叩きつけられた。
「メイン!」
ファルコが割って入り、拾った鉄パイプで牽制する。長くは持たない。誰の目にもそれは明らかだった。
肩を押さえて身を起こしたニッカは、痛みより先に時間を数えていた。
巡回の間隙は、十一時まで。報告書が上がるまでの半日という猶予も、確実に目減りしている。この騒ぎが長引けば、物音は廃駅の外へも漏れていく。外の危険は、刻一刻と増していくはずだった。
掌の中の携行型バッファーが、汗で滑りかけていた。
理論上は成功する。だが理論と現実の間には、いつも埋めがたい溝がある。メインの震えを止めたあの夜も、保証などどこにもなかった。それでも指先は、迷わなかった。
「……行く」
誰にともなく呟き、ニッカは瓦礫を蹴って立ち上がった。
視線の先で、ファルコの鉄パイプが弾き飛ばされた。無防備になった体へ、義肢が迫る。
「ファルコ!」
キーウィが横から突き飛ばした。直撃だけは免れる。だが均衡を崩した二人は、揃って瓦礫の山へ転がり込んだ。
ファルコの帽子が脱げ、埃をかぶった床を転がった。
拾い上げようと伸ばした手が、途中で止まる。
男の右腕が、細かく震えていた。
「……あいつも、利き手からだった」
低い呟きに、返る声はなかった。呟きには、これまでのどの局面よりも切迫した響きがあった。震える手を隠して走り続けた相棒の背中が、目の前の光景に重なって離れない。あの時、自分には何も見えていなかった。今度は違う。見逃さない。
「間に合わせる」
帽子を懐へねじ込み、ファルコは立ち上がった。
男の視線が、まっすぐキーウィへ向いていた。
濁った赤の奥で、敵意と正気の欠片とが混ざり合って揺れている。喉の奥から唸りが漏れた。義肢の腕が、ゆっくりと持ち上がっていく。
振り下ろされれば、避けきれない。
「キーウィ、動くな!」
叫んだのはメインだった。だがキーウィは、動かなかった。動けなかったのかもしれない。マスクの奥の双眼が、男の顔を見据えたまま微動だにしない。
「……あんたか」
振り絞るような声が、キーウィの口から零れた。誰に向けた言葉なのか、その場の誰にも分からなかった。
腕が、振り下ろされる。
その刹那、割り込んだのはニッカだった。
肩の痛みを堪えて突っ込み、キーウィの体を横から突き飛ばす。二人がもつれて瓦礫の陰へ転がり込んだ直後に、義肢の拳が空を切り、床を割った。
粉塵が舞う。
「……無茶するな」
押し倒された姿勢のまま、キーウィが掠れた声で言った。
「あんたこそ」
短く返して、ニッカは身を起こした。男までの距離を目測する。数メートル。それだけの隔たりが、途方もなく遠く思えた。
男の視線が、再びニッカを捉えた。唸りが、一段と獣じみていく。理性の欠片が擦り切れる寸前にあるのだと、見ているだけで分かった。
脳裏に、バートの声がよぎった。放っておいた機械は、必ず一番悪いタイミングで牙を剥く。関わるなと教えながら、誰よりも先に手を伸ばしてしまう男だった。その矛盾を、今の自分は誰よりも色濃く受け継いでいる。
牙を剥いたからといって、手を引く理由にはならない。放っておかれたから、牙を剥いたのだ。
逃げれば、この機会は二度と巡ってこない。
ニッカは奥歯を噛み締め、地を蹴った。
振り下ろされる腕を、紙一重で潜る。すれ違いざま、右手が男の首筋へ伸びた。携行型バッファーの端子が、皮膚に触れる。
時間が引き延ばされたように感じられた。
インジケーターが赤く灯る。神経経路を探り当てる、わずかな遅延。組み上げた回路のすべてが、この一点に懸かっていた。
男の腕が、ニッカの体を捉えようと空を掴む。避けきれない。
そう覚悟した瞬間、横から伸びた手が腕を強引に逸らした。
「今だ!」
メインの叫びだった。逸れた拳が壁を砕き、粉塵が視界を白く染める。その隙に、ニッカは端子を押し込んだ。
「……繋がれ」
絞り出すような呟きと共に、端子の先端が神経経路を捉えた。
男の体が、大きく痙攣した。
悲鳴とも咆哮ともつかない声が、喉の奥から迸った。
義肢の腕が、滅茶苦茶に振り回される。ニッカは身を反らした。だが躱しきれず、腕の先が頬をかすめる。熱い痛みが走った。意識を逸らす余裕はない。端子を握る手だけは、離さなかった。
インジケーターの赤が、じりじりと薄れていく。やがてその奥から、静かな緑が滲み出した。
男の膝が、ゆっくりと崩れ落ちた。
振り回されていた腕から力が抜ける。荒かった呼吸が、少しずつ間隔を取り戻していった。喉の奥の唸りも低くなり、やがて聞き取れない呟きへ溶けていく。
誰も、すぐには動かなかった。
粉塵が、投光器の白い光の中をゆっくりと沈んでいく。天井の裂け目から、夜風が一筋だけ吹き込んでいた。
「……止まった」
瓦礫の陰から身を起こしたキーウィが、掠れた声で言った。
崩れ落ちた男の体を、ニッカは膝をついたまま支えた。端子を繋いだ首筋から、震えが少しずつ引いていくのが伝わってくる。
「成功、したのか」
駆け寄ったメインが、慎重な声で尋ねた。
「分からない。でも、暴れるのは……止まった」
答えるニッカの声も、まだわずかに震えていた。緑に灯ったインジケーターだけが、静かな確信としてそこにあった。
「……それで十分だ」
メインはそう言って、壁にぶつけた肩を回した。顔をしかめながらも、その目は崩れ落ちた男から離れない。
端子を握り込んでいた指が、ようやく強張りを解いていく。関節のひとつひとつが、軋むように痛んだ。
男の呼吸は、まだ荒い。だが振り上げられていた腕は力なく床に落ち、濁っていた瞳からも獣じみた光が薄れていく。代わりに浮かんだのは、深い疲労と、消耗しきった人間の顔だった。
「……誰、だ」
掠れた声が、初めて言葉の形を成した。焦点の合わない目が、ニッカを捉えようとして定まらずに揺れる。
「今は喋らなくていい」
ニッカは声を落として答えた。説明をする余裕は、まだ誰にもなかった。
男はまぶたを落とし、意識を手放した。荒かった呼吸が、次第に規則的な寝息へ変わっていく。
それを見届けたファルコが、瓦礫の中から立ち上がって深く息を吐いた。懐にねじ込んだ帽子を取り出し、埃を払って被り直す。
「……間に合った、のか」
誰に向けたともつかない呟きだった。声には、隠しようのない安堵が滲んでいる。
昔の相棒も、こうして誰かに気づいてもらえていれば。当時の自分には、震える手の意味を読み取る知識も、頼れる相手もなかった。気づいた時には、荒野の砂に埋めるしかなかった。
かつて間に合わせられなかった記憶を、今度は塗り替えられたのかもしれない。そう思った途端、帽子のつばの下で、目の縁がわずかに潤んだ。
通信機の向こうで、ルーシーの声が割り込んだ。
「そっちの生体反応、確認できた。……脈拍、落ち着いてきてる」
「本当か」
メインが問い返す。
「本当。少なくとも、暴走の波形は収まってる」
ルーシーの声から、張り詰めたものがわずかに抜けた。拠点の誰もが、固唾を呑んで見守っていたのだろう。画面越しの安堵が、そのまま伝わってくるようだった。
通信の奥から、押し殺した声が続く。
「……よかった」
デイビッドだった。短い一言に込められた重みは、誰の耳にもはっきりと届いた。母を喪いかけたあの夜が、今この瞬間、少しだけ形を変えて報われたのかもしれない。
膝をついたまま、ニッカは男の顔を改めて見つめた。頬のこけた輪郭に、乾いた血の痕がいくつも張り付いている。継ぎ接ぎだらけの義肢は、痛々しいほどに不釣り合いだった。それでも荒い呼吸の下に見える寝顔は、獣ではなく、確かに人間のものだった。
「……よく、頑張ったな」
メインが低く呟いた。隣で膝をついたファルコが、小さく頷く。
少し離れた場所で、キーウィが立ち尽くしていた。崩れ落ちた男の顔を、無言のまま見つめている。煙草を取り出す仕草もない。ただじっと、その寝顔に何かを探すような眼差しだった。
「……キーウィ?」
ニッカが声をかけると、キーウィはようやく我に返ったように視線を上げた。
「……何でもない」
短い答えには、いつもの乾いた響きが戻っていた。だが一瞬だけ見えた表情の揺らぎを、ニッカは見逃さなかった。
車内で漏らされた一言が、脳裏をよぎる。昔、何かを託されかけて、受け取らなかったという話だった。今ここで眠っている男が、その相手なのかもしれない。確かめる術はまだない。ただ、キーウィの横顔に差した翳りだけが、はっきりとそう語っていた。
「時間がない」
キーウィはそう言って、素早く周囲を見回した。表情を、いつもの冷めた仮面へ戻す仕草だった。
「拠点まで運ぶ。長居すれば、企業の巡回に引っかかる」
「担架の代わりになるもの……」
ニッカが言いかけると、ファルコが崩れた棚板を拾い上げた。
「これで足りる。運ぶぞ」
メインが通信機に手を当て、拠点へ告げる。
「グリッチの身柄、確保した。暴走は止まってる。今から運び出す」
「……了解。待ってる」
返ってきたルーシーの声は、先ほどより落ち着いていた。通信越しに、レベッカの短い歓声と、ドリオの深い息遣いも伝わってくる。
「レジーナには」
ルーシーが尋ねる。
「私から伝える」
ニッカが答えると、通信の向こうで頷く気配がした。
「一つ、報告がある」
ルーシーの声が、そこで一段と硬くなった。
「三十分前、この一帯を巡回する企業のパトロールルートが、急遽変更された。今の位置から、そう遠くない」
「……偶然?」
ニッカが問い返す。
「分からない。ただ、悠長に構えていい状況じゃない」
その一言で、粉塵の収まりきらない機材室の空気が、また張り詰めた。
棚板に乗せた男の体は、思いのほか軽かった。積み増された義肢の重さを差し引いても、長い逃亡と消耗が、体そのものを確実に削り取っていたのだろう。
メインとファルコが、棚板の両端を担ぐ。ニッカは脇に張りついて、端子を繋いだまま歩調を合わせた。先頭を行くのはキーウィだ。拾い上げた投光器を最低出力まで絞り、赤い明かりだけを足元へ落としている。
「……このまま、外して大丈夫なのか」
棚板の前を担ぐメインが、低く尋ねた。
「まだ駄目。拠点に着くまで繋いでおく」
「持つのか、それ」
「持たせる」
短く言い切る声に、迷いはなかった。放熱板の温度を指先で確かめながら、ニッカは歩調を乱さないよう気をつけた。
先頭のキーウィは、一度も振り返らなかった。ただ足音の間隔が一定に保たれていることだけが、背後を気にかけている何よりの証だった。
崩れたコンコースへ出る手前で、キーウィが不意に足を止めた。
「止まれ」
押し殺した声に、全員が息を潜める。壁の裂け目から漏れる月明かりの向こう、遠い路上を、企業のロゴを掲げた車両のライトが横切っていく。速度は緩やかで、こちらへ向かう気配はない。それでも、距離は近かった。
棚板の脇で、ニッカの手に力がこもった。眠ったままの男の呼吸は、まだ規則正しい。だがこの距離でライトに舐められれば、すべてが台無しになる。冷たいものが、胸の奥で渦を巻いた。
フェンスの隙間から差し込んだ光が、一瞬だけ床を撫でた。巡回車の窓の内側で、人影が身じろぎしたように見えた。
メインが手で合図を送る。全員が凍りついたように動きを止めた。息を殺した数秒が、実際の長さよりずっと長い。
ライトが遠ざかっていく。キーウィが短く息を吐いた。
「……行くぞ。今のうちだ」
*
崩れかけたフェンスの裏手に、車は停めてあった。棚板ごと男を後部座席へ横たえる。ニッカとキーウィがその脇へ体を押し込み、メインが助手席へ、ファルコが運転席へ飛び乗った。
「出すぞ」
短い合図と共に、車両がそろりと動き出した。エンジン音を最小限に絞り、路地の奥へ滑り込んでいく。
後部座席で男の様子を見守りながら、ニッカは端子を握る手の力を少しだけ緩めた。緑のインジケーターが、暗い車内で静かに光り続けている。
バックミラーの中で、ファルコの目が一度だけ後部座席を捉えた。何も言わず、すぐに前へ戻る。帽子のつばが、先ほどより深く下がっていた。
ニッカは、眠る男の顔を見下ろした。街灯の光が、窓ガラス越しに頬の上を流れていく。ついさっきまで獣の目をしていたとは思えない、ただ疲れ切った人間の顔だった。肩の鈍い痛みが、車の揺れに合わせて脈打っている。それでも端子を握る指は、離す気になれなかった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、窓の外へ視線を向けたまま、キーウィがぽつりと言った。
「……名前を呼んだら、止まったな」
独り言のような響きだった。
「グリッチ、って呼ばれてた男。前は、別の名があったはずだ」
「……知ってるの」
ニッカが尋ねても、キーウィはしばらく答えなかった。
「今夜は、聞くな」
短く遮る声には、拒絶よりも、整理のつかない何かを堪えるような響きが混じっていた。ニッカは踏み込まず、黙って前へ向き直った。
キーウィの指が胸ポケットへ伸びかけて、途中で止まった。煙草には触れないまま、その手は膝の上へ戻っていく。
車は市街地の外れを抜け、拠点へ続く道へ入っていった。廃棄物処理場の異臭が、微かに車内へ流れ込む。見慣れた匂いのはずなのに、今夜はどこか違って感じられた。
「……着くぞ」
敷地が見えてきた頃、ファルコが速度を落として呟いた。後部座席の緊張が、ようやくわずかに緩んだ。
*
地下の車両置き場へ車を滑り込ませると、待ち構えていたドリオとレベッカが真っ先に駆け寄ってきた。
「無事か!」
「……ああ。なんとか」
メインが答える。レベッカが後部座席を覗き込み、横たわる男の姿に息を呑んだ。
「……こいつが」
「そう。グリッチ」
ニッカが答えると、レベッカはそれ以上何も言わず、棚板を運ぶ手伝いに回った。いつもの威勢の良さは鳴りを潜めている。その横顔には、初めて目にする傷ついた人間への戸惑いが浮かんでいた。
銃を持って現場に立てないもどかしさを、レベッカはずっと拠点で噛み殺してきた。だが眠る男の姿を見て、その感情がどこか的外れだったと気づかされた。この手の脅威は、弾をどれだけ撃ち込んでも解決しない。体の内側から静かに壊れていくものに、自分の得意な暴力は何の役にも立たなかった。
「……あたしじゃ、どうにもできなかった話だな、これは」
零れた呟きに、答える者はいなかった。それでも、その一言にはこれまでにない実感がこもっていた。
車の脇では、帰りの足を整えて待っていたピラルが、開いた後部ドアを覗き込んだまま固まっていた。
「……マジで、連れて帰ってきやがったのか」
「ああ」
ファルコがぽつりと答える。
「無茶しやがって、てめえら」
軽口のはずの言葉が、いつもより低く沈んでいた。ピラルは軽口を継がず、黙って棚板を降ろす手を貸した。
奥から駆けつけたデイビッドが、棚板の傍らで足を止めた。眠る男の顔を見つめる目に、複雑な色が滲んでいる。
「……母さんの時と、また違う形だけど」
零れた一言に、いつの間にか隣へ来ていたルーシーが、そっと肩を寄せた。間に合った命が、また一つ増えた。その事実だけを、二人はしばらく無言のまま噛み締めていた。
やがてルーシーが顔を上げ、ニッカを見た。
「……おかえり」
「……ただいま」
返してから、その言葉を口にするのは随分久しぶりだったと気づいた。ニッカは慌てて視線を逸らし、棚板の端へ手をかけた。
簡易的に整えられた治療スペースへ、男の体を横たえる。
「外すよ」
ニッカは端子を、ゆっくりと引き抜いた。インジケーターは緑のまま、男の呼吸にも乱れはない。
念のため、義肢の関節へ掌をかざしてみる。まだ、焼けた金属の熱が残っていた。壁の凹みの縁を焦がしたのと、同じ種類の熱だった。積むだけ積んで、冷やす余裕もないまま走り続けてきた体だった。
「ドリオ。この腕、冷やしておいて。排熱が追いついてないから」
「分かった。濡れ布と保冷材、ありったけ持ってくる」
ほどなく戻ってきたドリオが、義肢の肘から先へ濡れ布を巻きつけた。布の端が、じりじりと音を立てて乾いていく。それを何度か巻き直してから、彼女は手早く容態を確かめ始めた。
「脈拍、安定してる。外傷も、思ったより軽い」
「……良かった」
安堵の息を漏らすニッカの肩に、ドリオがそっと手を置いた。
「あんたも、頬。血が出てる」
「これくらい、平気」
「平気で済ませていい怪我かどうかは、こっちが決める」
有無を言わせぬ口調だった。ニッカは渋々頷いた。緊張が解けた途端、頬の熱が、急に痛みへ変わり始めている。
「先にレジーナへ報告でしょ。それが済んだら、こっちに戻ってきなさい」
「……うん」
通信室では、ルーシーが安堵の表情を浮かべながら、すぐに次の懸念を口にした。
「企業のパトロール、まだ一帯を巡回してる。今夜のうちに、痕跡は全部消しておいた方がいい」
「分かってる」
メインが頷くと、ルーシーは続けた。
「それと、レジーナから連絡が来てる。……状況を、知りたがってる」
「私が話す」
ニッカが言うと、メインが低く口を挟んだ。
「無理はするなよ。今日の分は、もう十分すぎるくらい働いた」
「これくらい、平気」
「その台詞、お前の口癖だな」
呆れ交じりの一言に、ニッカは何も言い返せなかった。頬の痛みが、今さらのように疼いた。それでも、伝えるべきことを後回しにする気にはなれない。
端末を受け取る手の甲に、他人の血が乾きかけて張り付いていた。ニッカはそれを拭わないまま、深く息を吸い込んだ。肩の鈍い痛みは、まだ引いていない。
「……グリッチ、確保した」
端末の向こうで、レジーナはしばらく黙っていた。
「……本当?」
「本当。暴走は止まってる。今は、眠ってる」
短い報告に、レジーナの声が初めて大きく揺れた。
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
いつもの淡々とした口調が崩れ、声には安堵と、それ以上の何かが滲んでいた。ニッカは何も言えず、その震えが収まるのを待った。
「まだ、油断はできない。企業のパトロールが、この一帯を嗅ぎ回ってる」
「分かってる。あたしの方でも、手を回す。……本当に、助かった」
一拍置いて、レジーナの声はいつもの調子へ戻っていった。
「これで終わりじゃない。正式な報告書が出る前に、あの男の記録を綺麗にしておく必要がある。時間との勝負は、まだ続くわ」
「うん」
「そっちに、怪我人は」
「私が、少し。大したことない」
「……そう」
短い間があった。レジーナはそれ以上追及せず、先を続けた。
「なら、明日の朝、あたしもそっちへ向かう。治療の手筈は、直接話したい」
「……分かった」
「それと、鈴木」
不意に呼ばれて、ニッカは端末を握り直した。
「……何」
「ちゃんと休みなさい。……あの男の命より、あんたたちの方が先だって、言ったでしょ」
返事を探しているうちに、通話は切れていた。端末を握ったまま、ニッカはしばらく動けずにいた。
治療スペースへ戻ると、キーウィが隅で眠る男の横顔を見つめていた。煙草には火もつけていない。指に挟んだまま、ただ見ている。
声をかけるべきか迷った末に、ニッカは何も言わないことを選んだ。踏み込ませない一線があることは、これまでの付き合いで何度も学んできた。
通りかかったドリオが、静かに声をかけた。
「あんたも、休んだ方がいい」
「もう少し、ここにいる」
キーウィは、視線を動かさないまま答える。
「無理は、しないでね」
「無理をしてるように見えるなら、そっちの小娘を診てやれ」
軽口めいた返しに、ドリオは小さく笑った。だがその軽さの奥に、これ以上は踏み込ませないという線がはっきり引かれていることにも、彼女は気づいていた。何も言わず、その場を離れる。
一人残されたキーウィは、火のついていない煙草を口元へ運び、深く吸い込む真似だけをした。かつて受け取らなかったものの形を、彼女はまだ誰にも語っていない。眠る男の呼吸だけが、静かな答え合わせのように、地下の空間へ規則正しく響いていた。
ドリオが、消毒液を含ませた布を持ってニッカのもとへ来た。後回しにしていた頬の傷に、それを軽く当てる。
「染みるけど、我慢して」
「……うん」
小さく顔をしかめるニッカに、ドリオは手を止めないまま言った。
「あんたが無茶するの、今日で何度目だと思ってるの」
「数えてない」
「数えなさいよ、少しは」
呆れ交じりの声には、気遣いがこもっていた。ニッカは何も言い返せず、大人しく手当てを受け続けた。
処置が終わると、ニッカは椅子の背に体を預け、天井を見上げた。頬の痛みよりも、肩の鈍い痛みよりも、胸の奥に居座る重さの方が大きかった。確保できたのは、最初の一歩に過ぎない。企業やNCPDの記録から男の存在をどう消し、正式な治療へ繋げるのか。答えの出ない問いが、まだいくつも積み残されている。
指先に、端子を握り続けた感触が残っていた。牙に触れた指だった。噛まれずに済んだのは、運が良かっただけかもしれない。それでも、触れなければ何も始まらなかった。バートが、いつもそうしていたように。
関わらないと誓った街で、また一人、手を伸ばしてしまった。その事実を悔やむ気持ちは、不思議なほど湧いてこなかった。
手の中の携行型バッファーは、放熱板にまだ熱を残していた。一度使っただけで、粗が見える。端子の角度。熱の逃がし方。接触の確かさ。次に作るなら、もっとうまくやれる。そう考えてしまう自分に、ニッカは小さく苦笑した。
眠る男の胸が、規則正しく上下している。その静かな呼吸の音だけが、地下の空間に低く響いていた。