夜明け前の地下は、音の数が少ない。
触媒コンバーターの唸りが遠くで一定の拍子を刻み、その合間に水の滴る音が混じっていた。治療スペースに張った簡易の幕の内側では、枕元のモニターが緑の光を灯している。脈拍の波形は、規則正しく上下を繰り返していた。
ニッカは椅子に腰を下ろしたまま、その波形をぼんやりと眺めていた。
頬のテープが、時折つっぱるように疼く。肩の鈍い痛みも、まだ引いてはいなかった。仮眠を取れと言い残して去ったドリオの声が、頭のどこかで繰り返されている。それでも、眠れる気はしなかった。
作業台の端には、携行型バッファーが置かれている。放熱板はようやく、素手で触れられる温度まで落ちていた。インジケーターは消えたままだった。使い終えた道具が静かにしているのは、悪い眺めではない。
幕の向こうの隅に、キーウィがいた。
夜通し、同じ場所から動いていない。壁に背を預け、膝の上に片手を置いている。その指の間には、火のついていない煙草が挟まれたままだった。眠る男へ向けた視線は、まばたきのほかにほとんど揺れなかった。
ニッカは何度か声をかけようとして、そのたびに飲み込んだ。
今夜は聞くな、と言われた夜は、もう終わりかけている。けれど朝になったからといって、聞いていい話になるわけではなかった。
「……寝たら」
結局口にしたのは、そんな言葉だった。
「あんたこそ」
キーウィは視線を動かさずに答えた。
「ドリオに、縛られるぞ」
「縛られる前には寝る」
「どうだかな」
乾いた声に、かすかな笑いが混じる。会話は、そこで途切れた。
モニターの緑が、一定の間隔で瞬いている。二人の間に横たわる沈黙は、気まずさとは違う手触りをしていた。同じものを待っている者同士の時間だった。
眠る男の顔を、ニッカは改めて眺めた。
頬は深くこけ、目の下には墨を引いたような隈が沈んでいる。右腕の義肢には濡れ布が巻かれたままで、その下から覗く配線は、どれも継ぎ足しの跡が生々しかった。何年もかけて少しずつ積み増された時間が、そのまま体に刻まれている。
どの継ぎ目にも、誰かの丁寧な手は入っていない。そのことが、ニッカにはどうにも引っかかっていた。施されたのは治すための処置ではなく、ただ動かし続けるための継ぎ足しだった。闇医者から闇医者へ渡り歩いた跡が、そのまま配線に残っている。
誰か一人でも、この体を直そうと考えていたなら。
そこまで考えて、ニッカは思考を打ち切った。仮定の話は、機械の前では何の役にも立たない。目の前にあるものを、目の前にあるまま見る。バートが教えたことは、結局それだけだった。
最初の変化は、呼吸だった。
規則正しかった寝息の間に、ほんの短い乱れが挟まる。ニッカは顔を上げた。モニターの波形が、わずかに高く跳ねている。
幕の内側へ身を乗り出すと、男のまぶたが微かに震えていた。
数秒ののち、それが持ち上がる。
濁った赤は、もうどこにもなかった。深く落ち窪んだ眼窩の奥から現れたのは、焦点の定まらない疲れた人間の目だった。男は天井の配管を、長いこと見つめていた。
「……水」
掠れた声が、喉の奥から絞り出された。
ニッカは水差しを引き寄せ、ストローを口元へ運んだ。男は数口だけ含み、咳き込みかけてから、ようやく息を吐く。
「ゆっくりでいい。急がないで」
「……ここは」
視線がゆるりと動き、ニッカの顔で止まった。
「安全な場所。企業の目は届かない」
「あんたは……誰だ」
「鈴木」
反射だった。
口にしてから、後悔が追いついてくる。隅で、キーウィが息だけで笑う気配がした。
男は、ニッカの顔をしばらく見つめていた。それから、乾いた唇の端が、わずかに持ち上がる。
「……下手な偽名だ」
「……癖なの」
「癖、か」
掠れた笑い声が、短く漏れた。笑ったのはいつ以来なのだろう。そんな考えが頭をよぎるほど、錆びついた音だった。
「放っておけ。そいつは、いつもそうだ」
隅から、キーウィの声が飛んだ。
「いつもじゃない」
「いつもだ」
男はもう一度だけ笑い、続けた。
「名前なんて、持ってない奴の方が多い街だ。……無理には、聞かない」
その言い方が、ひどく穏やかだった。ニッカは返す言葉を探して、結局何も見つけられなかった。
男の視線が、自分の右腕へ落ちた。
濡れ布を幾重にも巻かれた義肢は、人の腕というより、継ぎ接ぎの機械そのものだった。布の端はすでに乾き、白く固まっている。指先をわずかに動かそうとして、男は途中で止めた。
「まだ動かさないで。排熱が追いついてないから」
ニッカは新しい濡れ布を手に取り、義肢の肘へ当てた。布越しに伝わる熱は、昨夜より穏やかだった。それでも、触れ続ければ指先が痛くなる程度には残っている。
「……あんたは、メカニックか」
「そう呼ばれてる。不本意だけど」
「不本意、か」
男の目が、一瞬だけ布の上のニッカの手を追った。
「俺は、何を壊した」
「壁と、棚と、券売機」
「人は」
「無事。メインが壁に叩きつけられたけど、頑丈だから」
「……メイン、というのは」
「昨夜、あんたと取っ組み合った体の大きい人」
答えながら、自分の説明の雑さに気づいた。男は目を閉じて、長く息を吐いた。
「覚えてない。……壁を殴って、そこから先が、ない」
「それでいいと思う」
「いいわけが、あるか」
低い声だった。怒りではない。自分自身へ向けた、拒絶の声だった。
ニッカはしばらく黙った。慰めの言葉は、いくつか浮かんだ。どれも口にした途端に、嘘になる気がした。
「誰も死んでない。それは、本当」
事実だけを、置くように告げる。
男は何も言わなかった。まぶたの裏で何かを数えるように、呼吸だけを続けている。やがて、ぽつりと呟いた。
「……頭の中が、静かだ」
その声には、困惑が滲んでいた。
「ずっと、砂嵐みたいな音がしてた。何年も。……それが、ない」
「神経の負荷を逃がす回路を、繋いだの。治ったわけじゃない」
「治って、ない」
「根っこは、そのまま。今は鎮めてあるだけで、効き目がどれだけ保つかも、まだ私には言い切れない。だから、ちゃんとした治療が要る」
期待を持たせすぎるのも、突き放しすぎるのも、この男には毒になる気がした。ニッカは言葉を一つずつ選んだ。
「……あんたが、やったのか」
「そう」
「俺を助けて、あんたに何の得がある」
真っ直ぐな問いだった。ニッカは視線を逸らさずに答えた。
「得は、ない。放っておけなかっただけ」
「そうか」
「頼んだのは、レジーナだけど」
その名前に、男の表情が動いた。
「……レジーが」
吐息に近い声だった。閉じかけていた目が開く。
「あの人は、まだ、俺なんかを」
「朝には、来る」
男は答えなかった。視線を天井へ戻し、何かを堪えるように、喉仏を一度だけ上下させた。
その視線が、ふと幕の隅へ流れた。
壁に背を預けた人影の上で、動きが止まる。
長い沈黙があった。モニターの緑が、五回、六回と瞬いた。
「……久しぶりだな」
先に口を開いたのは、キーウィだった。
「……キーウィ」
男の声が、わずかに裏返った。
「あんた、本物か。夢じゃなく」
「夢なら、もう少しましな顔で出てくる」
「火、ついてないぞ。それ」
「……ああ」
キーウィは自分の指先を見下ろした。一晩中挟んでいた煙草が、いつの間にか中ほどで折れ曲がっていた。それを見て、彼女は短く息を吐いた。
「変わらないな、あんたは。……いや、痩せたか」
「あんたに言われたくない」
返した声は、先刻の笑い声と同じ錆びた響きをしていた。再会というより、長く途切れていた会話の続きを、そのまま拾い上げているように見えた。
ニッカは、音を立てずに立ち上がった。
「……水、替えてくる」
幕の外へ出ようとした背中に、声がかかった。
「いい。座ってろ」
キーウィだった。
「でも」
「あんたが繋いだ命だ。……今さら、締め出す気はない」
視線は男に向けたまま、短く付け加える。
「聞いて気分のいい話じゃないがな」
ニッカは少しだけ迷ってから、椅子へ戻った。幕の内側に、三人分の呼吸が残った。
キーウィは壁から背を離し、寝台の脇まで歩いてきた。立ったまま、男を見下ろす。何かを言いかけて一度やめ、それからもう一度口を開いた。
「アレン」
男の肩が、小さく跳ねた。
「……その名前は、やめてくれ」
「呼ばれたくないのか」
「呼ばれると、思い出す。……置いてきたものを、全部」
掠れた声は、咎めるようでも懇願するようでもなかった。ただ事実を告げる、平坦な響きだった。
「グリッチは、あんたが自分で付けた名前だろう」
「……ああ」
「本名で呼ばれたくなくて、付けた名前だ。違うか」
男は答えなかった。それが何よりの答えだった。
キーウィは、折れた煙草を手の中でそっと転がした。
「昨夜、私はあんたをグリッチと呼んだ。……止まったな、あんた」
「覚えてない」
「止まったんだ。呼ばれて、止まった」
淡々とした声だった。それなのに、聞いているニッカの胸の奥で、何かが軋んだ。
「名前が何かは、どうでもいい。呼ばれて止まれるうちは、まだこっち側にいる。……私は、それで十分だと思ってる」
長い沈黙のあと、キーウィは寝台の脇の床へ腰を下ろした。立っていることが、急に難しくなったように見えた。
「あの夜のことを、覚えてるか」
「……どの夜だ」
「あんたが、私に何かを差し出した夜だ」
男の目が、ゆっくりと見開かれた。
「データと、逃げた先で頼れる伝手と。……全部、一晩で揃えたんだろう。あんたのことだ」
「……覚えてる」
「私は、受け取らなかった」
感情を殺しているのではない。ようやく順序立てて言葉にできるものだけを、一つずつ床へ置いていく話し方だった。
「巻き込みたくない、と言った。嘘じゃない。本心だった」
キーウィの視線は、床の一点に落ちている。
「だが、全部じゃなかった。怖かったんだ。受け取った瞬間から、私の逃げ道の代金を、あんたが払い続けることになる。他人の命で舗装した道を、歩ける気がしなかった。それを、巻き込みたくないという言葉で包んだ」
ニッカは息を潜めた。ここにいていいのかという迷いが、また首をもたげる。それでも、立ち上がる気にはなれなかった。
「それから先のことは、風の噂で聞いた。あんたの名前が、裏の筋から消えたと。……それだけだ。探しもしなかった」
「あんたが探せる状況じゃなかった」
「そう言って、自分を納得させてきた」
短い間があった。
「断ったことで、あんたを守ったつもりでいた。実際は、見ないふりをしただけだ。一人で何をしているのか、考えないようにして」
キーウィの視線が、義肢へ移る。濡れ布の端から覗く、継ぎ接ぎの配線へ。
「その結果が、これだ」
それ以上は、言葉にならなかった。
幕の内側に、モニターの音だけが規則正しく響いている。
「……違う」
しばらくして、男が言った。
「あんたのせいじゃない。あれは、俺が勝手にやったことだ」
「アレン」
「聞け」
名を呼ばれても、男はもう拒まなかった。目を閉じたまま、続ける。
「断られて、ほっとしたんだ。……情けない話だが」
「ほっとした?」
「巻き込みたくなかったのは、俺も同じだった。差し出しておいて、受け取られなければいいと、どこかで思ってた。あんたが受け取っていたら、あんたまで、こうなってた」
掠れた声が、少しずつ熱を帯びていく。長く喋ることに慣れない喉が、何度も途切れながら言葉を繋いでいた。
「あの頃の俺は、あんたを守れる器じゃなかった。自分が逃げ切るだけで、精一杯だった。……なのに、格好つけた」
キーウィは何も言わなかった。
「お互い、断って、差し出して。そのくせ、どっちも一人になった」
その一言が、ゆっくりと幕の内側に沈んでいった。
「……お互い様、か」
ようやく、キーウィが呟いた。
「そういうことに、しといてくれ」
「あんたが決めることじゃない」
「あんたもな」
二人の間に、短い沈黙が流れた。責める者も、許す者もいなかった。長いこと手放せずにいた荷物を、ようやく二人で床へ下ろしたような間だった。
ニッカは、膝の上で組んでいた両手の力を、そっと緩めた。
*
窓のない拠点にも、朝は来る。
通路の照明が、夜間の暗い橙から白へ切り替わった頃、裏口の扉が静かに開いた。
先に入ってきたのは、レジーナだった。黒髪を高く結い、右目を覆うアイパッチの下で、表情を硬く引き締めている。いつもの軽妙さは、足取りのどこにもなかった。その後ろに、作業着姿の二人組が従っている。顔の下半分を布で覆い、目元だけを覗かせていた。折り畳み式の担架を、慎重に抱えている。
「この二人には、目隠しをさせてここまで来たわ。場所は知らないままよ」
出迎えたメインへ、レジーナは短く告げた。
「朝から押しかけて悪いわね。迷惑なら、先に言って」
「今さらだ。ここまで来て、帰れとは言わねえよ」
メインは低く答えて、通路の奥を顎で示した。
「奥だ。キーウィとニッカが付いてる。夜明け前に、目を覚ました」
レジーナの足が、一瞬だけ止まった。
「……そう」
それだけ答えて、彼女は通路を進んだ。二人組は入り口で足を止め、担架を床へ下ろして待つ。
幕の前で、レジーナはもう一度立ち止まった。
深く息を吸う音が、通路に響く。それから、幕へ手をかけた。
寝台の上で、男が顔をこちらへ向ける。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……レジー」
先に呼んだのは、男の方だった。
「……生きてた」
レジーナの声は、驚くほど小さかった。幕に手をかけたまま、彼女は動かない。アイパッチの縁が震えたように見えた。
「ひどい顔」
「あんたも、老けたな」
「うるさい」
短い応酬のあと、レジーナは寝台へ歩み寄った。男の左手を、両手で包むように取る。強く握りはしなかった。そのまま、顔を伏せる。
「……ごめんなさい」
掠れた声だった。
「あの時、無理にでも匿えばよかった。あたしの力が足りなかった」
「違う。俺が断ったんだ」
「分かってる。それでも」
「レジー」
男は静かに遮った。
「あんたは、約束を守った。……記事に、俺の名前は、一度も出さなかった」
レジーナは顔を上げなかった。包んだ手に、ぐっと力がこもった。
ニッカは視線を逸らし、幕の外へ出た。見てはいけないものを見ている気がして、足音を殺す。床から立ち上がったキーウィも、同じように壁際へ下がっていた。
通路の壁際には、いつの間にか他の面々が集まっていた。
メインとドリオが並んで立ち、少し離れてファルコが帽子を目深に下げている。ルーシーは端末を胸に抱えたまま、幕の方をじっと見ていた。誰も声を発さない。誰が呼んだわけでもなく、ただ全員が、この朝を見届けに来たようだった。
「……間に合ったな」
ファルコが、誰にともなく呟いた。
「ええ」
ドリオが短く返す。メインは腕を組んだまま、何も言わずに頷いただけだった。
その後ろで、デイビッドが小声でルーシーへ尋ねた。
「……あの人、もう大丈夫なんだよな」
「治療は、これから。でも」
ルーシーは幕の方へ視線を向けたまま、静かに続けた。
「幕越しに聞こえた声は、ちゃんと生きてる人のものだった」
「……そっか」
デイビッドは短く息を吐き、握っていた拳を開いた。母を喪いかけたあの夜から、どこかで握ったままだった手が、少しだけ緩んだように見えた。
ニッカは壁に背を預け、その輪の端に立った。肩の鈍い痛みは、まだ消えていない。それでも、今朝の痛みは昨夜より軽く感じられた。
少し離れた壁際では、キーウィが折れた煙草を指に挟んで立っている。火は、まだつけられていなかった。
しばらくして、幕の向こうから、レジーナの声が聞こえた。
「書類に載せる名前を、決めないといけないの」
いつもの調子に戻った声だった。けれど、わずかに掠れている。
「記録上は『行方不明のまま』にしておく。企業にも、NCPDにも、あんたの痕跡は残さない。でも闇医療の側には、カルテが要る。偽名でも構わない。……何て呼べばいい?」
男は少しのあいだ黙っていた。
幕の外の誰もが、その沈黙を聞いていた。キーウィも、顔は向けなかった。
「アレン」
男は、はっきりと言った。
「アレンで、頼む。……グリッチは、置いていく」
レジーナの息が、揺れる気配がした。
「いいの」
「隠れるための名前だった。……だが、あの暗がりで、誰かに呼ばれて止まれた。名前なんて、呼ぶ奴がいて初めて、名前になるのかもしれない」
掠れた声が、途切れ途切れに続く。
「逃げるのは、もう疲れた」
一拍の沈黙のあと、レジーナが小さく笑った。
「……そう。アレンね」
その名を、彼女は慎重に、噛みしめるように口にした。
「やっと、まともに呼べる」
幕の向こうで、短い沈黙が続いた。呼ばれ慣れない名の響きを、確かめているような間だった。
幕の外で、キーウィが目を伏せた。指の間の折れた煙草が、ほんの少しだけ傾く。
ニッカはその横顔を見ないようにして、天井の配管を見上げた。緑のモニターの光が、幕の布越しに淡く滲んでいる。一つの名前が灯ったような気がした。
搬送の支度が整うまでの間、レジーナは通路の隅へニッカを呼んだ。
「鈴木」
「……何」
「その頬」
「平気」
「聞き飽きたわ」
ばっさりと切り捨てて、レジーナは自分の端末を取り出した。
「渡すものがあるの」
画面に、一本の周波数が表示される。
「カブキの闇医療班に繋がる回線。アレンの容態は、そこから直接聞けるようにしておいた。あたしの裏窓口とも繋いであるから、礼のつもりで受け取って」
「……別に、いらない」
「置いていくわよ。あんたが受け取ろうが、受け取るまいが」
あっさりと言われて、ニッカは反論の言葉を失った。レジーナはニッカの端末へ、周波数を手際よく移していく。
「昨夜の波形の記録は、あとでまとめて送って。治療班が経過を比べるのに使うから」
「数値だけなら」
「それで十分。回路の中身までは、聞かないわ」
引き際の見極めが早い。ニッカは胸の内で、少しだけ息を緩めた。
「それと、昨夜の痕跡は全部消しておく。企業にもNCPDにも、グリッチはずっと行方不明のまま。アレンの名前も、外には出さない」
「うん」
「巡回ルートが急に変わった件、ルーシーから聞いたわ。こっちでも調べておく。たぶん、ただの定期見直しだけど」
「……だと、いいけど」
「そうね。だと、いいわね」
レジーナは視線を落として、一瞬だけ口を閉ざした。それから、声の調子をいつものものへ戻した。
「この件は、あたしがちゃんと覚えとく。あんたが忘れても」
「忘れていいなら、忘れる」
「そういうところよ、鈴木」
口元を緩めてから、レジーナは声を落とした。
「キーウィのこと」
「……何」
「あの人、知り合いだったんでしょ」
「……私からは、言えない」
「そう。それでいいわ」
レジーナは頷いて、通路の先に立つキーウィの背を、ちらりと見た。
「経過は、あの人にも伝わるようにしておく。あんたの方からも、気が向いたら教えてやって」
「……分かった」
「いい返事。たまには素直ね、鈴木」
「偽名を、嫌味に使わないで」
「あら。偽名だって、自覚はあるのね」
からかうような一言を残し、レジーナは搬送の方へ戻っていった。
担架へ移されるアレンの傍らへ、キーウィが歩み寄った。
作業着姿の二人組が、動きを止めて待つ。誰も急かさなかった。
「治るまで、どれくらいかかる」
尋ねたキーウィに、アレンは苦笑した。
「さあな。……医者に聞いてくれ」
「じゃあ、医者に聞く」
「ああ」
短い間のあと、アレンは動かせる左手を持ち上げた。
「治ったら、一杯、付き合え」
「医者に、酒は止められるだろ」
「あんたの煙草も、止められるぞ」
「……お互い様か」
キーウィの口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。折れた煙草を握る指が、一瞬だけ強張る。
「待ってる。……だから、勝手に消えるな」
「約束はしない」
「約束しろ」
「……努力する」
それが、精一杯の返事だったのだろう。キーウィはそれ以上何も言わず、ただ頷いた。
搬送が始まる直前、アレンの視線が、ニッカへ流れた。
「鈴木」
「……何」
「あんたの本当の名前、いつか聞かせてくれ」
「……そのうち」
「気長に、待つ」
わずかに笑ったその顔は、獣のものでも、消耗しきった逃亡者のものでもなかった。ただ疲れた、一人の男の顔だった。
担架が通路を運ばれていく。レジーナが先導し、二人組が足音を殺して続いた。裏口の方角へ遠ざかる灯りが、角を曲がったところで見えなくなる。
壁際に並んでいた面々が、それぞれ息を吐いた。
「……行ったな」
誰かが呟いた。
「ああ」
別の誰かが応じた。しばらく、誰も動こうとしなかった。
*
通路の突き当たりで、キーウィが壁にもたれていた。
ニッカは少し距離を置いて、その隣に立った。何を言えばいいのか分からなかったので、何も言わなかった。
かち、と小さな音がした。
ライターの火が、薄暗い通路の一角を橙色に染める。キーウィは折れた煙草の先へ火を近づけ、ゆっくりと吸い込んだ。一晩ぶりの煙が、白く細く立ち昇っていく。
「……やっと、まともに吸えた」
「折れてたよ、それ」
「折れてても、煙草は煙草だ」
紫煙の向こうで、キーウィは目を細めた。
「受け取らなかったものを、あんたが拾い上げた」
不意に落とされた一言に、ニッカは隣へ顔を向けた。
「……私は、頼まれたことをやっただけ」
「頼まれたのは、レジーナだ。あんたが拾ったのは、私が落としたものだ」
「大げさ」
「そう言うと思った」
自嘲めいた笑いが、煙と一緒に零れた。
「礼は言わない。言うと、軽くなる」
「いらない」
「だろうな」
二人はそのまま、しばらく黙っていた。通路の奥で、触媒コンバーターが一定の拍子で唸っている。いつもと変わらない音のはずなのに、今朝は少しだけ柔らかく聞こえた。
ニッカは、煙の昇っていく先を目で追った。天井の配管に触れる手前で、それは薄れて見えなくなる。
「名前を呼ぶっていうのは」
煙を吐きながら、キーウィがぽつりと言った。
「案外、重い。……軽く呼べる奴の方が、少ないのかもしれないな」
ニッカは、鈴木と名乗る癖のことを思った。軽く呼べる名前を、自分はいつも先に用意してしまう。それが臆病さなのか用心なのか、自分でもよく分からなかった。
「……そのうち」
ほとんど独り言だった。キーウィは何も聞き返さず、煙草の灰を落とした。
その指先が、昨夜よりずっと落ち着いていることに、ニッカは気づいていた。
*
食堂へ入ると、湯気と焦げた匂いが同時に鼻を突いた。
「……焦げてる」
「焦げてねえよ! ちょっと香ばしいだけだ!」
鍋の前で、レベッカが胸を張った。傍らでデイビッドが、無言で皿を並べている。
「香ばしさにも限度があるだろ」
「てめえは黙って食え、デイビッド!」
いつもの言い争いだった。昨夜まで張り詰めていた空気が、嘘のように解けている。
テーブルの端では、ピラルが椅子にふんぞり返っていた。
「で、あのおっさんはどうなった」
「治療に回ったって。レジーナの手配で」
答えたのは、端末を抱えたルーシーだった。
「ってことは、とりあえず一件落着か」
「今のところはね」
「なんだよ、含みのある言い方しやがって」
「後始末は、まだ残ってるから」
淡々と答えるルーシーの声に、薄く安堵が滲んでいる。昨夜の通信で、一番長く画面を見つめていたのは彼女だった。その疲れが、目の下にうっすらと影を落としていた。
空いた席へ腰を下ろしたニッカの前に、無言で椀が置かれた。
顔を上げると、ドリオだった。
「食べなさい。それから、寝る」
「……これくらい」
「言ってみなさい」
口を開きかけて、ニッカは止まった。ドリオの目が、細まっている。
「……やめとく」
「進歩したわね」
ドリオは満足そうに頷き、ニッカの頬のテープの端を、指先でそっと押さえ直した。傷に触れる手つきは、驚くほど優しかった。
椀の中身は、いつもの保存食を戻したスープだった。口へ運ぶと、舌の上に温かさが広がる。昨夜から何も入れていなかった胃が、遅れて目を覚ましていくのが分かった。
「ニッカ」
向かいで、ファルコが帽子のつばを持ち上げた。
「……何」
「いや。……よくやった。それだけだ」
短い言葉だったが、声は昨夜より穏やかだった。帽子の下の目が、こちらを見ている。ニッカは頷いて、椀の縁に唇を寄せた。
隣の席へ、ルーシーが端末を滑らせてきた。
「昨夜の波形、ログに残してある。数値だけ抜いて、送れる形にしておいた」
「……いつの間に」
「通信を預かってたから。私にできるのは、こういうことだから」
淡々とした声だった。けれど画面の端には、細かな注記が几帳面に添えられている。ニッカは頷いた。
「ありがとう。助かる」
「どういたしまして」
それだけ言って、ルーシーは自分の椀へ視線を戻した。
「あたしの飯も食えよ、ニッカ!」
レベッカが、焦げた何かを山盛りにした皿を突き出してくる。
「……後で」
「後でって言って食った奴、見たことねえぞ!」
「てめえの飯は、後でって言いたくなる味なんだよ」
ピラルが茶化し、レベッカの怒号が食堂に響いた。デイビッドが額を押さえ、ルーシーがほんの少しだけ笑った。
その騒がしさの端で、キーウィが椅子を引いて腰を下ろした。口には、火のついた煙草がある。誰も咎めなかった。
「そういや、起きたんだろ、あのおっさん」
ピラルが身を乗り出した。
「ニッカ、なんて名乗ったんだよ」
「……」
「鈴木だ」
紫煙を吐きながら、キーウィが答えた。
「……言わなくていい」
「事実だ」
一拍の沈黙のあと、食堂が揺れた。
「またかよ!」
レベッカが皿を掲げたまま叫ぶ。
「ネタ切れにも程があるだろ! 他にねえのかよ、偽名!」
「……癖なの」
「癖で済ますな!」
ピラルが腹を抱えて笑い、デイビッドが顔を背けて肩を震わせた。ルーシーまでが、端末で口元を隠している。ドリオだけが、黙ってニッカの椀へおかわりを足した。
ニッカが寝床へ潜り込んだのは、昼に近い時刻だった。
作業台から持ってきた携行型バッファーを、枕元の棚へ置く。インジケーターは、消えたままだった。放熱板の縁には、まだ微かな焦げの跡が残っている。端子の角度も、熱の逃がし方も、直したい箇所はいくつもあった。
それでも今は、目を閉じることにした。
遠くから、触媒コンバーターの唸りが聞こえてくる。誰かの笑い声が、壁越しにぼんやりと響いた。食堂の方では、キーウィの煙草が、一本ぶんの時間をかけて短くなっていくのだろう。
使い終えた道具が静かなのは、いい眺めだった。次に灯る時が来ないことを、ニッカは少しだけ願った。
願ってから、それが叶いにくい願いだということも分かっていた。この街で、誰かが誰かを呼ぶ声は、きっとまた届く。
それでも、今は眠れる。そのことが、不思議なほど心強かった。まぶたが降りてくる。