サイバーパンク:ジャンク・アルケミー   作:たこ焼き 龍月

63 / 63
第17.4話 偽名は鈴木のみ対応、本名は準備中です

 

 

 夜明け前の地下は、音の数が少ない。

 

 触媒コンバーターの唸りが遠くで一定の拍子を刻み、その合間に水の滴る音が混じっていた。治療スペースに張った簡易の幕の内側では、枕元のモニターが緑の光を灯している。脈拍の波形は、規則正しく上下を繰り返していた。

 

 ニッカは椅子に腰を下ろしたまま、その波形をぼんやりと眺めていた。

 

 頬のテープが、時折つっぱるように疼く。肩の鈍い痛みも、まだ引いてはいなかった。仮眠を取れと言い残して去ったドリオの声が、頭のどこかで繰り返されている。それでも、眠れる気はしなかった。

 

 作業台の端には、携行型バッファーが置かれている。放熱板はようやく、素手で触れられる温度まで落ちていた。インジケーターは消えたままだった。使い終えた道具が静かにしているのは、悪い眺めではない。

 

 幕の向こうの隅に、キーウィがいた。

 

 夜通し、同じ場所から動いていない。壁に背を預け、膝の上に片手を置いている。その指の間には、火のついていない煙草が挟まれたままだった。眠る男へ向けた視線は、まばたきのほかにほとんど揺れなかった。

 

 ニッカは何度か声をかけようとして、そのたびに飲み込んだ。

 

 今夜は聞くな、と言われた夜は、もう終わりかけている。けれど朝になったからといって、聞いていい話になるわけではなかった。

 

「……寝たら」

 

 結局口にしたのは、そんな言葉だった。

 

「あんたこそ」

 

 キーウィは視線を動かさずに答えた。

 

「ドリオに、縛られるぞ」

 

「縛られる前には寝る」

 

「どうだかな」

 

 乾いた声に、かすかな笑いが混じる。会話は、そこで途切れた。

 

 モニターの緑が、一定の間隔で瞬いている。二人の間に横たわる沈黙は、気まずさとは違う手触りをしていた。同じものを待っている者同士の時間だった。

 

  

 

 眠る男の顔を、ニッカは改めて眺めた。

 

 頬は深くこけ、目の下には墨を引いたような隈が沈んでいる。右腕の義肢には濡れ布が巻かれたままで、その下から覗く配線は、どれも継ぎ足しの跡が生々しかった。何年もかけて少しずつ積み増された時間が、そのまま体に刻まれている。

 

 どの継ぎ目にも、誰かの丁寧な手は入っていない。そのことが、ニッカにはどうにも引っかかっていた。施されたのは治すための処置ではなく、ただ動かし続けるための継ぎ足しだった。闇医者から闇医者へ渡り歩いた跡が、そのまま配線に残っている。

 

 誰か一人でも、この体を直そうと考えていたなら。

 

 そこまで考えて、ニッカは思考を打ち切った。仮定の話は、機械の前では何の役にも立たない。目の前にあるものを、目の前にあるまま見る。バートが教えたことは、結局それだけだった。

 

  

 

 最初の変化は、呼吸だった。

 

 規則正しかった寝息の間に、ほんの短い乱れが挟まる。ニッカは顔を上げた。モニターの波形が、わずかに高く跳ねている。

 

 幕の内側へ身を乗り出すと、男のまぶたが微かに震えていた。

 

 数秒ののち、それが持ち上がる。

 

 濁った赤は、もうどこにもなかった。深く落ち窪んだ眼窩の奥から現れたのは、焦点の定まらない疲れた人間の目だった。男は天井の配管を、長いこと見つめていた。

 

「……水」

 

 掠れた声が、喉の奥から絞り出された。

 

 ニッカは水差しを引き寄せ、ストローを口元へ運んだ。男は数口だけ含み、咳き込みかけてから、ようやく息を吐く。

 

「ゆっくりでいい。急がないで」

 

「……ここは」

 

 視線がゆるりと動き、ニッカの顔で止まった。

 

「安全な場所。企業の目は届かない」

 

「あんたは……誰だ」

 

「鈴木」

 

 反射だった。

 

 口にしてから、後悔が追いついてくる。隅で、キーウィが息だけで笑う気配がした。

 

 男は、ニッカの顔をしばらく見つめていた。それから、乾いた唇の端が、わずかに持ち上がる。

 

「……下手な偽名だ」

 

「……癖なの」

 

「癖、か」

 

 掠れた笑い声が、短く漏れた。笑ったのはいつ以来なのだろう。そんな考えが頭をよぎるほど、錆びついた音だった。

 

「放っておけ。そいつは、いつもそうだ」

 

 隅から、キーウィの声が飛んだ。

 

「いつもじゃない」

 

「いつもだ」

 

 男はもう一度だけ笑い、続けた。

 

「名前なんて、持ってない奴の方が多い街だ。……無理には、聞かない」

 

 その言い方が、ひどく穏やかだった。ニッカは返す言葉を探して、結局何も見つけられなかった。

 

  

 

 男の視線が、自分の右腕へ落ちた。

 

 濡れ布を幾重にも巻かれた義肢は、人の腕というより、継ぎ接ぎの機械そのものだった。布の端はすでに乾き、白く固まっている。指先をわずかに動かそうとして、男は途中で止めた。

 

「まだ動かさないで。排熱が追いついてないから」

 

 ニッカは新しい濡れ布を手に取り、義肢の肘へ当てた。布越しに伝わる熱は、昨夜より穏やかだった。それでも、触れ続ければ指先が痛くなる程度には残っている。

 

「……あんたは、メカニックか」

 

「そう呼ばれてる。不本意だけど」

 

「不本意、か」

 

 男の目が、一瞬だけ布の上のニッカの手を追った。

 

「俺は、何を壊した」

 

「壁と、棚と、券売機」

 

「人は」

 

「無事。メインが壁に叩きつけられたけど、頑丈だから」

 

「……メイン、というのは」

 

「昨夜、あんたと取っ組み合った体の大きい人」

 

 答えながら、自分の説明の雑さに気づいた。男は目を閉じて、長く息を吐いた。

 

「覚えてない。……壁を殴って、そこから先が、ない」

 

「それでいいと思う」

 

「いいわけが、あるか」

 

 低い声だった。怒りではない。自分自身へ向けた、拒絶の声だった。

 

 ニッカはしばらく黙った。慰めの言葉は、いくつか浮かんだ。どれも口にした途端に、嘘になる気がした。

 

「誰も死んでない。それは、本当」

 

 事実だけを、置くように告げる。

 

 男は何も言わなかった。まぶたの裏で何かを数えるように、呼吸だけを続けている。やがて、ぽつりと呟いた。

 

「……頭の中が、静かだ」

 

 その声には、困惑が滲んでいた。

 

「ずっと、砂嵐みたいな音がしてた。何年も。……それが、ない」

 

「神経の負荷を逃がす回路を、繋いだの。治ったわけじゃない」

 

「治って、ない」

 

「根っこは、そのまま。今は鎮めてあるだけで、効き目がどれだけ保つかも、まだ私には言い切れない。だから、ちゃんとした治療が要る」

 

 期待を持たせすぎるのも、突き放しすぎるのも、この男には毒になる気がした。ニッカは言葉を一つずつ選んだ。

 

「……あんたが、やったのか」

 

「そう」

 

「俺を助けて、あんたに何の得がある」

 

 真っ直ぐな問いだった。ニッカは視線を逸らさずに答えた。

 

「得は、ない。放っておけなかっただけ」

 

「そうか」

 

「頼んだのは、レジーナだけど」

 

 その名前に、男の表情が動いた。

 

「……レジーが」

 

 吐息に近い声だった。閉じかけていた目が開く。

 

「あの人は、まだ、俺なんかを」

 

「朝には、来る」

 

 男は答えなかった。視線を天井へ戻し、何かを堪えるように、喉仏を一度だけ上下させた。

 

  

 

 その視線が、ふと幕の隅へ流れた。

 

 壁に背を預けた人影の上で、動きが止まる。

 

 長い沈黙があった。モニターの緑が、五回、六回と瞬いた。

 

「……久しぶりだな」

 

 先に口を開いたのは、キーウィだった。

 

「……キーウィ」

 

 男の声が、わずかに裏返った。

 

「あんた、本物か。夢じゃなく」

 

「夢なら、もう少しましな顔で出てくる」

 

「火、ついてないぞ。それ」

 

「……ああ」

 

 キーウィは自分の指先を見下ろした。一晩中挟んでいた煙草が、いつの間にか中ほどで折れ曲がっていた。それを見て、彼女は短く息を吐いた。

 

「変わらないな、あんたは。……いや、痩せたか」

 

「あんたに言われたくない」

 

 返した声は、先刻の笑い声と同じ錆びた響きをしていた。再会というより、長く途切れていた会話の続きを、そのまま拾い上げているように見えた。

 

 ニッカは、音を立てずに立ち上がった。

 

「……水、替えてくる」

 

 幕の外へ出ようとした背中に、声がかかった。

 

「いい。座ってろ」

 

 キーウィだった。

 

「でも」

 

「あんたが繋いだ命だ。……今さら、締め出す気はない」

 

 視線は男に向けたまま、短く付け加える。

 

「聞いて気分のいい話じゃないがな」

 

 ニッカは少しだけ迷ってから、椅子へ戻った。幕の内側に、三人分の呼吸が残った。

 

 キーウィは壁から背を離し、寝台の脇まで歩いてきた。立ったまま、男を見下ろす。何かを言いかけて一度やめ、それからもう一度口を開いた。

 

「アレン」

 

 男の肩が、小さく跳ねた。

 

「……その名前は、やめてくれ」

 

「呼ばれたくないのか」

 

「呼ばれると、思い出す。……置いてきたものを、全部」

 

 掠れた声は、咎めるようでも懇願するようでもなかった。ただ事実を告げる、平坦な響きだった。

 

「グリッチは、あんたが自分で付けた名前だろう」

 

「……ああ」

 

「本名で呼ばれたくなくて、付けた名前だ。違うか」

 

 男は答えなかった。それが何よりの答えだった。

 

 キーウィは、折れた煙草を手の中でそっと転がした。

 

「昨夜、私はあんたをグリッチと呼んだ。……止まったな、あんた」

 

「覚えてない」

 

「止まったんだ。呼ばれて、止まった」

 

 淡々とした声だった。それなのに、聞いているニッカの胸の奥で、何かが軋んだ。

 

「名前が何かは、どうでもいい。呼ばれて止まれるうちは、まだこっち側にいる。……私は、それで十分だと思ってる」

 

  

 

 長い沈黙のあと、キーウィは寝台の脇の床へ腰を下ろした。立っていることが、急に難しくなったように見えた。

 

「あの夜のことを、覚えてるか」

 

「……どの夜だ」

 

「あんたが、私に何かを差し出した夜だ」

 

 男の目が、ゆっくりと見開かれた。

 

「データと、逃げた先で頼れる伝手と。……全部、一晩で揃えたんだろう。あんたのことだ」

 

「……覚えてる」

 

「私は、受け取らなかった」

 

 感情を殺しているのではない。ようやく順序立てて言葉にできるものだけを、一つずつ床へ置いていく話し方だった。

 

「巻き込みたくない、と言った。嘘じゃない。本心だった」

 

 キーウィの視線は、床の一点に落ちている。

 

「だが、全部じゃなかった。怖かったんだ。受け取った瞬間から、私の逃げ道の代金を、あんたが払い続けることになる。他人の命で舗装した道を、歩ける気がしなかった。それを、巻き込みたくないという言葉で包んだ」

 

 ニッカは息を潜めた。ここにいていいのかという迷いが、また首をもたげる。それでも、立ち上がる気にはなれなかった。

 

「それから先のことは、風の噂で聞いた。あんたの名前が、裏の筋から消えたと。……それだけだ。探しもしなかった」

 

「あんたが探せる状況じゃなかった」

 

「そう言って、自分を納得させてきた」

 

 短い間があった。

 

「断ったことで、あんたを守ったつもりでいた。実際は、見ないふりをしただけだ。一人で何をしているのか、考えないようにして」

 

 キーウィの視線が、義肢へ移る。濡れ布の端から覗く、継ぎ接ぎの配線へ。

 

「その結果が、これだ」

 

 それ以上は、言葉にならなかった。

 

 幕の内側に、モニターの音だけが規則正しく響いている。

 

  

 

「……違う」

 

 しばらくして、男が言った。

 

「あんたのせいじゃない。あれは、俺が勝手にやったことだ」

 

「アレン」

 

「聞け」

 

 名を呼ばれても、男はもう拒まなかった。目を閉じたまま、続ける。

 

「断られて、ほっとしたんだ。……情けない話だが」

 

「ほっとした?」

 

「巻き込みたくなかったのは、俺も同じだった。差し出しておいて、受け取られなければいいと、どこかで思ってた。あんたが受け取っていたら、あんたまで、こうなってた」

 

 掠れた声が、少しずつ熱を帯びていく。長く喋ることに慣れない喉が、何度も途切れながら言葉を繋いでいた。

 

「あの頃の俺は、あんたを守れる器じゃなかった。自分が逃げ切るだけで、精一杯だった。……なのに、格好つけた」

 

 キーウィは何も言わなかった。

 

「お互い、断って、差し出して。そのくせ、どっちも一人になった」

 

 その一言が、ゆっくりと幕の内側に沈んでいった。

 

「……お互い様、か」

 

 ようやく、キーウィが呟いた。

 

「そういうことに、しといてくれ」

 

「あんたが決めることじゃない」

 

「あんたもな」

 

 二人の間に、短い沈黙が流れた。責める者も、許す者もいなかった。長いこと手放せずにいた荷物を、ようやく二人で床へ下ろしたような間だった。

 

 ニッカは、膝の上で組んでいた両手の力を、そっと緩めた。

 

*

 

 窓のない拠点にも、朝は来る。

 

 通路の照明が、夜間の暗い橙から白へ切り替わった頃、裏口の扉が静かに開いた。

 

 先に入ってきたのは、レジーナだった。黒髪を高く結い、右目を覆うアイパッチの下で、表情を硬く引き締めている。いつもの軽妙さは、足取りのどこにもなかった。その後ろに、作業着姿の二人組が従っている。顔の下半分を布で覆い、目元だけを覗かせていた。折り畳み式の担架を、慎重に抱えている。

 

「この二人には、目隠しをさせてここまで来たわ。場所は知らないままよ」

 

 出迎えたメインへ、レジーナは短く告げた。

 

「朝から押しかけて悪いわね。迷惑なら、先に言って」

 

「今さらだ。ここまで来て、帰れとは言わねえよ」

 

 メインは低く答えて、通路の奥を顎で示した。

 

「奥だ。キーウィとニッカが付いてる。夜明け前に、目を覚ました」

 

 レジーナの足が、一瞬だけ止まった。

 

「……そう」

 

 それだけ答えて、彼女は通路を進んだ。二人組は入り口で足を止め、担架を床へ下ろして待つ。

 

 幕の前で、レジーナはもう一度立ち止まった。

 

 深く息を吸う音が、通路に響く。それから、幕へ手をかけた。

 

 寝台の上で、男が顔をこちらへ向ける。

 

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 

「……レジー」

 

 先に呼んだのは、男の方だった。

 

「……生きてた」

 

 レジーナの声は、驚くほど小さかった。幕に手をかけたまま、彼女は動かない。アイパッチの縁が震えたように見えた。

 

「ひどい顔」

 

「あんたも、老けたな」

 

「うるさい」

 

 短い応酬のあと、レジーナは寝台へ歩み寄った。男の左手を、両手で包むように取る。強く握りはしなかった。そのまま、顔を伏せる。

 

「……ごめんなさい」

 

 掠れた声だった。

 

「あの時、無理にでも匿えばよかった。あたしの力が足りなかった」

 

「違う。俺が断ったんだ」

 

「分かってる。それでも」

 

「レジー」

 

 男は静かに遮った。

 

「あんたは、約束を守った。……記事に、俺の名前は、一度も出さなかった」

 

 レジーナは顔を上げなかった。包んだ手に、ぐっと力がこもった。

 

 ニッカは視線を逸らし、幕の外へ出た。見てはいけないものを見ている気がして、足音を殺す。床から立ち上がったキーウィも、同じように壁際へ下がっていた。

 

  

 

 通路の壁際には、いつの間にか他の面々が集まっていた。

 

 メインとドリオが並んで立ち、少し離れてファルコが帽子を目深に下げている。ルーシーは端末を胸に抱えたまま、幕の方をじっと見ていた。誰も声を発さない。誰が呼んだわけでもなく、ただ全員が、この朝を見届けに来たようだった。

 

「……間に合ったな」

 

 ファルコが、誰にともなく呟いた。

 

「ええ」

 

 ドリオが短く返す。メインは腕を組んだまま、何も言わずに頷いただけだった。

 

 その後ろで、デイビッドが小声でルーシーへ尋ねた。

 

「……あの人、もう大丈夫なんだよな」

 

「治療は、これから。でも」

 

 ルーシーは幕の方へ視線を向けたまま、静かに続けた。

 

「幕越しに聞こえた声は、ちゃんと生きてる人のものだった」

 

「……そっか」

 

 デイビッドは短く息を吐き、握っていた拳を開いた。母を喪いかけたあの夜から、どこかで握ったままだった手が、少しだけ緩んだように見えた。

 

 ニッカは壁に背を預け、その輪の端に立った。肩の鈍い痛みは、まだ消えていない。それでも、今朝の痛みは昨夜より軽く感じられた。

 

 少し離れた壁際では、キーウィが折れた煙草を指に挟んで立っている。火は、まだつけられていなかった。

 

  

 

 しばらくして、幕の向こうから、レジーナの声が聞こえた。

 

「書類に載せる名前を、決めないといけないの」

 

 いつもの調子に戻った声だった。けれど、わずかに掠れている。

 

「記録上は『行方不明のまま』にしておく。企業にも、NCPDにも、あんたの痕跡は残さない。でも闇医療の側には、カルテが要る。偽名でも構わない。……何て呼べばいい?」

 

 男は少しのあいだ黙っていた。

 

 幕の外の誰もが、その沈黙を聞いていた。キーウィも、顔は向けなかった。

 

「アレン」

 

 男は、はっきりと言った。

 

「アレンで、頼む。……グリッチは、置いていく」

 

 レジーナの息が、揺れる気配がした。

 

「いいの」

 

「隠れるための名前だった。……だが、あの暗がりで、誰かに呼ばれて止まれた。名前なんて、呼ぶ奴がいて初めて、名前になるのかもしれない」

 

 掠れた声が、途切れ途切れに続く。

 

「逃げるのは、もう疲れた」

 

 一拍の沈黙のあと、レジーナが小さく笑った。

 

「……そう。アレンね」

 

 その名を、彼女は慎重に、噛みしめるように口にした。

 

「やっと、まともに呼べる」

 

 幕の向こうで、短い沈黙が続いた。呼ばれ慣れない名の響きを、確かめているような間だった。

 

 幕の外で、キーウィが目を伏せた。指の間の折れた煙草が、ほんの少しだけ傾く。

 

 ニッカはその横顔を見ないようにして、天井の配管を見上げた。緑のモニターの光が、幕の布越しに淡く滲んでいる。一つの名前が灯ったような気がした。

 

  

 

 搬送の支度が整うまでの間、レジーナは通路の隅へニッカを呼んだ。

 

「鈴木」

 

「……何」

 

「その頬」

 

「平気」

 

「聞き飽きたわ」

 

 ばっさりと切り捨てて、レジーナは自分の端末を取り出した。

 

「渡すものがあるの」

 

 画面に、一本の周波数が表示される。

 

「カブキの闇医療班に繋がる回線。アレンの容態は、そこから直接聞けるようにしておいた。あたしの裏窓口とも繋いであるから、礼のつもりで受け取って」

 

「……別に、いらない」

 

「置いていくわよ。あんたが受け取ろうが、受け取るまいが」

 

 あっさりと言われて、ニッカは反論の言葉を失った。レジーナはニッカの端末へ、周波数を手際よく移していく。

 

「昨夜の波形の記録は、あとでまとめて送って。治療班が経過を比べるのに使うから」

 

「数値だけなら」

 

「それで十分。回路の中身までは、聞かないわ」

 

 引き際の見極めが早い。ニッカは胸の内で、少しだけ息を緩めた。

 

「それと、昨夜の痕跡は全部消しておく。企業にもNCPDにも、グリッチはずっと行方不明のまま。アレンの名前も、外には出さない」

 

「うん」

 

「巡回ルートが急に変わった件、ルーシーから聞いたわ。こっちでも調べておく。たぶん、ただの定期見直しだけど」

 

「……だと、いいけど」

 

「そうね。だと、いいわね」

 

 レジーナは視線を落として、一瞬だけ口を閉ざした。それから、声の調子をいつものものへ戻した。

 

「この件は、あたしがちゃんと覚えとく。あんたが忘れても」

 

「忘れていいなら、忘れる」

 

「そういうところよ、鈴木」

 

 口元を緩めてから、レジーナは声を落とした。

 

「キーウィのこと」

 

「……何」

 

「あの人、知り合いだったんでしょ」

 

「……私からは、言えない」

 

「そう。それでいいわ」

 

 レジーナは頷いて、通路の先に立つキーウィの背を、ちらりと見た。

 

「経過は、あの人にも伝わるようにしておく。あんたの方からも、気が向いたら教えてやって」

 

「……分かった」

 

「いい返事。たまには素直ね、鈴木」

 

「偽名を、嫌味に使わないで」

 

「あら。偽名だって、自覚はあるのね」

 

 からかうような一言を残し、レジーナは搬送の方へ戻っていった。

 

  

 

 担架へ移されるアレンの傍らへ、キーウィが歩み寄った。

 

 作業着姿の二人組が、動きを止めて待つ。誰も急かさなかった。

 

「治るまで、どれくらいかかる」

 

 尋ねたキーウィに、アレンは苦笑した。

 

「さあな。……医者に聞いてくれ」

 

「じゃあ、医者に聞く」

 

「ああ」

 

 短い間のあと、アレンは動かせる左手を持ち上げた。

 

「治ったら、一杯、付き合え」

 

「医者に、酒は止められるだろ」

 

「あんたの煙草も、止められるぞ」

 

「……お互い様か」

 

 キーウィの口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。折れた煙草を握る指が、一瞬だけ強張る。

 

「待ってる。……だから、勝手に消えるな」

 

「約束はしない」

 

「約束しろ」

 

「……努力する」

 

 それが、精一杯の返事だったのだろう。キーウィはそれ以上何も言わず、ただ頷いた。

 

 搬送が始まる直前、アレンの視線が、ニッカへ流れた。

 

「鈴木」

 

「……何」

 

「あんたの本当の名前、いつか聞かせてくれ」

 

「……そのうち」

 

「気長に、待つ」

 

 わずかに笑ったその顔は、獣のものでも、消耗しきった逃亡者のものでもなかった。ただ疲れた、一人の男の顔だった。

 

 担架が通路を運ばれていく。レジーナが先導し、二人組が足音を殺して続いた。裏口の方角へ遠ざかる灯りが、角を曲がったところで見えなくなる。

 

 壁際に並んでいた面々が、それぞれ息を吐いた。

 

「……行ったな」

 

 誰かが呟いた。

 

「ああ」

 

 別の誰かが応じた。しばらく、誰も動こうとしなかった。

 

*

 

 通路の突き当たりで、キーウィが壁にもたれていた。

 

 ニッカは少し距離を置いて、その隣に立った。何を言えばいいのか分からなかったので、何も言わなかった。

 

 かち、と小さな音がした。

 

 ライターの火が、薄暗い通路の一角を橙色に染める。キーウィは折れた煙草の先へ火を近づけ、ゆっくりと吸い込んだ。一晩ぶりの煙が、白く細く立ち昇っていく。

 

「……やっと、まともに吸えた」

 

「折れてたよ、それ」

 

「折れてても、煙草は煙草だ」

 

 紫煙の向こうで、キーウィは目を細めた。

 

「受け取らなかったものを、あんたが拾い上げた」

 

 不意に落とされた一言に、ニッカは隣へ顔を向けた。

 

「……私は、頼まれたことをやっただけ」

 

「頼まれたのは、レジーナだ。あんたが拾ったのは、私が落としたものだ」

 

「大げさ」

 

「そう言うと思った」

 

 自嘲めいた笑いが、煙と一緒に零れた。

 

「礼は言わない。言うと、軽くなる」

 

「いらない」

 

「だろうな」

 

 二人はそのまま、しばらく黙っていた。通路の奥で、触媒コンバーターが一定の拍子で唸っている。いつもと変わらない音のはずなのに、今朝は少しだけ柔らかく聞こえた。

 

 ニッカは、煙の昇っていく先を目で追った。天井の配管に触れる手前で、それは薄れて見えなくなる。

 

「名前を呼ぶっていうのは」

 

 煙を吐きながら、キーウィがぽつりと言った。

 

「案外、重い。……軽く呼べる奴の方が、少ないのかもしれないな」

 

 ニッカは、鈴木と名乗る癖のことを思った。軽く呼べる名前を、自分はいつも先に用意してしまう。それが臆病さなのか用心なのか、自分でもよく分からなかった。

 

「……そのうち」

 

 ほとんど独り言だった。キーウィは何も聞き返さず、煙草の灰を落とした。

 

 その指先が、昨夜よりずっと落ち着いていることに、ニッカは気づいていた。

 

*

 

 食堂へ入ると、湯気と焦げた匂いが同時に鼻を突いた。

 

「……焦げてる」

 

「焦げてねえよ! ちょっと香ばしいだけだ!」

 

 鍋の前で、レベッカが胸を張った。傍らでデイビッドが、無言で皿を並べている。

 

「香ばしさにも限度があるだろ」

 

「てめえは黙って食え、デイビッド!」

 

 いつもの言い争いだった。昨夜まで張り詰めていた空気が、嘘のように解けている。

 

 テーブルの端では、ピラルが椅子にふんぞり返っていた。

 

「で、あのおっさんはどうなった」

 

「治療に回ったって。レジーナの手配で」

 

 答えたのは、端末を抱えたルーシーだった。

 

「ってことは、とりあえず一件落着か」

 

「今のところはね」

 

「なんだよ、含みのある言い方しやがって」

 

「後始末は、まだ残ってるから」

 

 淡々と答えるルーシーの声に、薄く安堵が滲んでいる。昨夜の通信で、一番長く画面を見つめていたのは彼女だった。その疲れが、目の下にうっすらと影を落としていた。

 

 空いた席へ腰を下ろしたニッカの前に、無言で椀が置かれた。

 

 顔を上げると、ドリオだった。

 

「食べなさい。それから、寝る」

 

「……これくらい」

 

「言ってみなさい」

 

 口を開きかけて、ニッカは止まった。ドリオの目が、細まっている。

 

「……やめとく」

 

「進歩したわね」

 

 ドリオは満足そうに頷き、ニッカの頬のテープの端を、指先でそっと押さえ直した。傷に触れる手つきは、驚くほど優しかった。

 

 椀の中身は、いつもの保存食を戻したスープだった。口へ運ぶと、舌の上に温かさが広がる。昨夜から何も入れていなかった胃が、遅れて目を覚ましていくのが分かった。

 

「ニッカ」

 

 向かいで、ファルコが帽子のつばを持ち上げた。

 

「……何」

 

「いや。……よくやった。それだけだ」

 

 短い言葉だったが、声は昨夜より穏やかだった。帽子の下の目が、こちらを見ている。ニッカは頷いて、椀の縁に唇を寄せた。

 

 隣の席へ、ルーシーが端末を滑らせてきた。

 

「昨夜の波形、ログに残してある。数値だけ抜いて、送れる形にしておいた」

 

「……いつの間に」

 

「通信を預かってたから。私にできるのは、こういうことだから」

 

 淡々とした声だった。けれど画面の端には、細かな注記が几帳面に添えられている。ニッカは頷いた。

 

「ありがとう。助かる」

 

「どういたしまして」

 

 それだけ言って、ルーシーは自分の椀へ視線を戻した。

 

「あたしの飯も食えよ、ニッカ!」

 

 レベッカが、焦げた何かを山盛りにした皿を突き出してくる。

 

「……後で」

 

「後でって言って食った奴、見たことねえぞ!」

 

「てめえの飯は、後でって言いたくなる味なんだよ」

 

 ピラルが茶化し、レベッカの怒号が食堂に響いた。デイビッドが額を押さえ、ルーシーがほんの少しだけ笑った。

 

 その騒がしさの端で、キーウィが椅子を引いて腰を下ろした。口には、火のついた煙草がある。誰も咎めなかった。

 

「そういや、起きたんだろ、あのおっさん」

 

 ピラルが身を乗り出した。

 

「ニッカ、なんて名乗ったんだよ」

 

「……」

 

「鈴木だ」

 

 紫煙を吐きながら、キーウィが答えた。

 

「……言わなくていい」

 

「事実だ」

 

 一拍の沈黙のあと、食堂が揺れた。

 

「またかよ!」

 

 レベッカが皿を掲げたまま叫ぶ。

 

「ネタ切れにも程があるだろ! 他にねえのかよ、偽名!」

 

「……癖なの」

 

「癖で済ますな!」

 

 ピラルが腹を抱えて笑い、デイビッドが顔を背けて肩を震わせた。ルーシーまでが、端末で口元を隠している。ドリオだけが、黙ってニッカの椀へおかわりを足した。

 

  

 

 ニッカが寝床へ潜り込んだのは、昼に近い時刻だった。

 

 作業台から持ってきた携行型バッファーを、枕元の棚へ置く。インジケーターは、消えたままだった。放熱板の縁には、まだ微かな焦げの跡が残っている。端子の角度も、熱の逃がし方も、直したい箇所はいくつもあった。

 

 それでも今は、目を閉じることにした。

 

 遠くから、触媒コンバーターの唸りが聞こえてくる。誰かの笑い声が、壁越しにぼんやりと響いた。食堂の方では、キーウィの煙草が、一本ぶんの時間をかけて短くなっていくのだろう。

 

 使い終えた道具が静かなのは、いい眺めだった。次に灯る時が来ないことを、ニッカは少しだけ願った。

 

 願ってから、それが叶いにくい願いだということも分かっていた。この街で、誰かが誰かを呼ぶ声は、きっとまた届く。

 

 それでも、今は眠れる。そのことが、不思議なほど心強かった。まぶたが降りてくる。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

CyberPunk: EDGE CASE(作者:エネーロ)(原作:Cyberpunk2077)

目が覚めたらそこは最悪の街だったーーー▼ふと気づくと2020年代のナイト・シティ。▼体は時代錯誤(2077)のクロームまみれ。能力はMOD基準。▼企業にバレたら実験動物よろしく解剖コース。▼生き残る道を探しながら、ジョニー達と関わっていくことになる奮闘劇。▼本作品は設定作成、本文一部にAIを利用しています。▼


総合評価:3610/評価:8.8/連載:28話/更新日時:2026年07月30日(木) 00:00 小説情報

Good Luck , Raccoon City 【第二部始動】(作者:持麻呂)(原作:バイオハザード)

とにかく自意識の消失という死を受け入れたくなかったVは、蜂の巣にされて死ぬかもしれないという矛盾を抱えながら、単身アラサカタワーに乗り込んだ。▼なんとか《神輿》に辿り着いたものの、ジャックインした瞬間に意識を失ってしまう。▼気付いた時には知らない街のゴミ捨て場にひっくり返っており、職質を受ける始末。▼一先ず死ぬ危機から逃れられたので、今はスローライフを楽しも…


総合評価:3472/評価:8.95/連載:32話/更新日時:2026年07月05日(日) 12:00 小説情報

時計塔にいる、時計塔のマリアさん(偽)(作者:アスタロット)(原作:Fate/stay night)

時計塔のマリアごっこで Bloodborneを周回して、上位者になった主人公さん。上位者パワーで、なんやかんやヤーナムを飛び出した。そんな外の世界で、主人公さんは自由に生きる。※なお、外の世界は型月世界とする。


総合評価:1567/評価:7.29/連載:26話/更新日時:2026年10月18日(日) 15:13 小説情報

アルカンフェル転生(作者:ぶーく・ぶくぶく)(原作:強殖装甲ガイバー)

※本作は作者が読みたい原作改変を自給自足する趣味作です。感想や考察はありがたく拝見しますが、展開は作者の予定と趣味を優先して進めます。▼気が付くとアルカンフェルに転生していた▼お仕置きビリビリは嫌だが、巨大小惑星の衝突は回避しないと地球丸ごと死ぬとか草。▼原作開始まで何万年?忘れない様に石板に覚えてる原作内容を書き込んでおこう。気が付いたら眠りの神殿に石板が…


総合評価:3913/評価:8.56/連載:150話/更新日時:2026年09月07日(月) 17:00 小説情報

チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~(作者:tinko1129)(オリジナル:現代/冒険・バトル)

東京大学理科三類へ落ちた平尾龍は、自分を人間失格と判定し、首を吊ろうとした。▼その瞬間、あらゆる電脳と機械へ絶対命令を下す【電脳神の右手】を獲得する。▼善性なし。社会性なし。コミュ力なし。▼人が人であるための三要素の無い自分は人ではないし生きる価値等無い▼それでも今度こそ理三へ合格し、人間だと証明する。▼そして受験勉強のストレス解消として、正規品の善人共より…


総合評価:4000/評価:8.47/連載:28話/更新日時:2026年09月14日(月) 20:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>