地下の拠点に、久しぶりの静けさが戻っていた。
アレンの容態が落ち着き、後始末もレジーナが引き受けてくれた。慌ただしかった数日は、少しずつ元の速度を取り戻しつつある。誰も口には出さなかったが、束の間の凪を、それぞれのやり方で味わっている気配があった。
もっとも、凪は嵐の合間でしかない。ナイトシティで生きている限り、依頼という名の波は絶え間なく押し寄せてくる。レジーナ経由のものも含め、仕事は以前にも増して絶え間なく舞い込むようになっていた。腕の立つメカニックを抱えたチームの評判は、静かに、しかし確実に広がりつつあるらしい。
朝の格納庫は、いつも通りの顔をしていた。整備台に並んだ工具を確かめるニッカの傍らで、ファルコが車体の点検リストへ黙々と目を通している。遠くでは触媒コンバーターが低く唸り、壁に貼られた依頼予定のメモを、通気口からの風が小さく揺らしていた。地下特有のひんやりとした空気に、油とゴムの匂いが混じり合う。いつもと変わらない朝の輪郭だった。
「今週で、五件目か」
「多いね、最近」
「多い方が、暮らしは楽になる。文句を言う筋合いじゃねえ」
淡々と答えたファルコに、ニッカは小さく頷いた。依頼が増えるのは、拠点の暮らしを支える糧が増えることでもある。そう分かっていながら、胸の奥ではほんの少しだけ複雑な感情が疼いていた。関わらないと誓った街の依頼が、いつの間にか日常の予定表に組み込まれている。
荷室へ工具箱を積みながら、ニッカはふと車体全体を見渡した。古びた塗装の下から覗く継ぎ接ぎの跡は、彼女自身の手で重ねてきた改修の証だった。壊れるたびに直し、直すたびに、この車は少しずつ本来の姿から離れていった。それでも、走ってくれることを疑ったことは一度もなかった。
「今日の依頼、内容は」
「工業地区の資材運搬。単純な仕事だ」
「単純が、一番いい」
軽く返したニッカに、ファルコはわずかに顎を引いた。単純な仕事ほど、油断が生まれやすい。荒野で染みついた警戒心が頭の隅でそう囁いていたが、その囁きの正体に、この時はまだ誰も気づいていなかった。
*
ここ数日の仕事を振り返れば、車に負荷をかけた場面はいくつもあった。
最初の依頼は、ジャンク置き場からの企業部品の回収だった。危険度で言えば低い部類に入る。ただ、荒れた瓦礫の合間を縫う道のりは、車体には決して優しくなかった。深く抉れた轍を踏み越えるたびに、荷室へ積んだ廃棄コンテナの角が内壁を叩いた。
「おい、そっちの荷、揺れすぎだろ」
「そう言うなら、てめえが押さえてろよ!」
助手席のデイビッドと荷室のレベッカが軽口を交わす傍らで、後部座席のニッカは、座面から伝わる細かな振動に神経を向けていた。轍を一つ越えるたびに、金属同士がこすれる鈍い音が、床下から這い上がってくる。
二件目は医療物資の護送で、速度そのものが命綱になる仕事だった。運ばれる誰かの容態を思えば、多少の悪路は踏み越えて進むしかない。
「急いで。保冷が持つのは、あと十分よ」
ドリオの指示に、ファルコは無言でアクセルを踏み込んだ。急停止と急発進を幾度となく繰り返す間にも、ブレーキ周りには負荷が少しずつ積もっていく。それを気にかける余裕は、誰にもなかった。荷室に固定された保冷ケースの中身が無事に届くことの方が、はるかに重かった。
三件目の違法サイバーウェアの受け渡しは、静けさそのものが命綱だった。物陰に車体を潜め、エンジンの回転を絞って息を殺す時間が長く続いた。
「……動くなよ。まだセンサーの範囲内だ」
キーウィの囁きに、車内の全員が呼吸を浅くした。低速のまま粘り強く走り続けることは、見た目以上に駆動系へ負担を強いる。エンジンが喉を鳴らすように回るたびに、行き場のない熱が車体の奥へじわりと溜まっていった。
四件目、小規模ギャングからの荷物奪還では、久しぶりに派手な追走劇になった。
「ヒャッハー! 抜けろ抜けろ!」
「うるせえ、黙って荷室押さえてろ!」
ピラルの叫びに、レベッカが怒鳴り返す。狭い路地を強引に抜け、扉を開け放って応戦しては、被弾を避けて閉める。それを繰り返すうちに、荷室の蝶番の噛み合わせは少しずつ狂っていった。奪還した荷物を運び終えた達成感の裏で、車体だけが静かに疲弊を重ねていた。
どの仕事も、単体で見れば大事には至らない。だが小さな負荷が幾重にも積もった時、車という機械がどんな結末を迎えるか。荒野育ちの整備士なら、誰よりもよく知っている理屈だった。
だからこそニッカは、仕事の後に必ず車を整備台へ載せていた。どの項目も、点検表の許容値には収まっていた。数値に出ない疲労が、その内側に溜まり続けているとは、その時のニッカにもまだ分からなかった。
*
その日の仕事は、工業地区の外れにある保管庫から、拠点近くの中継地点まで資材を運ぶというものだった。荷室には規格外の重量物が積まれ、車体はいつも以上に軋みを上げながら走っていた。
異変に気づいたのは、中継地点まであと数キロという辺りだった。
エンジンの回転音に、これまでとは違う濁った響きが混じり始めている。ハンドルを握るファルコは、わずかに眉根を寄せながらも、アクセルを緩めずに前方を見据えていた。
「……ファルコ、今の音」
「聞こえてる。だが、この辺りで止まるわけにはいかねえ」
短く応じたファルコの視線は、計器盤へ一瞬だけ落ち、すぐに前方へ戻った。助手席のニッカは、座面から伝わる振動に耳を澄ませ、音の出どころを頭の中で探っていく。
「エンジンじゃない。もっと下」
「足回りか」
「たぶん」
二人のやり取りは、それだけで終わった。今は憶測を重ねるより、荷を届けて拠点へ戻る方が先だった。
中継地点で重量物を降ろし終えても、空になったはずの車体は、妙に重たげな音を立て続けていた。拠点へ続く最後の下り坂に差し掛かったのは、その少し後のことだった。
傾斜の先に、地下通路の入り口が見えている。ファルコはギアを一段落とし、エンジンブレーキで速度を殺しにかかった。ブレーキペダルには、できるだけ頼らない。それでも坂が深くなるにつれて、どこかで踏まざるを得なくなる。慎重に足を乗せた瞬間、車体の減速は、思っていたよりも一拍遅れて反応した。
「……今の、ブレーキ」
「反応が鈍い。踏んでから効くまでの間が、長すぎる」
珍しく硬さの滲む声だった。荷室では、揺れのたびに何かが軋む音が続いている。荷室の扉に手をかけたメインが、後ろから声を上げた。
「おい、こっちの扉、また閉まらねえぞ」
「押さえとけ。着くまで持たせろ」
ファルコの指示に、メインは無言で扉を押さえ込んだ。誰も声を荒げなかった。それが、かえって車内の緊張を濃くしている。長年連れ添った機械が、静かに悲鳴を上げ始めていた。誰もが、それを感じ取っていた。
助手席のニッカは、ダッシュボードに軽く手を添えたまま、車体の振動に神経を集中させていた。ハンドルを握るファルコの横顔には、いつもの余裕とは違う、微かな焦りが滲んでいる。荒野からナイトシティまで、この車でくぐり抜けてきた数々の依頼が、ニッカの脳裏にも次々とよぎっていった。
最後の数十メートルを、車はほとんど惰性で進んだ。遅れて効くブレーキを、ファルコはギアとハンドル捌きだけで補い続ける。額に滲んだ汗を拭おうともしない横顔を、ニッカは黙って見ていた。
拠点に滑り込んだ車は、格納庫の定位置でようやくエンジンを止めた。静寂の中に、熱を持った金属が冷えていく微かな音だけが残る。
ドアが開くなり、ニッカは真っ先に飛び降りて、車体の下を覗き込んだ。見える範囲では、まだ何も分からない。
「……ちょっと待って。工具、持ってくる」
言い残して駆け出した背中を、ファルコは黙って見送った。長年共に走ってきた車の異変を、彼自身も薄々察していたのかもしれない。運転席から降りた彼は、しばらくその場に立ち尽くしたまま、ボンネットへそっと手を添えていた。
工具箱を抱えて戻ったニッカは、車体の下へ潜り込み、懐中電灯の光を頼りに一つひとつ確認を始めた。
エンジンマウントの接合部には、金属疲労で細かな亀裂が走っていた。長年の振動を吸い続けた末の、当然の摩耗だった。サスペンションのブッシュは弾力を失い、指で押し込むだけで軋んだ悲鳴を上げる。フレームにも、目には見えにくいわずかな歪みが蓄積していた。荷室の防弾パネルには細かな亀裂が幾筋も走り、内側の配線の被膜は、擦れと熱でところどころ焼け付いている。
被膜の焼け付いた箇所を指先でなぞると、脆くなった表面がぼろぼろと剥がれ落ちた。思っていたよりも、はるかに深刻な劣化だった。これでは、走行中の振動でショートを起こしても不思議ではない。荷室の照明が時折点滅していたのも、単なる接触不良ではなく、この劣化が原因だったのだろう。
ブレーキラインの継ぎ目からは、フルードがじわりと滲んでいた。踏んでから効くまでの間が長かった理由は、これだった。昨夜の点検では、乾いていたはずの継ぎ目だった。重量物と長い下り坂が、最後の一押しになったのだろう。
どれも、単体なら致命的とまでは言えない不具合だった。それなのに、これだけの箇所が同時に限界へ近づいている。ニッカは懐中電灯の光を車体の奥へ這わせながら、ゆっくりと息を吐いた。
バートなら、こんな時どう判断しただろうか。壊れた部品さえ簡単には捨てない人だった。それでいて、直せないものを直せると言い張る人でもなかった。放っておいた機械は、必ず一番悪いタイミングで牙を剥く。あの口癖が、懐中電灯の光の向こうから聞こえた気がして、彼女は小さく苦笑した。
しばらくの沈黙の後、ニッカは車体の下から這い出し、工具を床へ置いた。
「……これ、修理するより、作り直した方が早い」
端的な一言に、格納庫の空気がわずかに揺れた。いつの間にか、ドリオたちも集まってきている。誰もすぐには口を開かなかった。通気口からの風が、壁のメモをかさりと鳴らす。油で汚れた手を布で拭いながら、ニッカは車体を見上げた。長年の酷使を物語る傷跡が、外装のあちこちに刻まれている。
「作り直すって、フレームからか」
「フレームから。土台がもう歪んでる。上に何を積んでも、いずれ同じことになる」
「継ぎ接ぎじゃ、駄目なのか」
尋ねたファルコに、ニッカは首を横に振った。
「継ぎ接ぎは、その場しのぎにしかならない。歪んだ土台の上にいくら補強を重ねても、負荷が別の場所へ逃げるだけ。今度はそこが壊れる」
「モグラ叩き、ってことか」
「そう。しかも、次に壊れる場所が今より安全とは限らない。走行中にフレームごと折れたら、今度は誰かが死ぬ」
淡々とした物言いの中に、譲れない一線があることが伝わってきた。ファルコはしばらく無言のまま車体を見つめている。帽子のつばの下で、彼の目には、これまで見せたことのない静かな寂しさが浮かんでいた。
「……長い付き合いだったが」
押し出すように、ファルコは続けた。
「相棒も、そろそろ引退だな」
その一言には、機械に向けるにしては、あまりに人間くさい響きが混じっていた。荷室の扉を押さえていた手を離し、メインが大きく頷く。
「次の仕事の前に、足をどうにかしねえとな。このままじゃ、車より先に俺たちが死ぬ」
豪快な物言いに、誰かが短く吹き出した。だがその笑いの奥に、誰もが本音として頷ける重さがあることを、その場の全員が理解していた。
ざわめきが、格納庫の中に広がっていった。
レベッカが荷室に手をかけ、軋む蝶番を無造作に揺すった。金属の擦れる音に、彼女は顔をしかめる。
「マジかよ。こいつ、そんなにヤバかったのか。いつ動かなくなってもおかしくねえぞ!」
車体の下を覗き込んだピラルが、口笛を吹いた。
「へへっ、よく今日までもったじゃねえか、こいつも」
「持たせてたのは、ファルコの運転でしょ。普通なら、もっと前に折れてる」
ニッカが淡々と付け足すと、ファルコは帽子のつばを指で押し下げた。返事はなかったが、その口元がわずかに動いたのを、ニッカは見逃さなかった。
車体に手をかけたまま、メインはしばらく黙り込んでいた。荒野の追撃戦でも街での逃走でも、被弾しながら最後まで走り切ったのは、いつもこの車だった。仲間を荷室に押し込み、火花を散らして暗闇を突き進んだ記憶が、脳裏に鮮やかに蘇る。
「……何度、世話になったか分からねえな、こいつには」
誰にともなく漏らした呟きに、ドリオが目を伏せて頷いた。
「そうね。壊れるまで走り切ってくれた。それだけで、十分すぎるくらい」
「次のやつにも、同じだけ働いてもらわねえとな」
軽い口調に戻したメインの言葉に、ドリオが呆れたように鼻を鳴らした。重くなりかけた空気を、あえて崩すような一言だった。
少し離れた場所で、ドリオが腕を組んで車体を見つめていた。
「新しいの、探すしかないってことか」
「そう、なる」
ニッカが頷くと、ドリオは短く息を吐いた。
「維持できる代物であることが、最低条件ね。せっかく新しくしても、また同じことの繰り返しじゃ意味がない」
「分かってる」
実務的なやり取りの傍らで、キーウィが煙草を燻らせながら、車体に視線を這わせていた。
「企業製は、信用できない」
ぽつりと漏らした一言に、誰も異を唱えなかった。長年ナイトシティの裏側を見てきた者の言葉には、それだけの重みがあった。
「装甲だろうが、電子制御だろうが、根っこは同じ企業が作ってる。都合のいい抜け道が、どこかに仕込まれてないとは言い切れない」
煙を長く吐き出してから、キーウィは続けた。
「昔、似たような車に乗せられたことがある。乗り心地は悪くなかった。だが後になって、位置情報が丸ごと抜かれてたと分かった。それで、何人か危ない目に遭った」
具体的な名前も時期も語られなかったが、その声の低さだけで、軽い昔話ではないことが伝わってくる。誰もそれ以上は尋ねず、ただ黙って頷いた。
「だから、企業製そのままで乗るのは、性に合わない」
そう締めくくって、キーウィは煙草をもう一度深く吸い込んだ。
通信室から出てきたルーシーが、事情を聞きつけて格納庫へ足を運んできたのは、その時だった。
「候補を探すなら、ネットワーク周りの対策も一緒に考えないと」
「どういうこと」
ニッカが問い返すと、ルーシーは端末を抱え直した。
「企業製の車両は、大抵バックドアがある。走ってるだけで、位置情報を吸い上げられる可能性がある」
「それ、今の車には、ないのか」
顔をしかめたデイビッドの問いに、ルーシーは車体を一瞥した。
「今の車は、ニッカが手を入れすぎてて、もう原形が分からない。だから安全だった、とも言える。新しい車を入れるなら、同じくらい手を入れる前提で考えないと」
ルーシーの指摘に、ニッカは苦笑した。荒野で拾ったジャンクを積み上げて作り替えた末に、いつの間にか出所不明の代物になっていた。その事実を、改めて突きつけられた形だった。
「……たぶん、そうなる」
短く認めたニッカに、困った顔をする者もいれば、どこか安堵した顔をする者もいた。
デイビッドの脳裏には、母グロリアの記憶がよぎっていた。銃撃に巻き込まれたあの夜、母の命を繋ぎ止めたのは、ニッカが渡した一枚の防護ベストだった。装備一つが命の分かれ目になることを、彼は誰よりも身をもって知っている。車もまた、同じ意味を持つ装備なのだと、今更ながらに思い知らされていた。
「装備なんて、地味なもんだと思ってたけど」
デイビッドのぽつりと漏らした呟きに、隣にいたルーシーが顔を向ける。
「今は、違うの?」
「ああ。地味な装備の出来が、誰かの生き死にを分けることもある」
静かな声でそう答えたデイビッドに、ルーシーはそれ以上何も言わず、ただ小さく頷き返した。
誰もが車体を囲んで思い思いの意見を口にする中、ファルコだけは、輪から少し離れた場所に立っていた。帽子のつばに手をかけたまま、車体の傷跡を一つずつなぞるように見つめている。
この車で、何度仲間を送り届けてきただろうか。荷室に人を詰め込み、被弾を避けながら夜の街を駆け抜けた記憶が、いくつも浮かんでは消えていく。愛車を見送る重みが、胸の奥で静かに疼いていた。
ふと、かつて失った相棒の顔が浮かんだ。
あの頃も、小さな異変はあったのだ。相棒の手が、握ったハンドルの上でいつもよりわずかに震えていた。ただの疲れだろうと、当時の彼は思った。そう思うしかなかった。気づく知識も、頼れる相手も、あの頃の彼にはなかった。それでも、取り返しのつかない結末だけは、今も消えずに残っている。
形見の帽子には、今も相棒の匂いが微かに残っている気がした。錯覚だと分かっていても、手放す気にはなれなかった。震えの兆しを見逃さない。あの日には持てなかった注意深さだけは、二度と失うまいと決めていたはずだった。それなのに、今度は車の異変にすら、気づくのが遅れた。
あの時と同じ轍は踏まない。声には出さなかったが、その決意だけは、はっきりと胸に刻まれていた。
布で手を拭っていたニッカは、その動きを止めた。帽子に手を添えたまま動かない横顔に、彼女はしばらく視線を留めていた。
「……無理をさせすぎた」
誰にともなく漏らしたファルコの呟きに、ニッカは首を横に振った。
「無理させたのは、仕事のせい。あんたのせいじゃない」
「分かってる。分かってるが」
言葉を切ったファルコは、しばらく黙り込んでから、低く続けた。
「気づいてやれなかったのは、俺の落ち度だ」
その声には、単なる機械への未練以上の何かが滲んでいた。ニッカはしばらく何も言わず、車体の傷跡を見つめていた。
「気づいたのは、今日でしょ。手遅れになる前に」
「……そうだな」
「それに、数値に出る前の疲れまでは、私にも拾えなかった。同じだよ」
返事はなかった。ただ、ファルコの肩から少しだけ力が抜けたのが分かった。彼は帽子のつばを軽く押し上げ、それ以上は何も言わなかった。
*
その夜、食堂に集まった面々の間では、新しい車の話題でいつになく賑やかなやり取りが交わされていた。
「装甲車一択だろ! 硬え方が絶対いい!」
レベッカが携行食のスプーンを振り回しながら声を張る。向かいでピラルが、すぐさま茶々を入れた。
「てめえの頭も、硬えもんなあ!」
「うるせえ、硬さは正義だ!」
噛みつくレベッカを笑い飛ばして、ピラルは椅子の背へふんぞり返った。
「俺様は、バラせりゃ何でもいいぜ! ジャンクにできるもんは、全部ジャンクにするんだよ!」
「二人とも、まだ候補すら決まってないのよ」
呆れ気味に割り込んだドリオの一言に、レベッカとピラルは顔を見合わせ、同時に肩をすくめた。それでも口を閉じる気配はなく、軽口の応酬に周囲から笑い声が漏れる。深刻な話の合間に挟まる、いつも通りの賑やかさが、その場の空気を確かに和ませていた。
だが、キーウィは腕を組んだまま、無言で首を振った。
「装甲車だろうがSUVだろうが、企業製なら話は同じだ」
ルーシーも頷いて、端末の画面へ視線を落とす。
「ネットワーク対策、手間がかかりそう」
「維持できるかどうかが、一番の問題ね」
ドリオの一言に、その場の空気が少し引き締まった。誰もが好き勝手な希望を口にしながら、根底にある共通の懸念からは、目を逸らさずにいた。
その傍らで、ピラルが目を輝かせて身を乗り出した。
「なあなあ、新しい車、俺にも配線いじらせてくれよ! 前から一回、丸ごと組み替えてみたかったんだ!」
「あんたに全部任せたら、絶対に変な機能付けるでしょ」
「いいじゃねえか! ちょっとくらい派手な演出があった方が、盛り上がるだろ!」
呆れ半分のニッカの返しにも、ピラルは悪びれず笑い声を上げる。妹のレベッカが、横から頭を小突いた。
「うるせえ、まずは走る車を作るのが先だろうが」
「分かってるって! ちゃんと走った上で、派手にするんだよ!」
軽いやり取りに、テーブルの端からまた笑いが続いた。
「金の話も、そろそろちゃんとしとかないと」
ドリオが続けると、ルーシーが端末を軽く操作しながら答えた。
「今の仕事のペースなら、多少値が張っても払えない額じゃない。ただ、維持費まで含めて考えないと、後で首を絞めることになる」
「維持費って、燃料とか部品とか」
首を傾げたデイビッドに、ルーシーは軽く手を振った。
「それだけじゃない。企業製は、点検も企業の認証工場任せになりがちだから、そこで足がつく可能性もある」
ルーシーの指摘に、ドリオは小さく息を吐いた。
「結局、どこまでいっても、面倒の種は尽きないってことね」
「そういうもんでしょ、この街じゃ」
あっさりと答えたキーウィの声に、誰も反論しなかった。
話がひとしきり落ち着いたところで、ニッカは指を折りながら、条件を頭の中で整理し始めた。
速さだけでは足りない。硬さだけでも足りない。荷物を積めるだけでも意味がない。これまでの仕事を振り返れば、必要な条件は一つに絞れなかった。護送、回収、奪還、隠密。性質の違う依頼をこなすたびに、車に求められるものはその都度違っていた。
「一台で全部満たすなんて、都合のいい話、あるのかな」
思わず漏らした呟きに、答える者はいなかった。それでも、その問いこそが、この先の話し合いの出発点になる気がしていた。都合のいい一台などない。だからこそ、何を諦め、何を残すのか。その選択が、次の相棒の性格を決めるのだろうと、彼女はぼんやり考えていた。
「結局、どんな車が来ても、ニッカが弄る前提なんだろ」
デイビッドが苦笑交じりに漏らすと、レベッカが勢いよく頷いた。
「だな! だったら最初から、ぶっ壊れた鉄くずでも構わねえじゃねえか!」
「それはそれで、ちょっと違う気がするけど」
ニッカが小さく口を挟むと、食堂に軽い笑いが広がった。
食堂の隅でその様子を眺めていたニッカは、レジーナの顔を思い浮かべた。対等な取引を持ちかけてくるあの女なら、顔も広いはずだ。車の当てくらいは、あるかもしれない。
同時に、面倒事がまた一つ増えることへの、往生際の悪い抵抗感も拭いきれずにいた。ただ古い車を一台替えるだけの話が、いつの間にか、これほど大掛かりな騒ぎになっている。
関わらない。そう誓ったはずの一線は、今夜もまた、確かに擦り減っていた。壊れた車一つを手放すだけのことに、こんなにも多くの人間が、それぞれの思いを重ねてくる。荒野のガレージで一人、廃品と向き合っていた頃には、想像すらできなかった賑やかさだった。
「明日、レジーナに連絡してみる」
誰にともなく漏らしたニッカの一言に、メインが満足げに頷いた。
「そうしろ。足がなけりゃ、始まらねえ」
「分かってる」
短く応じたニッカの目の下を、ドリオが黙って見ていた。
「それなら、今夜はもう寝なさい。目の下、ひどいわよ」
「……うん」
返事だけは素直だった。それが守られないことを、ドリオは半ば分かっているような顔で、小さく肩をすくめた。
*
食堂の喧騒が引いた後、ニッカは一人で格納庫に戻ってきた。
工具箱に腰掛け、古い車体のボンネットを指先でそっとなぞる。塗装は日焼けと擦り傷で斑になっていた。ある傷は荒野で、ある傷は街で付いたものだと、指先が覚えている。シートの縫い目には、今も荒野の砂が残っていた。何度払っても、完全には消えなかった砂だった。荒野を走っていた頃から数えれば、何度この車の下に潜り込んできたか分からない。壊れるたびに直し、直すたびに愛着が増していった。そういう積み重ねの果てに、今この瞬間があるのだと、彼女は改めて思った。
新しい車を作るということは、この積み重ねを一度手放すということでもある。寂しさがないと言えば嘘になる。それでも、壊れた足では、誰も生きて帰せない。それは荒野で学んだ何よりも確かな理屈だった。壊れた車の中にも、まだ使える場所はある。バートなら、そう言って真っ先に部品箱の蓋を開けただろう。
格納庫の入り口に、ファルコが姿を見せた。
「まだ、起きてたのか」
「ちょっとだけ。ボンネット、触りたくなって」
「……そうか」
短いやり取りの後、ファルコは古い車体の隣に立ち、しばらく黙って見つめていた。長年の相棒に、心の中でだけ別れを告げているようだった。
「新しいのができたら、名前でも付けるか」
ぽつりと漏らしたファルコの一言に、ニッカは小さく笑った。
「あんたが決めていいよ、それは」
「……考えとくよ」
その返事には、寂しさを少しずつ乗り越えていこうとする、静かな意志が滲んでいた。
二人はしばらく、並んで古い車体を見つめ続けていた。荒野からナイトシティまで、数え切れないほどの依頼をくぐり抜けてきた相棒だった。壊れた足は、もう次の仕事には耐えられない。それでも、この車が刻んできた轍までが消えるわけではないのだと、ニッカは静かに思った。
「……お疲れ様、って言ってやりたいな、こいつにも」
小さく漏らしたニッカに、ファルコはわずかに目を細めた。
「言ってやりゃいい。聞こえてるかどうかは、分からねえが」
二人は同時に、古い車体へ向けて軽く頭を下げた。誰に見られているわけでもない、ただの自己満足だと分かっていながら、その仕草には確かな敬意が込められていた。
二人が去った後の格納庫には、照明の落ちた暗がりの中で、金属の冷える音だけがかすかに響き続けていた。次に何を積み上げるのか、まだ誰にも分からない。それでも、この静かな軋みが、新しい何かの始まりを告げている。そんな予感だけが、闇の底に残っていた。