翌朝、ニッカは通信室の隅に座り込み、端末の画面を睨んでいた。
画面には、レジーナ専用の周波数が開いたままになっている。指を伸ばしかけては引っ込める動作を、これでもう三度は繰り返していた。
夜が明けたばかりの地下は、まだ静かだった。遠くで触媒コンバーターが低く唸り、通気口を抜けた風が、うなじを冷たく撫でていく。昨夜はほとんど眠れなかった。目を閉じるたびに、ブレーキラインの継ぎ目に滲んでいたフルードの鈍い光が、まぶたの裏に浮かんできたからだ。ボンネットにそっと手を添えていたファルコの横顔も、そこに並んでいた。
車を探す。それだけの話だった。依頼を受けるわけではない。誰かに借りを作るわけでもない。ただの買い物だ。
そう言い聞かせている時点で、ただの買い物ではなくなっていることを、ニッカは誰よりもよく分かっていた。往生際の悪さだけが、まだ指先に残っている。
やがて観念して、通話の項目に触れた。
呼び出し音は、二度鳴る前に途切れた。
「鈴木? 珍しいわね。あんたの方から掛けてくるなんて」
「車を探してるの。今のが、駄目になった」
前置きもなく切り出すと、回線の向こうでレジーナが小さく息を吐く気配がした。
「回りくどくないのは助かるわ。どう駄目なのか、聞かせて」
「フレームが歪んでる。継ぎ接ぎで直しても、負荷が別の場所へ逃げるだけ。だったら、土台から新しくした方が早い」
「買い替えね」
「そう。ただ、条件が多い。維持できること。企業の足がつかないこと。それと……まだ、全部は絞れてない」
言いながら、自分でも歯切れが悪いと思った。レジーナは咎めなかった。短い沈黙のあと、どこか面白がるような声が返ってくる。
「絞れていないなら、比べるところから始めましょう。当てはあるわ。今日の午後、そっちに寄る」
「……分かった」
「声が硬いわね。ちゃんと寝てるの」
「寝てる」
「嘘が下手」
それだけ言い残して、通話は切れた。
ニッカは端末を膝に置いたまま、しばらく動けずにいた。契約書も拘束もない取引を口にする女のくせに、こういう時の判断だけは驚くほど速い。こちらが迷っている間に、話の半分はもう決められてしまったような気さえした。
それでも、胸の底に残っているのは、不快さではなかった。新しい相棒を選ぶという行為は、部品を調達するのとは違う重さを持っている。その実感が、この朝になってようやく、輪郭を持ち始めていた。
*
昼を過ぎてほどなく、裏口の扉が軋みもせずに開いた。
「邪魔するわよ、鈴木」
姿を見せたレジーナは、いつものタクティカルスタイルのまま、片手に薄い端末を提げていた。ネオンの色を拒むような地味な装いが、地下の灰色によく馴染んでいる。
食堂では、昼食を終えた面々がすでに席を埋めていた。誰に話した覚えもない。それでも、ニッカが朝から端末を睨んでいたことは、拠点中に知れ渡っていたらしい。
「早速だけど、本題に入るわね」
前置きを嫌う物言いだった。ニッカは頷いて、壁際の空いた場所へ寄る。
レジーナが端末を操作すると、食堂の何もない壁に、粗い投影が浮かび上がった。青白い光が、卓上に残った携行食の包みを淡く照らす。最初に映し出されたのは、重厚な装甲板で全身を鎧った一台だった。
「候補その一。ミリテクの払い下げ装甲車」
「おお!」
真っ先に声を上げたのはレベッカだった。スプーンをくわえたまま、投影へ顔を近づける。
「重装甲に、武装の搭載余地。耐久性は、文句のつけようがないわ」
「だろ! 硬え方が絶対いいって、あたしはずっと言ってたんだ! これに決まりだろ!」
「短所も聞いてから喜びなさい」
レジーナの一言で、レベッカの勢いが目に見えて削がれた。隣の席でピラルが、にやつきながら肘で小突く。
「ほら見ろ。浮かれすぎなんだよ」
「うるせえ、まだ何も言われてねえだろ!」
食堂のあちこちから、小さな笑いが漏れた。レジーナはそれを一瞥しただけで、説明を続けた。
「燃費は最悪。図体が大きい分、どこへ行っても目立つ。維持費も、安くはないわね」
三つ並べられた欠点に、レベッカは腕を組んで食い下がった。
「硬えんだから、多少燃費が悪くたって許せるだろ」
「許せなくなる場面が来た時に困るのが、こういう買い物なのよ」
澄ました声で返され、レベッカは口を尖らせたまま黙り込んだ。
投影が切り替わる。流線型の、よく磨かれた車体が壁に浮かんだ。
「候補その二。コーポ製の高級SUV」
「速そうだな」
デイビッドが身を乗り出す。レジーナは頷いた。
「速度、静粛性、乗り心地。快適さだけなら、三台の中で一番よ」
その言い方に、ドリオが眉を寄せた。
「話がうますぎるわね。裏があるんでしょう」
「鋭いわね。電子制御に深く依存してる分、ハッキングには滅法弱いの。部品も企業の正規ルートを通さないと手に入らないから、維持費は高くつくわ」
率直な答えに、壁際で煙草を燻らせていたキーウィが、鼻で笑うように煙を吐いた。
「電子制御任せの車なんて、走る監視カメラと変わらない」
乾いた声だった。昨日、格納庫で聞かせた昔話が、まだ尾を引いているのだろう。ルーシーが、端末から顔を上げないまま続ける。
「ネットワーク対策を、また一から組み直すことになる」
「それでも、やる価値はあると思う?」
レジーナが水を向けると、ルーシーは少し黙ってから、静かに首を振った。
「価値より先に、手間の方が気になる」
レジーナは肩をすくめただけで、それ以上は勧めなかった。
少し離れた席で、メインが投影の車体を見上げて唸る。
「見た目だけなら、こいつが一番格好いいんだがな」
「見た目に金を払う趣味は、あたしにはないわ」
ドリオに素っ気なく切り捨てられ、メインは何か言い返そうと口を開いたが、結局は苦笑して閉じた。
三台目の投影は、角張った無骨な箱だった。
「候補その三。企業の物流トラック」
「これは、また地味なのが来たな」
ピラルが正直な感想を漏らす。隣でキーウィが、ふんと鼻を鳴らした。
「見た目より、中身が大事な場面もある」
「分かってるっての、それくらい」
むくれるピラルを横目に、レジーナは苦笑気味に続けた。
「積載量は文句なし。部品の供給も豊富で、値段も三台の中では一番安いわ」
「安いのは悪くないわね」
ドリオが短く言うと、レジーナは指を一本立てた。
「ただし、出回ってるのは老朽化した個体ばかり。速度は期待できないし、旋回性能も、褒められたものじゃない」
「つまり、鈍いってことか」
壁際から、ファルコの声がした。それまで黙って投影を眺めていた彼に、周囲の視線が集まる。
「率直に言えば、そうね」
ファルコは頷いただけで、また口を閉ざした。帽子のつばの影が、表情を隠している。
三台が出揃うと、食堂のあちこちから、思い思いの声が上がり始めた。
「やっぱり装甲車一択だろ!」
レベッカが繰り返し、ピラルがすぐさま茶化す。
「お前は、硬えのが好きなだけだろうが」
「悪いかよ!」
「悪かねえけどな。俺様は、どれも一回バラしてみてえ。三台とも、勿体ねえ使い方されてる気がしてならねえんだよ」
悪びれもせず笑うピラルの横で、キーウィが灰を落としながら口を挟んだ。
「企業製は、どれも信用できない。装甲車だろうがSUVだろうが、根は同じだ」
賑やかだった空気が、わずかに引き締まる。ドリオがそれを受けて、短くまとめた。
「結局、維持できるかどうか。そこが一番の問題ね」
誰も反論しなかった。好き勝手な希望を口にしながら、全員が同じ懸念を抱えていることは、言葉にするまでもなかった。
食堂の中央で、レジーナは三台の投影を見比べながら、腕を組んだ。
「正直に言うとね。どれも帯に短し襷に長し、よ。完璧な一台なんて、この街じゃそうそう出回らないもの」
「じゃあ、なんで持ってきたの」
ニッカが尋ねると、レジーナは軽く首を傾げた。
「何も知らずに選ぶより、比べてから選ぶ方がましでしょう。少なくとも、何を諦めるかは分かるわ」
何を諦めるか。その言い回しが、胸のどこかに引っかかった。都合のいい一台などない。昨夜のうちに自分で辿り着いていたはずの結論が、他人の口から語られると、思いのほか重く響く。
食堂が、ほんの一瞬だけ静まった。誰かが吐いた煙の中で、投影の光が揺れている。
「それと、三台とも午前のうちに押さえてあるわ。すぐ動かせる状態でね。気に入ったのがあれば、明日の朝には運び込める」
「……早いね」
「あんたの声が硬かったから。急ぎだろうと思ったの」
その気の回し方に、ニッカは小さく苦笑した。対等な取引を謳うだけあって、こういう場面での手際だけは、いつも確かだった。
少し離れた席で、メインが腕を組んだまま、装甲車の輪郭を見つめていた。
「装甲車を見てると、ミリテクに追われた夜を思い出す」
誰にともなく漏れた呟きに、ドリオが顔を向ける。
「あの夜のこと?」
「ああ。あの時、これだけ図体のでかい車があったら、もう少し違う逃げ方ができたかもしれねえ」
低い声には、好みを超えた実感が滲んでいた。ドリオは何も言わず、そっと肩を寄せる。
「被弾しながら走り切れただけで、御の字だった。次は、そもそも被弾しねえ選択肢があってもいい」
ドリオが小さく頷いた。過ぎた夜の記憶が、今の選択へ重なっていくのが分かった。
煙を長く吐き出してから、キーウィが三台をもう一度見比べた。
「どれを選んでも、企業の息がかかってることに変わりはない」
「じゃあ、あんたならどうする」
ニッカが問うと、キーウィはしばらく黙り込んだ。
「選んだ後で、どこまで手を入れられるか。結局はそこだ。あんたの腕次第ってことになる」
その一言に、ニッカは細く息を吐いた。誰の言葉も、結局は同じ場所へ行き着く。最後にものを言うのは、自分の手でどこまで作り替えられるかという一点だった。
壁際では、ファルコだけがまだ口を開いていなかった。帽子のつばに手をかけたまま、三台の投影を順に見つめている。装甲車の重厚さにも、SUVの洗練にも、視線は長く留まった。トラックの無骨さにも、同じだけ。
「ファルコ。あんたは、どう思う」
ドリオが声をかけた。ファルコはゆっくりと顔を上げる。
「……まだ、決められねえ」
「珍しいわね。あんたが即答しないなんて」
「乗るのは、俺だけじゃねえからな。荷室に誰を乗せるかで、正解は毎回変わる」
食堂に、短い沈黙が落ちた。その言葉の底には、これまで運んできた者たちの重みがあった。ドリオは黙って頷き返した。
ニッカは、ファルコの言葉を頭の中で転がしていた。荷室に誰を乗せるかで、正解が変わる。机の上に並べた数字では、決して出てこない種類の答えだ。
気づけば、食堂の視線が、いくつも自分に向いていた。車を選ぶ最後の一押しまで、メカニックの口から出るのを、皆が待っているらしい。そのことが、少しだけ可笑しく、少しだけ重かった。
「……実際に、使ってみた方がいいのかもしれない」
ぽつりと漏らした一言に、レジーナが端末から顔を上げた。
「試運転、ってこと?」
「ただ走らせるだけじゃ、分からない。本当の仕事に使って、どこが先に音を上げるか見たい。機械は、正直だから」
バートがよく口にしていた言葉が、そのまま口を衝いて出ていた。
「悪くない考えだ」
キーウィが小さく顎を引く。
「机の上で睨むより、現場で分かることの方が多い」
「じゃあ、次の仕事に合わせて、三台とも試すってことか」
メインが確かめるように尋ねた。ニッカは頷く。
「うん。護送の仕事があれば、ちょうどいいんだけど」
レジーナの口元が、ふっと緩んだ。
「ちょうどいいのが、一件あるわ。工業地区の施設から、医療物資を運ぶ依頼。期日は明後日の夕方。悪路が多いし、距離もある。三台を一度に試すには、悪くない条件よ」
「それ、貰う」
「決めるのが早いこと」
レジーナは小さく笑った。
「三台は、明日の朝に運び込んでおくわ。一応、確認しておくけど。三台とも買い取るつもりはないのよね」
「一台だけ。使えなかったやつは、返す」
「そのつもりで押さえてあるわ。代金は、残した一台の分だけ。気に入らなければ、こっちで別の当てを探すだけよ」
ドリオが納得したように頷く。取引の線引きだけは、この女はいつも律儀に守る。ニッカはその一点だけは、信用していた。
「それにしても」
端末をしまいながら、レジーナは面白そうに視線を巡らせた。
「三台同時に運ばせる依頼なんて、あたしも初めてよ。普通は、一台に絞ってから相談に来るものなんだけど」
「絞れなかった」
「絞れないくらい真剣に選びたい、ってことでしょう。悪いことじゃないわ」
あっさりとした評価に、ニッカは曖昧に口の端を曲げるだけで応じた。
「で、装甲車はどうなるんだよ」
まだ諦めきれない顔で、レベッカが口を挟む。
「試してから決める、って話だったでしょう」
ドリオに返されて、レベッカは唇を尖らせたまま渋々頷いた。
「乗ってみりゃ分かるか」
「その意気だ。ぶつけて凹ませるなよ」
ピラルの軽口に、レベッカが肘で小突き返す。重くなりかけていた空気が、いつものやり取りで少しだけほぐれた。
投影を消す前に、レジーナはもう一度だけ、三台の輪郭を見渡した。
「一つだけ、忠告しておくわ」
「何」
「三台とも、企業の在庫台帳から静かに外してもらってる。名目は事故処理。だから乗り回す時は、目立ちすぎないようにね」
「……また、面倒な借りが増えた気がする」
「借りとは言わないわ。取引の一部よ」
澄ました顔で返され、ニッカは返す言葉を失った。
壁の光が消え、食堂が元の灰色に戻る。レジーナは端末をしまって出口へ向かい、扉の手前でふと足を止めた。壁際で煙草をくわえているキーウィへ、視線が向く。
「ああ、そうだ。装甲車の件で、一つだけ」
「……何だ」
「あの払い下げ、ミリテクの旧型部隊が手放した個体なの。企業の払い下げ品は、前の持ち主の癖が残るものよ。あんたの方が、そういう匂いには敏感でしょう」
キーウィの指先が、わずかに止まった。煙草の先で灰が長く伸びていることにも、しばらく気づかない様子だった。
「敏感なつもりはない。ただ、企業の払い下げに、まっさらな履歴が付いてた試しもない」
「でしょうね」
頷いてから、レジーナは声の温度をほんの少しだけ落とした。
「それと、例の経過。次の連絡が入ったら、あんたにも回すわ」
誰のことか、彼女は口にしなかった。キーウィも尋ね返さない。長い沈黙のあとで、短い答えだけが返った。
「……ああ。頼む」
レジーナは何も付け加えなかった。去り際にもう一度だけキーウィの横顔を見て、扉の向こうへ消える。
二人の間に流れたものが何なのか、ニッカには見当がついていた。だから、口を挟まずにいた。
「今の、何の話」
小声で尋ねてきたドリオに、ニッカは少し迷ってから、首を横に振った。
「私からは、言えない。……キーウィの話だから」
「そう」
ドリオは、それきり口をつぐんだ。
*
その夜も、食堂では車の話が尽きなかった。
携行食を頬張りながら、レベッカは装甲車への未練を隠そうともしない。
「護送の日は、絶対にあたしが装甲車に乗るからな」
「乗るかどうかは、まだ決まってないだろ」
デイビッドが突っ込む。レベッカはスプーンを振り回して言い返した。
「決まってねえなら、早いもん勝ちじゃねえか!」
「そういう理屈が通った試しは、ないけどな」
ピラルが茶化し、レベッカは不満げに口を尖らせる。それでも、あちこちから漏れる笑い声に、勢いはいつの間にか削がれていった。
食堂の端の席では、ルーシーが端末を睨み、黙々と何かを打ち込んでいる。
「何、調べてるの」
ニッカが覗き込むと、ルーシーは顔を上げないまま答えた。
「三台の流通経路。レジーナの言葉を疑うわけじゃないけど、念のため」
「そういうところ、キーウィに似てきたね」
「師匠譲りよ、これは」
澄ました声だった。隣の席でキーウィが、煙草をくわえたまま、ふいと視線を逸らした。
ふと見回すと、ファルコの席だけが、いつの間にか空になっていた。重ねられた皿が一枚、きちんと端に寄せてある。黙って席を立ったのだろう。声をかけそびれたまま、ニッカはその空席をしばらく見ていた。
*
明けて翌朝、約束どおりに三台が運び込まれた。
無人の輸送台車が、格納庫の空いた区画へ、一台ずつ車体を降ろしていく。金属が床に触れる重い音が、朝の静けさを割って、広い空間に長く尾を引いた。三台分の見知らぬ油の匂いが、いつもの格納庫の空気に混じり始める。
最初に降ろされたのは、装甲車だった。
ニッカは車体の周りをゆっくり歩き、装甲板の継ぎ目に指を這わせた。溶接の筋は丁寧で、板厚も申し分ない。鋼の感触が、指先に確かな密度を伝えてくる。
「……装甲は、思ったより厚い。防御に全部振り切った設計だね」
「そうだろ! これぞ正義の車だ!」
勢い込んだレベッカの声に、ニッカは表情を変えないまま、車体の下へ潜り込んだ。
しばらくして這い出してきた顔には、微妙な渋さが浮かんでいた。
「足回りの骨格は、頑丈。アームもハブも、この車重を前提に作られてる。ただ、スプリングとダンパーが、重さに追いついてない。旋回で荷重が片側に寄ると、戻りきらないと思う」
レベッカの眉が、ぴくりと寄る。
「……つまり、どういうことだよ」
「狭い路地じゃ、簡単には切り返せない」
「……そこは、目を瞑れよ」
レベッカの声が、少しだけ弱くなる。
傍らで装甲板の裏側を覗き込んでいたピラルが、口笛を吹いた。
「にしても、この鉄板の厚み。剥がしがいがありそうじゃねえか」
「まだ剥がすとか言わないで。まずは、そのまま試す」
ニッカが釘を刺すと、ピラルは不満げに鼻を鳴らしながらも、名残惜しそうに装甲板を撫でていた。
次に降ろされたSUVの周りには、ルーシーとキーウィが先に集まっていた。ニッカはまずボンネットを開け、エンジンルームを覗き込む。
「……エンジンは、素直にいい」
思わず、本音が漏れた。吸気から排気までの取り回しに、無駄がない。冷却ホースの這わせ方も、熱のこもりやすい場所を的確に避けている。
「この冷却系を引いた人、ちゃんと分かってる。……だから、余計に腹が立つ」
「何がだ」
尋ねたキーウィに、ニッカは運転席側のパネルを顎で示した。
「中身は一級品なのに、頭だけが企業の持ち物。もったいない」
パネルを外すと、複雑に絡み合った配線が姿を見せた。
「……綺麗な配線。でも、これ全部、外と繋がってる」
「本社のサーバーと、常時同期する仕様みたい」
ルーシーが端末を覗き込みながら付け加える。キーウィが、煙草を挟んだまま鼻を鳴らした。
「案の定、走る監視カメラだったな」
「切り離せる?」
ニッカが尋ねると、ルーシーはしばらく考えてから頷いた。
「時間はかかるけど、不可能じゃない。ただ、下手に切ると、車の制御まで巻き込みかねない」
その答えに、ニッカは腕を組んだ。洗練された乗り心地の裏にある依存の深さが、想像以上だと分かってくる。
ルーシーは端末を車体のポートに接続し、内部のログを追い始めた。流れていく数値を見つめる目に、いつになく鋭い集中が宿っている。
「……思ったより、監視項目が多い。位置情報だけじゃなく、乗員の会話まで拾う設計になってる」
「盗聴機能付きってことか」
キーウィが低く呟くと、ルーシーは頷いた。
「表向きは、緊急時の安全確認機能。でも、常時起動してる時点で、名目なんてどうとでもなる」
「乗る前から、こんなに嫌な予感がする車も珍しいわね」
ドリオが呆れたように言う。ニッカは運転席のシートに、軽く手を置いた。
「乗り心地は、確かにいい。座るだけなら、三台の中で一番楽」
「性能は認める、ってことか」
「認める。だから余計に、厄介」
キーウィは煙を長く吐いただけで、何も返さなかった。
ルーシーが端末から顔を上げた。
「本社との同期だけは、出発前に物理的に落としておく。それ以上は、時間が足りない。完全な洗浄は、後回しになる」
「それで十分。今回は、素の性能を見るだけだから」
ニッカが頷くと、ルーシーは短く了解の仕草を返し、再びログへ視線を戻した。
最後に降ろされたトラックの荷室を、ドリオとメインが並んで覗き込んでいた。
「積載量だけは、文句なしね」
「フレームも、頑丈そうだ」
メインが荷室の骨組みを拳で叩くと、鈍く重い音が返ってくる。ニッカも車体の下を覗き、溶接部を一つずつ確かめた。使い潰す前提で作られた物流車らしく、剛性には余裕がある。歪みも、亀裂もない。
運転席に乗り込み、しばらくハンドルを握ってから、ニッカは顔をしかめた。
「エンジンが、もう寿命に近い。加速が、ひどく鈍い」
「そこは、直せばいいんじゃねえのか」
「直しても、根本の非力さは変わらない。積める量と動ける速さは、そう簡単には両立しないの」
淡々とした指摘に、メインは小さく唸っただけで、反論しなかった。
荷室の奥では、デイビッドが床板を軽く踏みしめていた。
「これだけ広けりゃ、荷物だけじゃなくて、怪我人を運ぶ時も助かりそうだな」
「悪くない視点」
ニッカが頷くと、デイビッドは少し照れくさそうに頭をかいた。
「母さんを運んだ時、狭い車だと処置がしづらいって、隊員が言ってたのを思い出しただけだ」
その一言で、周囲の空気がわずかに静まった。あの夜の記憶は、今もデイビッドの中に、消えない形で残っているらしかった。ドリオが肩に軽く手を置くと、彼は黙って頷き返した。
「速さは犠牲になるけど、広さが命を繋ぐ場面もある。そういうことね」
ドリオが落ち着いた声でまとめる。メインも腕を組み、同意するように頷いた。
「一長一短ってのは、こういうことか」
誰にともなく漏れたその言葉に、その場の全員が、黙って頷いていた。
三台をひとしきり見て回ってから、ニッカは工具箱に腰を下ろし、三つの車体を見比べた。
装甲車は硬いが、鈍い。SUVは速いが、信用できない。トラックは積めるが、遅い。どれも単体では、何かが決定的に欠けている。一台を選べば、残り二台の長所は手放すことになる。その単純な事実が、思ったよりも重く胸に居座っていた。
明日の護送で、それぞれがどんな顔を見せるのか。それはまだ、誰にも分からなかった。
*
夕刻になっても、格納庫には人の気配が残っていた。
三台が明日には実際の依頼で試されるという実感は、まだ現実味を伴わないまま、それぞれの胸の中で形を探している。やがて一人、また一人と持ち場を離れていった。最後にファルコだけが、装甲車の傍らに残った。
分厚い装甲板に掌を当て、冷えた感触を確かめるように、長いこと動かずにいる。
昔の相棒なら、この重装甲を見て何と言っただろうか。
あの男は、硬さよりも速さを好んだ。荒野を抜ける時には、いつも軽さを優先した。手が震え始めてからもハンドルを離さず、最後まで速さへの信頼を手放さなかった。その背中が、掌の下の冷たい鋼の向こうに、ふと浮かんだ。
あの日、もう少し頑丈な足回りがあれば。あるいは、もう少し慎重な速度を選んでいれば。答えの出ない仮定を、ファルコは何度も胸の内で繰り返してきた。今また新しい車を選ぶ場に立たされて、その古い問いが、形を変えて戻ってきている。
硬さを選ぶべきだったのか。速さを選んだ男は、間違っていたのか。
答えは、出ない。装甲板だけが、掌の下で静かに冷えていた。
足音がして、ファルコは手を離した。工具箱を提げたニッカが、格納庫の入口に立っている。
「まだ、残ってたんだ」
「あんたこそ」
「片付けが、終わったところ」
短く言葉を交わしたあと、ファルコは三台を順に見渡した。
「どれか一台に、決められそうか」
「たぶん、まだ。……あんたは?」
「俺もだ」
それだけ答えて、ファルコはしばらく黙り込んだ。影になった目の色が、いつもとは少し違って見えた。
「明日、運ぶ荷物次第で、答えが変わるかもしれねえ」
「そうかもね」
「だとしても」
言葉を切り、ファルコは装甲車とSUVとトラックを、一台ずつ見つめてから続けた。
「どれを選んでも、あんたの手が入る。それだけは、変わらねえんだろう」
「変わらない」
ニッカの即答に、ファルコはわずかに口の端を上げた。長年連れ添った相棒を見送る寂しさの奥に、小さな期待のようなものが灯っているのを、ニッカは見た気がした。
「なら、いい」
帽子を軽く押し下げて、ファルコは格納庫を出ていった。足音が遠ざかり、やがて触媒コンバーターの低い唸りだけが残る。
ニッカは、しばらく一人で格納庫に残っていた。
照明を半分落とした空間に、三台が黙って並んでいる。装甲車は硬く、SUVは滑らかで、トラックは大きい。どれも、悪い機械ではなかった。それなのに、選ぶという行為は、壊れた物を直すのとは違う重さを持っている。直す作業には、いつも答えがあった。選ぶことには、それがない。何かを手に取れば、何かをその場に置いていくことになる。
何を選び、何を諦めるのか。その答えは、まだ誰の手の中にもなかった。それでも、明日の道のりが答えを少しずつ引き寄せてくれるだろうという感触だけは、どこかにあった。
工具箱の蓋を閉じ、照明を落とす前に、もう一度だけ三台を見渡す。金属の匂いに混じって、微かな油の匂いが漂っていた。明日、この匂いの中から、何かの端が見えてくるのかもしれない。
そんな予感だけを胸に、ニッカは静かに格納庫を後にした。