通気口を抜けてきた風が、地下の格納庫に朝の冷たさを運び込んでいた。
三台の車体は、昨日ニッカたちが調べ尽くしたままの位置に並んでいる。重い影を落とす装甲車。滑らかな輪郭のSUV。無骨な箱型のトラック。夜のあいだ誰にも触れられなかった三台は、知らない土地へ連れてこられた獣のように、どこか居心地悪そうに沈黙していた。
工具箱を提げたニッカが、その前で足を止める。
「今日は、三台とも連れていく」
声を聞きつけたメインが、片眉を上げながら歩み寄ってきた。
「一度に全部か。一台ずつ試す手もあるだろう」
「それだと、道も時間も相手も変わっちゃう。同じ条件で走らせないと、比べたことにならないから」
ニッカは工具箱を床に置いた。
「それに、護送の期日は今日の夕方まで。待ってはくれない」
メインはしばらく三台を見比べていたが、やがて短く息を吐いた。
「無茶を通す時の顔だな、それは」
「無茶じゃない。効率的なだけ」
澄ました声で返すニッカに、メインは苦笑するしかなかった。
「分かった。で、誰がどれに乗る」
ニッカは指を折りながら、順に名を挙げていく。
「装甲車は、レベッカとピラル。荷物より前に立って、睨みを利かせる役」
「おっしゃあ、来たな!」
離れた場所で聞いていたレベッカが、拳を突き上げた。ピラルも口の端を吊り上げて、装甲車の側面を掌で景気よく叩く。
「先頭ってことは、一番目立つ役どころじゃねえか。いいねえ、俺様向きだぜ!」
「目立つのと頑丈なのは、別の話よ」
ドリオが横から釘を刺すと、レベッカは口を尖らせながらも黙り込んだ。
ニッカは次の一台へ視線を移す。
「トラックは、私とファルコ。荷物を積む係」
名を呼ばれたファルコが、帽子のつばに指をかけたまま低く応じた。
「運転は、俺か」
「あんたが一番、ハンドルを握ってる時間が長いでしょ」
その一言に、ファルコはわずかに口の端を上げただけで、何も言わなかった。
「デイビッドも、荷室に乗って。荷崩れを見張る役」
声をかけられて、デイビッドが慌てたように駆け寄ってくる。
「俺で、役に立つのか」
「力仕事になるから。あんたが適任」
背筋を伸ばして頷くデイビッドを見て、ニッカは目元を緩めた。
最後に、視線がSUVへ向いた。
「後ろは、メインとドリオ。電子まわりの監視は、キーウィとルーシー」
キーウィが煙草の先を揺らしながら歩み出る。
「あの車の中身を見張るなら、ちょうどいい配置だ」
「師匠と一緒なら、心強い」
端末を小脇に抱えたルーシーが、静かに付け加えた。キーウィは何も返さず、煙を細く吐いただけだった。
配置が決まると、格納庫の空気にわずかな緊張が混じり始めた。レベッカが装甲車の運転席へ飛び乗り、ハンドルを景気よく叩く。
「よし、この重装甲様の実力、見せつけてやるからな!」
「調子に乗って、ぶつけんなよ。まだ試すだけなんだからな!」
助手席へ滑り込みながら、ピラルが笑い混じりに突っ込む。レベッカは肩をすくめるだけで、意に介さなかった。
トラックの荷室では、デイビッドが空の棚を確かめながら、骨組みを指先で叩いていた。
「これだけ広けりゃ、荷物の心配はいらなそうだな」
「積める量より、走れるかどうかが問題」
助手席のニッカが、背後の小窓越しに答える。デイビッドは苦笑いを浮かべた。
「そこは、あんたが直してくれるんだろ」
「今日は直さない。まず、素の実力を見る」
デイビッドは少し驚いた顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
SUVの運転席では、メインが慎重にハンドルの感触を確かめていた。滑らかな回転に、思わず小さく唸る。
「……こいつは、確かに軽い」
「軽さと引き換えに、何を差し出してるのかは、まだ分からないわよ」
助手席のドリオが、素っ気なく釘を刺す。後部座席では、ルーシーが車載端末のポートへ自分の機材を繋いでいた。
「出る前に、本社との同期は物理的に落としておいた。でも、それ以外の口は、まだ洗い切れてない。だから、常時ログを監視する。何か変な動きがあれば、すぐ分かるはず」
「頼りにしてる」
キーウィが窓の外へ煙を逃がしながら、短く応じた。
トラックの助手席の窓越しに、ニッカはそのやり取りを聞いていた。洗浄を後回しにしたのが自分の判断だったことを、あらためて思い出す。時間が足りなかった。素の性能を見るだけなら、それで構わないと考えた。その考えに、今も間違いはないはずだった。ただ、胸の底に、小さな石のようなものが一つ沈んでいる。
三台のエンジンが、ほぼ同時に目を覚ました。装甲車の重い唸り。SUVの静かな駆動音。トラックの咳き込むような粗い始動音。三つの音が格納庫の壁に反響し、これまでにない賑やかさで空間を満たしていく。
三つの音を助手席で聞きながら、ニッカは短く息を整えた。
「行こう」
短い合図を受けて、三台は列をなし、拠点を後にした。
*
工業地区へ向かう道のりは、拍子抜けするほど静かだった。
荒れた路面を、装甲車が先頭で踏み均すように進んでいく。そのすぐ後ろにトラックが続き、最後尾のSUVは、周囲の気配を拾いながら一定の距離を保っていた。
トラックの運転席で、ファルコはアクセルを踏み込むたびに、わずかに眉を寄せていた。
「……踏んでから、車が動き出すまでの間が長いな」
「エンジンが、もう息切れしかけてる」
助手席のニッカは、足元から伝わる振動に耳を澄ませている。
「でも、まだ普通には走れる。今日は、どこまで保つかを見たい」
「試験台ってわけか」
「……そう。ごめん」
「謝ることじゃねえ。道具ってのは、そのために使うもんだ」
ファルコは前を向いたまま答えた。帽子のつばの影になって、表情は読めなかった。
SUVの車内は、対照的に穏やかだった。路面の凹凸を、サスペンションがほとんど拾わない。窓の外を流れる錆びた街並みが、他人事のように遠く見えた。
「乗り心地だけは、確かに一級品ね。……だから余計に、疑わしいけど」
ドリオが窓枠に肘を預けて呟く。ハンドルを握るメインが、横目で笑った。
「お前は、いつも先に疑うな」
「あんたが先に惚れるからでしょ」
後部座席では、キーウィが窓を少し開けて煙を逃がしていた。
「――乗員の会話まで拾う車だ。心地よさなんて、餌みたいなもんだ」
つぶやくキーウィの横で、ルーシーは何も言わず、画面の上を流れていく数値を見つめ続けていた。
*
目的の倉庫に着くと、積み込みは丁寧に、そして思いのほか時間をかけて進められた。作業服の係員が封印票を一枚ずつ確かめ、医療物資の詰まったコンテナが、一つずつトラックの荷室へ収まっていく。デイビッドが額の汗を拭いながら、積み終えた数を数えた。
「これで、全部か」
「全部。あとは、運ぶだけ」
ニッカが荷室の扉を確かめて答えると、傍らでファルコが小さく頷いた。
「積める量だけは、文句なしだな」
「荷室の広さは、想像以上だった」
胸を張るデイビッドの背後で、荷を受けた車体が、ゆっくりと沈み込んでいく。
その沈み込みの深さに、ニッカは一瞬だけ視線を鋭くした。フレームが頑丈なことは、昨日のうちに確かめてある。けれど、ばねの方は、あまり余力が残っていないらしい。誰にも言わず、彼女はその感触を頭の隅に留めておいた。
検品がすべて終わる頃には、空の色が少しずつ変わり始めていた。
装甲車の周りでは、レベッカが上機嫌に装甲板を撫で回している。
「これだけ硬けりゃ、多少の銃撃なんて怖くねえだろ」
「多少ならな。それ以上は、ただの鉄の棺桶だぜ」
「縁起でもねえこと言うんじゃねえ!」
ピラルがひょいと身を躱す。振り上げられた拳は空を切り、勢い余って装甲板をごつんと叩いた。レベッカは黙って、赤くなった手を振っている。
少し離れた場所で、SUVから降りたメインが、周囲を一通り確かめていた。
「今のところ、変わった気配はない」
「静かすぎるくらいだ」
キーウィが、煙草を挟んだまま短く応じる。ルーシーが端末から目を離さずに続けた。
「回線のログも、異常なし」
その一言に、周囲の空気がわずかに緩んだ。だがキーウィだけは、灰の伸びた煙草を見つめたまま、口元を引き締めている。
「静かなのは、いいことばかりとは限らない」
誰にともなく漏れたその呟きは、乾いた風に紛れて、すぐに消えた。
*
中継施設に着いたのは、期日の夕刻だった。陽がビルの端へ掛かり、街の影が長く伸び始めている。
安全区域に指定された搬入口は、工業地区の荒れ具合が嘘のように整えられていた。白衣の担当者が、コンテナの数を確認しながら、何度も頭を下げる。
「本当に、助かります。この物資が届かなければ、明日の手術がいくつか止まっていたところです」
「無事に着いた。それで十分」
ニッカがそう応じると、担当者は少し面食らった顔をしてから、あらためて深く一礼した。
搬入口の奥では、担架を押した職員たちが、慌ただしく行き交っている。その様子を、デイビッドが荷室の縁に腰かけたまま、黙って見つめていた。担架の上の誰かが通り過ぎるまで、視線を外さなかった。
ニッカは、声をかけなかった。しばらくして、デイビッドの方から小さく息を吐いた。
「役に立てたな、これで」
「うん。立ってた」
「……あとは、帰るだけか」
「そう。帰るだけ」
軽い言葉とは裏腹に、出発してからずっと張り詰めていたものが、ようやく少しだけ緩んでいく。空になった荷室を、ニッカは一度だけ振り返った。
仕事そのものは、思いのほか滞りなく終わった。試すはずだった三台が、まだ何も試されていないような気さえする。その感覚が長くは続かないことを、この時はまだ誰も知らなかった。
*
帰路につく頃には、日はすっかり傾いていた。
装甲車の車内では、レベッカがハンドルを指で叩きながら、上機嫌な鼻歌を止めなかった。
「なあ、この分だと、今日はもう装甲車で決まりみたいなもんだろ」
「気が早えんだよ。まだ何も起きてねえ」
窓の外へ視線を投げたまま、ピラルが応じる。レベッカは唇を尖らせた。
「起きなきゃ起きないで、それが一番いいんだよ」
「そりゃ、そうだけどよ」
軽口の応酬に、車内の空気はまだいくらか緩んでいた。
トラックの荷室では、デイビッドが空の棚に背を預け、揺れる車体に身を委ねている。運転席の背後にある小窓から、前席の二人の声が、かすかに届いてきた。
「行きは、やけに平和だったな」
「平和な方がいい」
ニッカが短く答えると、デイビッドは頷きながらも、どこか落ち着かない様子で荷室の壁を見つめ続けた。ストリートで育った勘が、この静けさの底に、何かを嗅ぎ取っているのかもしれなかった。
工業地区の建物の影が、錆びた路面に長く伸びている。三台の車列は、来た時と同じ隊列を保ったまま、静かに市街地へ戻っていった。
最初の異変に気づいたのは、SUVのルーシーだった。
「……何か、拾った」
端末を覗き込んだまま、声がわずかに硬くなる。キーウィが煙草を灰皿に押しつけた。
「詳しく」
「微弱な信号。こちらの回線を、探ってる」
「本社への線は、切ってあるはずだろ」
「切ってある。だから、これは別の口」
「敵性の反応か」
ハンドルを握るメインの手に、力が籠もった。
「まだ、断定はできない」
ルーシーの答えに、車内の空気が一段と張り詰める。ドリオが窓の外へ視線を這わせながら、低く呟いた。
「静かすぎるとは思ってた」
「思ってたなら、早く言いな」
キーウィの素っ気ない返しに、ドリオは肩をすくめただけで、言い返さなかった。報告は、そのまま無線で前の二台へ回された。応じるファルコの声にも、これまでとは違う硬さが混じり始める。
最初の一撃は、路地の折れ角から放たれた。
装甲車のフロントガラスに、乾いた音を立てて何かがぶつかる。銃弾ではない。潰れた空き缶が、ボンネットの上を転がっていった。威嚇のための一撃だと、遅れて理解が追いついてくる。
「なんだ、今の!」
レベッカが叫び、ハンドルを握る手を強張らせた。ピラルが窓の外へ視線を走らせて、低く呻く。
「バイクだ。数が多いぞ」
路地の両側から、いくつものヘッドライトが同時に灯った。エンジンの唸りが、狭い通りの壁に反響しながら重なり合っていく。光の輪の中に、青白く発光する鬼の顔が浮かび上がる。バイクにまたがった男の腕に彫り込まれた、光る刺青だった。
無線を通じて、ファルコの声が全車両に響いた。
「タイガークロウズだ。数は、少なくとも七、八」
「なんで、こんな場所で!」
背後の小窓から、デイビッドの緊張した声が飛ぶ。ニッカは前を睨んだまま答えた。
「ここ、連中の縄張りの端に掛かってる。……運が悪かった」
言い終えるより早く、装甲車の脇腹に硬い衝撃が走った。
「くそ、当たっても平気だな、これ!」
レベッカが叫んだ通り、装甲板は銃撃を弾き返していた。刃が側面を掠めて耳障りな音を立てても、塗装に細い線が残るだけだ。ピラルが窓の外へ拳を突き上げる。
「どうだ、この硬さは伊達じゃねえだろ! まとめてかかってこいよ!」
だが、その勢いは長く続かなかった。大通りへ抜けるはずの道が、横一列に並んだバイクの光で塞がれている。ファルコの声が、再び無線に響いた。
「正面は塞がれた。左の脇道へ入る。……装甲車、通れるか」
一拍の間があった。
「……やってみせるさ!」
レベッカが強気に答え、ハンドルを切る。直後、車体は路地の壁へ盛大に擦れた。金属の悲鳴じみた音が、狭い通りに響き渡る。
「くそ、切り返しが利かねえ!」
昨日の格納庫で、ニッカが口にした通りだった。旋回で荷重が片側へ寄ると、戻りきらない。足回りの骨格は頑丈でも、ばねとダンパーが重さに追いついていない。分かっていたことが、分かっていた通りの形で起きている。それが少しも慰めにならないことが、ニッカには苦かった。
装甲車の巨体は、狭い路地の中では鈍重な障害物でしかなかった。壁を削りながら、ほとんど歩く速さで進んでいく。その後ろへ、トラックとSUVが数珠繋ぎに詰まっていった。後方では、バイクの群れが、隙間を見つけてはじりじりと間合いを詰めてくる。
「押されてる! 後ろから来やがる!」
ピラルの叫びに、レベッカは歯を食いしばってアクセルを踏み込んだ。装甲板は銃弾を跳ね返し続けていたが、身動きの取れない巨体は、追い込まれること自体を防げずにいた。
前を塞ぐ装甲車の背を睨んでいたファルコの喉の奥に、苦いものが込み上げた。
硬さを選べば、狭い道が牙になる。かつての相棒は、いつもそう言って軽さを選び続けていた男だった。手が震え始めても、最後まで速さへの信頼を手放さなかった。その背中が、脳裏を掠めていく。
硬さを選んでいたら、あの夜は違ったのか。何度も繰り返してきた問いの答えが、目の前で壁を削りながら、鈍く這っていた。硬さは、万能の答えではなかった。それが分かったところで、あの夜が戻るわけでもない。ファルコは、その思いを奥歯で噛み潰した。
「レベッカ、そのまま真っ直ぐ抜けろ! 切り返すな!」
無線へ飛ばした指示に、掠れた声が返ってくる。
「真っ直ぐって、この幅でかよ!」
「擦れてもいい! 止まるよりましだ!」
短いやり取りの後、装甲車は左右の壁へ何度も車体を擦りつけながら、それでも前進を止めなかった。金属の悲鳴が延々と響き続ける。レベッカは奥歯を噛みしめたまま、ハンドルを離さなかった。
その頃、最後尾のSUVの車内にも、静かな異変が忍び寄っていた。
「……何か、来る」
ルーシーの声に、鋭さが混じった。端末の画面に、見慣れないコードの羅列が、次々と流れ込んでくる。
「対抗しろ」
キーウィの短い指示に、ルーシーの指先が忙しく画面を叩き始めた。防壁を組み直す指は速かった。それでも、押し寄せるコードの量が、その速さをわずかに上回り続ける。
「経路が、三つ同時に来てる。発信源は近い。素人の仕事じゃない」
呟きながらも、手は止まらない。一つの経路を塞げば、別の経路が隙間を縫って入り込んでくる。最初からこちらの防壁の形を見透かしているような、執拗さだった。
「駄目、追いつかない」
その一言と同時に、ダッシュボードが不規則に明滅し始めた。ハンドルを握るメインの手に、これまでとは違う抵抗が伝わってくる。
「……重い。制御が」
次の瞬間、メインの意思とは無関係に、ハンドルがわずかに右へ引かれた。
「くそ、乗っ取られてるのか!」
「まだ、完全にじゃない。でも、時間の問題」
ルーシーが端末を睨みつけたまま、掠れた声で答える。ドリオが後ろへ身を乗り出し、窓の外を鋭く見渡した。
「止めるしかないわ。このまま走らせるのは、危険すぎる」
メインは奥歯を噛みしめ、ブレーキに足をかけた。だが、そのブレーキさえ、いつもより一拍遅れて応える。
「利きが、悪い……!」
「電子制御を、丸ごと持っていかれかけてる証拠だ」
キーウィが短く言い切った。
「降りろ。この車は、もう信用できない」
車体を壁際へ擦るように寄せて、SUVが止まった。四人は転がるように外へ飛び出す。振り返ったSUVは、なおも不規則に明滅しながら、誰もいない運転席でハンドルを小刻みに震わせていた。
「……気味の悪い車だ」
ドリオが呟いた声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
その時、背後の闇に、追ってきたバイクのライトが並んだ。先頭の一台が、止まったSUVの前で速度を落とす。無人の運転席。意思を持つように震え続けるハンドル。点いては消える室内灯。バイクの男は何かを言いかけて口を噤み、仲間と顔を見合わせた。
狭い路地を塞いだ車体が、図らずも栓の役目を果たしていた。バイクは、その向こうで足止めを食っている。
メインが腰の無線機を引き抜いた。
「ファルコ、SUVは捨てた。全員無事だ。足で追う」
返事を待つ間も惜しんで、彼は顎で前を示した。
「今のうちだ。走るぞ」
四人は徒歩で、トラックの後を追って走り出した。
装甲車が、ようやく路地を抜けきった。車体の側面には無数の擦過傷が刻まれている。だが出口の先の大通りでは、回り込んだバイクのライトが、すでにいくつも待ち構えていた。
「くそ、いつまで纏わりついてくる気だ!」
レベッカが吐き捨てると、ピラルが窓から身を乗り出して応じた。
「重すぎて、振り切れねえんだよ! この図体じゃな!」
「うるせえ、分かってる!」
硬さこそ健在でも、狭い市街地では、その巨体そのものが枷になっていた。
トラックは、装甲車の背に隠れるようにして、路地の出口でいったん足を止めていた。足で追うと告げたメインの声が、まだ無線に残っている。
「待つ」
ファルコの短い一言に、ニッカは計器から目を離さずに言った。
「待つのはいい。でも、こいつは止まってる間も熱を溜める。長くは無理」
「どれくらいだ」
「……五十。五十数えるあいだなら」
「十分だ」
ファルコは前を見据えたまま、低く数を数え始めた。無線の向こうへ、続けて声を飛ばす。
「レベッカ、そこで壁になれ。動くな」
「任せろ。的なら、さっきからずっとやってる!」
「ハハッ、的の才能なら世界一だぜ、お前は!」
「うるせえ! てめえは黙って撃ってろ!」
ピラルの笑い声と、レベッカの怒声が、無線の中で重なった。そのあいだにも、銃弾が装甲板を叩く音は、絶え間なく続いている。
メーターの針が、じりじりと赤い領域へ寄っていく。エンジンの奥から、油の焦げる匂いが立ち昇ってきた。
「……二十」
ファルコの声が、低く落ちる。
誰も、口を開かなかった。装甲板を叩く音と、エンジンの荒い息遣いだけが、運転席の闇を満たしている。サイドミラーの中で、ヘッドライトの群れが、円を描くように位置を変えていた。
「三十」
ニッカは、針から目を離せなかった。あと二十数える間に、四人は来るのか。来なければ、どうするのか。答えのない問いが、喉の奥で熱を持つ。
「四十」
路地の奥に、人影が見えた。先頭を走るのは、メインだった。ドリオとキーウィとルーシーが、その後ろに続く。四人の背後で、乗り捨てられたSUVの白い光が、不規則に明滅していた。
「乗れ、急げ!」
ファルコの声に、デイビッドが荷室の扉を内側から押し開ける。メインが飛び乗り、手を伸ばしてドリオを引き上げた。キーウィとルーシーが、最後に転がり込む。扉が完全に閉まりきるのを待たず、ファルコはアクセルを踏み込んだ。
四十七。数え終えるには、まだ三つ残っていた。
装甲車がその背後へ滑り込み、追いすがるバイクの鼻先を、巨体で塞いだ。サイドミラーいっぱいに、ライトの群れが映り込んでいる。
「重い……! 車が、沈んでる!」
荷室の小窓から、デイビッドの叫びが飛んでくる。ファルコは短く言い返した。
「贅沢言うな。今は、これで走りきるしかねえ」
エンジンの音が、次第に濁った響きへ変わっていく。金属同士が擦れ合うような、これまで聞いたことのない音だった。ニッカは眉根を寄せ、計器へ視線を走らせる。
「……まずい。軸受けの油膜が、熱で薄くなってる。油膜が切れたら、軸と受けが直接こすれて、一気に焼き付く。そうなったら、もう動かない」
焦るほど、口が早くなる。分かっているのに、止められなかった。
「要するに、どうなる」
ファルコの問いに、ニッカはようやく言葉を切った。
「……このまま走ると、焼き付く」
「どれくらい保つ」
「分からない。長くは、無理」
短い答えに、ファルコは口を結んだまま、それでもアクセルを緩めなかった。荷室には、仲間の命が積まれている。足元では、悲鳴を上げ続ける機械が震えていた。どちらかを選べる状況ではなかった。
ニッカは足元の振動に神経を集中させた。荒野で染みついた癖が、音と揺れだけで内部の状態を読み取っていく。軸受けが、限界に近い熱を持ち始めている。もう少し無理をさせれば、焼き付いて動かなくなる。その一線が、刻一刻と近づいてくるのが分かった。
「あとどれくらい、保たせられる」
もう一度尋ねたファルコに、ニッカは短く答えた。
「保たせられる保証は、ない。……あとは、こいつの機嫌次第」
珍しく歯切れの悪い返答に、ファルコは短く息を吐いただけだった。
大通りの先、高架の橋脚に、虎の爪痕を模した落書きが見えた。赤黒いスプレーの線は、橋脚を境にぷつりと途切れている。その向こうには、白い街灯が連なっていた。
バイクの群れは、線の手前までしつこく追走を続けた。やがて一台、また一台と速度を落としていく。闇の中へ引き返していく背中を、ニッカは助手席のミラー越しに見送った。
線を、越えたのだ。ただそれだけのことで、追う者と追われる者の関係が、あっさりと終わった。
「……離れた、か」
装甲車の運転席で、レベッカが荒い息を吐きながら呟く。ピラルも肩の力を抜き、シートに深く沈み込んだ。
「勝ったってより、逃げ切っただけって感じだけどな」
「……生きて帰れりゃ、それで十分だろ」
珍しく殊勝な物言いに、ピラルは茶化す言葉を探して、結局やめた。
トラックの荷室では、詰め込まれた面々が、ようやく詰めていた息を吐き出していた。壁にもたれたドリオが、小さく笑う。
「これで全員、無事ってことでいいのかしら」
「たぶん」
運転席の小窓の向こうから、ニッカが答えた。荷室の隅で、キーウィが煙草を取り出した。火をつけかけて、結局そのままポケットへ戻す。
「揺れがひどすぎる。今は、我慢だ」
その一言に、荷室へ小さな笑いが広がった。張り詰めていた空気が、少しずつほどけていく。
拠点への道を戻る間、エンジンはくぐもった音を立て続けていたが、止まることなく走り抜いた。裏口へ滑り込んだ車体が完全に停止すると、ファルコは深く息を吐き、ハンドルから両手を離そうとした。
指が、すぐには開かなかった。長いこと握り締めていたせいで、関節が強張っている。ファルコは自分の手を見下ろした。震えてはいない。ただ、固まっているだけだ。そう確かめてから、ゆっくりと握り直し、そっと離した。
「……着いたか」
「着いた」
ニッカが短く答え、荷室の扉を開けに向かう。詰め込まれていた面々が、次々と地面へ降り立った。
*
格納庫に戻ったのは、二台だけだった。装甲車の側面には無数の擦過傷が刻まれ、トラックのボンネットからは、まだ薄く煙が立ち昇っている。三台目の区画だけが、がらんと空いていた。
誰もが、しばらく無言のままだった。
「装甲車、硬さだけは本物だった」
レベッカがぼそりと呟くと、ピラルが疲れた声で付け加えた。
「だが、あの路地じゃ、ただの的だったけどな」
ニッカは装甲板の擦り傷を指先でなぞりながら、静かに頷いた。
「硬さは、期待通りだった。でも、重さの代償は、想像以上」
レベッカは何も言い返さず、黙って装甲車の傷を見つめ続けていた。その背へ、メインが大きな掌を置く。
「お前らが前で受けてくれたから、後ろが生きて帰れた。それは忘れるな」
「……おう」
短い返事が、いつもより小さかった。
空いた区画へ目をやったメインが、腕を組んだまま低く唸る。
「あの車は、論外だ。乗っ取られかけた車に、二度と命は預けられねえ」
ルーシーが端末を確かめ、静かに答える。
「位置情報だけは、まだ拾えてる。あの場所から、動いてない。回収は、明日にでも手配する」
最後に、皆の視線がトラックへ集まった。ニッカがボンネットを開け、まだ熱の残るエンジンを覗き込む。
「……これ、あと一回無理させたら、本当に壊れてた」
その報告に、デイビッドが小さく息を呑んだ。
「積める量は、文句なかったけどな」
「うん。でも、速さが足りなすぎる」
その言葉に、誰もが黙り込んだ。三台とも、それぞれの見せ場を持ちながら、同時にそれぞれの致命的な綻びを晒していた。
肩の擦り傷に布を当てていたドリオが、小さく息を吐いた。
「結局、無傷で帰ってこられた車は、一台もなかったってことね」
「無傷どころか、一台は置いてきたけどな」
キーウィが、ようやく煙草に火をつけながら、乾いた声で付け加えた。ルーシーは端末を抱えたまま、悔しさの滲む声で呟く。
「私の防壁が、もう少し速ければ」
「責めるな。あの車は、出す前から穴だらけだった」
「洗浄を後回しにしていいって言ったのは、私」
ニッカが言葉を挟むと、キーウィは煙を吐いたまま、ちらりと視線だけを寄越した。
「決めたのはあんたでも、止めなかったのは私たちだ。あんた一人の落ち度にするな」
ニッカは、それ以上何も言えなかった。ルーシーも、小さく頷いただけだった。
擦り傷だらけの装甲車の側面を、レベッカが名残惜しそうに撫でていた。
「硬いは硬いままだったんだけどな。狭い道じゃ、宝の持ち腐れかよ」
「持ち腐れっつうか、足が遅すぎたんだよ、そもそも」
ピラルが茶化すように返すと、レベッカは肘で小突き返した。いつものような勢いは、戻ってこなかった。
しばらくの沈黙の後、格納庫の隅に立っていたファルコが、ぽつりと口を開いた。
「……速いだけじゃ、駄目だ」
誰も口を挟まなかった。ファルコは装甲車を一瞥し、続けた。
「硬いだけでも、駄目だ」
視線が空いた区画へ移り、それからトラックへ戻る。
「荷物だけ積めても、意味がねえ」
言葉少なな述懐には、これまでの後悔と今日一日で得た確信が、静かに滲んでいた。誰かを守るための車は、たった一つの長所だけでは成り立たない。そのことを、彼は身をもって思い知ったばかりだった。
ニッカは、擦り傷だらけの装甲車と空いたままの区画と煙を上げるトラックを、順に見渡した。
硬さは、速さを殺す。速さは、脆さを招く。積める量は、機動力を奪う。三つの美点が、互いの首を絞め合っているような構図だった。
こういう時、バートなら何と言っただろう。壊れた部品を前にするたび、あの人は決まって何かを口にしていた。思い出せそうで、思い出せない。言葉の端だけが、指の先を掠めては遠ざかっていく。
工具箱の取っ手を握り直しながら、ニッカは装甲板へそっと指を這わせた。擦過傷のざらつきが、指の腹に引っかかる。今日一日、この車体が受け止め続けた衝撃の跡だった。
格納庫の照明が、疲れきった二台の車体を、いつもより淡く照らし出している。誰も、答えを持っていなかった。
*
夜も更けた頃、格納庫に人影はほとんど残っていなかった。工具を片付け終えたニッカは、照明を半分だけ落として、工具箱に腰を下ろした。
傷ついた二台の車体と、空いたままの区画。昨日と同じ三つの輪郭を、頭の中で並べ替える。硬さ。速さ。広さ。どれか一つを選べば、残りは手放すことになる。その結論が、何度並べ直しても、同じ場所へ戻ってきた。
トラックのボンネットが、冷えていく音を立てた。かちり、かちりと金属の縮む音が、静まり返った空間へ一つずつ落ちていく。
擦過傷の刻まれた装甲板。あと一歩で焼き付くところだったエンジン。誰もいない運転席で震え続けていたハンドル。今日見たものが、ばらばらのまま瞼の裏に並んでいた。バートの言葉は、まだ思い出せない。
目を閉じる。ほんの少しだけ、休むつもりだった。