いつの間にか眠っていたらしい。
通気口を抜けてくる風が、朝の冷たさに変わっていた。工具箱に腰掛けたまま壁へ凭れていたせいで、首の後ろが鈍く痛む。照明は半分落としたままだった。夜のあいだ、誰も消しに来なかったということだろう。
目の前には、昨夜と同じ光景があった。擦り傷だらけの装甲車。焦げた油の匂いをまだ残したトラック。そして、乗り捨てた路地から戻らないSUVの、がらんと空いた区画。一晩置いたところで、傷が軽くなるわけではない。昨日の喧騒が嘘のように、格納庫はいつもと変わらない顔で静まり返っていた。
ニッカは座り直し、二台と一つの空白を順に眺めた。
硬さと、速さと、積載量。どれか一つを選べば、残りは諦めることになる。昨夜は、何度並べ直してもそこへ戻ってきた。けれど今朝は、頭の中の静けさが違っていた。焦りでも、諦めでもない。何かがゆっくり像を結ぼうとしている、その手前の感触だけが、胸の奥に居座っている。
バートの声が、不意に耳の奥で蘇った。
『捨てる前に探せ。まだ使える場所は、必ずどこかにある』
昨夜は指先を掠めるだけで遠ざかっていた言葉が、今はすんなりと形になっていた。続きがある。ニッカは目を細めた。
『丸ごと拾うか、丸ごと捨てるか。二つに一つで考えるのは、素人のやり方だ』
幼い頃、何百回と聞かされた台詞だった。壊れた部品を前にするたび、あの人は同じことを口にしていた。ただ、その言葉を車一台に当てはめたことは、今まで一度もなかった。
視線が、装甲車の足回りからSUVの空白へ移り、トラックの荷室へと流れていく。頭の中で、三つの輪郭が少しずつ重なり始めた。硬さの上に速さを乗せ、さらにその上へ、広さを重ねる。思いつきにすぎなかった像は、輪郭を得るごとに確信へ変わっていった。
脳裏に浮かんだのは、幼い頃にガレージの隅で見た光景だった。壊れた三台のバイクから、バートが一台の走るバイクを組み上げた日のこと。フレームはこっち、エンジンはあっち、タンクはまた別の一台から。継ぎ接ぎだらけの見た目に幼い自分は顔をしかめたが、走り出したその一台は、元のどのバイクよりも力強かった。あの時の驚きが、今また同じ形で胸の奥から込み上げてくる。
ニッカは立ち上がった。口元に、小さな笑みが浮かぶ。
「……そっか」
誰に聞かせるつもりもない呟きが、静まり返った格納庫に落ちた。
朝食を終えた面々が格納庫に集まってきた頃には、ニッカはすでに三台の前に立っていた。顔を洗う暇も惜しんだせいで、頬には昨夜のオイルの跡がまだ残っている。
「全部、使えばいい」
唐突な一言に、周囲の会話がぴたりと止まった。デイビッドが工具を持ったまま、間の抜けた声を漏らす。
「……は?」
「三台とも、足りないところがある。だったら、足りない分を他の二台で埋めればいい」
ニッカは装甲車を指差した。
「足回りの骨格と、防弾装甲。これは、ここから」
視線がトラックへ移る。
「フレームと、荷室。これは、ここから」
最後に、空いたままの区画へ目を落とした。
「エンジンと、電子制御と、冷却系。回収できたら、そこから」
言い終えても、しばらく誰も声を出さなかった。最初に口を開いたのは、メインだった。
「三台まとめて解体して、一台にするってことか」
「そう」
「言うのは簡単だが、やるとなると」
「大掛かりになる。分かってる」
被せるように答えたニッカの声には、迷いの色がなかった。
「あの装甲車の足回り、骨格だけなら満点。アームもハブも、重さ前提で作ってある。足りないのは、ばねとダンパーだけ。それも、車体が軽くなれば要求が変わる。トラックのフレームは剛性に余裕があるから、荷重の通り道を引き直せば、そのまま骨になる。SUVのエンジンなんて、あんなに素直に回るのに、頭だけ企業の持ち物なのが勿体なくて」
「待って」
ドリオが片手を上げて遮った。
「途中から、半分も分からなかったんだけど」
「……要するに、いいとこ取り」
早口になっていたことに気づいて、ニッカは咳払いを一つした。
格納庫の奥から、ピラルの声が弾けた。
「おいおい、最高じゃねえか! 三台まるごと弄っていいってことだろ!」
「喜ぶのは、段取りを聞いてからにしなさい」
ドリオに釘を刺されても、ピラルの笑みは崩れない。
「聞かなくたって分かるぜ。面白えに決まってる!」
その横から、レベッカが一歩前へ出た。腕を組み、いつもより低い声で口を開く。
「おい、ニッカ。装甲板は、残るんだろうな」
昨日、擦り傷だらけの装甲車を名残惜しそうに撫でていた背中を、ニッカは思い出した。
「残る。一番硬いところは、そのまま使う。ただ、全部は載せない。要所と、荷室の周りだけ」
「……硬いとこだけ、ってことか」
「硬くていい場所に、硬いものを置く。それだけ」
レベッカは数秒だけ黙り込み、やがて口の端を吊り上げた。
「……よっしゃ。それなら、文句ねえ」
「お前は、硬けりゃ何でもいいんだろ」
にやつきながら茶々を入れたのは、ピラルだった。
「うるせえ! てめえは黙って配線でもいじってろ!」
ピラルを肘で小突くレベッカの声には、昨日までなかった張りが戻っていた。その勢いに押されるように、周囲の空気が少しずつ変わっていく。
「回収は?」
尋ねたドリオに、ルーシーが端末を見せながら答えた。
「乗り捨てた場所、まだ動いてない。明け方に、レジーナ経由で牽引の手配をしておいた」
「手回しがいいこと」
「待つ理由が、ないから」
澄ました声で返すルーシーの隣で、キーウィが煙草の先を軽く揺らした。
「乗っ取られかけた車体だ。中身は、当然丸ごと洗い直す」
「うん。今度は、走らせる前に」
ルーシーの答えに、ニッカは視線を向けた。昨日、洗浄を後回しにしたのは自分の判断だった。その事実を、ルーシーも同じ重さで抱えている。
「順番は、今度こそ間違えない」
「……うん」
交わした言葉は、それだけだった。それで足りた。
*
昼過ぎ、無人の牽引車が、乗り捨てた路地から回収したSUVを裏口へ運び込んできた。荷台から降ろされた車体は、あの夜のまま、誰も座らない運転席でハンドルを小刻みに震わせている。
「……まだ、動いてるな」
メインが眉をひそめると、ルーシーはすぐさま端末を車体のポートへ繋いだ。
「大丈夫。今、中身を止める」
指先が画面の上を滑るたび、明滅していたダッシュボードの光が一つ、また一つと落ち着いていく。やがて、車体は完全に沈黙した。ハンドルの震えも、止まっている。
「……終わった」
息を吐いたルーシーの肩に、キーウィが軽く手を置いた。
「上出来だ」
「師匠のおかげ」
短いやり取りに、二人の間の信頼が滲んでいた。ドリオがボンネットを開け、中を覗き込んで口笛を吹く。
「エンジンは、無事そうね」
「電子制御も冷却系も、洗えば使える。欲しいのは、その三つ」
ニッカが答えると、周囲の緊張がようやく緩んだ。乗っ取られかけた車の中から、次の相棒の心臓を取り出す。皮肉な巡り合わせだと、誰もがどこかで感じていた。
夕刻、裏口の方から聞き慣れた靴音が近づいてきた。
「様子を見に来たわよ、鈴木」
格納庫に入ったレジーナは、三台の残骸を順に見渡し、口の端を上げた。
「返品の相談に来たつもりだったんだけど。この分だと、聞くまでもなさそうね」
「ごめん。三台とも、バラす。返せない」
「でしょうね」
あっさり返されて、ニッカは拍子抜けした。
「怒らないの」
「怒る理由がないもの。台帳の上じゃ、三台とも事故で廃車扱い。形が残ってない方が、こっちも都合がいいわ」
レジーナは肩をすくめ、薄い端末を取り出した。
「代金は、三台分で出し直す。請求書は後で回すわ。ぼったくりはしないから、安心して」
「……それなら、いい」
「牽引のついでに、これも拾っておいたの」
差し出された画面には、細かな寸法表が並んでいる。
「SUVの冷却ホースの規格表。正規ルート以外じゃ、まず出回らない代物よ。役に立つでしょう」
「……ありがとう」
珍しく素直な礼に、レジーナは意外そうに目を見開いた。
「素直に礼を言われると、調子が狂うわね」
「今回だけ」
澄ました顔で返すニッカに、レジーナは小さく笑った。あとは何も言わず、来た時と同じ足取りで裏口へ戻っていく。取引の線引きだけは、この女はいつも律儀に守る。その一点は、信用していた。
去っていく背中を見送ってから、ニッカは端末の寸法表をもう一度見た。ホースの内径。耐熱の上限。曲げ半径。この三つが揃っていなければ、狭いフレームの中へ冷却系を這わせることはできなかった。口には出さないが、確かに助けられていた。
「役割分担、決める」
ニッカの声に、格納庫のざわめきが収まった。指を折りながら、彼女は順に名を挙げていく。
「重量部品の運び出しは、メイン」
「任せろ」
「溶接は、ドリオ」
「腕によりをかけるわ」
「配線の加工は、ピラル」
「へへっ、待ってましたぜ!」
「ECUの書き換えと通信保護は、キーウィ」
「面倒事は、いつも私に回ってくる」
煙草を挟んだまま、キーウィは肩をすくめた。
「ネットワークの遮断と電子戦対策は、ルーシー」
「任せて」
「塗装と武装の取り付けは、レベッカ」
「よっしゃあ!」
「デイビッドは、力仕事と私の補佐」
「分かった」
最後に、ニッカの視線はファルコへ向いた。
「最終調整と、ハンドルの取り付け。それから、試運転は、あんた」
名指しされたファルコは、帽子のつばに指をかけたまま、一拍だけ黙り込んだ。
「……俺で、いいのか」
「走らせた時に車の声を一番拾えるのは、あんた。あんた以外に、任せられない」
ファルコは目を細めた。何か言いかけて、結局、頷くだけに留めた。
*
その日から、格納庫には昼夜を問わず、金属を打つ音と溶接の火花が絶えなくなった。
メインは装甲車の足回りを、太い腕一本で担ぎ上げていた。本来は数人がかりで動かす重量物だが、彼一人で事足りることの方が多かった。
「おい、この足回り、どこに据える」
「そこに置いて。位置は、後で合わせる」
短いやり取りを交わし、メインは額の汗を拭った。装甲車の重厚な骨格が、トラックのフレームへ少しずつ据え付けられていく。
「……妙な感覚だな。三台の骨が、一台にくっついていくのを見るのは」
漏らした呟きに、隣で作業していたドリオが顔を上げた。
「気持ち悪い?」
「いや」
メインは首を振った。
「供養みてえなもんかもな。役目を終えた三台が、次の一台に命を継いでいくみてえで」
「あんたにしては、詩的なこと言うのね」
「らしくねえのは、分かってる」
照れくさそうに頭をかいた横で、溶接の火花が青白く弾けた。
ドリオの溶接は正確だった。装甲板の継ぎ目を丁寧になぞり、フレームとの接合部を一つずつ焼き固めていく。火花の熱が防護面越しに頬を炙っても、手はぶれない。
「継ぎ目、こんな感じでいい?」
「うん。強度は、申し分ない」
ニッカが確かめると、ドリオは面を上げて額の汗を拭った。
「装甲板って、こんなに重いのね。運ぶだけで一苦労」
「メインがいたから、助かった」
「あの馬鹿力だけは、頼りになるわ」
軽口の脇で、腕を組んだレベッカが、焼き固められていく装甲板をじっと見つめていた。
「……ちゃんと、使ってくれんだな」
「あんたが惚れた硬さよ。捨てるわけないでしょ」
ドリオの返しに、レベッカは鼻の下を擦って視線を逸らした。
ふと、ドリオの目が、少し離れた場所で黙々と作業を続けるファルコの背中へ向いた。
「あの人、ずっとあの調子?」
「たぶん。試運転の相棒だから」
ニッカの答えに、ドリオは何も続けなかった。ただ、面を下ろす前に、もう一度だけファルコの背中を見ていた。
配線の加工は、ピラルの独壇場だった。伸縮する義手を巧みに操り、絡み合った配線の束を、驚くほどの速さで整理していく。
「見ろよニッカちゃん、この取り回し! SUVの奴、無駄が多すぎんだよ!」
「知ってる。前から思ってた」
「だろ! 全部、俺様が最短距離に組み直してやる!」
得意げに笑う手元で、複雑だった配線がみるみる整然とした束に変わっていく。
「おい、遊んでねえで手え動かせ」
通りかかったレベッカが、後頭部を小突いた。
「遊んでねえよ! これは仕事だ、仕事!」
「口動かす暇があるなら、あと三本片付けろ」
「うるせえな、分かってるって!」
軽口を叩き合いながらも、ピラルの手は一度も止まらなかった。口の悪さとは裏腹の、確かな職人の手つきだった。
半日後、仕上がった配線を検めていたニッカの手が、一本の枝線の前で止まった。見覚えのない小さなスイッチが、ダッシュボードの裏へ引き込まれている。
「これ、何」
「あー……ホーンの音色切り替え、的な?」
「何種類」
「三十」
「外して」
「待てって! せめて一種類だけ! 景気のいいやつを一個だけ残させてくれよ!」
「外して」
淡々と繰り返すと、ピラルはがくりと肩を落とした。
「……ちくしょう。ちゃんと走った上で派手にする、って言ったじゃねえか……」
「走ってから言って」
工具を握り直した義手が、名残惜しそうにスイッチの根元を外していく。
キーウィのECU書き換えは、格納庫の隅で進められていた。煙草の煙を燻らせながら、画面に流れるコードを一行ずつ読み解いていく。
「この車、企業製の残骸から生まれるわけだ。皮肉なもんだね」
漏らした呟きに、隣で端末を覗き込んでいたルーシーが顔を上げた。
「皮肉?」
「監視のために作られた仕組みを、監視から逃れるために組み替える。……そういう意味さ」
答えながら、キーウィはコードの一部を消し、新しい記述を打ち込んでいった。
「バックドア、全部潰した?」
「潰した。ただ、潰し方が甘いと、また同じ場所から入られる。だから、丁寧に潰す」
その言葉通り、作業は速さより慎重さを優先していた。経路を一つ塞ぐたび、彼女は二度、三度と確認を重ねてから先へ進んだ。
ルーシーのネットワーク遮断は、その作業と並行して進んでいた。師弟二人が肩を並べる隅には、他の場所とは違う張り詰めた静けさがある。
「外部との通信経路、全部洗い出した」
「多いね」
「うん。多い分だけ、一つずつ潰していく」
端末を睨んで答える指先は、迷いなく画面を滑っていた。かつてアラサカの追跡プログラムに苦しめられた経験が、この作業において、彼女を誰より慎重にしている。
「あんたの執念深さ、悪くないよ」
キーウィの短い評価に、ルーシーは目を細めた。
「師匠譲りだから」
「そう言うと思った」
周囲から、小さな笑いが漏れた。深刻になりがちな作業の合間に挟まる、ささやかな軽さだった。
塗装と武装の取り付けは、レベッカの担当だった。無骨な配送車の外装へ、彼女は迷彩のような不規則な模様を吹き付けていく。
「派手すぎない?」
覗き込んだデイビッドの問いに、レベッカは鼻を鳴らした。
「派手じゃねえよ。目くらましだ。遠目にゃ、ただのボロい配送車にしか見えねえだろ」
「言われてみれば、そうかもな」
「装甲車だって一目で分かる図体は、的になるだけだ。あの路地で、嫌ってほど思い知った」
荷室の裏側へ小型の武装マウントを慎重に取り付けながら、レベッカは続けた。
「派手な銃口は隠す。でも、いざって時に牙は剥ける。これが一番、性に合ってんだよ」
軽い口調の底に、あの夜の悔しさを糧に変えた者の落ち着きが滲んでいた。
デイビッドはニッカの補佐として、細かな部品出しと確認に回っていた。
「これ、次はどこに使う」
「そこの端子。SUVの冷却系に繋ぐ。慎重に」
「分かった」
部品を渡し終えたところで、彼はふと荷室の方へ目をやった。トラックの骨組みはそのまま残され、内側の補強が少しずつ進んでいる。
「なあ、ニッカ。荷室の床なんだけど」
「何」
「前に話しただろ。狭い車だと、怪我人の処置がしづらいって。床に担架を固定できる金具、付けられないか」
口にしてから、デイビッドは慌てたように付け足した。
「いや、思いつきなんだけどさ」
「悪くない視点って、前にも言った」
ニッカは手を止めて、荷室の床を見やった。
「固定具は、足す。担架を載せたまま走れるように。位置は、あんたが決めて」
「俺が?」
「言い出したのは、あんたでしょ」
目を丸くしたデイビッドは、すぐに表情を引き締めて頷いた。
「分かった。ちゃんと、計ってくる」
巻き尺を掴んで荷室へ駆けていく背中を、ニッカは少し長く見送った。地味な装備ほど、誰かの生き死にを分ける。その実感を、彼は自分の言葉に変えられるようになっていた。
誰もが手を動かし続ける中、ファルコだけは、少し離れた場所から車体全体を見渡していた。
装甲車の足回りが、トラックのフレームへ据え付けられていく。SUVから外されたエンジンが、慎重に積み込まれていく。荷室の骨組みは活かされたまま、内側の補強がじわじわと進んでいる。三台の亡骸が一つの生き物として組み上がっていく過程を、彼は瞬きも惜しむように見つめていた。
「……硬さも、速さも、広さも」
漏らした声に、ニッカが顔を向けた。
「全部、乗せる」
「そういうことか」
ファルコはゆっくり頷いた。帽子のつばの下の目には、これまでとは違う光が宿っていた。
完成が近づくにつれ、ファルコの作業はハンドル周りの調整へ集中していった。座席の角度、ペダルの踏み込み量、ミラーの位置。細部の一つひとつに、彼は時間を惜しまなかった。
「そんなに慎重にならなくても」
様子を見に来たドリオの一言に、ファルコは首を振った。
「乗るのは俺じゃねえ。誰が乗っても、迷わずに扱える車にしておきてえ」
以前の彼にはなかった響きが、その声にはあった。ドリオは少しのあいだ黙って見つめてから、口を開いた。
「あんた、変わったわね」
「……そうか」
「前は、自分の腕だけを信じてた。今は、道具の方も信じようとしてる。……道具を信じるのも、悪くないものよ」
図星を突かれたように、ファルコは息を吐いた。
「震える手の意味に、気づけなかった。……それだけは、二度と繰り返したくねえ」
低く続いた声に、ドリオは何も言わなかった。ただ肩に軽く手を置いて、その場を離れていった。
一人残ったファルコは、運転席に腰を下ろし、ハンドルへゆっくりと手を這わせた。冷たい金属の奥に、まだ微かな熱が残っている。三台がそれぞれに刻んできた轍が、そこに宿っているような気がした。
かつての相棒は、速さだけを信じて走った男だった。硬さを選んでいれば、あの夜は違ったのかもしれない。答えの出ない問いを、ファルコは何度も胸の内で繰り返してきた。けれど今、目の前にあるのは、速さも硬さも、どちらも捨てなかった一台だった。
帽子のつばを、指で一度だけ押し上げる。形見の帽子には、今も相棒の匂いが微かに残っている気がした。
「……お前になら、今度こそ」
言葉の続きは、声にならなかった。それでもその一言には、長年抱え続けた悔いの一部が、静かにほどけていく気配があった。
全体の統合は、ニッカ自身の手に委ねられていた。装甲車の足回りとトラックのフレームをつなぐ架台は、既製品では寸法が合わず、廃材から新しく削り出した。SUVのエンジンマウントも、そのままでは振動を吸いきれない。内部に緩衝材を仕込んだ独自の構造へ、一から作り替えていく。
ばねとダンパーは、トラックのフレームに合わせて組み直した。装甲車の重さを前提にしていた設定を捨て、旋回で荷重が片側へ寄っても、きちんと戻ってくる硬さへ。あの路地で壁を擦った金属の悲鳴は、まだ耳の奥に残っていた。
「……ここの角度、あと二度」
つぶやきながら、ニッカは工具を握り直した。三台分の設計思想が、あちこちで衝突している。硬さを求めた図面。速さを求めた図面。広さを求めた図面。矛盾する要求を一つの車体へ収めるには、どの資料にも載っていない、彼女自身の判断が要った。
深夜、作業台に向かう手元を、通りかかったキーウィが煙草を挟んだまま眺めていた。
「一人で、全部背負い込む気か」
「全部じゃない。みんなが、やってくれてる」
「最後の詰めは、あんたにしかできない。それは、背負ってるのと同じだよ」
乾いた声に、ニッカは手を止めて黙り込んだ。
「……嫌いじゃない、この感覚」
「なら、いい」
煙を細く吐いて、キーウィはその場を離れていった。
*
数日にわたる作業の末、格納庫の中央に、一台の車が完成した。
外見は、あくまで古びた配送車のままだった。継ぎ接ぎの塗装に、無骨な箱型のシルエット。一目見ただけでは、誰もその中身を疑わないだろう。だがボンネットの下では、SUVから移植された高性能なエンジンと冷却系が静かに息づいている。フレームには装甲車の足回りが組み込まれ、荷室の骨組みには、トラックの広さがそのまま残っていた。
ニッカはボンネットを閉じ、車体全体を見渡した。
「防弾性能、十分。高速巡航、可能。積載量も、落ちてない」
報告に、周囲から歓声が上がった。
「よっしゃあ! 見た目地味なのに、中身は化け物じゃねえか!」
拳を突き上げるレベッカの横で、ピラルが満足げに頷く。
「配線は、全部俺様の最短ルート仕様だ。整備性だって、他のどの車より上だぜ」
誇らしげな二人の隣で、キーウィが煙を細く吐いた。
「EMP耐性も、通信ジャマーも仕込んである。多少の妨害じゃ、もう乗っ取られない」
「私の防壁も、今度こそ間に合う」
ルーシーがぽつりと付け足すと、その場の誰もが頷いた。
三台の長所を継ぎ足しただけの、寄せ集めの一台。それでいて、どの候補よりも確かな強さを持つ何か。ニッカらしい、ジャンクの錬金術の集大成だった。
完成した車体を前に、ファルコは無言のまま立ち尽くしていた。工具を片付けながら、ニッカがその横顔をちらりと見やる。
「……どう?」
「上出来だ」
短い答えに、それ以上の言葉が詰まっているのが分かった。ニッカは何も聞かず、頷き返した。
「名前、決めた?」
帽子のつばへ手をかけたまま、ファルコは少し考え込んだ。
「まだだ。……走らせてから、決める」
「そういうもの?」
「そういうもんだ。走った跡を見てから、名前をつけてやりてえ」
ニッカは小さく笑った。バートも、道具について似たことを言っていた気がする。教えは、また新しい形で受け継がれていく。それを、どこか嬉しく感じていた。
少し離れた場所からその様子を眺めていたドリオが、メインの肩を軽く小突いた。
「いい相棒を貰ったわね、あの人」
「車の話か」
「両方よ」
澄ました声に、メインは笑っただけで、何も言い返さなかった。
*
その日の夕食は、いつになく賑やかだった。携行食を並べた食堂のテーブルを囲み、レベッカが誇らしげに胸を張る。
「見たかよ、あたしの塗装! 完璧な目くらましだっただろ!」
「配線も、忘れんなよ! あれがなきゃ、ただの箱だ!」
張り合うピラルの声に、笑いが広がった。ドリオが疲れの滲む顔をほころばせ、スプーンを軽く掲げる。
「みんな、よくやったわ。あの短い時間で、あそこまで仕上げるなんて」
「時間より、腕がよかった。それだけ」
ニッカが返すと、キーウィが煙を燻らせながら付け加えた。
「腕があっても、まとめる奴がいなきゃ、ただのガラクタだ」
誰も異を唱えなかった。ルーシーが端末を膝に置いたまま、短く尋ねる。
「今夜、試運転?」
「うん。ファルコに、任せた」
少し離れた席のファルコが、帽子のつばに手をかけて頷いた。集まった視線には答えず、やがて席を立つ。
その背中を見送りながら、ニッカはふと自分の指先を見つめた。荒野のガレージで一人、廃品と向き合っていた頃には、誰かの相棒を組み上げる日が来るなんて、想像すらしなかった。これは依頼じゃない。身内の足を作っただけ。そう言い聞かせる往生際の悪さに、内心で苦笑が漏れる。それでも、悪い感触ではなかった。壊れたものを直し、直したものが誰かを生かして帰ってくる。その繰り返しの先に、今があるのだと思った。
ファルコの足音が食堂から遠ざかってしばらくすると、メインが空になった椀を置いて立ち上がった。
「行くか、嬢ちゃん」
「どこに」
「見送りだ。お前も、気になってんだろ」
「別に、気になってない」
「そうかよ」
笑いを噛み殺したメインの背中を、ニッカは数秒だけ睨んでから、結局、黙って追いかけた。
*
その夜、人気のない幹線道路を、古びた配送車が一台、静かに走っていた。
運転席には、ファルコの姿があった。エンジンの音は驚くほど静かで、それでいて踏み込むたびの加速には確かな力が宿っている。装甲車の鈍さも、SUVの脆さも、トラックの息切れも、そこにはもう存在しなかった。
赤信号で、車体が停まった。ファルコは少しのあいだ、ダッシュボードへ視線を落としている。指先で軽く叩くと、乾いた音が車内に小さく響いた。
「よろしくな」
誰に聞かせるでもない声が、車内に落ちた。
「今日から、お前が俺の相棒だ」
信号が青に変わり、車体はゆっくりと動き出す。滑らかな加速に、ファルコの口元がわずかに緩んだ。交差点の頭上にかかる歩道橋に、二つの人影が見える。気づかないふりをして、彼は通り過ぎる間際、帽子のつばを指で軽く弾いた。
歩道橋の上から、その車を見送る人影が二つあった。
欄干に肘を預けたメインが、低く呟く。
「いい仕事だったな」
ニッカは遠ざかるテールランプを見つめたまま頷いた。
「見えてたな、あいつ。帽子、弾いていきやがった」
「夜目が利くから」
「そういうことにしとくか」
メインは喉の奥で笑い、すぐに声の調子を落とした。
「あの顔じゃ、朝まで戻らねえな」
「……いいよ。走らせてから決める人だから」
ニッカは視線を道の先へ戻した。
「ちゃんと、みんなを連れて帰ってきて」
誰にともなく漏らした一言は、夜風に紛れて消えていった。車に向けた言葉なのか、運転する男に向けた言葉なのか、本人にも分からない。願いに近いその呟きだけが、しばらく二人の間に留まっていた。
テールランプの赤い光は、やがてネオンの滲む街並みに溶けて、見えなくなった。それでも、見送る二人は、光の消えた先から目を離さずにいた。
「次の依頼、もう入ってるんじゃねえのか」
メインの一言に、ニッカは苦笑した。
「たぶん。でも、今は、いい」
「珍しいな、そういうお前」
「今夜だけ」
メインは満足げに頷いただけで、それ以上は言わなかった。
三台の骨を継いだ一台が、夜の道に最初の轍を刻んでいく。その先に待つ仕事の数だけ、轍はこれから伸びていくのだろう。その重さも、数も、今夜だけは数えないことにして、ニッカは欄干に預けた腕へ顎を乗せた。夜風が、頬に冷たかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この後は18.5話と幕間を投稿して、しばらく更新をお休みする予定です。
本編の続きは、時間を取って練り直しながら書いていくつもりですので、気長にお待ちいただければ幸いです。
今後ともよろしくお願いいたします。