新しい相棒の試運転から、数日が経っていた。
不具合の一つも見せずにファルコが戻ってきたあの朝以来、格納庫には奇妙なほど落ち着いた空気が根を張っていた。派手な依頼が舞い込んだわけでも、新たな脅威が押し寄せたわけでもない。ただ、三台の骨を継いだ一台が少しずつ街の空気に馴染み、日々の点検と微調整だけが淡々と積み重なっていく。そんな時間だった。実戦を伴う本格的な初仕事は、まだこの先に待っている。
格納庫、と皆は呼んでいる。旧処理場が資材の搬入に使っていた広間で、奥から延びる車両用の通路が、敷地の裏手へ抜けていた。表の出入口はハッチと梯子しかない。車が通れるのは、ファルコが死角の洗い出しの合間に見つけ出した、この地図にない道だけだった。足を地上に置きっぱなしにすれば、いざという時に動けなくなる。そう言って譲らないファルコの流儀で、車両は拠点の内側に抱え込まれることになった。古いチームカーも、レジーナの手配で運び込まれた三台も、その通路を通ってここに収まった。今、広間の中央に据えられているのは、三台の骨を継いだ一台だ。
メインは配送車の姿をした新しい相棒を、毎朝欠かさず外周から眺めていた。塗装の継ぎ目に指を這わせ、異常がないことを確かめてから、ようやく一日の仕事に取りかかる。その様子を横目に、ドリオがからかうように声をかける。
「まるで我が子でも見るような目ね」
メインは決まって、聞こえないふりをした。ピラルは配線の仕上がりを誇るように、暇さえあれば車体の裏側を覗き込んでいる。レベッカは塗装の目くらましが実戦でどう働くか、次の依頼を心待ちにしているようだった。ルーシーは相変わらず端末の前で、防壁の穴を一つずつ塞ぎ続けている。デイビッドも合間を見ては工具の手入れを手伝い、誰もがそれぞれのやり方で、この一台を見守っていた。
その輪の外側で、格納庫の隅だけが、ずっと静まり返ったままだった。
サントドミンゴの廃プラントを拠点に選んでから、すでに幾つもの依頼を積み重ねてきた。かつては荒野の孤独な技術屋でしかなかったニッカの周りに、今では守りたい顔ぶれがいくつも増えている。その変化を悪いものだとは思っていない。それでも時折ふと、誰にも預けていない自分だけの時間が、どこか遠くへ置き去りにされている気がすることがあった。
夜のシフトを終えた見張りが交代し、拠点全体が静けさを深めていく時間帯。ニッカはいつも通り、整備台に向かっていた。
配管の隙間から漏れる夜風が、格納庫の奥まで流れ込んでくる。廃棄物処理場特有の、金属と油の混じった匂いは、もうすっかり慣れ親しんだものになっていた。
整備台の上には、いつも通りの工具が並んでいる。ニッカはその一つ一つを手に取り、刃の欠けや歪みを確かめながら、順番に棚へ戻していった。単調な作業だったが、頭の中まで単調になるわけではない。手を動かしながら考える癖は、荒野にいた頃から変わっていなかった。
最後の工具を戻したところで、視線がふと格納庫の隅へ流れた。
積み上げられた廃材の陰、車体の合間に隠れるようにして、埃をかぶった一台のバイクが停まっている。三本並んだ排気管。低く伏せるように曲げられたハンドル。煤けた地肌の鈍い艶は埃に埋もれ、タンクには指でなぞれば跡が残りそうなほど厚く積もっていた。
ニッカはしばらく、その場から動かずに眺めていた。
「……そういえば」
誰にともなく漏らした呟きが、がらんとした格納庫の隅に落ちる。
移転の夜は、地上のコンテナの陰に防水シートを被せて隠したきりだった。それがいつの間にか格納庫の隅に収まっていたのは、見かねた誰かが通路から引っ張り込んでくれたからだ。誰の仕業かは、聞かなくても見当がついている。以来、まともに走らせた記憶はなかった。街へ出る足には事欠かない。拠点の表では今夜も、頼んでもいないデラマンの車列がハザードランプを焚いて待っている。この一台に触れる理由は、そうして薄れていった。
理由はそれだけではないことも、ニッカ自身、薄々気づいていた。この一台は、荒野の地平線を走るために組み上げた車体だった。前傾したハンドルも、短く軽いシートも、広く開けた砂の道を想定して仕上げたものだ。ビルの谷間に区切られたナイトシティの路地で、この車体がどう振る舞うのか。正直なところ、想像がつかなかった。触れずにいれば、その答えを先延ばしにできる。無意識のうちに、そんな計算が働いていたのかもしれない。
埃を被ったタンクへ、指先をそっと這わせる。乾いた感触の下に、かすかな冷たさが残っていた。忘れていたわけではない。後回しにし続けた結果が、この埃の厚みだった。
放っておいた機械は、必ず一番悪いタイミングで牙を剥く。バートが口癖のように繰り返していた言葉が、ふいに耳の奥で蘇った。他人の機械にはいつもその教えを当てはめてきたのに、自分の一台だけは例外にしていた。そのことに、今更ながら気づかされる。
誰かのために組んだ道具ではなかった。誰かを守るためでも、依頼をこなすためでもない。格好良さだけを基準に仕上げた、初めての私的な一台。だからこそ、日々の依頼に追われるうち、優先順位の一番下へ沈んでいったのかもしれない。そう考えると、埃の厚みが少しだけ苦い実感を伴って胸に落ちてきた。
工具箱から柔らかい布を取り出し、ニッカはタンクの上にそっと広げた。円を描くように拭き進めるたび、くすんでいた表面が少しずつ鈍い色を取り戻していく。単純作業のはずが、思いのほか手が止まらなかった。
タンク脇に立てかけたままのブリキの看板にも、布の端が触れた。積もった埃の下から、歪んだ四文字が顔を出す。中央キャンプの少女が書いた「三本さん」だった。撤去する気力もタイミングも、結局最後まで訪れなかったものだ。あの少女は今も、誰かのもとへ水筒を届けているのだろうか。毎朝ガレージへ駆けてきた足音は、街に移ってからはめっきり聞こえなくなった。その隣では、鎖でぶら下がった歪な歯車の飾りが、拭われた拍子に揺れて鳴った。
その歯車の飾りを「ガチャ子」と呼んでいるのは、レベッカだけだ。お守り扱いされるたびに否定してきたが、外そうとしたことは一度もない。
拭きながら、当時のことが自然と浮かんでくる。砂に埋もれていたフレームを掘り出した日。潰れた燃料缶からタンクを叩き出した夜。混合気の比率を測りながら、乾いた破裂音に何度も裏切られた日々。攻略情報のどこにも載っていない、生身の勘だけを頼りに組み上げた一台だった。その記憶は、今もはっきりと胸の奥に残っている。
あの頃はまだ、ミリテクの部隊が荒野へ押し寄せる前だった。ガレージに引きこもってさえいれば、誰にも背中を預けずに生きていけると信じていられた。今の暮らしを思えば、遠い昔のことのようにも感じられる。けれど、あの孤独な時間に培った勘と手癖は、今も指先の中にしっかりと息づいていた。
タンクの艶が戻る頃には、シートの埃も大方払い終えていた。ニッカは布を畳んで工具箱に戻し、息をつく。
「……点検、しとかないと」
自分に言い聞かせるような声だった。理由はいくらでも並べられる。長く休ませたエンジンの内部確認。オイルの劣化具合。タイヤの空気圧。どれも嘘ではなかったが、本当の理由はもっと単純なところにあった。走らせたい。ただ、それだけのことだった。
タイヤの空気圧を確かめ、チェーンの張りを指先で弾いてみる。目立った緩みはなかった。次に燃料タンクの蓋を開け、中の匂いを軽く嗅ぐ。長く置かれていた分だけ混合燃料の劣化は進んでいたが、致命的な状態ではない。ガソリン二十に対してオイル一という比率は、荒野で組み上げた当初から変わらない目安のまま、ニッカの手元に染みついている。念のため、携行缶から新しい燃料を少量足し、タンクの中を軽く揺すって馴染ませた。
しゃがみ込み、排気管の付け根に手を這わせる。荒地向けに組み直したチャンバーの膨らみは、当時のまま歪みなく残っていた。膨張した室内で反射波を作り、絞り込んだ出口へ導く構造。二拍子のエンジンにとって、その反射のタイミングこそが回転域ごとの出力を左右する。何度も寸法を測り直し、ようやく満足のいく形に落ち着かせた記憶が、指先の感触とともに蘇ってくる。足回りのショックユニットも、以前組み直した通りの動きを保っていた。長い眠りの間に劣化していないかと疑っていたが、目立った不調は見当たらない。
「……悪くない」
呟いた声には、確かな安堵がにじんでいた。長く放置していたことへの後ろめたさが、少しだけ和らいでいく。
点検項目は、これでほぼ埋まった。残る未確認の項目は、整備士本人の我慢だけだった。
キックペダルに足をかけ、息を整えて、ニッカは一度だけ強く踏み込んだ。
最初の一蹴りは、乾いた音を一つ立てただけで、あっけなく沈黙した。二度目も同じだった。舌打ちを堪えながら、ニッカはキャブレターの状態を指先で確かめ直す。長く眠っていたエンジンは、簡単には目を覚まそうとしなかった。
三度目。渾身の力を込めた一蹴りに応えて、エンジンが咳き込むように震えた。パン、と乾いた破裂が一つ。少し遅れて、もう一つ。まだ拍子は揃わないまま、けれど確かな鼓動が、格納庫の空気を震わせ始める。
初めてこのエンジンに火が入った夜のことを、ニッカは今でも鮮明に覚えていた。幾晩も点火系統と格闘し、ようやく目を覚ましたあの瞬間。まだらな破裂音に驚いて、杖を握った見張りの青年が駆けつけたこと。水袋を抱えた老女だけは、驚きよりも懐かしむような色を浮かべて、聞いたこともないはずの音に覚えがあると首を傾げていたこと。あの謎は結局、答えの出ないまま今日まで持ち越されている。今の格納庫に響くこの音は、あの夜と同じようでいて、確かに何段階も洗練された拍子を刻んでいた。
ニッカの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「……まだ、いける」
スロットルを軽く煽ると、破裂音が少しずつ間隔を詰めていく。パン、パン、パン。等間隔に近づいていくその拍子に耳を澄ませながら、ニッカはしばらくの間、目を閉じたまま座り込んでいた。荒野で聞いていたものと、寸分違わない音だった。街の空気の中で聞くと、不思議な違和感と懐かしさが同時に込み上げてくる。
その音に気づいたのは、格納庫の奥で作業をしていたファルコだった。
工具を置いて歩いてきた彼は、ニッカの傍らに停まる三気筒を見て、片眉をわずかに上げた。
「……久しぶりだな、その音」
「うん」
短く答えたニッカは、エンジンを止めて車体の脇に立ち上がった。
「移転してから、ずっと放置してた」
「気づいてたよ。コンテナの陰でシート一枚被ったままだったのを、引っ張り込んだのは俺だ」
「……知ってる。礼、言ってなかった」
「いらねえよ。走らせてやれ。それで足りる」
帽子のつばに指をかけたまま、ファルコは車体をゆっくりと見回した。三本の排気管。低く抑えられたハンドルの角度。街の整った車列とは明らかに異質な輪郭に、彼の視線がしばらく留まる。やがてその目が、タンク脇に立てかけられた看板へ落ちた。
「三本さん、ねえ」
「……名前じゃない」
「看板には、そう書いてある」
「書いたのは、私じゃない」
間髪を容れずに返したニッカに、ファルコは喉の奥で小さく笑った。
「外さなかったんだな、それ」
「外す暇が、なかっただけ」
「暇なら、いくらでもあったろう」
痛いところを突かれて、ニッカは視線を車体へ逃がした。外そうと思えば、いつでも外せたはずだった。それをしなかった理由は、自分でもうまく説明できない。
しゃがみ込んだファルコが、フロントフォークを軽く押し込んで戻りを確かめる。沈み込みはゆるやかで、戻りも遅れない。荒地向けに組み直した足回りは、舗装路の上でもまだ十分な余裕を残していた。
「伸び側、ちゃんと殺してあるな」
「ファルコに言われたから」
「……ああ、あの時のか」
思い出したように、ファルコは目を細めた。あの荒野でダンパーに口を挟んだのは、ほんの思いつきに近かったはずだ。それが時を経て、街の格納庫の隅で形になっている。
「あの時の口出しが、まさかあの車の足回りの詰めにまで生きるとは思わなかった」
「同じ理屈、応用しただけ」
「それを応用できるのが、大したもんだって言ってるんだよ」
短く言い返されて、ニッカは口をつぐんだ。素直に受け取っていいのか判断がつかず、車体へ目を戻す。
「……車、乗ってみて、どうだった」
ニッカの問いに、ファルコは少し考え込んでから答えた。
「思った以上に、応えてくれる。硬さも、速さも、広さも」
「そう」
「前に話したろ。伸びが強すぎて、段差のたびにケツの跳ねる車の話」
「覚えてる。癖に馴れて、直さなかったって」
「ああ。あの頃の俺は、癖ごと乗りこなすのが腕だと思ってた」
言葉を切ったファルコは、あらためて三気筒の車体へ目を向けた。
「新しいやつには、宥めてやらなきゃならねえ癖がねえ。誰が乗っても迷わねえように組んだつもりだったが、乗ってみて分かった。迷わずに踏めるってのは、思ってたより楽なもんだ」
「……うん」
「道具を信じられるってのは、いいことだな」
その一言に、ニッカは小さく目を見開いた。荒野で遠い目をして昔の車の話をしていた男が、今は同じ口で、まるで違うことを語っている。昔の相棒を救えなかった悔いを、彼はまだ完全には手放していないはずだった。それでも、その悔いの上に、新しい何かが少しずつ積み上がっているのが分かった。
「……あんたにしては、素直」
「柄でもねえのは、分かってる」
照れくさそうに帽子のつばを引き下げたファルコに、ニッカはつられて笑った。二人の間に流れる空気は、依頼でも戦闘でもない、何気ない日常の延長線上にあるものだった。
しばらくの沈黙の後、ファルコは三気筒へもう一度視線を落とした。
「こいつは、あの車とは違う道具か」
「違う」
「どう違う」
問われて、ニッカは少し考えた。うまく言葉にできる自信はなかったが、言ってみることにした。
「あっちは、みんなの道具。誰が乗っても、迷わない。こっちは」
「こっちは?」
「私だけの、道具」
口にしてから、ニッカは自分の言葉を少しだけ意外に感じていた。荒野で一人きりだった頃は、道具のすべてが自分だけのものだった。今は違う。工具箱の中身も、格納庫の設備も、いつの間にか誰かと分け合うものへ形を変えている。それは悪いことではない。むしろ、以前には想像もしなかった温かさが、そこには確かにあった。それでも、誰にも分け与えていない領域が一つくらい残っていても、罰は当たらないはずだった。
端的な答えに、ファルコはしばらく黙り込んだ。やがて、頷いた。
「誰にでも、そういう一台があってもいい」
「あんたは?」
思わず尋ね返したニッカに、ファルコは帽子のつばへ手をかけたまま、遠くを見るような目をした。
「昔、あった。今はもう、ねえけどな」
それ以上は語らなかった。失った相棒の記憶が、その一言の奥に静かに横たわっていることを、ニッカは何となく察する。踏み込むべきではないと分かっていたので、何も聞かなかった。
沈黙が、少しの間だけ二人の間に落ちた。やがてファルコは続けた。
「その一台、大事にしてやれよ。手をかけた分だけ、ちゃんと応えてくれる」
どこかで聞いた覚えのある言い回しだと思い、ニッカはすぐに気づいた。ちゃんと向き合えば、ちゃんと応えてくれる。バートの口癖と、同じ骨組みをしていた。何も言わず、ただ頷き返す。
少し離れた通路を、空の配給缶を抱えたドリオが通りかかった。三気筒の車体を目に留めると、彼女は足を止めて興味深そうに眺めたが、口を挟むことはしなかった。ファルコとニッカの様子を察したのか、口元をほころばせただけで、そのまま通り過ぎていく。誰もがそれぞれの距離感で、この一台を見守っているようだった。
その静けさを破ったのは、格納庫の入口から響いた乾いた靴音だった。
「その音、外まで響いてたよ」
現れたキーウィは、煙草を指に挟んだまま、三気筒の車体へ目をやった。拭き上げられたタンクの艶を一瞥し、目を細める。作業着姿のファルコと、車体の脇に立つニッカを交互に見やり、彼女は息を吐いた。
「二人がかりで、バイクを愛でてたわけか」
「二人、じゃない。ファルコは、たまたま」
「たまたま、ね」
からかうような響きに、ファルコは何も言わず、ただ視線を逸らした。キーウィはそれ以上追及せず、車体へ向き直る。
「久しぶりに見るね、それ」
「うん。ちょっと、点検」
「点検、ね」
澄ました声で繰り返したキーウィは、車体の周りを一歩だけ回り込んだ。値踏みするような視線が、三本の排気管を順になぞっていく。
「ナンバーも、登録も、ない代物だ」
「知ってる」
「街を走らせる気か」
単刀直入な問いに、ニッカは一瞬言葉に詰まった。だが誤魔化す気にはなれず、素直に頷く。
「少しだけ」
「少しだけ、ね」
煙草の先を軽く揺らして、キーウィは続けた。
「ナイトシティは、荒野とは違う」
続く声に、ニッカは黙って耳を傾けた。
「バッドランズなら、目立ったところで見てるのはクランの連中くらいだった。ここは違う。バイク文化を看板にしてる連中もいれば、縄張り意識だけで刀を抜く連中もいる」
「タイガークロウズ」
「そう。あんたの田舎臭い旧式二輪、ああいう連中の目には格好の獲物に映る」
乾いた声に、ニッカは眉を寄せた。あの連中のことなら、もう嫌というほど知っている。缶ジェットで壁を溶かして逃げた夜も、護送任務の最中に襲われた夜も、顔を合わせたのは同じ種類の人間だった。バイク乗りの縄張りに首を突っ込むつもりは、最初からない。
「絡む気は、ない」
「向こうにその気がなくても、絡まれることはある。電子に頼らない旧式の機械なんて、今どき珍しがられて当然だ」
キーウィは煙を長く吐き出し、天井を見上げた。
「デジタルの足跡は、心配してない。そいつは電子的な信号を一切出さないんだろう」
「そう」
「だが、目と耳の足跡までは、消せない」
乾いた声には、これまでの経験に裏打ちされた重みがあった。ファルコが黙って耳を傾ける傍らで、キーウィは煙を細く吐く。
「監視カメラは避けられても、通り過ぎる人間の目までは避けられない。しかもその音だ。街中じゃ、嫌でも目立つ」
「分かってる」
「ハイウェイに乗るなら、検問にも気をつけろ。NCPDの巡回だけじゃない。コーポの私設警備も、抜き打ちで検問紛いのことをやる」
「検問、って」
「表向きは交通取り締まりだが、実際は登録情報の照合だ。ナンバーのない車両は、それだけで足止めを食う」
淡々と告げられた情報に、ニッカは短く頷いた。頭の中に、経路の候補がいくつか浮かび始める。人目を避けるだけでなく、検問のありそうな区画まで避けるとなると、思っていたより慎重な走り方が必要になりそうだった。
「主要な出口付近は、特に頻度が高い。裏道を選ぶなら、地図は頭に入れておけ」
「もう、入ってる」
即答したニッカに、キーウィはわずかに口の端を上げた。準備の早さだけは、いつも信頼に足るものだった。
「監視の網に、こっちの気配を残すのは避けたい」
「うん」
「戻る時間は」
「遅くならないうちに」
端的なやり取りの後、キーウィは煙草を灰皿代わりの缶へ押し付け、背を向けた。歩き去る後ろ姿を、ニッカはしばらく目で追った。忠告はいつも短い。だが、その短さの中に込められた重みを、彼女は誰よりもよく知っている。
数歩進んだところで、キーウィは足を止め、振り返らないまま付け加えた。
「一人で行くなら、通信端末は繋いだままにしておけ。回線はルーシーが固めたやつだけ使え。何かあれば、すぐに拾える距離にいる」
「……ありがとう」
「礼はいい。無事に帰ってくることの方が、よっぽど大事だ」
短くそう言い残して、キーウィは今度こそ足を止めずに、格納庫の奥へと姿を消した。素っ気ない言葉の裏に潜む気遣いを、ニッカは今更ながら噛みしめる。荒野で培った孤独な生き方が、この街へ来てから形を変え始めていることを、こういう瞬間にふと実感させられた。
「……行くのか」
ファルコの問いに、ニッカは頷いた。
「少しだけ」
「気をつけろよ」
「うん」
短いやり取りを最後に、ファルコは工具のもとへ戻っていった。一人残されたニッカは、もう一度車体の隅々に視線を這わせる。タンクの艶。足回りの締まり具合。排気管の並び。荒野を走るために組み直した一台が、今、まったく違う光の中を走ろうとしている。
出かける支度は、そう手間のかかるものではなかった。
まず、整備台の引き出しから小さなミラーを二枚取り出す。旧式の乗用車から外した廃品で、鏡面にうっすらと曇りが残っていた。荒野を走る分には、背後の気配は目と耳で足りた。だが、この街では違う。ハンドルの両端へ針金で括り付け、指で押して角度を決めていく。振り返る動作で体勢を崩さずに済むなら、それだけで十分な価値があった。
次に、左手首の端末を確かめる。受信ランプが短く点滅したのを見届けて、ジャンクの補聴器から外した小さなイヤピースを耳に差し込んだ。
最後に、首にかけていた簡素なゴーグルを目元へ引き上げる。廃材から自作した、荒野の砂に合わせた古い品だった。頭を守る鍋の防具のことが一瞬よぎったが、ネオンの下では目立ちすぎる。ニッカは首を振って、その案を打ち消した。
長く眠っていた相棒に、久しぶりの本気の一走りを許す時が来ていた。
キックペダルに足をかけ、もう一度、渾身の力を込める。
パン、と乾いた音が一つ。それに続いて、規則正しい拍子が、今度は迷いなく刻まれ始めた。エンジンの唸りに耳を澄ませながら、ニッカはハンドルを握り直す。タンク脇で、ガチャ子が小さく鳴った。
「……少しだけ」
自分にもう一度言い聞かせるように呟いて、ニッカはゆっくりとクラッチを繋いだ。車体が滑り出し、格納庫の出口へ向かって進んでいく。夜のナイトシティが、その先で静かに光を放っていた。
シャッターへ近づくにつれ、格納庫の白い照明は薄れていく。代わりに、搬入路の橙色の常夜灯が、磨き上げたばかりのタンクの上を流れ始めた。
シャッターをくぐる直前、ニッカは一度だけ格納庫を振り返った。整然と並んだ工具。静かに佇む新しいチームカー。作業台に屈み込んだまま、ふと顔を上げたファルコの姿。すべてが、いつもと変わらない場所にあった。安心とも呼べる感覚が、胸の奥をわずかに温める。
視線を前に戻し、ニッカはスロットルを開いた。
三気筒の轟音は、シャッターの向こうへ遠ざかりながら、搬入路の壁を伝って長く尾を引いた。格納庫に残されたファルコは、その音が聞こえなくなるまで、しばらく耳を傾け続けていた。
「……無茶すんなよ」
誰にも届かない呟きを最後に、ファルコは工具箱の蓋を閉じた。
*
搬入路は、車が一台やっと通れる幅の、緩やかな上り坂だった。壁と天井に跳ね返った三本分の轟音が、逃げ場を失って背中を叩く。荒野では遠くへ抜けていくだけだった音が、ここでは自分を追いかけてくる。キーウィの言った通りだった。この音は、嫌でも目立つ。
橙色の常夜灯が等間隔に流れ去り、坂の終わりが近づくと、その向こうにネオンの赤と青が滲み始めた。磨き上げたばかりのタンクの表面で、二色の光が細かく揺れる。バッドランズの月明かりとはまるで違う、人工の光の洪水が、出口の先で待っていた。
搬入路を抜けた先の裏路地は、いつも通り人気がなかった。廃棄物処理場の脇を縫うように延びる細い道を、ニッカは慎重な速度で進んでいく。積み上げられたコンテナの隙間から漏れる光が、車体の輪郭を不規則に照らしては消えていった。アロヨの薄暗い一角を抜けると、道の先に、サントドミンゴのメインストリートを彩るネオンの帯がぼんやりと滲み始める。
人通りの多い区画を避け、ニッカは裏通りを選びながら進路を取った。頭の中には、事前に幾度となく思い描いてきた経路が、すでに出来上がっている。監視カメラの死角。交通量の少ない交差点。遠回りにはなるが人目につきにくい高架下。荒野で身につけた地形を読む勘は、コンクリートとネオンの街でも、思っていた以上に生きていた。
目指す先は、ナイトシティの外周を巡る高架のハイウェイだった。今はまだ遠くに霞んで見えるその光の帯を見据えながら、ニッカはスロットルを握る手に、少しだけ力を込めた。
交差点の信号待ちで一度足を止めると、隣に停まった旧型の乗用車の運転手が、物珍しそうにこちらへ視線を寄越した。三本の排気管が並ぶ姿は、街の車列の中では明らかに異物だった。居心地の悪さを感じながらも、ニッカは前方を見据えたまま、気づかないふりを通した。信号が変わると同時に、乗用車はゆっくりと発進し、やがて後方へ流れていった。子供を乗せた助手席の窓越しに、小さな手がこちらを指差しているのが見えた気がした。確かめる間もなく、車はもう遠ざかっていた。
キーウィの忠告が、まだ耳の奥に残っていた。目立つことは分かっている。だが、これくらいの視線なら、これまでにも何度となく受け流してきたはずだった。荒野で異形の残骸を担いで歩いていた頃から、好奇の目にはとうに慣れている。街の視線も、結局は同じ種類のものに過ぎないと、ニッカは自分に言い聞かせた。
高架への入口を示す標識が、前方にぼんやりと浮かび上がってくる。緩やかな坂道を駆け上がるにつれ、周囲を囲んでいたビルの壁が徐々に低くなり、代わりに視界いっぱいへ光の帯が広がり始めた。荒野の地平線とはまるで違う、垂直に積み上がったネオンの群れ。それでも、風を切る感覚と三本の排気管が刻む拍子だけは、あの頃と少しも変わっていなかった。
合流のランプに差しかかったところで、ニッカは一度だけ速度を落とし、ミラーで背後を確かめた。追ってくる気配はない。街灯の光が、ゴーグル越しに規則正しく流れ去っていく。深く息を吸い込み、彼女はスロットルへ指をかけた。心臓の鼓動が、エンジンの拍子と重なっていくのが分かる。
久しぶりに開けるこの一走りが、忘れかけていた何かを静かに呼び覚まそうとしていた。それが何なのかは、まだ言葉にならない。ただ、ランプの先に広がる光の帯へ、ニッカは迷わず車体を向けた。