合流のランプを抜けると同時に、ニッカはスロットルを大きく開いた。
三本の排気管が一斉に咆哮を上げる。エンジンの回転が跳ね上がり、車体がぐんと前へ押し出された。フロントが軽く浮きかけるのを、腰の重心移動だけで抑え込む。荒野で染みついた癖が、体の奥からひとりでに動き出していた。
風が正面から叩きつけてくる。ゴーグルの縁を掠め、頬を鋭く撫でていくその感触は、記憶の底に眠っていたものをそのまま呼び覚ますようだった。違うのは、頬に当たるものが砂の粒ではなく、湿った夜気と焼けた混合油の甘い匂いだということだけだった。
視界の先には、荒野の地平線の代わりに、光の壁がそびえている。無数の窓明かり、看板の点滅、行き交う車のテールランプ。垂直に積み上がったその光景は、ニッカがかつて知っていたどんな夜空とも似ていなかった。それでも、握るグリップの感触と三本の排気管が刻む拍子だけは、あの頃と寸分違わなかった。
速度計の針が、じわじわと右へ傾いていく。前輪から細いケーブルで引いただけの、電気を一滴も使わない古い計器だ。針の動きを横目で追いながら、ニッカは体重の乗せ方を微調整した。砂地と違い、舗装路は路面のグリップが安定している。その分だけ、攻めた姿勢を取りやすかった。その違いに気づくたび、口元がわずかに緩んだ。
風の抵抗が増すたび、車体を伏せる角度を無意識に深くしていた。タンクに胸を押しつけ、両膝でフレームを挟み込む。長い眠りから覚めたばかりのエンジンは、それでも一切の不安を感じさせない力強さで、回転数を上げ続けていた。
初めてこの車体をまともに走らせた朝のことを、ニッカはふと思い出す。夜明け前の荒野へ、誰にも告げずに抜け出した。行き先など決めていなかった。ただ風を切りたかっただけの、誰にも見せるつもりのない一走りだった。
昼過ぎにガレージへ戻ると、見張りの青年が腕を組んで待ち構えていた。気づかれていないつもりだったのは、本人だけだったらしい。あれだけの音を立てて、誰の耳にも届かないはずがなかった。
あの時と同じ震動が、今もハンドルの中心を通して両手へ伝わってくる。違うのは、路面が砂からアスファルトに変わり、行き交う光の密度が桁違いに増えたことだけだった。エンジンの鼓動そのものは、何も変わっていない。変わらないものが一つでもあることが、思いのほか、心を落ち着かせてくれた。
視線を上げると、頭上には星の一つも見えなかった。荒野の夜なら、砂塵さえ収まれば無数の光が降り注いでくる。ここでは、街そのものが放つ光の量が、夜空を丸ごと塗り潰していた。地上の光が空の光を呑み込んでしまう街。そのことを寂しいと思うのか、それとも壮観だと思うのか、ニッカ自身にもまだ答えは出ていなかった。今はただ、目の前を流れていく光の帯に、意識を委ねるだけで精一杯だった。
高架の本線は、思っていたよりも空いていた。まばらに流れる車列の間を縫いながら、ニッカは車体を右へ左へと滑らせる。ブレーキの効きを確かめる。コーナーの手前でギアを一段落とし、立ち上がりでもう一度開ける。単純な動作の繰り返しだったが、体に染みついたリズムが戻ってくるまでに、そう時間はかからなかった。
高架の継ぎ目を踏むたび、足回りが短く沈んで戻る。ファルコが伸び側を殺してあると言った通り、跳ね返りは一度で収まった。荒地向けに組み直した足は、舗装路の上でも不思議と素直だった。継ぎ目の衝撃で鎖ごと跳ねたガチャ子が、エンジンの音に混じって、小さく鳴る。
直線に入ったところで、ニッカはタンク脇の燃料計へ一瞬だけ視線を落とした。針は、まだ十分な余裕を示している。そのまま耳を、エンジンへ預けた。三本の排気音は、無意識のうちに聞き分けている。中央の一本がわずかに低く、左右の二本がそれを支えるように高く重なる。この拍子の混ざり方が変わった時こそ、内部で何かが起きている兆候だった。今のところ、乱れはない。
長く眠らせていた分だけ慎重に整備したつもりだったが、実際に走らせて初めて分かることも多い。エンジンの応答は、記憶にあるものより幾分か滑らかに感じられた。休ませていた間に、内部の馴染みがかえって進んだのかもしれない。そんな仮説を頭の片隅に留めながら、ニッカは意識を前方へ戻した。
荒野には、目印になるものなど何もなかった。地平線と、砂塵の向こうに霞む岩山だけが、唯一の道標だった。今、目の前を流れていくのは、無機質な標識と絶え間なく明滅するネオンの群れだ。読み取る情報の質は違っても、次の一手を決めるために周囲を読み続ける感覚そのものは、あの頃と少しも変わっていなかった。
頭上を横切る出口標識の文字を、ニッカは一瞥で読み取っていく。外周方面、ワトソン方面、サントドミンゴ方面。事前に頭へ叩き込んだ経路と照らし合わせ、迷いなく車線を選び続けた。標識という道標は、岩山よりよほど親切だった。読み間違えなければ、道に迷う心配だけはない。
出発前に、何度も経路図をなぞった。紙の上の細い線には、段差も路面の荒れも、割り込んでくる車もなかった。知っているつもりだった道が、走り出して初めて、本当の形を見せ始めている。
高架が居住区の脇を縫う区間に入ると、防音壁に跳ね返った排気音が、背後から追いかけるように膨らんだ。壁の向こうのビルで、いくつかの窓のカーテンが動いた気がした。目立つ、と言ったキーウィの声が耳の奥で蘇る。ニッカは意識して開度を絞り、拍子を低く落とした。それでも三本の排気管は、隠れる気などまるでないように、街の壁へ自分の声を返し続けた。
視線を横へ流すと、高架の下に広がる街区が見えた。網の目のように張り巡らされた道路、その隙間を埋め尽くす建物の群れ。窓明かりの一つひとつに、誰かの暮らしがあるはずだった。荒野では、明かりの数がそのまま人の少なさを表していた。ここでは逆だ。数えきれないほどの光が、かえって一人ひとりの気配を薄めているように感じられた。
風の音の合間に、地上を走る車の走行音や遠くの工事現場らしき重機の響きが、途切れ途切れに混じり込んでくる。この街の夜は、常に何かしらの音で満たされていた。静寂に慣れた耳には、初めのうちその密度が煩わしく感じられた。だが今は、その雑多な音の重なりの中にも独特の落ち着きがあることに、ニッカは少しずつ気づき始めている。
風を切る音の合間に、かすかな高揚が混じる。誰かのためでも、依頼のためでもない。ただ自分のためだけに開けるスロットル。そのことが、思っていた以上に体の奥を軽くしていた。
絶対に近づかないと誓った街の只中を、今こうして風を切って駆け抜けている。その事実に、ニッカは苦い笑いをこぼしそうになった。バートを喪ったあの日、二度とこの手の街には関わらないと固く決めていたはずだった。誓いはとうに形を変えてしまったと、自分でも分かっている。それでも、依頼でも護衛でもなくただ走りたいという理由だけでこの街に踏み込んでいる今の自分を、あの頃の自分が見たら何と言うだろうか。
答えは出なかった。だが、悪くない気分だということだけは、確かだった。誰にも咎められる筋合いはない、と自分に言い聞かせながら。
だが、その高揚は、決して警戒を鈍らせるものではなかった。
視線の端で、高架の支柱に据えられた監視カメラの角度を、ニッカは一つずつ確かめていく。首を振る周期、レンズの向き、死角になる位置。頭の中に叩き込んだ地図と照らし合わせながら、走る位置をずらす。目立たない程度に、けれど確実に、カメラの視野を外していく作業だった。
一台だけの流れなら、それほど難しい話ではない。だが、車線変更のたびに周囲の車の動きも読む必要があった。急な蛇行は、それ自体が目を引く。これまでとは違う種類の緊張が、指先の感覚を研ぎ澄ませていた。
思い描いてきた経路図が、今の景色と少しずつ重なり合っていく。次の支柱、その次の支柱。カメラの死角を繋いだ線は、まっすぐな一本道ではなく、緩やかに蛇行する見えない獣道のようなものだった。拠点までの安全な帰り道を頭に叩き込んでいた頃の感覚と、驚くほど似ている。読む対象が岩と砂から、鉄骨とレンズに変わっただけのことだった。
右前方を走っていた自動運転らしき配送車が、方向指示器も出さずに車線を跨いできた。反射的にブレーキとスロットルの操作を切り替え、ニッカは車体を左へ逃がす。砂地で轍を跨ぐ時と同じ、体の奥に染みた動きだった。心臓が一つ大きく跳ねたが、次の呼吸にはもう、いつもの拍子へ戻っていた。
配送車はそのまま何事もなかったように流れへ戻っていく。苛立ちを覚える暇もなかった。この街では、機械の判断ミスすら、いちいち相手にしていられない。危険とはまた違う種類の油断ならなさが、この街にはそこかしこに潜んでいる。速度を戻しながら、彼女は小さくかぶりを振った。
左手首の通信端末が、小さく振動した。ハンドルから一瞬だけ指を離し、応答のボタンに触れる。
『聞こえるか』
乾いた声が、左耳に差し込んだイヤピースから流れ込んでくる。ジャンクの補聴器から外した小さな部品だったが、ルーシーの固めた回線の声は驚くほど澄んでいた。キーウィだった。
「聞こえてる」
『高架の定点カメラを、何台か借りてる。ゲートと料金所は、こっちから見えるようにしてある』
「全部は?」
『無理だ。あんたが死角ばかり拾うから、見えない時間も出る』
「見えない方が、記録にも残らない」
『理屈は合ってる。だから文句は言わない』
通信の向こうで、ライターの蓋が鳴る小さな音がした。
『三キロ先。外周の分岐より手前に、ゲートらしき構造物が映ってる。心構えだけ、しておけ』
端末越しの声には、感情の色がほとんど乗っていなかった。それでも、わざわざ知らせてくる時点で、軽い話ではないことは分かった。
「あんたの判断は、信用してる」
『無理に急ぐな。景色を楽しみに行ったんだろう』
からかうような響きの奥に、確かな注意深さが滲んでいた。ニッカは短く息を吐く。
「分かってる」
『なら、いい』
通信はそれきり途切れた。端末の向こうで、キーウィがまだ映像を追い続けているであろうことを、ニッカは何となく感じ取っていた。一人で走っているつもりでも、実際には一人ではない。あの朝もそうだったのだと、今になって思う。あの時の自分はそれを知らず、独りだと信じたまま走っていた。今は知っている。胸の奥が、ほんのりと温かくなった。
前方に、標識の連なりが見えてきた。追い越し車線への合流を示す矢印の下に、見慣れない構造物のシルエットが浮かんでいる。ゲート状に組まれた鉄骨、そこから突き出た複数のセンサーアーム。キーウィが言っていた検問紛いのものだと、すぐに分かった。
ニッカは速度を落とした。
急激な減速は、それ自体が怪しい動きになる。周囲の車の流れに合わせるように、ゆるやかにスロットルを緩め、車間を保ちながら距離を詰めていく。ゲートの手前、二百メートルほどの位置で、彼女は一度だけ車線の端に寄って様子を窺った。
ゲートの両脇には、私設警備の腕章をつけた男が一人ずつ立哨していた。通過する車を流し見ているだけで、今のところ停止を命じている様子はない。時折、端末らしきものを掲げ、車体をスキャンする動作を見せる。登録情報の照合だろうと、ニッカは当たりをつけた。
装備の型式に見覚えがあった。カブキの闇市で何度も目にした、コーポ製の簡易スキャナー。読み取れるのは登録データとの照合程度で、車体の内部構造まで解析する精度は持たない。キーウィから聞かされた知識が、こんな場面で役に立つとは思っていなかった。
二人の警備員の間には、これといった緊張感はなかった。片方は退屈そうに肩を回し、もう片方は時折スマート武器のグリップに指を這わせるだけで、それ以上の警戒は見せていない。深夜のこの時間帯、通行量自体がさほど多くないことも、彼らの弛緩の理由になっているようだった。
スキャンの間隔にも、一定の癖があった。三台に一台ほどの頻度で端末を掲げ、残りは目視だけで流している。全車両を漏れなく確認する余裕は、そもそもないらしい。狙うべき瞬間は、その隙間にある。ニッカは車間の詰まり具合を測りながら、自分の番が来るタイミングを頭の中で計算し続けた。
周囲の車列を観察しながら、ニッカは自分の前後に並ぶ台数を数え直す。前に三台、後ろに二台。この密度なら、スキャンの順番が自分に回ってくる確率は低い。敵の巡回間隔を数えていた頃の癖が、こんな場面でもそのまま役立っていた。数字で裏付けられた見立ては、勘だけに頼るよりずっと心強かった。
問題は、自分の車体にナンバーそのものが存在しないことだった。
視線を落とし、ニッカは車体の輪郭を頭の中でなぞった。リアカウルの小さな膨らみの下には、プレートを下げる板が、最初から付いていない。近づいて確かめられれば、それまでだった。
ただ、一つだけ当てにできるものがある。この車体は、電波にも赤外線にも、自分から何一つ返さない。照合の端末が映し出すのは、登録された名前を持つ車だけだ。名前を持たない機械は、画面の上には最初から存在しない。
画面だけを見ている相手になら、通じる理屈だった。だが顔を上げて目で見られたなら、そして音を聞かれたなら、この理屈は何の役にも立たない。あの二人が画面と路面のどちらを見るのか。今夜最初の賭けは、そこにあった。
グリップを握る手のひらに、じんわりと汗が滲んでいた。エンジンの熱とは違う種類の湿り気だった。深呼吸を一つ挟み、ニッカは肩の力をあえて抜く。強張ったままの姿勢は、それ自体が不審な動きに映りかねない。バートの教えを、また一つ思い出す。緊張は、隠すものではなく、飼い慣らすものだ。あの人は、いつもそう言っていた。
流れに乗る。目立たず、けれど不自然に隠れもしない。ゲートの前で速度を保ったまま、ニッカは警備員の動きを見直した。視線の向きと、端末を掲げる間合いと、立哨の間隔。それらを一つずつ、頭の中へ並べ直していく。
それでも、どこかに小さな違和感が残っていた。
企業の私設警備とNCPDの巡回と、ただの通行人の区別さえ、外見だけでは判断がつかない。制服の細部、装備の型式、無線機の位置。覚えるべき情報の量が、桁違いだった。
自分はまだ、この街の呼吸を、完全には読み切れていない。
その自覚が、静かな苛立ちとなって胸の奥に沈んでいく。悪路の轍を読むように、都市の秩序を読めたなら。そう思う端から、それはないものねだりだと分かっていた。この街に生きて日が浅い自分に、何十年も企業の支配下で培われた住人たちの勘を、いきなり求める方がおかしい。
荒野では、危険の種類はいつも単純だった。ラフィ・シヴの襲撃か、砂嵐か、機材の故障か。命に関わる要素は絞られていて、経験を積むごとに読みは鋭くなっていった。だがこの街では、私設警備の裁量ひとつ、企業の担当者の機嫌ひとつで結末が変わる。読むべき変数が、比較にならないほど多い。
キーウィやレジーナが涼しい顔でこの街を渡り歩けるのは、その変数の一つひとつを、長い時間をかけて体に刻み込んできたからだ。自分にはまだ、その蓄積が足りない。デラマンの一件でも、自分の物差しだけでこの街の反応を見誤った。ジャンクを直す腕には自信がある。だが、その腕がこの街でどんな波紋を広げるのかを見極める目は、まだ荒野育ちのままだった。
分かっていても、苛立ちは簡単には収まらなかった。
速度を保ったまま、ニッカは車線を一つ内側へ寄せた。ゲートの直前、警備員の視線が反対車線の一台に向いた、その一瞬を見計らう。
大型の貨物車が、ちょうど右隣へ並んできた。その巨体が、右手に立つ警備員との間に、壁のように立ちはだかる。
二人の視線が同時にこちらを外れる瞬間は、そう長くは続かない。数えるほどの呼吸の間に、通過を終えなければならなかった。見張りの交代の隙を突いた経験が、この見計らいにそのまま活きていた。待つという行為の本質は、どこへ行っても変わらない。
心臓の鼓動が、エンジンの回転と重なり合っていくのが分かった。
(焦るな。)
自分に言い聞かせながら、ニッカはスロットルを一定に保ち続けた。急いだところで、通過にかかる時間が変わるわけではない。むしろ、一定の速度を保つことこそが、最も怪しまれない選択だった。
ゲートの真下に入る。貨物車の影の中で、ニッカは息を止めた。
右手の男が、端末を持ち上げる気配があった。貨物車の巨体に遮られて、姿は見えない。
短い電子音が、一つ鳴った。
全身が、反射的に強張る。だが音の出所は、右だった。貨物車の向こうで、端末の画面が青白く瞬いたらしい。車体の下を抜けてきた光が、路面を一瞬だけ染めた。登録を照合された貨物車が、センサーアームの下を何事もなく抜けていく。男の視線は、きっと画面に吸い寄せられたままだ。
残る左手の男は、反対車線へ目をやったままだった。その横を、ニッカは通り過ぎた。三本の排気音がゲートの鉄骨に跳ね返り、頭上で大きく膨らむ。男の顔が、わずかにこちらへ向いた気がした。確かめるために速度を緩めれば、それこそが決定的な失策になる。ニッカは表情を動かさないまま、ただスロットルを保った。
一秒が、いつもより長く感じられた。エンジンの拍子だけが、変わらぬ規則正しさで刻まれ続けている。その音に縋るようにして、ニッカは自分の速度と姿勢を、寸分たりとも崩さないよう保ち続けた。
ゲートを抜けて数十メートル走ったところで、ニッカは背後を確認した。
ハンドル端のミラーの中で、ゲートの光が、後方へ遠ざかっていく。停止を命じる声も、追ってくる気配もなかった。
あの電子音は、貨物車のものだった。照合される名前を持たない自分の車体は、あの端末に何も報せない。それは弱みであると同時に、この車体にしかない盾でもあった。ただし、盾が効くのは画面を見ている相手だけだ。音を聞き、顔を上げた相手には、何の意味もない。
止めていた呼吸を、ニッカはようやく大きく吐き出した。肺の奥まで満たされていた息が、排気の匂いと一緒に夜風へ溶けていく。スロットルを握る右の義手は、緊張とは無縁の精度で開度を保ち続けていた。震えているのは、クラッチを握る生身の左手だけだった。
メインの指先の震えに気づいた時と同じ目で、ニッカは自分の左手を見下ろす。握って、開く。二度繰り返すと、細かな震えは引いていった。神経の話ではない。張り詰めていた指先が、冷えていただけだ。そう分かっただけで、何よりの安心だった。肩に入っていた力が、ようやく抜けていく。
左手首の端末が、また小さく振動する。
『通過、確認した』
キーウィの声には、いつもと変わらない乾いた響きがあった。だが、その一言の前にわずかな間があったことを、ニッカは聞き逃さなかった。
『貨物車の陰に入ったのは、悪くなかった』
「見てたんだ」
『映像だけはね。心配はしてない』
「……嘘つき」
澄ました返事に、ニッカは小さく笑った。通信は、それきりまた途切れる。
一人で走っているはずなのに、頭の中に浮かぶ顔は、一つでは済まなかった。格納庫に残ったファルコの、素っ気ない激励。煙草を挟んだまま忠告を重ねたキーウィの背中。誰もが違う形で、この一走りを見送ってくれていた。
もしレベッカがこの場にいたら、間違いなく後ろに乗せろとねだって聞かなかっただろう。ピラルなら、何か一つ足したがって工具を放さなかったはずだ。メインは黙って車体を一瞥し、それだけで満足げに頷いたに違いない。誰もいないはずの車上に、そうした気配の断片が、次々と浮かんでは消えていく。
私だけの道具、と口にした自分の言葉を、ニッカはふと思い返す。あの時は、そう言い切ることに小さな後ろめたさがあった。誰にも分け与えていない領域があってもいいはずだと、自分に言い聞かせたばかりだった。だが今、風を切りながら思うのは、この一走りもまた見えない形で誰かと分け合っているという事実だった。完全に一人きりの時間など、この暮らしの中にはもう、どこにも残っていないのかもしれない。
悪い感覚ではなかった。誰かに見守られて走るというのは、思っていたよりずっと、背中が軽いものだった。
高架の切れ間から、下の通りが見下ろせる区間があった。屋台の湯気、遅くまで営業する雑貨屋の看板、酔客らしき数人の笑い声。荒野では決して見られなかった種類の、雑多で騒がしい生活の気配が、ほんの一瞬だけ視界を過ぎっていく。あの喧騒の中にも、それぞれの暮らしと、それぞれの誓いがあるのだろう。誰も彼もが、何かを守りながら何かを諦めながら、日々をやり過ごしている。そう思うと、自分だけが特別に不自由なわけではないのだと、少しだけ気が楽になった。
検問を抜けて幾らも走らないうちに、対向車線を一台のNCPDパトカーが低速で流れていくのが見えた。回転灯は灯っていない。ただの巡回だと分かっていても、視界に入った瞬間、ニッカは反射的に速度を一定に保ち直していた。
パトカーは、こちらへ興味を示す素振りも見せず、そのまま後方へ消えていった。何でもない一台のはずだったが、通り過ぎるまでの数秒間、ニッカは呼吸の浅さに気づかないふりを続けていた。荒野なら、遠くの気配だけで敵か味方かを見極められた。ここでは、通り過ぎてからでなければ確信が持てない。その差が、じわりと胃の底に重く沈んでいく。
ミラー越しに遠ざかっていくテールランプの赤を、ニッカはしばらく目で追い続けた。何も起きなかったという結果だけが、今はありがたかった。結果を待たなければ安心できない。それもまた、この街の呼吸の一部なのだろう。
前方に、料金所を示す標識が見え始めていた。緩やかにカーブする本線の先、複数のゲートが等間隔に並んでいる。ここを抜けた先で、本線は外周方面へ分かれる。そこまで行けば、難所はもう越えたと言っていい。
戻る時間は、遅くならないうちに。格納庫を出る前、キーウィと交わした短い約束が、胸をよぎった。想定より慎重に進んだ分、時間には少し余裕がなくなっている。外周を一周したら、そろそろ引き返す頃合いかもしれない。そんな計算を頭の隅で始めながら、ニッカはハイウェイの先へと意識を向け直した。
風の音に混じって、三本の排気管が刻む拍子が、いつも通りの一定さで響き続けていた。その規則正しさに耳を澄ませながら、ニッカはスロットルへ添えた指先の力を少しだけ緩める。緊張と高揚がない交ぜになった疲労が、腕の付け根あたりにじんわりと滲み始めていた。それでも、嫌な重さではなかった。
料金所の照明が、次第に近づいてくる。橙色の光に照らされたゲートの列は、荒野の月明かりとはまるで違う、人工的な暖かさを帯びていた。コンクリートの屋根が頭上を覆い、その下を等間隔のレーンが貫いている。夜間は大半のレーンの遮断機が上がったままで、通過する車が、そのたびに短い電子音を鳴らしていた。信号を返した車にだけ、課金が走る音だった。
並んだゲートの向こう、対向車線の路肩に、数台のバイクが等間隔に停まっているのが見えた。
ヘッドライトを消したまま、ただ静かに並ぶ影だった。人影はどれも動かず、顔は目元だけを覆う面に隠れていた。傍らには、細長い輪郭がいくつか沿っている。それが何なのか、この時のニッカは確かめなかった。
胸の奥で、何かが小さく引っかかった。
並び方が、整いすぎている。そう思った一瞬だけ、引き返すという選択肢が頭をよぎった。だが、引き返すには、さっきのゲートの下をもう一度潜らなければならない。今夜いちばん危うい橋を、わざわざ二度渡る理由が、あの影の列にあるとは思えなかった。夜のハイウェイに休むライダーの一団など、珍しい光景ではないはずだった。そう結論づけて、ニッカは速度を維持したまま前へ進み続けた。料金所の手前では、最も端の、照明の薄いレーンへ車体を寄せる。目立たないための、いつもの選び方だった。
危険の正体を見極める目。バートの言葉を、ニッカはもう一度胸の中で反芻する。今夜すでに一度、その教えに助けられた。この先も、同じように読み違えなければいい。そう思いながら、彼女はゲートの照明が作る光の帯へ向けて、迷いなく車体を滑り込ませていった。
彼女の通るレーンでは、電子音が一つも鳴らなかった。照合されるものを持たない車体は、課金の機械にも、何一つ報せない。誰からも請求されない通過は、存在を認められていない証でもあった。電子音の途絶えたその一角で、聞こえるのは自分の排気音だけだった。
三本の排気音が、料金所の壁に反響して大きく膨らむ。コンクリートの屋根の下で、音は逃げ場を失い、幾重にも重なって夜へ溢れ出していった。
ゲートを一つ、また一つと通り過ぎていく間、視線は前方に固定されたままだった。橙色の光に照らされた自分の影が、路面の上を長く伸びていく。街の人工灯だけが作り出す、独特の輪郭だった。
誰の耳にも届くその音が、静かに並んだ影のうちの一つを微かに揺らしたことに、ニッカはまだ気づいていなかった。