料金所の橙色が背後へ遠ざかり、夜の暗さが戻りかけた頃だった。
針金で括り付けた小さなミラーの隅で、光の並びがふいに崩れた。
ニッカは最初、見間違いだと思おうとした。だが崩れた並びは一つにまとまり、やがて一斉に灯る形へと変わっていく。対向車線の路肩に停まっていた影が、中央分離帯の管理用の切れ目へ次々と滑り込み、こちらの車線へ流れ込んでくる。白く鋭いヘッドライトの群れが、闇の中に等間隔で浮かび上がった。
正確な数を数える暇はなかった。ただ、先ほどまで静かに並んでいたはずの影が、今は一つ残らずこちらへ向いていることだけが、はっきりと分かった。
「……嘘でしょ」
誰に向けるでもない呟きが、ゴーグルの内側に小さくこぼれる。
空気が変わったのを、ニッカは肌で感じ取っていた。根拠のない直感ではない。荒野で何度も嗅いできた、獲物を見つけた側の気配そのものだった。
あの並び方は、休憩でも待ち合わせでもなかった。等間隔に停められた車体。消えたままのヘッドライト。いつでも動き出せる姿勢を保ったまま、ただ通行量を見送っていた影。今にして思えば、あれは罠を張る側の静けさだったのだ。料金所の手前で、引き返す選択肢が頭をよぎったことを、ニッカは思い出す。夜のハイウェイに休むライダーなど珍しくない。そう結論づけて押し切ったのは、自分だった。
バートの声が、ふと耳の奥で蘇る。獲物は、飛びかかる前に必ず息を潜める。息の潜め方が長すぎる相手ほど、油断するな。
ラフィ・シヴの一団が廃車の陰に潜んでいた午後のことも、一緒に思い出された。幼いニッカの手を引いたバートは、一言も発さずに回り道を選んだ。後になって理由を尋ねると、返ってきたのは短い一言だけだった。静かすぎる場所には、静かでいたい理由がある。
その教えを、自分は今夜、別の街の別の相手に読み違えた。苦い自覚が、胸の奥を一瞬だけ刺した。
左手首の端末が、間を置かず震えた。応答するより早く、耳の奥へ乾いた声が差し込んでくる。
『後ろ、五台。動きが変わった』
「見えてる」
『速度、上げすぎるな。まだ確定じゃない』
まだ確定じゃない。その一言に、小さな望みが残されているのは分かった。だが背後の光の並びは、すがるにはあまりに整いすぎている。
キーウィの声には、いつもの平坦さの奥に、わずかな硬さが滲んでいた。ニッカは振り返りたい衝動を堪え、視線を前へ据え直す。振り向く動作そのものが、体勢を崩す隙になりかねない。ミラーだけで、今は十分だった。
ミラーの中の光は、数えるたびに増えているように見えた。一台、二台、三台。五つ目で、数えるのをやめた。
「……タイガークロウズ?」
その名を口にした途端、胃の底がひやりと冷えた。
『十中八九』
短い答えが返る。想定していなかったわけではない。出発前に、キーウィ自身が口にしていた通りの展開だった。それでも、実際に起きるとなると話は違う。頭で分かっていることと、肌に伝わる重さの間には、埋めようのない差があった。
背後のエンジン音が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
単発の唸りではない。複数の音が、微妙にずれながら重なり合う響きだった。ニッカはスロットルを一段だけ開ける。上げすぎれば、それ自体が挑発になりかねない。かといって緩めれば、距離を詰められるだけだった。その狭間の速度を、指先の感覚だけで探り続ける。
焼けた混合油の甘い匂いが、風に混じって鼻先を掠めた。三本の排気管が刻む拍子は、いつもと変わらない。変わっていないことだけが、今は頼りだった。
一台が、車列の脇から滑り出すように加速してきた。
白いヘッドライトが、ミラーの中でみるみる膨らんでいく。ニッカは車線を軽くずらし、隣を走る乗用車の陰へ身を寄せた。だが、その程度の目隠しは、相手の速度の前ではほとんど意味を成さなかった。
並びかけてきた車体は、艶やかな漆黒の地に、赤いネオンラインを幾筋も走らせていた。フェンダーの縁には鋭い意匠が刻まれ、街の光を弾くたびに鋭く煌めく。荒野の廃品を継ぎ接ぎしたニッカの車体とは、生まれからして違う一台だった。
ライダーの顔は、目元だけを覆う金属質の面に隠れている。面の縁には、淡い青の光が照準の線のように走っていた。背には長い柄の輪郭。ジャケットの袖口から覗く手首では、鬼の面を象った発光タトゥーが、赤く脈打っている。
「――おい、そこの骨董品」
風の唸りを割って、声が届いた。若い男の声だった。
「うちの縄張り、勝手に走ってんじゃねえぞ」
凄みを利かせたつもりらしい響きの奥に、隠しきれない好奇心が混じっている。ニッカは答えなかった。相手にする理由も、余裕もない。
「無視かよ。……いいねえ、その面構え」
男は笑いを含んだ声で続けた。
「三気筒の実車なんて、雑誌でしか見たことねえよ。どこで拾ったんだ、それ。……それにこの音だ。料金所の手前から、耳に刺さってたぜ」
最初に気づかれたのは、姿ではなく音だったのだ。ニッカは唇を結ぶ。
答える気はなかった。油断すれば距離を詰められる。視線は前に固定したまま、車体を一段深く伏せる。荒野で敵の巡回をやり過ごしていた頃の姿勢が、体の奥から自然と呼び起こされた。
隣を走る男の視線が、車体の隅々を這うように動いているのが分かった。値踏みするような、それでいてどこか無邪気な視線だった。縄張りへの侵入者を咎める顔と、珍しい獲物を見つけた子供の顔が、同じ表情の中に同居している。
排気量だけなら、相手も決して劣らないらしい。並走する速度の伸びが、それを物語っていた。違うのは、あの車体が電子で動く部分を山ほど抱えていることだ。ニッカの一台には、乱される回路がそもそも一つもない。
「答える気、ねえのか。つれねえな」
男はそう言うと、後方へ向けて片手を軽く振った。合図だと分かるまで、一拍の間があった。残りの四台が隊列を組み替えるように速度を上げ、じわじわとニッカの車体を包み込む位置取りへ移っていく。
『囲む気だ』
端末越しに、キーウィの声が硬さを増した。
『殺る気は、まだ薄い。ただ、追い詰める気だけは本気だ』
「分かってる」
分かっていても、恐怖が消えるわけではなかった。頭で理解することと、腹の底で納得することは、まったく別の作業だった。
『相手にするな。前だけ見ろ』
助言というより、確認に近い響きだった。ニッカは短く頷き、周囲の光の配置を頭の中で組み直す。前に一台、右後方に二台、左後方に一台。残る一台の位置だけが、まだ視界に入っていなかった。
頭に叩き込んだ経路図を、ニッカは今一度たどり直す。外周への分岐まで、あと数百メートル。その手前に、本線から外れる連絡路の入り口があるはずだった。開けた本線では、囲みは崩せない。賭けるなら、あの狭い一本道しかない。
左手側から、風を切る音が近づいてくる。振り返らずとも分かった。最後の一台が、死角から距離を詰めてきている。
右後方の一台が、車体を寄せながら声を張った。
「兄貴、こいつどうします」
「まだ見てろ。すぐには、手ぇ出すな」
先頭の男が答えると、周囲から低い笑い声が上がった。
隣の車線を走る乗用車の窓越しに、端末を掲げた誰かの手が見えた。物珍しさに駆られたのか、こちらへレンズを向けているらしい。撮られている、という自覚が、ニッカの胃の底を重くした。顔をゴーグルごと、わずかに反対側へ背ける。目立ちたくない一心で積み重ねてきた日々が、こんな些細な瞬間から綻びかねない。
左後方の一台が、車体を大きく揺らして煽るように距離を詰めてくる。
「なあ、ちょっとくらい相手してくれてもいいだろ。こんな骨董品、久しぶりなんだよ」
軽い口調の奥に、確かな圧があった。ニッカは視線を動かさない。反応そのものが、隙になりかねなかった。
彼らは、獲物を仕留めることより、追い詰める過程そのものを楽しんでいる。焦って動けば、それこそ相手の思う壺になる。
周囲の車列も、異様な集団の存在にようやく気づき始めていた。数台先の乗用車が、慌てたように車線を空ける。誰も進んで関わろうとはしない。この街では、見て見ぬふりもまた一つの生存術なのだと、ニッカは冷めた頭の隅で理解していた。
視界の端で、別のライダーの声が上がった。少し離れた背後からだった。
「なあ、あの車体、街の骨董市にも出回ってねえ型だぞ」
「田舎から流れてきたんだろ。珍しいもんが拾えたぜ」
軽い調子で交わされる会話に、狩る側の余裕がにじんでいた。
不意に、乾いた電子音が耳を掠めた。
高い音程で始まり、間隔を詰めながら急速に上がっていく音だった。背筋を、冷たいものが走り抜ける。
「――ロックオン音」
思わず漏れた呟きに、端末越しのキーウィが即座に反応した。
『スマート武器か』
「多分」
『威嚇だ。今のところ、殺すつもりはない』
断言する声に、ニッカは僅かに眉を寄せる。
「今のところ、って」
『向こうの気分次第だって話だ。舐められるな』
背後で、短い銃身が持ち上がったのが、ミラーの隅に映った。黒い筒先が、こちらの背中をまっすぐ指している。見えない指で背骨をなぞられているような、嫌な感覚だった。
音は、なおも間隔を詰め続けていた。ただ、どこかがおかしい。上がっていく途中で、最後の一段だけが固まりきらないのだ。電波の返事を一つも持たない車体には、狙いを確定させる手がかりが足りないのだろう。電子を発しない一台の、これが最初の効き目だった。
だが、それも長くは続かないと分かっていた。銃を構えた男の面を走る青い光が、車体の輪郭だけを頼りに、照準を少しずつ絞り込んでいる。音程が半音上がるごとに、逃げ切れる確率が削られていくのが、体感として理解できた。
廃材から妨害装置を組む手立てが、まるでないわけではない。だが走りながら工具箱を開ける余裕はなく、周囲には無関係の車が何台も走っている。巻き込みかねない荒っぽい手段は、最初から選択肢になかった。
逃げ切るには、相手を無力化するか、追尾そのものを断つしかない。武器は持っていない。選べる道は、一つだけだった。
デジタルの足跡は残らない。だが、目と耳の足跡までは消せない。出発前にキーウィから聞いた言葉を裏返せば、こうなる。電子的な追尾を狂わせる場所さえ見つければ、話は変わってくる。
高架の支柱に組まれた鉄骨と、周囲を覆う古い通信設備の残骸。頭に叩き込んだ地図の中に、それらしき区画があったはずだった。廃通信設備は、雑多な電波を勝手に撒き散らす。荒野の廃墟でも、ラジオが砂嵐のような音しか拾わなくなる場所を、いくつも知っている。
「……高架下」
『――何?』
「信号が乱れる場所、知ってる」
端末越しに、キーウィが息を呑む気配が伝わってきた。
『本気か。あそこは道が細い』
「他に、ない」
『……無茶するね、相変わらず』
呆れたような響きの奥に、止める気配はなかった。
『信号が乱れるなら、こっちの声も落ちる。今のうちに言う。入口の次の角は右。左は行き止まりだ』
「右。了解」
ニッカの判断を信じているからこそ、余計な口を挟まないのだと分かる。荒野にいた頃には、こんな形で誰かに背中を預けたことなどなかった。
電子音が、さらに一段甲高くなった。
ロック完了まで、あと数秒。数字で測ったわけではない。それでも、音の質の変化だけで、残された猶予の少なさが分かった。頭上を横切る出口標識に、ニッカは視線を走らせる。外周方面への分岐、その手前に、連絡路への入り口があるはずだった。
スロットルを一気に開け放つ。
三本の排気管が、これまでで一番大きな咆哮を上げた。車体が前へ押し出される感覚に、ニッカは腰の重心を深く落として応える。並走していた男の声が、驚いたように上ずった。
「――逃げんのか、面白えな!」
嘲るような笑い声が、風にかき消されながらも耳に届く。追走の勢いが、さらに増した。
右前方の乗用車が、突然の加速に驚いてクラクションを鳴らした。反射的に車体を左へ逃がし、詫びる余裕もないまま前だけを見据える。無関係な誰かを巻き込みかけた自覚が、胸の奥をちくりと刺した。この街の道には、いつも誰かの日常が同居している。
連絡路の入り口を示す小さな標識が、視界の端に飛び込んできた。ニッカは車線を大きく跨ぎ、本線から外れる分岐へ車体を滑り込ませる。
背後で複数のクラクションが重なった。急な進路変更に驚いた一般車両のものだった。
ミラーを確かめる。続いて入口へ滑り込んできたヘッドライトは、三つ。残る二つは、本線に残ったらしい。先回りの道を知っているのだろう。そう気づいた時には、もう坂の闇が、前方を呑み込み始めていた。
紙の上では一本の細い線だった連絡路が、現物では、暗い喉のように口を開けていた。想像していたよりも狭い。両側を高架の支柱が挟み込み、頭上には剥き出しの配管と鉄骨が幾重にも交差している。街灯の数もまばらで、光の届かない区画が長く続いていた。壁一面に色褪せたスプレーの落書きが重なり、路面には錆びた水滴の跡がまだらに広がっている。空気そのものが、コンクリートと錆の匂いを孕んで淀んでいた。
排気音が支柱の間で幾重にも反響し、何台もの車体に追われているかのような錯覚を呼び起こす。轟音の底では、タンク脇のガチャ子が鎖ごと鳴っていた。歯車同士が触れ合う、不揃いな音だった。
イヤピースに、キーウィの声が飛び込んでくる。
『次の角を――』
言葉は、そこで砕けた。
代わりに、耳の奥へ砂を撒くような雑音が流れ込む。回線が荒れ始めたのだ。鉄骨の反射と、古い設備が撒き散らす雑多な電波が、ルーシーの固めた回線ですら押し流している。
電子音が、ふいに乱れた。
高く澄んでいた音程が、途切れ途切れに歪み始める。ひしゃげて、崩れて、やがて一つの濁った唸りに変わった。追尾信号の経路が、掻き乱されているのだ。読みは、間違っていなかった。
「……よし」
安堵の呟きは、しかし長くは続かなかった。
ミラーの中で、追ってくる男たちの面を走っていた青い光が、ちらついて消える。後続のヘッドライトが、不規則に明滅した。車体に組み込まれた電子制御が、乱れた電波に足を取られているのだ。エンジンの音が一瞬だけ咳き込むように途切れ、背後との距離がわずかに開く。
三本の排気音だけが、変わらない拍子で刻まれていた。乱される回路を、最初から持たない車体だった。電気を使わない計器の針も、ケーブルの先で、いつも通りに振れている。
次の角が迫る。右。キーウィが先に告げた通りに、ニッカは車体を倒した。左の闇には、行き止まりの壁の気配が、黒く立ちはだかっていた。
背後の笑い声が、止んでいた。
ロックオンの音が潰れたことに、彼らも気づいたのだろう。数秒の沈黙のあと、金属の擦れる音が近づいてくる。
照準が使えなくなった以上、相手に残る手段は一つしかない。距離を詰め、直接刃を届かせる。ミラーの中で、先頭の男が背へ手を回し、長い柄を引き抜いた。鈍い光が、刀身の上を走る。
「電子が効かねえなら、こっちで削るまでだ」
低く笑う声に、ニッカは奥歯を噛みしめた。連絡路の幅は、二台が並んで走るにはあまりに狭い。支柱の陰から陰へ車体を小刻みに振り、ぎりぎりの間合いを保ち続ける。
街灯の光の島を一つ抜けるたびに、背後の刃が、闇から浮かんでは沈んだ。先頭の男の手首で脈打つ発光タトゥーが、近づくたびに壁の落書きを赤く染め、また闇へ引き戻していく。その明滅の間隔だけが、距離を測る物差しだった。
刃が一度、風を切って空を薙いだ。狙いは車体ではなく、威嚇だった。刃の起こした風が、遅れて耳元を鳴らす。頬を掠めた冷たさは、本物だった。
二度目の一閃は、狙いが明らかに変わっていた。タンクを掠めるように振り下ろされた刃先に、ニッカは咄嗟にハンドルを切り、車体を大きく傾ける。路面の段差を、足回りが柔らかく受け止めた。荒地向けに組み直したサスペンションの粘りが、こんな場所で自分を支えてくれるとは思っていなかった。
金属を削る嫌な音が、タンクの脇で一度だけ鳴った。傷がついた。確かめる余裕はない。
「――しつこいな、あんた」
男の声には、いつの間にか苛立ちが混じり始めていた。ニッカは答えない。答える余裕そのものが、今は残っていなかった。
背後の排気音が、じりじりと距離を詰めてくる。電子制御が持ち直したのか、それとも腕だけで押してきているのか。肩越しに一度だけ確かめると、刀を提げた男の姿が、思っていたより近くにあった。喉元まで迫り上がるものを、彼女は無理やり飲み下す。
視界の先に、支柱の間隔が急に狭まる区画が見えた。
追ってくる車体は、直線を速く走るために、長く低く作られている。切り返しは利かない。幅の狭い隙間なら、軽く短い自分の車体の方に分がある。ニッカはそう見切りをつけた。
速度を緩めず、彼女は支柱の隙間へ真っ直ぐ突っ込む。
三度目の一閃が、後ろから来た。刃先がフェンダーの縁を舐め、火花を散らす。金属の悲鳴が、尾を引いて耳に残った。
(抜ける)
車体の幅ぎりぎりを、冷たい鉄骨が両側から流れていく。ハンドルの端と支柱の間に残された余白は、指二本分もない。余計な操作を足せば、その瞬間に壁へ叩きつけられる。右の義手も、左の手も、ハンドルの上から動かさない。息を吐くことすら車体の揺れに繋がりそうで、ニッカは呼吸を止めた。
背後で、舌打ちが響いた。苛立ちの底に、感心したような色が混じっている。隙間の手前で、追ってきた男の車体が一瞬たじろいだ。後続の二台は、さらに手前で速度を落とし、支柱の陰へ消えていく。
支柱を抜けきったところで、ニッカは一気に加速した。エンジンの咆哮が、狭い通路の壁に反響して幾重にも重なる。刃の届く距離が、じわりと開いていった。
左の腕が、付け根から重く痺れ始めていた。長く緊張を保った筋肉が、悲鳴を上げかけている。それでも、手を緩める余裕はない。奥歯を噛みしめ、痺れごと握力に変えるつもりで、グリップを握り込んだ。
安堵する間もなく、前方の脇道から、別のヘッドライトが飛び出してきた。
先回りを試みていたらしい一台だった。ニッカは咄嗟にブレーキとスロットルを同時に操り、車体を右へ逃がす。岩陰から飛び出す野生動物を避けるのと、大差のない動作だった。体は、ほとんど反射だけで危険をやり過ごしていた。
行き違いざま、面越しの視線が一瞬だけ絡んだ気がした。その面にも、同じ青い光が走っている。ちらついているのは、この区画の乱れた電波に呑まれているせいだろう。相手は追撃の体勢を立て直すまでに、わずかな間を要していた。その間を、ニッカは逃さなかった。
数センチ違えば、あの車体と正面から衝突していたかもしれない。想像しかけて、すぐに振り払う。今は、結果だけを数えればいい。
なおも背後から、二つのヘッドライトが追いすがってくる。一つは先頭の男。もう一つは、先回りに失敗したばかりのライダーだった。二人分の苛立ちが、エンジンの荒さにそのまま表れている。
「――待てって、こら!」
怒声が、コンクリートの壁に反響して幾重にも重なった。ニッカは答える代わりに、体を一段深く伏せる。空気抵抗が減るごとに、わずかながら速度が伸びていく。壁の落書きが赤と白の光の中を流れ、判読できない文字の連なりが、ほどけて後ろへ消えていった。
連絡路の先に、外周へ抜ける緩やかな下り坂が見えてきた。
背後の気配が、徐々に遠ざかっていくのが分かる。エンジン音の重なりが薄れ、代わりに自分の三気筒だけが刻む拍子が、耳の中ではっきりと浮かび上がってきた。
坂を下りきったところで、ニッカは初めてミラーを確かめた。
坂の上の暗がりから、二つのヘッドライトがちらつきながら現れる。だが、それ以上距離を詰めてくる様子はなかった。狭い通路での取り回しに、相手も分の悪さを悟ったのかもしれない。
鉄骨の影を抜けた途端、耳の奥の雑音がふっと薄れた。回線が、戻ったのだ。
「――旧式バイクの女、覚えとくぜ!」
遠ざかる声が、負け惜しみめいた響きを残して闇に溶けていった。返事をする気力は、もう残っていない。背中に貼りつくような声だった。苦い笑いだけが、こみ上げてくる。
二つの光は、坂の上で止まったまま、見る間に小さくなっていった。エンジンの唸りも、一つ、また一つと夜気に溶けていく。残ったのは、自分の三気筒の拍子と、風の音だけだった。
左手首の端末が、また震えた。
『――無事か』
「まだ」
『まだ、って』
「振り切った。多分」
答える声は、自分でも驚くほど掠れていた。キーウィが小さく息を吐く気配が、イヤピース越しに伝わってくる。
『油断するな。ああいう連中は、しつこい』
「分かってる」
『今の位置は拾えてる。外周方面へ、まっすぐ向かえ。人目の多い区画に出れば、無茶はしてこないはずだ』
的確な指示だった。地図を持たない自分の代わりに、誰かが空から道筋を示してくれている。その事実だけで、張り詰めていた胸の内が、わずかに軽くなった。
『……一つ、聞いていいか』
キーウィの声が、珍しく間を置いた。
「何」
『高架下で電波が荒れるって、どうして分かった。私は、道が細いことしか知らなかった』
問いの形をしていても、咎める響きはなかった。
「分かってたわけじゃない。……荒野の廃墟と、同じ匂いがしただけ」
『匂い』
「古い通信設備の残骸があると、ラジオが砂嵐しか拾わなくなる。それと、同じ」
一拍の沈黙があった。ライターの蓋が、小さく鳴る。
『……勘か』
「半分は」
『半分でも、当たりは当たりだ』
乾いた声の奥に、ほんのわずかな笑いが混じった気がした。だがすぐに、その色は引いていく。
『あの手の連中は、一度目をつけた獲物を、そう簡単には忘れない。今夜のことは、拠点に戻ってから改めて詰める』
淡々とした声だったが、そこに含まれる重みは、ニッカにも十分伝わった。
「……分かった」
『今は、帰ることだけ考えろ』
その一言を最後に、通信は静かに切れた。
心臓の鼓動は、それでも治まらなかった。
握ったグリップの中で、左の指先が細かく震えている。ニッカは右の義手がスロットルの開度を保ち続けているのを一瞥し、それから左手を握って、開いた。二度繰り返すと、震えは少しずつ引いていく。神経の話ではない。握り込みすぎた筋肉が、強張っているだけだ。ゲートを抜けた時に確かめたのと、同じ種類の疲れだった。
頬へ、そっと指を伸ばす。刃が掠めたはずの場所は、汗で湿っているだけで、血の気配はなかった。
三本の排気管の拍子は、最初から一度も乱れていない。乱れていたのは、自分の呼吸の方だった。
戻る時間は、遅くならないうちに。そう交わした約束は、とっくに守れなくなっていた。外周を一周する気も、もう残っていない。
外周へ向かう道の先に、ようやく街灯の密度が増していくのが見えてきた。まばらだった光が、次第に連なりを取り戻していく。人目という盾が戻ってくるにつれ、肩の力が、ほんの少しだけ緩んだ。
ミラーに映る闇には、もう追跡の気配はなかった。それでも、覗き込んで確かめる勇気は湧いてこない。確かめて何もいなければ安堵できる。だがもし何かがまだそこにいたなら、その瞬間に心が折れてしまいそうな気がした。だから今は、前だけを見ていたかった。
撮られていたかもしれない、という考えが、ふいに頭をもたげる。乗用車の窓越しに掲げられていた、あのレンズの光。消えたはずの追跡の代わりに、別の足跡が、どこかで勝手に積み上がっているのかもしれなかった。
新しいチームカーなら、と考えかけて、ニッカはその思考を途中で止めた。
装甲があり、ジャマーがある。誰が乗っても迷わないように組み上げたあの一台なら、今夜の追走は、おそらく何の問題にもならなかっただろう。守ってくれる壁も、代わりに戦ってくれる誰かの手も、この車体にはない。あるのは、自分の判断と指先だけ。そういう道具だった。
それでも、この一台でなければ走れない夜だったのだと思う。装甲もジャマーも持たず、信号の一つも返さないからこそ、あの狭い連絡路へ潜り込めた。みんなの道具ではなく、自分だけの道具。格納庫でファルコに告げた言葉が、今夜は違う重さで胸に残っていた。
汗が、ゴーグルの縁を伝って顎先に落ちる。夜風に晒されているはずなのに、体の芯はまだ熱を持ったままだった。力を込めすぎたグリップの跡が、掌にくっきりと残っている。荒野を走っていた頃には知らなかった種類の疲労が、腕から肩へじわじわと広がっていった。
タンク脇の燃料計へ、ニッカは一瞬だけ視線を落とす。針は、まだ十分な余裕を残していた。小さく息をつく。
遠く、サントドミンゴの方角に連なる灯りが、ようやく視界の端に見え始めていた。あの灯りの下、地下深くに眠る拠点まで辿り着けば、ひとまずこの一夜は終わる。それでも、まだ油断できる距離ではない。
三本の排気管が刻む拍子だけを頼りに、彼女はなおも前へ進み続けた。拠点までの道のりは、まだ半分ほど残っていた。