シャッターの隙間を潜り抜けた瞬間、エンジン音が急に軽くなった気がした。
格納庫の空気は、外の喧騒から切り離されたように静まり返っている。ニッカは車体を定位置まで進め、ゆっくりとスタンドを立てた。キーを回してエンジンを止めると、三本の排気管が最後に一つだけ小さく鳴り、それきり音が絶えた。
静寂が、思っていたより重く肩にのしかかってくる。金属が冷えていく微かな軋みだけが、車体のあちこちから聞こえていた。
広間の中央では、三台の骨を継いだ新しい一台が、闇の中で黙って佇んでいる。装甲があり、ジャマーがあり、誰が乗っても迷わない道具。その大きな影の脇に停めた三気筒は、ひどく小さく見えた。
奥の整備台には、灯りが一つだけ点いていた。開いたままの工具箱の前に、帽子の影が座っている。ファルコだった。こちらへ振り向く気配はない。手にしていたらしい工具が天板へ置かれる、小さな音だけが届いた。
声をかけてこない。それが、今はありがたかった。
ニッカはしばらくの間、シートに跨ったまま動けずにいた。左の腕の付け根に残った痺れが、今になってじわじわと熱を帯び始めている。呼吸を整えようとするたび、喉の奥から乾いた息が漏れた。恐怖と高揚が同じ場所でせめぎ合い、どちらが勝ったのかも自分では判別がつかない。
「……帰ってきた」
誰に聞かせるでもない呟きが、格納庫の静けさに吸い込まれていく。
実感は、まだ遠かった。連絡路の闇を抜け、外周の灯りへ辿り着いた瞬間から、帰り道の記憶は妙にぼやけている。人目の多い区画へ出てからは、速度を保つことだけを考えていた。振り返る余裕も、安堵に浸る余裕もなかった。
鼻の奥には、コンクリートと錆の匂いがまだ残っている気がした。壁を埋めていた色褪せた落書き。頭上を這う剥き出しの配管。瞼を閉じるたびに、それらが鮮明な輪郭を伴って蘇ってくる。逃げ場のない狭さの中で息を潜めていた時間が、今になって体の奥から沁み出してきた。
握りしめていたグリップから、ニッカはようやく指を離した。左の掌には、力を込めすぎた跡がくっきりと残っている。開いて、閉じる。二度繰り返しても、指先の細かな震えは消えなかった。右の義手のほうは、何も言わない。さっきまでスロットルの開度を保っていたのと同じ精度で、膝の上に静かに載っているだけだった。
神経の話ではない。さっきと同じ、握りすぎた生身の疲れだ。そう分かっていても、自分の指先を見下ろしていると、胸の底が少しざらついた。この街の緊張は、荒野の修羅場とは違う質感で体に刻まれる。逃げ切ったという実感すら、簡単には与えてくれなかった。
ゴーグルを外し、額の汗を手の甲で拭う。夜風に晒され続けた体は、芯にまだ熱を残していた。
やがて、体に染みついた癖が、指先を勝手に動かし始めた。
タイヤの空気圧を踏んで確かめる。チェーンの張りに指を這わせる。排気管の付け根には、まだ仄かな熱が残っていた。三本とも、熱はほぼ揃っている。一本だけ熱いなら内側で何かが起きているはずだが、これはただ走った熱だった。荒地向けに組み直したチャンバーの膨らみに、熱で歪んだ様子はない。ハンドル端のミラーが一枚だけ、わずかに内側へ傾いていた。針金を指で押し戻し、角度を決め直す。振り返る暇のなかった夜に、この小さな鏡は思っていた以上によく働いてくれた。
異常を探すというより、いつもの手順を辿ることで乱れた呼吸を整えているのだと、自分でも薄々気づいている。手を動かしていれば、頭の中で暴れ続ける記憶の断片を、少しだけ押しとどめておけた。
しゃがみ込み、タンクの脇へ顔を寄せる。
傷は、すぐに見つかった。煤けた地肌が細く剥がれ、下から金属の素の色が覗いている。工具箱から布を取り出し、周りの煤を軽く拭った。指の腹でなぞると、爪が引っかかる程度の深さだった。同じ種類の筋が、後ろのフェンダーの縁にもある。こちらは浅く、擦ったというより舐めたような跡だった。どちらも、フレームには届いていない。
出発前の点検で最後まで残った項目は、整備士本人の我慢だった。今夜、最後に残ったのは、整備士本人の手の震えだ。車体のほうは、どこにも異常がない。
沈黙を破ったのは、勢いよく開いた奥の扉だった。
「――今の音、三本さんだろ!」
寝間着のまま飛び出してきたレベッカが、格納庫の入口で足を止める。車体の脇に座り込んだニッカを見つけて、目を丸くした。乱れた髪を掻き上げながら、小走りに駆け寄ってくる。
「うわ、マジで帰ってきてる。……って、てめえ、何その顔」
「……どんな顔」
「幽霊でも見たみてえな顔だよ」
的外れとは言い切れなかった。ニッカは口の端をわずかに歪める。
「ちょっと、いろいろあった」
「いろいろって何だよ。はっきり言え」
「刀持った連中に、囲まれた。あと、ロックオンされた」
レベッカの目が、みるみる見開かれていく。
「はあっ!? 刀って、マジで斬られかけたのか!?」
「掠っただけ。当たってない」
「掠っただけって、その言い方おかしいだろ!」
声を荒げる彼女に、ニッカは言葉を継ぐ気力が湧かなかった。詳しい経緯を語るには、まだ頭の整理が追いついていない。
「で、何人だ! 何人いた!」
「五台」
「全員、刀かよ!」
「刀は、先頭の一人だけ。あと、スマート武器持ちが一人」
「くっそ、羨ましい!」
「羨ましがるとこかよ」
あくびを噛み殺しながら、ピラルが扉の向こうから姿を見せた。伸縮する義手で寝癖を撫でつけ、寝ぼけ眼を車体へ向けている。
「……なんだ、朝っぱらから騒がしいと思ったら、ニッカちゃんのお帰りかよ」
「まだ、夜」
「同じようなもんだろ」
軽口を叩きながらも、ピラルの視線はすぐに車体の側面へ吸い寄せられた。タンクの脇とフェンダーの縁に、真新しい擦り傷が走っている。
「おいおい、こいつはまた派手にやったな」
「タイガークロウズに、絡まれた」
兄妹が、同時に息を呑んだ。一拍置いて、レベッカが無言のままニッカの顎先を掴む。ぐいと顔を横に向けさせ、頬の線を覗き込んだ。
「ちょっ、待っ――」
「動くな。……刀、掠ったんだろ。顔、見せろ」
乱暴な手つきだった。それなのに、頬の線をなぞる指先だけは、驚くほど慎重だった。
「……切れてねえな」
「風だけ。当たってない」
「ほんとなんだな?」
「ほんと」
疑わしげに睨んでから、レベッカはようやく手を離した。
「……心配、させんなよ」
いつもの怒鳴り声とは違う、小さな声だった。ニッカは「ごめん」とだけ、呟くように返した。レベッカは鼻を鳴らし、すぐにいつもの熱を取り戻す。
「くそ、あたしも連れてけばよかった。あたしがいりゃ、ハチの巣にしてやったのに」
「一人で、正解だった。連れてたら、余計に目立ってた」
「なんだよそれ、あたしのせいみたいに言うなよ!」
噛みつくように言い返され、ニッカは笑みをこぼした。緊張の残る体に、その騒がしさがどこか心地よく染み込んでくる。
「――なあ、この際だから、また言わせてもらうけどよ」
傷の検分を終えたレベッカが、腕を組んで振り返った。顔には、いつもの得意げな笑みが戻りかけている。
「あたしも、乗せろ」
「……また、それ」
「またも何も、徒歩並みでぐるっと一周しただけじゃねえか!」
「フレーム、二人乗り想定してない。前も言った」
「じゃあ、二人乗り想定のやつ、新しく作れよ!」
勢いのまま言い切るレベッカに、ニッカは疲れたように息を吐いた。今夜だけは、正面から議論する気力が残っていない。
「……考えとく」
「毎回それだけかよ!」
「今日は、無理」
力の抜けた声に、レベッカもさすがに空気を読んだらしい。腕組みを解いて、肩をすくめる。
「……ま、今日は勘弁してやるよ。ハチの巣にできなかった分は、後で埋め合わせしてもらうけどな」
「……検討する」
曖昧な返事にも、レベッカは満足げに鼻を鳴らした。積み残された要求は、今夜もまた次の機会へ持ち越されていく。
少し離れた場所で、ピラルが車体を覗き込みながら口笛を吹いた。視線がタンクの脇へ移ったところで、ふと動きを止める。
「……お、こいつ、まだ付けてたのか」
指差した先には、歪んだ歯車を組み合わせた小さな飾り物が、鎖ごとぶら下がっていた。荒野で拾った廃品を、レベッカが土産と称して押し付けてきた品だった。煤けた地肌のあちこちが擦れ、下から金属の色が覗いている車体の中で、その部分だけは傷一つ負わずに揺れている。
「外す理由、特にない」
ニッカが答えると、レベッカが横から覗き込んで得意げに笑った。
「ほらな、ガチャ子は今夜もちゃんと守ってくれたんだよ。あたしの代わりに乗ってたんだから、実質、二人乗りだろ」
「……お守り扱い、してない。あと、重量はほぼゼロ」
「細けえことはいいんだよ!」
言い返す気力も湧かず、ニッカは黙って視線を逸らした。歯車同士が触れ合う控えめで不揃いな音が、静まり返った格納庫にかすかに響く。鎖の留め具は、今夜の振動にも緩んだ気配がない。不格好な作りのわりに、存外頑丈なのかもしれなかった。
「で、電子的にゃ追えねえって話はどうなったんだよ。ちゃんと効いたのか」
ピラルの問いに、ニッカは少し考えてから答えた。
「ロックオンの音、輪郭だけを頼りに絞ってきてた。返事をする電波が一つもないと、詰めるのが遅くなる。それから高架下で、向こうの電子機器が先に乱れて、」
そこで、言葉を切った。喋りすぎている自覚が、遅れて追いついてくる。
「……ごめん。早口になった」
ピラルは片眉を上げ、それからにやりと笑った。
「いいじゃねえか。ニッカちゃんが機械の話で早口になってる時は、元気な証拠だ」
「でも、音と目には、負けた」
付け足した一言に、ピラルは笑みを引っ込める。
「まあ、どんな道具にも穴はあるってことか。完璧な鉄屑なんて、この世にゃねえもんな」
真面目な調子の呟きに、ニッカは少しだけ意外そうな顔をした。ピラルはすぐ、照れくさそうな笑みへ戻って義手で頭を掻く。
「次は、もうちっと派手な妨害装置でも仕込んでやるよ。俺様の腕なら、電子ジャマーくらい朝飯前だぜ」
「それは、いらない」
即答だった。ピラルの口が、半開きのまま止まる。
「……いらねえのかよ」
「こいつには、電子の部品は一つも積まない。積んだ瞬間に、追われる側になる。今夜いちばん効いたのは、何も返さないことだった」
淡々とした説明だった。ピラルは車体とニッカの顔を交互に見比べてから、片手を振った。
「……なるほどな。守りを固めるより、最初から入口がねえほうが強えってことか。筋は通ってる」
「そう」
「じゃあ、拠点のほうなら文句ねえだろ。カメラの死角でも、配線でも」
「それは、キーウィに聞いて」
「あの姐さん、俺様の腕を信用してんのか?」
「腕は、してる。口は、してない」
「ひでえ言い草だな!」
抗議の声に、レベッカが腹を抱えて笑い出した。ニッカの口元にも、つられて小さな笑みが浮かぶ。
そこへ、奥の通路から足音が近づいてきた。ドリオだった。寝間着の上に上着を引っかけた彼女は、騒ぎの中心の傷だらけの車体を一瞥し、それからニッカの顔色にしばらく視線を留める。通路の陰では、大きな影が一つ、こちらを窺っていた。メインだ。目が合うと、何も言わずに顎を引いて、闇の中へ戻っていく。
「ほら、あんたたち。夜中に騒ぎすぎだよ」
レベッカとピラルが、揃って不満げな声を上げた。
「だってドリオ、ニッカが」
「話は明日、いくらでも聞けるだろ。今夜は、もう解散」
有無を言わせない口調だった。二人は渋々、通路のほうへ引き上げていく。去り際、レベッカが振り返って指を突きつけた。
「二人乗り、忘れんなよ!」
その背中を見送ってから、ドリオは何も尋ねず、ただニッカの肩へ軽く手を置く。
「……無事なら、それでいいわ」
それだけを残して、彼女も踵を返した。事情を根掘り葉掘り聞かない距離感が、今のニッカには何よりありがたかった。
扉の閉まる音を最後に、格納庫は再び静かになった。
その静けさを待っていたように、整備台のほうから靴音が近づいてくる。ファルコだった。帽子のつばに指をかけたまま、彼はまっすぐ車体の脇まで歩いてきた。空いたほうの手には、くすんだ金属のカップが握られている。
しばらくの間、ファルコは無言で傷を見つめていた。タンクの脇の細い筋。フェンダーの縁の浅い擦過痕。一つずつ視線でなぞるように確かめてから、静かに口を開く。
「……無事に帰ってきた。それだけで、上出来だ」
短い一言だった。だが余計な言葉よりずっと確かに、ニッカへ届いた。
「……傷、目立つ?」
「多少はな。それでも、走りに支障が出るほどじゃねえ」
膝をつき、ファルコはフロントフォークの動きを軽く確かめる。荒地向けに組み直した足回りは、今夜の逃走を経てもなお、目立った歪みを見せなかった。
「サスペンション、よく粘った」
「ファルコの助言、いきた」
「そいつは光栄だな。……それと、音だ。出てからずっと、耳だけは外へ向けてた。搬入路を降りてくる三本の拍子が、一度も乱れてなかった」
職人の耳で下された評価だった。ニッカは返す言葉を探して、結局、頷くことしかできなかった。
「連絡路へ潜ったのも、正解だ。囲まれたら、広い場所で粘るもんじゃねえ。ああいう図体の車は、狭い道で切り返しが利かなくなる」
「……ありがとう」
「礼を言われる話じゃねえよ。読んだのは、あんただ」
立ち上がったファルコは、帽子のつばを軽く押し上げ、ニッカの顔を正面から見据える。血の気の引いた頬。汗の乾いた跡。どちらも見逃さない目つきだった。
「顔色、悪いぞ」
「……分かってる」
「だろうな。……ほら」
差し出されたのは、くすんだ金属のカップだった。中には、汲んだばかりらしい冷たい水が揺れている。
「喉、渇いてるだろ。走ってる間は、気づかねえもんだ」
受け取って一口含むと、冷たさが喉を通り抜けた。その途端、自分がどれほど渇いていたかに気づく。ほとんど息継ぎもせずに飲み干して、ニッカは空になったカップを見つめた。
「……生き返った」
「大げさだな」
そう言いながらも、ファルコの声は柔らかかった。
「慣れねえ街の夜を、あの音で一人で走って、自分で帰ってきた。大した仕事だ」
彼は、ほんの少しだけ口の端を上げる。
「……ご苦労さん」
その一言が、不意打ちのように胸へ落ちてきた。依頼でも報酬でもない。誰のためでもなく走った一夜を、ただ労ってくれる人がいる。そのことが、疲れた体のどこかを、静かにほどいていった。
「洗い物は、俺がやる。置いとけ」
空のカップを受け取ると、ファルコは静かに背を向けた。整備台の灯りへ戻っていく歩幅に、急ぐ気配はない。多くを語らない優しさが、その背中からじんわりと伝わってきた。
入れ違いに、乾いた靴音がゆっくりと近づいてきた。
「――派手にやったみたいだね」
煙草を指に挟んだキーウィが、格納庫の入口に姿を見せる。先端の灰が、不自然なほど長く伸びたままだった。火をつけてから、一度も吸っていないらしい。
彼女は傷だらけの車体には目もくれず、まずニッカの顔を見た。頭から、ブーツの先まで。確かめるように一度だけ往復して、それからようやく車体へ視線を移し、片眉を上げる。
「……見てたの?」
「見えてた範囲だけな」
ニッカは頷いた。高架へ上がってからの道筋を、キーウィが借り物のカメラ越しに追っていたことは、確かめるまでもない。
「怪我は」
「ない。……多分」
「多分、は聞き飽きた。腕、上げてみろ」
言われるまま、ニッカは左腕を持ち上げ、肩を回してみせた。痺れは残っているが、動かせないほどではない。異常がないことを確かめて、キーウィは短く息を吐く。いつもの平坦な声の前に、細く長い息が一つ混じっていたことを、ニッカは聞き逃さなかった。
「……そう。なら、いい」
伸びきった灰を、缶の縁で静かに落とした。
「――さっきの続き、聞かせてもらうよ」
キーウィの声が、一段静かなものに変わった。
「今夜のことは、拠点に戻ってから改めて詰める。そう言ったはずだ」
「覚えてる」
「まず、映像の話。高架の定点カメラを何台か借りてた。窓から端末を掲げてる乗用車が、一台、映ってる」
指摘されて、ニッカは胃の底が冷えるのを感じた。あのレンズの光が、もう一度、瞼の裏で瞬く。ゴーグルで半分は隠れていたはずだった。それでも、三本並んだ排気管と、あの音だけは隠しようがない。右腕の義手まで映り込んでいれば、噂はまた一つ、具体的な輪郭を得てしまう。
「……撮られてた」
「撮られてたと思っておけ。端末の中身までは、私にもどうにもならない。カメラ側の記録なら、拾えるだけ拾って潰しておく」
責めるような響きはなかった。ただ、手順を語る口調だった。
「デジタルの足跡は残らない。ナンバーもない、登録もない。追跡プログラムを仕込む隙も、あんたのその鉄屑にはない」
「でも」
「でも、目と耳の足跡までは消せない。出る前にも言ったことだ」
乾いた事実が、ニッカの胸に静かに沈んでいった。
「料金所の連中は、あんただけの読み違いじゃない。私も、映像で並びの不自然さに気づいたのは、あいつらが動いた後だ」
「……でも、引き返そうかって、一瞬だけ思った。押し切ったのは、私」
「迷えたなら、次は引き返せる。迷いもしない奴よりは、ずっとましだ。それに、次は一緒に読む。回線を繋いでる意味は、そこにある」
慰めには聞こえない、乾いた言い方だった。それでも、胸の奥で固まっていた何かが、少しだけ緩んだ。
「それから、高架下だ」
続いた言葉に、ニッカは顔を上げる。
「連絡路の中は、カメラが届かなかった。回線も落ちたしね。見えたのは、出口でちらついてた光が二つだけだ。向こうの電子機器のほうが、先に参ったんだろう」
「うん。面の青い光が、消えてた」
「あんたの鉄屑は、拍子ひとつ変わらなかったってわけか。皮肉な話だ。何も返さない道具が、そのまま盾になった」
褒めているのか呆れているのか、判別のつかない口調だった。
「次に走る時は、勘が当たりそうな場所も先に言え。回線の逃げ道くらいは、こっちで用意できる」
「……分かった」
「出る前に、私が何て言ったか覚えてるか」
「……心配は、してない」
「あれは、嘘だ」
あまりに平坦な声で言われて、ニッカは一拍、意味を取り損ねた。
「回線が落ちてた間に、煙草を三本、無駄にした。火をつけただけで、吸ってもない」
入口に現れた時の、不自然に長い灰を思い出す。あれは、そういうことだったのか。
「仲間が囲まれてるのを画面越しに見せられる側の身にもなれ。心臓に悪い」
仲間、という言葉が、驚くほど自然に口からこぼれた。ニッカは聞き返すことも忘れていた。居候のつもりでいた時間は、いつの間にか、とうに過ぎていたらしい。
「……ごめん」
「謝る話じゃない。……話を戻す」
咳払いにも似た短い間のあとで、キーウィはいつもの調子に戻った。
「タイガークロウズは、旧式バイクの女、って呼んでたらしいな」
「聞こえてた?」
「回線が戻ってからは、風の音ごと拾えた」
確認されて、ニッカは思わず視線を逸らした。遠ざかる声を背中に受けた時の苦い笑いが、また同じ形で込み上げてくる。
「都市伝説の、次のネタか」
「そういうこと。地下に潜む謎のメカニック。壁を溶かした鉄くず拾い。今度は、旧式バイクの女。あんたの噂、もう三つ目だ」
数え上げるような口調に、ニッカは深く息を吐いた。目立ちたくない一心で積み重ねてきた日々が、こんな一夜からも綻んでいく。苦笑すら、今は出てこなかった。
「……気をつける」
「気をつけたところで、噂そのものは止まらない。ただ、これ以上の燃料を、自分から投げ込むのはやめておけ」
釘を刺す一言に、ニッカは黙って頷いた。
バッドランズの噂は、中央キャンプの輪の内側で終わるものだった。水筒を届けに来る少女の命名も、老女のからかい半分の言葉も、そこから先へは出ていかなかった。この街の噂は違う。掲示板を通じて見知らぬ誰かの手に渡り、姿も知らない人間の想像を勝手に膨らませながら、際限なく育っていく。
「タイガークロウズは、縄張り意識の強い連中だ。今夜は見逃されただけで、次に出くわせば、もっと本気で追ってくるかもしれない」
「……次、出くわさなければいい」
「出くわさない保証は、どこにもない。あんたの噂を聞いた誰かが、こっちから探しに来る側になることだってある」
淡々と積まれていく可能性に、ニッカは唇を結んだ。噂が具体的な追跡へ変わる日を、どこかで軽く見積もっていたのかもしれない。
「その時、最初に顔を合わせるのは私らだ。あんた一人に、相手をさせる気はない」
続けて告げられた一言だけは、重さとは違うものとして胸に残った。
「拠点の防衛、もう一度見直す必要がありそうだ。カメラの死角も、通信の防壁も」
「……また、仕事増やすことになる」
「増やすのは、あんたじゃない。私とルーシーの仕事だ。ここは、あんたが帰ってくる場所だろ。穴があるなら、塞ぐのは私らの役目だ。あんたは、鉄屑をいじってりゃいい」
突き放すような言い方だった。だがその奥にあるのは、気遣いというより、もっと当たり前の顔をした何かだ。帰る場所と、そこへ帰る人間を守る。それが仕事の一部だと言わんばかりの声音だった。ニッカは小さく息を吐き、頷き返す。
「ルーシーには?」
「明日、話す。あの子は今、ぐっすり眠ってる。今夜くらい、起こさずにおいてやりたい」
柔らかい響きの一言だった。素っ気なさの奥に、弟子への気遣いが滲んでいる。ルーシーが日々積み上げている防壁の穴埋めに、また一つ仕事が増える。それでも、今夜のうちに背負わせる必要はなかった。
「あんたも、似たようなもんだけどな」
「……何が」
「今すぐ全部背負い込む顔をしてる。それは、明日でいい」
言い当てられて、ニッカは口をつぐんだ。反論の材料は、今の彼女の中に残っていない。
「今夜のことは、もう十分だ。あとは、体を休めることだけ考えろ」
畳みかけるような口調に、ニッカは目を伏せて頷いた。荒野にいた頃なら、休めと言われても素直に従わなかったかもしれない。今は、言葉の裏にある気遣いを、疑わずに受け取れる自分がいた。
キーウィは煙を細く吐き出し、しばらく車体の傷を見つめていた。
「――それでも」
ぽつりと漏れた声に、ニッカは顔を上げる。
「電子で追えない道具ってのは、この街じゃ、思ってる以上に貴重だ。企業もギャングも、まず端末で獲物を探す。そこに引っかからないってだけで、生き延びられる場面は多い」
「褒めてる?」
「事実を言ってるだけだ」
澄ました声に、ニッカは小さく笑った。素っ気ない言い回しの奥に確かな評価が滲んでいることは、今ではもう見抜けるようになっている。
「今夜は、運もよかった。次も同じように切り抜けられるとは、思うなよ」
「分かってる」
答えた手元へ、キーウィの視線が落ちた。グリップを握り続けていた左の指先が、まだ微かに震えている。
「……その手、いつまで震えてる」
「もう、大分収まった」
「大分、じゃ収まってないってことだ」
言い当てられて、ニッカは思わず手を握り込んだ。誤魔化しはこの人には通じないと分かっていながら、咄嗟に隠そうとする癖が抜けなかった。
「無理に止めようとするな。震えるくらい、当たり前の夜だった」
思いがけない一言に、ニッカは顔を上げる。キーウィはそれ以上目を合わせず、煙草の灰を落としながら続けた。
「震えない奴の方が、私はよっぽど信用しない。痛みも恐怖も感じない奴は、いずれどこかで大きく踏み外す」
乾いた声の奥に、経験に裏打ちされた重みが滲んでいた。ニッカは黙って頷き、握り込んだ手をゆっくりと開く。震えは、まだ完全には消えていない。それでも、その震えを恥じる必要はないのだと、初めて言われた気がした。
「あんたのことは、信用してる。出る前にも言ったろ。あれは、世辞じゃない」
キーウィは相変わらず、目を合わせようとしなかった。誰も信用するな。それが口癖の人の口から、何でもないことのように転がり出た一言だった。どれほどのことか、今のニッカには分かる。
「一人で走るな、とは言わない。ただ、端末は繋いだままにしろ。あんたが一人で走ってるつもりでも、こっちは、一人にしたつもりはない」
念を押すような言葉に、ニッカは素直に頷いた。喉の奥が、少しだけ詰まる。
「……ありがとう」
「礼はいい」
短く返して、キーウィは煙草を最後まで吸い終えた。缶の中へ丁寧に押し消し、背を向けて格納庫の奥へ歩き去っていく。数歩進んだところで、その足が止まった。
「ああ、それと」
振り返らないまま、片手だけが軽く上がる。
「……おかえり」
煙に紛れそうなほど、小さな声だった。返事を探すより先に、その背中は通路の闇へ消えていた。
一人残されたニッカは、しばらく車体に寄りかかったまま動けずにいた。
傷だらけのタンクに、整備台の灯りが鈍く映っている。荒野を走るために組み上げた一台は、この街でも、新しい傷を一つずつ重ねていくらしい。キーウィの言葉が、耳の奥にまだ残っていた。デジタルの足跡は残らない。だが、目と耳の足跡までは隠しようがない。頭で理解していたつもりの理屈が、今夜、初めて肌で分かる重みに変わっていた。
完璧な隠れ蓑など、この街のどこにもない。
それでも、隠しきれなかった夜の先に、待っていてくれる場所があった。
バートが教えてくれたのは、危険の正体を見極める目だけではなかったのかもしれない。見極めた先に何を守り、誰の元へ帰るのか。あの人は、きっと言葉にせずとも分かっていたのだろう。幼い頃には届かなかった教えの奥行きが、この街で少しずつ形を変えながら、腑に落ちていく。
タンクの脇の傷を、指先でそっとなぞった。冷たい金属の下に、まだ微かな熱が残っている。この傷も、いずれ他の傷と同じように、車体の一部として馴染んでいくのだろう。歯車の飾りだけが、傷一つ負わずに小さく揺れていた。指で軽く押さえると、不揃いな音が止まる。離すと、また鳴り出した。守られたのか、単に運がよかっただけなのか。答えは出ない。それでも、無事に戻ってきたという事実のほうが、今は何よりも大きかった。
気づけば、指先の震えは止まっていた。いつ止まったのか、自分でも分からない。
「……ただいま」
先に告げられていた言葉への、遅すぎる返事だった。静まり返った格納庫に、その声が落ちる。
応える声は、なかった。
代わりに、奥の通路から、ドリオに叱られたらしいレベッカの声が微かに聞こえてくる。ピラルの笑い声が、それに重なった。続いて、整備台のほうから、工具箱の蓋を閉じる乾いた音が一つ。ファルコが、ようやく手を止めたらしい。
誰もが、それぞれのやり方で今夜の帰りを待っていた。その事実が、今になってようやく、体の芯まで届いた。
窓のない格納庫の奥へ、配管の隙間から夜風が流れ込み、ふと頬を撫でていく。地上では、そろそろ空の縁が薄い藍色に変わる頃だろう。ここからでは見えない。それでも、光の洪水の向こうに朝が訪れていることだけは、確かに感じ取れた。
布を畳んで工具箱へ戻し、蓋を静かに閉じて、ニッカは立ち上がる。三本の排気管の影が、床に長く伸びていた。噂は、これからも勝手に育っていくのだろう。それを恐れて足を止めるつもりは、もうなかった。
二人乗り想定の、新しいフレーム。そんな言葉がふと頭を過った。重心の位置と荷重の分散を数え始めている自分に気づき、ニッカは首を振る。今夜はもう、何も考えない。
奥の通路から、笑い声がもう一つ弾けた。ニッカの口元に、知らず小さな笑みが浮かぶ。今夜という一夜も、いずれ記憶の奥へしまい込まれていくのだろう。それでも、その前にもう少しだけ、この温もりに浸っていたい。そう思いながら、彼女は軋む足取りのまま、明かりの灯る奥へと歩を進めた。