作業台の照明が、焦げついたグリップの断面を白く照らし出していた。
こんなはずじゃなかった、と頭の片隅でニッカは思う。誰にも深く関わらず、静かに暮らす。ただそれだけを望んでここまで来たはずだった。それなのに今、見ず知らずだった訪問者の壊れた銃を、こうして手ずから直している。矛盾した状況に苦笑しながらも、彼女の指先は止まらなかった。壊れたものを前にすると、理屈より先に手が動いてしまう。その性分だけは、何年経っても変わらないままだった。
ニッカは細いピンセットの先で、内部の配線を一本ずつ丁寧に辿っていく。無駄な力を込めず、指先だけで機構の呼吸を読み取るような手つきだった。頭の中では、前世の記憶が静かに再生され続けている。どの端子を短絡させれば出力が伸びるか。どの冷却経路を組み替えれば熱暴走を防げるか。ゲームの裏技として何百回と試した組み合わせが、そのまま現実の金属の上で像を結んでいく。
排熱の通り道が、根本から間違っていた。グリップの内側で発生した熱が逃げ場を失い、そのまま基板へ押し戻される構造になっている。誰がこんな設計にしたのか、ニッカにはさっぱり理解できなかった。舌打ちを堪えながら、彼女は熱源の位置を確かめ直した。
「……これじゃ、燃えて当然だよ」
呟きながら、ニッカは廃品箱から古いドライヤーのモーターを引っ張り出した。巻き線の抵抗値を指先で確かめ、満足そうに小さく頷く。使えるものは、どんな姿をしていても使える。バートが繰り返し教えてくれた言葉が、いつも作業の合間に蘇ってきた。
熱を殺すのではなく、行き場を与えてやる。前世のゲームでは、単なる裏技の一つに過ぎなかった発想だった。武器の熱暴走を防ぐために、開発陣が想定していなかった排熱経路を無理やり作り出す。バグと呼ぶ者もいたが、ニッカにとってそれはただの理屈だった。理屈である以上、現実でも通用するはずだった。
分解を進めるうち、スコープの基部に取り付けられた照準補正回路の粗さにも気づいた。安物特有の作りで、発砲のたびに微妙な誤差を積み重ねる構造になっている。放っておけば、いずれ着弾は狙いから大きく逸れていくはずだった。ニッカは眉を寄せ、廃品箱の底から古いスマートフォンの基板を探り出した。演算回路の一部を流用すれば、簡易的な弾道補正くらいはやってのけられる。壁越しに追尾する自作のスマートリンクを組んだ時と、原理はさほど変わらなかった。
離れた作業台の陰から、レベッカがじっとその手元を見つめていた。
「なあ、まだかかりそうか?」
「静かにして。集中してるから」
「いや、気になんだよ! 自分の銃だぞ!」
「気になるなら黙って見てて。喋ると手元が狂う」
ぴしゃりと返され、レベッカは口を尖らせながらも大人しく口をつぐんだ。数秒と持たずにまた身を乗り出してくる様子を見て、ニッカは小さく息を吐いた。誰かにこれほど近くで作業を見られるのは、久しぶりのことだった。落ち着かないはずなのに、不思議と手の動きは止まらなかった。
グリップの配線を組み直し、ニッカは給弾機構の分解に取りかかった。ネジを緩めるたびに、内部の歯車が焼け焦げた匂いを漂わせる。連射速度を優先するあまり、耐久を度外視した設計だった。原型を留めたまま速度だけを底上げしようとすれば、いずれまた同じ末路を辿るだろう。ニッカは歯車の噛み合わせを一段階だけ緩め、代わりに給弾のタイミングそのものを組み直すことにした。
「速度は落ちるかもしれない。その代わり、二度と焼けなくなる」
「マジか。……いや、それでいいよ。あたし、撃てなくなる方がよっぽど困る」
「最初からそう言えばいいのに」
素っ気なく返しながらも、ニッカの手はもう次の工程へ移っていた。ドライヤーのモーターから抜き取った巻き線を、彼女は熱源の直下へ通していく。余分な熱を電力に変換し、そのまま冷却ファンへ還元する仕組みだった。ゲームの中では単なる裏技の一つに過ぎなかったその発想が、目の前の壊れた銃の中で確かな形を取り始めていた。
作業を見守っていたルーシーが、静かに口を開いた。
「その仕組み、ミリテクの技術者に見せたら卒倒するでしょうね」
「見せるつもりないから」
「分かってる。でも、事実は事実」
端末を握ったまま、ルーシーはニッカの手元から一瞬も目を離さなかった。分解された銃の内部構造を、彼女なりの理屈で読み解こうとしているらしい。だが、組み替えられていく配線の意味を追うたび、その表情がわずかに険しくなっていく。理解の外側にあるものを前にした人間特有の顔だった。
「素材は、どれも廃品なのに」
「廃品だからいいんだよ。新品だと余計な保証やら制約やらがついてくる。廃品はもう、誰にも文句を言われない」
ニッカのその言葉に、ルーシーは短く笑った。皮肉とも納得ともつかない、複雑な笑みだった。
「変な理屈」
「変じゃないよ。壊れたものを、もう一回自由にしてやるだけ」
その一言に、ルーシーは何かを考え込むように黙った。端末を持つ指先が、わずかに止まっている。デイビッドの背中に施された細工のことを、彼女はまだ半分も理解できていなかった。だが今の言葉で、少しだけその輪郭が掴めた気がした。
「その照準の補正、どこから引っ張ってきたの」
「古い携帯の基板。演算部分だけ抜き出して使ってる」
「携帯電話の中身で、弾道計算をやらせてるの」
「性能自体は、腐るほど余ってるから。ただ捨てられてただけ」
事もなげに答えるニッカの横で、ルーシーはしばらく黙り込んでいた。ナイトシティの企業が莫大な予算をかけて開発する補正システムと、目の前の廃品同然の基板とが、同じ土俵で機能している。その事実をどう飲み込めばいいのか、彼女はまだ測りかねているようだった。
ベンチの方から、メインの低い声が届いた。
「時間、大丈夫なのか。日が傾いてきたぞ」
「あと少し」
短く答えて、ニッカは手を止めなかった。空を見上げる余裕はまだなかった。給弾機構の噛み合わせを確かめ、冷却経路の接続を仕上げ、最後に照準の光学系へ手をかける。ここが一番厄介な部分だった。安物のスコープには、まともな補正機能がついていない。ニッカは廃棄されたセンサーカメラの基板を取り出し、その中から使えそうな回路を切り出した。
指先が震えることはなかった。ただ淡々と、必要な部品を必要な場所へ収めていくだけの作業だった。それでも、この一連の動きの中に、ニッカは奇妙な心地よさを覚えていた。誰かのために手を動かすことに、まだ慣れてはいない。それでも、目の前の壊れたものが少しずつ形を取り戻していく過程だけは、何度経験しても飽きることがなかった。
一段落したところで、ニッカは首の後ろに滲んだ汗を拭った。作業台の隅に置いていたコップの水を一口飲み、腰のベルトに差したままのレンチへ、無意識のうちに手を添える。刃こぼれした柄の感触は、いつでも彼女を落ち着かせてくれた。
「随分、丁寧に扱うのね。それ」
不意にかけられた声に、ニッカは顔を上げた。ドリオが、いつの間にか作業台の傍らに立っていた。
「別に。ただの工具」
「ただの工具にしては、大事そうに見えるけど」
図星を突かれ、ニッカは一瞬言葉に詰まった。答える代わりに、彼女はレンチを一度握り直し、それ以上は何も言わずに作業へ戻った。ドリオはそれ以上追及せず、ただ静かに頷いてベンチへ戻っていった。踏み込んでいい距離を、彼女もまた正確に見極めていた。
夕日が傾き始めた頃、ニッカはようやく工具を置いた。
組み上がった銃を作業台の上に横たえ、彼女はしばらくその全体を眺めた。外見はまだ、あちこちに焦げ跡と歪みを残している。手の込んだ美しい仕上がりとは、お世辞にも言い難かった。それでも、内部に流れる機構だけは、以前とは別物になっている。
「……できた」
呟いた声は、誰に向けたものでもなかった。だが、その一言を聞き逃す者はいなかった。
「マジか!」
レベッカが弾かれたように立ち上がった。作業台に駆け寄り、覗き込むようにして銃を見つめる。
「うおお、なんか綺麗になってんな。中身、どうなってんだ」
「排熱を電力に変換して、冷却に回すようにした。給弾のタイミングも組み直したから、連射のたびに焼ける心配はもうしなくていい」
「はァ? 熱を電気に変えるって、そんなことできんのか」
「できるよ、廃品でも。ただの理屈だから」
事もなげに答えるニッカの口調に、レベッカは目を丸くしたまま言葉を失っていた。傍らでその様子を見ていたメインが、低く笑いながら首を振った。
「理屈で片付けていい話じゃねえだろ、それは」
「理屈だよ。理屈以外の何だっていうの」
真顔で返され、メインはそれ以上何も言わずに肩をすくめた。
「試し撃ち、していい?」
はやる気持ちを抑えきれない声で、レベッカが尋ねた。ニッカは一度、銃身を確かめるように持ち上げてから頷いた。
「いいけど、格納庫の外で。的は……あの錆びたドラム缶でいいよ。あと、周りに人がいないの確かめてから撃つこと」
「分かってるって、そんくらい」
「あんたが分かってても、周りの奴が分かってないと困るから言ってるの」
念を押すニッカの声に、レベッカは大人しく頷いた。ドリオが横で小さく笑いを噛み殺している。長年言い続けても直らないレベッカの癖を、彼女もまた誰よりもよく知っていた。
レベッカは待ちきれない様子で銃を受け取ると、そのまま外へ駆け出していった。ドリオが呆れたように肩をすくめ、後を追う。メインとデイビッド、ルーシーもまた、それぞれの足取りで格納庫の外へ向かった。
ニッカはその場に残り、工具を片付けながら小さく息を吐いた。長年、他人のために手を動かした経験はほとんどない。それでも、壊れたものが正しく直った実感だけは、いつも確かだった。今度もまた、その手応えは裏切らないはずだった。
荒野に落ちる夕日が、赤茶けた大地を一層深い色に染めていた。
錆びついたドラム缶が、五十メートルほど先に無造作に転がっている。周囲に人影がないことを確かめ、ニッカは小さく顎で合図を送った。レベッカはその方角へ銃口を向け、構えを取る。両足を開き、肩に銃床を当てる。長年の癖で、身体が反動に備えて自然と強張っていく。
「行くぜ」
引き金に指がかかる。
轟音が響いた。
だが、その音に反して、レベッカの体は微動だにしなかった。肩に伝わるはずの衝撃が、まるで存在していないかのようだった。銃口の先で、ドラム缶が一瞬で弾け飛ぶ。錆びた鉄板が四方へ吹き散らばり、乾いた大地に転がっていった。
「……は?」
レベッカは自分の肩を、呆然と見下ろした。反動が、どこにも来ていない。連射の熱でもない。ただ、狙った場所を撃ち抜いただけの、静かで異様な感触だけがそこに残っていた。
「もう一発!」
叫びながら、レベッカは残ったドラム缶の破片へ向けて引き金を引き続けた。二発、三発、四発。銃声が立て続けに荒野へ響き渡る。そのたびに、破片が跳ね、粉々に砕けていった。肩は一度も跳ねなかった。指先も、痺れる気配すら見せなかった。
「な、なんだこれ! 反動ゼロじゃねえか! しかも威力、前の三倍くらいあんぞ、絶対!」
興奮しきった声で叫ぶと、レベッカは銃を高々と掲げた。
「このねーちゃん最高じゃん! あたし、こんな銃、生まれて初めて撃った!」
弾切れになるまで、レベッカは一人で撃ち続けた。最後の一発を撃ち終えると、彼女は空になった銃を胸に抱きかかえるようにして、その場でくるりと一回転した。
「弾、追加でくれ! もっと撃ちてえ!」
「弾はもうないよ。無駄弾はやめてって言ったでしょ」
「言ったけど! 言ったけどよ、こんなん撃たずにいられるわけねえだろ!」
言い合いながらも、レベッカの顔からは笑みが消えなかった。銃身を撫でるその手つきには、これまでとは違う何かが宿っている。長年連れ添った相棒を、初めて本当の意味で理解できたような、そんな満足げな表情だった。
ふと、興奮の合間に、レベッカの声から普段の勢いが少しだけ抜けた。
「なあ、マジでありがとな」
「……別に、大したことじゃ」
「大したことだって。あたし、この銃のせいで死にかけたことも一回や二回じゃねえんだぞ。それが、こんなに軽くなるなんてよ」
まっすぐな言葉に、ニッカは一瞬答えを見失った。誰かに真正面から感謝されることに、彼女はまるで慣れていなかった。視線を逸らしながら、彼女は意味もなく工具袋のベルトを締め直した。
「……次から、ちゃんと手入れして。焼くのはあんたの責任だから」
「へいへい、分かってるって」
軽い口調で流しながらも、レベッカの目には確かな熱がこもっていた。この日を境に、彼女がニッカを慕う気持ちは、以前とは比べ物にならないほど強くなっていた。傍で見ていた誰の目にも、それは明らかだった。
銃身を愛おしそうに撫でながら、レベッカはふと思いついたように顔を上げた。
「よし、こいつには名前つけてやる。……ニッカの一号機、ってのはどうだ」
「勝手に人の名前使わないで」
「いいじゃんか、ケチくせえこと言うなよ! 記念すべき一丁目なんだからよ!」
呆れたように首を振りながらも、ニッカはそれ以上強く止めなかった。誰かに名前を刻まれることに、思っていたほどの抵抗を感じない自分がいた。
その光景を、メインとドリオは黙って見つめていた。
「……見たか、今の」
「見たわ」
ドリオの声には、隠しきれない驚きが滲んでいた。長年、荒事の世界で数えきれないほどの武器を目にしてきた彼女にとっても、目の前の光景は理屈で説明のつくものではなかった。反動を完全に殺し、威力だけを底上げする。それも、廃品と数時間の手作業だけで。
「ミリテクの試作班が束になっても、こいつぁ再現できねえだろうな」
メインが低く呟いた。感嘆というより、どこか畏怖に近い響きだった。
ルーシーは端末を手にしたまま、しばらく銃の映像を撮り続けていた。何度スキャンをかけても、内部の構造を正確には読み取れない。既存の理論では説明のつかない配線の走り方が、彼女の画面の中で無意味な記号の羅列となって表示され続けていた。
「……冗談でしょう」
呟いた声は、風にさらわれて誰の耳にも届かなかった。ルーシーは端末をしまい、代わりにニッカへ向き直った。
「もう一度だけ聞くけど。その腕も、同じ理屈で動いてるの」
「答える義理、ないよね」
にべもない返事に、ルーシーは小さく肩をすくめた。それ以上は踏み込まず、ただ胸の内に問いをしまい込むにとどめた。
デイビッドだけは、少し離れた場所で静かに立ち尽くしていた。
自分の背中に施された細工と、今しがた目の当たりにした光景とが、頭の中で重なっていく。あの夜、痛みも忘れて眠りに落ちるほどの安堵を与えてくれた指先だった。その指先が今また、別の誰かの人生を軽々と変えてしまった。
「……あいつ、本当に何者なんだ」
呟いた言葉に、答えを持つ者はその場にいなかった。
歩み寄ってきたデイビッドに、ニッカは少しだけ身構えた。
「……その後、背中の調子は」
「ああ。全然問題ない。あの日から、頭の中がずっと静かなままだ」
短い答えに、ニッカはわずかに目を細めた。安堵に近い色が、その表情の奥にちらついている。
「なら、いい」
「あんたのおかげだ」
「別に。ただの調整だから、いちいち礼を言われても困る」
そっけない返事に、デイビッドは小さく笑った。初めて会った夜と同じ、素っ気ない口調だった。それでも、あの夜よりも幾分か柔らかい響きが、今の声には混ざっている気がした。
「また、様子を見に来てもいいか」
「……勝手にすれば」
同じ答えを繰り返しながら、ニッカはふと視線を逸らした。誰かがこの場所へ再び足を運ぶことを、自分がどこかで許してしまっている。その事実に、彼女自身が一番戸惑っていた。
轟音は、離れた見張り小屋にまで届いていた。
持ち場に戻っていた青年は、遠くから響く連続した銃声に、思わず身を強張らせた。慌てて双眼鏡を構え、ガレージの方角へ焦点を合わせる。だが、映し出された光景は、彼が想像していたものとはまるで違っていた。荷台の女が銃を掲げてはしゃぎ、周りの男たちが呆れたように笑っている。争いの気配は、どこにも見当たらなかった。
「……なんだよ、脅かすなよ」
胸を撫で下ろしながら、青年は無線機を取り上げた。中央キャンプへ繋がるかどうかは賭けだったが、今度は思いのほかあっさりと応答があった。
「こちら外周、南のガレージ方面、異常なし。……客が来てるみたいだけど、ニッカ姉は無事だ」
雑音混じりの了解の声が返ってくる。それだけで、青年の肩から力が抜けていった。バートが死んでからというもの、クランの誰もが、あのガレージの静けさをどこかで気にかけ続けている。今日のような騒ぎは、久しくなかったことだった。
興奮の収まらないレベッカの横で、メインがふと自分の右腕を軽く動かした。指先を握り、開く。何気ない仕草に見えたが、ドリオの視線がすぐさまそこへ向いた。
「なあ、ニッカ」
「なに」
「ついでに、こっちも診てもらえるか。……最近、ちょっと調子悪くてよ」
軽い口調だった。だが、ドリオの表情が一瞬だけ強張ったのを、ニッカは見逃さなかった。
「調子悪いって、どこが」
ニッカが問い返すと、メインは軽く手を振った。
「なに、腕の可動域が少し落ちてる気がするだけだ。荒事続きだったからな、ガタが来てんだろ」
「腕の、可動域」
繰り返しながら、ニッカは何気なくメインの手元へ視線を落とした。指先が、ほんのわずかに震えているように見えた。それが元々の癖なのか。それとも、別の理由なのか。この距離とこの短さでは、判断がつかなかった。
「いや、大した事じゃねえ。ただの古傷だ」
言い終える前に、ドリオがすかさず割って入った。
「今日はもう遅いわ。次に来た時でいいでしょう」
有無を言わせない口調に、メインは苦笑しながら肩をすくめた。
「……まあ、そうだな。悪い、忘れてくれ」
ニッカは二人のやり取りを見つめながら、小さな違和感を覚えた。それが何なのか、この時の彼女にはまだうまく言葉にできなかった。ただ、古傷という言葉の響きに、どこか嘘の匂いが混じっている気がしただけだった。
「ニッカ」
低い声に呼ばれ、ニッカは振り返った。メインが、真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「改めて、礼を言わせてくれ」
「別に、大したことしてない」
「大したことだ」
きっぱりとした声に、ニッカは一瞬言葉を詰まらせた。
「デイビッドの背中も、レベッカの銃も。俺たちにとっちゃ、命そのものに関わる仕事だ。あんたはそいつを、こともなげにやってのける」
「……やりたくてやったわけじゃない。放っておけなかっただけ」
「それでいい。理由なんざ、なんでもいい」
メインの声には、いつもの豪快さとは違う静かな重みがあった。ニッカはその視線を受け止めきれず、わずかに目を逸らした。褒められることに、彼女はまだ慣れていなかった。
太陽が地平線へ沈みかけ、荒野の輪郭が橙色に染まっていく。
ドリオがふと空を見上げ、口を開いた。
「そろそろ、暗くなる前に引き上げないと」
「……そう、だね」
ニッカは短く答えた。安堵と、わずかな名残惜しさが同時に胸をよぎった自分に、彼女自身が戸惑っていた。半日前まで、砲身を向けていた相手だった。それが今は、日暮れの心配を分かち合っている。その変化の速さに、まだ気持ちが追いついていない。
「泊まってっていいか」
期待を隠しきれない声で、レベッカが尋ねた。
「駄目」
「即答すんなよ! ちょっとは悩めって!」
「悩む必要ないから即答してるの。布団も食料も、余分にはないから」
にべもない返事に、レベッカは大袈裟に肩を落とした。それでも本気で粘る様子はなく、渋々といった体で銃を抱え直す。
「また来ていいか」
今度は、少しだけ声のトーンを落として尋ねた。ニッカは一瞬、答えに詰まった。
「……勝手にすれば」
「よっしゃ!」
そっけない返事に、レベッカは満面の笑みを浮かべた。断られなかったことが、何よりの答えだと理解しているようだった。
車両へ戻り始めた一同を、ニッカは一度呼び止めた。
「ちょっと待って」
格納庫の隅から、彼女は水のボトルをいくつか抱えて戻ってきた。給水タンクから汲んだばかりのものだった。
「荒野の夜は冷える。喉が渇いてからじゃ遅いから、持っていって」
「……いいのか、こんなに」
デイビッドが戸惑ったように受け取ると、ニッカは小さく頷いた。
「余ってるものだから。気にしないで」
そっけない口調の裏に滲む気遣いに、レベッカが横からにやりと笑いかけた。
「優しいじゃんか、結局」
「うるさい。早く行きなさい、暗くなる前に」
追い立てるような口調に押され、一同はようやく車両へと歩き出した。
車両へ戻る一同の背中を、ニッカは格納庫の前から見送っていた。
デイビッドが最後に振り返り、小さく頭を下げる。ニッカは小さく手を上げただけで、それ以上の言葉を返さなかった。
トラックのエンジンが唸りを上げ、砂塵を巻き上げながら車列が動き出す。荷台の上でレベッカが、銃を掲げたまま何かを叫んでいたが、その声は風にかき消されて届かなかった。
車列が尾根の向こうへ消えていくのを、ニッカは長い間見つめ続けていた。
静けさが、いつも通りにガレージへ戻ってくる。だが、その静けさは以前とどこか違っていた。誰もいない格納庫を振り返り、ニッカは作業台の上に散らばったままの工具を眺めた。焦げ跡の残るグリップの切れ端が、ひとつだけ隅に転がっている。
十八の夏に立てた誓いは、まだ胸の中にある。ナイトシティには関わらない。誰にも深く踏み込ませない。それでも今日という一日を思い返すたび、その誓いの輪郭は、以前よりわずかに柔らかく感じられた。そのことに、ニッカは気づかずにはいられなかった。
地図に載らないこの場所を知る人間が、また四人増えた。以前の彼女なら、それだけで夜も眠れないほどの不安に苛まれていたはずだった。だが今は、不思議とその不安が、思っていたほど大きく膨らんでこない。デイビッドという少年が最初に開けてしまった小さな穴が、じわじわと広がり続けているだけなのかもしれない。そう考えて、ニッカは小さく苦笑した。喜ぶべきことなのか、それとも警戒すべきことなのか、彼女自身にもまだ判断がつかなかった。
腰のレンチに、彼女はもう一度そっと手を添えた。バートなら、今日のことを何と言っただろう。そう考えかけて、ニッカは小さく首を振った。答えの出ない問いを、いつまでも抱え続けても仕方がない。工具を一つずつ棚へ戻しながら、彼女はゆっくりと夜の支度に取りかかった。
鍋に水を張り、乾燥保存食を戻す。いつもと変わらない、一人分の夕食の支度だった。それでも今夜は、鍋をかき混ぜる手がどこか落ち着かなかった。数時間前まで、この狭い格納庫に大勢の声が響いていたことが、まだうまく実感として馴染んでいない。
湯気の立つ鍋を前に、ニッカは椅子に腰を下ろした。窓の外はすでに闇に沈み、星の光だけが荒野を薄く照らしている。静けさは、いつもの夜と同じはずだった。それなのに、この静けさの手触りは、以前とは少しだけ違って感じられた。その違いに気づく自分に、彼女は戸惑いを隠せなかった。
「……別に、何も変わってないんだけどな」
朝と同じ言葉を、ニッカはもう一度呟いた。だが今度は、その言葉に自分自身、あまり納得できていなかった。
同じ頃、走り出したトラックの荷台で、ドリオはメインの右手にそっと目を落としていた。
ハンドルにかけられた指先が、また小さく震えている。本人はまだ、気づいていないようだった。あるいは、気づかないふりを続けているのかもしれない。夕日に染まる横顔を見つめながら、ドリオは込み上げてくる不安を、静かに胸の奥へ押し戻した。
「いい一日だったな」
不意にメインが呟いた。震える指先とは裏腹に、その声はいつも通り穏やかだった。
「……そうね」
「あの嬢ちゃんの腕、本物だ。あんな仕事、コーポの研究施設だって拝めやしねえだろうよ」
「また来る気なんでしょう、あんたも」
「当たり前だ。礼はまだ、言い足りねえくらいだからな」
軽く笑うメインの横顔を、ドリオはしばらく黙って見つめていた。今はまだ、何も言わない方がいい。そう自分に言い聞かせながらも、彼女の視線は、震え続ける指先から長い間離れることがなかった。
荒野に落ちる夕闇の中、三台の車列は砂塵を巻き上げながら、ナイトシティへと続く道を戻っていった。誰も知らない小さな震えを一つ乗せたまま、車列はやがて尾根の向こうへと消えていった。
その震えの正体を、誰かがはっきりと言葉にする日が、そう遠くないうちに訪れることになる。だが今はまだ、荒野に沈んでいく夕日だけが、その予感を静かに映し出している。気づく者は、まだ誰もいなかった。