本筋の伏線は一つも進みません。
どうぞ気楽にお付き合いください。
前夜の砂嵐は、バッドランズの地形をまた一つ塗り替えていった。
朝一番の物資点検に出たニッカは、いつも目印にしていた岩陰が跡形もなく消えていることに気づいて足を止めた。代わりにそこにあるのは、風で削られたばかりの新しい砂丘の稜線だった。荒野に十八年住んでいれば、こういう変化には慣れているはずだった。それでも見慣れた景色が一夜で別物に変わる瞬間だけは、何度経験しても妙に落ち着かない気分にさせられる。
乾いた風が、頬を掠めて吹き抜けていく。夜のうちに冷えきった空気は、朝日が昇るにつれて少しずつ砂の匂いを強くしていった。踏みしめる足元の感触さえ、いつもより頼りなく思える。地形が変わるたび、慣れているはずの荒野が一瞬だけ見知らぬ土地に変わる。その落差に、ニッカはまだ慣れることができずにいた。
「……また、地形変わってる」
隣を歩いていた見張りの青年が、欠伸を噛み殺しながら頷いた。
「昨日の嵐、結構デカかったからな。中央キャンプの方でも、テントが二つ飛ばされたって聞いた」
「テントより、こっちの心配して」
「してるよ、ちゃんと」
欠伸の合間に返された返事は、お世辞にも心配している響きには聞こえなかった。ニッカは横目で睨みつつ、手にした点検リストを軽く振ってみせる。
「今日は、給水タンクと、発電機のフィルターと……あと予備バッテリーの残量」
「多いな、今日」
「毎日、多い」
ぼやきながら歩を進める青年の足取りは、それでも危なげなく安定していた。荒野暮らしの人間にとって、こういう砂丘越えの巡回はもはや呼吸をするのと同じくらい体に染みついた日課だった。
軽口を叩き合いながら砂丘を回り込んだところで、ニッカの視線が不自然な色にぶつかって止まった。真新しい砂の斜面に、黒く錆びた金属の稜線が、ほんのわずかに顔を覗かせている。周囲の砂とは明らかに違う質感が、朝の淡い光を鈍く跳ね返していた。
「……あれ、何」
ニッカの声に、青年も足を止めて目を細めた。
「ただの廃材じゃねえの。この辺、昔の残骸多いし」
「廃材にしては、形が変」
「形?」
「うん。妙に、几帳面な曲線してる」
言った瞬間、ニッカの頭の中で古い警報が鳴った。地面から突き出た金属、几帳面な曲線、周囲とは異質な質感。前世のゲームであれば、これはほぼ確実に「起爆装置つきの罠」フラグだった。反射的に一歩後ずさり、青年の腕を掴んで引き止める。
「……危ない、離れて」
「は? 何が」
「地雷とか、トラップの可能性」
真顔で告げたニッカに、青年は数秒固まった後、盛大に噴き出した。
「バッドランズのど真ん中に、そんな都合よく仕掛けが埋まってるかよ」
「……ゼロじゃない」
「限りなくゼロだよ。ここ十八年、そんなもの一つも出てきたことないだろ」
冷静な指摘に、ニッカは気まずそうに手を離した。長年染みついた警戒心が、時々こうして現実離れした方向に暴走することがある。誰に見られていたわけでもないのに、頬にじんわりと熱が上るのを感じながら、彼女は咳払いで誤魔化した。
「……念のため、だから」
「はいはい」
言いながら、ニッカはすでに砂丘へ向かって歩き出していた。頭の中では、長年の癖で自動的に検索が走っている。前世でやり込んだゲームの攻略データベース、その膨大なマップ知識と隠しアイテムの一覧が、脳内で高速にスクロールされていく感覚だった。
――該当なし。
――このエリアに、該当する固有オブジェクトは存在しません。
脳内の検索結果は、いつになく素っ気なかった。普段なら「これはあの伝説装備の残骸だ」とか「あの隠しクエストの前フリだ」とか、何かしらのヒットが返ってくるはずだった。それが今回は、綺麗さっぱり空振りだった。
「……知らない形」
小さく呟いた声には、戸惑いよりも隠しきれない好奇心の方が色濃く滲んでいた。
青年が怪訝な顔で追いついてくる。
「おい、まさか掘る気か」
「掘る」
「点検の途中だぞ。中央キャンプへの報告、今日中だろ」
「ちょっとだけ」
「その『ちょっとだけ』、いつも長いんだよな……」
ぼやく青年を尻目に、ニッカはすでに膝をついて砂をかき始めていた。指先に伝わる感触が、ただの岩ではないことをはっきりと教えてくる。冷たく、硬く、そして規則正しい曲面を持つ何か。荒野で拾ってきた無数の廃品とも、また違う手触りだった。
「手伝えって言われても、報告書は待ってくれないからな」
「じゃあ、報告書だけ先に行ってきて」
「一人にする方が、俺は困るんだけど」
「大丈夫。ちょっと掘るだけだから」
青年は何か言いたげに口を開きかけたが、結局は小さく息を吐いただけだった。以前一人にしてしまった負い目が、いまだに彼の中で疼いているのをニッカも薄々知っている。それでも今この瞬間は、彼の心配よりも目の前の未知の金属の方が、圧倒的に彼女の意識を占めていた。
「……昼までには、戻る」
「約束な」
念を押すように言い残し、青年は渋々といった様子でキャンプへの道を戻っていった。その背中を見送りもせず、ニッカはすでに砂を掘る手を止めていなかった。
一人になった途端、遠慮という概念がどこかへ消え失せた。
工具ベルトから小さなスコップを引き抜き、周囲の砂を丁寧に、しかし着実な速さで払いのけていく。日差しが徐々に強くなる中、額に浮いた汗が顎の先から砂の上へ落ちていった。バッドランズ育ちの体力を舐めてもらっては困る、と誰に向けるでもない台詞が頭の中を掠める。
最初の十分ほどは、順調だった。表面の柔らかい砂は面白いように払え、金属の輪郭が少しずつはっきりしていく。だが調子に乗って一気に掘り進めた瞬間、足元の砂が予想外に崩れ、ニッカは片足を膝まで沈み込ませてしまった。
「……うわ」
情けない声を漏らしながら足を引き抜き、周囲に人がいないことを確認してから、そっと咳払いをする。荒野育ちの誇りにかけて、今の一幕は誰にも見られていないことにしておきたかった。
掘り進めるうちに、砂の下から現れたのは黒く煤けた金属のフレームだった。溶接跡と思しき継ぎ目が、車体を思わせる骨格を形作っている。ニッカは思わず息を呑んだ。
「……バイク、の骨組み?」
独り言に反応する者は誰もいない。それでも彼女は構わず言葉を続けた。長年の一人暮らしで身についた癖が、こういう瞬間には特に顔を出す。
「タンクも、シートも、跡形もない……エンジンだけ、残ってる」
掘り出す作業は、思いのほか難航した。砂に埋もれた車体は片側に大きく傾いており、掘るたびに新しい砂がまた流れ込んでくる。何度目かの繰り返しの末、ニッカは苛立ち混じりに独り言を吐いた。
「……賽の河原じゃないんだから」
文句を言いながらも、手は止まらなかった。むしろ苛立ちが燃料になって、スコップを動かす速度がわずかに増していた。
単調な作業の合間、ニッカは頭の中で改めて検索をかけ直してみる。三本並んだ排気口らしき跡、几帳面な曲線、量産品らしからぬ丁寧な溶接。攻略本の隅々まで記憶しているはずのデータベースは、それでも頑なに沈黙を守り続けていた。
――検索中。
――該当データなし。
――類似オブジェクトも、確認できません。
「……こんなにヒットしないの、逆に珍しい」
悔しさより先に、好奇心の方が勝っていた。荒野で暮らす十八年の間、彼女が手にしてきた廃品のほとんどは、多かれ少なかれ前世の知識のどこかに引っかかった。今回のように完全に空振りするケースは、数えるほどしかない。
途中、掘り出した砂の中から小さな金属片が転がり出て、ニッカの指先を掠めた。思わず「痛っ」と声が漏れる。傷口を確かめるより先に、彼女の目はその金属片の形に釘付けになっていた。曲がった細いパイプ、握りやすいよう緩やかにカーブした断面。
「……ハンドルの、破片」
拾い上げてしげしげと眺めながら、ニッカはふと妙な既視感に襲われた。前世の記憶の中に、この曲線をどこかで見たような感覚がある。だがそれは攻略データベースのどこにも紐づいていない、もっと漠然とした、体の奥の方にこびりついた記憶だった。
試しに記憶の奥をもう少し掘り下げてみる。革ジャンを着てエンジン音を轟かせる誰かの姿が、一瞬だけ脳裏をよぎった気がした。だがすぐに、ニッカは自分でその想像を打ち消した。
「……いや、私、前世は部屋でゲームばっかりしてた人間だし」
バイクにまたがる自分の姿など、想像するだけで似合わなさに笑いが込み上げてくる。ハンドルを握るより、コントローラーを握っていた時間の方が圧倒的に長かったはずだった。それでも指先だけは、その曲線をなぞる手つきに迷いがない。理屈の伴わないその感覚を、ニッカはひとまず脇へ置いておくことにした。
太陽が徐々に高度を上げ、額の汗が止まる気配を見せない。喉の渇きを覚えたニッカは、水筒に手を伸ばしかけて、それが空であることを思い出した。
「……あ」
間の抜けた声を漏らし、彼女はしばし手の中の空の水筒を見つめた。給水タンクの点検に出たはずが、自分自身の水を切らすという本末転倒に、思わず乾いた笑いが漏れる。
「……戻ったら、真っ先に、水」
誰へともなく言い訳するように呟いてから、ニッカは再びスコップを握り直した。喉の渇きよりも、目の前の謎の方が今は優先順位が高かった。
半刻ほど格闘した末、ようやく全体像が砂の中から姿を現した。
思っていたより小さな車体だった。タンクもシートもなく、剥き出しのフレームとエンジンだけが、そこに横たわっている。それでも骨組みだけを見ても、この乗り物が何を優先して設計されたのか、ニッカにははっきりと分かった。
ハンドルの取り付け位置は、前傾姿勢を強いるほど低い。シートを固定していたであろうステーの跡も、驚くほど短い一人分の長さしかなかった。
「……二人乗り、最初から考えてない作りだ」
呟きながら、ニッカはエンジン部分に目を移した。横一列に並んだ三つの排気口の跡が、朝の光を鈍く照り返している。単気筒でも双気筒でもない、三本という半端な数の並びに、彼女はまた小さく引っかかりを覚えた。
「三気筒……こんな配置、見たことない」
脳内の検索は、またしても空振りだった。ゲームに登場した無数の乗り物のどれとも一致しない。だというのに、指先が勝手にエンジンの表面をなぞり、まるで古い友人の顔を確かめるような仕草をしていた。
気になって、工具ベルトから廃材で自作した簡易ノギスを取り出し、シリンダーの内径を測ってみる。ボアの数値にストロークの見当を重ね、気筒数をかけ合わせながら、ニッカは頭の中で排気量を弾き出そうとした。
「……排気量、五百と七百五十の、中間くらい?」
中途半端な数字に、余計に落ち着かない気分にさせられる。前世の記憶のどこかに、こういう半端な排気量の名機があったような、なかったような。はっきりしない輪郭のまま、答えだけが手の届かない場所でちらついていた。
「……もう、いい。測っても分からないものは、分からない」
諦め混じりに呟き、ニッカはノギスを工具ベルトに戻した。数字で割り切れないものが目の前にあるという事実そのものが、彼女にとってはむしろ新鮮だった。
しばらくの間、ニッカはただしゃがみ込んだまま、その骨組みを眺め続けていた。
荒野で拾ってきたガラクタは、これまで数え切れないほどあった。武器になるもの、防具になるもの、電力を生むもの。どれも「生き延びるために使えるかどうか」という一点で選び取ってきたはずだった。
だが今、目の前にあるこの錆びた塊には、生存に役立つ要素が何一つ見当たらない。装甲としても心もとなく、武器に転用できる部品もほとんどない。それでも視線を逸らすことができずにいる自分に、ニッカ自身が一番戸惑っていた。
「……別に、使い道なんてないのに」
そう呟きながらも、指先はすでにフレームの継ぎ目を確かめ始めている。溶接の質、金属の厚み、そして各部にわずかに残る加工の跡。どれもが妙に丁寧で、量産品にありがちな無駄な部分が徹底的に削ぎ落とされていた。
「無駄が、一切ない」
感嘆混じりの呟きが漏れた。バッドランズで直してきた廃車の多くは、継ぎ接ぎだらけの妥協の産物だった。壊れた部分を塞ぎ、足りない部分を寄せ集めの廃材で補い、どうにか動く形にまとめ上げる。それが彼女の知る「修理」のほとんどだった。だがこの骨組みには、最初から一つの目的だけに向けて磨き上げられた、ある種の潔さが宿っている。
その目的が「生き延びること」でないなら、いったい何のためにここまで削ぎ落としたのか。ニッカにはまだその答えが見えていなかった。それでも、答えの見えないその問い自体が、なぜか心地よく胸の奥に引っかかっていた。
太陽がじわじわと高くなっていく。約束した昼までの時間が、確実に目減りしていくのを感じながらも、ニッカの手は止まらなかった。
むしろ止まらないどころか、彼女は無意識のうちに周囲の砂をさらに掘り広げ、車体の下に隠れていたステップやチェーンの残骸まで丹念に掘り出し始めていた。指先に纏わりつく錆と砂を払う仕草にも、いつしか迷いがなくなっている。
「……持って帰る」
誰に言うでもなく、決意だけが先に口をついて出た。
「持って、帰る」
もう一度繰り返してから、ニッカは自分の言葉の軽さに苦笑した。生存にも防衛にも役立たない代物を、わざわざガレージまで運び込もうとしている。それがどれほど非効率な判断か、彼女自身が誰よりもよく分かっていた。分かっていながら、その非効率さを止める気になれない自分がいることも、また事実だった。
問題は、この鉄の塊をどうやって一人で運ぶかだった。
フレームだけとはいえ、金属の塊はずっしりと重い。試しに端を持ち上げてみたニッカは、想像以上の重量に思わず唸り声を漏らした。
「……重すぎる」
腰を落とし、両手でしっかりと抱え直す。それでも足元の砂に体重を取られ、数歩進んだだけで早くも息が上がった。荒野育ちの体力にも、限界というものは確かに存在するらしい。
肩に担いでみる方法も試したが、フレームの角が肩甲骨に食い込み、涙目になって早々に断念した。次に思いついたのは引きずる作戦だったが、砂に噛んだ車体は数センチ動いただけでぴたりと止まり、いくら力を込めてもそこから先へは進んでくれなかった。
「……こんの、頑固者」
悪態をついたところで、フレームが返事をするはずもない。それでもニッカは息を切らしながら、諦め悪く次の方法を探し続けた。転がすように傾けてみれば、今度は砂に半分埋もれてさらに動かなくなる始末だった。
辺りを見回し、使えそうな廃材がないか探す。運良く、少し離れた場所に朽ちかけた荷車の車輪が半分だけ砂に埋もれていた。かつて誰かが放棄したものだろう、錆びついてはいるが軸はまだ回る。
「……これ、使える」
早速引っ張り出し、フレームの下に無理やり押し込んでいく。傾いた車体を何とか荷車の上に乗せようと悪戦苦闘するうち、ニッカの額からはとめどなく汗が流れ落ちていた。
ようやく車体を荷車の中央に落ち着かせた瞬間、軋んだ音とともに片方の車輪が斜めに傾いだ。長年砂に埋もれていた軸が、いきなりの重量に耐えかねたらしい。
「……嘘でしょ」
悲鳴に近い声を上げながらも、ニッカはすぐさま気を取り直した。工具ベルトから針金と廃材の金具を取り出し、傾いた軸に添え木を当てるように手早く縛り上げていく。応急処置とはいえ、荒野で鍛えた指先の速さは伊達ではなかった。
「……これで、多分大丈夫」
試しに荷車を軽く揺すってみる。軋みはするものの、崩れる気配はない。額の汗を袖で拭いながら、ニッカは自分の判断力に小さく満足した。
その時、背後から聞き覚えのある声がかかった。
「……やっぱり、こうなると思った」
振り返ると、見張りの青年が呆れ半分の顔で立っていた。手には水筒代わりの水袋を提げている。
「戻ったんじゃなかったの」
「戻ったよ。報告も済ませた。……その後、心配になって様子見に来ただけだ」
「別に、心配される要素ない」
「今まさに、一人で鉄の塊と格闘してる奴の台詞とは思えないな」
的確な指摘に、ニッカは一瞬言葉に詰まった。荷車の車輪に片足を乗せたまま、気まずさを誤魔化すように咳払いをする。
「……ちょっと、重かっただけ」
「ちょっと、には見えなかったけど」
からかうような口調に、ニッカはむっと眉を寄せた。それでも青年は特に追及するでもなく、黙って荷車の反対側に回り込んでいた。
「持つよ、反対側」
「別に、頼んでない」
「頼まれなくても、持つ」
あっさりと言い切られ、ニッカは毒気を抜かれたように肩の力を抜いた。
二人がかりでどうにかフレームを荷車に乗せ終えた頃には、太陽はすでに真上近くまで昇っていた。額の汗を拭いながら、青年はまじまじとその鉄の塊を眺め回した。
「……にしても、これ、何なんだ」
「分からない」
「分からないのに、持って帰るのか」
「うん」
迷いのない即答に、青年は少し呆れたように笑った。
「相変わらず、理屈より先に手が動くタイプだな、あんたは」
「否定はしない」
荷車の縄をきつく締め直しながら、ニッカは横目でフレームの排気口を見つめた。三本並んだその跡が、まるで何かを語りかけてくるような気配を纏っている。何を語っているのかは、まだ彼女自身にも分からなかった。
荷車を引きながら歩き出したところで、青年がふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば、昼までに戻るって話は」
「……忘れて」
「約束、破ったの自覚あるんだな」
「破ってない。ただの、延長」
苦しい言い訳に、青年は肩を震わせて笑った。ニッカは聞こえないふりをして荷車の縄を締め直し、足早に歩を進めた。
中央キャンプの交易所へ立ち寄る道すがら、顔なじみの古参の男が荷車の中身を覗き込んで眉をひそめた。
「……なんだいそりゃ、また随分と古臭い代物拾ってきたな」
「掘り出した」
「掘り出したって、そりゃまた酔狂な」
興味なさげに笑いながらも、古参の男はそれ以上詮索してこなかった。荒野暮らしの人間同士、拾ってきた廃品にいちいち理由を尋ねるほど野暮でもない。ニッカはその距離感に小さく安堵しながら、荷車の縄をもう一度確かめた。
「ついでに、ガソリンとオイル、少し分けてほしい」
「ん? まだ何にも組み上がってねえのに、気の早いこって」
「準備、早いに越したことない」
自信満々に言い切るニッカに、古参の男は苦笑しながらも奥の貯蔵タンクへと向かっていった。荒野の交易は物々交換が基本で、彼女がこれまで直してきた道具の数々が、こういう時にはささやかな信用として役に立ってくれる。
缶を受け取りながら、古参の男はもう一度荷車を覗き込んだ。
「にしても、変わった形だな。タンクも座席もねえのに、妙に格好つけてる」
「……格好は、まだ何もつけてない」
「いや、骨組みだけでも分かるもんは分かるんだよ。長年、色んなガラクタ見てきたからな」
含みのある笑みを残し、古参の男はそれ以上の詮索をせず貯蔵庫の奥へと戻っていった。ニッカはその背中を見送りながら、自分でもまだ言葉にできていない何かを、他人に先に見抜かれたような落ち着かなさを感じていた。
ガレージへ戻り着いた頃には、太陽はすっかり西へ傾き始めていた。
荷車を止めたニッカの前に、水筒を届けに来ていた少女がひょっこりと顔を出した。フレームを覗き込んだ途端、少女の目が輝いた。
「わあ、ニッカ姉、また新しい子連れてきたの?」
「子、じゃない。ただの、金属の塊」
「でも、名前つけるんでしょ?」
「つけない」
即答したはずのニッカの声は、我ながら歯切れの悪いものだった。少女はさらに荷車に顔を近づけ、三本並んだ排気口の跡を指差した。
「これ、煙突が三つあるの? 変な形」
「煙突、じゃない。排気口」
「はいきこう?」
「……息をする、穴」
苦し紛れの説明に、少女は納得したのかしていないのか、ふうんと相槌を打った。それから何かを思いついたように顔を上げる。
「じゃあ、名前つけるなら、三本さんとか?」
「つけないって、言った」
少女は勘の良さそうな笑みを浮かべたまま、それ以上は追及せずにガレージの奥へと駆けていった。その後ろ姿を見送りながら、ニッカは自分の口元がわずかに緩んでいたことに、しばらく気づかずにいた。
入れ替わるように、報告書を届けに来ていた年長の男がガレージの入り口から顔を覗かせた。手元の書類には、まだニッカのサインが入っていない箇所がいくつも残っている。
「点検報告、まだ半分しか埋まってないぞ」
「……分かってる」
「分かってて、こんなもの拾ってきたのか」
呆れ半分の声に、ニッカは荷車の縄を解く手を止めずに答えた。
「発電機のフィルターは、確認した。給水タンクも、異常なし」
「バッテリーの残量は?」
「……それは、まだ」
言い淀んだ声に、年長の男は小さく息を吐いた。それでも強く咎める様子はなく、荷車の中身へちらりと視線を落とすと、意外にも興味深そうに目を細めた。
「変わった形の代物だな。お前がこういうガラクタに目がないってのは、今更驚きもしないが」
軽くいなすような口調に、ニッカは荷車の縄を解く手を一瞬止めた。理屈より先に手が動いてしまう自分の性分を、こうして誰かに見抜かれるたび、脳裏には決まって同じ横顔が浮かんでは消えていく。もう二度と聞くことのできない声が、こんな何気ない場面でふと蘇ってくることに、彼女自身が一番戸惑っていた。
「……否定は、しない」
「まあ、拾ってきたもんは、最後まで面倒見ろよ」
年長の男はそれ以上深追いせず、報告書を軽く振ってから踵を返した。
「バッテリーの分だけ、明日でいいから埋めておけよ」
「……分かった」
その背中を見送りながら、ニッカは荷車の縄をゆっくりと解き終えた。
一人になった作業台の上で、ニッカは掘り出したばかりのフレームを改めて眺めた。錆びつき、朽ち果て、生存には何の役にも立たない鉄の骨組み。それでも指先はすでに、次にどこから手をつけるべきか、静かに計算を始めていた。
理屈も勘定も抜きに、ただ気になったから拾ってきた。そんな真似を許してくれる誰かが、かつてこの荒野に一人だけいたことを、ニッカはふと思い出す。壊れた機械を前にすると見て見ぬふりができない性分は、誰に教わったわけでもないのに、いつの間にか身についていた。血の繋がりも、言葉での教えもない。それでも受け継いでしまったものは、確かにここにあった。
「……タンクも、シートも、一から作るしかない」
独り言には、うんざりした響きよりも、隠しきれない高揚の方が色濃く滲んでいた。攻略データベースに載っていない、正体不明の乗り物。前世の知識が一切通用しないその存在は、荒野暮らしの彼女にとって、これまでにない種類の挑戦になりそうだった。
ランプの明かりの下で、ニッカはフレームの継ぎ目を指先でもう一度なぞった。溶接の癖、金属の厚み、そして無駄を削ぎ落とした潔いまでの造形。これまで直してきたどの廃車とも似ていないその佇まいに、彼女はまだうまく言葉を当てはめられずにいた。
「……名前は、つけない」
誰に言い聞かせるでもなく呟いた声が、静まり返ったガレージの中に小さく響いた。それでも工具箱の蓋を開ける手つきには、これから始まる作業への高揚が、隠しきれないほどはっきりと滲んでいた。
工具箱の蓋を開けながら、ニッカは小さく息を吐いた。今日中に片付けるはずだった点検業務の残りは、また明日に回すしかなさそうだった。バッテリーの残量確認も、報告書の空欄も、明日の自分に丸投げすることに、彼女はもう罪悪感を覚えていなかった。
窓の外では、日が完全に落ちきる前の淡い橙色が、荒野の稜線をぼんやりと縁取っている。その光の中で、タンクもシートもない骨組みだけの車体が、静かに次の工程を待っていた。
これまでの廃品は、誰かを守るため、あるいは生き延びるための道具として、彼女の手の中で形を変えてきた。だが今度ばかりは、その理屈がどこにも当てはまらない。守るためでも、稼ぐためでもなく、ただ格好良さだけを頼りに一台を仕上げる。そんな作業は、思い返してみても初めての経験だった。
工具箱の中を漁りながら、ニッカの口元にはいつの間にか、隠しきれない笑みが浮かんでいた。明日からの作業量を思えば気が遠くなるはずなのに、なぜかその重さがまるで苦にならなかった。
風が止み、荒野は静けさだけを残していく。骨組みだけの車体を照らすランプの明かりが、作業台の上にゆっくりと影を伸ばしていた。今日拾い上げたのは、生き延びるための道具ではない。それでも、この静けさの中でなら、そんな一台に向き合う時間があってもいいのかもしれない。ニッカはそう思いながら、工具箱の蓋を静かに閉じ直した。