快晴の市民マラソン大会。
公園はランナーと観客で賑わっていた。
平次は学校代表で出場する和葉の応援に来ていた。
「そろそろスタートに行くわ」
「ほな、あとでな」
平次は片手を挙げて見送る。
スタートを待つランナーをぼんやり眺めた。
「大富さん、調子良さそうですね」
「どうでっしゃろなぁ。今年も完走できたら十分ですわ」
大富はタバコを携帯灰皿へしまった。
(走る前に吸うんか。)
「豊石、マラソンなんて柄やなかったやろ」
「営業は体力勝負なんでね」
(話し相手は金髪の兄ちゃんかいな。)
少し離れた場所では、会社の応援を受けた杏奈が声援に応えていた。
スターターピストルが鳴り、一斉にスタートする。
やがて和葉もランナーの列へ消えていった。
最初のボヤが起きたのは、開始1時間後。
火元はコース脇の木陰にあるゴミ箱だった。
最初は小さな火だった。
だが、すぐに黒い煙が上がり、ビニールの焦げる臭いが周囲に広がった。
ランナーたちは足を止めた。
異変を感じた観客ものぞき込もうとしたが、スタッフに制止され、ロープの中へは入れなかった。
和葉から平次に連絡が入る。
「ゴミ箱燃えとるで!15km地点や」
安井も足を止めた。そこへ同じ会社のランニング仲間、大富が追いついた。
「安井?これはどうした」
「大富さん。火事みたいです」
「困りましたな……」
大富は少し離れると、タバコに火をつけた。
隣では子どもが泣き出し、母親が慌てて抱き上げる。
やがて消防車のサイレンが近づき、消火作業が始まった。
幸い前日の雨で周囲が湿っていたため延焼は免れた。
まもなく中止の連絡が流れた。
ランナーも観客も、スタッフの誘導で次々と公園を後にした。
その後、警察と消防による現場検証が始まり、平次は大滝警部と合流した。
和葉には先に帰るよう伝えてある。
そこへ刑事が報告に来た。
「警部、着火物は見つかりません。足跡も消火作業で判別できず、防犯カメラも決め手になりませんでした」
大滝警部が小さく息をつく。
対して平次は静かに口を開いた。
「今の情報で十分や。コースはロープで仕切られとる。ゴミ箱はコースの内側や。スタッフが見ているから観客は近づけへん。つまり、犯人は参加者かスタッフのどっちかや。」
平次はカメラの位置を見上げた。
(入口向きやな……。)
「カメラは公園の入口を向いとる。人影とゴミ箱が映るっちゅうことは、犯人は入口側……つまりコース側から近づいた。犯人はこのマラソンの参加者の中におる」
「参加者は2000人やで?」
「それでも不特定多数よりはええ」
数日後。
先の公園から徒歩15分ほどの神社で、再びボヤが起きた。
目撃者はなく、今回もライター以外の着火物は見つかっていない。
大滝警部からの報せを受けた平次は、すぐに現場へ向かった。
火元は、本殿の隣にある小さな社の賽銭箱だった。
本殿の監視カメラに怪しい人物は映っておらず、小さな社は死角になっていた。
(本殿からも死角や。木も多い……人目を盗んで火ぃつけるには十分や)
焼け残った賽銭箱の底には、焦げた小銭とともに、燃え切らなかったお札の破片が落ちていた。
(今回は火をつけたお札でも放り込んだかもしれないな)
その時、スポーツウェア姿の男性がランニングの途中で現れ、賽銭箱にお金を入れて願掛けをすると、そのまま神社の裏手へと走り去っていった。
その後も、同じように神社を通り抜けていくランナーが数人続く。
平次は神社の裏道を見た。
(この道、公園まで走るにはちょうどええ)
平次と大滝たちは地図を広げた。
「普段から走っとる人間なら、この距離は十分動ける」
公園から半径20km以内に絞り、市民マラソンの参加者名簿と照合する。
半分以上は絞れたが、それでも数百人残った。
(何か決め手が足りへん……)
平次は名簿へ目を落とした。
「……せや」
指が2つの名前で止まる。
(スタート前に話しとった2人や)
『大富』『豊石』。
そのすぐ下の名前を見て、平次の目が止まった。
(声援を受けとった人や……)
安井『杏奈』。
平次は勤務先に目をやる。
(なるほど……3人とも同じ会社やったんか)
平次は大滝を見た。
「別々に当たるより、一度会社へ行った方が早い」
2人はすぐ会社へ向かった。
ほどなくして、3人が応接室へ入ってきた。
平次はわずかに顎を引く。
(やっぱり、公園で見た3人や)
安井が紹介する。
「うちら、社内のランニング仲間なんよ。大富さんが一番の古株で、豊石くんは去年入ってきたん」
平次は雑談のように話を振った。
「最近、ボヤ騒ぎが続いてますから、皆さん気ぃ付けてください」
安井「怖い話ですなぁ」
豊石「はよ捕まるとええっすね」
大富「……」
平次が口を開いた時、安井が立ち上がった。
大富の前に灰皿を置いた。
「おおきに」
豊石が軽く笑った。
「大富さん、1本吸うたらよう喋るんですよ」
平次が黙って見つめる中、大富は悠然とタバコと銀色のライターを取り出した。
ライターをつけるが、火はつかなかった。
「豊石、悪い。貸してくれるか」
「はあ? またでっか。しゃあないなぁ」
豊石もライターを出した。金色で新しい。
大富は自分のライターを置き、豊石から火をもらった。
「この前も入れたばっかりやのになぁ」
「そうやったかな」
大富は煙を吐いて、灰皿に手を伸ばす。
「今度何か返すわ」
安井が笑った。
「タバコ吸うたら急に家族の話し始めるんよね」
大富は照れ笑いした。
「あれは……失礼しました」
平次は一呼吸置いて尋ねる。
「大富さん、タバコはよく吸うんですか」
「昔からですので、もうずっと」
「市民マラソンの日も吸ってはりましたな」
「ええ。スタート前の1本が習慣でして」
「この中でタバコを吸うのは?」
安井「私はタバコも吸わへんし持ってへん」
「ライターも持ってない?」
「持ってへんわ」
豊石「俺も吸わへんで」
平次は目を細くした。
「豊石さんは非喫煙者なのに、いつもライターを持ち歩いてるんですか?」
豊石「営業ですから」
安井「この子営業トップやし」
豊石「やめて!」
安井「(笑)」
豊石「そっちこそ、カードの顔めっちゃ地味やん!」
安井「ちょっと、それは言わんといて!」
平次の視線が、首から下がった社員証へ向いた。
平次は裏返った安井の社員証に目を留めた。
「一応、確認させてください」
真っ直ぐな黒髪に眼鏡。化粧気もなく、どこかうつむきがちな女性が映っていた。
「いつ頃イメチェンしたんですか?」
「広報部に異動してからです。入社して5年目の頃でした」
「その前は?」
「経理部にいました。大富さんはその時の先輩です」
平次はわずかに目を見開いた。
「その時マラソン仲間になった?」
「異動してから見た目が気になって、大富さんに相談してるうちに始めたんです」
「なるほど。3人とも会社でも、マラソンでも顔を合わせとるんやな」
平次は3人の顔を順に見据えた。
「ボヤが起きる前後、どこにいましたか?」
安井「私は15km地点を走ってましたわ。その後大富さんが来た」
大富「私もです。安井さんがいました」
豊石「俺は20km地点かな。中止の放送が流れるまでずっと走ってました」
安井が時計を見て眉をしかめた。
「ねえ、これから打ち合わせなんよ……」
とっさに平次は口を開いた。
「大富さん、混雑の中、どうして安井さんだとわかったんですか?」
「会社でも練習でもよう会うてますから、わかりますよ」
「安井さん、ウェアや髪型はいつもと同じやった?」
「髪はいつもまとめてますから同じですわ」
平次は少しだけ考え込んだ。
その時、大富がせき込んだ。
安井「大富さん、大丈夫?」
大富「ああ、すまん」
豊石「禁煙しなはれって」
(そうや。)
平次は訊いた。
「マラソン大会の日、ライター貸したことあります?」
安井「あるわけないやんか」
豊石「大富さんに貸しましたよ」
大富「はい、借りましたわ」
平次は改めて大富のライターを見た。
(傷だらけや……。ボロボロになるまで使う人が、オイルだけ切らしたまま放っとくか?)
「大富さん、そのライター、ずいぶん使い込んでますな」
「ええ。もう長いこと使うてます」
「手放そう思たことは?」
「ありません。手に馴染んでますから」
「ほな、オイル切れたらすぐ入れる方ですか」
「そうでんなぁ……」
大富は短くなったタバコを灰皿でもみ消した。
胸ポケットから次の1本を取り出す。
「……すまん」
豊石が苦笑してライターを差し出した。
「また火ですか?」
「悪いな」
大富は慣れた手つきで火を借り、煙をゆっくり吐いた。
豊石はライターをしまいながら笑った。
「もう大富さん用みたいになってるな」
大富は照れくさそうに笑った。
「まあな……」
平次は黙ってやり取りを見つめていた。
平次は静かに息を吐いた。
(ライターは持っとる。オイルが切れたらすぐ補充する人や。それでも、マラソンの日も今日も豊石さんから火を借りてた。借りることに慣れとる。オイルの減り方もおかしい)
平次はゆっくり大富を見据えた。
「大富さん……あんたが犯人やな」
重苦しい沈黙を破ったのは、豊石だった。
「……俺です。俺がやりました!大富さんじゃない!」
大富は力なく笑った。
「……よう分かりましたなぁ」
安井が目を見開く。
「……うそ……、大富さん……?」
大富は諦めたようにタバコを灰皿に押し付け、震える声で語り始めた。
「最初は事故やったんですわ。その日も皆の前で叱られた後で会社の飲み会でした。目ぇ覚ましたら家の床で寝てて、脇にタバコの焦げ跡があった。その時、久しぶりに人生で冷や汗をかきました。同時に火事いうても案外こんなもんなんやと思いました。家でも仕事でも、私は怒られてばかりでした」
少しだけ笑う。
「犬の散歩の途中、落ち葉に火ぃつけました。すぐ見つかって、みんな慌ててました。その中に普通の顔して立っとる自分がおった。誰も私やなくて炎を見る。妙に楽やったんです」
少し沈黙が流れる。
「あかんことやとは分かっとったんです。家に帰るたび『もう終わりや』と思う。でも、あの光景を見て胸に込み上げたものが頭から離れへんかった」
大富は俯いた。
「その頃、ヘコんどった豊石に昔の自分を重ねてコーヒーをおごりました。そこからマラソンの話になって、安井も加わって、3人で走るようになってた」
大富は一旦言葉を飲み込んだ。
「安井が経理を抜けたのも痛かったわ。私が至らん分、よぉ仕事をしてくれてた」
安井が息を呑んだ。
「その一言を、10年前に聞きたかったですわ」
大富はふっと笑った。
「2人とも、ええ人なんです。仕事もできる。誰からも頼りにされとった……私にはそう見えてました。私は変わっていく2人を応援しようと思いました。でも応援するほど、自分が空っぽなんやと思い知らされました」
豊石は唇を噛んだ。
大富は息を吐いた。
「会社でも同じように火ぃ付けよう思ってました。その前にマラソン大会がありました。いつも走っとる公園です。カメラの位置もゴミの回収時間も知っとった。昼間、人が一番集まる場所で火が出たらどうなるんやろう。……考えた瞬間、止まれませんでした」
「走っとる間だけは、一人でおれました。何も考えんで済みました。でも、それすら長くは続きませんでした」
大富は静かに目を閉じた。
豊石も安井も、言葉を失っていた。
平次は帽子を深く被り直した。
「……それでも火ぃ付けたらあかん。あんたがどんなに苦しかったかは分かった。せやけど、その火で苦しむ人まで増やしたらあかん」
大富は静かに立ち上がると、大滝警部に付き添われて部屋を後にした。
豊石は小さくなっていく大富の背中を見つめ、ようやく言葉を絞り出した。
「何で……何でこんなことしたんすか、大富さん……」
「平次!」
事件が解決した後、平次は和葉に連絡を入れた。
振り向くと、和葉が駆け寄ってきた。
平次はヘルメットを差し出す。
和葉はバイクに跨ると、小さく目を細めた。
平次の背中にそっと体を預ける。
2人を乗せたバイクは、夕暮れから夜へと移り変わる大阪の街を走り抜けていった。
(おわり)