「まったく、死ぬかと思った」
死刑執行人の少女からの制裁から逃げ出せた俺は砂を払い落し、簡易的な避暑地で横になる。
隣に目を向けると、少女がスイカをかじっている。子ども達はそれぞれ、スイカを食べて帰っていった。
確かにそろそろ、子どもは帰る時間だ。
目の前に広がる海はオレンジ色に染まり、昼とはまた違った美しさがある。一時間もしたら、この鮮やかな色は消え、暗く神秘的な色に染まるだろう。
少女に気が付かれないように、目を向ける。この少女の姿が自分の過去に重なる。前の夏は一人でこの景色を見ながらスイカを食べていたなとふと思い出した。だが、その時のスイカの味はどんな味をしていたかは思い出すことはなかった。
少女から視線を外す。正面を向けば海水浴を楽しんだ人々が帰る支度をしている。海から離れ、町や駅へ向かっていく。人が少なくなる様子を俺と少女は眺めていた。何回も見てきたごく普通の光景だった。ただ、俺の隣に迷子の少女がいることを除いて。
「…夏の思い出ね」
鮮やかな海に俺の言葉は吸い込まれていく。俺の言葉などこの綺麗な海に合わないだろう。そんなことを思った。
「この景色も違うの?」
少女は俺に問いかける。その声や表情は俺と同じで、目の前の海には似合うものではなかった。
「あぁ。これはこれで綺麗だ。だが、純粋すぎるな」
あぁ。そうだ。誰もが美しいと思うものではなかった。それでも、俺は美しいと感じたんだ。それだけは俺の記憶に、心に刻み込まれている。
「純粋な美しさもいいが、混在している美しさもよいものだぞ」
「私は美しいものはそのままであった方がいいわ」
少女はそう言葉を零す。
少女を見る。
彼女の薄暗い目は海を映しているのか、別のものを映しているのかは分からない。少女の視線をたどる。
純粋な美しさが
懐かしさが
焦がれたものが
俺と少女の目に映る。
「一人じゃなくてよかった」
少女の言葉を聞いて、俺は少女の上着を頭に投げた。少女は顔をあげずに口を開く。
「なにすんのよ。セクハラおにーさん」
「冷えるぞ。それ着ておけ。迷子少女よ」
少女は上着を着る。フードをすっぽりとかぶり、少女の目元は見えなくなってしまった。
「この景色はちょっと…目に悪いわね」
ぽつりと少女が言う。少女にとって、この景色は好みのものだったのだろう。だが、それは自分が欲しいものであり、見つけられなかったもの。
「おにーさんが言うように、純粋すぎるのも…ね」
「俺はもう少し純粋なものを見てもいいような気がするけどな」
夏の夕方はまだ暑さが残っているはずなのに、ここは少しだけ涼しい空気が溢れている。それが、心地いいものなのかは分からないが、必要なものだと思った。
「おねーちゃん!!」
そんな感傷に浸っていると、元気な声でこちらに手を振る少年に気が付いた。どうやら、先ほど遊んだ子供たちの一人が少女を呼んだみたいだ。
「さっきはありがとう!スイカ美味しかった!!」
そう言って、少年は少女に押し花のしおりと同じ花を模した髪飾りを渡した。少年の後ろの方ではこちらに小さく頭を下げているご婦人がいた。おそらく、彼の母親だろう。まったく、律儀なことだ。
少女は手渡されたものを見ながら、ボーっとしている。
「…ありがとう」
「うん!また、遊ぼうね!おねーちゃん!おにーちゃんにも言っておいて!」
そう言って、少年は母親の下に戻っていく。俺と少女は彼らに手を振って見送った。
「律儀なことだ。どうだ?年下の男の子に花を貰った感想は?」
「嫉妬しないでくれる?器の小さいおにーさん。…嬉しかったわよ」
「そいつは良かった」
「…何の花なのかしら」
少年が渡してきた花は少々特殊な形の花弁を持つ花だ。色は紫でいくつかの花を付けている。
…少年もよく少女を見ている。彼女にピッタリの花を渡してくるものだ。
「何を笑っているの?」
「ふっ…いや、少年もいい花を渡したものだと思ってな」
少女の目がじっとりと俺を射抜く。これは説明しなければまた、ろくでもない目にあいそうだ。
「その花の名前はデンファレ。夏に花を咲かす」
「…それで?」
まだ、何かあるのだろうと確信している顔で少女は続きを促す。ここにきてから、勘が良くなったなこの少女は。
「夏の間はその花が枯れることはない。貸してみろ」
「ん」
少女から受け取ったデンファレの髪飾りを少女の髪に編み込むように挿す。
「これで、いい思い出になるだろうよ」
「…勝手に髪に触るなんてセクハラよ。おにーさん。…まぁ、いいわ。ありがとう」
それと。そう少女は続けて、しおりを俺に渡す。
「これはおにーさんの報酬のはずよ」
「お前が貰ったものだろう?」
「あの子達と遊んだのは私だけじゃないでしょう?」
「そうかい。では、ありがたく使わせてもらおう」
俺は手帳にしおりを挟む。これもまた、夏の思い出になるだろう。
いつの間にか、夜のとばりが降り始めた。もうそろそろ、帰る頃合いだろう。
ふと、少女を見る。彼女は闇が滲んでいく海をただ眺めていた。彼女の瞳もこの海のように闇に染まっていってしまうようだった。そう思えてしまうほど、彼女の瞳を覆う雲はより深く、より濃いものになっていた。
デンファレの髪飾りがよく似合う少女が俺の視線に気付く。
彼女と目が合う。
仄暗い瞳が俺を射抜く。
…やはり年頃の少女がしていい瞳ではない。おそらく、俺がこの雲を払うことはできないだろう。そう思うとやるせない気持ちと無力感が俺を襲う。この雲は彼女自身にしか払えない。
「…やるせないねぇ」
「人の顔を見ながら呟く言葉がそれですか…ノンデリのおにーさん」
「気を遣われるよりはマシだと思うがね。迷える少女よ」
「それも…そうね」
少女は困ったように微笑んで、海を見る。俺も少女に合わせて海を眺める。昼に見た時とは異なり、海は太陽の光を反射することはない。ただ、闇が広がり少しずつ姿を現した星々を映しているだけだ。
さて、こんな夜に少女1人出歩かせれば、夜に攫われてしまうだろう。なんせ、彼女は迷子少女だ。帰る場所など何処にもない。そう思っているからこそ、危うい状態だ。特にこの場所では。
まぁ、俺自身もそうなる可能性はあるがな。ふと、かつての記憶を掘り起こしてみる。俺がここに訪れてしまった時、どんな感情だったか。
「…だめだ。ぐちゃぐちゃにされてる」
記憶を掘り起こしてみようとしても、俺の記憶はあの景色が大半を占めている。まったく…困ったもんだ。
少女を眺める。彼女は変わらず海を眺めている。…本当に…困ったもんだ。
「…何ですか?また視姦ですか?このロリコンおにーさん」
「黙ってろ。今日はもう遅い。泊ってけ。そこら辺で宿を探してくる」
少女は身を抱きしめ、後退るように俺から距離を取る。
「…遂に、本性を現しましたね。この変態」
「勘違いすんな。俺は泊まらねぇよ。さっさと行くぞ」
俺と少女は宿を探しに、海から離れる。その方が良いだろうと信じて。
俺も今の少女に手ぇ出すほど馬鹿じゃねぇ。この少女がどんな現実を見てきたのかは察しがつく。…まったく、何とも言えない世界になったものだ。
「…まぁ、それでも生きていくしかねぇな」
「いきなり何を言ってるの変人おにーさん」
「何、泥中の花の美しさについて、考えてただけさ」
「…綺麗なものでも、泥に塗れてしまえば価値はなくなるわよ」
少女はつぶやく。それが真実なんだと嚙み締めるように。そうであるべきだと言い聞かせるように。
「あぁ。間違いではない」
そうだ。それは間違いではない。だが、決して、真実なんかじゃない。
「間違いないが、それだけじゃない。そこに価値を見い出す者もいる」
「それは、変人だから?」
「いや。汚れているから、美しさがより際立つ。そう捉えることもできる」
「…」
少女は俯いたまま、口を閉ざす。声が零れないように。
「何を美しいと思うかなんて、人の物差しによって変わるもんだ。結局のところ、選ぶのは自分だ」
「…選ぶことに時間がかかっても?」
「別に問題はねぇよ。むしろ、時間をかけた方が良い。簡単に答えが出るもんではないからな」
「おにーさんが美しいって思った思い出もそうだったの?」
少女の質問に俺は足を止めて、振り返る。目の前の少女は出会った時と変わらない瞳で俺を見つめていた。
「…見た当時は純粋に美しいと思っていたよ。だが、純粋なものだけではなかった。今ではそう思える」
「私もおにーさんのような景色に出会えたら、そう思えるようになる?」
「きっとな。だから…」
少女の頭を撫でる。少女は少しだけ身を固くしたが、目を細めて撫でられている。
「少女自身が納得できれば、それが一番だ。生き方も価値観もな」
「セクハラのおにーさん。…私で良かったね。他の子だったら悲鳴からのビンタだった」
「悪いな。こうすべきだと思ったんだよ」
「年を取った影響じゃないかしら」
「それほど年を重ねてねーよ。さっさと行くぞ」
俺はそう言って、前を向く。だが、手を引かれる感覚で俺は歩みを止めた。
「…少しだけ。…宿に着くまででいいから」
少女はそう言って、俺の手を緩く握る。
俺はその手を上手く握り返すことができたのだろうか。
もう、俺は分からなかった。
ただ、宿に着くまでは迷子少女の手を離さないようにしよう。
そう決意して、俺と少女は暗い砂浜を歩き出した。
迷子にならないように、少女を呼ぶ声を振り払うように少女の手を握りながら、ゆっくりと。