怪しくも、私を見てくれる不思議なおにーさんは私の手を引きながら歩き続ける。私自身もなぜ、おにーさんの手を取ったのか分からなかった。ただ、こんな怪しい人物に甘えたかったのだろうか。それとも、周りを包み込んでいる夜のせいなのだろうか。
ただ…。
おにーさんの手を取っていなければいけない気がした。私は内心苦笑する。おにーさんは私のことを迷子少女と言っていたけど、おにーさんも私から見れば迷子のように見えてしまう。
このまま、私たちはどこにたどり着くわけでもなく、歩いていくのだろうか。なぜか、それも悪くないような気がした。
そんなことを考えていたからなのだろう。
「■■■■」
優しく、甘い声で私を呼ぶ声が聞こえた。
それは酷く懐かしい気配がした。あぁ、おにーさんが警告する訳だ。私はこの声を知らない。だというのに、どの声は私の頭にこびりつく。
「…ついたぞ」
おにーさんの声と強く手を握られる感触で私の意識は現実に戻ってきた。それほどまでに、あの声に私は夢中になっていたようだ。
「…まったく、そんなに強く握るなんて。女性の扱いがなっていませんね。おにーさん」
「迷子少女を連れ戻すのにはちょうどいいだろう。それに、ほら。宿についたぞ」
相変わらず、減らない口ですね。それにしても、いつも間にか宿についていた。今日は色々な事が起こった。どれもが始めての事だった。楽しかったことには変わりないが、少し疲れてしまった。
私は宿に入ろうとする。しかし、私の後ろに続く足跡はなかった。
「おにーさん?私、結構疲れたんだけど」
「そうか。なら、ゆっくりと休むといい」
「鈍感なおにーさん。早く行くよって事が分からないの?」
「残念ながら、俺はここに泊まる事はできない」
「…どういうこと?」
「さてな。ゆっくりと休め。明日はきっと忙しいぞ」
ここまできて、誤魔化そうととするかこの秘密主義おにーさんめ。もう一度分からせるためにつま先で地面をたたいた。さて、蹴るぞと思った時、後ろから声がかけられた。
「お嬢さん1人かい?もう外は暗いから、今日はもう止まっていきなさい」
宿の玄関から出てきたお婆さんがそう声をかけてきた。そのお婆さんは柔和な表情で仕草や言葉からも優しさが伝わってくる。だからこそ、お婆さんが言った言葉に強い違和感を感じた。
…確かめなければいけない。
「ありがとうございます。お婆さん。…連れがいるのだけれど部屋は余っていますか?」
「えぇ。もちろん。ですが…お連れの方はどちらに?」
私はその言葉を聞いた瞬間、おにーさんの方に振り向いた。おにーさんは既に背中を向ておりこちらに適当に手を振っている。
「…あれが連れなんですが…」
私はおにーさんを指さす。私の言葉を聞いたお婆さんは眼鏡を取り出し、指さす方向を見る。しかし、その視線はおにーさんを捉えてはいなかった。
「御免んなさいね。私はもう歳だから、あまり目が良くないのよ」
「…いいえ。どうやら連れは別の場所に行くみたいです。ありがとうございます。後、連れと話をしてくるので荷物をお願いしていいですか?」
私は焦る気持ちを抑えて、お婆さんにお願いする。快諾したお婆さんに申し訳ないと思いながらも、私は走った。私の足音に気付いたおにーさんはこちらを見て、苦笑いをした。
「…まったく、少しは清楚にだな…ぐはっ!」
余計な事を言い始めたおにーさんの口を渾身のドロップキックで黙らせる。何が清楚にだ。誰のせいでこんなにも焦っているのかも知らないくせによく言う。前みたいに私はおにーさんにまたがり、逃亡を阻止する。
「その感じだと、気付いたみたいだな」
「…説明してください。でなければ、成仏するまで腹パンしますよ?」
「除霊(物理)とは恐れ入った。やはり、尋問が上手いな」
「次、減らず口叩いたら一発入れますよ」
「あらやだ。一発なんて、そんなお下品っぐぅ!」
鉄拳制裁。私は有言実行する人間だとおにーさんはまだ知らなかったらしい。
「容赦ないな。悪くない」
「気持ち悪いわよ。ドMのおにーさん」
「そういう事じゃねーよ。このくらい思い切りがいい方が生きやすいだろう?」
また、このおにーさんは否定しずらいことを…。
「…話をそらさないで。…私の質問に答えなさい」
「…答えられる範囲ならな」
おにーさんの瞳が私を見る。特に変化は見られない。
「なら質問よ。おにーさんはいつから私にしか見えなくなっていたの?」
「黄昏時が過ぎたころからだ。お礼を言いに来た子供とその母親はもう見えていなかっただろうな」
…違和感の正体はこれか。私は一人納得した。少年が私の隣にいるおにーさんに視線を一度も向けていなかった。おにーさんは私の後ろに居たからだと思っていたが、なるほど。これも全部おにーさんの策の一つなのだろう。この事実に気付かないように。
「そう。なら、別の質問よ。おにーさんは何者なの?」
「人間さ。夏の思い出を見ようとしているだけのな」
「ただの人間は消えたりなんかしないわ」
おにーさんは少しだけ目を見開いた。やはり、私の予想は当たっていたようだ。
「焦り過ぎよ。黄昏時を過ぎてから、何かに追われるようだった。最初は『あの声』から遠ざけようとしているのだと思っていたけど、違った。貴方は私から離れようとしていた」
おにーさんを拘束する手足に力が入る。どうしてという疑問や言い表せない感情が私の中で渦巻いている。これはきっと良くないものだ。私が今まで見てきたどうしようもない現実と同じ色をしていた。
それを私が持っていたことが何よりも嫌だった。
「ねぇ。どうして?おにーさんは私をどうしたいの?」
「……」
ただ、疑問をおにーさんにぶつける。疑問という形を成していない言葉だった。それでも、目の前で私の目を見てくる人に聞くのだ。何故かは分からないけど。
「…どうしてか…」
おにーさんは半身を起こし、私との距離を縮めてくる。相変わらずデリカシーのないおにーさんだと思った。
「…迷子の少女よ。俺は君の探し物を見つけることはできない」
「……」
ただ無言で私はおにーさんを見つめる。きっと私の目には「何故」という言葉が彫られているだろう。それが分かっているはずなのに。
おにーさんは薄く笑う。
「だから、君の好きなようにするといい」
「…答えになっていないわ」
「君の望むように行動すればいい。ここで生きるのもいい。『声』のままに動いてもいい。…やりたい事をやればいい。…君は一人の人間なのだから」
「…っ!…なんで…!」
なんでっ…このおにーさんは私の心をこんなにっ…!
俯く私におにーさんは手を伸ばす。だが、いつまでたってもおにーさんの手の感触がなかった。
「時間か。さて、家出少女よ。好きに生きてみろ。俺はそこら辺で見てる」
「…趣味が悪いわね。性悪おにーさん。…もう教えてはくれないの?」
「あぁ。ここから先は任せるよ」
そう言っておにーさんは立ち上がる。既におにーさんの体は空のクジラと同じようになっていた。
「…夏の思い出は見れなくてもいいの?」
どうしようもない私は言葉を零す。一度もしたこともないくせに、そうしてしまった。
私は顔を伏せる。どうしようもなく怖くて、不安だった。一人になるのは慣れたはずだ。だというのに、私は未練がましくおにーさんを呼び止めるのだ。
「いや、これからさ」
そんな、力強い声に思わず顔を上げる。しかし、そこにはもうおにーさんの姿はなかった。陽炎のように消えていったおにーさんに私はため息をついた。
「…『答えを教えてくれる』なんて。…もうそんなに甘やかしてはくれないのね。幽霊のおにーさん」
透明な鯨が鳴く。その声は美しい星空によく響いた。それはとても美しい景色だった。だが、なんとなくだが、これも違うと思った。
「あぁ。これが純粋な美しさってやつなのね」
なるほど。おにーさんが言っていた事が分かった気がする。きっとこれも夏の思い出ではないのだろう。この時ばかりはこの純粋な美しさに救われた気がした。
そうでなければ、私はおにーさんと同じように何処かにいってしまうだろうから。
「…私はどうしたいのだろう」
私は宿に戻るわけもなく、堤防のはしに座り海と空の境界を眺めている。透明な鯨は相変わらず空を泳いでいる。…そういえば、この透明な鯨は海で泳ぐ気持ち良さを知っているのだろうか。そんな疑問が頭をよぎった。
空を泳ぐのはきっと気持ちいい。でも、それはあの鯨にしかわからないこと。私は空を泳げないから、どんな感覚なのか分からない。私が知っているのは海水のしょっぱさ。海風の匂い、砂の熱さ、海で遊ぶことの楽しさ。このくらいだ。
「…■■」
…私を呼ぶ声が聞こえる。また、聞こえ始めた。この声はあまり好きではない。私が知っている声で、私が言ってほしい声色で私を呼ぶ。おにーさんの警告があってもこのままだと、この声に連れていかれそうだ。
なんで、ついていったら、だめなんだろう。
「……さん」
頭がぼーっとする。私は何故ここにいるのだろう。何か、大切なことを誰かと話した気がする。その筈なのに…。
私の足は誘われるように海へ向かう。私の意思とは関係なく。…夢現のように、私は歩を進める。
「おねーさん!」
そんな私を止めたのは、まだ幼さの残る声だった。手を強く引かれる感覚がある。目の前には海が広がっている。後ろを振り向くと、麦わら帽子をかぶった少年が私の手を握っていた。
「…随分と情熱的ね。麦わらの少年」
「そんなんじゃないよ」
彼は照れたのか、私の手を離そうとする。それを阻むように私は少年の手を握った。
「ごめんね。このままだと海に落ちてしまう。もうちょっと、頑張れる?初心な少年」
「なら、なんでこんな端っこにいるの?しかも、ふらふらしてたし」
「まぁまぁ。いいじゃない。ほら、私を引っ張ってちょうだい」
少年に引っ張ってもらい、私たちは堤防の中腹まで移動した。
「助かったわ。麦わらの少年」
「…別に。声をかけても反応ないし…聞こえてないのかと思ったら、海へ落ちそうになるし…」
少年は困惑したような目で私を見る。なるほど。私は知らず知らずのうちに、この少年に助けられていたようだ。
「それは、悪かったわね。ちょっと、『声』に夢中になってしまったわ」
「…おねーさん大丈夫?」
「問題ないわ。こっちの話よ」
さて、この少年は一体何者なのだろうか。もし『声』が聞こえていないのなら、ここの住民なのだろうか。だとしたら、こんな時間に外に出歩くのは良くない。まぁ、私が言えたことではないのだけれど。
「麦わら帽子の少年。君はなんでこんな所にいるの?」
「…おねーさんこそ、なんで夜に海に来ているの?」
「夜の海も素敵だと思って、眺めていたのよ」
少年は私の返答にそっぽを向きながら、言葉を零した。
「昼の海の方がいい…」
「あら、夜の海は嫌い?」
「あまり…。少し怖いから」
私は少年を見る。
少年のような年頃の男の子は怖いものがあっても、強がったりするものだと思っていた。だが、この少年は素直に自分が苦手としているものを共有した。麦わら帽子の少年はごく普通の少年だ。少し日に焼け、少年には少し大き目な麦わら帽子をかぶっている。
ただ…
私は少年を見る。
「なんだよ。じろじろ見てきて」
そっぽを向いていた少年は私の視線が気になったのか私と顔を合わせる。
そう。この麦わら帽子の少年は普通の少年だ。
ただ、私にとってはそうでもないようだ。私は少年の手を取って宿に向かう。
「ちょっ。どこ行くんだよ」
私はこんな事をする人間ではなかったはずだ。私自身が驚いている。私はこんなにお人よしではないし、人の好意なんて裏側には汚いものがあるのが当たり前だと知っている。だから、私が人と関わる時は利用するか利用されるかののどちらかだった。
私はこの少年を利用しようと考えているのだろうか。
いや、違う。きっと、私はこの少年をほっとけなかったのだ。
私と同じ目をしている…迷子の少年を。
「俺を誘拐するつもりなの?」
「いいえ。このままだと二人仲良く夜の海にいってしまいそうだから、離れるだけよ」
「…何処へ行くの?」
「とりあえず、宿に行くわ」
宿のお婆さんにまた迷惑をかけることになる。後で何か手伝いをしないとね。
「…おねーさんは帰るの?」
「いいえ。私も泊まるわ」
少年は少しだけ安心したように息をついた。まったく、本当に私と同じような状況にいるのねこの子は。にしても、この年齢であの目か。
…おにーさんが心配した理由が分かった気がする。自分の目なんてか鏡ぐらいでしか見ないから、わからなかった。きっと、この少年と私の目は良くないものだ。
「…これも泥中の美しさなのかしら」
「いきなりどうしたの?」
「幽霊の戯言を思い出してね。少年はどんなものがきれいだと思う?」
少年は私に手を引かれながら、考え込む。ふと、顔を上げて私を見る。
「青空に入道雲があるとき」
「随分とノスタルジックな回答ね。私も好きよ。あの景色」
「なぁ、泥中の美しさって何?」
「…そうね。私も最近知ったばかりなのだけど、汚れているからこそ美しいものがあるみたい」
「じいちゃんの手みたいな?」
ふと、歩みを止めて少年を見る。変わらずの目が私を見る。
「…よくばぁちゃんが言っていたんだ。じいちゃんの手はきれいで優しい手だって。俺にはよく分からなかったけど、じいちゃんに頭撫でられんのは好きだった」
「いいお婆様ね。そして、お爺様も」
「うん。でも、もう…」
少年はそのまま口を閉ざしてしまった。…きっと、そういう事なのだろう。少年は歩みを止めてしまった。彼は海を眺めていた。雲がかかった月のような目で。
「…じいちゃん?」
私は少し焦りながら、少年を手を強く握った。この手を離せば、おそらくこの少年は海にいってしまう。それだけはダメだと、自分の事を棚に上げて私は少年の手を握る。
「おねーさん。じいちゃんの声が聞こえんたんだ。…だからさ…手、離してよ」
「気持ちは分かるけど、貴方のお爺様はここにはいないわ」
「でもっ!」
少年は私を見上げながら、声を出す。少年の表情は酷いものだ。あぁ、貴方も心のどこかでは分かっているのね。私はそんな少年の頭に手をつないでいる方とは逆の手を添える。びくりと震えはしたものの、私の手を受け入れた。
「それでも、確かにじいちゃんの声だったんだ…」
「そうでしょうね。ここは『声』が聞こえてしまうのよ」
「おねーさんは『声』がなんなのか知ってるの?」
「いいえ?私も教えてもらっただけだから、詳しいことは分からないわ。ただ、声について行くとかえってしまうみたい」
まったく、幽霊のおにーさんはもう少し詳しく教えてくれてもいいと思う。あのおにーさんがどこまで知っているかは分からないが、少なくとも私や少年が持ってる疑問を全て解決できると思う。
…本当にタチの悪いおにーさんだ。
「何処に?」
少年は聞く。どこにかえってしまうのかと。私たちは、帰る場所が分からなくなった迷子だ。故に、帰るべき場所なんて何処にもない。
しかし、万物のかえるべき場所はある。
振り返れば、還る場所がある。
「…きっと海に還ってしまうわ」
これは私の予想でしかない。本当は違うのかもしれない。ただ、感じるのだ。あの『声』について行けば、還ることができる。それはきっと、迷子たちにとっては救いなのだろう。
「さぁ、行こう。もう少しで宿に着くから」
「わかった」
なのに、なぜ私はこんなにも拒絶感を持っているのだろう。
目の前の少年を心配しているのだろう。
この疑問も不審なおにーさんなら、解決してくれるのだろうか。
私には分からない。好きに生きるということが。自由を求めていたはずなのに、何をするのが自由なのか分からなくなった。私は今自由に生きることができているのだろうが。結局は、あのおにーさんの言う通りに生きているだけなのではないか。…家族と同じように。
「…違う」
不愉快な思考を振り払って、身を起こす。どうしようもない思考だ。あの人たちとおにーさんは違う。私に選択を残しているおにーさんの方が良い。
だから…
だからさ、私からおにーさんまで奪わないで。穢さないで。
綺麗なままでいさせてよ。
『■■』
また、声が聞こえる。それも耳障りの良い声が。
「…悪いけど、惹かれる事はないよ。私の帰る場所はそこじゃない」
「……」
声が消えていく。…この声もよく分からない。連れていきたいなら、力づくで連れていけばいいのに。本当に優しさや慈悲の心でやっているのだろうか。その優しさが人の尺度で測れるといいのだけれど。
私は隣で眠る少年を見る。疲れていたのだろう。今はぐっすりと眠っている。
…この少年はどうしたいのだろうか。海に抱かれるのを望むのだろうか。
私と同じ目をした少年。おにーさんが私を気にかけてしまうのも理解できる。目を離した瞬間、陽炎のように消えてしまう。そんな儚さと不安が混ざった印象を受ける。ただ、どうするのが良いのだろうか。
帰る場所を一緒に探す?
探してどうするのだろうか。2人そろって迷子であるのに。
海に還る?
そこは帰る場所じゃない。私にとっても彼にとっても。全てを諦めた先の選択肢だ。
現世に帰す?
現世で誰かに保護されるだろうか。結局は誰かに任せているだけだ。
私は麦わら帽子の少年に何ができるのだろうか。
「分からない。けど、投げ出したりはしない」
少年のおでこに手をのせる。何かを誓うように、巻き込むように、私は口を開く。
「ごめんなさいね、私の生き方に君を巻き込むわ。良い夏の思い出だと思って付き合いなさい」
ちょうど今は、夏だ。誰かの人生に巻き込んだり、巻き込まれるのもいい思い出になるだろう。
きっと、思い出探しのおにーさんなら同じことを嘯くだろう。
「…もう、さっさと寝なさい。明日は早いわよ」
「…っ!」
まったく、狸寝入りなんて生意気ね。でも、少年には少し刺激が強かったみたい。その証拠に、耳が真っ赤になっている。
「安心なさい。私はここにいるわ」
おやすみ。そう声をかけて私も眠りにつく。そういえば、明日を思い描いて眠るのは久しぶりだと思い、私の意識は消えていった。