海もないのに
ロサンゼルス五輪を来年に控えた、83年の春まっさかり。
入ったばかりの高校に馴染む間もなく、親の都合でそんな町に引っ越してきたばかりの俺は……
転校したての初登校で、いきなり歯抜けのヤンキーに絡まれていた。
「ほーっ、
なんて事を、校門の前でいきなり生徒手帳を取り上げられて言われたのだ。
そしてニヤついたヤンキーは、俺の顔を覗き込みながらこう続けた。
「転校したてで忙しいとこ悪ぃんだがよ、ちとおめぇにカンパを頼みてぇんだが……」
どうもこの頃は、日本中どこの学校に行ってもこういう連中が幅を効かせているようだ。
「先輩、ちゃんと相手見てタカらなきゃ駄目ですよ」
「ひ、ひ
俺は別にヤンキーってわけじゃないし、こういう連中にこっちから突っかかっていくような気もない。
だが押し付けられる理不尽を、自分の力で押しのけるぐらいの気概はあるつもりだった。
というわけで、連れて行かれた体育館裏で……
生徒手帳を取り戻すついでに、歯抜けの先輩の歯をもう一本減らしてやったわけだが。
そんな事をしたバチが当たったのだろうか。
なぜか翌日には、つけられたダサいあだ名が学校中に広まっていた。
「ジョグ君、ヤバいって……あの
しかも初日から先輩と揉めた事がクラス中にもバレ……
俺は転校から二日目にして、すでにクラスでは一種の問題児として扱われるようになってしまっていた。
そんな俺に、ショートホームルームが終わった後の放課後の教室でそう教えてくれたのは、学級委員長の
面倒見のいい彼は、まだまだクラスに馴染めていない俺の事も気にかけてくれているようだ。
「だからねジョグ君。詫び入れるなら早めの方がいいよ、これはマジで」
「そうなんだ」
「そうなんだじゃないよ。仁良先輩を怒らせるとね、とんでもない人が出てくるんだから」
「とんでもない人? ランボーでも出てくるの?」
大げさだなぁと、俺が笑っていると……
委員長はSUZUKIのステッカーを貼った鞄で周りから口を隠すようにして、あくまで真剣な顔で話を続けた。
「いやこれがマジなんだよ。ヤクザだって避けて通る人なんだから」
「へぇーっ、そりゃあおっかない……」
正直、
自慢じゃあないが、俺は生まれてこのかた喧嘩でだけは負けた事がないのだ。
中学の頃に
「とにかく、
「新田さん?」
「そう、二年の先輩。商店街からずっと行ったとこにある、ダムがある山の麓の
「そうなんだ」
この時点では、俺はそんな話はなんとも思っていなかった。
金回りや勉強の事ならともかく、本当に荒事については全て自分でなんとかできるものだと、本気でそう思っていたからだ。
鉄バットでぶん殴られようが、ナイフで腹を撫でられようが、どうという事はなかった。
自分は他の人間とは違うのだと、本気でそう思って疑わなかった。
別に自分で自分の事をヤンキーとは思わないし、喧嘩が好きなわけでもないが……
とにかく、自分以上に腕っぷしが強い相手なんて想像もできなかったのだ。
「おーい納言! ゲーセン行こうぜ!」
「わかったって! じゃあジョグ君、俺達はゼビウスやりに行くけど、気をつけたほうがいいよ」
「うん、ありがとね」
GWが終わり、クラスや部活での人間関係も固まりだしたこの時期。
俺以外のクラスメイトたちは、みーんなゲームとバイクに夢中のようだった。
真面目そうな委員長ですら50ccのレーサーレプリカに乗って学校に来て、放課後はゲームセンターに通い、夜はバイトに精を出しているらしい。
新参者の俺はまだまだそういう遊びにも部活にも縁がなく、有り体に言えば暇を持て余していた。
「……おい、お前ジョグってんだろ?
だからだろうか……
校門の前でネイキッドバイクに跨って待っていたヤンキー連中に、素直について行ってしまったのは。
そして俺はその先で、何事も上には上がいるという事を、心底思い知る事になったのだった。
「バカの仁良ほどじゃあねぇけど、お前もたいがい弱いなぁ」
ヤンキーについて行った先の神社、その境内で……
俺は人生で始めてってぐらいボコボコに殴られて、顔はパンパンになり、息を吸うと胸はズキズキと痛く、涙で視界はグシャグシャだった。
それでも吹き出し続ける鼻血をなんとか止めようと屈み込んだつま先の前で、呆れたようにそう言ったのは中肉中背の普通の女だった。
「まぁそれでもまだマシか。何発かもらっちまったしな」
「…………」
新田さん、噂に聞くこの町最強の不良。
なんとか顔を持ち上げた俺の前に立つ彼女は、そんな噂とはかけ離れたごく普通のルックスをしていた。
校則通りの膝下スカートを履き、パーマもかけず、ピアスも開けず。
確実に何発かは全力で殴り返したはずなのに、特に効いたような様子もない……
口元がちょっと切れただけのその顔は、化粧をすれば流行りのアイドルになるんじゃあないかってぐらいの作り。
ただその目だけが、まるで猛禽類のように鋭かった。
「……弱いは弱いけど、そこらの奴よりは根性あるよお前」
なんだか慰めるようにそう言われて、なにくそとかかっていくだけの反骨心は、今の俺にはない。
ちょっとこの人は、何かがおかしかった。
というのも……人というよりはまるで自然の中にある巨大な岩に挑んでしまったかのような、奇妙な感覚を覚えたのだ。
人間が岩の塊に勝てるか?
そんなもの、たとえ拳銃や日本刀を持っていたって無理だろう。
だからだろうか、俺は自然とその場に正座して、新田さんの言葉に頭を垂れていた。
「……うす、ありがとうございます」
「お前、今日からあたしの舎弟にしてやる」
「……うす」
「明日から、朝七時にはここに来いよ」
「七時っすか……?」
「たりめぇだろ、掃除すんだよ。境内な」
舎弟になったら神社の掃除か……
とんでもない理不尽だったが、とにかく俺の心はもう折れていた。
こんな人に逆らうぐらいなら、神社をピカピカに磨いた方がよっぽどマシだった。
そしてその帰り道。
ここまで連れてきてくれた新田さんの舎弟の一人が、バイクで乗っけてくれたのだが。
なんだかものすごく丁重に扱われてしまった。
なんでも、新田さんと喧嘩して、殴り返して傷まで負わせたのは俺が初めてらしい。
「新田さん、普通はボコった後も舎弟になんてしねぇんだよ。これまでも舎弟は幼馴染の仁良さんだけだったんだぜ」
「そうなんすか」
たしかにちょっと口元は切れていたが……あんなもの、怪我のうちにも入らないだろう。
せめて鼻血ぐらいは流させられるようにならなきゃ、話にもならないだろうな……
三段シートに寄っかかりながら、俺はそう思っていた。
その日、身体の痛みに耐えながら眠ったからか、俺は不思議な夢を見た。
俺はなぜか、だだっ広い夜の草っぱらの中に立っていて……
それを山のように巨大な女が、はるか遠く、高いところから見下ろしている夢だ。
いや、山のように……というか、まんま山そのものだ。
遠景にある巨大な山脈。
それをまるでクッションにでもするかのように、その上に寝そべってもたれかかったその女。
それは両手の肘を山の尾根に置き、掌で顎を支えてこっちをじっと見つめている。
闇よりも昏い黒髪はまるで河川のように山頂から下ってうねり、真紅の瞳はその裏に太陽でもあるかのように煌めいて揺らいだ。
自然物のように泰然とそこにある女は、まるで太古の昔から永遠にそのままであるかのように、じっとこちらを見つめていた。
『……あっ、聞こえる? もしもーし。はぁーっ、やっと繋がった……ったく、どんだけ待たせんのよこいつ』
「えっ?」
そしてその女は、俺に向かってバリバリに話しかけてきたのだ。
『あんたねぇ、めんどくさい』
「えぇ?」
『あたしって復讐の女神様なわけだけどさぁ……普通の人間ならさぁ、もっともっと早く何かに負けて、復讐フラグが立って、ここでこうしてあたしに会えてんのよ』
「そ、そうなんですか……」
『そこをあんたは半端に強くて、ほんっとにめんどくさい。このあたしをどんだけ待たせたと思ってんの?』
「……すいません? でいいんですか?」
『もっと頭下げた方がいいんじゃない?』
「すいません」
俺は言われるがままに、頭を下げた。
なんか、デカい女の方から強い圧を感じたからだ。
だが不思議と、恐怖というものは一切感じなかった。
デカくて、目が潰れそうなぐらいに美しくて、見なくてもわかるぐらいおっかない。
この女に挑むのは、きっと天地に挑むのも同じ。
とは思うのだが、なぜかこの女の前にいると自然とリラックスしてしまう。
そういう、不思議な感覚があった。
『まぁ、氏神っつーのはそういうもんよ』
「えっ?」
『あたしはねぇ、あんたの一族の敵じゃないわけ。それをあんたは頭じゃなくて、血でわかってんの』
「そういうもんですか……」
『そういうもん。とにかく、こんな話をしたくて神託下ろしてるわけじゃないのよ』
「神託?」
『神様が話しかけてんだから、神託でしょうが。いちいち女の話に茶々入れないの、モテないよ』
一言余計な女神様はそう言ってから、その宝石のように輝く深緑色の爪の先を俺に向けた。
そしてその爪先から、一つの鬼火のようなものがふよふよと飛んで俺の中に入ってくる。
「なんですかこれ?」
『チートあげる、若者は好きでしょ? こういうの』
「チ……何?」
『あーそっか、80年代のゾッキーじゃまだ知らないか』
『とにかくあんた、覚醒して色々見えるようになってるから。強くなるまで危ないとこに行かないように、あたしからのプレゼントってとこね』
「はぁ、ありがとうございます」
『使いすぎると苦しむから、ほどほどにねー。あと、あんたにはそれ使ってあたしの仕事手伝ってもらうから。あたしが指示したら、他の何を差し置いてでもすぐにやるよーに』
「仕事って……」
俺が尋ねると、女神はその完璧なラインの顎をすっと持ち上げた。
そして犬歯を剥いて笑い、こう言ったのだ。
『あんたの仕事はね、大仕事よ。あんたはね、これからSAGAを勝たせるの』
「さ、さが……?」
『ゲームセンターにいっぱいゲームがあるでしょ。ペンドとか、スーパーサクソンとか』
「ゲームセンターって、あんま行ったことなくて……インベーダーぐらいは親にやらせてもらった事ありますけど……」
『えーっ!? ったく、田舎モン!』
「すいません……」
『とにかく、あんたはそのSAGAを勝たせるの。このあたしのために』
「勝たせるって、どこに?」
『そりゃ当然、心天堂。……あっ、もう行く? あー、大丈夫大丈夫、彼氏じゃないって、氏子氏子』
俺がさらに質問をしようとすると、女神様は突然なんだか明らかに別の方向を向いて誰かと話し始めた。
『じゃああたし、友達とスイーツビュッフェ行ってくるから。あんたちょっとゲームセンターぐらい行って勉強しときなさい。ん? あー、こっちの話。えーっ? 見なくていいよ、まだまだレベル1だから恥ずかしいし』
そんな言葉が聞こえるか聞こえないかのところで、ブツッと音を立てて夢は終わった。
そしてベッドから起き上がると、寝る前にボコボコだった身体はなぜだか完全に治っていた。
時計を見ると、朝五時五十分。
アラームの十分前の時間だ。
「SAGA……心天堂……いや、それより……神社に来いって言ってたっけか」
七時に掃除に来いと呼ばれた神社に行くために、わざわざセットした時間だ。
俺はため息を吐きながら、ベッドから起き上がる。
ベッド脇の壁には、前の家から持ってきたひいきのアイドルのポスター。
学生服のズボンを履きながら、その笑顔の瞳をぼーっと眺めていると……なんだか、普段は重い寝起きの身体が妙に軽いような気がした。
身体に力が漲り、今ならなんでもできそうな……そういう感覚。
「覚醒したとか言ってなかったか?」
ぼやきながらも身支度を済ませ、チョコレートのソースを塗った食パンを三枚腹に詰め込み、まだ寝ている親を起こさないようにマンションの部屋を出る。
すでに日は出ていたが、廊下はまだまだ薄暗く、天井の蛍光灯はチカチカと頼りなく明滅していた。
うちが入居したマンションは、ちょっと古い割りに階数が高く、なんとエレベーター付き。
下に出るためにそのエレベーターのボタンを押すと、何かが聞こえた気がした。
それは、誰かの声。
ぼそぼそと、どこかで女が喋っているような、そんな気がした。
どこかの部屋のテレビがついてるのかな、とそう思いながらエレベーターを待っていると……
その声は徐々に近づいてくる気がした。
エレベーターの階数表示が一階から上に上がって来るごとに、その声は近づいてくる。
『……てるよね』
「なんだぁ……?」
『見えてるよね、ねぇ……』
とはいえ、エレベーターだ。
躊躇する暇もなく籠は俺のいる八階に到着し、開いた。
『見えてるよね、ねぇ、見えてるよね、見えてる、見えてる』
そしてその中には、奇妙な女がいた。
その女の顔は、エレベーターの籠の左上にあった。
その女の腰は、エレベーターの籠の右上にあった。
そしてその女の足は、エレベーターの籠の右下の奥にあった。
異常に長い胴体を、籠の中で折り曲げる……
身長四メートルはあろうかという大女が、90度横に曲げた顔で、俺を覗き込んでいた。
『ねぇ……見えてるよね?』
女の手が、こちらに伸びてくる。
俺は首に向けて伸ばされたその手を掴んで、そのままエレベーターに乗り込んだ。
なんだか知らねぇが、舐めるなよ。
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