偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
強さの理由
今から三百八十年前、濡れる肌に雨の冷たさを感じながら、俺は人間が魔族を殺す瞬間を眺めていた。
もはや戦場とも呼べないただの荒れ地だ。直立している人間などどこにもいない。
俺の保持する容量を遥かに超える魔力を秘めていた上級魔族も、首を落とされ地に転がっている。
「……まただ」
岩の感触を腰に受けながら、硬直していく肉体を見下ろした。
足元には、先ほど胃に収めた人間の骨が散らばっている。腹は満たされていた。あえて生き残りを急いで喰らう理由は存在しない。
それ以上に、胸の奥を突き動かす疑問があった。
上級魔族を討ち果した魔法使いの人間が、まだ鼓動を打っている。
連れの者はことごとく息絶えていた。そいつも腹部を深く穿たれ、溢れる熱い赤を垂れ流し続けている。通常の生命活動の基準から見れば、十数分前には果てているべき状態だった。
だが、あの最後の一撃だけに宿っていた高まりは、それまでの戦闘とは完全に異質だった。
疑問を解消するため岩から下り、そいつの至近へ足を運ぶ。
「おい。聞こえるか?」
男からの返答はない。ただ、泥にまみれながらも杖を握り締め、鋭い視線だけをこちらに向けてくる。
「聞こえてはいるらしいな。なら教えろ」
「……魔、族……」
「そうだ。だが今はお前を喰らうつもりはない」
視線を足元の骨へ誘導すると、男の瞳がかすかに揺れた。
「安心しろ。あれはお前の連れではない。おそらく昨日の人間だ」
「安心……できる、か……」
「会話が成り立つか。好都合だ」
その場に屈み込み、男の顔を覗き込む。
「どうして勝てた?」
「……は?」
「お前の保持していた魔力は、あの魔族の十分の一にも達していなかった。術の精度や組み上げの速さにも明確な格差があった。心音は不規則に乱れ、肉体も崩壊しかけている。それなのに、最後の土壇場だけで密度と威力が跳ね上がった」
男は口角から吐血を零しながら、薄い笑みを浮かべた。
「知ら、ねえよ……」
「知らないはずがない。お前の内側から出た現象だ」
「必死、だった……だけだ……」
「必死になれば容量を超えるのか?」
「魔族には……分からねえ、だろうな……」
煽られている感覚はある。だが、怒りが沸くことはなかった。
「分からないから問うている」
「仲間を……殺された……」
「それは視界に収めていた」
「だったら……分かれよ……」
「仲間が死ねば魔力が増幅する仕組みなのか?」
男はひどく億劫そうに視線を逸らした。
「そういう……話じゃ、ねえ……」
「では、どのような構造だ?」
「こいつらの分まで……生きるとか……仇を取るとか……ここで俺が、やらなきゃ……とか……」
「思考の数が増えれば、出力も増すのか?」
「お前……本当に、何も……分かってねえな……」
その指摘は正しい。構造を理解していないからこそ、こうして問いを重ねている。
己の指先に意識を向け、魔力を集中させてみる。寸分の狂いもなく、意図した通りの分量だけが集まる。過不足は一切存在しない。
「俺は死に瀕しても、保有する限界以上の出力は出せない。お前たちは出せる」
「毎回……できると、思うな……」
「これで三度目だ」
「何が……」
「俺を上回る魔族が、格下の人間に倒される光景を見た。最初は偶然だと処理した。二度目は、その魔族の油断だと思った。だが三度重なった。ならば、人間の側に明確な要因が存在する」
男の呼気が、さらに細く弱くなっていく。
「理由なんて……簡単だ……」
「言葉にしてみろ」
「一人じゃ……なかった……」
周囲を見渡す。倒れ伏した体はいくつもあるが、鼓動を刻んでいるのは目の前の男一人だけだ。
「現時点で一人だ」
「最初から……一人だったわけじゃ、ねえ……」
「動かない肉体は戦闘に関与しない」
「戦うさ……」
「死霊術の類か?」
「違う……馬鹿……」
男は短い咳と共に赤を吐き出した。それでも手に握った杖を放そうとはしない。
「仲間がいたから……最後に、立てた……それだけだ……」
「それだけの条件で、あれほどの限界突破が起きるのか?」
「人間はな……弱いから……そうでもしなきゃ、勝てねえんだよ……」
弱いから強くなる。
論理として全く成立していない。しかし、目の前には動かぬ事実が転がっている。
圧倒的だった魔族が倒れ、脆弱だった人間が生き残った。
少なくとも、この刹那までは。
「お前たちは弱い。だからこそ、自らの限界数値を無視できるというのか」
「勝手に……決めろ……」
「感情という要因か? 仲間という概念か? それとも滅びへの恐れか?」
「自分で……調べろ……」
「そうする」
男が眉根を寄せた。
「何を……」
「人間を調べる。感情も、関係性も、肉体の機構も、魔力の変質も全てだ」
「人間を……喰って、か……」
「喰うだけでは理解に届かなかった」
初めて、その事実に思い至った。
肉を噛みちぎれば健康状態は伝わる。残存する魔力も感知できる。
だが、その人間が誰に情を寄せていたのかも、なぜ恐怖を凌駕できたのかも、消化してしまえば何一つ残らない。
人間という構造を解き明かすには、同じ立場に身を置く必要がある。
「ならば、容易な話だ」
男の視線がこちらを捉える。もう焦点は結ばれていない。
「俺が人間になればいい」
「……何、言って……」
「この肉体を人間に変質させる。感情を知り、絆を結び、弱さが力へと転化する機序を全て会得する。元より魔族の出力を持つ俺がそれを扱えれば、何者よりも強くなれる」
男からの応答は、もうなかった。
「おい。人間になる術を知っているか?」
静寂だけが返ってくる。
「知らぬなら、知り得る者を教えろ」
やはり、声は戻らない。
呼吸の音も、途切れ途切れだった心音も消えている。どうやら、完全に活動を停止したようだ。
「肝心な局面で」
立ち上がり、男の手から杖を引き抜く。指が固く固着しており、一本ずつ外す手間がかかった。
杖自体に特別な構造は見当たらない。あの一撃を生み出したのは道具ではなく、この人間の内部にあった仕組みだ。
ならば、確かめるべき場所は決まっている。
はるか遠方、霧の向こうに人間の集落が霞んでいた。
「まずは、あそこか」
杖にへばりついた泥を手で払い、街へ向かって踏み出す。
人間になる術など知らない。そもそも、そのような事象が可能かも定かではない。
だが、存在しないなら探せばいい。
見つからないなら作ればいい。
当時の俺は、純粋にそう思考していた。
人間になれば、もっと強くなれる。
それだけが、俺が人間を目指した最初の理由だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
人間になろうと決めた頃のアレンについて、印象に残った場面やセリフがありましたら、感想をいただけると嬉しいです。